2010年10月21日 (木)

ウイリアム・J・ブースマ『ギョーム・ポステル』

 記録的な今夏の猛暑のさ中に一冊の本が法政大出版局から刊行されました。叢書ウニベルシタスの白い背表紙の上に書かれたその名は知る人のみぞ知る偉大なルネサンス人、ギョーム・ポステルです。同じ16世紀人としては、マキャべリやエラスムスやルターのように後世まで名を轟かせた思想家とは違い、ポステルは生前からすでに忘れ去られていました。晩年の18年間を狂人としてサン・マルタン修道院に幽閉され、そこで静かに71歳の生涯を閉じたのです。その人間同様、その思想も忘却の淵に沈み、わずかに『十二ヶ国語入門』などの比較言語学的興味でしか思い出されず、サイードが『オリエンタリズム』でその名に触れた時も、誰がそれに気づいたでしょうか。

 ラテン語、ギリシア語は言うに及ばず、ヘブライ語、アラビア語に精通し、遠い地方への謎めいた旅、持ち帰った膨大な書籍と該博な知識、その時代随一のカバラ研究者、そして理解不能な狂おしい神秘主義の唱道者、ポステルの名は16世紀の最もミステリアスな思想家として異彩を放っています。ウイリアム・J・ブースマ『ギョーム・ポステル 異貌のルネサンス人の生涯と思想』(長谷川光明訳・法政大学出版局)は、原著は50年前に出版された本ですが、ポステルについての唯一の包括的な研究書で、現在はスクレ(Francois Secret)の業績などかなり研究が進展されているもののその価値は少しも損なわれていません。アメリカの研究者らしく文章は非常に明晰でわかりやすい。スチュアート・ヒューズやマーチン・ジェイの読みやすく、鋭い思想史の本を思い出します。訳語も丁寧でこなれており、ポステルへの訳者の愛着が偲ばれるようです。

 さて、まずその生涯です。1510年、フランス、ノルマンディーで生誕。8歳の時、両親が疫病で死亡。その後、どう扶養されたのか不明ですが、かなり早熟だったらしく、13歳で村の教師として雇われました。そこで資金を蓄えると、勉強のためパリに出ますが、パリで仲良くなったゴロツキに寝ている間に所持金と衣服を盗まれてしまいます。無一文のうえに病気になり、パリの病院に18ヶ月入院します。回復すると、また勉強資金を貯めるために、南部ボース地方に農夫として働きに行きました。稼いだ資金をもとに、パリのサント・バルブ学寮の教師の従僕として働き始めますが、主人の奉仕に忙しくて授業には出られず、ほとんど独習で学業を身に着けます。ギリシア語を独習でマスターし、スペイン語・ポルトガル語は学友からわずか数ヶ月で聞き覚えました。近所にユダヤ人がいると聞くと、行って文字を教わり、一冊の文法書と詩篇を教材にヘブライ語を独習しました。語学のみならず、ポステルは数学や哲学にも熟達し、20歳で文学修士となります。このサント・バルブ学寮で特筆すべきは、そこがイエズス会の中核メンバーが集まる場所であったということです。イエズス会の宣教精神は生涯にわたってポステルに影響を与えることになりました。

 上に見られるとおり、ポステルの特長は、その途方もない語学力です。その能力を買われて、26歳の時に、コンスタンチノープルに赴くジャン・ド・ラ・フォーレ使節団の同行者に選ばれました。途中、アフリカ大陸に滞在した後、ついに彼は初めて東洋の地を踏みます。彼はコンスタンチノープルに到着するやただちにアラビア語を学ぼうとして教師を探しました。ようやく探し当てたトルコ人は、実はキリスト教徒で、アラビア系諸言語で書かれた福音書を待ち望んでいる人たちの一人でした。この男に出会ったことが、東方にキリスト教を広めるというポステルの生涯の事業のきっかけとなったのです。彼は、それまで、ギリシア文芸にかぶれていた一書生にすぎませんでした。

 ポステルは、コンスタンチノープルで、アラビアの哲学・医学・数学・宗教についての本を大量に買い込みました。帰途、ヴェネツィアに立ち寄り、ヘブライ語文献を出版している著名な出版社ボンベルグの知己を得、シリア語版新約聖書を実現させるよう励まされます。ポステルは、ヴェネツィアでさらに資料を収集し、帰国後、処女作『文字の異なる十二言語概論』を出版します。さらに二冊の本(言語と文明のユダヤ起源についてと、古典アラビア語の文法書)を立て続けに刊行し、才気あふれる若き東洋学者としての名声を得ることになります。

 これほどの秀才を放っておくはずがありません。ソルボンヌに対抗するものとしてギョーム・ビュデの提言によって創設された機関(コレージュ・ド・フランスの前身)の教授に任命され、さらに1538年から1542年まで、国王フランソワ一世に数学と言語学を進講するまでになりました。彼には輝かしい学者としての人生が展けているように思われました。しかし、ポステルはここで最初の挫折を味わいます。宮廷内の陰謀に巻き込まれ、進講役を解任されてしまうのです。深く失望したものの、ポステルはそこに神の摂理を感じ、平穏な学者の道ではなく、厳しい伝道師の道を歩むことを決意します。霊感に打たれたように、彼は主著『世界和合論』をインクも凍るような寒い冬の二ヶ月で書き上げ、バーゼルのオポリヌス書店から出版します。この書は、各地に宣教に赴くカトリックの宣教師のためのマニュアルとして書かれました。理論は仕上がりましたが、後はそれを実現できる人材を探さねばなりません。ポステルは、イエズス会に白羽の矢を立て、徒歩でローマまで行って、イエズス会本部に入会の意思を示しました。かくも優秀で高名な人士が膝を屈して入会したことに、イエズス会は感激し、諸手をあげて彼を受け入れます。しかし、入会するとまもなく、ポステルは、故国フランスを中心としたキリスト教国家という彼の年来の思想を主張して、本部の基幹の考え、教皇への絶対服従を条件とした世界布教という考えと衝突します。そして、ついに代表のイグナチウスは逡巡の末に1545年、ポステルをイエズス会から追放するのですが、これは波乱万丈の彼の人生の一こまに過ぎなかったのです。

 イエズス会から離れたものの、ローマ滞在はポステルに決定的な余禄をもたらしました。知的刺激に満ちた交友の中で、彼は東方の魔術とユダヤ神秘主義、なかんずくカバラについての学識を深めました。その後、ヴェネツィアに移動し、聖ヨハネ・パウロ施療院の司祭として働きながら、最も重要なカバラ文献である『ゾーハル』の綿密な研究に着手して、ついには翻訳するに至ります。しかし、ヴェネツィア滞在の最大の収穫は、ある女性と知り合ったことでした。施療院で献身的に貧民や病人の世話をする50近い女性、他の者たちからは嘲笑されていたこの文盲の女性に、ポステルは深い感銘を受けます。そして彼女を「世界の母」「新しいエバ」と呼ぶのですが、彼女はポステルに『ゾーハル』の玄義のすべてを完璧に説明することができたということです。これが奇跡と言わずして何でしょうか。1547年以降の自分の著述の一切は世界中にヴェネツィアの童貞女に生じた奇跡を知らしめるためにだけ書かれた、と彼は後にフェルディナント国王宛ての書簡で言明しています。

 1549年の夏、ポステルは聖地に向ってヴェネツィアを船で発ち、エルサレム、コンスタンチノープル、および中東の各地を一年半に渡って巡ります。そこで多くの知識を蓄え、著述のための大量の本を買って再びヨーロッパに帰還すると、ポステルの盛名は再度ヨーロッパ中に鳴り響くまでになっていました。アンリ二世の妹、マルグリット・ド・フランスや年老いたロレーヌ枢機卿に寵愛され、今一度快適で名誉ある地位を手に入れたかに思えました。ところが、ここで彼の生涯の中盤を激烈に彩る発作が起きるのです。肉体的、精神的な極度の苦しみの中で、2年前に死んだヴェネツィアの童貞女が彼の精神にとりついて、激しい神秘主義的恍惚の中、自分こそ千年王国の選ばれた預言者であるという思いに支配されるのです。短期間におびただしい著作を発表し、あらゆる公的機関、教会、宮廷に手紙を書いて自分の思想を説きまくり、ヨーロッパ中を巡りまわって、精力的に運動しました。1556年に終末がくるという予言を立てて、その年に間に合うよう急いでいたのです。この頃から、すでに、ポステルは狂人の疑いをかけられましたが、反面、熱烈な追随者も現れ、その著作はいたるところで読まれました。

 そして、ついにポステルはヴェネツィアの審問にかけられ、狂気(amens)とみなされて4年間の獄中生活を強いられます。刑を終えて出てきたポステルは、まだ諦めずに各地を訪れて自らの思想の普及につとめ、パリに姿を現したとき、パリ高等法院は人心を惑わすこの男をやむなく査問にかけざるをえませんでした。法院は、ヴェネツィアの審問官同様、彼を狂人と断定し、パリから離れたサン・マルタン修道院に幽閉する処置を決定します。以来、死ぬまで18年間、ポステルはその修道院で過ごしました。最初こそ監視されたものの次第に規制は緩やかになり、友人を見舞いにパリに出たり、講義の席を設けたり、聖地巡礼を果たした人間が行列する祭りには必ず参加したりしました。彼は、人々の愛と尊敬にかこまれて余生を送ったようです。人々は、この途轍もない博学な老人が話す東方の土地と人間について目を輝かして聞き入ったことでしょう。

 

 その生涯同様、ポステルの思想も複雑に入り組んでいます。「幻視者にして扇動家、旅行家にして文献学者、預言者にして理性至上主義者、ナショナリストにしてコスモポリタン、自然宗教論者にしてキリスト中心主義者、地理学者にして歴史学者、キリスト教カバリストにして反ユダヤ主義者、東洋学者にして十字軍の提唱者、イエズス会士にしてアンチ教皇、教会統一論者にして比較宗教学者、地図製作者にして活字製作者、世界和合論者にして終末論者、碩学にして狂人、、、。ギョーム・ポステルは、ルネサンスという時代が否応なく突きつけてきたほとんどすべての諸問題に生真面目に対峙した、、、。彼が体現している矛盾はこの時代の矛盾でもある。ポステルという多面体は、その鋭敏な知性と感性によって万華鏡のように多彩で多様な側面を持つルネサンスのほとんどすべてを映し出している。」(訳者あとがき)

 なんとも複雑な人物ではありませんか。しかし、ウイリアム・J・ブースマは、ポステルの重層的で多彩な思想のほとんどが、孤立したものではなく、その先行者が存在したことを細かく跡付けています。その読書の量と範囲が並ではなかったのです。ヴェネティアの異端審問官がポステルを狂人と判断したのも、当時の人々にはほとんど馴染みのなかったユダヤ神秘主義とイラン・イスマーイール派の神秘思想が特別に異様に思えたからでしょう。

 16世紀の西欧世界を覆っていた気分、それは神と人間との絶対的乖離でした。これは中世以来、人々が抱いていた大いなる懸念で、神に見捨てられ、悪の跳梁する世界は、対外的にはイスラムの脅威、対内的には教会の堕落に象徴されていました。「遠ざかる神」という意識がクザーヌスの「無知の知」を生み出し、神の不可知性を信ずる唯名論者は信仰の基盤を知性よりも意志におき、アヴェロエス主義者は信仰と理性を分離し、プロテスタント改革派は神と人間の仲立ちをする既存の機関は不十分であると考えました。

 ポステルも、この問題を誰よりも執拗に考えました。そして、世界が崩落に向っているという切迫感が、彼を奇矯で熱狂的な行動に駆り立てたのです。人間性の堕落を信じていながら、しかし、彼は決して将来に絶望していませんでした。ニコラウス・クザーヌスやルフェーブル・デタープルのように、すさまじい懲罰を予告しながら、キリストの究極の勝利に希望を抱いていました。そして、ヨアキム派(13世紀のフィオーレのヨアキムの後継者たち)が信じていたように、キリスト教世界の腐敗を新しい時代の確かな兆候ととらえたのです。ポステルの生涯には、この悲観主義と楽観主義が混在しているのですが、その絶妙なバランスが彼を行動の人間にさせていたのでしょう。

 実は、ポステルの思想にはひとつのバイアスがあって、それは真理は永遠なり、という固い信念でした。したがって、真理は最初の人間に明示されていたはずであり、また世界中のあらゆる人間に明示されているはずです。ただし、アダム以降は、真理は聖なる言語に隠されて、アダムからエノクに口伝で伝えられ、そして最終的にノアに伝達されたということです。これこそカバラ(伝承という意味)の拠って立つ所以なのです。この信念は、ポステルに、秘教的真理は存続し、至高の宗教的真理は最もありそうにないところにも途絶えることなく保たれてきた、という確信をもたらしました。これがあってこそ、ポステルの異民族に対する敬意の意味がわかるのです。エラスムスは、トルコ人を単なる野蛮人としか見ませんでしたが、ポステルは真理というものに到達するためには、そのような偏見を打破しなければならないと主張しました。彼は、トルコ人の尊敬すべき文明、高利貸しの禁止、喜捨、高度な手芸品、優れた裁判制度、簡素な衣服、丁重で愛想のよい会話、子供の教育への配慮などを力説します。宗教的資質において、女性が男性より優れているように、東方の知力は西方よりも勝っている、とポステルは書きました。東方旅行記の熱心な愛読者であったポステルは、フランシスコ・ザビエルの通信から、日本を自然理性の一種のユートピアとして描き、「日本人は、もしキリスト教徒になれば、世界で一番完全な人間となるだろう」とも書いています。

 しかし、かつての真理は、今や閉ざされかかっていることに間違いはありません。完全であるべきものに綻びが生じたのです。この理由をポステルは、イエス・キリストの御業は、人間の天上的な部分(男性原理、アニムス・ムンディ)のみを救ったので、人間の地上的な部分(女性原理、アニマ・ムンディ)は、救われずにそのまま残ったからである、と説明します。よって、第二のエバ、第二のエリアによって再び調和が回復されぬ限り、人類はこの闇の中にいるであろうと。これは、オリゲネスの万物復元の思想を思い起こさせます。

 しかし、ここで大事なことは、ポステルにあっては、女性原理、アニマ・ムンディが決して下位のものとして規定されてはいないことです。地上は天上より低い位階ではありません。女性はその宗教的資質においてむしろ男性より優るのです。中世以来、弱さの根源とされた女性は、それゆえに宗教的救いに敏感であり、優れているのだとポステルは言いました。彼が、中世・ルネサンスの予言運動において女性が傑出していること(カタリナ、ヒルデガルト、メヒティルト、ビルギッタ、フォリーニョのアンジェラ等)を詳説するとき、そこには古来の女預言者シビュラの伝統への畏敬があるのです。

 「神は世界を、下の層が上の層を正確に映し出すよう創造した」とポステルは書いています。否むしろ、神は下の層にこそ反映されると言わねばなりません。世界は万物照応の壮大な体系であり、どんな些細な個物も全体を反映し、あらゆる対象が宇宙全体を含み持つ意味の象徴となりうるのです。神を知ることは人間には不可能かも知れない、人間は可感的な事物しか認識できないかも知れない、しかし人間はそのような可感的な事物(自然)を通してしか神を知り得ないがゆえに、自然こそ神なのです。「女性原理とは、人間経験に参入する神の現前である」という『ゾーハル』の言葉の意味はここにあるのです。

 そして、これがキリストが人間の霊的次元(つまり魂)しか救えなかった理由となるのです。男性原理(アニムス・ムンディ)は知性の領域に限定されるために、一般的イデアとしてしか関われません。例えば、キリストが一般の不死を保証するものであっても、個々人の不死を可能にするのは女性原理によるのです。ですから人間と宇宙、人間と神との調和を取り戻すためには、女性的なものの介入がどうしても必要となってくるのですが、これはもうカバラの世界そのものです。

 カバラとはユダヤ教の秘教的側面の一種で、離散ユダヤ人の知的折衷主義を背景に生まれました。ピュタゴラス主義、新プラトン主義、グノーシス主義、さらにはゾロアスター教といった魅力ある思想が混交され、それは中世に入って、南フランスやスペインのユダヤ人によって徐々にまとまった文書の形をとり始めました。最も有名な文献は、中世前期に作成された『セーフェル・イェツィラー』すなわち『創造の書』、12世紀のプロヴァンスに現れた『セーフェル・ハッ・バーヒール』すなわち『光明の書』、そして13世紀後半のカスティーリア人カバリスト、モーシェ・デ・レオンによって書かれた『ゾーハル』すなわち『光輝の書』です。

 ポステルは、この三書ともに精通しており、『セーフェル・イェツィラー』は最初のラテン語訳を詳細な注釈つきで出版し、『ゾーハル』のかなりの部分を翻訳しました。カバラに影響を受けた中で最も有名なルネサンス人といえばピコですが、彼の知識は主に『ゾーハル』の凡庸な注釈に負っており、その後継者と言えるキリスト教カバリスト、ロイヒリンの情報源は『ゾーハル』以前の文献でした。これに対して、ポステルは、カバラの重要文献のみならず、より重要度の低い文献にも精通しており、さらにカバラ以外の様々なラビ聖書も渉猟していました。ポステルこそ、西欧ルネサンスの折り紙つきのカバラ研究者といえるでしょう。

 さて、カバラ文献の中で最も著名で、ポステルも多く依拠しているのが、『ゾーハル』です。彼は、自分の縷説した種々の著作はすべて『ゾーハル』の補遺にすぎないとさえ言っています。『ゾーハル』の作者モーシェ・デ・レオンは、青年時代にマイモニデスを研究していましたが、その知的合理主義に不満を持ち、自らの神秘主義的教説を織り込んだ一種の哲学的小説を創り上げました。それが『ゾーハル』にほかなりません。空想的なパレスチナを背景にミシュナ(トーラーの註解)の高名な教師ラビ・シムオーン・バル・ヨーハイが、息子エレアザル、友人や弟子とともに遍歴しながら、彼らとともに人や神に関わるすべてについて議論します。カバラの決定版にふさわしく、そこにはそれまでのカバラの主題がすべて再説され、カバラによって残された多くの古来の伝承が書き留められています。

 ところで、カバラの魅力とはいったい何でしょうか。旧約聖書が一方的な神の専制支配の物語であるのに対して、カバラは神と人間をつなぐもの、人間の素朴な問いかけと、その巧緻極まりない返答です。20世紀における最高のカバラ研究者ゲルショム・ショーレムはつぎのように書いています。

 「カバラ神学の体系に特徴的なのは、何かしら神話的なものが再び息を吹き返した世界を構築し、記述しようと試みている点である、、、。神秘家も哲学者もどちらもいわば思考の貴族である。とはいえカバラ主義こそ、万人の精神で働くある根源的衝動を、自らの世界と関連させることに成功した。カバラ主義は人間生活の原始的側面に背を向けなかった。すなわち人間が生を案じ、死を恐れるあの肝心要の領域、合理的哲学からは貧弱な知恵しか引き出せなかったあの領域に背を向けなかったのである。哲学は、人間が神話を織り上げる糸にするこれらの不安を無視し、人間の実存の原始的側面に背を向けたために、人間との接触も一切失うという高い代価を支払うことになった、、、。カバリストは自らの奮闘と、迷信とも呼ばれうる民間信仰の核心的関心、そしてこれらの不安が表現される場である日常生活での具体的現象の一切をはからずも関連付けたのである。」(『ユダヤ神秘主義』)

 カバラの本質を実に的確に説明しています。なお、グスタフ・マイリンクの小説『ゴーレム』には、カバラについての重要な示唆が各所に隠されていますが、というよりこの小説全体がひとつのカバラ解釈となっているのです。

 さて、カバラの著述家たちは、永遠、無限、不易、不動である神が、どのようにして世界を創造したかを考えました。神が、たとえばダンゴムシのような卑小なものを手ずから設計製作したなどと考えることは不可能です。必ずや仲保者がいたに相違ありません。カバラは超越神の有限な働きについて、それをセフィロートと呼ばれる10の等級にわけることで一つの解釈を与えました。セフィロートは順位が下るにつれて、人間が経験的に近づきうるものとなります。第一セフィロートはエン=ソフで、究極の超越、無限、否定によってのみ定義できる神です。しかし、エン=ソフが自らの深遠に退却すると、そこから一連の創造の衝撃が発し、ひとつがもうひとつを連鎖的に誕生させ、10のセフィロートの体系が完成します。セフィロートは、神が人事に介入する手段であり、神の自己顕示の方法なのですが、それは同時に、人間が究極の真理を理解し、神との一致へと至る上昇の経路でもあるのです。

 ポステルは、とくに第10のセフィロートである「シェキナー」に注目しました。セフィロートの最後、最も下位に位置するシェキナーは、創造世界で直接働く神格の様相であり、人間からすれば、神との交わりの入り口です。ポステルは、シェキナーの現前が地上の女性原理によって現されると考えました。つまりポステルにとって女性原理は、神が物質世界に関わる手段、永遠の存在と時間に限定された存在が出会う場なのです。この知識なくして、「完全に不動の神がいかに摂理の個別的働きをなすのか、無限と有限はいかなる関係もないのに、無限の神性と有限の人間がキリストにおいて一致することがいかに可能となるのか、誰も教えられない」とポステルは断定します。

 さらに、ポステルにはカバラにも記された終末論があります。しかし、まずアウグスティヌスから話さねばなりません。アウグスティヌスは世界の終末が来ることも、終極の平和と正義が実現することも信じてはいなかったようです。彼は、ただ真の平和は各人の魂の中でだけ実現すると考えました。アウグスティヌスは、当時影響力を持っていた千年王国主義に断固反対し、キリスト教により現世での道徳が段階的に向上しうる可能性も否定しました。彼は救いは霊的次元で十分だと考えていたのです。恐らく、彼の時代にはまだ教会がその地上的役割を果たしうるという楽観があったのでしょう。しかし、13世紀のヨアキム派は、教会の堕落を批判し、教皇を反キリストと同一視することで、古い終末論に新たな息吹を吹き込みました。実は、ヨアキム主義の本質は、聖フランチェスコの目標を終末の時代の叙述に書き換えたところにあるのです。聖フランチェスコはアウグスティヌスの教えの生きた見本ともいってよいもので、その目標は魂の平安による世界の平和です。フランチェスコ自身は終末の訪れを信じず、アウグスティヌス同様、それは人間の魂の中だけで起こりうることだと思っていました。ところが、フランチェスカの衣鉢を継ぐ者たちのなかに、ヨアキム主義に傾倒する者が現れて、西欧中世精神史にヨアキム=フランチェスコの終末論の大きな流れが出てきたのです。ヨアキム派にとってはフランチェスコ自身が、新しいエリヤ、反キリストに対する第一の証人、新しい黄金時代の先駆者となりました。この黄金時代において、万人は直接的で霊的な理解に基づく共通の信仰において統合され、世界平和と正義が行き渡ります。こうして天の王国は地上で実現するのですが、ポステルがこの考えに深く影響されたことは間違いありません。

