2014年12月27日 (土)

ベルトラン・ド・ジュヴネル『純粋政治理論』(2)


さて、いよいよ、『権力論』『主権論』と並ぶジュヴネルの主著の一つ、『純粋政治理論』The Pure Theory of Politics 1963について紹介しましょう(ジュヴネルの著書は大体が仏語で出版されていますが、この本は最初英語で、後に著者自ら仏訳を出しています)。まず、なぜ「純粋」かというと、政治学には自然科学に対してはむろん、他の人文諸科学と比べても、それが拠って立つ原理といったものがないからです。現代にあっても、政治学はプラトン、アリストテレス、トマス=アキナス、マキャベリといった権威を乗り越えることはできず、その理由は理論を検証し積み上げていく実証的な研究がなされないからなのです。ジュヴネルはそれを打ち立てようとして、政治学の原理そのものから筆を起こします。化学を勉強する生徒は、いきなり複雑な有機化学を学ぶのでなく、まず簡単な構造の無機化学から始めますが、政治学もそのようにして考えられるもっとも単純な原理から始めようとするのです。

よって、『純粋政治理論』には、国家も権力も政党も戦争も革命も、そのような言葉すら本格的には出てきません。ジュヴネルによれば、もっとも単純な政治の原理とは、個人の諸個人に対する行為というミクロレベルでは、人が人を動かすこと(the moving of man by man )に尽きます。この「Aという人間がBという人間にHという行為をさせる」ことが、あらゆる政治的行為の出発点だというのです。どんな政治的結果(eventus)をもたらす政治的行為であろうと、最初はこの人間が人間に働きかける行為によって始まるのです。しかし、そんなことは日常生活において頻繁に起こっていることであり、政治原理としてはあまりに一般的すぎると思われるかも知れません。その通り、まさにそれ故にこの定理は偉大なのです。政治生活と社会生活は切り離せないものであり、そう考えることによって初めて政治を動態的に捉えることができるのです。

「人間は他の人間をある行為に向けて動かそうとする。われわれには応答する一般的気質がある。われわれの現実の応答は、示唆される行為の性質と煽動者の人柄にかんするわれわれの主観的印象で決まる。とはいえこれらの印象も、われわれの過去や確信事項から形成されているわれわれの人柄の影響を受ける。われわれの応答は、おこないや指導者との関連でのわれわれの先行コミットメントによって若干の制約が科されている。これらはことごとく、政治の領分と考えられているものよりはるかに広範なフィールドにあてはまるのだ。
実にふつう政治と考えられているのは、人間たちがひとつに集められ、そのためにたがいにはたらきかけあう機会ができるといつでもおのずと生起する基本的な政治的諸関係が、自然的かつ必然的に突出したものにすぎない。社会的諸関係と政治的諸関係のあいだに本質上の違いなどない。本質はまさしく人間間の諸関係のことがらなのである。」

シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』を見てみましょう。シーザー暗殺の首謀者キャシアスにとって、この策謀の成功不成功はシーザーの殺害ではなくて、朋友ブルータスをいかにしてこの計画に引き入れるかにかかっていました。なぜか? ブルータスにはキャシアスにない人望があったからです。
そうだ、あの男は万人の心の偶像だ。
おれたちの場合なら罪と見えることも、
あの男の支持を得れば、あたかもみごとな錬金術よろしくだ、
そのまま美徳と価値に変貌する。(福田恆存訳)

AがBにHの行為をするよう唆す、という図式においては、Bがそれを承認する理由はAという存在そのものか、またはHという行為そのものか、あるいはB自身の問題か、つねにその三つの可能性が考えられます。ブルータス(B)がキャシアス(A)の言を聞きいれた理由は、キャシアスを信用していたからではなく、キャシアスが策謀する行為そのものが日頃の自らの信条(独裁者の出現を許さない)と一致したからです。もう一方の例は、たとえば、1815年エルバ島から危険を顧みず帰還したナポレオンが、グルノーブルで捕縛のため差し向けられた一連隊と遭遇した時です。彼がひとり連隊に向かって歩んでいくと、連隊は熱狂の嵐となって彼のもとに押し寄せました。フランスを勝利に導いた偉大な将軍というイメージの記憶が、彼を捕縛するという命令を馬鹿げたものと思わせたのです。扇動者が応答者に魅力的に映った時には、それがもたらす結果などどうにでもなるのです。

AがBにHをさせるよう促す、ということが、あらゆる政治的行為の出発であるとしたら、それは政治というものが、その究極のエネルギー源を個人に持っているからです。すべては個人による別の個人のあるいは集団への煽動によって始まります。煽動は初期投資であって、そのほとんどは全くの損になっても多少の払い戻しがあれば万々歳というものでしょう。しかし、巧みな煽動は人をある程度意のままにすることもできます。常々、人は、自分はいかなる示唆にも開け放たれていると言うときがありますが、これは全く真実ではありません。まず第一に、人間は予想以上に首尾一貫した存在で、そのような一貫した性向を自分にも他人にも信じさせています。またそうでなければ分裂症と思われるでしょうし、次の行動が読めない人間は信頼されることもできないでしょう。そして、このことが巧みな煽動者の餌食となる原因ともなるのです。また、自分は、応答者として思慮深く考えると自認する人間も要注意です。彼らは、自ら考えるのでなく(いちいち考えていたら社会生活は進みません)、多くの場合、専門家や公けの説明のような「権威」に頼っています。権威 Authority とは多様な意味をもっていますが、もっとも単純な語義は「本人性(オーサーシップ)」と密接に結びついています。無名の一研究員が万能細胞の簡単な作成方法を発見したと言っても信用されないが、その分野の第一人者が積極的に賛同すれば、信じてしまうのです。

しかし、応答、あるいは応答者こそ鍵を握るものなのです。 応答者が集団である場合を考えてみましょう。ルソーは人民集会でなされた提案は満場一致で承認されなければならないと書いています。人びとが、すでに心の中で賛同しているような提案のみが、法として成立した時に、進んで服従する理由になるからです。これはモデルとしてもあり得ないと思うでしょが、ジュヴネルは、そこにこそ民主主義の生き残る道があると考えているようです。キャンプファイヤー・デモクラシーというものがあります。ナヴァホ族などで実際に行われていた事例で、人びとは日が沈むと焚火の周りに座り、狩りのことや他の部族の家畜襲撃のことなどを話し合います。長老や部族の長もいるが、彼らはまとめ役にすぎず、議論は全員一致の結論が出るまで長々とつづき、時には何日にもわたって同意の累積を辛抱強く積み上げていきます。時間切れによる多数決など問題にはなりません。現代人にはむろん、非効率的に見えるでしょうが、物事を論じ尽くす骨の折れる過程により、同意の連鎖反応がおき、ルソーの望むような参加者全員の心理的凝集化さえ起こり得ます。

これは、昨今論じられる「討議デモクラシー」とは全く違って、もっとずっと開かれた精神的なものです。討議デモクラシーとは、公共の場で、なんらかの手段で集められた人間が、焦点の問題について討議することにより、互いに意見の修正、ないし転換をしていくもので、それこそ団体のイデオロギーの跳梁する場となるでしょう。 イデオロギーとは、それによって世界のどんな事柄も判断できるある種の信念なのですから、話し合いなど虚構にすぎません。「応答」による決定の理想的な姿の一つは、カトリックによる列聖のプロセスです。ある「候補者」が聖人に相応しいかどうかは、何年も、時には何世紀もかけて、価値が色褪せぬことを確認しながら行われます。しかし、これはあまりに特殊な事例でしょう。

実は、ジュヴネルの時代には知られていなかったキャンプファイヤー・デモクラシーの新しい形態があるのです。もちろん、それはインターネットであり、小学生や老人や主婦まで利用する時代になって、はじめて、自由で開かれた討議の場ができたと言ってよいでしょう。政治とは、日常生活の素朴な感覚からはじまるべきで、それが地方政治の凝り固まった利権構造や現実の不公平さに目をつむる「人権」主義者をあぶり出すのです。

本論にもどりましょう。ジュヴネルの言うように、政治の原理が、人が人を動かすことにあるとしたら、政治とはまさに危険なものなのです。実はこのことこそジュヴネルがもっとも力説したかったことでした。「人間は他者を傷つけるようにも、自分が破滅するようにも動かすことができる。ひとを動かすプロセスそのものには、動かされる者にとっても動かすものにとっても、人品を卑しくさせる危険の暗示がある。追求するべき善のヴィジョンがたとえ公正きわまるものでも、その実現の支障になると考えられる人びとへの憎悪で心を毒しかねないから、道徳的だという保証にはならない。」

政治の危険性について、ジュヴネルは、ここで、プラトンの『アルキビアデス』について言及します。『アルキビアデス』は、ソクラテスの熱心な生徒だったアルキビアデスがまだ若く、ようやく民会で発言できるほどの年齢になった頃に交わされた対話です。ソクラテスは、この若者に、民会に出ていくための知恵を授けようとするのですが、まだ若いアルキビアデスは自分にはもうそれが備わっているのだと思っています。実にこれは知恵(ソクラテス)と野心(アルキビアデス)との対話であり、また哲学と政治との対話なのです。

冒頭、ソクラテスは次のようにアルキビアデスに攻撃を開始します。「おまえはペリクレスを親類にもつ名門に生まれ、家は十二分に裕福、父方、母方双方の強力な縁故もあり、何より眉目秀麗で強い体を持っている。おまえが民会で発言すれば、かつてどの政治家も受けたことのない高い評価を受けるだろう。そして、おまえは自分でもそのことはよくわかっている。」そして、ソクラテスはアルキビアデスに、民会で人を導くだけの知恵があるかと尋ねるのですが、アルキビアデスは、自分にはその知識も知恵もあると反論します。しかし、ソクラテスの巧みな対話術により、じわじわと後退し、ついには自分には人を説得するだけの専門知識もなければ、もっと大きな問題である正義や公共の利益についても自分は明るくないと告白するはめになるのです。「問題が重要なほど、無知はより悪しきものとなる。だがどんな問題でも、最大の無知は自分が無知であることを認めないということだ。」そう勝ち誇ったソクラテスの言葉でこの対話は終わります。

この対話は、紀元前430年ごろ行われたという設定ですが、この作品を読んだ380年ごろの読者はこの50年の間に、都市国家アテナイとアルキビアデスとに何が起こったのか、むろん、よく知っていました。それ故に、この対話編は当時の読者に強い印象を与えたのです。ソクラテスは、紀元前469年ころ生まれ、アテナイがその繁栄の絶頂を迎えた頃にその教育活動を始めました。しかし、ソクラテスが殺された399年にはアテナイは破滅に向かって突き進んでいたのです。この破滅は敵の策略によるものではなく、敵であるスパルタが戦争を望まず、たびたび和平を結ぼうとしたことはトゥキュディデスがこれを十分に明らかにしていますが、アテナイの破滅はアテナイ自身が招いたことでした。実に、この都市は、最高の賢者を擁していたまさにその時に、愚かな統治によって滅びつつあったのです。しかも、その統治の中心人物たちの中にはソクラテスの教えを受けた者たちもいたのです。

とりわけアルキビアデスは、404年に恥辱にまみれた敗北を喫し、スパルタの占領軍を迎えるにまで落ちぶれたアテナイの災厄の最大の責任者でした。421年にニキアスの交渉よりなった満足すべき和平のあとで、敵対感情を再燃させ、415年に無謀なシュラクサイ大遠征を敢行し、壊滅的な大敗北を招いて、多くの若者を死に追いやったのはアルキビアデスだったのです。しかも、彼は同胞の非難に憤慨して、あろうことかスパルタに内通して祖国を裏切り、和平の期が熟すとなんと驚くべき回れ右をしてアテナイの政治の有力者に返り咲くのです。さらに、彼は、またまた和平への最後のチャンスをアテナイから奪ってしまい、最後は亡命し、情婦と隠れているところを暗殺されてしまうのです。

政治活動は知恵の導きがなければ危険である、これがプラトン『アルキビアデス』が示す苦い教訓ですが、その具体的な政治活動をもたらす心情のプロセスとはどのようなものでしょうか。ジュヴネルは、『アルキビアデス』の対話の行われた16年後に場面を設定し、シュラクサイ遠征を焚きつけようとするアルキビアデスと、それを諌めようとするソクラテスを登場させて『偽アルキビアデス』なる対話を読者に提供します。ところで、このような対話形式で自らの思想を語る形は、丸山真男、吉本隆明はじめ多いのですが、文学的センスの無さか、ほとんど皆、見事なまでにつまらない出来になっていて、プラトンの足元にもおよびません。というか、比較するのも馬鹿馬鹿しいほどです。それほどプラトン対話編は文学的香気と話術の巧みさに秀でているのですが、このジュヴネル作の想像上の会話『偽アルキビアデス』は例外的によく出来ています。というより、この箇所こそ『純粋政治理論』の白眉であり、コレットから薫陶を受けたジュヴネルの文学的政治哲学者としての力量が見事に示された対話と言えるのです。

『アルキビアデス』から16年後、アルキビアデスはアテナイにおける影響力の絶頂にあって、民会を動かし、失敗に終わる定めのシュラクサイ遠征をまさに決定させようとしています。冒頭、再会の喜びを交わすのもつかの間、ソクラテスはアルキビアデスに、無謀なシュラクサイ遠征を止めるよう説得しようとします。しかし、アルキビアデスは、ソクラテスに、それではソクラテス自身が民会に行って、衆人を説得すれば良いのだ、と反論します。

〈ソクラテス〉群衆に語りかけるのはわたしの専門ではない。わたしの人生は私的な会話についやされてきたのだ。(…)おまえもよくわかっていようが、わたしは会話のための聴衆あつめなどただのいちどもしたことがない。わたしと話がしたいというひとと話ができれば、それで満足だった。注目を集めるために真摯さを犠牲にしたことなどない。
〈アルキビアデス〉あなたの対話のやり方やその目的なら、ソクラテスよ、思い出させてくれるにはおよばない。
〈ソクラテス〉しかし、それならばアルキビアデスよ、個人にアプローチするわたしと、群衆にアプローチする大衆向けの雄弁家の違いに気づいてもらわねば困る。何千人もの会衆に語ることには、会衆の注目を引きつけておくことーつまり聞く気がない者を釣り上げることーが含まれるが、それはわたしがやったためしのないことだ。それにそういう語りの目的は、この数千人をおまえの論敵から離反させ、自分の仲間につけることにある。要するに、聴衆をまわりにあつめ、おまえが思案しているなんらかの行動へと駆り立てることが含まれるのだ。
〈アルキビアデス〉ありがとう、ソクラテス。わたしが説明するより上手に説明してくれて。わたしが語るのは、語りかけられた者どもからある直接的で明確な行動を引き出すことがたしかに目的だ。そういう行動を生み出すわたしの能力は権力である。あなたはそういうのだろう?
〈ソクラテス〉まさしくそのとおりだ。
〈アルキビアデス〉そしてあなたにはそういう権力がない。
〈ソクラテス〉ない。それどころか、民会で発言する機会を得ようとしたことさえないといってよい。
〈アルキビアデス〉あなたは市民なのに。
〈ソクラテス〉市民ならほかに三万人も、たぶん四万人はいる。どんな重要な討論でも5000人もの参加者がいて、その全員に同じ発言権があり、多くはこの権利を行使したがっている。日の出から日没までの討論だと、実際に発言できるのは少数の者だけだから、演壇に登ることができるのは政治的な地位を確立した者であるのは明らかだ。
〈アルキビアデス〉そのとおり。わたしはその一人である。
〈ソクラテス〉おまえはそうだ。そしてわたしは違う。

その後、アルキビアデスは、ソクラテスに、政治的戦術に必要な、足場固めや深謀遠慮と準備などについて自説を展開します。それに対してソクラテスは、自分がやろうとすることが本当に善いことなのかわかっていない人間は人びとを破滅に導くのだと、いつもの理論を述べるのです。

〈アルキビアデス〉人びとを手玉にとって動かすアートや、この目的に必要な理解や知識にケチをつけるのはあなたの勝手だ、ソクラテス。だがね、ソクラテスよ、なにが最善のもののためになるかにかんするあなたの考え全部が、実際に人びとをを動かす政治を経由しなければならず、それは、あなたが軽蔑する知識を探求し、あなたが軽蔑する技倆を開拓してきたわたしのような人間が火を点けるのだ。
〈ソクラテス〉わたしは軽蔑などしていない。それが恐ろしいのだ。おまえのようにそれをもつ者には、自分がなしかねない害悪のことをつねに恐怖しながら歩んでもらいたいものだ。その恐怖を抑え込むことができるのはただひとつ、なにが最善のもののためになるかにかんする知識の開拓をおいてほかにない。
(……)
〈アルキビアデス〉どうだかね、ソクラテス。これは心奪われるゲームで、われわれの内なる最良のものと最悪のものを明るみに出す。いちどでもやったことがある者には、これこそ政治。どこまでいってものるかそるか、一か八か。このゲームを理解することが政治を理解することなのだ。歴史はそうやってできたのだよ。
〈ソクラテス〉冒険と災難の物語、響と怒りでいっぱいの……。
〈アルキビアデス〉人間の物語ということさ。理解してくれ、ソクラテス。

平行線を描いたまま、二人の対話はかみ合わず、現実の進行通り、アテナイはアルキビアデスの提案を受け容れます。対話の最後はアルキビアデスの次の言葉によって締め括られます。

〈アルキビアデス〉もっとも高貴な夢が低劣な動機と手をたずさえれば、われわれ人間を動かす側にとってインプットとしての利用価値がある。これは政治の本質に属することがらなのだよ。アテナイの善についてのわたしの帝国主義的な構想があなたの眼にどれほど下劣に映ろうと、わかりやすさの点でそれは申し分ない。わたしがシュラクサイ攻略をもとめるにあたいする善と考えているのは事実だが、このイメージがわたしの帰依者をこしらえるのに役立つこともまた事実。つまりこれは目標だが同時に手段でもある。われわれの手にかかれば、手段にならないものなどないのさ。

レオ・シュトラウスは『政治哲学とは何であるか』(早稲田大学出版部)の中で、政治思想は特定の秩序や政策に関心をもつが、政治哲学は真理の探求をめざす、と書いています。まず、深奥への探索こそ優先されるべきで、それにはソクラテス的な謙虚さと慎重さが必要というわけです。ジュヴネルの政治原理のまとめは、人が人を動かしてなんらかの行為に至らしめることが政治であるが、それは根本的に人品を卑しくする可能性があり、あまつさえ人も自分も危険に陥らせることだ、というものです。それではこの危険や人格の危機をいかにして防ぐか。何と、ジュヴネルは最後の章に「政治のマナー」と題して、ド・ジュヴネルらしい解決策を提示しています。

「お尋ねしたい。今日まで生きながらえた国家のうちで、政治的暴力のもっとも凄惨な記録があり、武力で勝ち取られた権威の実例がもっとも多く、弑逆された君主と大臣のリストがもっとも長いのはどこか。答えは、イングランド! 中世の全部から17世紀に差し掛かるまでのイングランドの動乱の頻度と残忍さに比肩するものはない。」ところが、17,18世紀の政治的動乱、権利の請願から名誉革命、権利章典までに、イングランドは世界でもまれな模範的な穏和さに転じたのです。19世紀には産業資本主義とプロレタリアートが最初に伸長した地であり、マルクスが、プロレタリアートにとってのピリッピの平原(オクタヴィアヌスとアントニーがブルータスたちを滅ぼしたマケドニアの古戦場)と呼んだイングランドは、しかし、何事も起こらず、今日に至るまで政治的暴力とは無縁でした。ロイド・ジョージは累進課税を導入したからといってウエストミンスターで撲殺されたりはしなかったし、斬首された諸公の死体が不名誉にもイーストエンド中を引きずりまわされることもありませんでした。これは英国人の天分の勝利である、とジュヴネルは書いています。「18世紀の礼節(シヴィリティ)の香気がウェストミンスターには染みついているのだ」と。

一方、同じ17,18世紀の比較的平穏な時代を経験しても、フランスはイングランドと全く正反対な道を歩みました。フランス革命の初期段階で繰り広げられた残虐非道に、ネッケル(フランスの財政総監、ド・スタール夫人の父親)は深甚な衝撃を受け、それを礼節の放逐と書き記しました。「たしかにフランス革命における礼節の破壊は、バークの反応がなぜあれほど暴力的なのかの真の説明になる。礼節の破壊はヨーロッパをたじろがせる驚愕事となった。」

フランス革命における憲法制定国民議会の議員たちは、みな古典的教養に根ざした学識者で、その演説の様式はキケロに学び、ローマ元老院の厳粛さを体現することに誇りを持っていました。加えて、ルソーやアベ=プレヴォーに落涙するほどの感受性さえ持っていたのです。ところが、事態は残忍さの一途を辿り、革命の進行とともに公職者たちのマナーが斬時粗悪化に向かって行きました。バンジャマン・コンスタンやラファイエットは、まだ革命の偉業と暴力とを分けて考えるようにしていましたが、次第にそのような考えは軟弱に思われ、次々に現れる革命的な人物たちの行動は、その仁慈の心や善意のためですらなく、極端だからこそ称賛されるようになったのです。

フランスは1871年のパリ・コミューンでも歴史に残る残虐な殺戮を経験しましたが、さて、英国の礼節とフランスの礼節の顛落は、いかようにしてその違いが生じたのでしょうか。まず、天分の違いですが、英国は国王と議会の際限ない駆け引きを経験して、次第にその国民性が露わになってきました。極端を嫌い、現実に即したものを重んずる精神、それは本質ならざるものに対しては執着せずにいい加減にやり過ごし、妥協を恐れず、常識に即して、目前の利益を重視する心です。ジュヴネルは、イングランドの人間は、政治を賭け金に上限のあるゲームとみなしている、と書いています。ところが、フランスは、行き過ぎを恐れず、極端な行動がしばしば称賛され、むしろ、そのような瞬間にこそ人間の英雄的、また感動的姿が表明されると思っています。『赤と黒』のジュリアン・ソレルが、苦労の末に手に入れた地位を活かして安穏とした余生を送らずに、わずかの激情のために最後に愚行を犯し断頭台に消えるのも、じつにフランス的なのです。

