2018年7月29日 (日)

病み上がりのパリ(8)帰国、ガリエラ美術館

6月22日(金)

   チェックアウトは12時なので、ゆっくり部屋の整理や土産物のパッキングをしました。12時少し前にロビーに降りて清算。飛行機は夜10時半発なので、荷物をレセプションに預けて、身軽になって外に出ました。どこに行こうか全く決めていず、歩きながら考えました。リュクサンブール美術館ではティントレット展を開催していますが、私はヴェネツィア派は好みではありません。それで、まだ行っていないモンパルナス墓地に行くことを妻に提案したところ、そこでもいいというので、モンパルナス方面に足をむけました。

   ところが、モンパルナス大通りに差し掛かったところ、急に妻がガリエラ美術館に行きたいと言い出しました。ガリエラ宮の美術館は企画展の時のみ開場するので、どうかと思ってネットで調べると、 マルタン・マルジェラの回顧展をやっています。それでは、そっちに行こうと決まりましたが、お腹が空いてきたので、モンパルナス大通りにあった軽食屋でサンドイッチと缶ジュース(セットで5.4ユーロ)を1人ずつ注文しました。ハムと卵のサンドはとても美味しかったので、少食の妻も全部残さず食べていました。この店は通りに開け放たれていて、労働者や学生が黙々とお昼を食べています。

   ヴァヴァンの交差点から82番のバスに乗って、イエナへ。金曜日だからでしょうか、結構混んでいます。そこに、ムク犬を連れた30歳ほどの太った男が乗って来て、私たちの斜め前の空いている席に強引に座ってきました。リードでつながれたムク犬はジャンプして、飼い主の懐にしがみついています。あまりにかわいいので写真をとりました。フランスでは原則として犬はどこでも連れて行って構わないようです。

   イエナに到着。すぐ近くのガリエラ宮に向かって歩き始めたところ、妻が「装飾美術館と間違えた!」とカン高い声を出しました。衣服やインテリアなど装飾美術館とモード専門のガリエラ美術館とでは大分違います。しかも、妻は以前装飾美術館に行ったことがあり、しかも装飾美術館はルーヴルの隣ですから場所も全然違います。間違えるとは信じられません。私には、しかし、どうでもいいことで、ガリエラに行くのは初めてなので、このまま入ってみることになりました。私たちの声に気づいたのか、少し前を歩いていた30歳前後のいかにも洗練された上品な女性が振り返って私たちを見ました。どうも日本人らしい。その女性の後についてガリエラ宮の庭に入ると、その女性は戻って来て、入り口は反対側らしいです、と私たちに教えてくれました。ぐるっと回って入り口に向かう途中で話を聞くと、フランスに一人で来て、明日日本に帰る予定だそうです。
    一人10ユーロ払って入館。ベルギー出身のデザイナー、マルタン・マルジェラの1998〜2009の20年間の初の回顧展だそうです。(マルジェラは2009年に引退しましたが、ブランドはメゾン・マルジェラとして日本にもいくつか支店は残っています。現在のデザイナーはジョン・ガリアーノです)実は、マルタン・マルジェラという名前は私には初耳で、ベルギー派のデザイナーといえば将棋の佐藤天彦名人も愛用するアン・ドゥムルメステールしか知りませんでした。しかし、それほど大規模でない展示を見ただけでもマルジェラというデザイナーの革新的なところがわかります。展示は年代順に代表的なスタイルを並べ、またその時のコレクションのビデオなども流されています。

    ところで、むろんマルジェラの展示も刺激的だったが、私たちを驚かせたのは来場した客のコスチュームでした。半分ほどはアジア系でしたが、皆例外なく、斬新で目を惹く格好です。既存の店で揃えたような安直な服を着ている人間など一人もいません。異様に長いドレス、腰巻を巻いた男性、ターバンのようなものを垂らしている女性など、明らかに手づくりとわかる装いです。わざわざマルジェラの展示を見に来たのですから、ファッションに意識が低いわけはありません。それにしても、あまりに個性的な洗練さに目からウロコが落ちる思いでした。というのも、その中に一人、異様に浮き上がっている格好の見学者がいたからです。ユニクロっぽいファストファッションを無定見に着ている男、マルジェラを見に来たとは思えない安直な服装の人間、なぜこんな人間が紛れ込んできたのか疑問を持たざるを得ない俗っぽい安物の服を着た男、もちろんそれは私ですが、実際、展示を見ているうちに自分が恥ずかしくなりました。

  考えてみれば、自分はファッションについて、ほとんど何も考えていませんでした。大学に入るときに銀座の三越でVANのジャケットを買って以来、だいたいアイビーっぽいスタイルが理想であり、自分に合っていると思い込んでいました。それから何と数十年、なんの反省もなく、思考停止のまま、今ではトラッドっぽくあれば安手のファストファッションでも平気で着ていられるのです。服装にかける金額も限りなく小さくなっています。しかし、ファストファッションや安手のスーツ、安直なネクタイを身につけた人間は、ヘンリー・ミラー風にいえば、毎日精神的に自殺しているようなものだと言えるかも知れません。服装への意識の低さは自身の内面の傲慢さの現れでしょう。確かに、メゾン・マルジェラやアン・ドゥムルメステールを買うためにはユニクロに0を二つ加えねばなりません。だが、一月分の給料を払っても買い続ける人たちがいるのも事実です。 昔読んでうろ覚えですが、ミシェル・レリスは『成熟の年齢』の最後に、知人から「なぜ、いつも変な格好をしているのか」と問われて、「それは自分を守るためだ」と答えています。守るべき高貴さを持てなければ服装には何の意味もありません。