 長くなったので、最後にポステルのユマニスト的側面を紹介しておきましょう。彼は、カバリストであると同時に、なんと啓蒙思想の先駆者でもあるのです。人間とその理性を信頼し、神が創造したもので、無駄なものはないと考えていました。そして、ここがアウグスティヌスと違うところなのです。パウロを読んで回心したアウグスティヌスは、人間は原罪によって堕落し、救いは神の恩寵によると理解していたようです。ところが、ポステルは、パウロなど一顧だにせず、神の愛という概念も考慮の外でした。ポステルの好んだ人物はヨハネで、その黙示録(彼は黙示録なら、エチオピア版エノク書ほか何でも熟読していました)は彼の愛読書のひとつでした。また、原罪という思想もポステルは全く重きを置きませんでした。彼の考える人類の真の出発点はノアで、彼と彼の子孫から現代の世界は生まれてきた、と書いています。救いは恩寵にあるのでなく、神が蔵している原初の秩序を人間が理解しようとしないその無知にあると考えました。

 ポステルは無知こそ悪の根源、魂の不調和の根本的な原因と考えます。人間は生まれながらに罪を負っていると語るプロテスタントには、健全な心の持ち主であれば罪を犯すことはありえないと主張しました。彼はこう断言します。万人は本性的に善を欲し求める、もし善に到達することがかなわなかったとしても、その原因はたんに無知だからである、そして無知が原因で罪を犯したのならば、神に責められることは決してありえない。「なんとなれば、自分の子が無知だからといって責める親がどこにいるか」。これは魂を揺り動かすような訴えです。

 ポステルには、フランスが世俗の王国を統治すべきだというナショナリズムに似たものがありました。これは複雑な彼の思想の中でもとりわけ首をかしげるところです。後のジョセフ・ド・メーストルを思い出させますが、ポステルはメーステルほど冷ややかでも気取ってもいません。セセルなどの当時のフランス王党派と考えが非常に似ていますが、ポステルは政治的信念より宗教的信念がはるかに優っている(彼は懐疑派でも保守派でもありません)のが特徴的です。ギョーム・ポステルは、いずれにしても一筋縄では捉えきれない人物、ルネサンスの闇の中に潜む怪物そのものです。

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2010年9月11日 (土)

ハンス.H.ホーフシュテッター『象徴主義と世紀末芸術』(3)

 死の一年半前に、ヴァン・ゴッホは、弟テオやゴーガンへの手紙の中で、「揺り籠を見守る女」について書いています。両側面を向日葵の絵でかこんだ、三幅対祭壇画形式のスケッチと、画家が手紙に書いた発言が証言しているところによると、これは事実たんなる肖像画ではなくて、象徴画だったのです。

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 「揺り籠を見守る女」は、椅子に腰をかけて手に揺り籠を揺らす縄をにぎっている一人の女を描いていますが、ルーラン夫人をモデルにしたこの画は、ゴッホによれば、ブルターニュ地方の伝承による伝説の人物らしいのです。「夜、海で、漁夫たちは船の行手にまぼろしの女を見る。それは子供がむずかるときに紐を引いて揺すってくれた乳母の姿だから、彼等はちっとも驚かない。彼女はつらい生活になぐさめと安静を与えてくれる子守唄ー船底の歌ーをうたいに戻って来たのだ。」(『ゴッホの手紙』岩波文庫) そして、彼はこの三幅対の画を、アイスランドかどこかの漁船の中か、あるいはマルセイユやサント・マリーの船員が利用する宿屋の壁にかけてほしいと書いています。ゴッホが、若い頃、炭鉱労働者や貧しい人々に福音を説いてまわる俗人牧師であったことを思い出して下さい。ゴッホの晩年の多くの絵のようにこの画は悲痛な人生を送る人々への慰めのために描かれたのです。それは、母親の内部に庇護されている状態への郷愁のイマージュとして描かれ、左右の側面の向日葵は、ゴッホの絵では常に太陽と同じく宇宙の象徴であり、その黄色は神性と愛の光を表しているのです。「このような意味においてこそ、「揺り籠を見守る女」は十分に理解されるであろう」と、ホーフシュテッターは書いています。

 三幅対祭壇画形式のこのスケッチが描かれたのは、ゴッホが自分の耳を切り落とした事件の後、自分からすすんで精神病院に入っていた頃でした。つまり1889年のことです。この頃、ゴッホは、ますます逼迫してくる生活に喘いでいました。彼の画は、まったく売れず、クズとしてまとめて燃やしてしまう画商さえいたのです。楽しみにしていたゴーガンとの共同生活の破綻も彼には打撃だったでしょう。画家仲間から信頼され、互いに切磋琢磨できることが彼の願いだったからです。そして、なによりゴッホを苦しめたのは、その病気でした。手紙に見られる彼は、知的であり、平常な神経を持っています。しかし、いったん発作を起こすと、自分を忘れてしまうのです。精神病院に入ったのも、ゴッホの奇行を心配した近所の人たちの役所への訴えがあったからとのことです。そういうことは、たぶん、ゴッホの心に重くのしかかったはずです。精神病院で彼は、突然大声で叫ぶ人間や、四六時中黙ってうずくまっている人間を見ました。「そういう人たちを見ると、発作への恐怖が薄らぐ」と彼は書いていますが、その時のゴッホの強烈な願いは、この病気が治ること、発作が徐々に揺るやかに、そして完全におさまってくれることだったでしょう。彼は、画に集中している時だけ、発作の恐怖から遠ざかり、心が平静でいられたようです。ゴッホについてもっとも良い文章を書いたアントナン・アルトーとローベルト・ヴァルザーが、ともに精神病院の入院患者だったことを思い出しましょう。とくに『ヴァルザーの詩と小品』(みすず書房)に収められている「ヴァン・ゴッホの絵」というエッセイは、一語一語が深く身にしみます。

 1890年7月27日、ゴッホは滞在していたオーヴェールの旅館を出て、野原で胸にピストルの弾を撃ち込みました。恐らく発作に襲われて、狂おしい自己嫌悪の果てに、苦しみから脱却すべく引金を引いたのでしょう。彼の病はそれほど重かったのです。何という悲しい定め、何という残酷なむなしい最期でしょう。彼は、いつか自分の画が、それに費やした絵具以上の価値がでるか自問していました。もう少しの自信、もう少しの愛情、もう少しのお金さえあれば!

 ジェイムズ・アンソールやエドゥアルト・ムンクは、精神病院から正常の世界に帰還できましたが、ゴッホはその闘いの途上で倒れました。ホーフシュテッターはつぎのように書いています。

 「世紀転回期の三人の大芸術家がほとんど狂気すれすれのところに立って、夢と現実と幻想の境界に生き、これを絵画の世界になんとか押しこもうとする。三人の芸術家とは、ヴァン・ゴッホ、アンソール、ムンクである。第一の画家は彼が見た幻についに圧服されたが、他の二人は深刻な危機のあとふたたび現実にたちもどっている。だが同時に、幻視的眺望は彼らの眼には閉ざされてしまったのだ。三人とも、主観的前提に根ざして他の人間にはほとんど追体験されない原本的ヴィジョンをその画面に造型したが、これらのヴィジョンの意味は、しかし、今日ではだれにもおぼろげながら感じられている。」

 ホーフシュテッターは、この文章で、三つのことを明らかにしています。まず、ヴァン・ゴッホやアンソールやムンクが描くことができた幻視的眺望(象徴)は、ある時期から彼らには閉ざされてしまったということです。ゴッホはむろん自殺することによって。アンソールの場合、25歳から32歳頃までに想像の力はほぼ尽き果ててしまったようです。それ以降89歳で死ぬまで彼はほぼ凡人として生きました。ムンクは、二人よりその能力を持続したものの、40歳すぎにはすでにその最も深い特質は失われています。これらのことは何を示しているのでしょうか。それは、他の人の見えないものを見るという力は天恵であり、わずかの緩み、驕り、また疲労で容易に失われてしまうものだということです。おそらく、それは神秘主義に酷似しています。例えていえば、高い建物の間に張り渡したロープの上を渡るのに似ているでしょう。それを渡るためには、自らから余分なものを取り去って、一歩一歩に魂を集中して、なおかつ精神のバランスを保たねばなりません。しかし、ほとんどの自称神秘主義者は、最初の一歩で転落してしまうのです。

 つぎに、ホーフシュテッターが指摘しているのは、彼ら三人とも、主観的前提に根ざしたヴィジョンを持っていたということです。ゴッホやアンソールやムンクの作品に感情移入していくということは、少なくとも彼らの伝記的事実のいくつかを知らなくてはなりません。というのも彼らが辿りついた象徴形式は、その出生、生い立ち、環境に深く影響されているからです。それが、不労所得をあてにできたフェリシアン・ロップスやギュスターヴ・モローと違うところです。この二人は、いかなる圧力にも邪魔されず、意図したものを創造していくことができました。また、それはアルノルト・ベックリンやマックス・クリンガーとの違いでもあります。ベックマンやクリンガーは、自分たちの鋭い理性と感性が生み出したものを、当時のもっとも洗練された形式で描くことができました。それは、いわば職人の手仕事といってよいのです。また、オディロン・ルドン(彼はアンソールやムンクより20歳以上も年長ですが)の作り出した死の象徴は、伝記的な源泉というよりはるかに文学的なものです。

 最後に、この三人の描き出したヴィジョンは、今日に至って、はじめて人々におぼろげに感じ取られるようになった、とホーフシュテッターは言っています。苦しみでねじれるような糸杉、仮面で埋めつくされた肖像画、橋の上で叫ぶ人間など、かつては異貌と思われていたヴィジョンも、人生と世界の恐るべき写像のひとつと思われるようになりました。むろん、そこには、全体主義の恐怖や大量虐殺や核兵器の凄惨さの経験があります。

 ジェームズ・アンソール(1860-1949)はベルギーのオステンドに生まれました。父親は無職でアル中、よって家族からは疎外されており、家の実権は母親と姉と叔母に握られていました。この女たちが、屋根裏部屋で無用の画ばかり書くジェームズを冷たい眼で見ていたことは間違いありません。彼の画は全く売れず、やっと訪れた肖像画の注文もできあがった画が注文主から突き返されるに及んで女たちの彼への非難は頂点に達しました。27歳の時、唯一の理解者だった父親が死んで、彼はますます孤独の世界に浸りこんでいきました。生涯の恋人である女性との結婚も家族の反対であきらめました。40歳を越して、ようやく名声が高まり、マネやセザンヌ並みの賞賛を受けるようになると、家族はすでに創造力の枯渇した彼にむりやり仕事を続けさせようとしました。アンソールは30歳過ぎにはもはや画家としてのピークを通り越していたのです。母と叔母が死んで、彼が本当に自由になったのは60歳近くなってからでした。美術批評家の久保貞次郎は、「狂気の人と呼ばれたロートレアモン、ラフォルグ、ゴッホ、ランボーらがこうむったと同じように、アンソールは中産階級の実利主義の攻撃をうけ、地面にたたきのめされたのである。」と書いています。

 アンソールの母親は、オステンドの海水浴場で土産物屋をやっていました。そこにはオステンド名物のボール紙で作った仮面も売っていました。毎年の謝肉祭には、町の人々はこの仮面を被って仮面舞踏会に興じるのです。その土俗的な原色のグロテスクな仮面は子供のアンソールに深い印象を残しました。彼は、幼い頃から幻想が内面に入り込んでくる体質で、一人で過ごす屋根裏部屋でさまざまな妄想に耽ったようです。ある夜、明かりにさそわれた大きな海鳥が窓から入ってきて揺籃を突き動かしました。この恐怖と魅惑は大人になっても忘れられることはなく、幻想的なことが現実を侵食して、彼はその魅力に打ち倒され、それを十全に味わいつくし、それと遊ぼうとさえするのです。仮面と骸骨の幻想的・戦慄的な彼の画はこうして生まれました。

 ブリュッセルの美術学校で3年間学んでのち、アンソールは印象主義的な画風でその画歴を始めますが、すぐに、この方法では現実を全く描ききれないと考えるようになります。彼は、カフカの『変身』と同じやり方で、つまり絵画を人生に突如訪れた威嚇と運命として描き始めます。しかし、彼の画は、当時ヨーロッパで最も前衛的な美術集団からも出品を拒否され、自ら発表した作品も批評家からぼろくそに酷評されてしまいます。そして、この苦難の20歳代に彼の代表作のほとんどが描かれだのでした。それでは、彼の銅版画「死が群衆を追う」(1886)を見てみましょう。

 

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 アルフレート・レーテルの「絞殺人としての死」では、驚き、恐れ、逃げ惑う大衆は、まだ人間の顔をしていました。ところが、アンソールの版画の中の狭い街路を混乱して殺到する群衆は一人一人が愚かでグロテスク、中には道化師の姿や仮面やぬいぐるみを着た人間もいます。彼らはパニックを引き起こしながら、その恐怖の実態がわからず、やみくもに破滅に向って突き進んでいます。アンソールが理解していた群衆とはこのような人たちで、そこには啓蒙主義が作り上げた「理性的人間」へのすさまじい憤怒があります。人間は病みやすい、脆い存在です。仮面を被るのはあれほど称揚された個人の自由と責任という重荷から逃れるためであり、その結果、グロテスクな内面が拡大されてあらわれるのです。画面中にたくさん跳梁する死神も、(レーテルの威厳に満ちた死神とは対照的に)滑稽で、人間たちを嘲るように遊んでいます。死神も人間も、これ以上救われることのないように堕落しています。秩序、福祉、公衆衛生など19世紀が理性的人間のために築き上げた幻想のこれほど無残な終焉はありません。

 この奇怪なヴィジョンの真実性は、群衆がまっすぐに前方上部に、つまり作者に向って押し寄せてくることの恐怖にあります。作者も、この仮面の中に呑み込まれ、この群衆の一部と化すのです。この絶望は、彼の代表作「キリストのブリュッセル入城」にも正確に再現されています。おびただしい群衆がブリュッセルに現れたキリストを先導して、画面前方に歩いてくるのですが、その全員は醜い仮面を被り、中には骸骨さえいます。キリストの神々しさに比べ、群衆の何と愚かなこと。すでに18世紀にドルバックが指摘しているように、群衆は、病気の人を治し、足の悪い人を歩けるようにしたこの立派な人間をすすんで磔にしたのです。

 エドゥアルト・ムンク(1863- 1944)は、主観的経験に根ざした象徴主義を代表する人物です。ムンクの作品は、忘れがたい出来事のまとわりつく記憶というわけではなく、何かをきっかけに突然よびおこされた記憶、決して忘れることのない根本的記憶に根ざしているのです。家族の病気と死、それによる孤独、これがムンクがたえず喚起させられるテーマです。母の死、姉の死、妹の精神病、それはムンクを自己崩壊一歩前まで追い込みました。「住みなれた秩序の中へ突然闖入してくるものとしての死、集団の運命ではなくて、個々の人間をそれ自身のうえへと投げ返す体験としての死」(ホーフシュテッター)なのです。これが、ムンクに、彼と似通った感性の持ち主、ベルギーの象徴主義画家フェルナン・クノップフの座右銘「頼れるのは自分しかない!」と酷似した人間のありようを体験させているのだ、とホーフシュテッターは書いています。

 ムンクは、この孤独を癒すために終わりのない愛欲の世界に浸ります。クリスチャンセン(現在のオスロ)きっての美男子といわれたムンクは81歳で死ぬ瞬間まで女性に囲まれていましたが、彼がそこに見出したものは、結局のところ同じ孤独でした。激しいあこがれに駆られて関係を繰り返した後に訪れるものは、幻滅と不信でしかなかったのです。どの女たちとも長続きせず、女たちはみな男を食い物にして生きている吸血鬼だという考えにとりつかれていました。しかし、ムンクは、彼女たちが男に献身する刹那の自己放棄を体験するたびに熱狂せざるをえませんでした。そして、事果てて後の興ざめな女に戻るとき、情熱は再び幻滅に終わるのです。

 ムンクはその苦しみに満ちた生涯の中頃に、画家としてのピークを迎えました。人生はすべて無益である。没落していく生のさ中で、無意味に燃えさかる愛とはいったい何か。それは、ひとつの性の他の性への避けがたい牽引としての愛である。彼は人生と和解しようとし、女性をその魅力と罪ゆえに愛そうと決意します。ユダヤ神秘主義の言葉で言えば、女性とは神が顕現する場所に他ならないのです。傑作「マドンナ、恋する女、受胎」を見てみましょう。

 

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 「恍惚たるオルガスムの状態にある一人の女が精子の群れに囲まれ、胎児の幻影を見ながら、生成と幻影の流れに結びこまれている。女の献身は、同時に、成就と定めを内包している。」とホーフシュテッターは書いています。「そこに聖なるものの存在を理解して、教会の中に入ったときのように脱帽すべきである」というムンク自身の言葉を付け加えることもできるでしょう。まさに、人生は、脆さのうちに、癒されぬ苦悩のうちに、無益な欲望のうちに聖化されるのです。

 

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2010年8月27日 (金)

ハンス.H.ホーフシュテッター『象徴主義と世紀末芸術』(2)

 暑い夏の日には、冷房の効いた部屋でアイスコーヒーを飲みながら読書するなんて最高ですね。私には、それ以上の快楽は思いつきません。ところが、今年の夏ときたら、クーラーをきかせてもなかなか涼しくならないし、廊下に出ると熱気に襲われ、外出すると頭がふらふらになります。 こういう時は、厚く彩色された絵画を鑑賞する気分になれず、たとえば、アルフレート・レーテル(1816-1859)の木版画「絞殺人としての死」などを見ながら、ひとしきり考えに耽るのです。

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  これはまさに戦慄すべき版画ではありませんか。1831年にパリの仮面舞踏会で起こったペストによるパニックを描いたこの画の中心に君臨するのは中世以来の「死の舞踏」で知られる骸骨です。彼は二本の骨を巧みに使ってヴァイオリンを奏でています。歯をむきだして笑っている表情が、さらにその恐怖を倍加します。すでに舞踏会の床は仮面をつけたままの死者で覆われています。しかも、死神は一人でなくこの会場のいたるところにいるようなのです。画面の奥には王のように威厳を持った二番目の死神も座っています。必死に逃げ出そうとする楽団員の眼差しの先には別の死神も映っているのでしょう。祝祭の中の恐怖、歓楽の突然の沈黙、逃れられない凶暴な死、ここには運命の多様なこだまが聞こえてくるようです。ホーフシュテッターは、すでにこのレーテルの版画には中世の「死の舞踏」の持つアレゴリーを超えて象徴に至るものがあると言っています。ホルバインの「死の舞踏」は、ただ人々に「メメント・モリ」(死を忘れるな)と伝えるだけの此岸的なものでした。しかし、レーテルの版画は、死がすでに一つの仮面として長い間人々のところにとどまっていて、そしてある日突然に仮面をかなぐり捨てて人々を拉致さってしまうのだと教えているのです。中央の骸骨は、左腕につい先ほどまでつけていた仮面をぶらさげているではありませんか!

 アルフレート・レーテルは、アーヘンに生まれ、デュッセルドルフ、フランクフルトで画を学び、二度イタリアへ遊学した後、35歳で結婚しました。しかし、36歳で精神病を発症し、43歳でデュッセルドルフで亡くなりました。「絞殺人としての死」を含む木版画の連作「死の舞踏もまた」の最後の何葉かは、画家が精神の闇に落ち込む2年前に成立しています。

 アルフレート・レーテルを継いで、19世紀後半のドイツ版画を代表するのはマックス・クリンガー(1857-1920)です。彼の「死について」の銅版画連作から「鉄路の上の死」(1889)を見てみましょう。

Death

 山岳地帯の深い谷底にそって鉄道線路が急カーブで走っています。線路の上に、骸骨が足を組んでのびのびと寝そべっています。汽車はもう間近に迫っているに相違ありません、というのも骸骨は口笛を吹くように口に二本の指をくわえているからです。その楽しそうな表情から、この骸骨は鉄道による死者ではなく、死者を冥府に運ぶ死神だということがわかります。19世紀末にはすでに鉄道網はヨーロッパのほとんどの場所を覆っていました。それまではこのような人里離れた場所で命を落とす人はまれでしたが、今では労せずして死者の魂を手にすることができます。周縁の装飾枠の中には、鉄道事故で死んだ人たちの顔がまるで幽鬼のように浮かんでいます。下には、線路が生命を持った植物のごとくはびこっています。それはまるで、死の舞踏が、新たに加えた富を誇っているかのようです。

 クリンガーは、この連作「死について」に、次のようなモットーを付与しています。

 「われわれは死の形態を逃れるので、死そのものを逃れるのではない。なぜならわれわれの至高の願望の目標は死だからだ。」

 ロマン主義の残滓が感じられるものの、この言葉は真実そのものです。

 マックス・クリンガーは、ライプツィヒに生まれ、レーテルと同じく、ドイツ・アカデミズムの正統を歩んできました。そして、あらゆる技法を身につけた後には、ヨーロッパ中を渡り歩いて研鑽し、ドイツ・美術アカデミー教授、ドイツ美術連盟副議長などを歴任し、死の一年前に結婚し、63歳で卒中の発作で亡くなりました。

 彼はアルノルト・ベックリン(1827-1901)から強い影響を受けましたが、その本質はカント、ゲーテの流れをくむ市民的ヒューマニズムの完成の理念にありました。このイデアリズムが、当時のドイツのアカデミーの実証主義的自然・風俗画に飽き足らず、彼をドイツ象徴主義の大家、そして後のユーゲントシュティールの先駆者としたのです。代表作である10枚の連作「手袋拾得についての解釈」では、夢と現実、理念と表現が不意打ちのように交錯します。最初の二枚で、スケート場で女性を見かけ、その手袋を拾うという写実的な描写が見られますが、三枚目からは、手袋が夢の中に入り込み、解釈不可能な場面が連続します。他の男と去って行く女性が落とした手袋を拾う、という事実が、男を果てしない妄想に駆り立てます。夢が現実の中に忍び入るように、現実も夢の中に踏み込んできます。一見、ばからしいほど荒唐無稽なこの連作は、実は人間行動のありのままの姿なのです。私たちは、常に、現実と夢がないまぜになるように行動し、次第にはっきりしてくる合理的現実によって止揚され、裏切られるのです。

 クリンガーも創世紀について考え、アダムとイヴの堕落の観念に立ち戻りました。そして、人間の不幸と悲惨はことごとく愛から起こるという思想に逢着したのですが、その「出口のない苦悩」は連作「イヴと未来」にあざやかに描かれています。楽園の小川のほとりにすわって長い髪を梳かすイヴはまだ汚れを知りません。しかし、徐々に肉体の兆しが現れ、突然、画面いっぱいに官能の象徴である虎が出現します。やがて、彼女は悪魔の鏡に自分を映しながら虚栄心の泥沼に落ちて行きます。ついで、楽園からの追放、そしてイヴの最後の未来として「道路舗装工」の姿をした死神が続きます。「未来はその後裔たちにとって、一門の血統者の頭蓋骨が塵芥になるまでつぎつぎに粉々に粉砕する、道路舗装工のごときものであろう。」とクリンガーは書いています。これもまた戦慄せずにはいられない版画です。ここには、ブルジョア的経済ー進歩のオプティミズムへの徹底的な反感がある、とホーフシュテッターは言っています。