マナーを甘く見てはいけない、というのがジュヴネルの最後の訴えです。マナーから最も遠い国、アメリカが戦後迷走に迷走を重ねているのも故なしとしません。政治に根本的解決などあり得ないし(双方の利益が完全に排反事象であるパレスチナを見てもわかるように)、あるのは決着settlement だけなのですから、そこに政治的礼節のあるなしが関わってくるのです。ジュヴネルは礼節に頼らず、「原則」を押し通そうとする連中にも警告を発しています。我がもの顏で突き進める原則などあり得ません。知的努力を最小限にしたいからといって、具体的事例にすぐに適用できる一般的原則を求めるのは危険です。自己決定原則、古い言葉では民族自決原則のことを考えてみましょう。この原則に照らせば、アメリカの13の植民地に英国から独立する権利があったことは明白です。ところが同じ原則に照らすと、南部の11州に、南北戦争の直前に、連邦脱退の権利はなかったなどとは言えなくなってきます。そう考えると、原則を盾に何かを主張する人間は、それだけで胡散臭いことに思われてきます。(暴力や戦争に反対することさえ無条件に賛成できる原則とは言えません。ジュヴネルは中国に対する抑圧された異民族の反乱・暴力は承認されるべき、と言っています)。

しかし、礼節を信じ、マナーに訴えるのは、まさに茨の道といってよいでしょう。ジュヴネルは、この本の最後に、ローマの礼節の偉大な守護者、キケロの最後のイメージを忘れないように、と訴えています。キケロはシーザー暗殺後の政争渦中に殺され、その頭と手は公共の演壇上に晒されたのでした。

| | コメント (2)

ベルトラン・ド・ジュヴネル『純粋政治理論』(1)


いつの間にかクリスマスも終わり、いつの間にか残り数日で新年を迎える頃となりました。いつの間にか、というその言葉が恐ろしい。いつの間にか年を取り、いつの間にか旅立っていってしまうのでしょうか。読むべき本はまだ多く、無知のまま死ぬのは耐えられません。ところで、ベルトラン・ド・ジュヴネルの『純粋政治理論』(中金聡・関口佐紀訳、風光社)は個人的に今年出た中で最も印象に残った本ですが、よくある政治原理の本とは肌合いも内容もまったく違っています。しかし、その本の内容にも優って、作者のジュヴネルも政治学者としては相当に変わっているのです。「20世紀の偉大な政治思想家たちのうちでもっとも知名度の低い」ベルトラン・ド・ジュヴネル・デ・ジュルサン Edouard Bertrand de Jouvenel des Ursins(1903-87)は、学歴としては中学校に2年間通っただけで、むろん学位も博士号もなく、指導教官も弟子も学閥も、そして面倒な大学の仕事も人間関係もありません。アカデミズムと無縁ということではルイス・マンフォードと似ていますが、実際、ジュヴネルはマンフォードと同じくそのキャリアをジャーナリストとして初めています。

だが、マンフォードが苦労してジャーナリズムで身を立てて行ったのと反対に、ジュヴネルの道は労せずして開かれていました。というのも、彼の父アンリが日刊紙『ル・マタン』の社主兼主筆であったからです。遠く13世紀に淵源をもつ男爵家であるジュヴネル・デ・ジュルサンの当主であり、後に大物政治家として活躍したアンリ・ド・ジュヴネル(パリのサン・シュルピス寺院の裏には彼の名を冠した通りがあります)はパリ6区のフォーブール・サン・ジェルマンに邸宅を構え、アナトール・フランスやH.G.ウェルズなど多くの知識人を招きます。彼らとの交友、そしてユダヤ人実業家の娘であり教養豊かであった母親、サラ・クレール・ボアスの影響のもとにベルトランは育ちました。

しかし、ベルトランにとって17歳から5年間、父の再婚相手である国民的作家コレットとの関係はその後の人生に決定的影響を与えました。30歳年上のこの義母と、避暑地ロズヴァンで過ごす毎夏の思い出は、知的にも肉体的にも彼を大きく成長させたのですが、むろん、この関係は、公然たるスキャンダルとなり、彼の人生に軽くはない影響を与えました。さらに次のようなこともありました。1936年2月、ベルトラン33歳の時、時の最注目人物アドルフ・ヒトラーとの独占インタビューを成し遂げたのです。ベルトランは、そこで、ヒトラーから、フランスとの友好と共産主義ソ連への嫌悪をひきだしたのですが、 フランス政府からの圧力で仏ソ協定の議会承認の翌日に掲載が延期されたことにより、独外相リッベントロップの抗議を呼び起こし、結局は大戦へのターニングポイントとなるドイツのラインラント進駐の口実に利用されました。実は、これは、ドイツの巧妙な画策で、ベルトランは上手くはめられたのです。『アルカディ』の序文を書いたドミニク・ブルグは、ベルトランの人間を見る目の無さに言及していますが、ヒトラーを愛想の良い人物、ミッテランを誠実な人間とみなすのではそれも無理ありません。

その後、ベルトラン・ド・ジュヴネルはドリュ・ラ・ロシェルやドリオらの親ドイツ派に近づいたり、フランス占領後はレジスタンスに投じたりしますが、1943年、ゲシュタポに妻とともに監禁されます。しかし、幸運にもジュネーヴに逃げ出し、そこで代表作の一つ『権力論』を執筆します。母国では、義母とのスキャンダルや親ドイツ派とみなされての非難があったのですが、彼の名はアングロ・サクソンの国で高まり、「憂愁の自由主義」liberalisme melancoliqueを代表する保守的政治哲学者・政治経済学者として、米英の大学で客員で教えるようになりました。さらに1970年代に早くも地球環境の保存と人類の未来について警告を発し(ecologie politique という言葉を初めて使ったのはジュヴネルです)、エコロジーや未来学についての書物を出版し、またまた世界のいろいろなフォーラムなどに招かれて講演したりしました。

ベルトラン・ド・ジュヴネルとは、果たして、いったい、如何なる人物でしょうか。その基調は、コミュニズム、ナチズム、デモクラシーの横暴などに現れる「権力」を本能的に嫌う心性を持ち、心地よい生活を最上のものとする、慎ましい自由主義者、と言ったらよいでしょうか。私が彼に魅かれたのは、モーリス・クラントンが編集した『西欧の政治哲学者たち』(山下重一訳・木鐸社1974・1987)の中のジュヴネルが執筆した「ルソー」を読んでからです。実は、ジュネーヴに逃れていた時、ジュヴネルはこのルソーが幼少期を過ごした土地で、本格的にルソーの研究を初め、それは彼の主著『権力論』『主権論』に結実します。

道草になるかも知れませんが、ここで彼の描くルソーについて要約しましょう。ジャン・ジャック・ルソー(1712-1778)は、人間社会の歴史的進歩を体系的に叙述しようとした初めての著述家でした。当時は誰もが進歩について語っていましたが、その態度はきわめて粗雑であり、精密に考究する試みはルソーが最初でした。しかし、それが彼の生涯の迫害の理由になったのです。フランスは啓蒙思想がもっとも花開いた土地であり、あの強力なイエズス会でさえ尻尾を巻いて逃げ出すほどの進歩的な国でした。 その進歩についての明るい希望、人間理性についての全幅の信頼感は、その身内から反逆者を出すことを許さなかったのです。彼らに対してルソーは、進歩の危険を警告し、明るくあるべき未来を暗い筆致で描きました。

自然は人間を善良に作ったが、社会が人間を堕落させ不幸にした、とルソーは書きました。人類は原始的な組成ではもっともすぐれており、もっと賢く、もっと幸福なのに、原始状態を離れるに従って盲目的で悲惨で意地悪になった、と。進歩に対するこのような見方に対して、啓蒙思想家たちがどんなに憤慨したか容易に想像できるでしょう。フランスの教会組織を弱体化できるほどの力をもった彼らが、この孤独に戦う男を抹殺することは、児戯に等しいことでした。ルソーの評判を落とし、彼を危険人物と見なさせる不断の組織的な試みがあったことは事実であり、啓蒙思想家たちはルソーの気難しさを利用して、巧みにいじめることで、彼をついには絶望的な孤独に押しやったのです。

迫害者に対する彼の抵抗を後世に伝える唯一の方法だと思って『対話』の原稿をノートルダム寺院の大祭壇の上に置こうとしたルソー。しかし、この試みに失敗し、原稿をわしづかみにし、死後の出版を誰にも頼めないと絶望してパリの町をさまよっているルソー、自筆でコピーした小冊子を町角でくばるが、その小冊子も通行人によって鼻であしらわれてしまうルソー。彼がそれほどにも訴えたかった進歩への憎悪は、その後の加速度的な進歩の二世紀間にわたってルソーの崇拝者からさえも英雄の馬鹿げた面として隠されようとしてきました。しかし、ジュヴネルは、それこそルソーの中心的概念であると明言します。

「私が以上のことに気がついたのは、『社会契約論』を研究していた時のことであり、私はそれが来るべき共和国のための処方箋ではなく、政治的堕落の臨床的な分析であることを知ったのである」と彼は書いています。「ルソーは『社会契約論』の中で、大規模で複雑な社会を民主政治に転化するための秘訣を教えようとしたのではない。それどころか、彼は、一方では大人数が、他方では政府の強力な活動に対する要求が、彼が民主政治の反対であると考えた少数者への政治権力の集中をもたらすという論証を提供したのだ」

これがジュヴネルの描くルソーであり、また、これはジュヴネル自身の政治哲学の要諦ともなっているのです。「『社会契約論』の主題は、社会契約ではなく、社会的感情である」これはまさに目の覚めるような指摘です。「人民は政府のもとに支配されざるを得ない、それは苦痛であり、ジャン・ジャック・ルソー以上にこのことを感じた人はいない。」
個人は自らの人格と財産を守るために共同体に自分の権利の全てを譲渡するのですが、それはむろん、自ら服従することであり、苦痛であり、限りない抑圧であるに違いありません。しかし、人間が服従する支配が自分にとって外的なものでなければないほど、その経験は苦痛でなくなるはずです。ルソーは、このような支配が外的なものでなくなるのは、臣民の一般的委任によって権威を与えられる結果においてだけであると強調しました。つまり、自分が自ら参加し、その規則の制定に個人的に参与した時だけ、その支配が耐えられるというのです。

ところで、主権は国民に属し、国民のみが立法権を持っているのですから、ルソーの考えによれば、政府は国民の代理として法を執行するがゆえに、国民の召使にすぎません。そのようなものとして、立法権を持つ国民は法と行政を執行権を持つ政府に委ね、それに全面的に服従します。ところが、国が大きくなり、人口が増えてくると、それらの権利の意味合いに弛緩が生じます。ここで、主権者は国民として集合的にまた団体としてしか存在せず、臣民としては一個人として政府に服従します(ルソーは、人間を集合的には人民peuple、主権に参加するものとしては国民citoyens、国法に従うものとしては臣民sujetsと呼びます)。今、ここに10万人の人口を持つ国があるとすると、臣民としては法に服従するものの、主権者としては10万分の一の権利しかありません。このように、自分が大群衆の中に埋没し、主権者としての自覚が薄まると、政府・法からの抑圧がより強く感じられ、結果として自由が減少することになります。そして、国民がより抑圧を感じるようになればなるほど、政府は国民への服従を確かにするために、ますます強制手段が必要となり、次第次第に執行部が立法部を上回るようになり、最後は主人と奴隷しかいなくなります。「このようにして、国家には唯一の活動的な権力、すなわち執行権だけが残るようになる。(…)このように、すべての民主主義国家は最終的に滅亡したのである。」
(2)に続きます。


| | コメント (0)

2011年12月18日 (日)

藤原保信『ヘーゲル政治哲学講義』(1)

2011年も何とか年の瀬までたどりつきました。今年は春の終わりから冬にかけて、九州、四国、関東で知人や親類が亡くなりました。その中でも、暑い夏のさなかに起きた実兄の急死は私の心に大きな衝撃をもたらしました。このことは、できれば早い時期に記事に書きたいと思っています。12月の初めに、母の33回忌、父の27回忌の法要があって、思えば速い 時間の流れに感慨深いものがありました。大震災の記憶もまだ生々しく、重い心はまだ癒えませんが、ブログを続けられるほどの穏やかな日常に感謝したいと思います。

さて、久びさのブログ更新は、何とも硬い本、藤原保信の代表作ともいえる『 ヘーゲル政治哲学講義』(1982御茶ノ水書房)です。藤原は1994年に58歳で骨ガンで急逝しましたが、その遺作となった『自由主義の再検討』(1993岩波新書)で、自分の立場を表明して、マイケル・サンデル、チャールズ・テイラー、アラスデア・マッキンタイアなどいわゆるコミニュタリアンたちに同調せざるをえないと書いています。それについては、別に一書を著すと記していましたが、今ではそれもかなわぬ夢となりました。

ところで、彼のこの立場は、私にとって、納得できるが、また不満も残ります。コミニュタリズムについての解説は私の手に余りますが、要約めいたものを記しておきましょう。それは、1971年のロールズの『正義論』の刊行に始まります。ロールズらリベラリストといわれる人達は、ベンサム以来の「最大多数の最大幸福」という暗黙の了解になっていたクレドに挑戦しました。自由意志を持った多数 の人間が互いに自己主張し合う社会では、「最大多数の最大幸福」というスローガンは直感的に正しいように思えます。多数決で不本意な意見が通ってしまっても、じっと我慢してしまうのは、より多数者の幸福を優先しなければならないという考えに律儀に納得するからです。これは、いわば、将来のために誰かが最初に我慢するという考えで、その根底には、社会は今すぐには全員を幸福にできないが、将来的に見た場合、社会の成員全員に幸福が行き渡るのだという幻想が横たわっています。これが、今の快楽を我慢して、将来のもっと大きな快楽を目指すという個人の貧相な欲望に根を持っていることは疑いありません。しかし、個人のレベルでは共感せざるをえないものの、十分大きな共同体ではいくらでも欺瞞が可能です。約束の幸福を先送りにして、現在の幸不幸の割り当てを半永久的に固定しようとするのです。空港やダムをつくるために立ち退きを強いられる人達は、経済的には等価交換に似た補償が提示されますが、故郷を去るという現実をどのような倫理的根拠で受け止めるべきなのでしょうか。

リベラリストたちは、この前提となっている幸福の定義に疑義を挟みます。ベンサムにとって幸福とは快楽の総数が苦痛のそれを上回ることにほかならず、その快楽自体は、古の哲学者たちがもっとも下位においた物質的欲望に他なりません。観相的・瞑想的幸福やポリスの政治に参加することの幸福は、啓蒙の進展とともに、あるいは中世的封建経済から近代資本主義への変遷とともに失われて行ったのです。むろんこのことは宗教的、階級的桎梏からの解放に他ならず、個物を個物として見るという科学的思考の侵入のやむを得ざる結果と言えましょう。マッキンタイアは、このような思考のもっとも強力な指標を、ルターとマキャベリに見ています。ルターは、あらゆる宗教的拘束を取っ払って、一人の個人を神と相対させました。「ルターが個人とは何であるかを説明しようとするとき、彼は、あなたが死んだら死ぬのはあなたであり、誰一人あなたの代わりに死ぬことはできない、ということを指摘することで説明する」(マッキンタイア『西洋倫理学史』深谷昭三訳・以文社)

一方、マキャベリは俗界のルターで、個人が個々の選択や目的において全く自由なのだから、道徳的規則は人間が多少とも堕落しているという前提で作らねばならないと考えました。このような人間本性への覚めた見方は、ポリスの衰退を生き抜いたプラトンやアリストテレス同様、列強からの外的脅威にさらされたフィレンツェに生きたマキャベリに特有のものであったとマッキンタイアは書いています。「絶え間ない変化の時代に生きてマキャベリは、政治的諸秩序の儚さを理解したし、しかもこのことこそが、人間本性の永遠に対する彼の訴えを、かくも印象的なものたらしめたのである。」そして、個人が究極の単位であり、権力が人間の究極の目標であるとしたら、これを普遍的人間の哲学として確立できる思想家の登場が待たれたのも当然でしょう。

この希望はホッブズにおいて十全に満たされました。ホッブズこそ、人間の条件とその運命を根底から考えようとした思想家でした。ホッブズは、まず原初世界を想定して、そこでは人間は限りなく自由で平等であると言います。 「まず、平等ということに関していうならば、そこにおいていかに力の弱い者といえども、もっとも力の強い者を殺害しうるだけの肉体的能力をもち、精神的能力においてはその平等はさらに大きい。そして自由ということに関していうならば、そこにおいて各人は、自分自身の判断にしたがって自分自身の生命の保全のためにいかなることもなしうる。ホッブズが自然権とよぶのはまさにかかる 自由のことである」(藤原保信『自由主義の再検討』)魂にはある種の内的秩序があるとしたプラトンやアリストテレスとの違いはここにあります。ホッブズのように、人間を魂の卓越性においてでなく、欲求と嫌悪によってとらえる限り、人間は限りなく平等であり、自然的優劣は生じようがありません(肉体的優劣は狡知によって十分に補填できる)。

かくして「死ぬまで止まない永続的な欲望」に支配された人間同士が共存する世界は、「万人が万人の敵である」情け容赦のない世界となります。「至福」はここでは最終目標ではなく、それはさらに多くの欲望に挑むきっかけにすぎません。人間を支配するものは他の人間に勝りたい、追い抜きたい、一位になりたいという願望ですが、この「誇り」は裏側に恐怖を宿しています。すなわち、追い抜かれる、打ち負かされるという恐怖です。それは究極的には不名誉な死への恐怖に収斂するのですが、ここに理性の計算が働き、平和の戒律である自然法(平和のために自己保存としての自然権を一部放棄すること。汝の欲せざることを他に施すことなかれという規範)が作り出されるのです。いわば、妥協の産物として作り出された自然法ですが、二度と終わりなき闘争に立ち戻らないために、それが永続的に維持されるべき方法を考えねばなりません。ホッブズの偉大なところは、自然法の発見の後も利己的な人間本性は変わらないと考えた点で、ここに強力な国家の出現が要請されるのです。人間とは長期的には互いの利益になるとわかっていても、短期的には自分自身の利益のために容易に自然法を侵すでしょう。いや、利益にならなくとも、侵すことを目的とするのが人間というものです。「あなたの楽観主義を考え直してください。悪のために悪をなすことほど人間にとってありふれたことはありません」と、メリメは不用心な女友達にあてた手紙で書いています。

ロックやルソーの考えと比較してみましょう。ロックは、自然状態でも一種の自然法の存在を認めましたが、これは彼が人間の知性の優位を信じていたからで、人間は欲望に翻弄されながらもそれを統御し得る存在であるという確信、それは神の造ったこの世界が無目的に無意味に放置されるはずがないという確信から来ています。(それに対してホッブズは、世界の第一原因としてのみ神をみています)一方、ルソーはこれまでの人類の歴史を一つの苦悩としてみました。本来、善であるべき人間が、制度と社会によって、捻じ曲げられていると信じたのです。そして、一般意志の支配する国家においては、人間は自然的欲望から解放されて、道徳的自由さえも獲得するといっています。

人間精神が制度によって変わり得るという考えは、まず現実の社会への深い呪詛から始まります。ルソーの場合は王侯貴族を頂点とする身分制社会への憎しみが生涯に渡って抜けきれることはありませんでした。彼はフランス王の与える年金すら拒否しています。ルソーの性格には看過できない欠点も数多いし、友人にしたくない人物ですが、この反骨精神だけはすばらしい。精神の自由を束縛するものへの批判を口にしながら、安全で心地よい生活を願った人間の卑小さと比べてみましょう(ディドロはロシアのエカテリーナに、ヴォルテールはプロイセンのフリードリヒ二世にそれぞれ保護を受けています)。

しかし、このように制度を変えることで人間も変わるなどとは世迷い言の類で、レオ・シュトラウスも言っているように、自分自身の心の中を覗いて見れば誰にでも判ることなのです。ところが、ルソーの思想をさらに発展させたのがマルクスで、そもそもマルクスにとっては、ロックやアダム・スミスが自然法の基本とした私有財産制度こそ害悪の根元であり、人間が類としての存在から放擲され、個人的欲求に邁進することが、いわゆる疎外を引き起こすというのです。資本主義は、その人狼的、飽くなき欲求拡大によって、不平等と貧困、独占と不況を生み出し、結局は革命によって転覆されるのですが、問題はその後に展開される社会の構想です。生産手段が公有化され、個別的労働が同時に社会的労働になると、労働の桎梏が労働の喜びになり、ついには精神的労働と肉体的労働の区別も無くなるというのです。そして、『ドイツ・イデオロギー』の有名な公式によれば、生産様式という巨大な下部構造の上に、法律的政治的上部構造が、そして人間の社会意識が載って立っているのですから、下部構造が変われば、当然人間の意識も変わってくるはずです。マルクスはじめ、彼に続く革命家たちは、この世界史的変革の後に訪れるユートピアとも言うべき社会について無責任にも書き散らしています。政治や公務の仕事は労働者と同じ賃金になり、誰でもできる片手間となる、私有財産が消滅した社会では交換価値も意味をなさずトイレさえも金でつくられるだろう云々と。