   帰りはイエナから63番のバスでクリニューへ。この辺りで、足りない土産を買い足してホテルに向かいました。預けていた荷物を受け取って82番のバスでポルト・マイヨーへ。バスで無事空港に着きましたが、結構混んでいます。出国カウンターで、中国人旅行客が何人も出国審査で長い間調べられていました。搭乗時にいつも新聞を無料でもらえるので楽しみにしています。ル・モンド、レコー(経済紙)、クロワ(カトリック紙)などで、ビールを飲みながら読んでいるうちに寝てしまいました。羽田到着後、京浜急行で帰途へ。猫に会うために自然と足取りは速くなります。今回は1日も雨に降られなかったのですが、何より大事に至ることがなかったのが幸運でした。何事もない、というのが難しいことで、常に付きまとう緊張感が海外旅行の醍醐味でしょう。出国、帰国の煩瑣な手続きも、実務能力の高い妻がいたらばこそです。しかし、ほんとうに疲れた、しばらくはルーミーとのんびり過ごしたいと思っています。

    Le  seul veritable voyage,  ce  ne  serait  pas  d’aller  vers  de nouveaux  paysages,   mais  d’avoir  d’autres  yeux,  de  voir  l’univers  avec  les  yeux  d’un  autre,  de  cent autres,  de  voir  les  cent  univers  que  chacun  d’eux  voit,  chucun  d’eux  est.

                         MARCEL  PROUST
       A  la  recherche  du  temps  perdu

   唯一のほんとうの旅、それは新しい土地に行くことではなく、他者の眼を持つこと、もうひとつの、100もの眼で世界を見ることである、それぞれの他者が見、それぞれの他者がいる世界を。

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ホテルの裏通りの Les Petits Platons という出版社のウインドウ。子供向けの哲学書や玩具を扱っています。人形は左からフロイト、ニーチェ、アインシュタイン、ソクラテス。

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モンパルナス大通り。右奥に Tschann Libraire が見えます。モンパルナス唯一の本格的書店です。

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ガリエラ宮の庭。入口はこの反対側にあります。

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チケット売り場。マルタン・マルジェラのパリでの初の回顧展です。

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場内は撮影禁止ですが、ほとんど皆 iPhone で撮影していました。さすがに一眼レフを構える人はいませんでしたが。

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普通の服に見えて、よく見るとまず見かけないスタイルです。

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アトリエをそのまま展示するという大胆さ。開場前日までマルジェラ自身が隅々まで展示のチェックをしたそうです。

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マルジェラの特徴的なアイテムであるタビシューズ。むろん日本の地下足袋をヒントにしたのでしょう。

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2000年から2001年のラインアップ。

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アメリカ軍の放出品の8組のソックスを組み合わせて作ったセーター。作り方も丁寧に図示されていました。古着やガラクタを劇的に再生する独特の手腕。

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英語で解説してくれるガイドの人もいました。

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年度によって順番に展示されたコスチューム。その当時のコレクションのビデオも流れています。妻も展示に引き込まれていました。

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ガリエラ宮からイエナの停留所に至る道。これが今回のパリ旅行の最後の写真となりました。

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2018年7月25日 (水)

病み上がりのパリ(7)帰国前日・音楽の日

6月21日(木)

   オペラと旅行という2日続きのハードなスケジュールでかなり疲れました。今日を予備日にしていたのは正解で、10時過ぎまでぐっすり寝て休養もとれました。クリニュー辺りまでぶらぶら歩いて、エコール通りのソルボンヌ書店という本屋で店頭の台から妻がジェリコーの画集(7ユーロ)を抜き取って来ました。この本屋は場所柄観光客も多いが、店内は芸術・哲学・宗教などかなり充実しています。店頭台以外は値付けはやや高いか。

   エコール通りをさらに歩いて、再びモベールの市場で骨つきもも肉とクロワッサンを2つずつ買いました。市場の端にモロッコ雑貨のお店があって、妻がバブーシュというモロッコ皮のスリッパ(18ユーロ)を買いたいと言いました。職場で使いたいというのです。モロッコ人の女性はテントの下から色違いのバブーシュをたくさん出してくれました。試着して気に入ったのでピンクのバブーシュを一足買いました。妻によると日本では倍以上するそうです。