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 ところで、ドイツ19世紀の美術史というと、ベックリン(彼はスイス出身ですが)とクリンガーの他に、ミュンヘンで大変な人気を博したフランス・フォン・シュトゥック(1863-1928)がいます。貧しい粉屋の小僧から貴族まで成り上がったシュトゥックは、ほとんど無一文の修行時代を送りました。アカデミーの美術学校へ通うこともできず、生活のために、家紋や挿絵やグラフィックの仕事などにも手を染めながら独学で技法を習得していきました。それが、ベックリンやクリンガーの洗練された感覚と違って、何か画布の裏側から顔を出しているような人間味を感じさせます。一世を風靡した彼の名作「罪」を見てみましょう。

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 イヴとその体にからみつく巨大な蛇は、むろん誘惑と罪の象徴で、官能と悪徳が女の姿のうちに人格化されているのです。しかし、ここで罪は断罪されてもいれば、ひそかに渇望されてもいることに気づかねばなりません。誘惑は断固避けるべきだが、それを味わってもみたいのです。この画は訓戒を与えると同時に、刺激を亢進することを望む社会の意識の見事な象徴なのです。

 実は、シュトゥックのこのような作品こそ、19世紀後半のヨーロッパ象徴主義の秘密を集約しているものなのです。以下に述べるホーフシュテッターの解説はいささか図式的だが、本質を突いています。

  「サンボリスム芸術とは、根底において、分析がまったく不可能であるようなひとつの複合体なのである。」 ほとんど後期ロマン主義と重なり、ユーゲントシュテールや表現主義とも重複します。あえて、概念規定を試みるならば、「19世紀初頭に大革命の申し子として、ブルジョア芸術と同時に、しかもその敵対行動として成立した芸術。すなわち、誇張された、攻撃的なアンチ・ブルジョア芸術として、あまつさえときには背徳芸術として成立した芸術である。」さらに要約していえば、「19世紀全体、とくに世紀末に顕著な反社会的芸術のすべて」とすればあまりに強引過ぎるでしょうか。

 19世紀は革命とともに始まります。それは、たんに、政治的緒力の対立であるばかりでなく、精神の交代でもありました。新たに創立された人権という政治的基盤の上に啓蒙主義とブルジョア精神が相携えて闊歩してゆくのです。主導的な政治権力となったブルジョアジーは、その立場を強化するために、人権を発見するよすがとなった緒公準、すなわち政治的平等のみならず精神の平等もという理念を利用するのです。「大多数の人によろこばれるものが美しい」というアントン・ラファエル・メングスが、すでに1763年に言った言葉を敷衍して、ディドロは、さらに、芸術が社会的目的に従属することを納得させようとし、芸術に教化的な、道徳向上の使命を授けました。美徳が愛すべきものであるように、悪徳が嫌悪すべきものであるように、芸術家はこの社会の大原則に奉仕しなければならないのです。これが、まっすぐに1791年のダヴィッドの公式「芸術は、たんに眼をたのしませるだけでなく、民衆のたましいを鼓舞させねばならない」に結びつきます。ここから、国庫補助でまかなわれる美術学校の設立ー芸術を教育体系に編入することーがはじまるのです。

 こうした、ブルジョア的合理主義、レアリスム、実証主義、自然主義、科学主義に根ざした「わかりやすい芸術」という19世紀の概念は、実は21世紀の現在に至ってもその力を奮っているのです。さらに、その諸公準を支えるブルジョア道徳の根幹は、自由と民主主義をたてまえとする現代社会の道徳の中にも密かに生きているのです。「世紀末の信憑すべき証人」エドウァルト・フックスは、その『風俗の歴史』に次のように書いています。

 「個人の性愛は、すべての階級において、またすべての階級によって、結婚という唯一の合法的な基盤として促進された。人間対人間の連帯が万人にとっての紐帯であり、くびきとなるべきであった。近代のブルジョア国家は、家族や国家や共同体における総体の歴史的展開を完成させようとし、したがってまたあきらかに、真に美俗的な世界秩序の即位式を体現しようとした。性愛衝動の充足はしたがってたんに快楽行為を意味するばかりでなくて、子供を生むという願望を通じて聖化され、目的意識化されるべき性質のものであった。子供が婚姻の目的となる。同時にしかし、ひとは子供を財産や家名の相続者としてばかりでなく、人間性という概念の継承者として、人間性の枠と各人の奉仕のうちに位置づけようとする。」そのため、結婚は必然的に打算結婚となります。「ひとびとは出世街道を確実に、できるだけ脳髄の疲労をさけながら前進しようとする。計算が合えば、その他のことは全部合う。こうして選ばれた女性とは美人であり、よき主婦であり、要するに世人の要望そのものである。夫はといえば、これは手堅い人物、衆に抜きん出た実業家、堂々たる風采などである。かくして道徳の乳くり合いは、みずから作った幻想のなかで救護されるのである。」

 19世紀全体を通じて、このような「健康なブルジョア的良風美俗」に対する疑問がさまざまに現れていました。「お行儀のよい主婦と子供たちの母」に対して、サロメやメッサリーナやクレオパトラのような大娼婦が対置されました。剛直な、秩序制定者たる男性は、妖艶な魔女、魅力的な吸血鬼に身も魂も吸われていきます。オーブリー・ビアズレーやフェリシアン・ロップスが仮借ない筆致によって性的にいやらしいものを繰り返し描いたのは、ブルジョア的偽善の徹底的な仮面剥奪のためだったのです。

 反ブルジョアの芸術家たちは、次のような点において、ブルジョア美学とブルジョア的世界体系に対して戦いました。

 第一に、芸術は明白に規定しうる諸規則を規準とし、かかるものにしたがって教育できるという概念に

 第二に、世界や人間を実証主義的・自然科学的に理解することに

 第三に、その結果として、人間のもっとも自然な諸衝動の抑圧を隠しているブルジョア道徳に

 しかし、忘れてはならないことは、彼らが、こうしてアカデミックな規範から解き放された様式フォルムを用いて、ブルジョア的価値体系にがんじがらめにされている日常の背後で活動している事物を現実の明るみに出したところで、彼ら自身はやはりブルジョアジーの諸問題に、その創作において密接に結びついていたことです。無神論者がキリスト教世界に結びついているのと同じように、ボヘミアンがブルジョアの社会秩序に結びついているのと同じように、彼らはブルジョワの世界に結びついているのです。彼らは、彼ら自身が反対する世界観に、彼ら自身も繰り込まれているという二律背反を苦悩のうちに体験せずにはおかなかったのですが、それでも、彼らには二つの突破口がありました。ひとつは、美学的絵画的に規格化されたブルジョア的価値基準を解体ないし破壊することであり、もうひとつは、此岸の背後にひそむ第二の現実の多少とも構成的な観念構築のうちにあります。

 啓蒙主義のいや増す前進において、理性に対立する反世界、愚行、不条理、狂気、そして何よりも迷信が徹底的に弾劾されました。そして啓蒙主義によって武装された王政復古ブルジョアジーの道徳法則は、理性のこの夜の側を呪縛しようとする傾向をあからさまに見せていました。しかし、抑圧された夜の仲間たち、迷信や狂気は、姿を消したわけではなく、むしろ理性の影でその巨大な牙を磨いていたのです。いや、影に潜んでいるというより、理性への野放図な信頼こそ野蛮そのもの、非理性そのものなのです。

 人間は、結局は、獰猛な非理性に翻弄され、制圧され、没落していくのだというペシミズムは、芸術家たちを、この人間の生の姿を徹底して暴き出すという情熱に駆り立てます。彼らは、こうした情熱が、ショーペンハウエルによって裏書されたと感じていました。「ショーペンハウエルこそは、ニーチェの『反時代的考察』第三部において、あらゆるイルュージュンと生の欺瞞とを容赦なく破壊しながら、自由意志による真実の生を引き受け、自然と人間生活とをあるがままの姿において、すなわちその苦悩、その恐怖、その悪魔性においてながめようとする人間として記述されているのである。」

 このような世界観に表現を与える象徴的絵画表現とは、「失われた楽園」であり、地獄として表された世界の光景であり、この世界の悪の化身としての女であり、仮面として個性を剥奪された人間、仮装行列としての人生、また、根こそぎにされ追放された存在の象徴としての娼婦でした。

 ペシミスティックな態度がある一方で、その対立物としてではなく双子の片割れとして、此岸の悲しい現実の背後に非合理な諸価値を予感し、この予感をいわばヴィジョンとして形象化しようとするオプチミスティックな理想主義的態度も存在します。自然の中に神を感じ、神と交流するロマン主義の救済願望がもてはやされるのです。「自然は人間の中におのれを認識し、人間は自然の中におのれを認識する」(シェリング)、「汝の全存在は浄化と淳化を体験し、汝の自我は消失し、汝は無となり、神がすべてとなる。」(カール・グスタフ・カールス) 神話的深層への降下、それによる人間性の失われた神話的根源の回復というロマン主義的解決は全19世紀を貫徹しています。

 そして、芸術家の取り出してくるさまざまな象徴像には、彼らの自我の深層から湧き出してきた怪物であふれています。サタン、カイン、アダムとイヴ、吸血鬼、スフィンクス、サロメなどがたっぷり感情移入されて登場します。このような堕落した形態への執着、あるいは堕落以前の状態への回帰願望などは、19世紀の反ブルジョア芸術家に共通したものでした。

 ところで、彼ら19世紀の反社会的芸術家は、当然のこととして、昼の世界から締め出され、忌避されないまでも、何ら現実世界に影響力を持たない存在でした。しかし、彼らが棲みつく夜の世界、忌まわしい、魅惑的な世界は、実はブルジョアたちの現実逃避のための避難場でもありました。彼らにとって、芸術家が作り出す夜の世界は、危険なく逸脱できるユートピアであったのです。この現実逃避の行き着く先は、えてして過去であり、歴史や伝説の世界であり、とりわけ道徳的な思慮分別を知らない神話の美的世界でした。そういう変装をこらせば女が一糸まとわぬ姿をしていても差支えなかったのです。エロスへの願望ばかりでなく、現実逃避はまた、ユートピアと童話(メルヘン)の世界への幼児退行の、物質世界を離れた自然崇拝への領域にも通じていました。

 サンボリストたちが作り出す表象世界は、規格の中で生きているブルジョアの本然の欲望のはけ口となったのですが、同時にその世界はブルジョア道徳を根底から脅かすものでした。時代の抑圧された願望は、そのような表象を通じて、謎めいたものから不気味なものへ、夢から狂気へ、子供っぽい無垢性から無責任への憧憬へ、英雄精神から反逆へ、美の崇拝からポルノグラフィーへと逃避して行ったのです。ヴェデキントの『パンドラの筺』のなかのアルヴァはルルの肖像を前にして、次のような言葉を発しますが、これこそその時代のブルジョアが、というより人々全部が抱いていた危惧なのです。「このポートレートを見ていると、ぼくはいまふたたび自尊心が湧いてくる。これはぼくに、ぼくの宿命をはっきりと解らせてくれるのだ。この花咲くような、ふくらんだ唇、この黒い、無垢そのものの子供の眼、この薔薇色がかった白い肌のはちきれそうな肉体を見て、自分のブルジョア的地位が安泰だと感じる者、そういう男ははじめに石を投げるがいい、、、、」

 このような意味で、フランツ・フォン・シュトゥックの「罪」は世紀の傑作と呼べるのです。

 

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2010年8月15日 (日)

ハンス.H.ホーフシュテッター『象徴主義と世紀末芸術』(1)

 いや今年の夏は暑いですね。どこか涼しい美術館でも行って、ゆったり絵画を鑑賞しようと妻と話していたのですが、この時期、どの美術展も混雑しているそうなので、家で静かに画の本を読むことにしました。ハンス・H・ホーフシュテッター『象徴主義と世紀末芸術』(種村季弘訳・美術出版社1987年新装版)は、19世紀後半の象徴主義美術についての最高の評論です。まず、その概念規定からはじまり、その技法、そしてその表象世界まで、包括的、かつ徹底的に論評していきますが、最初のページから順に紹介して行くのはたいへんです。それで、私の好みの画家たちについて書きながら、象徴主義の要諦を考えていくことにしましょう。

 まず、スイス人の画家、ヨハン・ハインリッヒ・フュッスリ(1742-1825)です。彼は19世紀というより、18世紀末に活躍した画家ですが、同時代のフランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828)やウィリアム・ブレイク(1757-1827)と同様に、象徴主義の先駆といってよいのです。彼の代表作「夢魔」(1781)を見てみましょう。

 

Muma

 美しい婦人は、完全に自己抑制を失って、深い眠りの中に落ち込んでいます。胸の上には、中世以来おなじみの奇形の獣人グルリットがうずくまっています。これは恐ろしい悪鬼ではなく、卑小で、動物的な、欲望に満ちた、彼女の心の深層から湧き上がってくる怪物なのです。幕間から顔をのぞかせている雌馬は獣的発情の象徴像に他なりません。すると、この画は、ゴヤの「理性の眠りは怪物をはらむ」(1797)と同じ趣向から描かれたのでしょうか。理性に委ねられた世界への懐疑は、ゴヤの終生のテーマでした。祖国での政治体験は、彼を、理性と没理性は覚醒状態と眠りのように同一の現実の両面であり、理性の眠りこそが怪物をはらむのだという生々しい認識に導いたのです。フュッスリの眠る女性も、理性に押さえつけられた人生に対する不純な反抗が、無防備な眠りのうちに奇怪な一対の動物の姿をとって具現化したと見ればよいのでしょうか。

 しかし、フュッスリの「夢魔」には、もうひとつの解釈があります。1983年に国立西洋美術館で開催されたフュッスリ展に寄せたゲルト・シッフの解説によれば、実は、20世紀後半に入って、この画が裏張りされていたもう一枚のカンヴァスから剥がされたとき、表側の眠る女にきわめてよく似た女性の魅力的な肖像画が現れてきたのです。この事実はH.W.ジャンセンにこの画の構想と、その苦悩を与えるほどの強烈さをともに説明できるひとつの解釈を思いつかせました。37歳のとき、フュッスリは、ようやく獲得した画家としての名声を手に8年ぶりに故郷のチューリッヒに帰ってきました。わずか6ヶ月の滞在でしたが、彼はそこで親友である観相学者ラヴァーターの姪にあたるアンナ・ランドルフという少女と出会い運命的な恋に落ちるのです。しかし、この熱烈な恋はアンナの両親の拒絶するところとなりました。ロンドンに戻ってまもなく、アンナが婚約したことを知ったフュッスリは、抑えがたい嫉妬の業火に焼かれて途方もない妄想に耽りました。1779616日にラヴァーターに宛てた手紙につぎのように書いています。「昨夜、私は彼女とベッドをともにし、夜具を滅茶苦茶にはね飛ばし、私の精と息と力を彼女に注ぎ込みました。、、、彼女は私のものであり、私は彼女のものです。いかなる神も、誰も、二人を引き離すことはできません。」

 ジャンセンは、フュッスリが満たされない憧憬と嫉妬と怒りの化身として、夢魔を彼女に遣わしたのだと言っています。いわば、捨てられた恋人の代行として夢魔が彼女に復讐を果たしたのです。

 このことが、フュッスリのこの画を、19世紀の象徴主義に近づけるのです。象徴は、たんなるアレゴリーとははっきり区別されます。アレゴリーは、純粋に知的な伝達手段のひとつであり、抽象的な思考過程や意味のある関係をはっきりと頭にたたきこむために使用されます。ところが、象徴は近代になってアレゴリーと峻別され、現実では容易に説明できない幻想的、個性的内実を、現実の限られた手段を使って表現することを意味するようになります。いわば、19世紀の象徴概念とは、ロマン主義の象徴概念と同じなのです。たとえば、カスパール・ダヴィッド・フリードリヒやフィリップ・オットー・ルンゲの作品が現実をそのまま写し取ったのではなく、ひとつの象徴を表していることは容易に理解されるでしょう。しかし、その象徴を読み解くためには、十字架や、曙光や、夕闇といったものが表現するアレゴリーに頼ってもあまり効果はありません。そのためには、彼らの精神史の中へ、個人の生活史の中へ入って行かねばなりません。なぜなら、彼らはその個人的体験から彼ら独自の象徴を生み出してきたからです。フリードリヒはなぜ死と墓と廃墟ばかり描くのか、ルンゲの朝・昼・夜の三幅対はアレゴリーでないとしたら何を表現したいのか。それらを理解しようとするためには、まさに感情移入によって、見る者の精神にある覚醒が必要とされるのです。こうして、フリードリヒの中には、深い追憶の思いが、この世の虚しさに対する神の全能への確信があるのではないか、そして、ルンゲには、神の美しい宇宙的サイクルに溶け込もうとする思いがあるのではないか、と推測することさえできるのです。

 フュッスリは、その画歴の最初から、現実の古典的な描写には全く興味がありませんでした。というより、彼は裸体のデッサンや風景のスケッチにも興味がなく、自分にそのような才能もあるのだと気づいたのはロンドンの美術アカデミーで教えるようになってからでした。古典主義は、模範的なカノンの存在を信じ、それゆえに芸術は教育できるという信念にとり付かれています。フュッスリは、ロンドンのアカデミーを「芸術の悲惨のシンボル」と呼び、にもかかわらず、運命の皮肉として、この学校に油絵技法の教授として招聘されたとき、就任式に際して、自分もこんなところに入るくらいだからずいぶん下劣な人間だと思う、と言いました。そしてフュッスリは19世紀において、それまでアカデミー画家たちから芸術家とは見做されなかったレンブラントの天才をふたたび発掘した最初の人たちの中のひとりでした。彼は、自らの悪魔的ヴィジョン、幻想的画風を創り出すために、レンブラントの境界さだかならぬ、もやの中から立ちあらわれる光の技法を利用したのです。

 フュッスリは、174126日にチューリッヒに生まれました。父親は画家であり、美術品収集家でもありました。フュッスリの知的興味はチューリッヒの高等人文学校で大きく涵養されます。二人の教師、ヨハン・ヤーコプ・ブライティンガーとヨハン・ヤーコプ・ボドマーは当時のヨーロッパでもっとも進歩的で自由な精神を有していました。二人は、フュッスリに、古典学における完璧な基礎を与えました。そのおかげで、フュッスリは毎日三時間ギリシア語とラテン語の書物を読んでから画を描き始めるという習慣が身についたのです。古典学ばかりでなく、この二人の教師は、フュッスリに、『ニーベルンゲンの歌』、ダンテの『神曲』、シェークスピアの戯曲、ミルトンの『失楽園』などヨーロッパの財産ともいえる作品を読ませ、後にフュッスリは多くの霊感をこれらの作品から得ています。

 この二人の教師とフュッスリは、その自由思想のゆえに偏狭なチューリッヒを追われて、ヨーロッパを放浪します。(彼らと、フュッスリの友人ラヴァーターは、ゲーテの『詩と真実』にも度々登場します。)象徴主義との関係では、このラヴァーターとの交際が非常に重要です。ラヴァーターは1775年から1778年にかけて大部の観相学研究を公にしていました。そこで、彼は、人間の性格他すべてはその顔の相に現れると述べているのですが、これはその後、カール・グスタフ・カールスの『人間形態の象徴学』(1853)を経て、ルードヴィッヒ・クラーゲスの筆跡学、クレッチュマーの精神病理学につながっていきます。この象徴概念は、象徴主義の画家たちに、ポートレートから自立して、人間の顔の中に特定の魂の状態や、特定の、彼が意図した心的構想を象徴することができることを教えました。その例は、ダンテ・ガブリエル・ロセッティやビアズレー、クノップフ、フランツ・フォン・シュトックなどに見ることができます。

 その後、フュッスリはロンドンに居を定め、彼を代表する傑作を次々と発表して行きます。ホメロスやヴェルギリウスに題材をとったもの、ニーベルンゲンの伝説、シェイクスピアの作品群の挿絵など、しかし、その中で、フュッスリの哲学を理解するうえで決定的に重要なのは、1790年から1800年にかけて遂行されたミルトン『失楽園』の絵画化でした。

 かんたんに『失楽園』のあらすじを紹介しましょう。サタンは神への謀反を試みたため地獄に追いやられます。再び神と闘いを挑むべきかどうか迷ったサタンは、神との直接的な闘いは避け、地上に住むアダムとイヴを利用して神に復讐を遂げようと決心します。蛇に姿を変えたサタンは、まずイヴに禁じられた木の実を食べるよう誘惑します。イヴは、果実をアダムのところへ持って行き、すべてを彼に語ります。イヴが神の命に背いたことを知ったアダムは、イヴを深く愛するがゆえに彼女とともに罪を犯す道を選び、果実を食べます。

 神は、罪を犯したアダムとイヴを楽園から追放するために大天使ミカエルを遣わします。ミカエルは、追放する前に、アダムを高い山に導き、人類の未来を映し出すいくつかの幻を見せます。病気で苦しんで死んで行く者や、大洪水で溺れ死んで行く者たちの幻を見せられたあとで、最後に、キリストの到来、その受肉、死、復活、昇天が述べられ、キリストの再臨までの教会の腐敗さえ予言されるのです。そして、打ちひしがれたアダムとイヴはミカエルによって楽園の外に導かれて行きます。

 「ミルトンと同じく、フュッスリは、悪は女を通じて世界に侵入してくる、という観念の虜になっている」とホーフシュテッターは書いています。すなわち、フュッスリが青春時代の終わりに味わったある愛の幻滅は、フュッスリの作品中に繰り返しあらわれる、虚栄心の強い、無責任な破壊者としての女の描写に通ずるはげしい女嫌い観を形成するに至ったというのです。フュッスリの人生で、愛が成就したという事実はありません。彼の唯一の心からの情熱、アンナ・ランドルフと結ばれるという情熱はついに実を結ぶことはありませんでした。彼は、50歳近くなって恐らく妥協から若く愛らしい女性と結婚したのですが、彼女が満足させることができたのは彼の肉体的欲求にすぎなかったはずです。「イヴと運命をともにする決心をしたアダム」という彼の画を見てみましょう。

 

Adam

 アダムは、神の掟に背くという行為にひそむ罪の重大さを完全に意識して、それゆえにまた致命的な結末をも意識しています。彼は、はっきりと眼を見開いてイヴの破滅的な行為にしたがうが、それは劫初の恩寵のうちにただ一人生きつづけるよりも、イヴとともに劫罰と死の世界で結ばれていることを望んだからです。「イヴと運命をともにする決心をしたアダム」はまさに感動的な画で、それは、フュッスリが、ブレイクやシェリーのようにサタンへの隠しようのない愛情を吐露したりせず、また無論、神への呪詛などもなく、すべての反抗は失敗する運命にあるという諦念とともに、それならば愚かな女と運命をともにすることこそ唯一の選択であると理解したことにあるのです。これこそ、象徴主義の傑作といってよいでしょう。