むろん、こんな社会が簡単に実現するわけもなく、革命が成就しても過渡的制度としてプロレタリア独裁が必要とされています。そして、永遠に過渡的制度が延長されれば、ユートピアどころか最悪の社会に転化するのは歴史が証明しているでしょう。資本主義とその下での人間の運命について、あれほど鋭く、克明に解明したマルクスが、権力を手にした人間の堕落について全く予見できなかったのは驚きです。左翼的(革新的)人間全般に言える人間についての楽天的考え、想像力の貧困がこれほど露骨な形で表れたこともありません。昔、書店の店頭で、三浦つとむの『レーニンから疑え』という書名を見たとき、まことに失礼ながら笑ってしまったのですが、「マルクスから疑え」あるいは「自分から疑え」そして「すべてを疑え」となるのが思想というものの本筋ではないでしょうか。

話は脱線しますが、この想像力の貧困というものが、政治思想には何か決定的のような気がすることがよくあります。若年のころから、社会の不正に憤り、懸命にこの世の真実を追求する挙句に、自分に都合良い事実ばかりしか見えなくなる、といった人間には文学的な、あるいは広い意味で芸術的な教養が欠落しているが場合が往々にして見られるようです。特に、文学は(そのもっともすぐれた達成においては)政治に対する終ることのない反措定であり、一見非政治的にしかみえない文学にこそ政治的言説では捉えきれない本質的な洞察が含まれていることがあるのです。著名な政治学者のマイケル・オークショットの論文の中にはキーツやシェリーやコンラッドなどの引用が、単なる飾りとしてでなく、その論説の主調音を奏でている場合があり、それが彼の文章をきわめて弾力のある色褪せにくいものにしているのです。

ところで、マルクスについてはロールズがその『政治哲学史講義』で面白いことを書いています。彼によれば、マルクスは左派リバタリアンとも呼べるというのです。というのも、マルクスの著作の中には、共産主義の社会では強い者が弱い者を助ける、あるいは多く仕事のできるものができない者を助けるとはどこにも書いてないからで、共有されるのは生産手段だけで、平等なのは資源だけだからです。そして、分業によって桎梏となった労働が、再びその全一性を取り戻し、労働の苦しみが労働の喜びに変わるような世界では個人の格差はますます拡大するだろうし、「各人はその能力によって」得られる社会ではその格差は決定的になるでしょう。卑近な例でいえば、ある学校が生徒の華美な装いによる差別を失くすために全生徒一律着用の制服を導入したところ、先天的な美醜がそのまま強調されてより大きい差別を生む要因になったようなものでしょう。こうしてみると、マルクスは一面では社会主義革命がもたらす社会を先見の明を持って見ていたと言えるかもしれません。というのも、国家が全権を握る全体主義社会の特徴は、価値が一元化されていることだからです。

話をもとに戻して、ホッブズの功績は、人間を何の拘束もない自由で平等な原子論的個人としたことです。人間は政治的動物(アリストテレス)などではありません。また、人間の生き方についての段階的秩序(倫理的、観照的等々の)などあるはずもなく、太初以来、低俗な欲望に(名誉欲のような)支配されてきたのが人間というものです。あらゆる希望的観測を振り捨てて、何はともあれこのような原点から出発すべきものを、ロックやルソーは人間の原初的行動のなかによりよき社会の萌芽や根拠を見出したり、それを近代市民社会の思想の根幹にさえしたのです。

ホッブズの原子論的個人は、啓蒙主義のそして民主主義の資本主義の科学主義のつまり現代に至る市民主義の基礎になりました。ここから、さらに、自立的経済人としての典型像を確立したのはデフォーの『ロビンソン・クルーソー』です。ここには冒険と計算という資本主義の性格があらっぽい形で描かれています。主人公は、中産階級に生まれたことを神に感謝しろと父親の遺言で諭されますが、中産階級こそ家柄や身分にとらわれず、また自由に金銭を稼げる市民だからです。彼は、すべてを簿記の形で計算、判断します。海賊の奴隷になった時、逃亡の助けをしてくれたムーア人の少年(「終生この人を愛そう」と主人公を慕ってくれた)さえも60スペインドルで売り払ってしまいます。このような、すべてを合理的に計算し、将来の計画を練っていく啓蒙の完成形態がベンサムの「最大多数の最大幸福」という言葉に要約されていると言えるでしょう。ここで幸福は、単純にも快楽と苦痛の多寡によってきめられます。ホッブズにとって、やむを得ざる出発であった「原子論的個人」という概念は、ベンサムには最終の目的、それによって始めて民主主義、議会主義、資本主義が正当化される根拠となりました。プラトン、アリストテレス以来、貶められていた民主主義がついに肯定的、積極的に評価されたのです。アダム・スミスが市場に神の手を認め、自己利益の追求こそが全体の幸福につながると信じたと同様に、議会制度が整えさえすれば自動的に最大多数の最大幸福が実現できると考えられました。仁恵は人間同士の直接的な隣人愛によってでなく、市場社会の交換システムによってよりよく実現できるというアダム・スミスの論理は真理を瞬間かすったともいえますが、ロック、ルソー同様、その楽観主義は覆うべくもありません。

一方、ホッブズ的な人間の捉え方に対する強烈な反発もおこります。先に述べたマルクスは資本主義を人間に疎外をもたらすものと考えましたが、歴史的衣装を纏っているその思想も歴史の中で見事に破綻してしまいました。経済全体を公的に計画していくこと、官僚の独裁、無謬性の固持など、社会と人間の見通しの脆弱さと甘さは人類史上もっとも甚大な犠牲をもたらしています。しかし、ホッブズの自由主義的個人主義の、真っ当な反論は、ヘルダーから続くドイツ・ロマン主義によってなされたと言ってよいでしょう。

チャールズ・テイラー『ヘーゲルと近代社会』(岩波書店1881渡辺義雄訳)によれば、ホッブズの描いた原子論的個人の社会はヘルダーにとって戯画にすぎなかったということです。ヘルダーによれば、そもそも人間を利己主義的欲望によって動く主体と決めつけることに誤りがあったので、人間はある中心核もしくは霊感から出発し、常に発展しつつある生命の統一体と考えるべきで、その理由は、人間が芸術作品において人間の最高の実現に到達することからもわかる、というのです。また彼は、啓蒙主義的個人が、自然と社会から孤立していることも批判しています。ホッブズの考える個人は、自然と社会を自分の欲望実現のための手段としかみない、しかし、人間は自然の大きな生命の一部であり、自然に対して盲目に閉ざされた関係を解消し、自然との親しい交わりを回復しなければならない。また、社会は単なる利己的な人間の集団ではなく、人間と同じく統一された表現体であり、個人はその中でのみ自分を実現することができる。ヘルダーは、ここで、民族(Volk)という概念に言及します。民族とは、その構成員の支えとなるある一定の文化の担い手で、各民族はそれ自身の指導的主題もしくは独特でかけがえのない表現様式を持っており、これは決して抑圧されてはならず、またその独自性を決して真似ることはできないもの(ドイツ人がフランス文化を真似るように)なのです。

ヘルダーのこの考えには近代ナショナリズムの原点があるが、またそれは現代の行き過ぎたナショナリズムに対する大防壁ともなっている、とテイラーは言っています。まことに的を得た記述と言えるでしょう。ナショナリズムを感ずることなく、また深く考察することなしに、単なる平和や民主主義や命の大切さなどを連呼する者は、自分の根っこを忘れた脆弱さゆえに、容易にその反対のものに転換し得ることを銘記すべきです。

科学的、原子論的個人主義に対するヘルダーの戦いは、ドイツ・ロマン主義において文学的深化を遂げましたが、時代の趨勢は如何ともし難く、ホッブズの自由主義はベンサム、ミルら功利主義者に受け継がれて英国のさらに資本主義国の政治的バックボーンとなりました。しかし、ホッブズの理論の真に根本的な批判はイマヌエル・カントによってなされたのです。カントは、ホッブズの「人間」は少しも自由な存在ではないと言います。欲望によって動かされた人間が本当に自由であると言えるでしょうか。自由な人間とは、利己的な欲望に惑わされず、自分自身の内で打ち立てられた道徳に進んで従う人間を言うのではないでしょうか。自分の内部で打ち立てられた道徳とは、自分と社会の考慮の中で、大いなる統一に至る決断をする勇気で、これこそ自律というべきものです。これは理性が自ら与えた命令であるがゆえに、畏怖すべきもの、神聖であるべきものでした。中世キリスト教における神は、ホッブズの理論体系のうちで情け容赦なく形骸化されたのですが、カントに至ってその骸も打ち捨てられました。尊敬すべきは神ではなく自らの道徳法則であり、人はそれに従って生きる時、神に近い存在になる、というより神そのものなのです。この思想はフランス革命が起こしたと同じほどの衝撃を、若きシェリングに、フィヒテに、ヘルダーリンに与えました。「測り知れない影響を及ぼしてきたこの道徳哲学の、人を奮い立たせる核心は、徹底した自由の観念である」と、チャールズ・テイラーは書いています。「道徳的生活は道徳的意志による自己規定というこの徹底的な意味において、自由と同義語である。」

いかなる外的干渉も受けず、いかなる権威(神のでさえ)による干渉も他律として批判されるこの徹底的自由はまた代償を要求します。それは厳しい自律の絶えざる自己検証で、カント自身も、この「涙の谷」では自立的道徳の達成は不可能だと思っていたようです。それは無限の将来に達成するかもしれない永遠に続く努力である、と。
ベンサム、ミル以来の功利主義もまた、カントの経験を通じて変容して行きました。しかし、それはカントの道徳の定言用法(偶然的な幸福に関係なく、目的によって曲げられず、ただ「するべし」という義務によって制限される)からではなく、その爽やかとも言える自由の観念からでした。ホッブズは、国家や法律をそれによって自由が守られる止むを得ないものと見なしました。自由とは制限から逃れるもの、法律の檻の外にあるものでした。だが、カントによって初めて自由は哲学的に高められ、政治の世界としては積極的に求められるようになったのです。そして、これはアメリカにおけるリベラリズムの根幹をなす考えと直結します。自由とは何事があろうとも侵してはならないものである、それは主張するのです。

ロールズ、ドゥオーキン、ノージックら、リベラリストと言われる人たちの哲学的政治的根拠は、まさにこれに他なりません。彼らは、もはやベンサムの「最大多数の最大幸福」などという定言に惑わされたりはしません。国家が幸福になろうと、個人が幸福にならなければ意味がありません。いや、幸福が目標ではなく、個人が自由に選択しつつ生きることこそが重要なのです。崇高なのは「個人」と「自由」なのです。そして、彼らは、この自由と個人を侵害するものに対して強い反発を表明します。平等主義リベラリストは、自分の自由な能力を展開するための障害を排除するために、最低限の福祉政策を要求します。リバタリアニズムと言われるリベラリストは、自分の労働によって獲得した私的所有権を最大限に擁護しようとします。「平等主義的であれ、リバタリアン的であれ、カント主義的リベラリズムは、『私たちがばらばらの個別的存在であり、それぞれの目的、興味、そして善き生についての考え方を抱いている人格である』と主張するところから始まる。カント主義的リベラリズムは、他者にも自分と同様の自由を認めながら、私たちがそれぞれ自由で道徳的な主体として行動する能力を実現できるような権利の枠組みを求めている。」(マイケル・サンデル『民主制の不満』金原恭子・小林正弥訳・勁草書房)


リベラリストたちは、何がこの世の善であるかという探求には興味を示しません。むしろ、そのような領域に踏み込むことは価値の強要になり自律性を損ねるというのです。また、いかなる道徳的命令にも屈する理由も持ち合わせません。自律的に納得したのでない限り、自分の属する国、地域、民族、コミュニティが自分に課すいかなる義務も原則的に負う義務はないのだと信じています。人格には、性別、人種別、国別の差異を超えた何か特別なものがあるとも思っているのです。しかし、そのような個と自由の神聖さが、社会的に守られねばならない最低限の枠組とはいかなるものでしょうか。ここに、ロールズの卓抜さがあるのです。ロールズは、自分の社会的地位や富などを捨象した「無知のヴェール」を被った人間を想定して、彼にある選択を行なわせます。彼の前には三つのポッドが置かれていて、一つには、−7,8,12 の三枚のカードが、次の一つには −8,7,14 の三枚のカードが、そして最後のポッドには 5,6,8 の三枚のカードが入っています。彼は、この三つのポッドのうちのどれか一つのポッドを選んで目をつむって一枚カードを取ることができるのですが、彼は果たしてどのポッドを選ぶでしょうか。このゲームは、いくつかの状況を想定することができます。何か仕事を始めるとき、100ドル単位で彼が最初に所有する自己資金としてもよいでしょう。最初のポッドを選んだ人間は、700ドルの負債からスタートするか、あるいは800ドルか1200ドルの資金かを賭けることができます。もしくは、このゲームを彼に与えられる生得の状況と考えることもできるでしょう。二つ目のポッドを選んだ人間は、極貧の家庭に生まれるか、中流の上の家庭か、極めて裕福で権力のある家庭かを選ぶことを選択したわけです。ロールズはいずれにせよ多くの人間は最後の ポッドを選ぶだろうと言っています。各人は、いずれが自分の利益になるかわからない「無知のヴェール」で覆われている原初状態では、ありうる最悪の事態を避けるような選択を行うというのです。この予測はロールズの持つ特定の人間観によってバイアスがかけられているという批判がありますが、「無知のヴェール」という条件を考えれば十分納得できる仮定と言えましょう。

ここから有名なロールズの「格差原理」、つまり社会的、経済的不平等はもっとも恵まれていない人びとの最大の利益になるよう配置されるべきである、が生まれてきます。彼はこれを、各自が追求する「善」に先立って立てられる第一の徳性であり、正義の原理の一つであると言明したのです。まことに立派な考えであり、ロールズが出てくるまでは分析哲学によるメタ倫理が支配的であった倫理思想の分野に爽快な衝撃を与えたものでした。

さて、ここでコミュニタリアリズムの登場です。ロールズらリバタリアンたちは、ホッブズの原子論的個人を継承して、他律による道徳を拒否して、最低限の正義や平等の原理を第一義と考えました。しかし、そのようにはじめから善の問題を回避することは人間には不可能である、とコミュニタリアンたちは考えます。リバタリアンたちの「個」は実際には存在せず、現実に在るのはある言語共同体に属し、その共同体から何らかの負荷を受けている諸個人であり、そのような共同体に属する諸個人が考える「善」があるとしたら、それは相対的だから意味がないとはいえず、十分合理的とみなす根拠があるというのです。むしろ、共同体の中で、その共同社会の討議を通じて、人は個人によっては思いもつかなかった「真理」に到達できるかもしれません。

こうして、倫理と政治は再びギリシアのアゴラ(広場)に立ち戻ったような気がします。マイケル・サンデルが、集団対話形式の授業で現実の正義の問題を俎上にのせるのも、そのような形式でこそ真理に接近できるという信念からかも知れません。これは、哲学とは善き生についての教えに他ならぬというプラトン、アリストテレスの伝統への回帰です。欲望の合理的追求こそ幸福の道である原子論的個人主義の考えから決別して、また幸福であることこそ道徳であるという功利主義の考えからも離れて、ここではアリストテレスがその師プラトンについて言ったように、正しくあることと幸福であることはただ同時的にのみ可能である、という信念が隠されているのです。

宇宙の中を原子が飛び回っているように、ホッブズは人間は欲望というエネルギーで飛び回る個体と考えました。これが科学主義、議会主義、資本主義の原点であり推進力になったことは間違いありません。道徳的問題を相対的とみなす考えは現実の体制の肯定につながり、人間をもっとも原始的な欲望の塊とする思考は現代の大衆主義、愚昧主義に連なっています。しかし、善き生についての探究は、それがどれほど状況に迫られたものであっても、行きつくところは宗教であり、また芸術であるでしょう。また、コミュニタリアンの語る共同体のイメージは、あまりに多彩で要約し難い。それが厳密に哲学であるのなら、状況から生み出される善は、相応しい普遍性を持ち得ないでしょう。普遍性を内包しないものは、けっきょくすべては出鱈目かもしれないのです。私自身は政治哲学ではホッブズ、カント、ロールズの側に組みしたいが、メーストルやシュミット、レオ・シュトラウスにも敬意を払いたい。また、アーレントの記述にも看過できない、というより重要な真理が隠されていると思います。彼女は、人が政治の場に入っていく時、背中からある別の人格が現れてくる、というようなことを書いています。人間が人間であるための必要不可欠なものが政治的場で立ち現れてくるのです。ここに、私的生活(プライヴァシー)とは何かが欠如 privatizeした生活であるという彼女の有名な議論の根拠があります。

行き着くところが再び終わることのない論争の世界なら、それをまず根底から考えていく力が必要でしょう。功利主義に対するロマン主義的反対の風潮にはなびかずに、ヘーゲルは、あまりに素朴な私たちの意識から出発して、法と国家に至る厳密な哲学的諸段階を記述する試みを開始しました。 『精神現象学』から『法の哲学』までに展開される壮大な道筋は一人の人間が、また再び自分自身に帰ってくる長い散歩に他なりません。
断続的になると思いますが次回よりヘーゲルについて書き進めていこうと思います。

| | コメント (2)

2011年6月18日 (土)

眼前のボブスレー

 エルンスト・ブロッホの『異化』のなかに「眼前のボブスレー」という題の章があります。絵入り新聞に掲載された一枚のその写真には、コースを外れかけたボブスレーと、それを柵のところで見ている観客が写っています。疾走するボブスレーはコースの中心を外れ、すでにコースの縁に向かって突進しています。だが、その写真の中の観衆は、まったく落ち着いて、自分たちの目の前で起こっていることを何の不安もなく、くつろいで見ています。中年の婦人、子供、タバコをくわえた男、カメラは急行列車のように飛んでくるボブスレーと、この直後に死傷する人々の何の予感も持たぬ様子を、破局の20分の1秒前に正確に捉えているのです。「死産児がアルコールづけにされて、腐敗からまぬがれるように、ここでは死の瞬間が、乾板に焼き付けられて、時の流れの中から取り出されたのだ。」観衆は、あい変らず、安心しきっており、身を守るそぶりすら見せません。「この写真に見られる観衆は、一切の予感を欠いている点において、荒々しく破滅していく影のようなボブスレー選手よりも、ずっと無気味である。」この無気味さは、恐ろしい未来が、いつの間にか、そっと戸口に立っている無気味さなのです。「だから、この写真は人間生活を比類なきまでに凝縮しているのだ。、、、次の瞬間を超えて見ることはできない、ただ考えることができるだけだ、と」

 私には、今福島で起きていることと、それを「見ている」日本人のことを考えると、このボブスレーの比喩が頭に浮かびます。無気味なのは、今も超高温を保って生き物のように呼吸している燃料棒なのではない、それを取り巻く人間たちであると。福島第一原発の1~3号機はすでにメルトダウンして手の施しようがなく、後は本でしか読んだことのない世界、考えることはできるが現在の瞬間を超えて見ることのできない世界です。地下水の汚染は? 海水の汚染による魚介類の被爆は? そしてまだ落ち着いていない3号機の再臨界の可能性は? さらに4号機は使用済み燃料棒のむき出しになったプールが決定的な爆発を引き起こすかもしれません。すでにこれまでの爆発によって燃料そのものが飛散しているのは確実ですが、そうでなくとも長期的なだだ漏れによって、どれほどの癌患者が出現するか想像するだに恐ろしいことです。未来は予見できないが、すでにその戸口に立っていて、私たちが振り向くのを待っているかのようです。

 前回の記事で、私は「最悪の一歩手前」という言葉を使いました。福島でなく浜岡だったら、あるいは制御棒が入らずに原発が停止しなかったら、そのような致命的なことを外れて何とか首の皮一枚つながったのが今の状況でしょう。そして、そのスリリングな体験(今も続いている)は代償として、電力会社をめぐる政治と大学とマス・メディアの関係を白日のもとにさらしたのです。彼らが、原発の利権にどれほど群がり、どれほどしゃぶりつくしたか信じられないほどです。ここで、私たちのために(私は自分と自分の愛するものたちが放射能や疫病の恐怖や不当な差別や迫害にあうことだけを恐れるのですが)、あるいは将来の私たちに繋がる人間のために、何かあることをなし得るとしたら、それは日本の社会構造を根底から見直していく以外にないのではないでしょうか。それが、「最悪の一歩手前」まで行った恐怖と引き換えに私たちが手にできるかもしれない代償なのです。

 ところが、事ここに至っても、100日も経たないうちに、またぞろ、黒板を裏返してまっさらから始めるように、ほとんど何も変わらずにすべては動き始めているのです。福島の美しく豊かな国土を向こう半世紀にわたって不毛の地にし、基準値を上げてまで福島の子供たちを被爆させて、いったいこの国の政府は何を守ろうとしているのでしょうか。いや、守ろうとするものなぞ何もなかったのです。たとえ、国土と国民の半分を失ったとしても、(他国によって侵略されたとしても)、彼らは自分の権益が保てればそれでよしとするのです。なんという脆い国家、なんという政治の堕落でしょう。思えば戦後70年近く、この国は偽りの体制のまま生きて来ました。与えられた民主主義は借り物であり、それも背丈を急ごしらえで詰め直した安物にすぎません。民主主義が普通に機能するためには、その国なりの個人主義の浸透が必要です。西欧にはギリシア以来、個人主義の伝統があり、自分の運命は自分で考えて決定しうるという前提の下で、一票が相応の重みを持つ民主主義の基礎が打ち立てられていました。ロックやホッブズ、バークやトックヴィル、バンジャマン・コンスタンやド・メーストルまで、彼らの議論の中心は、この考え決定する個人というものをいかに共同体が手なずけるかに置かれていたのです。ところで、日本にはもちろん、それを根底から考えつくした歴史もなく、天下り的に与えられた民主主義は、ただ教科書を通してのみ理解しうるものでした。そして、議事堂に集まった代議士や、地方議会の議員や各自治体の長の顔を見れば、この国で民主主義がどのように機能しているかわかるというものです。