 

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2010年7月11日 (日)

清水克行『日本神判史』

 穂積陳重の『法窓夜話』(岩波文庫)の中で忘れがたい話があります。「死の骰子」と題されたその章は、ドイツの帝室博物館に展示されてあるという二つの骰子にまつわる物語が語られています。話は17世紀半ばにさかのぼります。一人の美少女が何者かに殺害され、嫌疑は日頃から少女と交際していた二人の兵士に懸けられました。一人はラルフといい、他の一人はアルフレッドといいました。しかし、二人とも身の潔白を固く主張して、拷問までしてみても、どうしても白状を得ることができません。そこで、フリードリッヒ・ウィルヘルム公は、この二人に骰子を振らせて、その敗者を犯人と認めるといういわゆる神意裁判を行おうと決心しました。

 荘厳なる儀式をもって、公は自らこの神意裁判を主宰されました。ラルフがまず骰子を投じました。転々また転々、二つの骰子はともに6を示しました。合せて12点、得らるべき最高点です。ラルフは思わず歓喜の声を上げました。彼の無実はもはや証明されたも同然でした。

 一方、アルフレッドは今や絶体絶命、彼は地にひざまずいて切なる祈りを神に捧げました。「おお神様、神様は私が罪なきことをよく知っていらっしゃいます。どうか、どうか、私に加護を与えてくださいませ」。思いの丈をすべて両手に集めて、彼は骰子を地に投げ打ちました。すると、見よ、転々した骰子の一つは6を示し、もう一つはその骰子に当たって高い音を上げ、真っ二つに裂け、一片は1を上にし、もう一片は6を示しているではありませんか。合せて13、彼は不可能な勝利を手にしたのです。満堂、この奇異に一人として声を発するものはいません。

 さすがのラルフも、神意の空恐ろしさに肝を冷やして、たちまち自分が下手人であることを白状しました。「これ実に神の判決なり」。公はかく叫んで、直ちに死刑の宣告を下しとということです。

 私は子どもに「確率」を教えるとき、よくこの話を枕に使うのですが、6が2つ出るのは36分の1でしかないということは、アルフレッドの身に自分をおいた場合、実に戦慄すべき状況であると実感できるはずです。

 

 松原秀一『フランスことば事典』(講談社学術文庫)は、「猫」や「じゃがいも」や「手帳」など、ありふれたフランス語の単語について、その起源・変遷などを記した本ですが、周到な資料調査と好感の持てる筆致は類書に見られぬもので、私の日々の愛読書のひとつとなっています。「さくらんぼ」の項には、あのセヴィニェ夫人 Marquise de Sevigne がラ・フォンテーヌの『寓話』について語った「さくらんぼの籠のようです。見事なものをと選んでゆくと籠が空になってしまいます」 C'est un panier de cerises : on veut choisir les plus belles et le panier reste vide. という言葉が引用されています。また、アメリカの音楽家のスウィングル夫妻の話。夫妻はある日、シャンソンのレコードを聞いているうち、二人とも涙がとめどもなく流れ、一晩で決心して一切の家財道具を売り払い、フランスに渡り、米軍基地のピアノの先生になりました。松原秀一が夫妻の庭を訪れると、みごとなcerisiers の木が数本あって、小学生の2人のお嬢さんが、柄ごと切ったさくらんぼを耳にかけて耳飾りとして遊んでいました。それを見て、ジャン・バチスト・クレマンが、1866年に作り、今も歌い継がれている「さくらんぼの季節」 Le Temps des cerises という有名な歌の中の一句 des pendants de corail の意味がわかったというのです。

  Mais il est bien court le temps des cerises

  Pendants de corail qu'on cueille en revant

  しかし、さくらんぼの季節は短い

  夢見ながら摘むサンゴの耳飾り

 話が横道にそれましたが、『フランスことば事典』の中の「樽」Le tonneau の項に、神明裁判 Jugement de Dieuの話が書かれています。これは1370年の「モンタルジスの忠犬」というよく知られた話だそうです。騎士オーブリーは犬をつれて森を歩いている途中、マケールという男に暗殺されてしまいます。マケールはアリバイを主張して、この殺人事件は一応迷宮入りとなるのですが、この犬がマケールを見るたびに激しい敵意を示すので、とうとう黒白を決するために決闘 duel judiciaire が犬と人間との間で行われることになりました。これは神明裁判のひとつで、正しいほうは神の助力によって必ず勝つと信じられていたのです。マケールには棍棒が、犬には底を抜いた樽が与えられました。この中に避難できるようにとの配慮でした。決闘は長く続き、ついにマケールは負けて罪を認め、絞首台 gibet に上ります。この話はたいへん有名になって、数多くの版画や絵の題材となりました。

 

 前振りが長くなってしまいましたが、実は不養生が祟って、痛風の発作が起きてしまい、歩くと片足が痛いので、トイレ以外は立てなくなりました。ツルゲーネフの晩年の不機嫌な調子は、この病気の影響を抜きにしては考えられません。私の場合、憂鬱ではあるが、朝食の用意や洗濯や猫の食事などの雑事をすべて妻に任せて、久々に読書三昧の毎日を送ることができました。こんな時に絶好の軽い新書本を何冊か読んでいったのですが、清水克行『日本神判史』(中公新書)は、まさか一冊の本になって世に出るとは思えなかった神意裁判、あるいは神明裁判ついて書かれていますが、実地の調査を重ね、先行研究を丹念に拾って仕上げた好著です。書名は大仰ですが、(というのも、中世後期から近世初期までのわずかの時期に過ぎないので)、その結論めいたものは、多くの人を十分納得させるもののように思われます。

 

 「日本書紀」には3件の盟神探湯が記されていますが、その後700年間、神判は鳴りをひそめ、鎌倉時代に参籠起請として復活します。鎌倉幕府は、裁判で有罪か無罪か判断しかねる案件や、双方の主張が対立してどちらが真実であるか容易にわからない場合、彼らに自身の主張に偽りがない旨の起請文を書かせ、宣誓者を一定期間(通常は7日)神社の社殿に参籠(お籠り)させ、その間に彼ら自身や家族に異変が現れないかどうか観察しました。これが「参籠起請」で、宣誓文の内容に違犯している者には神罰が当たり、必ず自身や家族への異変(これを失という)が生ずるはずだと考え、それを判決の拠りどころにしようとしたのです。

 <参籠起請の例> 『吾妻鏡』によると、寛元二年(1244)、鎌倉幕府の法廷に、御家人市川高光の妻の不倫疑惑に関する訴状が提出されました。この二人の離婚はすでに成立していて、高光は、妻が結婚中に落合泰宗という侍と不倫関係にあったと訴えたのです。鎌倉幕府は、元妻と落合を参籠起請にかけることを決定し、二人は身の潔白を誓う宣誓文を書かされて、7日間鎌倉の荏柄神社に参籠させられました。この参籠起請に対し、幕府は平寂阿と鎌田西仏という二人の御家人を監視役として派遣し、少しの「失」も見逃さないよう厳戒体制を敷きました。結果は、77夜の監視にもかかわらず目に見える変調が確認できなかったために、二人は身の潔白が証明されたとして勝訴となりました。しかし、この訴えには裏があって、実は市川とその妻の間には、離婚の際には土地(信濃国ほか三箇所)を妻に譲り渡すという誓約が交わされていたのです。恐らく、市川は、いざ離婚となって、その土地が妻の土地に渡るのを惜しんで、突如として不倫疑惑をでっち上げたのではないか、と考えられるのです。

 ところで、黒白をつける根拠となる「失」とは、具体的にどのようなものでしょうか。鎌倉幕府が文書として残した「失」とは次のようなものです。

 鼻血が出る。

 下血する(痔、月経による失血はのぞく)

 食事中に咽ぶ(人が背中をたたくほどの)

 参籠中に父子の罪科が出来(しゅったい)する

 起請文を書いた後に病にかかる(本の病はのぞく)

 鼠に衣服を喰われる 

 等々、かなり恣意的な判断が可能で、この後に続く湯起請や鉄火起請も、結局は検者の判定に委ねられるわけで、情実やインチキが介入する余地は十分あります。

 

 参籠起請は室町時代に入ると、湯起請に取って代わられました。おそらく、スピードと変化の室町期の人々にとっては、7日間の検証期間というのはまだるっこかったのでしょう。湯起請というのは、盟神探湯と同じく、熱湯に手を入れ(普通はその中の石をとる)、火傷を確認できたら有罪とするもので、1404年から1570年ころまで確認できるだけで87件ありました。このうち、提訴されて、実際に実施されたものは32件、火傷(有罪)となった割合はちょうど50パーセントになります。半分の人間が火傷しなかったということは驚きですが、おそらく厳密な状況での実施ばかりではなかったからでしょう。

 <湯起請の例> 永享三年(1431)山城国伏見荘では盗難事件が頻発し、犯人としてかねて素行不良の内本兵庫という人物の名が取りざたされていました。そこで領主の伏見宮貞成は兵庫を捕縛し事情聴取を行うのですが、意外や兵庫は、自分は絶対無実なので、疑うならぜひ湯起請を実施してほしい、そこで失があれば切腹すると啖呵をきりました。かくして、陰陽師の立会いの下、伏見荘の鎮守御香宮において湯起請が実施されるのですが、大方の予想に反して、兵庫には失は見出されず、そのため兵庫は社殿に三日間閉じ込められて経過を観察(水ぶくれが出ないか等)されるのですが、やはり異変はなく、兵庫の無実が確定してしまうのです。その後、怪しいと思われた別の三人の容疑者が湯起請にかけられたのですが、三人とも火傷が確認され、三人そろって有罪とされてしまいます。ところで、もっとも怪しいと思われながらまんまと湯起請を切り抜けた兵庫は、その後、他村で盗みを働き、現場を押さえられて切り殺されてしまいました。

 こう見ると、やはり真犯人は兵庫で、彼が湯起請に訴えたのも、追い詰められた状況で一発逆転を狙ったものと考えられます。そして、湯起請を持ち出した以上、十分な準備と自信があったに違いありません。そのからくりは不明ですが、素朴に神意を信ずるより、現実的に対処して方法を案じた人間が切り抜ける確率はきわめて高かったと思われます。

 さて、湯起請というものが持つ歴史的意味はいかなるものであったでしょうか。著者は、いくつかの側面から考察していますが、まず、ムラ社会の中の湯起請のあり方を説明します。室町時代は、しばしば「一揆の時代」や「衆議の時代」といわれるように、人々の間で、ヨコの連帯が大きな意味を持った時代でした。まだ戦国大名のようなカリスマをもった支配者は現れていず、タテ軸の支配は社会に貫徹していませんでした。茶や連歌の本質は身分差を越えた参加者の平等性にあります。経済面では頼母子や無尽のような互助金融が発達しました。村では寄合いによって独自に意思決定し、外的勢力に対して、特定の独裁者に頼るより、集団的な連帯強化で生き残る方策を選択していきます。

 このように、共同体が自らの結束を強化しようとするとき、湯起請はその手段の一つとしてしばしば選ばれたのだといわれます。共同体で犯罪が行われ、その犯人が検挙できないとき、その結束に大きな亀裂が生じます。そのとき、ムラは「落書」(匿名で犯人を名指しするもの)にもとづいて、容疑者を湯起請にかけるのですが、このとき、しばしば落書は普段から共同体の和を乱す人間を名指しすることがあります。その湯起請の結果がどうあれ、「犯人」を特定してムラの和を取り戻し、かつ異分子を排除することができるわけです。(「失」がなくとも、犯人が共同体の外の人間であるとわかればそれでよいので、また無罪とされても異分子はムラにはとどまり難いのです)

 なぜ、湯起請でなければならないか、それについて著者は次のように書いています。「湯起請は、彼らが集団的に行っていた異端排除や治安の再確認作業を『俗』の次元から『聖』の次元に切り替えることで、あたかもそれが恣意的・専制的なものではないかのように見せる効果をもたらしたのである。これこそが共同体の連帯が重視される室町社会にあって、湯起請がもっていた機能のひとつであった。」

 さらに、湯起請を広めさせた当時の心性というものも考えなくてはなりません。中世は神仏の持つ拘束力がきわめて緩くなった時代、つまり人々が古代ほど神仏を信じられなくなった時代と言えるかもしれません。しかし、人々がまったく神仏を信じなくなったのならば、そもそも湯起請が行われるはずがありません。そこで、著者はこう推測します。「あえて、そこで湯起請が行われていた以上、人々はまだどこかで『神慮』を信じていたかったのだともいえる。そうした信心と不信心の微妙なバランスのなかで出現した湯起請は、あるいは起請文における血判や多くの神仏の名前と同様、薄らいでゆく神仏の持つ拘束力を肉体的な苦痛によって担保するべく創出されたものだったのではないだろうか。」

 普段は姿を現さない神仏も、極限的な状況を作り出し、熱湯に手を入れるという途方もない行為をしでかせば、きっと「神慮」を示してくれるはずだと室町の人々は考えたかもしれません。そして、そんなことをしても「神慮」は現れないのだと人々が達観してしまったところで、湯起請ははっきりと終焉を迎えたのだ、と著者は言っています。

 

 湯起請と入れ替わるように、戦国時代に、灼熱の鉄片を握るという鉄火起請が現れてきます。あまりに過激なためか、半世紀にもみたず(1590-1620頃)歴史上から姿を消しました。記録に残っているのは、45件で、そのうち半数近い21件が実施されています。著者によれば、横浜市と川崎市の市境も1607年の鉄火起請によって決定され、それを記念して石碑も建てられているそうです。

 実は、鉄火起請こそ、神判史の極北であり、その華といってよいのです。

 <鉄火起請の例> 1609年、現在の滋賀県蒲生郡日野町で、日野山の領有をめぐり、東郷九か村と西郷九か村の間で延々十年にわたって山争いが行われていました。この争論があまりに長引いて泥沼に陥ったため、西郷の方から「鉄火」によって決着をつけようという提案がなされました。西郷の角兵衛という男が提案し、自らすすんで鉄火の取り手になると名乗り出たのです。角兵衛は西郷で長い間扶助されてきた浪人であり、恩返しのために取り手を買って出たのです。この提案は西郷側の村役人によってただちに東郷に持ち込まれました。

 この提案は東郷の人たちを動揺させるに足るものでした。もし、この提案を拒否すれば、東郷が自分たちの主張が理に合わないゆえに神罰を恐れていると思われてしまいます。といって、村人の誰がこんな恐ろしい役目を引き受けるというのでしょうか。誰もが尻込みしていたところ、九郎左衛門という男が自ら買って出ました。ところが、その後、西郷との交渉役にあたっていた喜助という男が、西郷の者に臆病者となじられたのを契機に、みずから取り手に名乗りをあげ、結局、東郷の取り手は九郎左衛門でなく喜助と決まりました。

 かくして元和五年918日、江戸幕府の検使の立会いのもと、日野町の錦向神社で鉄火裁判が行われることとなりました。喜助と角兵衛の二人は白木綿の衣装に身を包み、神棚の前に立ちました。奥では炭がおこされ、斧の形に加工された二つの鉄片が真っ赤になるほど焼かれています。二人に課せられたことは、手のひらの上に折皮(「へぎかわ」おにぎりなどをつつむ薄い木の皮)を置き、その上に焼けた鉄片をのせて、九メートル離れた神棚まで運ぶというものでした。

 誰もが固唾をのんで見守る緊張の一瞬。喜助の老母は、息子が失敗したらその場で切り殺そうと長刀(なぎなた)を用意しています。そして、二人は鉄火をとりました。喜助は鉄火を受け取ると、さすがに熱かったのが、すぐさま神棚に三間(5.4メートル)ほど駆け込み、そのまま神棚に鉄火を投げ入れました。すると真っ赤に焼けた鉄火は、そのまま神棚の棚板を焼きぬき、煙を上げて落下したということです。一方、角兵衛は、鉄火を受け取ると、たちまち手のひらが焼け焦げ、とてものこと走ることすらできず、その場で鉄火を投げ落としてしまいました。たまらず、その場から逃げようとする角兵衛を幕府の役人が取り押さえ、翌日、角兵衛は市中引き回しの上、磔となりました。鉄火裁判の恐ろしいところは、このように敗者はほとんど死刑にされてしまうことですが、この時代何かを提訴することは死をもってする覚悟が必要だったからでしょう。

 どうせ磔になるぐらいなら頑張って鉄火を運べばよかったのに、と思うのですが、実はこの裁判には裏があって、後に伝えられるところによれば、提案した側の角兵衛は「奸智ある者」で、あらかじめ熱してもそれほど熱くならない鉄片を用意していたのですが、裁判の直前に、公平を期すために、双方の持ってきた鉄火を入れ替えられた、というのです。このことは、おそらく事実であったでしょう。というのも、鉄火起請を提案するからには、角兵衛にそれなりの準備と自信があったと見るべきで、直前に交換されるとは思ってもみなかったのでしょう。

  裁判に勝った喜助には、東郷から褒美として砥石山という山林が与えられ、鉄火を取らなかったが最初に名乗り出た九郎左衛門にも三畝あまりの田地が与えられました。なお、喜助の子孫は、裁判の後400年の間、そして現在でも新暦にあたる裁判当日に神社で神事を行っており、地元には立派な顕彰碑まで建っています。鉄火裁判が、人々の心に決して忘れられないほどの衝撃を残したことがよくわかります。

 

 著者は最後に、世界の神判史を一瞥し、各国がいかにして神判を「卒業」していったかを語ります。ヨーロッパでは、神を試すことは罪にあたるとして早々と姿を消しました。法制のしっかりした中国では、古代の早い時期に「神判」を卒業しています。なぜ、日本では、突如として鎌倉時代に神判が復活し、近世初頭に姿を消したのでしょうか。著者は次のように説明しています。中世は、公、武、寺、など様々な権力構造が並列して存在した。それらの中から、より高次の秩序を模索していく段階で、神判は、反動的とも便宜的ともいえる役割を果たした。そして、日本の神判がヨーロッパのようにイデオロギーによってでなく、中国のように近代的な法制によってでなく、近世の出現とともに消滅していったのは、著者によれば、日本人の独特の現実主義であるというのです。

 実際には「衆議」の世から「専制」の世へと移っていく過渡期に、あるいは、口約束が重視された「音声主義」から、証文がもっとも強い証拠とされる「文書主義」へと移っていく時代に、「神判」は新しい社会構造に乗り切れなかった人間のとる様々な選択肢の一つとなりました。真実よりも、共同体の人間関係のバランスを尊ぶ精神、事実よりも、自身の不退転の覚悟を重しと見る精神、そうした心情から生まれたきわめて現実的な選択の一つであるというのです。結局、「神慮」などは方便にすぎず、共同体の維持修復に重きを置く日本人の頑強な心性が神判という形式を生み出したのかも知れません。

 また、著者は「あとがき」で、賭場をあらわす「鉄火場」という言葉は、鉄火起請に由来するのではないかと書いています。どちらも一瞬にすべてを懸ける一か八かの勝負であり、賭場の緊張した雰囲気は鉄火起請のそれとよく似ています。実は、この観点は、深遠なことがらを内包しており、それは(著者によれば)、裁判と賭博が兄弟ではないかと思われるからなので、というより、裁判と賭博という二つの要素を内包していたのが神判であったといえるのです。客観的な善悪を公明正大に明らかにしようとする方向性と、それとは反対に自然のままに偶然的な要素に身をゆだねて当事者に衡平に得失の機会を与えようとする方向性。一見、相容れない二つの方向性を、神慮の名の下に統合しようとする精神。それは、「公明正大」な裁判が必ずしも真実を告げるわけではないこと、またどんな裁判の結果も双方にしこりを残さざるを得ないこと、そのような「不合理」に対して人間社会を維持しようとする合理的な選択が神判だったというのです。

 

 さて、以下は勝手な付け足しです。湯起請や鉄火起請は公平さを装いながら、かなりの不正が可能であると思われます。ギブソン『奇跡と大魔法』に紹介されている秋山命澄『法術の正体』によれば、熱湯に手を入れるときに、手をあらかじめ冷やしておいたり、油や塩を塗っただけで熱は相当緩和されます。要は、いかに素早く、中の小石を拾うかで、これはほとんど練習量によるでしょう。また、熱さを強調するために湯を沸かしつつ行うのは、逆に不正をやりやすくするだけで、表面は沸騰しているように見えても、底の部分はぬるいので、内部をかき混ぜるように手を入れれば平均の温度はかなり下がってしまいます。しかも、拾うものが茶碗や小石のようなそれほど重くないものならば、熱せられてできる対流によって、必ず浮き上がってくるので、それを拾い上げるのはあまりに容易です。

 過酷と思われる鉄火起請も、実は、熱された鉄はきわめて熱いという恐怖感が被害を増幅させるので、赤熱した鉄に水をかけるとシュッとはじくように、熱い鉄は水分を反発するので、水分を含んだ手を直ちに火傷させることはないようです。修験道の行者が赤熱した鉄棒をしごいて人々を驚かすのも、勇気を持って素早く手を動かすことができればきわめて容易なパフォーマンスに過ぎないからでしょう。

(シャンソン「さくらんぼの季節」は、先日放映されたジブリの『紅の豚』でも使われていました)

 

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2010年5月31日 (月)

ロジャ・ダブ『香水の歴史』

 「ゲランで働いていたころ、私は1929年の名作『リュ(Liu)』の復刻を担当したことがある」と、ロジャ・ダブは書いています。「わずか300本の限定復刻版だった。運よくその1本を手に入れたご婦人(東欧系の方だった)は、ひとこと『リュ』とつぶやいて目を閉じた。聞けばその昔、もらったばかりの『リュ』を結婚初夜につけようとしたとき、ボトルは震える彼女の指から滑り落ち、貴重な香水はじゅうたんに吸い込まれてしまった。以来50年、復刻版の『リュ』をスプレーした途端に、すべての記憶がよみがえったという。あのときの部屋のインテリアも、あのときの気温も。香りが記憶の扉を開き、素敵な思い出が彼女を包んだのである。」

 「写真は冷たい二次元の紙で、時がたてば色褪せてゆく。しかし香りが呼び戻してくれる記憶は天然色で、いつまでも生き生きとよみがえる。わずか一滴で、香水は現実から離れ、めくるめく幻想の世界へ逃避させてくれる。」

 そして、彼はマルセル・プルーストを引用するのです。

 「長い時が流れ、人が死に事物が壊れ散り果てて何ひとつ残らなくなっても、味と香りだけは残る。それは何よりもはかないのに何よりも私たちの心に残り、何よりもつかみどころがないのに何よりも忘れがたく、けっして私たちを裏切らない。それは魂のように、すべてが朽ち果てた後も記憶に残り、私たちを待っている。味や香りのエッセンスのほんの小さな一滴からも、記憶の壮大な建造物が浮かび上がってくる」(『失われた時を求めて』)

 

 ロジャ・ダブの『香水の歴史』(新間美也監修・原書房、原題はEssence of Perfume)は、原料、抽出法、その歴史、伝説の名香、香水瓶の意匠まで、過不足なく、しかも非常に興味深く語られています。数多く載せられた写真も美しい。ロジャ・ダブはイギリス人で、幼い頃から香水の魅力にとりつかれ、21歳でパリ・シャンゼリゼのゲランのブティックを訪れたとき、ただちに、ここで働こうと決めたそうです。彼は、ゲラン社を質問攻めにして、業を煮やしたロベール・ゲランは、この若者を黙らせるより、その熱意を社内で役立てようと、彼を正式採用します。6年後、ロジャ・ダブは、ゲラン一族以外でははじめての特別権限を与えられ、香水製造のすべての過程に精通することになります。ゲランを去った後、世界中のブランドを渡り歩いて、ついに自らの香水を発表しますが、すべてを貫くのは香水への強い情熱です。何かひとつのことを、これだけ好きになり、打ち込んでいけるというのは、やはり特別な才能というほかはありません。

 香水の歴史について語る前に、その原料について紹介しましょう。動物性香料は、次の四つしかありません。どれも芳醇強烈で、かつて疫病で死臭がたちこめた時にその威力を発揮しました。香水のベースになる貴重な原料ですが、現在はその希少性や動物保護のため合成香料に代わられています。

 <アンバーグリス(竜涎香)> マッコウクジラの体内でできる結石。マッコウクジラが甲イカを飲み込むと、固く尖った嘴が気道や腸内を刺激します。すると蝋状の分泌物がそれを覆い、まるで貝が真珠を形成するように、結石を作り出します。結石がある程度の大きさになると、猫が毛玉を吐くようにマッコウクジラから排出されます。そして海面を浮遊する間、海水の塩分と日光にさらされて比類ない独特の香りを生じるのです。

 <カストリウム(海狸香)> カナダに生息するビーバーの肛門に近い香嚢から採取します。レザーとタールの香りで、その持続性に優れています。

 <シベット(霊猫香)> 麝香猫という名のエチオピアに生息するネコ科の小動物の体内にある分泌線から採取します。伝統的な手法は麝香猫を檻に入れ、檻を叩いたりして怒らせ、そのとき分泌されるワックスをスプーンで採りました。非常に重要な香料だが、糞の匂いが強いため扱いが難しく、それに成功すれば斬新な香りを作り出します。

 <ムスク(麝香)> 別格の香料。チベットやネパールに生息するジャコウジカの下腹部の香嚢から採取します。催淫作用のあるこの香料を合成しようと、一世紀にわたって化学者が研究してきましたが、1939年レオポルト・ルジチカが成功してノーベル賞を受賞しました。

 植物香料は多彩ですが、重要なものだけ挙げましょう。

 <ジャスミン> 欠かせない香料の一つ。インドールという成分が含まれ、これが力強い官能性を生み出します。とくに南仏グラース産のジャスミンは高い割合でインドールを含み、比較できないほどの官能的な刺激を有しています。1kgのジャスミン・アブソリュート(オイル)を得るために必要なジャスミンの花は500万個といわれ、今日この高価なグラース産ジャスミンを使用するのは、ジャン・パトゥ、シャネル、ゲランだけだといわれています。

 <ローズ> 古代エジプトで使われ、ホメロスにも登場するローズは、その落ち着いた清涼感が官能的質感を鎮めるために使用されます。アラビアの調香師たちによって精製術が究められ、現在はグラースでもっとも洗練されたオイルが作られます。バラの花は日が昇る前に摘み取らねばならず、ブルガリアには古くから「バラが最高に芳しいのはペチコートが朝露に濡れるとき」という格言があります。

 <ベルガモット> シトラス系の中ではもっとも性能がよく、citrus aurantium の果実から採取します。ほかのシトラス系と同じく、揮発しやすく長持ちしないので、トップノート(香水の最初の香り)の役割を果たします。レモンやグレープフルーツと違って、ベルガモットは厚みと新鮮な酸味があります。

 <ぺチパー> インディアングラスの細い根。女性用香水の4割に含まれる理由は、他の香りの持続性を高め、香水全体のバックボーン(背骨)の役割を果たすからです。香りはドライで、土臭く、スモーキーでもあります。

 <バニラ> 熱帯に生育するラン科の植物 vanilla planifolia の種子から採取します。緑色の莢から香りを採りだすまでに24ヶ月を要します。香りは力強く、温かみがあり、オリエンタル調の香水には絶対に欠かせません。バニラの香りは性的快楽を高める媚薬ともいえ、サフランと並んでもっとも高価なスパイスです。

 <サンダルウッド(白檀)> オリエンタルノートには欠かせません。最高品質の白檀はインドに生育する樹齢30年以上のもので、伐採は政府によって厳しく規制されています。この原料は、一瞬香っていたはずなのにいつのまにか消えている、というように嗅覚を「だます」ため非常に使用が難しいとされています。

 <オークモス> オークやトウヒの樹木、果樹に生える地衣類から採取します。フローラルな香りとは正反対の、土臭く湿った、レザーに似た香り。ゲランの名作「ミツコ」は、ベルガモットのトップから、ジャスミン、ローズへ移り、ベースにこのオークモスが使われています。

 以上の天然香料は、深みがあり複雑ですが、現在はきわめて高価となっています。近代的な香水ができるためには、合成香料の研究と普及が不可欠でした。合成香料は単純で深みに欠けるのですが、「粗野」な天然香料を洗練させ、そのよさをいっそう引き立たせる役割があります。代表的なのは、クマリン、バニリン、インドールなどですが、何よりもアルデヒドが重要です。

 

 さて、香水の原料となる香料は約3000種類にも及びます。調香師(「ネne」と呼ばれる)を志す人間は、まずそれらすべてを覚えねばなりません。一日10種類ずつ、ノートに克明に特徴を書いて(しばしば、子供時代の思い出の香りに連想づけます)、完璧に暗記していきます。この連想ノートを調香師は生涯にわたって書き続けることが必要です。香料の次には調合(ブレンド)を覚えねばなりません。基本的な香りの組み合わせの修業の後、いくつもの自分独自の香りのパレットを生み出していきます。そして、いよいよ香水を作り出すとき、彼らは何を目指すのでしょうか。えもいわれぬ芳しい香りでしょうか。朝の冷気のようなさわやかで凛とした香りでしょうか。官能を呼び覚ます甘い香りでしょうか。いや、そのような簡単な表現で言い表すことのできるのはせいぜい安物のオーデコロンです。真の調香師が目指すものは、言ってみれば、のけぞるような香り、期待を裏切り、まったくそれまでに嗅いだことのないような香りです。人々が良い香りと思うものは、限定された思い出の心地よさを連想させるに過ぎず、それゆえに平板で飽きられやすいのです。香水とは、調香師の独自のパレットから生まれ、それ自身で新しい世界と美を創り出すものです。しかし、現実には妥協を強いられ、万人向けのパレットから当たり障りのない「良質な」香りを作らざるをえないこともあるでしょう。現代では販売のプロによる宣伝によって、薬のような合成香料に満ちた香水が作られています。そのようなものは、記憶の意外な喚起や、繊細な人々の感性に働きかけてくることはほとんどないでしょう。しかし、どんな時代でも、本物を求める情熱は底流のように時代の傍らを流れ続けます。再び偉大な職人たちの時代が訪れるであろう、とロジャ・ダブは書いています。

 

 「名香」がそう呼ばれるのはなぜか、それを理解するには目を閉じて、これまで嗅いだことのない香りを想像してみるとよいでしょう。無から新しい何かを創造するとは困難なことこの上もありません。ここに、古典と呼ばれる香水の存在意義があり、またその偉大さもあるのです。一般に近代香水は、1882年のウビガンの「フジェール・ロワイヤル」と1889年のゲランの「ジッキー」からはじまるとされています。それまで、香水といえば、単純な花の香りをもとにして、樹脂、木材、それに動物の匂いを混ぜ合わせたものでした。ウビガンの調香師ポール・パルケは、新しく開発された溶剤抽出法により、有香分子クマリンをさまざまな香料と混ぜ合わせ、濃厚で安定した幻想的な香りを創り出しました。この処方は、それまで家内工業であった香水産業を数百万ドル規模の芸術にまで発展させる基をつくったのです。

 しかし、香水の世界を本当に変革したのは「ジッキー」です。フランス革命からちょうど100年後、パリ万国博を記念してエッフェル塔が建てられた年にこの香水は登場しました。まさに革命的な代物で、さわやかで甘いフローラルの香りしか知らなかった人々に衝撃をもたらしました。ベースになるシベットの量は半端でなく、上流社会の女性は誰一人として、あえてこれを身にまとおうとはしませんでした。向こう見ずな男性だけが危険を冒したのですが、女性たちが受け入れたのは何年も経ってからでした。トップノートはラベンダー、ベルガモット、ローズマリー、バジル、ローリエ、奇妙にもハートノートがほとんど欠落し、ベースノートはシベット、サンダルウッド、シナモン、それにバニラで、これにより初めて香水が、レモンやペチュニアの花束という具象から離れて、観念的でセクシーなものになったとロジャ・ダブは書いています。

 「ジッキー」は、また、初めて伝説に彩られた香水でもあります。1844年にパリ、オペラ座前のラ・ぺ通りに、ピエール・フランソワ・パスカル・ゲランが香水店を開きました。息子のエメ・ゲランは医学を学ぶためイギリスに渡りましたが、その地でジャクリーンという女性に出会い、結婚を申し込みます。ジャクリーンは受け入れたが、家族は許さず、エメは失意のうちにパリへ戻ってきました。彼は一途に恋人を思い、生涯独身を貫きましたが、55歳のときに「ジッキー」という斬新な香水を創り出しました。その名は、かつてエメがジャクリーンにつけたニックネームでした。なぜこの逸話に意味があるのでしょうか。もし彼が恋人と結婚して平穏に暮らしていたなら、これほどめざましい香りをつくり上げることは決してなかったでしょう。それは失われた幸福の思い出に捧げられているのです。ウビガンの「フジェール・ロワイヤル」はすでに廃番となりましたが、ゲランの「ジッキー」は120年の時を越えて今もなお売られ続けています。時代の変化に合わせ、より穏やかになりましたが、まだジッキーの新しいボトルを開けるたびに同じ興奮を味わう、とロジャ・ダブは書いています。「現在、ジッキーは変わったにもかかわらず、その香りは深い悲しみを帯び、さまざまな影響を受けて短命になりうる友情のはかなさを思い起こさせる」と。

 <1910年代> タイタニック号沈没、第一次世界大戦、ロシア革命の起こった1910年代は、また女性解放の時代でもありました。彼女たちは胸をしめつけるコルセットや、「女性らしさ」を強調するねばつく甘い香りを拒否しようとしていました。シャネルがトレードマークとなるシャツウエストのドレスをデザインした1917年に、天才フランソワ・コティが、シプレ調というコンポジションの基となった傑作ルシープルを発表します。ドライなモス(苔)、ウッド、ゴム樹脂、動物香料の確信的なブレンド、一般にこうした香料は男性用と見られていたのですが、コティはそれをオリス、クマリン、バニリンのほんのわずかの調合で包み、ソフトで奥深いものに仕上げました。ルシープルは今はもう生産されていませんが、その存在は、ゲランのミツコ、ディオールのオーソヴァージュ、グレのカボシャールなどの中に生きています。

 「ジッキー」を世に送ったエメ・ゲランの最大の功績は、甥であるジャック・ゲランの才能を見出し、名調香師に育てたことであると言われています。ジャック・ゲランは数々の名香を生み出し、「歴史上、最も偉大な調香師」であるとロジャ・ダブは書いています。ジャック・ゲランの最初の傑作が「ルールブルー L'heure Bleue」(1912)で、ゲラン家に伝わる逸話によれば、ジャックがある夕刻、セーヌ河畔を散歩していたとき、日は落ちたもののまだ闇が訪れていない絶妙な瞬間の美しさに感動し、この魅惑の静けさを香りに凝縮したいという思いにとらわれた、ということです。「私は何か強烈な感覚を覚えると、香水で表現するしかできなかった」とは彼の有名な言葉です。さわやかなトップノートがほとんどないので、現代の女性には理解しがたいだろうが、とロジャ・ダブは前置きして、次のように語っています。「ルールブルーは痛ましいほどの感動を呼び起こす。ベルベットに包まれたハーモニーで心を揺さぶり、魂を奪われるようだ。これほど人の心を強く動かすことのできた調香師はいなかったし、いまだに存在しない。第一次世界大戦前につくられた最後の偉大な香りであり、ベルエポックの柔らかい女性らしさを、官能的でふくよかな胸にも似たやさしいパウダリーな香調に封じ込めた」と。

 大戦が終わった1919年に、ジャック・ゲランはゲランの歴史を代表する香水を発表します。「ミツコ Mitsouko 」は、クロード・ファレルの小説の登場人物である日本人女性ミツコにインスパイアされた香水ですが、その精神は、心の奥に秘めた恋、深い官能と情熱にとらわれながら決して媚びることのない愛です。ジャックは、コティのシプレ調を完成にまで高め、これ以上ないシンプルで完璧にバランスの取れた香水を創り出しました。チャップリンやディアギレフに愛用されたこの香水は、1932年、女優のジーン・ハーロウと結婚したポール・バーンの悲劇を思い起こさせます。2人の結婚生活は2ヵ月後に終わりを迎えました。その夜、夫は裸になると全身にミツコをふりかけ、妻の香りに包まれたまま、浴槽でピストル自殺したのです。

 <1920年代> フィッツジェラルドが『グレートギャツビー』を書き、リンドバーグが大西洋横断をした1920年代は、アメリカで女性に参政権が与えられ、避妊の大切さを教えたメアリー・ストーブスの運動により女性に肉体からの開放がもたらされた時代でもありました。第一次大戦の惨禍の爪痕は、人々の心に深い悲哀を残し、1929年の株式市場の大暴落は、貧しい人々だけでなく、富裕な人々の生活も再生できないほどに変貌させました。この時代に数多くの忘れがたい香水の名作が生まれたのは、むなしさの中から生まれた若さと新しさへの憧れだったのでしょうか。

  ガブリエル・シャネルは、その生涯はどうあれ、強い気性と先見の明を持っていました。1921年に発表された香水「№5」は、そのシンプルな命名と形からして彼女のセンスの良さを示しています。それまでの香水の名前は感傷的すぎるし、ボトルはあまりに古くさく、あまりにベルエポックすぎると感じていたのです。ココ・シャネルは、ロシア宮廷最後の調香師エルネスト・ボーに依頼して、手に入る最高級の原料で香水製作を依頼しました。この香水についての伝説は、半ば秘密の裡にあります。一説では、短気なシャネルはわずかの製作期間しかくれなかったので、ボーは10種類の試作品のひとつに大量のアルデヒドを入れました。シャネルはそれ以外の中から選ぶだろうと思ったのですが、彼女が選んだのは五番目のまさにその瓶でした。グラース産の高価なローズ・ド・メ(五月のバラ)やジャスミンが、大量のアルデヒドによって拡散し、にわか雪の合間に輝く太陽のごとく、フラワーノートをすっかり変容させたのです。トップノートはアルデヒドとベルガモットがはじけるように輝き、ジャスミン、ローズ、スズラン、気品あるイランイランが華を添え、バイオレットが顔を出します。これが、ぺチパー、シダーウッド、サンダルウッドに支えられ、シベット、ムスク、バニラ、アンバーグリスの官能的ベースに乗っています。これぞまさにシャネルが求めていたものでした。「女性は女性ならではの香りを漂わせなくてはなりません。バラの香りではなく」と、シャネルは言っています。

 シャネルに対抗意識を持っていたジャンヌ・ランバンは、「5番」にインスパイアされながら、どんなに費用がかかってもいいから、さらに高品質のものをつくるよう調香師アンドレ・フレイスに依頼しました。1927年に出た「アルページュ Arpege 」は、より純化されたアルデヒドによって、熱いアイロンの底面のようにメタリックで、夜空の黒いベールにまたたく星のように成分を輝かせます。

 「世界屈指の香水」アルページュはただの香水ではありません。ジャンヌ・ランバンが溺愛する娘マリー・ブランシュの誕生日に贈るため特別に作らせたものでした。伝説の黒いボトルには、ジャンヌ・ランバンが幼い娘を抱き寄せる金の図柄が描かれていて、それがそのままブランドのシンボルになっています。ジャンヌ・ランバンが最初に手がけたのはシャネルと同じ帽子作りでした。こつこつ働いて貯めた資金(なかには1枚のルイ金貨もあった)を元手に自分の店を持ったのは1885年でした。やがて服もデザインし始め、いつしかパリでも指折りの洗練されたクチュリエとなりました。ジャンヌは15世紀の画家フラ・アンジェリコの絵に見られる青を愛し、その色をたくさんの作品に用いました。ジャンヌ・ランバンが死んだとき、娘のマリー・ブランシュは母の棺にかがみこみ、遺体の手にあのルイ金貨を握らせてあげたということです。

 350年前、ムガル帝国最後の皇帝ジャハーンは、ムタージ・マハルと出会い、すっかり心を奪われました。伝説によると、皇帝はあまりに激しく恋したために熱病に浮かされたようになったということです。結婚が決まると、彼女のために特別な庭園を作るよう命令を出しました。庭園ができると、皇帝は「シャリマー」と名づけました。サンスクリット語で愛の殿堂という意味です。庭園シャリマーは、二人だけの愛の世界であり、しばしばここに来ては、星空の下で愛を確かめ合いました。しかし、マハルは男子を出産すると世を去ってしまいます。ひどく落ち込んだジャハーンはインド中からすぐれた彫刻家や職工を呼び寄せ、13年の年月をかけて妻の霊廟を建てさせました。この驚異の建造物タージマハルについて、詩人タゴールは「それは時間という頬の上に留まる一粒の涙のごとくたたずむ」と書いています。

 20世紀初頭のヨーロッパで、鮮やかなシルク、ターバン、真珠や宝石を身にまとった王子がどんなにエキゾティックに映ったか、また若き日のジャック・ゲランが、王子の熱い愛情のほとばしりを伝える恋物語にどんなに心を奪われたか想像に難くありません。ジャックはあまりに魅了されたため、いまだかつてない情熱的な、官能をかきたてる香水をつくり上げました。その香水の名は「シャリマー Shalimar」です。調合の30%をベルガモットがしめ、ベースノートには4種のアニマリックノートが使われています。別の調香師なら失敗するであろう大胆な配合をジャック・ゲランは天才の一振りでみごとに完成させました。ロジャ・ダブがこう書いています。「ルールブルーで黄昏の香りを表現しえた男ジャック・ゲランは、シャリマーで女性すべてに敬意を表す香水をつくり出すことに成功した。心を奪われた男の女性へのオマージュである。きっと、これをまとう女性に出会えば男はふと立ち止まって声をかけずにはいられないはずだ」。

 

 本書は、さらに30年代、40年代、そして21世紀へと香水の歴史が描かれるのですが、私自身は30年代以降はほとんど興味がありませんし、もはや馴染みのない名前ばかりが並んでいます。このブログを書くために、家にあった妻のささやかな香水コレクションを覗いて見ました。エルメスの Eau d'Orange Verte を嗅ぐと、それは花屋で一面の花に囲まれた瞬間に立ち上る香りではなく、土の中からかよわげに伸びる一輪の小さな花、明るい土手に咲く花ではなく、小学校の校舎の裏に咲く小さな白い花を思い起こさせました。

 ロジャ・ダブはこう書いています。「においの分子は忍び足で脳に伝わり、各人の記憶や思い出と結びつく。そうして再び同じ香りを嗅いだとき、甘い記憶や苦い思い出をよみがえらせる。よい思い出と結びついた香りはかけがえのない喜びとなり、個性の一部ともなる。もしもその人にとって好ましい香りをすべて集めてひとつの香水に閉じこめたなら、それは個性の象徴だけでなく、その人を最も幸せにする香水となるだろう」

 「残念ながら、現在、市場に出回っている香水の多くは万人向けが多く、複雑で洗練された香りの鍵のほんの一部しか使っていない。私たちの鼻腔の鍵穴の多くは閉ざされたままである。しかし、今も過去につくられたすばらしい香水が残っている、、、」

Jicky

ジッキー(1889) ボトルには薬の瓶が使われていました。

Shalimarposter

シャリマー(1925)のポスター。

Photo

 

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2010年5月15日 (土)

ピアーズ・ビゾニー『ATOM 原子の正体に迫った伝説の科学者たち』(3)

 ポール・ディラック(1902-1984)ほど不幸な少年時代を送った物理学者もまれなのではないでしょうか。彼の父、チャールズ・ディラックは専制的な父親で、ブリストルの中学校でフランス語を教えていましたが、友人はほとんどおらず、学校よりも大きな社会には興味もありませんでした。夕方、仕事から帰ると、玄関の鍵を閉め、外の世界を遮断しました。家族全員は、父の専制支配のもとに生きることを余儀なくされていました。たとえば夕飯の席では全員がフランス語しか話してはいけないことになっていました。ポールは懸命に努力して食堂のテーブルにつくことを許されましたが、母と兄と妹はキッチンで食事しなければなりませんでした。ポールが病的なほど内気で、まったく口がきけないほど無口に育ったのも無理はありません。兄のレジナルドは24歳で自殺しますが、ポールはケンブリッジに逃げ込み、そこで理論物理学に慰めを見出しました。彼は新しい量子理論の抽象的な数学にすっかり夢中になりましたが、外の人間社会の恐ろしさからは巧みに距離を置いていました。

 理論物理学者は、アイデアを話し合い、持論を展開し、反対意見をやりこめたいというタイプの人間が多かったのですが、ポールは人を寄せ付けず、ほとんど一人で閉じこもって研究していました。生涯にわたって書き上げた250あまりの論文のうち、共著となっているものはほんのわずかです。人と話をすることはもとより、そういう場面に出くわすことも恐れていました。人間関係をどのように築いていったらよいかわからなかったのです。話さねばならないときは、熟考して、言葉をよく選び、簡略にしかも正確に答えるのみでした。ある学生が、彼の講義中に、よく理解できなかったところを質問すると、ディラックは前と同じことを正確にゆっくり繰り返したということです。彼の講義をもとにした書物『量子力学』は、その完璧さのゆえに現在も名著として読まれ続けています。ドストエフスキーの『罪と罰』についての彼の評は次のようなものです。「これは良い本だが、著者はある章で過ちを犯している。同じ日に太陽が二度昇っていたのだ」。