 実は、戦後を実質支配したアメリカと、その後の保守政権と、それを批判してきた左派連中の共通の思惑はなんと国民の愚昧化政策だったのです。戦争の惨禍と敗北の無力感は日本を精神的にも荒廃させました。ちょうど倒産しかかった会社の備品を社員が我先に掠め取っていくように、この思考停止の状態の国民、勤勉で協調性に優れあきらめの早い国民を奴隷のごとく利用しようとしたのです。こうして、土地、交通、放送、通信から駅前のパチンコ屋に至るまで、明確な根拠のない利権の巨大構造が生まれたのですが、その最終形態ともいえるものが原発をめぐる利権構造に他なりません。これがどれほど根深いものかは、まだ福島の収束も見えていないのに原発存続の声が利権確保の踏み絵のように鳴り始めていることからもわかるでしょう。

 これらのことを書き続けたら切がありません。すべてを端折って、今後の寄るべき指針を簡単に書いてみましょう。むろん、それは国民一人一人が自分の利益について賢くなって行くことです。生活の苦しさや悩みから宗教や賭け事に走るのではなく(フランスではカルト宗教が、韓国ではパチンコが禁止されました。なぜ日本でもできないと言えるでしょうか)、自分の力で何が変えられるか考えてみるのです。そんなことは不可能? いや仮借ない教育者アランが言っているごとく、一人一人が勇気を持って考え始めれば、国民全体が向上することも夢ではないのです。夢ではないどころか、もし、そうしなければ、日本は早晩衰退し、国としては破産していくでしょう。「ニネヴェやバビロンは美しい名だ、しかし、その名も存在も、その国家の完全な消滅と同じく我々には無意味だ、フランス、ドイツ、ロシアも美しい名だ、、、民族もまた人間の固体と同じく衰退し消滅する、、」ヴァレリー『精神の危機』の不確かな引用ですが、比喩ではなく、日本という国が亡くなってもおかしくはありません。イギリスの主力艦隊を撃沈させ、世界最強のアメリカ太平洋艦隊を壊滅の瀬戸際まで追い込んだ国が、そのアメリカによって骨抜きにされ、ハゲタカのような連中に貪られ、政治的無気力と生きる虚しさで喘いでいるのです。平和憲法? 自ら勝ち取った憲法でなければ何の意味もありませんし、抗戦すら拒否する憲法なぞ常識的な頭脳には考えられないことです。国土と国民を自分で守れないのなら、ユダヤ人のように世界を彷徨ったほうがましでしょう。日米安保? 同じ人類に向かって二度も核爆弾を落としたような国を心底信ずることなどできようがありません。公式的な謝罪もなく、原爆投下の正当性を主張し続けている国は、同じことを将来再び繰り返すと考えるほうが自然でしょう。

 被災地の苦しみも忘れてはならないことです。特に、老人の(ほとんどは病気を抱えている)避難所生活や、漁業・農業の破産的損害、その他数知れぬ人々の苦しみの総量はどれだけになるでしょうか。「いくつもの悲惨を目の当たりにしながら、幸せでいられることには一種の羞じらいがある」(ラ・ブリュイエール)、しかし、首都圏もまた、緩慢な「責苦の庭」になりつつあるのです。妻は、「なんで、こうなったのか?」という言いようのない怒りに常にとらわれているようなのですが、東電に対する怒り、政治に対する絶望、日本という国に対する不信感でしょうか。妻は、故郷の四国に帰りたいが、身軽な貧乏人の身とはいえ、IT関連の仕事では首都圏を離れるわけにもいきません。毎日飲んでいた牛乳も飲まなくなり、乳製品はもう外国産しか買いません。東北・関東の野菜などもってのほかです。卵は四国・九州産を捜し求めて買い、水はむろんミネラルウォーター。保存食料を少しずつ買い集め、原発が異変したときに備えて首都圏脱出の準備もしています。妻と比べると、私ははるかにのんびりしていますが、というより、最近私は、自分を覚醒させてくれたこの悲劇をある感慨を持って見つめているのです。「目の中の塵は最良の拡大鏡」(アドルノ)、まさに傷ついた心は、その崩れかかった窓を通して、見えなかった真実の風景を見るのです。原発がこれほど脆いものだったとは、そもそも福島原発のことなど震災が起こるまで考えたことなどありませんでした。いわゆる「原子力村」というマフィアのような強固な仲間意識、マス・メディアの堕落と報道の無力さ、エネルギー問題に隠された大きな欺瞞など、薄々は感じていたもののこれほどひどいとは思いませんでした。しかし、それよりも、何事もない日常にぬるま湯のように浸かっていた自分の浅はかさに忸怩たる思いでいっぱいです。戦争を経験せずに平穏に人生が終わると思っていたものの、この震災により、不確定な未来、可能なことは何でも起こりうること、今日と同じ明日が来る保証は全くないことを実感として知らされました。戦前・戦中の文学者たちの日記に見られる不安のいくばくかもわかるような感じさえします。スタンダールは、セヴィニュ夫人の文章に触れて、彼女の時代には、居間に突然負傷した兵士が運び込まれて来ることが決して珍しくなかった、そのような時代の雰囲気が彼女の文章にある緊張感を与えている、と書いています。現在までを長い戦後とするなら、再び日本は苦渋の時代に入ったと思うべきでしょう。長い長い執行猶予の時を終えて、苦難の続くのっぴきならぬ時代に、、、ともかく、私はまた再び読書を再開していこうと思います。その読書はむろん喜びばかりでなく生死の綱の上を揺れながら渡っていくものになっていくはずですが。

 

| | コメント (2)

2011年5月 5日 (木)

最悪の一歩手前

 もう一度、時間を巻き戻して、あの日の前までに戻れたらとよく思います。3月11日の大震災とその後に起こったことは、私のような首都圏の片隅に生きる半端者の生活さえ一変させました。生まれて初めて体験する大きな揺れと、テレビに映し出された津波の恐ろしさ。そして休みなく流れる被災地の人々の痛ましい状況は言葉を失くすほどのものでした。さらに、原発事故の衝撃。情報の不確かさ、対策の不手際がなおさら不安を増幅します。悲しみと怒り、その二つがストレスとなって私の日々の生活をじわじわと締め付けました。

 震災当日、電車がすべて不通のため、妻は都心の勤め先から歩いて帰宅の途につきました。暗くなってようやく妻と携帯がつながり、自転車で迎えに行ったのですが、千葉街道は無言のまま歩いて帰る勤め人でいっぱいでした。エジプト脱出のユダヤ人もかくやと思われる人の列の中に、妻は会社から支給された白いヘルメットを被って、それでも私を見つけて心細い笑顔を見せました。翌12日の土曜日には妻の好きな映画『ナルニア国物語3』を見に行くつもりでインターネットでチケットも買ってあったのですが、もはやそれどころではなく、妻によると、荒川の長い淋しい鉄橋を渡るときに底知れぬ不安のようなものに襲われたとのことです。その不安は翌朝からの原発の報道で現実のものとなりました。煙草の煙や食品添加物などに極度に敏感な妻は、放射能を恐れてただちにバッグに必要なものを詰めて避難の準備を済ませています。私はともかく面倒なことが嫌なので、何もせずにのんびりしていると、妻はいつのまにか私のリュックに私の常備薬や下着や水などを詰めて避難セットを作ってくれていました。どうも妻の故郷の高知に避難したいらしいのです。地方都市は気がすすまないし、仕事もあるし、猫もいるので、自分ひとりで避難したらと言うと、かなりの不満顔です。ネットに張り付いて情報を探っていると、どんどん不安が増幅して行きますが、といって読書する気になれず、外に出るとスーパーの食品売り場は米や水や乾麺や缶詰が空っぽに近い状態です。

 14日の月曜日、仕事に出るために着替えている私を見て、妻がびっくりしています。確かに放射能は怖いが、仕事を休むのも心苦しく、私は自転車で長い時間をかけて職場に出向きました。電車は走っていなかったのに、欠勤はほとんどいないのに驚きました。けっきょく落ち着くまで職場は休みということになって、また自転車で帰ってきましたが、帰り道の寂しさ、店はだいたい閉まり、人通りも絶え、まるで死の街のようです。かろうじて開いていたスーパーで買った海苔巻きを妻と二人で食べましたが、その味気なかったこと。翌朝、三号機の爆発で急激に上がった放射能のグラフを見て妻が悲鳴を上げました。すぐに支度をはじめ、腰の重い私を急かします。妻はトラディショナルな洋服に趣味があり、ネットでイギリスからヴィンテージの服を購入するのが好きでした。その妻が、気に入りの洋服をすべて置き去りにして、ユニクロのジーンズに地味なスゥイング・トップを引っ掛け、ハンチングを被り、大きなマスクをつけています。その決意の並々ならぬところを感じて、さすがの私も高知行きに同意しました。すぐに妻はネットで飛行機のチケットを求めましたが、飼い猫はどうすればよいのでしょうか。妻によれば一緒に連れて行く以外方策はないというのです。それで、キャリアケースに入れて、家を出ましたが、さすがに猫を連れての旅は辛く、私がすぐに帰ってきてしまう一因になりました。

 高知は悪い町ではないし、熊本や鹿児島に劣らない風格もあります。また昼から酔っ払う人間が多いのも好感が持てました。カツオのたたきはおいしいが、武市半平太殉教の地、吉田東洋暗殺の地など歩くと、もう飽きてきます。ルーミー(猫の名)は落ち着かず、見知らぬ人たちの間で熟睡できないので体調が悪そうです。わずか2日で猫を連れて私だけ帰ることにしましたが、妻は別れが悲しいのか泣いています。また、猫を飛行機の貨物室に閉じ込めるのは可哀想なので、270円の猫用の切符を買って電車で帰ることにしました。高知駅は穏やかで暖かい天気のもと、うそのように平和で静かでした。私が新聞や弁当や土産を買って、待合室にもどると、妻が外国からの観光客らしい女性と話をしています。なんとフランスからの観光客で、妻によると、チェルノブイリのときも政府は風がドイツとスペインに流れてフランスには放射能は来ないと嘘を言った、政府の言うことは信用できないと話していたそうです。

 わずか三両の特急「南風12号」で土佐を後にしました。車内は空いていて、猫の籠をすぐそばにおいて、広い窓から見える四国山地と吉野川の流れ、大歩危、小歩危の景観を楽しみました。瀬戸大橋の眺めもすばらしく、岡山からの「のぞみ」もガラ空きで、ルーミーも私の横で落ち着いています。ところが、東京に戻ると雰囲気は一変し、薄暗く、しかも間引き運転の電車は押し合いの混雑です。やっとのことで帰って、猫ともどもホッとしたものの、21日にベントがあって放射能にさらされたのは心外でした。妻もやや落ち着いた頃合を見て、2週間ほどで帰ってきましたが、私は一人で暮らすと酒を飲みすぎて体をこわしてしまうので、妻が傍らにいるとやはり安心です。

 何もかも、ひとつも、まだ終わっていないのは、これが悪夢の始まりにすぎないからでしょうか。原発はメルトダウンしたまま、いわばダモクレスの剣のように私たちの頭上に吊り下がっています。そして、被災地の人々の悲しみは、これからが、積もり来る雪が屋根を押しつぶすように音を立てて身に迫ってくるに違いありません。私自身は、あの日以来、何かが終わったごとく、取り返しのつかないほどの重しが胸の上に居座っているかのようです。想像力をいかに働かせても、これほどの規模の苦しみに達することはありません。家族を失い、家を失い、犬や猫や家畜を失い、農地や漁場を失った人々の空しさをどうしたら想像することができるでしょうか。ましてや突然生命を絶たれた人々の書き残すことさえできなかった慟哭を。昨日、近くのショッピング・センターで、買ってもらったばかりのクマのぬいぐるみを抱いて、無邪気にも楽しそうに飛び回る幼女を見かけました。そのとき、他人の不幸に鈍感な「心なき身」である私にも、津波に抗うこともできず呑まれていった子供たちのことが頭をよぎりました。一瞬の意識の隙間の中に、行き場のないやりきれなさと悲しみが浸入してくるのです。彼らもまた生きたかったのではないか、なんてことだバカヤローと心の中で叫びながら泥水の底に沈んでいったのではないかと。

 とはいえ、言葉に尽くせない不幸があったにせよ、私はこれが「最悪の一歩手前」のように思われてなりません。私は自滅的な人生を送ってきたので、何度も倒れるか、あるいは倒れそうになった経験があります。致命的でないことを祈りながら、もしこの病が治ればもっと健康な生き方をしようと苦しみの中で自分に誓うのが常でした。そして、また倒れるのが怖いので、生活習慣を少しずつ改善しながら、かろうじて現在まで生きながらえてきたのですが、今回の震災とそれに続いた原発の事故も、日本という国に与えられた致命に至らない警告ととらえるべきではないでしょうか。

 むろん、問題は福島の原子力発電所です。至近距離で並ぶ4基がすべて各様に破損しており、そのうち3基が爆発して、残り一基はさらに危険であるという現実は、人類が経験もしていない状況です。集積された膨大な核燃料が今も不安定なままであることは地球規模の災厄さえ引き起こしかねません。冷却システムが回復しない限り、突発的に何が起ころうか神のみぞ知ると言ってよいでしょう。1942年、五千人の学生が行き交うシカゴ大学の構内で、エンリコ・フェルミが、史上初めて持続的核分裂の実験を行ったとき、開始後わずか430秒で爆発寸前の状態になり、フェルミがグラファイトの制御棒(彼自身が考案した)を差し込んで事なきを得たのですが、数秒でも遅れれば実験室の全員が死亡し、大学周辺が回復不能なまでに汚染されていたでしょう。フェルミは、その後何もなかったように家に帰り、その日の出来事は妻にも話しませんでした(彼は53歳でガンで死亡します)。このように原子力の利用は、どんなに核物理学のエキスパートであっても、予測不能な一触即発の危機に常にさらされていることを銘記しなければなりません。

 今回の危機によって、主に二つのことが露わにされて、いわば日本の癌ともいえるものが露呈されたと私は思います。まず一つは、電力行政に関する国民収奪の図式です。そして、これはすべての日本の行政構造における官民癒着と産学癒着の典型として語られうるし、その象徴として原子力発電所が存在するのです。原発の必要性は、日本においては、経済的利害よりも利権を生む温床であったということはすでに周知の事実でしょう。地震大国であり、逃げ場のない狭い国土に、54基もの原発を建設する愚挙は、少数の人々以外には不安と危険と電気料金の高さ(フランスの約2倍です)しかもたらしませんでした。反社会的な絵図が巧妙な悪人によって描かれ、心弱い人間を金の魔力で籠絡していくという構図は許しがたいが、それを日常の風景とし、地方にあってはそれが「政治」そのものとなり、大学においては出世とポストの利権にもなるのです。政治の根本的病弊は地方にこそあるのですが、根強く、また根深く張りめぐらされた利権構造の網は、戦後60年の間に地方都市の景観を一様に低俗なものに変えてきました。公共事業の無駄遣い、天下り、公務員天国、、、自民党が戦後に営々と築いてきたものは戦前と変わらぬ図式、かつて威張っていた軍人が土建屋の地方ボスに顔と外貌を変えたにすぎません。私は、社会保険庁による年金問題が発覚したとき、この国の政治に深い絶望感を抱きました。いや、それもまた氷山の一角にすぎないことではあるのですが。

 もう一つは、ジャーナリズムとそれが抱える左翼的体質です。誰かジャーナリストの人間学、あるいは左翼的人種の人間学というものを深く研究してみる人はいないでしょうか。時の権力をうかがい、その弱点を暴き、執拗に攻撃する心情の裏には人並みはずれた権力志向が潜んでいます。社会の木鐸をうたい、正義と公正を主張する言葉の裏には、権力に寄り添い、そのおこぼれにあずかり、あわよくば権力そのものを手中にしようという魂胆が見え透いています。日中戦争そして太平洋戦争最大の反国民的犯罪者はジャーナリズムそのものだったのではないでしょうか。彼らは日本国民の優しさ、寛容さにつけ入って、いつの時代も蛇のように身を隠して窺いながら、おいしいところを食いちぎってきたのです。どこの国民が、大本営発表を率先して放送してきた放送局を、あるいは嘘の戦果を誇張し、真実をこれほどまで歪曲して報道してきた新聞を、騙された後もなお聴き、読むことができたでしょうか。真摯な反省もないまま、しかも巧妙に被害者を装って、東京放送は日本放送協会と名を変え、三大新聞はなんと名もそのままに戦後を謳歌してきました。「反省もないまま」と書きましたが、自分を決して公平に検証しないのはジャーナリズムに共通の特質です。原発に関しては膨大な工作費が、しかも効率よくマス・メディアの要所に組織的に投下されて、反原発の世論を封じ込めてきましたが、これほど籠絡しやすい相手、というよりこれほど分け前を要求して涎をたらすハイエナのごとき人種には電力会社も驚いたことでしょう。

  そしてこのような体質を根に持つ人間たちが政権をとれば、まず最悪の政府になるに違いありません。自分は正しいに決まっているのですから、公正な批判には耳を貸さず、自己正当化のためには策謀や隠蔽などお手のものです。公害や環境汚染や宗教弾圧や人権無視は、旧ソ連や中国の社会主義政権でもっとも深刻な様相を呈しました。権力こそが目標であり、敵の殲滅だけが日々のパンである彼らには、そもそも国民の安全を守るなどと一秒たりとも考えたことはないでしょう。先に、このような人間の人間学というものを提唱しましたが、それに資するかもしれない思想も現れてはいます。埴谷雄高は『幻視のなかの政治』で、スターリニズムの特質を「奴は敵だ、敵を殺せ」という簡明な一句に凝縮しましたが、さらにカール・シュミットはさかのぼって、マルクスの政治思想のなかにその決定的単純化のごまかしを指摘しています。ブルジョワは当時すでに否定的な言葉だったし、資本主義もすでにその弊害への警鐘は出尽くしていた、しかしマルクスの天才はあらゆる社会的対立や矛盾を一つのきわめて単純かつ簡素な対立、ブルジョワとプロレタリアートに凝縮したことであったと。他の差異はいっさい捨象することで、この二つの対立のみが真に世界史的な必然的なものに高められた、と。ここには、多様性こそもっとも大事なものであるという考えが決定的に欠けています。

 思えば、太平洋戦争の辛い経験も、この日本にはいかなる教訓としても生かされることはありませんでした。責任をなすりつけられたのは、大日本帝国主義という理念であり、それを担ってきた人間どもは、神輿を変えただけで、また無責任な平和と自由と民主主義というお題目を唱えてきたのです。彼らの目指すのは国民の愚昧化にほかならないことは、日々のテレビ番組の救いの無さを見ればよくわかるでしょう。いかなるサブカル礼賛者といえども、これほどのマス・メディアの蒙昧主義を見て、何か言うべき言葉があるでしょうか。

 ついでながら計画停電について一言。私の子供時代はよく停電があって、ローソクや懐中電灯を身近なところに常に置いておいたものです。しかし、今の時代に頻繁に不定期に停電させるというのは産業社会の自死に等しいと言うべきでしょう。国民に安定的電力を供給することは民主主義国家の政府の責務といえるのですが、おそらくこの計画停電は政府の統制的性格と、東電の思い上がりが奇妙に同調して生まれたものではないでしょうか。電気のありがたさを実感させたいという東電の思惑とは反対に、私には電気がいかに無駄に使われているか、そして節電は十分に可能であることを知るよい機会となりました。節電といってもコンセントを抜いておくとかのちまちましたものではありません。私の父は(ずっと昔に死にましたが)大手の石鹸会社の技術者でしたが、常々、個人レベルの水や電気の節約は意味のないことだと言っていました。企業など大口の消費者は安い電気や水をそれこそ湯水のように使うのです。辺りを見回せば、今まで気づかなかった多くの無駄があることを発見します。それらを調整し、ある時は英断を持って規制するのが行政権力の使い道というものでしょう。(今の民主党政権には実効的な政策など望むべくもありませんが)。

  ちなみに、58基を有する世界二位の原発大国であるフランスを見てみましょう。原発は国土のほぼ均等に分布し、総電力の80%を供給し、国内電力消費量の低下もあってフランスは電力輸出国にもなっています。合理的なフランス人がこれほど危険な原発になぜのめりこんでいったか。主要な理由はむろん、アラブの石油に依存することの危険性、独立を好む国民性の表れでしょうが、私は「文明」に対するフランス人の意識によるところ大きいと思います。クルティウスによれば、フランスは、我こそ文明の先駆者であると自覚し、文明こそフランスの国民観念の守護神であり、全人類の連帯性の保証であるというのです。絶えざる進歩と改良によって、人間を「文明的人間」に仕上げていくことこそがフランスの使命であるというのです。芸術はイタリアに、政治はイギリスに先んじられたが、そのようなものもフランスというフィルターを通ってはじめて決定的形態をとるのです。ドイツは文明よりも文化を上位に置きますが、ドイツ人の考える文明には科学技術しか入っていません。ところが、フランス人の考える文明は科学も哲学も芸術も含めたすべて、人間が野蛮から脱け出せるすべての手段を指すのです。この「プロメテウス的使命」は、コンコルドの開発、TVA(高速鉄道網)の展開、遺伝子の解析、などの他に死刑制度への反対も含まれています。国民投票では過半数が死刑の廃止に反対したが、政府は敢えてその提案を通しました(現在では、死刑廃止はEU加盟の条件のひとつです)。人間が文明を発展させる限り、そうあるべきであり、そうあらねばならないからに他なりません。このような考えが、原発に対する取組みにも表れています。フランスは、ベクレル、キュリー以来、核物理学の先端を走ってきました。もっとも強力なエネルギーとしての原子力を克服し、手なずけ、利用するという技術を人間は獲得できるし、そうしなければならない。はじめからそれを放棄することはまったく彼らの考えの外にあるのです。しかし、このような態度も、さすがに福島の事故以来、大きな反省が起こっているようです。将来的には、旧型の多い原発を積年廃止にして、依存度を50%程度に抑えていくのではないでしょうか。