 信じられないことですが、ディラックは、大学生活がやっと一年過ぎた頃にすでに量子力学の最先端の研究を始めています。その頃、30ページほどの論文をハイゼンベルクに送ったところ、彼から賛嘆の返事が送られてきました。ハイゼンベルクからその論文を見せられたマックス・ボルンは「ディラックという名は聞いたことがなかった。しかし、この著者はまだ若いようだが、すべてが完璧で賞賛すべきものだ」と言っています。ディラックは、1925年から1928年の間に、つまり23歳から26歳までに理論物理学史に特筆される研究を次々と発表していきました。シュレーディンガーとハイゼンベルクが、電子の「同じ」行動について説明していると看破したのは、ディラックのすばらしいひらめきでした。ただ一方は抽象的な代数系に頼り、一方はある種の波をイメージしているだけなのです。彼はそれらを数学でつなぎ、用語を簡略化し、かつての古典力学のテクニックを復活させました。そこにはアインシュタインの相対論も組み入れられ、むろんハイゼンベルクの行列も、シュレーディンガーの微分方程式も含まれています。

 ディラック方程式には二つの解があり、一つは電子の動きを説明し、もう一つは逆の電荷を持つ反電子、陽電子を生み出すことを説明しています。奇妙なのは、この反物質として知られる粒子は、マイナスのエネルギーとマイナスの質量を持っていることでした。1932年、アメリカの物理学者カール・アンダーソンが、宇宙線の中からその陽電子を見つけ出しました(今では、この反電子は先端医療にも使われています)。ディラックは、物質の構成要素には必ず反世界の対照的な物質が存在することを示したのですが、もしかしたら、ビッグ・バンの際に、物質と同じ量の反物質ができたのかも知れません。反物質が一億個でき、物質が一億一個できたとしたら、その一個から宇宙が生成したかも知れないのです。

 

 理論物理学に対してのポール・ディラックの態度はほとんど宗教といってもよいものでした。食べ物や娯楽には興味がなく、アルコールも煙草もいっさい手を出しませんでした。1933年にシュレーディンガーと連名でノーベル物理学賞を受賞したとき、有名になるのが怖くて受賞を辞退しようとしたら、ラザフォードに、辞退などしたらしたらよけい有名になるよ、と諭されたということです。彼はストックホルムへは母親だけを連れていき、絶縁状態だった父親へは招待状さえ出しませんでした。1936年に父親が死んだとき、「より自由になったように感じる」と告白しています。ディラックの唯一の趣味が散歩と登山(むろん一人で)というのも納得できるでしょう。コペンハーゲンでともに研究したニールス・ボーアは、ディラックについて、「あらゆる物理学者の中でもっとも純粋な心を持った人間」と評しています。

 ディラックは、1937年に、思いがけず、同僚の物理学者ウィグナーの妹マージットと結婚しました。彼女は前の結婚で子供が二人いました。ポールは彼女に、自分の惨めな子供時代のことを、そしてマージットは彼に、以前の不幸な結婚生活のことを語りました。二人の間に子供が二人生まれて、ディラックはある程度の幸せを得たように思われましたが、悲惨な過去から逃れられたわけではなく、実の子供に対しても心から打ち解けた態度をとることはできませんでした。ディラックは、1984年に82歳で死にましたが、死の一年前、アメリカの物理学者が、フロリダ大学に来て何か話をしてくれるよう彼に頼みました。ディラックは、首を振って、「いや、何も話すことはない、私の人生は失敗だった」と答えました。

 

 ジェームズ・チャドウィック(1891-1974)は貧しい家庭に育ち、1908年にマンチェスター大学に入学を許可されましたが、毎日家から6.4キロの道を歩いて大学に通っていたので、大学の仲間同士の集まりや、課外活動に参加することは不可能になりました。おまけに、彼はあまりに内気すぎたので、大学の事務手続きの間違いで、彼が申し込んだ数学ではなく、物理学のコースに入れられても指摘することができませんでした。しかし、物理学は彼と相性がよかったらしく、彼はハンス・ガイガーと研究するためベルリンに旅立ちました。しかし、そこで第一次大戦が勃発し、チャドウィックは敵性外国人として捕虜収容所に入れられました。収容所での生活はかなり厳しく、馬小屋同然の部屋で、食料もほとんどなく、冬の寒さで死にかけたこともありました。それでも手に入れられるだけの本と道具をかき集めて簡単な実験を行っていました。戦争が終わると、ラザフォードは彼にマンチェスター大学の職を与え、ラザフォードがケンブリッジのキャベンディッシュ研究所の所長になるとき、チャドウィックを副所長として迎えました。

 この頃、チャドウィックとラザフォードは、陽子と同じほどの質量を持つ何かが原子核の中にあることに気づいていました。チャドウィックの実験では、放射線が標的にぶつかったとき、アルファ線ともベータ線とも違う得体の知れぬ放射線が出てくるのです。「その放射線が陽子と同じくらいの質量をもつ粒子でできているとしたら、衝突に関わる難問はすべて消えてしまう」と、彼は書いています。チャドウィックは、この問題を解決するため、必死にもがき苦しみました。「口にできない馬鹿な実験をいくつもやった」と彼は書いています。1932年3月、彼はベリリウムの標的にアルファ粒子をぶつけて出る放射線を調べることができました。その放射線は電荷を持たず、質量は陽子と同じほどで、信じられないことに、鉛まで貫通するほどの透過力を持っているのです。彼はついに中性子を発見したのです。

 同じ頃、キャベンディッシュで研究員だった、C.P.スノーは、「彼は三週間ほど昼夜を問わず研究していた」と書いています。チャドウィックは、同僚たちに発見の報告をすると、「すまないがクロロフォルムをかがせて二週間ほど眠らせてくれ」と頼んだということです。

 

 チャドウィックは、中性子の発見により、1935年度のノーベル物理学賞を授与されました。原子にまつわる次のドラマの主役は中性子となったのです。悲劇ともいえる男女の物語はもう幕を開けていました。それは、1938年、核分裂の発見と分析という偉業を成し遂げた二人の男女の親密さと裏切りの物語です。

 リーゼ・マイトナー(1878-1968)はユダヤ教徒であった両親の元にオーストリアで生を受けました。ウィーン大学で物理と数学で学位をとったリーゼは、マックス・プランクのいるベルリン大学でさらに原子物理学を研究する決意を固めました。保守的なプロイセンでは女子の大学入学を認めていませんでしたが、プランクは彼女の熱意と性格の良さに魅了されて、彼女を仲間の一人に加えました。その頃、ベルリン大学にオットー・ハーンという化学者がいて、すぐれた実験技術を持ちながら理論的奥行きと分析力が不足していたために、まだ世間を驚かす成果を出せずにいました。ハーンにとって理論物理の才能にあふれたリーゼは願ってもないパートナーに思えました。彼女も、この同年でハンサムで愛想のよい化学者に好感以上のものを抱いたようです。こうして、科学史上もっとも理想的なカップルは生まれました。ハーンが鉱物から純粋な放射性元素を取り出すために必要な化学的分離を行い、マイトナーがそれを分析するのです。二人の研究成果が次々に発表されると、マイトナーの名は物理学者の世界で徐々に高まっていきました。当時、パリのジュリオ・キュリー、ケンブリッジのジェームズ・チャドウィック、ローマのエンリコ・フェルミ、、それに同じドイツのライバルチームたちとしのぎを削る争いが行われていました。中性子の発見の一番手はチャドウィックに譲ったものの、マイトナーは中性子の持つ本当の力を探っていました。

 しかし、ここにヒトラーが台頭し、二人の運命は大きく変わります。ユダヤ人科学者を排斥する運動はベルリン大学にも広まり、マイトナーにも非難の手が伸びようとしていました。「ユダヤ人が研究所を危険にさらしている」という話が伝えられ、ライバルたちはマイトナーに露骨に嫌がらせをするようになります。恐怖を感じたマイトナーはハーンに助けを求めます。ハーンは彼女を守ることを約束してくれますが、研究所の上層部を集めた会合でマイトナー追放に賛成してしまうのです。ハーンは考えられうる最悪のところでマイトナーを裏切ったのです。ハーンの性格について、ディビッド・ボタニスはつぎのように書いています。「ハーンはたしかに魅力的な人物だったが、魅力的というのは、反射的に周囲の人々を安心させるような振る舞いをできるということにすぎない。深い道徳的基準を持っているというわけではない」。

 マイトナーは驚き、恐れて、ストックホルムへ脱出します。期限切れのパスポートを使って、幸運なことにドイツ国境をすり抜けました。だが、不思議なことに、その後もハーンに対するマイトナーの態度は寛大でした。あの状況では仕方がなかった、と自分に言い聞かせていたのかも知れません。ストックホルムから、マイトナーは詳しいアイデアをハーンに送り、ハーンが実験に成功すると、マイトナーがそれを分析していきました。

 ハーンは、ベルリンでストラスマンを助手として、ウランに中性子をゆっくりぶつける実験をしていました。中性子は電荷を持っていないので、陽電荷を持つ原子核に容易に入り込むことができるのです。彼らの予想では、ウラン原子に余分な中性子を入れると、もっと重い同位体に変わるはずでした。しかし、結果は半分ほどの重さのバリウムができたのです! 1938年のクリスマスの数日前に、ハーンは戸惑いと興奮の入り混じった気持ちでマイトナーに手紙を書き、これはどういうことなのかを尋ねました。「もし発表すべきことがあれば、それは私たち三人の業績だ。これを解決する術を見つけてくれれば、君は私たちに対して大きな功徳を施すことになるだろう」と。

 マイトナーはその手紙を読んで、何かとてつもなく恐ろしいことが起きているのを感じました。スピードの遅い中性子は、じわじわとウランの原子核の中に入り込み破壊したのです。しかし、中性子を加えたことで、なぜそれほど激しい分裂が起きるのか、そのとてつもないエネルギーはどこからくるのでしょうか。

 マイトナーの甥のオットー・フリッシュもすぐれた物理学者で、コペンハーゲンのボーア研究所にいたのですが、休暇の時には、ストックホルムに叔母を訪ねてくるようになっていました。ストックホルムの雪原を、フリッシュはスキーで、マイトナーはその後ろから歩いて散歩していました。二人は海岸近くの美しい自然に囲まれたコテージで、原子を分裂させる意味について話し合いました。「ウランの原子核は不安定な水滴に似ていて、わずかな刺激(たとえば一個の中性子がぶつかった衝撃)で分裂する」とフリッシュは書いています。ウラン原子は分裂して、大きさのほぼ等しい二つの原子核に分かれますが、そのとき、2,3の中性子が残り、ゆっくりと動いて近くのウラン原子の中に入りこみ、その内部のバランスを崩す、というより連鎖反応を起こします。フリッシュは、それを、細胞分裂をするバクテリアに例えました。

 しかし、その分析には何かが欠けていました。フリッシュは後に語っています。「叔母は分裂によって生じた二個の原子核が、陽子の質量の五分の一くらい、もとの原子核より軽いことをつきとめた」。陽子の質量の五分の一とは、非常に小さい数字に思えます。しかし、リーゼ・マイトナーは、そのとき、1907年のアインシュタインの驚くべき予言を思い出していたのです。その予言とは、物質は基本的に極度に圧縮されたエネルギーで、そのエネルギーは、もとの物質の量から考えると驚愕するほど大きいように思える、というのでした。E=mc2という公式を思い出してみましょう。物質は凝縮された形のエネルギーであり、圧縮因子は光速(c)の二乗です。質量(m)がほんの少しはがれ落ちただけで、莫大な量のエネルギーを放出します。マイトナーは持っていたメモ帳に急いで計算していきました。とてつもない発見です。核分裂という言葉が人類の歴史ではじめて使われた瞬間でした。

 マイトナーはハーンに返事をし、ハーンは急いで結果を発表しましたが、そこにはマイトナーの名はありませんでした。当時の世相を考えると、彼女がこの研究に関わっていることが発表されると、ハーンの身の安全は保証されない心配がありました。しかし、1944年に、「重い原子核の分裂の発見」で、ハーン一人がノーベル賞を受けた時にもマイトナーには一言も言及されず、、またその後何年もの間、その功績がまったく自分ひとりのものであると主張したのは信じ難いことです。30年に及ぶ二人の共同関係を完全に無視し、マイトナーの名を科学史から葬り去ろうとしたのは人間として卑劣としか言いようがありません。『人物で語る物理入門(下)』(岩波新書)で著者の米沢富美子は、大略次のようなことを言っています。ハーンは内心びくびくしていたので、マイトナーが自分の権利を主張すればあっさり認めていたかもしれない、マリー・キュリーのような強い女性ならそうしたろうが、マイトナーが強く抗議をしなかったのは、おそらくその強い自尊心・美意識(そして育ちのよさも)にあったのだろう、彼女は自伝も書かず、存命中は伝記の執筆の許可も与えなかったのだから。

 マイトナーは、女性差別、人種差別、政治、時代などの不運から、当然受けるに値するノーベル賞に恵まれませんでした。(値すると思われながら受賞できなかった例は、人数制限から、ファインマン、シュウィンガー、朝永という大物三人にはじき飛ばされた1965年のフリーマン・ダイソンを思い出します)。しかし、彼女は、それ以外の多くの栄誉に飾られて90歳の長寿を全うしました。リーゼ・マイトナーとオットー・ハーンの物語が、当時もそして現在もそれほど重要に思われなかったのは、彼らの発見し成し遂げたものが、ある意味で人類にとって「負」の偉業であったからです。発表当時は、その恐ろしい意味についてはっきりと理解できる人間はまれでした。しかし、イタリアからアメリカに亡命してきたエンリコ・フェルミが、その卓抜な仕事(彼こそ核分裂のすべての過程におけるエキスパートです)により、一気に現実の恐怖を実感することになったのです。核分裂が一都市を破壊するほどの爆裂を引き起こす可能性がわかったとき、マイトナーは耳を傾けてくれる人にこう語りました、「私は爆弾製造には決して関わりません」と。実際、連合国側の著名な物理学者で原爆製造に関わらなかった人物は彼女一人だけでした。

 原子のおぼろげな構造が何とかわかり始めてから未だ半世紀も経たないうちに、人類は物質を安定して閉じ込めていたパンドラの箱を開けてしまったのです。この後、「完璧な物理学者」エンリコ・フェルミ、ウクライナの天才ジョージ・ガモフ、優れた才能と立派な人格が融合した朝永振一郎などなど、書きたいことはあるものの、それではいつ終わるかもわかりません。最後に、冒頭に引用したファインマンについて書いて締めくくりましょう。

 

 リチャード・ファインマン(1918-1988)は、ニューヨークの本当のはずれにあるファー・ロッカウェイという海に近い町で生まれましたが、彼は生涯、その下町の労働者風な話し方を変えることはありませんでした。父のメルヴィルは進取の精神を持つ販売員で、息子にこの世界の生き生きとした知識を与えてくれました。リチャードは、学校では、ものごとの仕組みや、何が正しくて間違いなのか、ある問題がなぜ重要なのかについて、人から教わりたがりませんでした。自分の力で解いたとき、初めてその問題が理解できるからです。M.I.Tに進んでからも、その勉強のやり方は変わらず、最新の理論や論文をまともに読まず、最初から最後まで読んだのはポール・ディラックの有名な論文だけだった、ということです。M.I.Tを終えた後、プリンストンに進もうとしましたが、ユダヤ人であることが障害となりました。しかし、M..I.Tの物理学部長ジョン・スレーターの強い推薦で彼は1939年にプリンストン大学院への進学を許されました。最初にしなければならなかったのは、大学院の院長の妻が主催する退屈なティー・パーティーへの出席でした。ファインマンが部屋に入るとすぐ、彼女が尋ねました。「紅茶にはミルクとレモンのどちらを入れましょうか、ファインマンさん?」 そんなおかしな質問をされたのは初めてで(彼はコーヒー党だった)、ぼんやりしたまま彼は答えました、「両方いただきます」。「まあ、ご冗談でしょう、ファインマンさん」

 『ご冗談でしょう、ファインマンさん』(大貫晶子訳・岩波書店)以下のエッセイは、上品でマナーの行き届いたプリンストン大学の学生たちと対比されるような破天荒で好奇心旺盛なファインマンの言動が描かれていて興味がつきません。権威や虚飾や偽善や差別や偏見への侮蔑はもちろんですが、それが思わず微笑んでしまうユーモアに包まれています。彼にまつわる逸話は数え切れぬほどあるのですが、私のいちばん好きなものを紹介しましょう。ファインマンがプリンストンで著名な物理学者ジョン・ウィーラーの助手をしていたときのことです。ウィーラーは学生と議論をするとき、いつも懐中時計を取り出して机の上に置くのですが、それは、教授は限られた時間しか割けないという暗黙のメッセージであったのです。ウィーラーとの最初の会合でその仕草を知ったファインマンは(彼はもったいぶった態度が嫌いだったので)、次の話し合いのときに、自分も安物の時計を取り出してわざとウィーラーの時計の隣に置きました。沈黙の後で、二人は大笑いし、ただちに物理の難解な議論に入りました。

 ファインマンは、ウィーラーのもとで、古典的な物理学の概念、「最小作用の法則」を復活させました。ボールが建物の最上階にあるとき、ボールの位置エネルギーは最大で運動エネルギーはゼロです。ボールが落ちていくにしたがって運動エネルギーは増加し、位置エネルギーは低下します。彼には、ボールが落ちながら常にもっとも効率的なエネルギーのバランスを探しているように思えました。また、ボールが空の上で美しい放物線を描くとき、ボールはその微小時間ごとに、次に何をすべきか決断しているのではないかとも考えました。これを電子の動きにあてはめてみると、電子はその移動の始点と終点しか私たちに痕跡として残さないのですが、その間を電子が通る確率は、電子が通った可能性のある無数の経路について、それぞれの経路で作用が極小になるように電子が動いた「作用位相」を足し上げたものになるのではないか。その論文を読んだウィーラーは、「量子理論のすべてを、こんな簡単な方法で説明できると誰が考えただろうか」と絶賛しました。

 ファインマンは独創的な物理学者として頭角を現し始めましたが、彼の私生活は苦悩に満ちたものでした。高校時代からの彼の恋人であるアーリーン・グリーンバウムが肺結核の診断を受けていたのです。今では抗生物質で治癒可能ですが、1940年代に結核にかかるということは事実上の死の宣告でした。さらに、当時の結核には現在のHIV以上の偏見がつきまとっていました。1942年6月、リチャードとアーリーンは周囲の反対を押し切って結婚しました。母のルシール・ファインマンは息子に手紙を書きました。「あなたの今回の結婚は独善的で、喜ぶ人は一人しかいないと思えます。このような結婚が違法でないことが私には驚きです。違法であるべきです」。この手紙を受け取ったファインマンが、母を許すまでには長い時間がかかりました。

 早くからファインマンをロス・アラモスの原爆計画に引き入れたかったロバート・オッペンハイマーは、ロス・アラモスの近くにアーリーンが快適に過ごせるサナトリウムがあると言って彼を説得しました。軍事関係の仕事を嫌っていたファインマンですが、やむなくその説得に応じ、最年少(25歳)の班長に指名されました。アーリーンは1945年6月に亡くなりましたが、ファインマンは彼女の死を看取るとすぐに徹夜で車を転がし、研究所に着くと、「妻は死んだ。例のプログラムはどうなった?」と同僚に言ったそうです。

(本書と記事内で言及した本のほかに、パイス他『反物質はいかに発見されたか』(藤井昭彦訳・丸善)、ファインマン『困ります、ファインマンさん』(大貫晶子訳・岩波書店)、そしてクロッパーの『物理学天才列伝』下も再び参照しました)

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2010年5月 8日 (土)

ピアーズ・ビゾニー『ATOM 原子の正体に迫った伝説の科学者たち』(2)

 原子がいかに小さいかを説明することは難しいかもしれません。こう考えてみましょう。コップ一杯の海水をすくうと、その中の原子の数は、世界中の海水をすくうために必要なコップの数と同じくらいです。 それでも、やはりそれは想像に絶します。しかし、小さいというのは、とらえどころのない原子の性質のほんの一部にすぎません。

 マンチェスターで、ラザフォードとマーズデンが原子核を発見したのと同じ年(1911)に、26歳のデンマーク人が、ケンブリッジのJ.J.トムソンの研究室にやって来ました。彼、ニールス・ボーアは、尊敬するトムソンの目にとまるよう必死に努力していましたが、トムソンは彼に話しかけるどころか、彼の論文も読んでくれていないようです。もともとコミュニケーション能力に不足しているボーアは、ケンブリッジで実り少ない一年を過ごした後、父の友人の紹介で知り合ったラザフォードのいるマンチェスターに移ることにしました。彼は、もっと自分の話を聞いてくれる人たちと、もっと雰囲気のよい職場を求めていたのです。そして、ここマンチェスターで、ボーアの才能が全開することになるのです。

 ラザフォードは、自身の研究に余念がない中でも、若い研究者の話を忍耐強く聞き、心を常に開き、見込みのあるアイデアを実現するよう助言しました。ケンブリッジ流の権威やもったいぶった態度は彼にはまったく無縁のことでした。大声で怒鳴ることも多かったが、同時に繊細な神経を持ち、私的なことに関しては決して口を挟むことはありませんでした。彼は、「人の名前を傷つけることのできる人物は、たった一人、つまり本人しかいないよ」とよく言っていた、とボーアはその回想の中で書いています。

 ラザフォードは、たちどころに、この青年の天才を見抜きました。「私が出会った中でもっとも秀でた知性を持つ若者」とボーアを評し、彼を励まして、懸案だったその論文を完成するよう促しました。これは、ボーアにとっては願ってもないことで、というのも、彼は人と話しながらでないと考えをまとめることができないからです。ボーアは、話を要約したり、文章を整えたりすることが絶望的に不得手で、ただ、相手に向かって自分の考えをまくしたてながら、問い質されると、すぐに自分の考えを検証して、いわばスイッチバックを繰り返しながら結論に近づいていくのでした。ですから、ラザフォードほどの寛い心と深い学識がなければ、複雑でややこしい彼の話についていくことはできなかったでしょう。あの無口で内気なポール・ディラックでさえ、ボーアに向かってこう言いました。「話を始めるまえに、それをどうやってしめくくるか、何らかの計画を考えておかなければいけないと、学校で習わなかったのですか?」 コペンハーゲンでボーアの話し相手を務めたベルギーの物理学者ローレンフェストは、英語、フランス語、ドイツ語、オランダ語、デンマーク語のほかに「ボーア語」も話せたといわれています。

 さて、ラザフォードは、彼のシンプルな実験結果から、原子は中央に極小の原子核があり、その周りを電子が回転運動していると考えました。なぜ、ただちに電子はエネルギーを失って核の中に落ちて行かないのか。ボーアは、古典的な力学理論には囚われず、電子のふるまいのあるルールを考えてみました。電子は、ある軌道上にある間はエネルギーを失わず永久に回転する、しかし、外からエネルギーを受け取ると、別のより高い軌道に飛び乗り、そして、下に落ちながらそのエネルギーを光として吐き出す、すべては原子と外部の世界との間のやりとりに過ぎません。炉の中で熱せられ、赤く光る鉄の棒を想像してみましょう。鉄原子の電子は、何段階か上の軌道へ飛ばされ、それがもう一度、落ちてくるとき低エネルギーの赤い光を出します。棒をさらに激しく熱すると、青白く光りはじめますが、それは電子がさらに高い軌道へ上がって、前よりも長い距離を落ちていくときに高エネルギーの光子を流出するからです。ボーアによれば、この「ステップ」は不連続にしかもある量のかたまりとして起こり中間状態というものはありません。彼はさらに深遠で重要なことも言っており、電子が別の軌道に飛び移るタイミングは前もって決まっておらず、それは確率的な偶然に過ぎないということです。

 以上はボーアの考えた原子のルールに過ぎず、原子の仕組みを説明したり、その実体を解明するものではありません。ボーアは、自分のルールが抽象的なものであり、科学者でさえ直感的に理解することは難しいだろうと思っていました。「原子を、もはや、古典的な概念で説明することはできない。私たちはそのような言語を持っていない」とボーアは語っています。これは人類の歴史における重要な瞬間で、それまで科学者は人間にとって意味ある言語で自然を説明できると思ってきたのです。

 ニールス・ボーア(1885-1962)は、理想的ともいえる家庭に育ちました。父親は強力な人脈を持つ生理学者でありコペンハーゲン大学の学長、母親は裕福なユダヤ人銀行家の娘でした。とくに弟のハラルとボーアは仲がよく、いつも一緒で、ともにデンマーク代表のサッカー選手としてオリンピックに出場しました(ハラルは正選手でボーアは控え)。ハラルは後に著名な数学者となりました。

 マンチェスターで大活躍したボーアは期待の星としてデンマークに戻りました。そこで、彼は公的機関や民間有志の援助でコペンハーゲンに理論物理学研究所を設立し、家族とともにそこに起居し、世界中から優秀な研究者を集めました。世に言う「コペンハーゲン学派」の成立です。

 「人類と原子の関係において、非の打ちどころのない純粋で喜びに満ちた時期があったとすれば、それは間違いなく1920年代のコペンハーゲンだろう」とビゾニーは書いています。これはひとえにボーアの性格によっています。ボーアのような立場なら、横柄になってもおかしくはなかったのですが、彼は原子物理学初期の王国の独裁者にはならず、個人的欲求もつつましいものでした。ドイツ流の権威を嫌い、研究者たちと分け隔てなく話し合い、希望と熱意に満ちた科学者たちには誰にも門戸を開きました。おそらくボーアの頭のうちには、ラザフォードが作り出していたマンチェスターの研究所の雰囲気が刷り込まれていたのでしょう。毎日激しい議論が交わされましたが、それが個人的な悪意におとしめられることが決してなかったのも、ボーアの性格のゆえだったのでしょう。生き生きとした会話、温かい家庭的雰囲気につつまれたこの「偉大なデンマーク人の城」に集まった研究者たちは、昼は研究をし、夜はどんちゃん騒ぎに明け暮れながら、科学の未来を大きく変えようとしていたのです。

 そのコペンハーゲンの研究所を訪れた中で、折紙つきの天才が三人いました。1900年生まれのヴォルフガング・パウリ、1901年生まれのヴェルナー・ハイゼンベルグ、そして1902年生まれのポール・ディラックです。

 パウリの父親はウイーン大学の生化学の教授でユダヤ人でした。パウリが27歳のとき、この父親は浮気して、そのために母親が自殺します。しかも父はすぐ再婚し、継母とそりが合わなかったパウリはスイスに出奔し、そこでケーテ・デプナーという踊り子と結婚しますが、彼女はある化学者と駆け落ちしてしまいました。その頃からパウリは、著名な精神分析医のC.G.ユングのもとに通うようになり、以後親密な交際を結ぶことになります。ユングは、パウリの論争好きは自己憎悪の反映であると指摘しました。彼の女性との関係は、自ら引き受けた母の悲しみ、そして父の恋人への怒りに影響を受けているというのです。パウリの生い立ちを見れば、誰にでも指摘できそうなことですが、パウリにとっては、ユングの言葉は天啓でした。晩年、パウリは、実在とは精神的でも物質的でもなく、どちらでもあるし、どちらでもないということになるであろう、と原子物理学に身をささげた人間らしい告白をしています。

 ボーアは、電子が原子核の周りを回る際に、ある軌道(準位)をとり、その軌道上では電子の数は決まっていると考えました。しかし、彼は、炭素の6個の電子が、窒素の7個の電子が、酸素の8個の電子が、自分の考えたモデル上でどのように並んでいるかわかりませんでした。パウリは、その有名な「排他原理」の中で、同じ軌道には条件の同じ電子は1個しか入らないことを示しました。2個入るとしたら、その電子はお互いに逆方向のスピンを持っていなければなりません。3個は不可能です。よって、電子を2個持つ安定したヘリウム原子が、もうひとつ電子が増えると、活発なリチウム原子になるのは、その三つ目の電子がもっとも外の軌道に不安定のまま取り残されるからです。よって、原子同士の結びつきはその最外殻の電子によって決まるのですが、化学がこれほどわかりやすい原理によって説明されるとは誰が考えたでしょうか。また、それは、原子が、つまり私たちの世界が、なにゆえに安定しているかという理由になるのです。

  さて、パウリといえば、寸鉄人を刺す批評で有名です。見所のない論文を持ってきた同僚に対して、一言「これは間違ってさえいない」とコメントしました。批評はしばしば悪態に近く、その欠点を徹底して突いてくるのです。ハイゼンベルグが自信のある研究について、うっかり、「あとは技術的な詳細だけだ」ともらしてしまったとき、すかさずパウリは紙に下手くそな四角を描いて、「これで私がティツィアーノと同じように絵が描けることがわかるだろう。あとは技術的な詳細だけだ」と返したということです。

 このような辛辣なパウリが、にもかかわらず忌避されるどころか歓迎されたのは、当時の濃密な議論の雰囲気を理解しなければなりません。きわめて高いレベルで競い合う研究者たちにとって、パウリの鋭い指摘は必要不可欠でした。どんな論文もパウリに見せなければ完成しない、とさえ言われたほどです。対話しながら結論に向かうボーアのような人間がパウリを有難がったのも当然で、彼はパウリが研究所に滞在していないときは必ず手紙で意見を聞いています。パウリの水も漏らさぬ完璧主義は自分自身にも向けられ、それが、アインシュタインに匹敵する天才といわれながら、それに相応しい成果を残せなかった理由ともいわれています。彼は、思い切ったアイデアを試し、間違える勇気をもつという理論物理学者に必要な才能に欠けていたのです。

 パウリの排他原理は理論的原則としてはうまくいっているように見えましたが、なぜそうなっているかを考えると、深いパラドックスに陥るように見えました。1923年に、フランスの貴族であるルイ・ド・ブロイは、光が粒子と波の性質を両方持つならば、電子も粒子であると同時に波でもあると考えられると言いました。これは重要なアイデアで、ボーアの原子モデルをよく説明するように思えましたが、それでも問題の核心には届きませんでした。そもそも、誰が原子を実在するものとして見ることができたでしょうか。あるいは物理的な実在物として目に見える形で表現できたでしょうか。そこに、目に見えるものなぞないと主張する男が出てきました。それがハイゼンベルクです。

 ヴェルナー・ハイゼンベルク(1901-1976)はヴュルツブルグに生まれ、ほどなく一家はミュンヘンに引っ越しました。父親は厳格な学校長で、一家の雰囲気は非常に権威主義的だったと思われます。ヴェルナーは父に愛されんがために双子の兄エルヴィンと椅子を投げあうほどの激しい兄弟げんかを起こしました。ニールス・ボーアの温かな家庭と比べると雲泥の差ですが、このような抑圧的な家庭に育ってよく不良少年にならなかったものです。

 彼は、まずミュンヘン大学のゾンマーフェルトの下で学びましたが、一年上に生涯の親友でありライヴァルとなったパウリも在学していました。それから、ゲッティンゲンで行われたボーアの講演会を聴いて、コペンハーゲンにボーアを訪ねます。ハイゼンベルクの最初の仕事は、ゲッティンゲンのマックス・ボルンの助手として始まりました。ボルンの助手の前任はパウリで、ボルンは皮肉屋のパウリと比べて、性格の良い、ピアノの上手な、この「短い金髪、澄んだ目、チャーミングな表情」をした若者の魅力にすっかり捉えられましたが、自分の下で学位をとらせようとしていたゾンマーフェルトから反発の手紙がボルンの下に届けられました。ボルンはすぐに、「あなたには、まだ、パウリがいるではありませんか!」という返事を送ったということです。パウリは、才能こそハイゼンベルクにひけをとりませんでしたが、背が低く小太りで不器用な青年(運転免許の試験に100回目にやっと合格した)でした。

 当時、原子の振る舞いについて、それを古典力学の定式のようにひとつの理論体系で表せないだろうかと、天才たちが競って考えていました。ハイゼンベルクが彼の理論体系の偉大な思考の着想を得るまでに数年かかりましたが、1925年についにその時がきました。彼は花粉症を発症し、ボルンから二週間の休暇をもらって、空気がきれいでさわやかな風の吹く北海の小さな島、ヘルゴランド島で過ごしていました。海を見て元気を回復したころ、突然、波と粒子を調和させようとしても無駄であることに気づいたのです。われわれが、波と思って見れば波のように見えるし、粒子と思って見れば粒子のように見える。だいたい、原子や電子を見た人間なぞ誰もいないではないか。トムソンは電子がなめらかに動くのを見たわけではない。ラザフォードもアルファ線が一つの場所から別の場所へと飛ぶところを見てはいない。スクリーンにぶつかった跡を調べるしかなかったのだ。ここで、いかにもドイツ人らしく、彼は厳格な実証主義に従います。意味があるのは、確実に証明できる事実とデータだけだ。真実とは実験室で観測し、計測できるものだけだ。原子が本当はどういうものなのかを想像したって意味はない。電子の軌道についても、それが観測できない以上、それは実在ではない。その説明すべてが、いいかげんな話であり、紙に書いた丸にすぎない。彼は、ここで、電子の軌道を視覚化しようとしたボーアから離れます。ハイゼンベルクは、原子の描像など考えずに、全く数学的に、原子の振る舞いの条件をデータとして、その諸要素を計算の中に組み入れていきました。かれは、この要素を掛け合わせたとき、2×33×2が違う結果をもたらすことに気がつきました。ボルンが彼に、それが「行列」の計算と酷似していることを教えました。こうして、ハイゼンベルクの行列力学が生まれたのですが、各要素の組み合わせは、それが特定の順番の時にしかうまくいかないというのは、古典力学の決定論(繰り返し、やり直し、結果の予想が可能)からの決別だったのです。

 ハイゼンベルクは、1927年のソルベイ会議で、さらに驚くべきことを言っています。粒子の位置を正確に知ろうとすれば、その運動量についての正確さも低下する。また運動量を計測しようとすれば、位置の正確さが損なわれる。ということは、われわれは粒子を決して正確に観測することはできないことになる。「私は粒子の古典経路を以下のように説明できると信じる」とハイゼンベルクは書いています。「その経路は、われわれが測定したときにのみ、存在することになるのだ」と。これは、ショッキングな主張で、それまでは物事は人間の行動とは関係なく起こっていると考えられてきました。ある出来事は、人間がそれに気づくこともあれば、それに気づかないこともあるのですが、どちらにしてもそれが起こっていることに変わりはありません。ハイゼンベルクは、原子内部の世界は、そのような仕組みで動いていないと主張したのです。人間が意識的に粒子を観測することで、そこで何が起こっているかが決まるのです。これは物理学の歴史の中で、もっとも奇妙な考えでしょう。

  ここで、オーストリアの理論物理学者エルヴィン・シュレーディンガー(1887-1961)について書いておきましょう。彼は、ウィーンの裕福な工場主の家に生まれ、幼い頃から数カ国の言語と、美術や植物などについての深い教養を身につけていました。ウィーン大学に入ってからは微分方程式を多用する解析力学に熟練したようです。これが彼の将来の理論的方法を決定したといえるでしょう。

 しかし、シュレーディンガーの本当の興味は美しい女性、それもきわめて若い女性にありました。「私は科学より美を優先します」と彼はマックス・ボルンにあてて書いています。「私たちは、いつも、隣人の妻や、決して手に入れられない完璧さを求めています」。彼を研究員として招聘したオックスフォード大学も、妻と妊娠している愛人を一緒に連れて赴任するという彼の条件には最初難色を示しました。妻のアンヌマリーは、そんな夫を愛し、「競走馬と暮らすことは、かごの中のカナリアと暮らすよりはるかに大変でしょう。しかし、私は競走馬と暮らしたいのです」と書いています。

 シュレーディンガーの有名な波動方程式の発見を促したのは、このような複雑な性生活でした。1925年のクリスマス休暇に、スイス・アルプスのリゾートホテルで若い女性と過ごしていた彼は、創造力が漲るのを感じ、ハイゼンベルクが粒子の振る舞いを計算したとは反対に、すべてを波と考えたらうまくいくのではないかと気づきました。ほとんどの偉大な物理学者が20代で大発見をしているのに、彼が38歳という遅い年齢に創造力の頂点に達したのは、情熱的な恋におちた時に発散される不思議な力によるとしか考えられません。

 シュレーディンガーの方程式は、物理学者の常用の微分方程式を使って書かれていたため、ハイゼンベルクの無機的な式よりもなじみやすく、また美しく感じられました。しかし、それにしても、全く正反対のアプローチによって「正しく」説明される原子とはどのようなものでしょう。次に、イギリス、ブリストル生まれの本当に偉大な物理学者ポール・ディラックがあらわれて、ハイゼンベルクとシュレーディンガーの方程式が結局は同じものであることを証明し、かつ「反物質」なるものの存在を私たちに示したのです。

 (本書のほかに、西尾成子『現代物理学の父ニールス・ボーア』(中公新書)、山本義隆編『ニールス・ボーア論文集2』(岩波文庫)、村上陽一郎『ハイゼンベルク』(講談社学術文庫)を参照しました)

 

 

 

 

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2010年4月27日 (火)

ピアーズ・ビゾニー『ATOM 原子の正体に迫った伝説の科学者たち』(1)

 地球規模の大災害が襲って、60億の人類の大部分が死滅し、コンピューターのすべてのデータも灰燼に帰し、わずか数千人しか生き残らなかったとします。このようなことを予測して、人類の知恵を伝え残すために、耐爆性のスチールで作られた小さな板に、数カ国語でメッセージを書き残しておくことにしました。いわば、未来の人類のためのロゼッタ・ストーンともいえるものですが、偉大な物理学者のリチャード・ファインマンによれば、次の簡単なひとことで、人類は物質界について知るべきことをほぼすべて取り戻せるということです。

「すべての物質は原子からできている。それは永久運動を行っている極小の粒子で、少し離れているときはお互いに引き寄せあうが、押し付けられると反発する。」

 

 ピアーズ・ビゾニー『ATOM 原子の正体に迫った伝説の科学者たち』(渡会圭子訳・近代科学社)は、とくに20世紀初頭に、原子という謎の「物質」にとりつかれた人間たちのドラマを追って最後までまったく飽きさせません。著者は科学ジャーナリストで、したがってこの本は「通俗科学読物」に分類されるのですが、この種の本を懲りずに読んできた私にもたいへん面白く読めました(たいていは難しくて退屈になり途中で投げ出してしまうのですが)。高校物理で赤点をとった劣等生の私が言うのだから間違いなく、実際に、いつも読む気力を失わせる物理の数式も、あまりに有名なE=mc² だけしか登場しません。

 

 さて、何から始めましょうか。16世紀初頭に、現在のドイツとチェコの国境付近のヨアヒムスタールという小さな町で貴金属が発見されました。「シルバー・ラッシュ」が起り、あっという間にその町の人口は二万人にふくれ上がりました。そこで採れた銀は硬貨に鋳造され、それはヨアヒムスタール銀貨、のちにターレル銀貨と呼ばれ、世界中で使われるようになりました。その銀貨は、むろん、今はもう流通していませんが、名前は少し形を変えて残っています。現在の名前は「ダラー」です。

 

 やがて、銀は枯渇し、鉱山は廃鉱となり、ヨアヒムスタールはゴーストタウンとなりましたが、その以前からそこには不気味な噂が立ち始めていました。鉱山労働者が原因不明の病気になることが多かったのです。その鉱山からは、銀のほかに、黒っぽく光る鉱物が出ることがありましたが、彼らはそれをドイツ語で「不運な鉱物」ペクブレンデ(英語読みするとピッチブレンド)と呼んでいました。1789年、ドイツ人のマルティン・クラブロスは、その鉱物の中に見慣れない半金属があるのに気づき、天王星(ウラノス)にちなんだ名を付けました。当時、天王星は最後の惑星と考えられていたのです。 

 

 それから1世紀の間に、ウランはヨーロッパの各地で発見されるようになりました。ウラン塩やウラン酸化物の放つ鮮やかな色は、ガラスや陶磁器を色づけるのに使われました。その美しい輝きの中に、目に見えない危険が潜んでいることなど誰も考えませんでした。1896年、フランス人のアンリ・ベクレルは、ウランから出た目に見えない放射線が、写真乾板を感光させるのに気づきました。そのほんの数ヶ月前にドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲンが、熱せられた金属から出た放射線が黒い紙を透かすのを発見していました。スクリーンの前に手をかざすと、手の骨の影が映し出されたのです。科学史上、もっともよく知られた夫婦が登場する舞台はこのように調えられていきました。

 

 マリア・スクウォドフスカは1867年にワルシャワで生まれました。中学校で優等賞を獲得したマリアは、パリのソルボンヌ大学に留学するのが夢でした。ソルボンヌは、その当時、女性に門戸を開いていた数少ない大学のひとつだったのです。ところが、父親の投資計画の失敗で一家は無一文に転落し、マリアはガバネス(子守兼家庭教師)として働かねばならなくなったのです。その間、マリアは反ロシアの過激な政治組織に加盟したりしていましたが、さらにもうひとつの危険もありました。ガバネスとして働いていた家の息子と恋に落ちたのです。二人は熱烈に愛し合いましたが、息子の親は貧乏な家庭教師との結婚を許さず、マリアはその家を出て行かざるをえませんでした。1891年、24歳で彼女は念願のパリに行くことができました。昼間はソルボンヌの数学や物理の授業に出て、夜はカルチェ・ラタンの質素な学生寮に戻りました。食べるものといえばバターつきのパンがせいぜいで、紅茶より高いものは飲んだことがありませんでした。

 

 勉強に没頭した三年間が過ぎて、マリー(彼女はパリで名前をフランス風に変えました)は数学と物理の試験を優秀な成績で合格しました。その頃、35歳の研究者ピエール・キュリーと出会います。この真面目で世渡りの下手な男性は、マリーに研究の援助だけでなく愛をも捧げてくれました。18957月、素朴な結婚式を挙げたあと、二人は、ベクレルが発見していた目に見えない放射線についての研究に本腰を入れて取り組み始めました。

 二人の研究室は使われなくなった解剖室で、冬は寒く、夏は死ぬほど暑く、屋根からは雨漏りのする古い部屋でした。ここを訪れた化学者のオストワルトは「馬小屋とジャガイモ倉庫を合わせたような代物だった」と記しています。この部屋で、二人はくる日もくる日も同じことを繰りかえしていました。ヨアヒムスタールの廃坑から大量のピッチブレンドが送られてきました。マリーが大きな塊から泥や松葉や草を落とします。その後、細かなパウダー状に潰し、火にかけて液体にし、さらにそれを濾して純化します。そして、それを電気分解するのですが、そうやって数ヶ月かけてわずか数グラムの純粋なウランが採れるのです。

 

 「一日中、煮立っている釜を、自分と同じくらいの大きさの重い鉄の棒でかきまぜていることもあった。一日の終わりには疲労困憊だった」とマリーは書いています。それでも毎日新しい発見があり、傍らにはいつもピエールがいました。「あのみすぼらしく古い小屋で、私は人生で最も幸福な日々を過ごした。」

 不思議なのは、純粋なウランよりもピッチブレンドのほうに強い放射性が感じられたことで、ピエールとマリーは、未発見の放射性物質が含まれている可能性に気づき、ついにポロニウムときわめて強力なラジウムを発見しました。1903年、放射性物質発見により、ベクレルとピエールとマリーの三人にノーベル物理学賞が与えられました。しかし、1906年ピエールは、どしゃぶりの雨の中、通りを横切ろうとして、軍需物質を満載した馬車に轢かれて死んでしまうのです。すでに彼の体は放射能に蝕まれていたのですが、(アンリ・ベクレルもその2年後放射能傷害で56歳で急死します)それにしても、マリーにとって衝撃は大きく、その悲しみは想像するに余りあります。しかし、彼女は研究を続け、1911年には再びノーベル賞(今度は化学賞)を授与されますが、ピエールの同僚の科学者ランジュバンとの恋で世間を騒がせます。妻子あるランジュバンとの同棲は、ポーランド女性への差別とも重なって世論の糾弾するところとなりました。マリー・キュリーは、66歳で白血病で亡くなりましたが、放射能による罹患とはいえ、その年齢は当時としては決して若死ではありません。そこに彼女のしぶとさ、迫害にも、性差別にも屈せず、思うところを語り、望むところを行った強靭な精神が見えるのです。

 

(なお、キュリー夫妻は、英国心霊主義協会の作家コナン・ドイルや物理学者ウイリアム・クルックスらと、しばしば降霊術の会に参加していたようです。クルックスは陰極線の実験器具クルックス管で知られていますが、その中の十字型の羽根車は彼が何らかの精神的つながりを持つ聖ヨハネ修道会(あるいはマルタ修道会)の十字架に由来するといわれています)

 

 次の登場人物は、マックス・プランク(1858-1947)です。20世紀初頭のドイツという国の印象は、第一次大戦の敗北とナチスの勃興で大きく歪まされ、本来誰からも賞賛されるはずのドイツ的価値観は忘れられようとしていました。たとえば、正しいことをする、口に出したことを守る、自分より恵まれない人々を守る、法によるルールを厳守する、といったことです。多少、腹が立つことや、愛想が悪いことがあっても、人間は、このようなきちんとした国民を尊敬するものです。マックス・プランクは、曲がったことが嫌いなドイツ人の中のドイツ人であり、平和な社会こそ人類への恵みだという信念は、個々の人間を尊ぶという感覚、そして科学への高い希望と完全に一致しました。父親が法律学教授であったプランクの家は、秩序と義務感にあふれ、保守的なプロシアのもっとも尊敬すべき価値観を保持していたのです。マックス・プランクは、長男の戦死、次男の(ヒトラー暗殺計画に加担した)処刑、双子の娘の死、爆撃による家やノートや日記の消失、そして愛する国の精神的荒廃という恐ろしい経験の後でも決してその品位を失うことはありませんでした。