  最後に、やはり、わが国の戦前以来の懸案であった責任の所在という問題に触れないわけにはいきません。いったい誰が責任を取り、誰がその賠償をするのか。誰の責任でもない、誰も責任を取らない、という無責任の連鎖は、戦争の敗北という大きな試練を経てもなおさら、むしろさらに巧妙に続いてきたといってよいでしょう。制度の問題もあるでしょうが、国民がしぶとく根強く追求し続ける力をつけることに対して、マス・メディアの巧みな(卑劣なともいえる)懐柔策が何度も功を奏しているのです。130人もの赤ん坊を殺した砒素入りミルクの企業がいまなお乳製品を作り続けている社会だからこそ、類似の事件が決して後を絶たないのです。この戦後最大の震災の記憶とその責任を最後まで追求し、悲劇を繰り返さないことこそ重要でしょう。震災当日、気仙沼にいて、その惨状をブログで世界に発信した漫才のサンドイッチマンは、そのブログのコメントでもっとも多かったのは、この惨事を忘れないでくれ、という被災民の叫びだったと言っていました。

 ところで、個人的には、この惨禍を通じて、自分が日本人であることを強く意識するようになりました。この列島に生まれた運命について考えたのです。ある危機感があったのですが、おそらく、日本の何かが失われつつあるような、それは三陸の美しい海辺の風景であるかもしれないし、福島の豊かな農地であるかもしれません、あるいは波ごと消えていった数知れぬコミュニティ、もはや決してもどってこない漁村の人々のつながりの場であるかもしれません。多くの希望のない、空しさに満ちた政治の現実もあるが、それでも日本のエートスともいうべきもの、日本人であることの証しのようなものがまだ毅然と存在するのではないかという思いも頭をよぎりました。私は、もともと、インターナショナルなものを信じられない性格で、エスペラントなどもってのほかです。違う民族が簡単に理解しあえるはずがなく、むしろ、おのれ自身のエートスに深く沈み込むことによって、相互理解の道も開けるというものです。多様性こそ保持すべきものだし、多様性を承認することこそ理解に必要な最低限の保証をあたえてくれるものだと思います。ロックは、地球のすみずみから報告される多様な動植物のめくるめくようなパノラマを神が存在する証拠としていましたが、私は、それこそ神の存在しない証し、おびただしい多様性こそ神を超えた神秘であると思います。SF映画に出てくる異星人は一つの言葉、一つの文明しか持っていないのが普通ですが、それこそ矛盾の最たるもので、ある文明を作り上げるためには無数の違う言葉、違う文化が必要です。神秘という言葉を使いましたが、個人こそまさに神秘そのもの、一人一人はかけがえのない一回性のもので、一人の人間が死ぬとは、その人間が中心であった一つの世界の喪失にほかなりません。民族や国家が一つのエートスを持つのは、個々人の差異が神秘的な形で総合するからです。失うべきでないのは、まさにこのエートスに他なりません。真の日本のエートスとは何か。震災は、普段は隠されていたエートスのいくつかを今日も瓦礫と泥と避難所とそこで頑張る多くの人々の魂の中に垣間見せているのかも知れません。

 

| | コメント (4)

2009年5月17日 (日)

A.W.クロスビー『史上最悪のインフルエンザ』(2)

 スペイン風邪については、いまだ解明されていない(おそらく永遠に解明されない)ことがあまりに多いのですが、その名称の由来すら定かではありません。おそらく、当時は第一次大戦のさなかで、どの国も将兵の罹患者数は軍の機密だったので、大戦不参加国であったスペインのメディアが主にこのインフルエンザのニュースをとりあげたゆえに、その国名が冠されたのだろうと思われます。

犠牲者の数も、4000万人というのはきわめて大雑把です。比較的正確な数字が残されているアメリカの場合について見てみましょう。まず、どれだけの人間が罹ったのか? アメリカ公衆衛生局は1919年、国内11の都市や町を詳細に調べ上げ、それらの都市ではパンデミックの期間に1000人あたり280人がインフルエンザに罹っていたことを見出しています。もし、合衆国全体がこの比率になっていたとするなら、少なくとも四分の一以上、2500万人あるいはそれ以上がインフルエンザに罹っていたことになります。死者の数はもう少し正確に出て(死というのはたいへん印象的なことなので)アメリカ全体で675000人の死亡者が出ました。罹患した場合の死亡率は2.7%となります。

 

 <スパニッシュ・インフルエンザの特徴>

 第一波(1918年春夏)では比較的軽い症状だったのですが、変異をくり返して後、1918年秋の第二波では最悪の致死性をもったインフルエンザにかわりました。実は、このインフルエンザは例外的な二つの特徴を持っていたのです。ひとつは、インフルエンザにしては致死率が高いことで、わずか数ヶ月でこれほど多くの人命を奪った病気は人類史上類を見ません。致死率の高さは感染力の強さと、肺炎を誘発する割合の高さによります。第二波で凶暴化したインフルエンザ・ウイルスは人の気管に付着するや否や、一気に肺の繊毛をもった粘膜上皮細胞をそっくり刈り取ってしまうのです。呼吸器の最初の防波堤ともいうべき上皮細胞組織が攻撃された後に、肺炎を引き起こす桿菌や球菌がわがもの顔に暴れまわったというわけです。

 

 スパニッシュ・インフルエンザのもうひとつの特徴は、犠牲者が20代で最も多く、次に30代40代が続いて、合衆国の統計では死者の平均年齢は33歳であったということです。普通のインフルエンザの死者は、幼児と高齢者のU字型の年齢分布のグラフを描くのですが、スパニッシュ・インフルエンザは世界のどの地域でも、不気味なW字のグラフとなっています。

 つまり、このインフルエンザは、好んで弱者より強者を冒していったのです。若くて元気溌剌とし、身体的発育も栄養状態も申し分ない人間をとくに狙って襲っていたのです。死ぬどころか、カゼひとつ引いたことのないような青年ほど確実に罹り、そして死んでいきました。詩人で医師であったウィリアム・カルロス・ウィリアムズは「彼らは、たった一日で病気になり、そのままつぎの段階に進み、生きているだけで目いっぱいの状態になり、死んでいった」と書いています。作家でフランス遠征軍に加わったジョン・ドス・パソスは『三人の兵隊』の中で、オラフという兵士を登場させています。オラフは片手で180パウンドを持ち上げることができ、マティーニ25杯を飲み干し、たちどころに湖を泳ぎ渡ることのできる男でしたが、フランスへの航海途中でインフルエンザに倒れました。「彼らはアゾレス諸島が見えた頃、オラフの遺体を海に投げ入れた」(ドス・パソス自身もインフルエンザに罹りましたが、病院に行かず、フランスのポン引きから買ったラム酒一本を飲んで治しました。病院に連れて行かれた同僚はみな帰って来なかった、と書いています)

 

 スパニッシュ・インフルエンザは、人生最良の時期にあった人々の、しかもその中でも最高の状態の見本のような人々の命を奪っていきました。この理由については、現在ではサイトカイン・ストーム(免疫過剰反応による多臓器不全)によるものだとされているようです。免疫の過剰反応について説得力ある仮説を立てたのは、1960年にノーベル医学賞を受賞したオーストラリアのマックファーレン・バーネット卿です。彼はつぎのように説明しています。

 子供は、どうしたら立派な大人になれるかを学習するが、これは免疫についてもいえる。おたふくかぜ、はしか、水ぼうそうといった病気は、いわば免疫の学校で、子供はこのような病気を通じて感染症への対処の仕方を学ぶ。そして、ヒトの体は成人に達する頃までにあらゆる感染症を経験し、その免疫を獲得していくのだが、成人になった今では、全身性の傷害ではなく、骨折や靭帯断裂や創傷のような局所性の傷害に強い炎症反応を示すようになる。このことは、地球上に人類が生存してきたほとんどすべての時間を通じて、成人に課せられた役割とも関連している。

 しかし、スパニッシュ・インフルエンザのウイルスのように、瞬間的に気管から肺全体に侵食されるような時には、強い局所性の炎症が強烈な全身性の炎症に燃え上がっていく。肺は多量の滲出液を出し、その液体で自ら溺死することになる。40歳を過ぎる頃から、この極端な炎症反応の能力は減退し、局所的傷害に持ちこたえて生きのびる能力は低下するが、それと引き換えに全身的感染から生きのびる可能性が増してくる。以上のことは、たとえば、はしかや水ぼうそうという病気を成人になってから経験すると重篤化することが多いという事実、あるいはある土地にはじめてある病気がもたらされた時、最初に発症するのはたいてい若年成人である、ということからもわかる。以上がバーネット卿の説明です。

 

 次に、スパニッシュ・インフルエンザが、なぜ第二波において猛毒性のものに変異したかについてのリチャード・E・ショープの研究を紹介しましょう。ブタ・インフルエンザの存在は、1918年までまったく知られていませんでした。ブタのインフルエンザの存在をはじめて指摘したのは、連邦家畜産業局のJS・コーエンでしたが、このことは養豚業者や精肉業者の反発を買ったのです。1928年、コーエンと同じアイオワ出身のショープがふたたびコーエンの研究をとりあげました。アイオワは他州の2倍以上のブタを有し、毎年伝染病で多量のブタが死んでいます。ショープは死んだブタを集め、そこから肺炎を引き起こすファイファー桿菌を分離しました。ところが、その桿菌を他のブタに寄生させてもインフルエンザは発生しなかったのです。次にショープは、病気のブタの組織をろ過して、そのろ液を健康なブタに接種してみると軽いインフルエンザの症状が見られました。これこそインフルエンザ・ウイルスで、ショープはブタ・インフルエンザがウイルスによって引き起こされることを証明したのです。さらに、彼はファイファー桿菌とインフルエンザ・ウイルスを同時に接種すると、ついにそのブタは典型的なインフルエンザの症状を呈し、病気になったのです。

 重篤なインフルエンザがインフルエンザ・ウイルスとファイファー桿菌によって引き起こされることがわかったとして、次の事実はまだ謎でした。つまり、ヒトのインフルエンザは、カレンダー通りとはいかず、いつでも始まりうるのに、ブタのインフルエンザはきまって秋に起こることです。さらに、ヒトのインフルエンザはほぼ同心円状に拡大していくのに、ブタの場合はある地域全域で同時に大量に発生するのです。

 ショープは、20年の歳月をかけた研究で次のような理論を打ち立てました。ウイルスは自分にぴったりの宿主細胞を見つけると、外套を脱ぎ捨て自らの遺伝子である核酸を細胞の中に注入する。そしてそこで何かを待ちながらかなりの期間(数週間、数年間、ことによると永遠に)宿主に何のトラブルも起こさずにじっとしている。ブタにとりついたウイルスは、しばしばファイファー桿菌と同宿するが何らかの刺激を受けるまでは宿主細胞を破壊することはない。ショープは、健康なブタにウイルスとファイファー桿菌を接種したのちに冷たい水を浴びせました。その結果、何頭かが典型的インフルエンザ症状を呈しました。冷たい水は、アイオワの秋の寒く湿った気候に相当し、この環境操作でインフルエンザ発生のスイッチが入ったのです。

 このショープの説は、ブタ・インフルエンザのすべての謎を説明するものでした。ブタ・インフルエンザの流行が秋と冬だけに起こるのはその気候が引金になっているからで、また流行が中西部一帯で爆発的に起こるのは、この病気がブタからブタに漸次広がっていく必要がないからです。ウイルスはすでにブタの中で潜伏状態にあり、あとは単にそれを活性化する刺激を必要とするだけだったのです。

 このことからショープは、スパニッシュ・インフルエンザの第一波と第二波の違いを以下のように説明しました。すなわち、第一波においては単にインフルエンザ・ウイルスの種まきがなされただけであり、次に秋になり、涼しい気候とファイファー桿菌の蔓延が引金となってあのようなパンデミックを起こしたのである、と。むろん、この説も決定的な真実とはいえず、多くの反論を受けています。

 

 <忘れられたパンデミック>

クロスビーのこの本の原題はAmerica’s Forgotten Pandemic で、実は著者の主眼もここにあるのです。

アメリカにおいて、20世紀のすべての戦争の犠牲者よりも多くの死者を、たった一年で出したスパニッシュ・インフルエンザ、しかし、その最悪の日々が過ぎ去ってしまうと、アメリカ国民は急速にそれを忘れていきました。いや、過ぎ去ってからでもなく、その最中においてさえも、インフルエンザがアメリカの最高の恐怖として恐れられてはいなかったのです。そして、信じられないことに、アーサー・シュレジンジャー・ジュニアやリチャード・ホフシュテッターやサミュエル・エリオット・モリソン等といった歴史家の米国史のなかにそのインフルエンザについての記述を探しても、ただベイリーの『The American Pageant』のなかのわずか一文しかない、という有様です。

 

この理由はいくつか考えられます。

まず、一番大きな理由は、時期として、第一次大戦の末期とすっかり重なってしまったことです。しかも、犠牲者の多くが、戦争の死者とほぼ同じ年齢であったことが、このパンデミックを戦争の一部として見させる一助ともなっているのです。(インフルエンザの流行が、部隊の激しい移動によって助成されたこともむろんあります)。戦争中は死そのものが日常のこととなっているので、伝染病の死もそれほどのインパクトを残さなかった、という説もあります。

もう一つの理由は、この病気の狡猾な性質そのものにあります。すばやく来て、それと知らずに去っていく、死者だけ残して、という筋書きはあまり劇的とはいえません。家族や友人がともにその闘病を何年も見守る苦悩の時期さえ、この病気は与えてくれないのです。また、このインフルエンザが、もし、一命をとりとめた人間に、疱瘡やポリオのような目に見える瘢痕を残すことがあれば、社会はその苦悩をいつまでも目に焼き付けずにはおかないでしょう。しかし、死ななかった人間は、カゼが治ったぐらいの後味しか残らないのです。そしてそれは、病気にたいする私たちの偏見にも多く由来しています。めったに罹らないが、感染すれば死の危険の強い狂犬病のような伝染病と、多くの人が罹るが、めったに死なないインフルエンザと、どちらが私たちに恐怖を起こさせるでしょうか。それは前者であり、スーザン・ソンタグが書いていたように、必ず死に至る病気は何か恐れ多いものを感じさせるのです。

 

このことは、文学作品に、スパニッシュ・インフルエンザがほとんど現れない、という事実を説明してくれるでしょう。それは、劇的で苦悩に満ちた人生の一こまにしてはあまりにあっけなさすぎるのです。1918年当時もっとも感受性豊かであったはずの「失われた世代」の作家たちを見てみましょう。(この命名者であるガートルード・スタインも、このパンデミックのとき、フランスで救急車の運転手として働いていました)

自らを時代の記録者とみなしたフィッツジェラルドも、自らの部隊の四分の一が感染したフォークナーも、看護婦の恋人がインフルエンザとの闘いのため彼を捨てていったヘミングウェイも、自らの作品にはほとんどまったくこの病気のことを書いていません。

 

しかし、忘れていたのは社会という巨大な織物であって、個人のレベルではこのパンデミックは決して忘れることのできない痕跡を残したはずです。当時の無名の人たちの手紙や日記、権力の側にいなかった人たちの自伝の中には、亡くした家族への思い、パンデミックを生き抜いた悲痛な思いが現れている、とクロスビーは書いています。その後の人生を全く狂わせられた無数の人々の苦悩については想像するしかありません。

メアリー・マッカーシーは、その当時六歳だったのですが、一家でミネアポリスへの旅に出るため汽車に乗った時、家族全員(両親、兄弟たちも)がインフルエンザに罹っていました。そして一週間後に両親が亡くなったのです。もし、そのとき両親が死ななかったら、おそらく彼女は典型的なカトリックの中流家庭の中で心地よい子供時代を過ごし、誰もが予想するような人生を送ったかもしれません。「私には、アイルランド系の弁護士と結婚して、ゴルフやトランプに興じ、時々家に引きこもったり、カトリックブッククラブの購読者になったりする自分が手に取るようにわかるのです」(『Memories of a Catholic Girlhood』)しかし、彼女は作家になり、辛らつな社会批評家となったのです、、、。

 

アメリカ文学で、インフルエンザが大きな痕跡を残した例をクロスビーは二つ挙げています。一つはトマス・ウルフがその『天使よ故郷を見よ』で描いた最愛の兄、ベンジャミン・ハリソン・ウルフの死でした。トマス・ウルフがノース・カロライナ大学の学生だった頃、兄のベンはスパニッシュ・インフルエンザで倒れ、急いで帰郷したトマスに看取られて亡くなりました。トマス・ウルフは、愛する者がもうこの世にはいないという事実、この宇宙のすべての力を持ってしても彼を生き返らせることはできない、という事実を受け入れる瞬間を感動的に描いています。

「しかし息をこらした家族の間に、驚嘆の思いが募っていった。彼らは風のように来て風のように去った淋しいベンの生涯を、忘れていたくさぐさの振舞いや瞬間を、今更のように思い出したーそしてどこかこの世のものならぬ奇妙さが、終始ベンにまといついていたことを思い浮かべた。ベンがこの家の生活を影法師のようにすりぬけて歩いていたのは、この瞬間の予兆だったのだろうかーなきがらを見てひしひしとそれを感ずると、忘れていた呪文を思い起こす人のように、あるいは神を永久に失うということを初めて理解した人々のように、彼らは血の気の失せ切ったベンをながめた」

 

もう一人は、キャサリン・アン・ポーターです。1918年の秋、彼女は、コロラドのロッキー・マウンテン・ニューズ社で新聞記者として働いている時にインフルエンザに罹りました。当時の恋人であった若い陸軍の工兵少尉は病院に彼女を置いたまま、泣く泣く任地へと赴きます。彼女は、高熱のため頭髪は真っ白になって抜け落ち、その死はもはや時間の問題と思われ、新聞社は死亡記事を準備していました。しかし、彼女は奇跡的に回復し、たまった手紙類に目を通せるほど意識がはっきりしてきた時、その中に恋人の友人からの手紙で、彼女の少尉が兵営でインフルエンザで亡くなったことを知るのです。「パンデミックは私の人生を、何のためらいもなく、あのように真っ二つにしてしまった」と彼女は後に書いています。

キャサリン・アン・ポーターにとって、この経験はあまりに強く刻み込まれたので、長い間、彼女はそれを語ることさえできませんでした。彼女が経験した死の淵での長い語らいの記憶、失われた幸福な日々の約束は、20年間彼女の心の中でゆっくりと醸成され、20世紀アメリカ最高の短編の一つとされる『幻の馬 幻の騎手』(Pale Horse, Pale Rider 1939)となって結実するのです。

物語は、彼女の分身であるミランダという娘の目を通して、ひたすら主観的に描かれます。明るい日差しの下での恋人との語らい、戦時公債のキャンペーンの執拗さと、ひっきりなしに行きかう葬儀の車、ボストンで細菌がまかれたという噂、ドイツ軍への際限ない憎しみ、インフルエンザの始まりである頭痛と吐き気、しかし、それらはすべて現実の世界からすこしずれた夢のようなただミランダの意識の反映として叙述されていきます。そして、このスタイルがこの作品を深い文学の秘密の中へ引き寄せていくのです。なぜなら、死は徹底的に個人的なことであり、死の悲しみとはすべての人間関係から切り離される悲しみに他ならないからです。生のいちばん底まで降りていって、死の淵を巡って、ただ一粒の命の熱い微粒子になり、はじめてミランダは自分を取り巻いていた世界の深奥に触れるのです。「アダム」と死から蘇った彼女は亡くなった恋人の名を呼びます。「あなたはもう死ぬ必要がなくなったわ」と。その瞬間、すべては止まり、空しさと生への希望だけが残ります。この物語の最後の文章は、忘れられた疫病とそれによって愛するものを失った人々の決して癒されぬ心への鎮魂となっているのです。

「もはや戦争もなければ疫病もなく、あるのはただ、重砲のなりやんだあとの、茫然とした静寂だけ。鎧戸を下ろしたひっそりした家々と、人気のない通りと、死んでいるような冷たいあしたの光だけだった。今やそこには、あらゆるものにとって時間だけが存在しているようだった」

| | コメント (0)

2009年5月15日 (金)

A.W.クロスビー『史上最悪のインフルエンザ』(1)

 アルフレッド・W・クロスビーの『史上最悪のインフルエンザ』(みすず書房・西村秀一訳 原著は1976年刊)は19181919年に全世界で4000万人近い犠牲者を出したスパニッシュ・インフルエンザ(スペイン風邪)についてのおそらく最良の書物です。ここに報告されているパンデミックの実態は、今なお再現可能であり、事実再現されつつあるかも知れないのです。

 著者は2003年の日本語版に寄せた序文で、ウイルスの危険は1918年以来ますます危険になっており、「人も水鳥もブタも世界中で最大の数を有する中国からは1918年以降インフルエンザの新しい株が数多く出現してきており、また新型肺炎のような、たぶん我々を驚かす知らせがいくつも出番を待っていることだろう」と警告した上で、さらにつぎのように不気味な予言をしています。

 「巨大都市における公衆衛生問題は、このところことさら我々人類の重い負担になってきている。メキシコシティひとつとってみても、公式統計だけで1900万人、実際にはそれ以上が暮らしており、これは見方を変えればノルウェーとスウェーデンとデンマークの人口をすべて合わせたよりもずっと多い数なのである。そのようなメガロポリスは世界各地で急成長を遂げており、そのほとんどは病気をコントロールするために最も効果的な手段をとろうにも明らかに設備と資金が不十分な地域に存在している」

 

 スパニッシュ・インフルエンザの第一波は、1918年の3月にアメリカでひっそりと始まったようです。デトロイトの自動車工場で1000人以上の労働者がインフルエンザに感染しました。ほかに刑務所や新兵のキャンプで小規模のインフルエンザ感染が見られましたが、アメリカはまったく危機感を抱くことはありませんでした。というのも1918年はまさに激動の年だったからです。1月にアメリカ大統領ウィルソンの史上有名な十四か条の演説があり、3月にはボルシェヴィキが電撃的にドイツと和平してしまいます。これにより、第一次大戦からロシアが撤退し、ドイツは全力を西部戦線に差し向けることができるようになりました。こう着状態であった西部戦線のバランスは崩れ、今やドイツの大攻勢が目に見えていました。協商国側はアメリカに火急の援軍を要請し、こうして、大戦末期の半年で160万の米軍兵士が大西洋を渡ることになります。戦時国債のキャンペーンと若い新兵の移動で明け暮れるアメリカ大陸にはインフルエンザの恐怖など感じられなかったわけです。

その後、インフルエンザの第一波はヨーロッパ、アフリカ、アジアをとおり、再びアメリカに戻ってきます。すでにこの春夏の第一波で、スパニッシュ・インフルエンザの主要な特徴の一つ、成人男女に異常に罹患率が高い、という事実が顕著に現れていました。そして、4ヶ月かけて地球を一周したあとでは、このウイルスは変異を繰りかえした挙句、凶暴な肺炎を引き起こしやすい桿菌や球菌というハイエナを引き連れたライオンに変わっていたのです。

 

1918年秋の第二波は、シェラ・レオネのフリータウン、フランスのブレスト、そしてアメリカのボストンで同時に出現しました。フリータウンは西アフリカ最良の港を有し、ヨーロッパ、アフリカ、極東をつなぐ燃料補給基地として知られていました。この港で、英海軍アフリカ号の乗組員779名のうち75%がインフルエンザにやられ、51名が亡くなっています。さらに、シェラ・レオネの住民の3分の2がインフルエンザに罹り、全人口の3%が一ヶ月も経たずに亡くなっています。フランスのブレストは屈指の深さを誇る良港で、アメリカ遠征軍の500隻の船が常時停泊していました。ここで、わずか3週間のうちに1350人の兵隊が入院し、そのうち370人が死亡しています。

アメリカのボストンではインフルエンザがさらに猛威をふるいました。ボストンはニューヨークに次ぐ多くの新兵を抱えたキャンプ地で、そこで急造の兵舎に押し込められた新兵は抗うことなく次々にインフルエンザで倒れていったのです。そのキャンプ地の一つキャンプ・デーヴンスで起こったことを見てみましょう。

 

ウイリアム・ヘンリー・ウェルチは、20世紀初頭のアメリカにおける医学界の大物で、その名声はフランクリン以来とまで言われた人物でした。彼は、ウィルソン大統領の「すべての戦争という戦争をこの世から永遠になくすための闘いに加わろう」というよびかけに賛同して、大学の地位を捨てて軍籍に就きました。彼の任務は、広く軍の医学・衛生面での問題に対処することで、時まさにインフルエンザのパンデミックの報を受け、ボストンの南30マイルにあるキャンプ・デーヴンスに赴いたのです。

1918923日に、45000人が滞留するそのキャンプに着いて、ウェルチは愕然としました。着いた日に64人、翌日は90人と新兵が死んでいるのです。冷たい雨の中を濡れた毛布にくるまって診療を待つ青白い顔の兵隊たちの列、その傍らには死体が積み重ねられています。こんなことが信じられるでしょうか。アメリカの20代の若者といえば、人類史上最も強健な集団であるはずでした。それが、かくも簡単に倒れ、死んでいくのです。このインフルエンザは、健康そのものであった者がほとんど動けなくなるのに発症からほんの1,2時間ほどしかかかりませんでした。体温は38,3~40,6度まで跳ね上がり、体中の筋肉や関節、そして背中や頭にひどい痛みを訴えるのです。みな、まるで「こん棒に打たれた」ような感じと表現しています。たいていの患者の場合、これらの症状は数日続き、その後衰弱から回復していくのですが、5~10%は重篤で肺全体に広がる肺炎に見舞われ、その半数近くが死んでいくのです。

 

ウェルチが調査した結果、ぞっとする数字が現れてきました。第十三大隊の29.6%、第四十二歩兵連隊の17.3%、憲兵隊の25%が活動不能に陥っており、300名の看護婦のうち90名がダウンしているのです。彼は病棟を巡り、何かヒントになるものを見出そうとしました。ベッドを覆う麻のシーツは多くは血にまみれていました。血痰や突然起こる鼻出血はスパニッシュ・インフルエンザに特有の症状でした。顔色がまるで青インクのようになってしまった兵士たちにとって死は時間の問題でした。ウェルチは石盤のように灰色をした死体が、薪のように積まれた横を通って剖検室にたどり着きました。病理学者としてのキャリアにおいて彼の右に出る者などいないウェルチでしたが、遺体の胸部を開けてみて、震えを覚えずにはいられませんでした。普通、肺は人間の臓器で最も軽いもので、75000万個の肺胞が石鹸の泡と変わらないほどの薄さでひしめき合っているのです。ところが、スパニッシュ・インフルエンザの犠牲者の肺は、青みがかり腫れあがって重く、血液混じりの泡立った液体に満たされた二つの袋となっていたのです。

 

ウェルチにできることは、兵員をこれ以上増強させないこと、他のキャンプへの集団移送をやめること、一人当たり五平方メートルの空間を確保すること、医師や看護婦を増やすことだけでした。実際、なす術がなかったのです。抗生物質もなかったために、病人にとっては看護婦のほうが医師よりも大切な存在でした。温かな食事、暖かな毛布、新鮮な空気、そして看護婦自身が皮肉をこめてTLCと呼んでいた「優しく愛情に満ちた看護 Tender Loving Care」が、患者の命をつなぎとめ、この病気が過ぎ去るまでのあいだ持ちこたえさせたのです。それこそが1918年当時における奇跡の妙薬でした。

 

この点に関して、陸軍二等兵ロバート・ジェイムズ・ウォーレスがフランス航路で兵員輸送船ブリトン号上で体験したことは、洋上でインフルエンザに苦しめられた兵隊たちにとってたぶん共通に近い経験だったでしょう。

アメリカを経って数日後の朝、ウォーレスは目を覚ますと「ものすごく体がつらく」、朝食をとることもできずに軍医の診察を待つ長い列に加わりました。その頃の兵員輸送船は、患者の鼻から滴り落ちた血でできた血だまりがそこかしこに散らばり、床は吐瀉物と排泄物で汚れ、夜は恐怖でかられた人間のうめき声でまさに地獄に近い有様でした。医師は、39.4度の体温を見ると、ウォーレス二等兵に、毛布を持って上甲板で待機しろと命じました。もはや病人に許される場所はすべていっぱいだったからです。ウォーレス二等兵はしかたなく強い風の吹く上甲板に出て毛布を広げ、オーバーコートを着こんで寝込みました。彼が高熱で錯乱し、幻想と現実のあいだをさまよっている時、嵐が船を襲ってきました。ウォーレスの目前には、自分を苦痛から解き放ち平和と静寂の世界に引きずりこんでくれる誘惑が現れてきました。だが、「絶対にそちらの世界に行ってはならなかった」。そうしているあいだも、大波が甲板を洗い、デッキにしぶきを振りまきます。彼は自分の食事道具一式(それがないと食事をもらえない)がガラガラ音をたてながらどこかへ永遠に飛び去っていくのを耳にしました。気がつくと、自分の革ゲートルや帽子もどこかに流されなくなってしまっています。

翌朝、衛生兵が巡回し、夜のうちに死亡した者を運び出していたのですが、まだ息のあるウォーレスを拾い上げ、下の、サロンとして使われていた部屋に運んでいきました。たぶん、誰かが亡くなって、一人分のスペースが空いたのでしょう。まだベッドには入れないが、ウォーレスはともかく波しぶきのかからないところに横になれたわけです。ある夜、看護婦がウォーレスのところにやってきて、英国訛りで、何かつらいことや不便なことはないかと尋ねました。ウォーレスが飲み物がほしいと答えると、彼女はしばらくして飲み物と温かなお湯の入った盥(たらい)を持ってきました。「足を洗ってあげましょう」というと、彼女はウォーレスの軍隊ズボンの脚部の紐をとき、発熱で濡れて今は乾いて彼の足にへばりついている重い靴下を剥ぎ取りました。「いったいどれくらいこの靴下をはいていたの」「たぶん12日間ずっと、、」「まあ、かわいそうに、、」と彼女は言いました。それから半世紀もの時間が過ぎ去ったが、ウォーレスはそのときの看護婦のことを「人のかたちをした奇跡」として思い出すのです。「彼女の柔らかな、石けんのついた手が、私の足をやさしく洗ってくれたあのときのことは、私の心に刻みこまれており、私が天に召される時には、そのことを天国でしっかりと記録するのが私の務めなのです」

 

<フィラデルフィア>

ボストン近郊の軍キャンプその他から爆発したインフルエンザ第二波は、アメリカ全土を恐るべきスピードで覆っていきました。その中で、最悪の経験をした都市のひとつ、当時人口170万人(軍人などをふくめると200万近い)のフィラデルフィアを見てみましょう。

フィラデルフィアの市当局は夏から欧州におけるインフルエンザについての情報をいち早く入手していたのですが、なぜかインフルエンザを届出伝染病に指定することはありませんでした。フィラデルフィアが危険を察知すると同時にその準備をしていれば、ほとんどダメージを受けとることなくパンデミックをやり過ごせたかもしれません。何よりも強力なリーダーシップが必要なのに、コネや癒着のはびこる市役所はまったくその任を果たせませんでした。

9月の初め、フィラデルフィア市民は模範的な健康状態にありました。911,15,17,日にそれぞれフィラデルフィア周辺の軍事キャンプでインフルエンザの患者が発生しました。918日、市の保険局はやっと重い腰を上げ、インフルエンザについての警告を発し、人前で咳やくしゃみをしたり、痰や唾をはいたりしないように呼びかけました。しかし、その翌日、600名の水兵が市内の病院に入院し、市民の中からも入院患者が出始めました。921日、保険局は遅まきながらインフルエンザを届出伝染病に指定しました。しかし、それでも市の保健福祉部長と保健局長は市民に対し、このインフルエンザは一般市民のあいだで流行することはまずないだろうし、万一流行しても必ず阻止できると明言していました。保健関係の役人はパンデミックに懐疑的で、すすんで新しい情報を集めようともしませんでした。928日、市内23ブロックで戦時公債の宣伝のパレードが行われました。その翌日からフィラデルフィアではインフルエンザの爆発的流行が始まりました。103日、市当局は大勢の市民が集まる施設をすべて閉鎖することを決定しましたが、時すでに遅く、10月第一週で700人、第二週で2600人、第三週には4500人以上がインフルエンザと肺炎で亡くなりました。

 

 病院は患者であふれましたが、戦時のため医師や看護婦はいつもより不足していました。患者の増加に対応してやみくもに臨時の病院を各所に設置したため、さらにスタッフは不足し、インフルエンザにさらされた病院従事者、医師やコックや運転手まで感染して倒れていきました。インフルエンザはまたたくまに市民生活に深刻な打撃を与えていきました。483名の警察官が出勤できなくなり、欠勤率は消防士、ゴミ収集人その他の公共サービスでも高く、ベル電信電話会社では107日だけで850人の社員が欠勤して、事実上緊急以外は電話が使用不要となりました。両親が重症となった子供たちで児童収容施設はあふれ、ほとんどの家族は病人を抱えて動きがとれず、あるソーシャルワーカーが訪ねた家では家族六人が全員インフルエンザで倒れ、みなの面倒を見ていたのは比較的軽症だった八歳の男の子だった、という話もありました。

 

何より深刻だったのは増え続ける遺体の埋葬でした。棺も足りず、墓堀人も足らず、遺体は家の中や遺体収容所に何日も放置されていました。このことは、まず遺体の腐敗による二次的伝染病を発生させる恐れと、さらに遺体が多くの人にさらされることで、人々の士気を削ぎ、地域全体の気力を失わせる心配を生じさせるのです。市内の目抜き通りにあった身元不明の遺体収容所では数百体の遺体が三、四段に積み重ねられて並べられ、ひどい臭気のため戸もすべて開け放たれていたので子供でも中をのぞくことができたということです。

 

行政機関がほとんど役立たなくなっていたとき、そういうほとんど絶望的状況から市民のボランティアが立ち上がってきました。中心となったのは民間防衛組織である国防委員会で、24時間の電話サービスによってボランティアが現場に急行しました。その他、フィラデルフィア自動車会社、やフィラデルフィア自動車クラブも救急車両を提供しました。タクシー会社も協力し、しばしば動けないほど弱った患者を病院に運ぶ時も一度も乗車拒否はなかった、ということです。

看護婦の不足から、まだ免許のない看護生、引退した医療関係者、さらにまったく専門的バックグラウンドのない素人がボランティアで病人を献身的に看護しました。これらの人々は、自らも致死的病気に冒される危険を承知で、日に15~20時間も働いたのです。フィラデルフィアのすべての組織、キリスト教、ユダヤ教、経済的、政治的組織はこぞってこの運動に参加しました。商店街や会社の人たちは自主的に店や事務所を閉め、食料の配給や病人の運搬に活躍しました。特筆すべきは、全くなんでもない人たちの犠牲的精神です。(素人ボランティアは女性が多かったのですが)彼女たちは、食糧配給所の炊き出しに、緊急電話の受付に、病人の家庭の掃除に、半狂乱になった人を鎮めたり、あとに残された人を慰めたり、亡くなった人の目を閉じることさえしたのです。

11月に入って、やっとフィラデルフィアはインフルエンザとの闘いの最後の場面を迎えました。この1ヶ月で12162名のフィラデルフィア市民がインフルエンザとその合併症である肺炎で亡くなりました。統計学者はフィラデルフィアにおいても死者には三つのピークが、つまり5歳以下の幼児と65歳以上の高齢者の低いピークと、それに25~35歳の高いピーク、俗に「恐怖のW」といわれる年齢分布があった、と指摘しています。生命保険会社がフィラデルフィア市の人的損失は当時のお金で六千万ドルにあたる、という試算を発表しました。しかし、「いまだかって人の悲しみというものを測ったものはいない。それゆえ、悲しみについては読者の想像力に任すほかはない」とクロスビーは書いています。

 

<二つのサモア>

インフルエンザは、もちろん全世界を襲いました。おそらくインドの1700万人の死者が最も多い犠牲者でしょうが、死者不祥の中国でもかなりの数の人が死んだはずです。ここで、南太平洋サモアを見てみましょう。これはクロスビーが「防疫上の幸運は、それを懸命に追い求める者たちの方に転がってくるものなのだ」という事実の例証になっているのです。

サモアは第一次大戦でドイツが撤退してから、西サモアとアメリカン・サモアの二つに分かれていました。インフルエンザに対する戦いは、この二つのサモアで対照的であり、結果として、アメリカン・サモアでは無傷でインフルエンザを切り抜け、西サモアでは住民の五分の一が命を失うことになったのです。

西サモアを統治するニュージーランド軍中佐ローガンは、あきらかにインフルエンザにたいして何らの危惧も抱いていませんでした。パンデミックの情報は当然入手ずみなのに、それが、まさか南太平洋の自分の島にやってこようとは思えなかったのです。1918年11月7日、ニュージーランドのオークランドからインフルエンザの感染者をのせてタルーン号が西サモアの港アピアに入ってきました。船長も、検疫医務官も、むろんローガンも、そのことに対して具体的処置をまったくとらなかったということは驚くべきことです。そして、それから二ヶ月も満たないうちに総人口38302人の西サモアはその20%にあたる7542人をインフルエンザとそれに続く肺炎で失ったのです。西サモアが最悪の状況を呈しているころ、アメリカン・サモアの知事はローガンに「もし我々にできることがあったら知らせてほしい」という電報を打ちました。しかし、ローガンは何とこの電報を無視したのです。彼はアメリカン・サモアが検疫を理由に西サモアからの郵便物を留め置いていることに腹を立てていたのです。

 

一方、アメリカン・サモアの知事、ジョン・M・ボイヤー海軍中佐は、毎日送られてくる「電信ニュース」を見ながら、パンデミックにたいする準備を周到に行っていました。西サモアのアピア港にタルーン号がやってくる4日前に、サンフランシスコからホノルルを経由して、蒸気船サモア号がアメリカン・サモアの港パゴパゴに到着しました。このサモア号ではインフルエンザ患者が14名出て1名が亡くなっていました。ボイヤーは船を隔離し、パゴパゴの街に向う乗客は検査のため五日間港に留め置かれ、所持品は燻蒸消毒され、毎日体温をとられ、間違いなく健康であることが確認されてはじめて解放されました。これ以降、ボイヤーはサンフランシスコからやってくるすべての船にサンフランシスコ出航時の全乗員、乗客の体温測定結果を記す書類の提出を要求しました。さらにボイヤーは、すべての郵便物を二時間燻蒸消毒させ、船上や船着場で荷を扱う全員のマスク着用を義務づけ、何らかの作業に携った港湾労働者は全員検診を受けさせました。

しかし、本当に危険だったのは、港にやってくる大型の船ではありません。病気が蔓延する西サモアとアメリカン・サモアとは40マイルしか離れていず、両方の住民がボートで往来するのは日常茶飯のことでした。パンデミックから逃れようとして西サモアの住民が日中アメリカン・サモアに渡ってくれば直ちに隔離することもできます。だが、夜中に、さんご礁の上を潮にのってやってきて、どこかに上陸するとしたら、それを防ぐ手立てはあるでしょうか? ボイヤーはアメリカン・サモアの首都ツツイラに全部族の長を呼び出し、西サモアからやってくるいかなるボートの着岸も許さぬ24時間の監視を指示しました。サモアのリーダーたちはこれに全面協力し、後にボイヤーはリーダーたちのうち三名の表彰メダルの授与をウィルソン大統領に願い出ています。

19196月、任期が終わり、ボイヤーが17発の礼砲とともに任地を去る時、住民たちは自分や自分たちの子供を救ってくれたこの善良な知事への感謝の気持ちを包まず表しました。「もし、かつて帝国主義がほんの少しでも正当化されることがあったのなら、1918-19年のアメリカン・サモアがまさにそれである」とクロスビーは書いています。アメリカン・サモアは、ただ単にパンデミックの波を被らずにすんだだけでなく、そのおかげで島の唯一の輸出品であるコプラに史上最高の値がつけられたのです。

(2)に続きます。

 

| | コメント (0)

2008年9月24日 (水)

御田俊一『帝国海軍はなぜ敗れたか』(3)

<なぜアメリカに敗れたか>

 辻政信が大和を訪れたとき、山本五十六と井上成美が冷房の効いた部屋で寛いでいた、と先に書きましたが、山本も井上も海軍きっての戦艦不要論者でした。戦艦不要論が彼らの場合、戦艦を出撃せず「大和ホテル」として司令官たちの心地よい居住場所とする言い訳になっているのです。戦艦不要論、航空隊重視の論は当時もすでに声高に言われていた意見ですが、はたしてそれは正しかったのでしょうか。米太平洋艦隊司令長官のニミッツ提督は作家児島襄の質問に次のように答えています。

 

 児島「アメリカ海軍は、開戦当時、すでに海戦が空母を中心とするように思っていたか。いいかえれば制空権イコール制海権と見抜いていたか?」

 ニミッツ「制空権イコール制海権? とんでもない。空と海とは別物だ。制空権は、制海権獲得の重要な要素にはなり得ても、それだけで制海権は確保できない」

 児島「すると閣下は太平洋艦隊司令官となられた際、やはり戦艦で日本艦隊と戦うおつもりでしたか?」

 ニミッツ「もちろんだ。それが海軍というものじゃないかね」

 

 確かに、アメリカ海軍の戦艦の活躍は凄まじく、隙があれば日本艦隊の手元にまで食い込んできました。第二次ソロモン海戦で、戦艦ノース・カロライナは空母エンタープライズのすぐ後方に陣取り、恐るべき対空砲で日本軍の攻撃機を全く寄せ付けませんでした。またサイパン、硫黄島での海兵隊上陸の前の破壊力ある艦砲射撃は日本軍の反撃の意欲をほとんど失わせるほどのものでした。

 対して、わが連合艦隊の主力である大和・武蔵・長門以下の戦艦は、ミッドウェー海戦に500キロ後方からなにもせず「支援」した以外、ほとんどトラック島や柱島の泊地から動かず、すでに勝敗が定まったレイテ沖海戦で仕方なく重い腰を上げたのです。そこで武蔵はあえなく撃沈、大和は主砲から百発の砲弾を放ったものの一発も命中せず、半年後無謀な沖縄特攻の途上で2500名の乗組員とともに海底の藻屑と消えたのです。

 

 なぜ、大和・武蔵・長門・陸奥の超大型戦艦は最後の最後まで戦わなかったのか。燃料が足りなかったという言い訳は通用しません。なぜなら大和は停泊しているだけで大量の重油を消費するし、大型艦は小型艦よりも動き出せば燃料効率は高いはずです。理由の一つは、山本長官以下首脳陣が戦艦の役割を強く認識していなかったことが挙げられます。戦艦は不要になったのではなく、その役割が変わったのです。ガダルカナルは、大和以下大型戦艦がズラリと並んで徹底的な艦砲射撃を続ければすぐに落とせたのではないでしょうか。敵主力舞台が迎撃してくれば、それこそ望むところ、大和が本当に世界一の戦艦なのか証明できたはずです。御田俊一はアメリカの誇る大型戦艦アイオワと大和を比較して、スピード、防護力、攻撃力など総合力ではアイオワに軍配が上がるが、砲艦決戦になれば大和が勝利するだろう、と書いています。大和の実力を存分に発揮してもらいたかったのですが、実際は巨億をかけて建造されたこの世界最大の軍艦は、山本長官以下高級将官たちの快適なホテル以上の役割を果たしませんでした。