 

 彼は、ニュートン以来の物理学が、量子力学という全く新しいパラダイムシフトに移行するその分水嶺に立つ人物です。空港などで、通過する旅客の体温を計測する器械などは人間が発する電磁波を感知して作動します(赤外線カメラも同じ構造です)。熱せられたものは、そのように電磁波を発生させるのですが、そのエネルギー総量は電磁波の周波数に関係します。マックス・プランクは、そのエネルギー量が常にとびとびの値をとることに気づきました。つまり、エネルギーは、量子として、かたまりとして計測されるのです。それは、自然の物理変化はすべての値をとりながらなめらかに変化するという古典力学に背馳することでした。プランクは、根っからの古典主義者で、ニュートンが発見した神の国の秩序を覆そうとは少しも思わなかったのですが、同時に自分の作り出した量子仮説が、それまでの物理学を根本から変えてしまうだろうことも実感していました。

 

 「澄んだ良心」「魂の高潔さ」などプランクに与えられた賛辞は、人間がどれだけ高い水準で自らを維持できうるかを示しています。プロになろうとさえ思ったというピアノの腕もこの人間には場違いでなく相応しい感じさえします。プランクは、家族と一緒にいる時がもっとも幸福である、と書いていますが、次ぎに述べるアインシュタインは、全く正反対で、彼は子供の時は妹に暴力をふるい、結婚しては妻に暴力をふるい、自分の子供には無関心、女性関係は当たり構わずというとんでもない男でした。

 アルバート・アインシュタイン(1879-1955)は、1905年、25歳の時に革命的な三つの論文を発表しました。一つは相対性理論、二つ目は花粉がジグザグに動くブラウン運動を水分子の衝突によるものと推測した論文、そして三つ目が(これによってノーベル賞を受けた)光電効果についての論文です。彼は、金属板に光を当てると電流が流れることから、光が実際はエネルギーのかたまりでできていて、それが粒子のように動くと考えるしかないと言いました。それは、ヤングやフレネル以来の光を波とする考えと矛盾するものでした。光は電磁波なのですから、電磁波は粒子である、いやそれは逆で粒子が波からできているのでしょうか。ある不確かな霧のようなものが物理学の世界を覆います。そして、今度は、一人のニュージーランド人が、「物質の基本的構成要素」であると崇められてきた原子が、ほとんど空であることを発見するのです。

 

 アーネスト・ラザフォード(1871-1937)は大英帝国の最も端にある植民地、ニュージーランドのさらに北の端、人口5000人のネルソンで生まれました。アメリカの移民が冒険精神に富んだ人間たちであるのに対して、ニュージーランドに渡った人々は教養のある勤勉な人々でした。それが、たぶんアメリカと違って、先住民であるマオリたちとの軋轢や闘争を起こさなかった理由でしょう。開拓が進むにつれて、アメリカでは酒場が作られていきましたが、ニュージーランドでは学校が建てられていったといわれています。

 父親は亜麻農場をはじめたので、一家は湿地の近くへ引越し、アーネストは野山を駆け回って一日を過ごしていました。しかし、すぐに頭の良さが現れて、両親は山を越えたところにあるカレッジに少年を送りました。アーネストはすべての科目で主席をとり、家は貧乏でしたが奨学金でカンタベリーのユニヴァーシティ・カレッジに入学します。そこでも物理と数学で最優秀をとると、ニュージーランドではもうその上の学校はありません。二年ごとに一人の留学生を送る奨学金に応募しますが、落選してしまいます。彼は失望して、故郷の農場に帰り、父の仕事の手伝いをしていると、当選者が辞退して彼のところにその権利が譲られたという知らせがもたらされました。こうして、アーネスト・ラザフォードは、イギリス本国に渡り、J.J.トムソンが率いるケンブリッジのキャベンディッシュ研究所の一員となることになりました。

 

 しかし、背が高く、だみ声の、田舎育ちの青年は、ケンブリッジのトリニティ・カレッジで、根深い偏見と階級社会を目の当たりにします。この「未開社会」からきた青年は、広大なケンブリッジの学究社会の中で完全に見下された存在でした。彼は辛抱強く堪えましたが、婚約者への手紙では、「胸の上で、マオリの戦いの踊りを踊ってやりたい人間が一人いるんだ」などと書いています。

 ラザフォードは巧みな実験のアイデアと粘り強い努力で次々と新しい発見を積み重ねていきます。放射性物質であるトリウムを崩壊させて、別の原子を作ってしまう(現代の錬金術)、放射能の半減期の発見(これにより地球の年代が遅くとも5億年前にさかのぼり、聖書による年代推定を科学的に否定)などなどで、彼は1908年度のノーベル賞を受けますが、それが物理学でなく化学賞であったことが「それまで目にしてきた幾多の崩壊現象の中でも最大のもの」に思われました。というのも、化学者は「救いがたい馬鹿」であり、「科学は、物理学でなかったら切手収集にすぎない」と思っていたからで、自分は当然、J.J.トムソンと同じ物理学賞がもらえると信じていたのです。

 

1911年、マンチェスターの物理学研究所長であったとき、ラザフォードは、助手のハンス・ガイガーとアーネスト・マーズデンにアルファ粒子(ヘリウムの原子核)を薄い金箔にぶつけるという実験を行わせていました。マーズデンから示された実験結果を見て、ラザフォードは目を疑いました。金箔をすべて透過すると考えられたアルファ粒子の幾つかがまるで頑丈な壁にぶつかったようにはねかえっていたのです。「まるで15インチの砲弾が薄紙にはねかえされたようだ」とラザフォードは書いています。よほど固い核でなければ、強力なアルファ粒子をはねかえせません。そして、アルファ粒子のほとんどが箔を通過し、はねかえるのがほんの一部であるということに原子の秘密が隠されています。原子のほとんどは何もない空間なのだ、とラザフォードは考えました。トムソンのぶどうパンのような原子モデルは間違っていた、原子は、アルバートホールのような広い空間で、その中に一匹の蚊がとまっている、それが原子核だ、しかもその原子核はアルバートホール全体の数千倍の質量をもっているのだ、、、。机や鉄板のような固い物質も、ほぼ空洞の原子でできているとは驚きです。もし、原子がすべて潰れてしまえば、人間の体は塩粒ひとつほどの大きさになってしまうでしょう。

 

ラザフォードの輝かしい成功は、むろんその勤勉さと能力によるのですが、その強力な運と好ましい人間性にもよっています。彼は核物理学の草創期に生まれ合わせました。もし、彼の活躍がもう少し遅く、20年代だったら、数学能力の秀でた物理学者たちと伍していくのは大変だったでしょう。また、彼の性格、研究や実験を楽しみ、シンプルさを好み、決して押し潰されない明るくポジティブな性格も幸いしました。ラザフォードの母親は、いつも息子に、「必死に働くことが、その日の数多くの悪から救われる最上の方法だ」と教えていたそうです。彼は、天才と穏やかな人間性が共存するまれな例でした。彼は論争を嫌い、喧嘩別れした友人や知人は一人もいないとのことです。

ところで、原子が空洞で、そのまわりを電子が回っているとしたら、なぜ電子は古典力学の法則により、エネルギーを失って原子核の中へ落ちて(潰されて)いかないのでしょうか。一人のデンマーク人がその回答を提示して、原子の秘密の祭壇にさらに謎を付け加えるのです、、、。

 

(本書のほかに、クロッパー『物理学天才列伝・下』(水谷淳訳・講談社ブルーバックス)、米沢富美子『人物で語る物理入門・下』(岩波新書)、ハイルブロン『アーネスト・ラザフォード 原子の宇宙の核心へ』(梨本治男訳・大月書店)を参考にしました。)

 

 

 

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2010年3月27日 (土)

メアリー・ボイス『ゾロアスター教』

 卒業式のシーズンですが、列席していて苦しいのは、むろん、校長や学長、来賓などの祝辞を聞くことです。耳に栓をすることもできないので、その真面目くさった話から、祝辞をのべる本人の精神的内実を想像してしまうのですが、T.W. アドルノによれば、このような人間たちの生涯は破廉恥行為の連続と思って間違いないということです。よほどの馬鹿でないかぎり、大勢の人たちに訓戒をたれ、励ましの言葉を送るというのは、あるニヒリズムを伴うもので、それは、うまいことをした自分の側には責任はなく、不運な連中にはそれなりの理由があったと完全に自分を納得させることはやはり難しいからです。

ところで、ゾロアスター教徒であれば、話は簡単で、個人の救済は、その地位や富に関係なく、生涯の総量としての彼の言葉や行為に関わるので、神でさえ、その総量を変えることはできません。人生のどの瞬間においても親切で寛大であったか、辛抱強く、楽天的で、仲間の人々の役に立ち、無知、貧困、病、社会的不平等といった悪に常に立ち向かったか、それは自分自身が一番よく知っており、自分自身が責任をとるべきものなのです。

 

ゾロアスターによれば、人が死ぬと、彼は、チンワトの橋、すなわち選別者の橋を渡らねばなりません。生涯に行った善の総量が悪のそれを上回った人間は、彼の魂の化身である美しい処女に導かれて広々した橋を渡り、天の楽土に到着します。反対に、悪が勝った人間は、しだいに剃刀のように細くなる橋を進み、その上で待つ恐ろしい魔女に手をつかまれて地獄に落ちていきます。

経済学者のシュムペーターは(彼自身はゾロアスター教徒でもなんでもないのですが)、毎晩、その日の自分の行動を顧みて、立派に努力したならプラス1を、努力が足らなかったらマイナス1を、どちらでもなかったら0を記していたそうです。これはまさにゾロアスター教徒的といってよいでしょう。

 

預言者ザラシュトラ(ゾロアスターのアヴェスタ語形)は、紀元前1200年ごろ(おそらく1000年から1500年の間)に生存したとされますが、定かではありません。彼は、幼い頃から祭司としての修行を積みました。メアリー・ボイスによれば、その時代は「英雄時代」であり、他民族の領地を侵略し、近隣の部族を略奪する、法よりも力が支配する時代でした。勝利者の名声は、弱者や保護されていないものの苦痛と血によって贖われました。ゾロアスターは、この地上に生まれ、死んでいくものたちの苦しみに満ちた日々の目的の啓示を求めて長い間放浪したということです。彼は、秩序と平和が行き渡り、強い者と弱い者とが分け隔てなく、誰もが公正に平和に善い人生を送れることを希望していた、とメアリー・ボイスは書いていますが、それが本当なら、たいへん立派な人間ではありませんか!

そして、30歳の時、春の祭りのための水を汲もうと朝の河に入り、そして岸に戻ろうとした時、岸辺にアフラ・マズダーの光り輝く姿を見ました。これは啓示であり、ザラシュトラが放浪の年月に考え続けていたことがある一貫性を持って立ち現れた瞬間でした。

 

ゾロアスターによれば、宇宙には、はじめに唯一の慈愛深い神、アフラ・マズダーが存在していました。この神は完全に賢明であり、他の慈愛深い神々はすべて彼から発しているのです。しかし、宇宙には、もうひとつの強力な霊、悪意に満ちたアングラ・マインユも存在していました。肝要な点は、これら二つの霊は(それぞれの固有の性質に従っているとはいえ)自発的に、一方は善を、一方は悪を選択したということです。この行動は、人もまた、この人生において同様の選択をしなければならないことをあらかじめ示しているのですが、このことによって、人間は神の同盟者として、悪に対する勝利のために戦うのです。(この啓示は、人間にある尊厳を与えています。イスラム教徒が神の前にひざまずいて祈るのと対照的に、ゾロアスター教徒は立ったまま祈ります)

ゾロアスターがいかにしてこのような高邁な考えを抱いたのかはわかりません。メアリー・ボイスによれば、預言者は、その苛酷な体験を通して、叡智と正義と善が、本来、邪悪さや残酷さとは完全に別のものだと確信するに至ったのではないか、ということです。

 

ところで、ゾロアスターの教えでは、望ましい王国は、アフラ・マズダーを筆頭とする七つの神によって統治されます。ウォフ・マナは牛に代表される善い動物を表し、アシャは太陽を通じて世界を統率する火を、フシャスラは天を、アールマイテイは大地を、ハウルワタートは健康を意味する水を、そしてアムルタートは長寿と不死を意味する植物を表しています。頂点に位置するアフラ・マズダーの担当は人間であり、人間は他の六つの創造物を見守るばかりでなく、自分の周囲の世界に対する深い責任を自覚し、なおかつ自分自身の道徳的、肉体的健全さに配慮して、他の人々を世話する義務を負わねばなりません。

 

ゾロアスター教は、それ自身の終末論を有しています。人は死後に、チンワトの橋で選別されると、先に書きましたが、それで終わりになるわけではなく、楽土に行った魂もそれで完全な至福を享受できるわけではありません。やがて、大審判の時がやってきて、人々は(楽土にいる者も地獄にいる者も)復活し、最後の試みを迎えねばなりません。山々から金属が溶け出してきて、その煮えたぎった流れを渡らねばならないのです。正しきものは温かいミルクの河のように容易に渡ることができるのですが、邪悪なものは溶融し消滅してしまうのです。ここに至って、アフラ・マズダーと他の六つの神々は、最後の儀式を行い、復活した人々に不死性を授与します。

「そして、その後、人間は老いず病まず堕落せず、地上の神の王国で永遠の喜びに満ちるだろう。なぜなら、ゾロアスターによれば、遠くの形のない楽土ではなく、完璧な姿に復されたこのなつかしく愛すべき地上においてこそ、永遠が至福となるのであるから。」

 

「ゾロアスターはこのように、個々の審判、天国と地獄、肉体のよみがえり、最後の大審判、再結合された魂と肉体の永遠の生ということを初めて説いた人であった。これらの教義は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に採り入れられて、人類の宗教の多くにおいてなじみある項目となった。しかし、これらのことが、十分に論理的一貫性をもっているのは、ゾロアスター教においてだけである。」

「というのも、ゾロアスターは、肉体を含む物質的な創造が善であることと、神の正義のゆるぎない公平さをあわせて主張したからである。彼によれば、個人の救済は、その人の考えや言葉や行動の総量によるもので、いかなる神も、同情や悪意によってこれを変えるよう介入することはできない。そのような教義の上に『審判の日』があると信じることは、充分に畏怖すべき意義をもち、各人は自分の魂の運命について責任をとるだけでなく、世界の運命についての責任も分かたなければならないとされた。ゾロアスターの福音は、このように高尚で努力を要するものであり、受け入れようとする人々に、勇気と覚悟を要求するものであった。」

 

以上が、開祖である預言者ゾロアスターの唱えた教えです。まことに立派な、尊敬すべき教えではありませんか。少なくとも、人間はみな罪人であると決めつけるような宗教、神の前で人間を不完全な弱い存在と見下すような宗教に比べれば、理性的な人間を納得させるものを十二分に持っています。

しかし、ゾロアスターの教えは、当時の人々を怒らせ、惑わせるものがありました。ゾロアスターに従って正義を求めるものはすべて天国に行くという思想は、下層民を死後地獄に行くことを定めた従来の貴族や祭司たちの伝統を断ち切るものでした。たとえ権力者であっても、不正な行いをすれば、地獄へ行き、究極的には消滅するという思想は彼らにとって恐怖というほかはなかったでしょう。さらに、多神教になじんだ人々にとって、唯一神といってよいアフラ・マズダーや、二元論、道徳的な努力を続けることを要求する宇宙的大闘争というような壮大な観念を理解することは難しいことだったに違いありません。

 

自分の知っている人間が、いきなり神からの啓示を受けたと主張しても、普通は誰も信用しないでしょう。「預言者は故郷に入れられず」は、いついかなる時においても真実です。ゾロアスターは10年にもいたる説教の末に、従兄のマイドヨーイマンハ一人しか改宗させることができなかった、ということです。故郷を去ったゾロアスターは、異郷の地で信奉者を見つけました。ウィーシュタースパの王と王妃で、ゾロアスターはこの国で、信者を拡大し、教団としての礎を築くことができました。

 

ここで、ゾロアスター教徒に課せられた義務を紹介しましょう。常に心に留めておかねばならないのは、善い考え、善い言葉、善い行動、という三つの義務で、これがこの宗教の看板となっています。信者は、クスティーと呼ばれる羊毛の紐を白い下着の上に結び、その結び目を祈りの時に解いたり結んだりします。日に五回の祈りが課せられ、その祈りの度ごとに、信者はアフラ・マズダーとともに悪の権化アングラ・マインユと闘うことを誓います。さらに、信者には、年に七回の大祭を祝うことが厳格に決められています。これらの祭りでは、信者は、祭式を済ました後に、集会で祝福された食物を全員で食べるのですが、ここでは貧富の差なく、善意が全体に行き渡るように、争いごとが仲裁され、友情が新たに深められるように、十分に楽しく行われます。

 

大祭をこのように楽しむことは、この宗教の特質をよく表しています。というのも、憂鬱や厭世はアングラ・マインユの勝利を意味するのですから、できるだけ幸福であること、楽しいことを表現して、アフラ・マズダーの最終的勝利を先取りしなければなりません。後に、イランを制圧することになるイスラム教とは大違いです。ゾロアスター教徒にとっては、豚肉を食べなかったり、飲酒を禁じたり、女性にヴェールを被せるような宗教はとうてい堪えられないものでした。

ここで、サーサーン朝初期に現れたマニ教との違いを書いておきましょう。宗祖マーニは、天国と地獄、神と悪魔、最後の審判、善の窮極の勝利などゾロアスターの教えの多くを取り入れたのですが、なぜか現世をすべて邪悪であるとみなし、個々人にとって最上の道は、この世を否定し、穏やかな修行生活に入り、独身のまま死ぬことだと語りました。そうすれば、その人の魂は天国へ行くだろうし、地上でのみじめな存在を永続させることもなくなる、というのです。この教えが、シャーブフル一世に暖かく迎えられて、その治世(240-272年頃)の間、保護されていたのは驚くべきことです。マニ教の魅力は、知性の優位にあります。ゾロアスター教の中に仏教の智慧と認識、キリスト教の受難と禁欲を溶け込ませて、壮大なグノーシス的思想を作り上げました。それがアウグスティヌスのような精神と肉体のバランスに苦しむ青年を惑わせたのです。

このような悲観主義はゾロアスター教徒には無縁のことです。ゾロアスター教は、禁欲や苦行も否定し、したがって、聖人という言葉もこの宗教には馴染みません。

 

ゾロアスター教が世界宗教にならず、イランの民族宗教となってしまったのは、メアリー・ボイスによれば、アケメネス朝からサーサーン朝までに、権力者の庇護のもとにあったからです。安定した政治的基盤のもとでは、宗教は祭式や慣習の煩雑さを増し、信者にとっては、宗教の内実が薄められる度合いに比例して祭司への様々な謝礼への経済的重荷がのしかかります。かつての簡素で心のこもった宗教に立ち帰ろうとする運動も、実を結ばないまま、アラブのイスラム教徒に制圧されてしまいます。イスラム教徒の下で、ゾロアスター教徒は改宗させられたり、仕事や生活全般において差別をうけ、あるときは集団的迫害・虐殺も経験しました。しかし、カリフの勢力から遠いイランのこの地では、イスラム教自体がペルシアの民族宗教、なかんずくゾロアスター教を取り入れて、やがて来るべき救世主や悪との宇宙的闘争などの観念に強く影響を受けていきます。それがシーア派で、彼らはペルシアの王女との結婚などで血筋的にも色濃くペルシア化されてしまいました

 

この時期にゾロアスター教は、イランに残った者も、インドのムンバイ近くに移住したものも、少数者として結束し、苦しい時期を生き抜いてきました。裏切り者に対して長老たちが下した厳しい裁決にたいして、メアリー・ボイスは、「穏やかとされるイランやインドのゾロアスター教徒が、もしその性格に石のように堅固なところを持っていなかったならば、あらゆる差別を受けながら、宗教や生活を守ることはできなかっただろう」と書いています。

ゾロアスター教は現在でも全世界で十数万人がその宗教を守っているといわれますが、勤勉で、俗的成功を求めることを躊躇せず、その富を仲間ばかりでなく公的な幸福に寄与しようとする態度を保っています。信者数が増えないのは、原則として両親(最低限でも父親)がゾロアスター教徒でないと入信できないからで、もし、この厳しい条件を続けていくなら、消滅するか、近親結婚で衰退していくでしょう。

 

ゾロアスター教徒というと、もう一つ、鳥葬、あるいは風葬という慣習を忘れることはできません。水、火、土はゾロアスター教徒にとって、天や植物や動物とともに神聖なものです。汚れを水で洗ったり、ゴミを火で焼いたり、土に埋めることは、水や火や土に対しての冒涜になります。死はアングラ・マインユの勝利として、もっとも忌むべきもので、遺体はそれに触れることも避けるべきことであり、よって、死者を土葬したり、火葬したりすることは最大の罪の一つとされます。

街中に住むゾロアスター教徒は、風葬の場所がないので、天井を大きく開けた石造りの塔を建てて、そこに遺体を安置します。それでも、ハゲタカに遺体を食べさせるとは、野蛮な風習であることに変わりはなく、さすがに、現代のゾロアスター教徒は、(ハゲタカも少なくなったので)この風習を存続させてはいないでしょう。

 

さて、この宗教が私たちの人生にもつ意味はどのようなものでしょうか。「善教」と言われるとおり、ある意味で非常に感動的な宗教であると思います。ゾロアスター教にとっては、この世における被造物の苦しみは、絶対者のもたらしたものではなく、対立霊による災害であると規定しているのですが、悪を、誰のせいでもなく、(むろん原罪などでは全くなく)、克服すべき、そして克服できる対象としてみなしていることは特筆すべきです。

ニーチェのツアラトゥストラは、まさにゾロアスターの観点から下した近代の病の診断と処方とみなすこともできるでしょう。

 

メアリー・ボイスの『ゾロアスター教』(山本由美子訳・筑摩書房1983は、なかなか入手しづらい本でしたが、なんと講談社学術文庫から再刊されました。この宗教については、日本人のすぐれた研究もたくさんありますが、書物としてはボイスの本が最も読みやすく理解しやすいと思います。ところで、私は最近、ディケンズやドストエフスキーのように、制度や政治をいくら変えても人間社会はよくならないのではないかと思うときが時折あります。どんな政治制度の下においても、うまい汁を吸うのは卑劣な人間であるように思われます。毎日、テレビに映る政治家連中の卑しい顔を見ると、その卑しさが地方都市の議員たちや校長たちの厚顔無恥な顔と重なるのですが、実際、彼らには生きることの含羞のようなものが欠けています。といって人間は変わることができないとしたら、救いは理性よりも宗教の方にあるのではないでしょうか。それはむろん、人々を不幸にする宗教ではなく、他のどんな宗教ともちがう宗教なのですが、、、。

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