 

 大和が出撃しなかった本当の理由は実は日本海軍に深く根ざす病弊にあったのかも知れません。日本の海軍は、勝海舟が創り、山本権兵衛が育てたといわれますが、この二人は世界の情勢、日本の立場によく通じていましたが、同時に幕末の豪傑にふさわしく、一種反骨の精神がありました。ところが、英国式のエリート教育による海軍兵学校が生み出してきた新しい軍人たちは、閉鎖的な海軍同族意識をその根底に持ち、その共通認識は組織の安定と既得権益の尊重でした。組織の序列は兵学校卒業年次と卒業時の席次(ハンモックナンバー)に厳密に決められ、抜擢人事は上に上るほど皆無となります。真珠湾で気弱な指揮をして大魚を逃した南雲忠一司令官・草鹿龍之介参謀のコンビは、インド洋海戦でも英国艦隊の息の根を止めるチャンスを逃しています。このような弱将はすぐに解雇するべきなのに、何という事か、ミッドウェーでも司令官を務めて日本の運命を変える大敗北を招きました。草鹿参謀長は山本長官に対し、「大失策を演じおめおめ生きて帰れる身に非ざるも如何にか復讐できるよう取り計らっていただきたい」と懇願して、あきれたことに山本長官は再びこの二人を機動部隊の司令官と参謀長に帰り咲かせているのです。

 

 アメリカ軍は、弱将や怯将はどしどし交代させて、太平洋戦争で20人以上の将官をクビにしています。平時は主に年功序列だが、戦時になると、有能とみればどんどん抜擢し、弱将とみれば降格させるのです。これは、合理的なシステムで、というのも、戦地に出てみないと軍人の本当の資質はわからないからで、会議や演習で威勢のいい人間も、いざ生死のかかった場面では全く別人になってしまうことがよくあるからです。「兵学者は必ずしも実戦のすぐれた指揮官ではなく、いわゆる人格者は必ずしも立派な第一線の指揮官ではなかった」(奥宮正武『ラバウル海軍航空隊』)

 大事なのは、勇怯がわかった時点でただちに交代しうるシステムを作っておくことで、これはその組織がいかに多様な人的資源を包含しうるかにかかっています。勇猛でならした太平洋艦隊のハルゼー大将は、アナポリスの海軍兵学校に入れないほど高校の成績が悪かったのですが、母親がホワイトハウスにまで行って談判し、入学させてもらったということです。(中公新書『零戦と大和』)

 

 これは日本では考えられないことで、高木惣吉は『太平洋海戦史』で、「わが太平洋戦争中にあっては、実戦によって見出された指揮官の異常なる能力よりも、士官名簿の順位のほうが遥かに重要な要素であって、たとえネルソンあり、ナポレオンがあったとしても、彼等の年齢では決して戦略問題に容喙する地位に就けなかったろう」と書いています。そして、機械的公平主義、無批判栄転主義が横行し、突出した才能などむしろ遠ざけられ、美点よりも欠点のないことがその人物をはかる尺度となってきます。「一度び将官になってしまえば、勝敗も勇怯も、そして実戦の指揮能力も昇進に関係ないことになり、ということになると、命令しやすい航空隊や水雷戦隊にばかり出動を命じて、自分は出不精になるのは当然だったのだろう」と、御田俊一も書いています。戦時には平時と全く違う昇進規定が必要なのに、ぬるま湯の公務員的体質から抜け出られないところに問題がありました。

 つまるところ、自分も弱将なので、弱将を批判するとわが身にもその火の粉はふりかかってくるというわけです。最大の責任者といえば、連合艦隊司令長官山本五十六をおいてほかになく、ミッドウェーの敗戦で当然辞職して然るべきなのに全く責任をとろうとはしません。だから、「レイテ謎の反転」で悪名高い栗田健男中将は太平洋海戦のすべての場面で大事な指揮をとり、わが身かわいさにことごとく逃げ回って、多くの水兵を無駄死にさせているのに更迭されず、あろうことか最後は兵学校校長になっているのです。

 

 海軍兵学校の教育にその原因を帰する説もあります。複雑な軍艦の構造上、授業はほとんど理科系の教科で占められ、数学の能力如何が席次を決める重要な要素になった結果、「理論的」な人間ばかりが上位を独占するようになったというのです。伊藤清『海軍と日本』によれば、海軍の本家本元である英国では「理論的(セオレティカル)」という言葉は、現実を知らぬ空論家という軽蔑の意味がこめられているそうで、わずか五分で状況が劇的に変わる海戦の場合はほとんど用をなさないことが多いようです。別に数学が悪いというわけではなく、高等師範と同じレベルの数学が教えられていたという、そのエリート意識が問題なのです。死ぬ時にも代数の問題集を手放さなかったという第四艦隊司令長官井上成美中将は極端な例でしょうが、根底的な基盤を持たないエリート意識は自らが手を汚すのを嫌います。昭和の海軍は戦場に出るのを一種の貧乏籤のように考えていた形跡がある、と御田俊一は書いています。戦場に出ることが一種の左遷となっていた、とも言われるゆえんでしょう。上級指揮官が戦闘に参加するのを好まないようでは、海軍全体が堕落するのも不思議ではありません。日露戦争の時、連合艦隊司令長官を東郷と交代させられた日下壮之丈は悔しがって泣いたということですが、当然のことながら、両人とも戦場に出ることを武人の名誉と考えていたわけです。

 

 司令官が出陣するのを嫌がる理由は生命の危険にさらされるからです。軍人がそんな考えを持っていてはお終いですが、昭和の将校たちならそう思ってもおかしくありません。司令官は通常、白い海軍服を着て艦橋から全艦を見渡します。艦橋は最も防備の手薄いところですが、その勇敢な姿が水兵を鼓舞するのです。日露海戦の時、東郷平八郎は露天の三笠艦橋で指揮し続けましたがカスリ傷ひとつ負わず、それに対してロシアのロジェストヴェンスキー提督は頑丈な司令塔にいたにもかかわらず砲弾で重傷を負っています。栗田建男中将はレイテ海戦の折、防弾チョッキを身につけて艦橋に立って部下の失笑をかっていました。

 しかし、この怯懦は許しがたいことで、海軍が航空部隊を便利な使い捨ての道具のように使い、何かといえば航空部隊を出動させ多大の犠牲をパイロットに強い、将官の坐乗する艦隊は遠くの安全なところに退避している構図は、ガ島におけるわが海軍航空隊崩壊の危機に及んでも変わりませんでした。航空隊に入ればまず生きて還れないというのでは士気も衰えようというものです。反対に、アメリカ軍は、あのガ島の危険の最中でも、戦艦部隊を果敢に使って、航空隊の犠牲を極力減らそうとしていたのです。(ガ島の戦いでは、重巡サンフランシスコのキャラハン少将、軽巡アトランタのノーマン・スコット少将の二人がともに艦橋で戦死しています。また米軍のパイロットは常に二交代制で必要な休養が与えられていました)ガダルカナルでは日本軍の6人の飛行隊長のうち5人が戦死して事実上帝国海軍航空隊は壊滅しました。

 

  しかし、本元の原因は、強力な大統領制と曖昧な天皇制の違いでしょう。アメリカの大統領は強大な権力を擁していますが、失政があれば直ちに失職につながります。強い権力は強い責任の上に成り立っているわけです。そのために、戦時では、大統領は三軍を指揮し、命令し、具体的な措置をとります。陸海軍の将官はすべて大統領の部下なので、必要ならばどんどん降格し、抜擢し、最も効果的で強力な戦略を推し進めることができます。ところが、天皇は軍の統帥者でありながら、実際上は臣下の決めた戦略や方針を裁下するだけのことがほとんどで、もし裁下されない場合、軍や側近は、あらゆる姑息な陰険な手段を用いても実現させようとするだろうし、そのような状況では責任の所在は全く不明確なことになります。すなわち、陸軍参謀長なり、海軍軍令部長なり、連合艦隊司令官なりを強力に指揮命令する者は誰もいないのです。しかも、統帥権の独立によって、日本の運命の最高責任者たる総理大臣といえども軍の統帥に口を出すことはできないのです。

 誰も責任をとらない、誰の責任でもない、という曖昧な体制は、とにかく仲間を全力で守るという見当違いな方向への情熱を生み出します。『同期の桜』は海軍の枠をこえて日本人の深い共感を呼び起こしましたが、このような仲間意識が、真珠湾の弱将を再びミッドウェーの敗将にし、日本を惨めな敗戦に導いて行ったのです。

 

 アメリカ軍と日本軍の責任の体系の違いは、最も肝要な長期的戦略プランに表れています。マレー沖での英戦艦の撃沈を知ったアメリカ海軍は直ちに超大型戦艦モンタナ級四隻の建造を中止しましたが、そのような細心にして迅速な戦争政策は戦闘機と爆撃機の設計・製造に顕著に見られました。

 零戦とグラマンF4Fはともに1940年に世に出されましたが、当初は零戦の一人舞台でした。零戦は、すでに太平洋戦争開始前に中国大陸で英バッハロー戦闘機やソ連、中国の旧型機を相手にせず、圧勝に継ぐ圧勝でその名を不動のものにしました。帝国海軍はこの零戦、そしてやはり中国大陸で活躍した中攻(海軍中型陸上攻撃機)を過信し、ほとんど無批判的に使い続けました。しかし、この二機には根本的な欠陥があって、米軍相手の太平洋戦争ではほとんど勝つことができなかったのです。

 その欠陥とは海軍のアウトレンジ戦法に原因を持っています。アウトレンジとは、敵戦艦の攻撃可能距離より遠くから攻撃することで自軍の損害を最小にしようとする考えですが、そのためには長い航続距離を持つ航空機が必要でした。つまり、多量のガソリンを積むため重量はできるだけ軽くするので、その結果、機体の防備は無きに等しいことになってしまうのです。零戦や中攻は撃たれると簡単に燃え上がりました。中攻は昭和12年から5年間使われ、改良機の一式陸攻は太平洋戦争開戦まもなく世に出ましたが、この五年間の多くの犠牲者の血によって得られた教訓は全く生かされず、「一式ライター」といわれるほど、すぐ燃え上がる欠陥は全く修正されていませんでした

 零戦も終戦まで五年間使われ続け、防護力は全く改造されず、ただ一機でも多く作れ、という海軍の無策によって多くの若いパイロットを死地に追い込むことになったのです。(太平洋戦争での日本機の損害9200機に対して、アメリカ機の損害は905機で、日本は米の十倍以上の飛行機を失っています)

 

 対して、アメリカ機には欧州戦線での経験が十分に生かされました。ヨーロッパではアメリカで生産された戦闘機および爆撃機が防備、特に燃料タンクの防護の不備によってさんざん酷評され、フランスはアメリカ機の使用を禁じたほどでした。アメリカはこの事実を真摯に受け止めて、各飛行機会社に装甲防備を強化するよう要請し、太平洋戦争には十分な装備で突入することができたのです。グラマンは航続距離と上昇速度では零戦に劣るものの、そのスピード、装甲の強さ、また機銃の破壊力で零戦を次々に落としていきました。「ガダルカナルはグラマンによる勝利だった」とフォレステル海相に言わせるほど、活用度と信頼の高い戦闘機だったのです。また、B17爆撃機、B25ミッチェル爆撃機は零戦に対してほとんど不落でした。「日本は一番だ」という精神主義に凝り固まって、最新の技術を求めようとしない海軍艦隊部の連中は、終戦まで、強力な機銃や対空砲を開発することはできませんでした。

 

 総括すると、アメリカと日本の社会制度の差、科学技術力の差とも見られますが、実は文化と精神の差であったとも考えられます。「大和魂」などより、太平洋戦争を通じて、勇敢さと犠牲的精神は個人主義の国アメリカの方が遥かに勝っていたように感じられます。帝国海軍は開戦当初のウェーキ島での敵の頑張り、グラマンのしぶとさ、空母すら突入してくる果敢さに早く気づいて、敵を侮るという最悪の過ちから直ちに脱しなければいけなかったのです。当時の海軍兵学校では、やれ零戦は世界一だ、大和は史上最強だ、日本海軍の技術は世界最高だ、というお題目を新興宗教の信者のように繰り返しているばかりで、自らを客観視する謙虚な精神は全く見られなかったのです。

 著者の結論はこのようなものです。日本軍は、生産力、性能、作戦どれ一つをとっても、合理的で効果的な戦法を展開できるシステムと人材に欠けていた。天皇制と統帥権の独立は、各部署において無責任の連鎖を引き起こした。主力艦の決戦を主眼とするアウト・レンジ戦法は、軍用機の装甲を無用のものとする考えを生み出し、それがあまりに多くの有能なパイロットの損失につながった。山本長官の戦意の欠如は、航空部隊の切り開いた突破口を主力艦隊が確保すべきなのに全く出撃せず、ために無駄に搭乗員と機体の損害が重ねられた。山本五十六は、ニミッツのように陸上の司令部で各専門部署と協議しながら作戦を進めるか、あるいは東郷平八郎のように先陣を切って戦艦の艦橋で指揮すべきであった。冷房の効いた、食べ物の上等な(大和はすべてにおいて特別待遇でした)大和を離れなかった山本は敗戦の最大の責任者である。

 

「たしかに太平洋戦争においては、幾多の壮烈捨身の戦いがあった。生還を期さない幾多の突撃もあった。しかし、将官と名づける程の者の中に、このような部下の捨身の行為に恥じないといえるほどのものが、一体何人あったろうか。彼等の多くは戦いを避けてきたのではないか」(御田俊一)

使い捨てられて死んだ多くの若い命への哀惜と、戦後天下って余生を悠々と暮らした海軍将官たちへの怒りに似た思いがこの本の根底にはあるのです。

 

| | コメント (0)

御田俊一『帝国海軍はなぜ敗れたか』(2)

<戦いの経過>

 連合艦隊司令長官山本五十六は軍政家としてはともかく、指揮官としては無能だったといってよいでしょう。真珠湾攻撃は現在に至るもその決定の是非が問われていますが、これは難しいところで、アメリカの戦意を高揚させたというマイナス面はあるものの、真珠湾攻撃の決定そのものは山本五十六の戦績の中で唯一擁護できるものではないでしょうか。

 山本は若き日、海軍士官としてハーヴァード大学に留学し、後にアメリカ駐在武官を務め、アメリカという国の社会的、文化的強さを生活のレベルで実感していました。戦争をしたら、まず絶対に勝てない相手。そういう相手を敵に回して勝つためには奇襲しかありません。よく言われるように、彼は第一レースに賭金のすべてを注ぎ込んだのです。これは確かに理屈に合った考えで、危険だが少しの弱気も許されないぎりぎりの戦いでは当然のことといえます。

 しかし、山本にはその決意をとことんまで実行する強さが欠けていました。10倍以上もの富と軍事力のある相手ではあるが、しかし、熟練したパイロットと艦隊乗組員の養成には1,2年の期間がどうしても必要です。だから、真珠湾周辺に米国太平洋艦隊のほとんどすべての航空兵、艦載乗務員が集まっていたその日に徹底して攻撃を継続し、全滅させるか捕虜にしておかねばならなかったのです。そうすれば、少なくとも一年半は日本は太平洋をわがもの顔に暴れまわることができたでしょう。

 ところが、山本は、戦艦五隻撃沈、補助艦18隻破損、航空機(ほとんど地上機)479機使用不能の「大戦果」を確認すると、何と全艦隊を引き上げてしまうのです。連合艦隊の幕僚たちはほとんど全員一致で再攻撃の指令を出すよう要求していましたが、山本は「泥棒だって、帰りはこわいんだ。ここは機動部隊指揮官に任せておこう」とその要求を拒否しました。その機動部隊司令官は三ヵ月後のインド洋海戦でも途中で引き返してしまう弱将の南雲忠一中将でした。最も肝心の石油タンク(アメリカが必死に貯めた450万バレルの重油が入っていた)、戦艦の修理ドック、周辺にいた二隻の空母は全く無傷で残されたのです。もし、再攻撃を行い、石油タンク、修理ドックを破壊し、真珠湾に向かっていた空母を待ち伏せして撃沈し、さらに比叡・霧島の二隻の戦艦を真珠湾に近づけて強力な艦砲射撃で港を壊滅しつくし、基地の戦闘員を殲滅していたら太平洋戦争の帰趨はどうなっていたかわかりません。

 

 アメリカ太平洋艦隊指令長官ニミッツは、真珠湾の損害は思ったよりもはるかに軽徴だった、撃沈された戦艦は旧型のもので、熟練した乗組員を新型の戦艦の方に回すことができてむしろ幸いだった、と語っています。結果的には、真珠湾攻撃はアメリカの復讐心に火をつけ、猛烈な反撃を引き起こさせたことで失敗となりました。そして、なにより日本に不運だったのは、その戦果があまりに誇大に伝えられ、司令長官の山本五十六が神がかり的な崇拝のオーラをまとってしまったことです。続くマレー沖海戦でも英国戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋艦レパルスを海底に葬り去ったことで、あろうことか楽勝気分まで起こってきたのです。信じられないのは、すでに重油不足を覚悟の上で開戦に踏み切ったにも関わらず、真珠湾から帰港して来る機動部隊を出迎えに長門・陸奥の戦艦以下連合艦隊の20隻の軍艦が小笠原沖まで出ていったことで、これは出航手当をかせぐためだけだったと非難されても仕方ないでしょう。

 

ここから一気にミッドウェーの惨敗まで行くのですが、その前にインド洋海戦と珊瑚海海戦がありました。地中海でイタリア艦隊を制圧したイギリス艦隊はセイロン島で日本軍の上陸作戦に備えて待機していました。旧式戦艦五隻、空母三隻を含む三十隻の大艦隊でしたが、対する日本も英国製の高速戦艦金剛以下四隻の戦艦と五隻の空母を擁していました。イギリスが旧式の複葉戦闘機が主だったことを考えれば、南雲機動部隊にとって絶好のカモだったはずですが、何と小型空母一隻、重巡洋艦二隻を撃沈しただけでさっさと引き上げてしまいます。わずか四十浬のところにいた英国艦隊主力は全くの無傷でした。敵の息の根を止めるチャンスがあれば徹底的にやらなければ勝てる戦争ではないのにです。ここで、英国艦隊を叩いておけば、すでにマレー沖で主力艦2隻を失っている英国艦隊は壊滅したでしょう。我が身が無事なうちに引き揚げることはこの戦争においては日本海軍のお家芸でした。米海軍のハルゼー提督は「日本軍は怖くない。優勢でもすぐ引き揚げるから」と言っていました。

このインド洋海戦は重要な戦いで、ここで英国艦隊を追い払えば、アメリカの対ソ武器供与ルート(イラン・ルート)を遮断でき、ドイツへの巨大な掩護ともなります。さらにアフリカで戦っているロンメルのスエズ進撃をサポートできただろうし、何よりドイツと連絡することで日進月歩の最新の軍事科学を取り入れることができたでしょう。(潜水艦のソナー、艦船のレーダー、高射砲、戦闘機の機銃など、ほとんどすべての分野で日本は立ち遅れていました)

 

19425月に行われた珊瑚海海戦は日米初の空母決戦となりました。南太平洋随一の要衝ポート・モレスビーをめぐるこの戦いに米軍はありあわせの軍艦をかき集め、空母二隻重巡7隻の陣容、対する日本も空母3隻重巡6隻とほぼ互角の布陣です。結果は互いに空母一隻沈没・一隻中破で痛みわけのようですが、戦略的にはポート・モレスビーをアメリカ軍に確保されたことで日本の敗戦となりました。アメリカ艦隊の空母レキシントンは戦闘の一時間後にガソリンが気化爆発を起こし沈没したのですが、幸か不幸か、日本側に幸いしたかに見えるこの事故がまたもや日本側に勝利を謳わせ、深く反省する機会を失わせてしまったのです。南太平洋で圧倒的に優位に立っていた日本は、この海戦でもさらに赤城以下三隻の空母、伊勢以下五隻の戦艦を加えて総力戦でアメリカを全滅に追い込むべきだったのです。兵力を集中して味方の損害を最小にし、敵を個別に撃滅していくのは戦いの基本で、これではアメリカ軍が日本の将官を無能呼ばわりするのも無理はありません。また、マレー沖とインド洋で楽な戦いをした航空部隊がなぜ珊瑚海で苦戦したか、それはアメリカ防空火力の強力さと日本機の防備の弱さにあると認識しなければいけなかったのです。この反省は全くなされずに、次のミッドウェーにつながっていきます。

珊瑚海海戦では日本の暗号が解読されてアメリカ軍に筒抜けでした。これに不審を抱いた艦隊の方で暗号担当者にその旨を申し入れても、担当者は責任を恐れて、絶対大丈夫と突っぱねたというのです。「そういう無責任な担当者を、直ちに入れ替える位の人事の弾力と、物事に対する新鮮な感受性が無くては、アメリカ相手の戦さには無理だったと思われるが、日本海軍は長い天皇制の下に、スッカリ硬直化し、かつ官僚化してしまって、もはや近代戦に勝ち抜けない体質になっていたらしい」と御田俊一は書いています。

 

そして、ついにミッドウェーの戦いが訪れます。19424月、東京から1200キロに近づいた空母ホーネットからドゥーリットル中佐率いる16機のB25ミッチェル爆撃機が飛び立ち、東京・神戸・名古屋・横浜を爆撃して、中国本土に着陸するという離れ業を成功させました。精密な計画と大胆な行動、そして何より勇敢さを示したこの行動は太平洋戦争のターニングポイントとなりました。日本の被害は微々たるものの、連合艦隊司令長官山本五十六は深く衝撃を受け、直ちにハワイ近海にあるミッドウェー島を攻略し、敵艦隊をおびきよせて壊滅し、引導を渡してやろうと決意したのです。敵基地のすぐ近くの危険な戦いについて、日本の軍令部は強く反対しましたが、緒戦の戦果以来威望絶大な山本長官の言には逆らえませんでした。戦略的価値のほとんどないミッドウェーよりも、対ソ援助ルートの遮断や米濠間の切断のため南太平洋からインド洋を制圧する方がはるかに急務でした。東京を爆撃されたのでは天皇にすまないと山本は考えたのですが、戦争に負ければすまないどころではありません。天皇へのそんな余計な配慮をしながら勝てるほどアメリカは甘くありません。

 

ところが驚いたことに、この辺りでは帝国海軍は勝利感と安易感に満ちていました。宇垣参謀長の日記には「皇軍の向ふ所敵無く、、、反枢軸国凡ての智将、勇将、猛将を網羅し来るとも我何をか惧れん」などと記してあります。実際のところ、ミッドウェー海戦直前の時点では日米の水上艦隊の戦闘力は問題にならぬほど開いていました。日本は空母8隻、戦艦11隻、重巡17隻、軽巡11隻を含む350隻の大艦隊でミッドウェーに向かいましたが、対するアメリカは空母3隻、戦艦なし、重巡7隻、軽巡1隻、全て合わせてわずか57隻で、集められるだけ集めてこれだけだったのです。暗号は解読されていたものの、どうやっても負けようのない戦いでしたが、結果は最精鋭空母四隻、航空機322機を失うまさに歴史的大敗を喫したのです。

 

敗因はやはりアメリカ軍の戦意、実力を甘く見ていたというほかはありません。すでに、それまでの戦いで、アメリカのグラマン戦闘機のしぶとさ、艦の対空火力の強力さを目の当たりにしていたのに全くその経験が生かされていませんでした。アメリカ軍は、珊瑚海海戦と同様、濃密な守備体系を作っていたのに、日本軍は10以上に分散し、しかも二隻の空母を陽動作戦としてアリョーシャン列島に向けるとは兵力集中の原則を無視した全くの愚策でした。しかも、山本長官の旗艦大和・長門・陸奥以下の主力艦隊は機動部隊の500キロ後方から大名行列のように進むだけで支援どころか何の役にも立たなかったのです。戦闘の中心はむろん空母を中心とする機動部隊ですから、その空母を守るべく(空母は非常に防備の弱い艦船です)戦艦・重巡が周囲を輪形に固めねばならなかったのです。

どうも楽勝気分で、このままでは勲章がもらえないことを心配して儀装中の武蔵を除く全艦隊がぞろぞろ出陣してきたようです。この海戦だけで連合艦隊の一年分以上の重油を消費し、あげくは熟練したパイロットを含む3500名を失いました。「山本に期待するのは無理としても、彼の指揮はひどすぎた」と御田は書いています。

 

ミッドウェーの大敗後、さすがに山本長官も憂色に沈んだようです。しかし、開戦時の優秀なパイロットの半数を失い、精鋭空母がほぼ壊滅したその時点でも太平洋の彼我の勢力はまだ日本の方がはるかに優勢でした。決定的な敗戦はガダルカナルとそれをめぐる三度にわたるソロモン沖海戦で、これにより攻守ところをかえて、アメリカのワンサイドゲームになってしまうのです。「ガダルカナルは島の名ではなく、感動そのものである」とサミュエル・モリソンは言っています(『失敗の本質―日本軍の組織論的研究』より引用)。わずか一本の滑走路をめぐって、六ヶ月にわたり繰り広げられた戦いは日本軍の必死の撤収によって幕を閉じました。アメリカはエンタープライズなど三隻の空母と新型戦艦ノース・カロライナを含む全力の布陣、今度こそ日本が願っていた艦隊決戦で決着をつけるチャンスと思われたのに、大和・武蔵・長門・陸奥以下の大型戦艦はトラック島や柱島の泊地に停泊したままでした。大和、長門の巨大な砲があればガダルカナルの米軍基地を焦土にするなど朝飯前であり、アメリカ軍唯一の頼みの綱である輸送船団も全滅にできたでしょう。そして、肝心の米濠遮断も成し遂げえたはずです。まさにガダルカナルは、日本の陸海軍双方にとって天王山だったのです。

陸軍の辻政信参謀はガダルカナルの窮状を訴えるためにトラック島に飛んで、大和に坐乗していた山本長官を訪ねました。ところが、山本は広々とした大和の冷房の効いた部屋でのんびり過ごし、井上成美中将は涼しげな夏の着物と絽の袴姿だったといいます。辻はガ島の地獄絵図を思い感慨に耐えなかった、ということでした。

 

ガダルカナルが終われば、後はアメリカの高い生産力によって新型艦、新鋭戦闘機が続々と参戦することになり、万に一つも勝てない状況に日本は追い込まれました。この時からいつ降伏してもおかしくなかったのに、ひたすら精神主義を打ち出して、最後は特攻という暴挙に出たのはなんと愚かだったことでしょう、死んでいくのは皆まだ成年に達しないような新兵ばかりだったのに。吉田裕『アジア・太平洋戦争』(岩波新書)によれば、太平洋戦争の死者の大部分はマリアナ沖海戦の後に生じているとのことです。統計の残されている範囲では、87パーセントの戦死者が終戦までの一年余の間に発生しているのです。悲惨な沖縄戦、東京大空襲、広島・長崎の惨禍を思えば、アメリカ相手の戦争に勝てなかったのは仕方ないが、せめてもっとましな負け方をしてくれたらと思ってしまいます。

| | コメント (0)

2008年9月15日 (月)

御田俊一『帝国海軍はなぜ敗れたか』(1)

 高田馬場は学生が多く、騒がしくて、どうもあまり好きになれない街ですが、BIG BOX古本市が不定期に復活したので、仕方なく足を向けてみました。本の質に対して価格の安いのがこの古本市を主催する早稲田古書店の特徴ですが、休日の半日を費やした苦労は十分報われて、何冊も抱えて帰路につきました。早速、家でビールを飲みながら、200円で買った御田俊一『帝国海軍はなぜ敗れたか』(昭和55年・芙蓉書房)を読み始めたのですが、明快で説得力ある筆致はこの種の本の中では出色のものです。著者は1923年生まれで軍歴はないのですが、「日本はなぜアメリカと開戦したのか」「日本はなぜアメリカに敗れたのか」という問いの答えを長年探っていたとのことです。さて、その結論はどのようなものでしょうか。

 

 <なぜアメリカと開戦したか>

 その元凶は「統帥権の独立」にあったというのですが、もともとこの統帥権というものは、当時明治日本が乗り出した弱肉強食の帝国主義時代にあって、必要やむをえぬものでありました。伊藤博文は、厳しい国際情勢を鑑み、万一自由民権派の手に政権が渡っても、強兵策の遂行が妨げられることのないように、陸海軍の統帥と陸海軍の編成と常備兵力量の決定を天皇に帰属させていた、というのです。そして、そのように規定しても、当時の実力者たち、伊藤や陸軍の山県有朋、海軍の山本権兵衛など維新の革命を身をもって体験した者たちは、統帥権をふりかざして政治を混乱に陥れる心配などなかったのです。また、統帥権を担わされた明治天皇とこれら元勲たちとの間にも国家の興亡についての緊密な意思のつながりが存在しました。

 つまり、統帥権の独立は明治のある時期のみに許される非常の規定であるべきだったのです。軍の独走を抑える権威と実力を持った人間と責任感をもった天皇が存在しない時に、統帥権の独立は愚か者の非常識な行動を正当化する役割しか果たさないのです。事実、軍部は右翼と結びついて、テロを匂わせながら政府首脳や天皇までも脅迫し、国民を地獄の底に引きずり込んで行ったのです。

 

 話は日露戦争にまでさかのぼります。この戦いに勝利して、日本は満州の支配権を得たのですが、この時、日本には二つの選択肢がありました。ひとつは、アメリカの民間資本と満州を共同経営していくこと、もうひとつは、満州を独自で経営し、他の列強の中国の侵略的分割支配に参戦していくことでした。もともとアメリカのねらいは中国市場の開放でしたが、アメリカの鉄道王ハリマンは満州の鉄道や炭鉱を日本と対等で経営することを提案し、彼の夢である鉄道による世界一周の実現を期待していました。戦争のために巨額の債権を引き受けてくれたこの大富豪が日露戦争後直ちに妻と随員を伴って来日したとき、日本政府と国民は歓喜でもって彼を迎えました。これは、日本にとって魅力ある提案でした。というのも、日露戦争には勝ったものの、いつロシアが復讐戦に出てくるか不安であるし(日本にはすでにその体力がありませんでした)、そのために世界最強国のアメリカが緩衝国として入ってくればかなり安全になると考えられたからです。さらに当時の日本は日清戦争で獲得した台湾と朝鮮の経営で手いっぱいの状態であり、独力で満州で産業を興す底力はまだありませんでした。

 

 こうして、政府や元老井上馨、実業家渋沢栄一らの同意の下に日本政府とハリマンとの間にシンジケート設立の合意書(桂・ハリマン覚書)が交換されたのですが、これが、そのまま進展していたら日本の将来はどうなっていたでしょうか。第二次大戦後アメリカとの友好のもとで経済発展したことを考えると、恐らく順調に日本は工業力をつけ、経済的な進展とともに武力に全霊を注ぐこともなく、したがって太平洋戦争もなく国民の運命はこれほど悲惨な道を辿ることもなかったとも考えられますが、あるいは御田俊一も言うように、敗戦そして民主主義という洗礼がこの国民にはやはり必要だったのでしょうか。

 

 さて、ポーツマス会議から帰国した外相小村寿太郎は、この覚書のことを知るや否や関係各所に猛然と圧力をかけ始めます。この小村寿太郎、そして小村の仲間である満州派遣軍総参謀長児島源太郎、台湾総督後藤新平らは、維新の時にまだ少年であり、智謀の限りを尽くして日本を作ってきた慎重な維新の元勲たちとは違い、冒険主義的ではるかに積極性に富んでいました。彼らは、当時、台頭してきた一つの集団の意見を代表していたのです。つまり、いたずらに列強の侵略を待つより、進んでそれに参加することにより国の独立を保とうとしたので、そのためには南満州鉄道を大陸経営の基本として排他的に独占し、他の先進国の仲間入りをしようとしたのです。

 この考えはわからぬではないし、いやむしろ当然かもしれません。アフリカなどは十九世紀の最後のわずか25年間にその八割が列強の支配下に入っています。隣国の中国も食い荒らされてもはや独立国の体をなしていません。ロシアを破って、一等国への切符を手にしたと思った日本が満州の共同経営案を拒否する下地も確実にあったのです。しかも満州独占派の小村寿太郎は、誰もが尻込みするポーツマス全権大使を引き受けたことで政府に大きな貸しがありました。負けたと思っていないロシアは賠償金を一銭も払わず、戦費をまかなうため苦しんだ日本国民は、各地で暴動を起こし、ついに戒厳令が敷かれる有様となったのですが、その非難の矛先は全権の小村に向けられると思われたからでした。

 小村は八方手を尽くして桂首相に覚書の撤回を承諾させ、すぐにワシントンに帰っていたハリマンにその報がつたえられました。

 

 結果はどうなったか。日露戦争では多額の外債に応じたり、講和会議を仲立ちしたアメリカは一転、裏切られたと思ったのか、日本に対する反感は翌年のカリフォルニアでの排日運動から日本人労働者の入国制限にまで発展しました。これ以降、アメリカはその極東政策の敵手として日本を考えるようになります。(軍事的相手としてはまだ取るに足らぬものと思っていたのですが)

 そして、独力で為しうると考えていた満州経営はどうなったかは歴史の知るとおりです。満鉄は経営したものの資本と技術の不足から重工業はついに発展せず、太平洋戦争においても満州は戦力増強に益するところまことに少なかったのです。

 

 すでにこの時から、日本の政府、軍部には大きな錯誤が、つまり日露戦争の勝利による国力の過信がありました。日本の後ろ楯となった英米の存在、差し迫ったロシアの革命の動き、首都から遠い極東での戦い、海戦に弱いロシア人の気質など、冷静に見れば最初から勝つ公算の大きい戦いだったのです。それでも日本海海戦であれほどの勝利がなかったら、シベリア鉄道で送られてくるはずの新手の敵軍で戦争はどうなっていたかわかりません。となると、東郷平八郎の武勲(ネルソンと並んで史上最高の提督といわれています)は、アジアと日本の運命を大きく変えるものとなったので、もしその勝利がよくあるように判然としないものであったら、日本はこれほど傲慢にはならなかったでしょう。「米英連合艦隊一時に来襲するも恐るるに足らず」「米英一呑み」とか、後に大言するようになる下地はこの時にできたのです。旗艦三笠からして英国製だし、技術はほとんどすべて輸入で、粗鋼生産高など比べることの不可能なほど微小だったことの謙虚な考察は見られません。

 

 日英同盟はまだ維持していたものの、アメリカとの離反は避けがたかったのですが、やがて西欧諸国は第一次大戦に突入して、極東は一時的に視界の外に置かれます。日本がこの大戦に本格的に参戦しなかったことが、近代戦の苛酷さ、戦争技術の進歩の速さなどへの認識の決定的な立ち遅れをもたらした、といわれています。ワシントン条約は、大戦のもたらした悲惨さを教訓とし、軍備拡張による財政の負担を制限するために開かれましたが、英米日の主力艦5.5.3という割合は出席者ほとんどの賛同と感激の拍手で決定した、といわれています。日本全権の加藤友三郎海相は、対米七割を固執する全権顧問加藤寛治中将を抑えて、対英米六割を受諾しました。加藤友三郎は会議後次のように語っています。まず、自分は近年悪化しつつある日本とアメリカの関係を良くしようという意図を持っていたが、提案の比率には驚いた。しかし、よくよく考えてみると、これは日本には好都合なのではないか、というのも財政上、日本は新艦製造競争に参加できず、逆にイギリスはともかくアメリカは必要とあらばいくらでも戦争準備を遂行する実力がある。その場合、とても5,5,3という比率ではおさまらないだろう、と。彼は、また、国防は軍人の占有物ではなく、軍人大臣を廃して文官大臣制を設けるべきだ、とも言っています。残念なことに、加藤はこの2年後首相在任中に急死してしまいました。

 

 ワシントン条約には、同条約成立の八年後に再び会議を持つことが決められていたので1930年、今度は補助艦の比率を決めるロンドン会議が開催されました。ところが、このロンドン会議の調印をめぐって日本国内では大騒動が持ち上がったのです。加藤友三郎はすでに亡く、強硬派の加藤寛治は大将に昇進して海軍軍令部長にとなり、同次長の末次信正とともに会議の初めから補助艦七割を要求していました。米英側は比率10,10,6.97まで譲歩しましたが重巡洋艦六割は譲りませんでした。全権の若槻礼次郎はこの案を受諾し、国内では首相浜口雄幸が加藤友三郎の正論を再び開陳して加藤寛治らの強硬派を諌め、正式調印にこぎつけました。しかし、ここでこの条約の批准をめぐり、野党政友会の総裁犬養毅、枢密院の伊東巳代治らは民政党の政府攻撃の材料にこの問題をとりあげます。国会の壇上に登ったのは鳩山一郎で、彼は国防計画は統帥権に属するのに政府が軍令部の反対を押し切って調印したのは不当であるという論法で政府を攻撃しました。まさに浅慮短見の極み、政治家は軍を政治の主導の下に置くことこそ肝要なのに、自党の利益のみ考えるとは言語道断です。そもそも財政上の大問題である国防計画を軍令部が勝手に決めることこそ問題だったのです。

 

しかも、政界のこの動きは海軍の強硬派を勢いづけ、加藤寛治軍令部長は政府攻撃の上奏文を天皇に奉呈し、参謀の草刈少佐は抗議の切腹自殺、など問題はますます大きくなりました。しかし、ライオンと呼ばれた首相の浜口雄幸はひるまず、ついに批准案の可決に成功しますが、批准の翌月、浜口は東京駅で右翼青年にピストルで襲撃され翌年死亡します。翌年、満州事変、その翌年血盟団による井上準一郎民政党幹事長と三井の大番頭団琢磨の暗殺など、世はとんでもない方向に走っていきます。「これらの源を探ると、鳩山一郎や伊東巳代治の愚挙もさることながら、憲法における統帥権の独立の規定のなせる所が最も大きいと考えられる」と御田は書いています。

 

ここから1934年のワシントン条約破棄、無条約時代の突入、太平洋戦争の開戦まで道はまっすぐに続いています。加藤友三郎の流れをくむ海軍正統派の岡田啓介は、加藤寛治・末次信正の一派を抑えようとしますが、軍令部、青年将校、右翼勢力らは、五・一五事件の再発を脅しに使って政府を恫喝しました。これが政府の協調外交派を無気力にしたのは間違いありません。

 

それにしても、軍縮条約破棄とは海軍軍令部は何を考えていたのでしょうか。軍令部は条約破棄にあたって、アメリカに1010という絶対受け入れられない条件を提示していました。日本の十倍の国土と富を有する国が軍備を平等にする理由など公平に見て全くありません。では、海軍は軍縮条約体制からの脱退によって、どのように国防の安全を強化しようというのでしょうか。この点について天皇は軍令部長に「対米均等権を要求するときは会議は決裂し軍備競争が再開されるが、そうなれば対米均等はもとより不可能ではないか?」とするどい質問をしています。軍令部は、自由競争になれば日本に適した艦を建造でき、特徴ある兵力を整備できるのでかえって経済的だとわかりにくい説明に終始したのですが、実はこの謎のような答えを解く鍵はむろん大和・武蔵の超大型戦艦の建造だったのです。このマンモス戦艦によってアメリカ海軍の機先を制し、西海岸のドックで建造される大型艦はパナマ運河を通過できないので、他日アメリカが追いつこうとしても十分水をあけられると考えたのです。

 

不思議なことに、日本海軍は、無条約時代に突入しても、各国は軍縮時代とさして変わらぬ行動をとるだろうと考えていたらしいのです。例えばワシントン条約で艦齢が20年までの艦は新規造船が認められない(ロンドン条約で26年に延長)とされたのですが、これによって各国も艦齢を重視して新艦建造を控えるだろうと独断していました。無条約時代になればそんな規定に全く意味がないことに気づいていないのです。誤算はアメリカの建造能力、意欲を下算していたことにあるのです。海軍は条約廃棄後十年はアメリカに優位に立てると楽観したのですが、アメリカが海軍大拡張計画を決定して新式艦を続々建造し始めるのに遭遇して真っ青になりました。

 

軍事力の充実はもちろん国力の充実によるものですが、日華事変以降、民需を削って軍需に回していたため日本の基礎国力は下がりつつありました。しかも中国大陸に百万もの兵を派遣して国内の労働力を奪うと同時に若い技術者や熟練労働者を構わずに召集したために軍需工場の生産技術は低下していました。そのため、アメリカとの軍事力の差は質・量ともに絶望的なまでに開き、海軍自身の計算でも昭和十八年には日米艦艇の勢力比は対米三割にまでなるだろうと予測されていました。このような事態は海軍の条約脱退派には思いもよらぬことで、あれほど強気になって条約破棄を主張した海軍の責任が強く追及されるのは間違いありません。また、陸軍はこれ以上の海軍軍備増強策を承認しないだろうし、対米三割ともなれば勝てるはずのない戦争の準備をするよりは対ソ増強計画のため陸軍の予算を強化するだろう、結果として海軍は陸軍の下位に甘んじるだろうと思われたのです。

 

ここで、立場のなくなった海軍に起死回生のチャンスが一つ残されていました。それは思い切って対米戦争に突入することで、そうなれば陸軍も国民も戦争に引き込むことになり、海軍単独の責任から逃れられるだろうと考えたのです。すでに条約破棄を想定して制限を大幅に超える改造と建造を実施していたことで、あと1,2年は対米八割を維持できると予測していました。さらに、中国大陸における零式戦闘機、中型攻撃機の活躍、やがて完成する大和への期待などが、「座して死を待つ」より国民を巻き込んでのとんでもない博打に海軍を駆り立てたのです。結果はどうなったか。海軍上層部は多く安全な場所に退避し、初年兵、学徒、若き未熟な航空兵を次々に危険な戦地に駆り出して殺し、自らは戦後ものうのうと生き延びているのです(海軍からA級戦犯で極刑を言い渡され者はなく、わずかに岡、嶋田の二名の海軍大将が終身刑になったのみ)。

 

 さて、巻き込まれた陸軍はどういう対処をしたか。実は、軍のために国民を犠牲にするのは陸軍もすでに行ってきたことで、ここでは同病相憐れむというか、すでに陸軍は中国大陸で勝てなくなっていました。中国軍は予想以上に強く、日本は外国からの補給路を断てなかったのです。ここで、対米戦に踏み切り、インド洋を制してアメリカの補給路を遮断し、ドイツのイギリスへの進撃を待てば活路を見出せると考えたのでしょう。陸海軍とも、緒戦でアメリカを叩いて戦意を喪失させれば、しばらく暴れまわったあとで、ポルトガル、スウェーデン、法王庁あたりに終戦工作を依頼できると考えたのだから呆れます。国内ではすでに軍を統御できる人物もなく、ここでこそ統帥権を発揮できる天皇は全く無力でした。チャーチルは『第二次大戦回顧録』で、ドイツとの開戦を決意した時、もし敗れればロンドン塔で絞首刑になる覚悟をした、と書いています。それだけの決意が天皇にあれば事態はまだ違ったものになっていたかもしれませんが、ともかく国民を守るべき軍隊が、自らの存在を守るために国民を犠牲にするのでは、壊滅するのも当然といえましょう。

| | コメント (0)