   それからマークス・アンド・スペンサーで大きなバケツに入ったサラダを買って、もも肉やクロワッサンと一緒にリュクサンブール公園のベンチで食べました。途中、一瞬頭がボーとして、ヒヤッとしましたがすぐに治りました。この公園は広くてほんとうに気持ちがよいです。裏通りを通ってホテルに帰る途中、モーリス・ナドー書店という小さな本屋がありました。モーリス・ナドーといえば、かつてモンマルトルの南の本屋巡りしたとき、金曜日書店という本屋の扉にモーリス・ナドー生誕100年というポスターが張ってありました(ナドーは2013年に102歳で死んでいます)むろん、『シュールレアリスムの歴史』のナドーです。そのナドーとどんな関係があるのでしょうか。

   妻がその店のウインドウの中に22ユーロのベンヤミンの本を見つけて、どうしても買いたいと言っています。しかし、22ユーロは高い。しかも扉は閉まっているようなので、入らずに通り過ぎようとしました。すると妻が、中に occasion(割引本)があるよ、と言ったので扉を見ると、確かにそう書いてあります。それで、扉を開けて入って見ると、割引本を入れた箱が二つありました。それを探していると、二つ目の箱の中に、ウインドウにあった同じベンヤミンの本が10ユーロでありました。ちょうどその時、店の主人らしき老人が二階から降りてきました。ベンヤミンの本と10ユーロを渡すと、裏表紙を指差して、ここが少し汚れているから、、、と言っています。そして中国から来たのか、と聞くので、日本人だ、というと、訊ねもしないのに壁に貼ってある写真の作家名(ジッド、ヘンリー・ミラー、ジョイスなど)を教えてくれました。この老人の写真を撮り忘れたのは本当に残念です。(あとで調べたら老人はナドーの息子ジル・ナドーさんらしいです)

   ムフタール通りで土産物を買ったあと近くを散策した後で四時過ぎにホテルに戻りました。風呂に入って、のんびりコーヒーを飲みながらテレビでワールドカップのフランスーペルー戦を観戦しました。途中でワインを飲み始めたら寝てしまい、気づくと試合は終わっていました。今日は音楽の日ということで、七時過ぎから外に出て行きました。ところが、外に出ると風が強く、一気に体が冷えてきました。よりによってノースリーブのワンピースを着てきた妻は部屋に戻ってスカーフを取って来ました。これまでと同じように、スフロ通り、リュクサンブール、サン・ジェルマン・デ・プレなどで、バンドが賑やかな音を出しています。

   しかし、寒い寒い、この寒さにもかかわらず、それぞれのバンドの周りには人々が群がっています。踊りだす者、ビールを競って飲む者、どんちゃん騒ぎを始める者、いつもこんな感じです。サン・ジェルマン・デ・プレに行ったついでに、夜12時まで店を開けている レキューム・デ・パージュ書店に寄りました。ここでfolioの2ユーロ文庫を2冊買って、ホテルに帰りました。明日はいよいよ帰国の日、なにかあっという間の感じです。

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ソルボンヌ書店。クリニューの近く。この辺りは観光客目当ての店も多いが、この店の店頭本は良心的。

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リュクサンブール公園。広くて、静かで、一種華やいだ公園というのは他ではあまり考えられません。シモーヌ・ヴェイユが高校生の時、この公園で露出狂の男にあったというエピソードは有名です。

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パンテオンに続くスフロ通り。パンテオンの前にソルボンヌ法学部があるので、この辺は法律の専門書店が軒を連ねます。

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ムフタール通り。ヴァイオリンを弾くおじさん。この通りも今や観光客の絶えない通りとなりました。元々はラブレー以来の古い通りです。

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コントルスカルプ広場。ムフタール通りはここから始まります。すぐそばにヘミングウェイの住んでいたアパルトマンもあり、左岸でもっともcosy な場所になっています。今日は音楽の日なので、昼頃からバンドが演奏を始めています。

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モーリス・ナドー書店。出版もしています。シュールレアリスムに特化した書店のようです。主人と言葉を交わしましたが、お互いに何を言っているのかわかりませんでした。

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夜7時過ぎですが、スフロ通りではもう演奏が始まっています。

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スフロ通りとサン・ミッシェル通りの交差点。歌っている人の横を通行人が容赦無く通り抜けて行きます。

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オデオンからサン・ジェルマンに抜ける道。店内での演奏がスピーカーから大音量で流れています。

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サン・ジェルマンおお通り。中年のバンドの人気は今ひとつ。見る人の目も冷ややかです。

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サン・ジェルマン・デ・プレ教会前の広場。たまらず踊り始めている人もいます。

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オデオンで。デキシーランド・ジャズの元気な演奏。服も揃えています。

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妻がモベールの市場で買ったモロッコのバブーシュ(18ユーロ)職場でスリッパとして使っているそうです。

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今日買った本。左上ジェリコーの画集(7ユーロ)。これはお買い得でした。その隣はベンヤミンの『一方通行路・ベルリンの幼年時代』(10ユーロ)。出版元はもちろんモーリス・ナドー書店です。下はレキューム・デ・パージ書店で買ったfolioの2ユーロ本。『パリはいつも祝祭日』(モンテーニュからぺレックまでパリ賛美の文章を集めたもの。そしてチャンドラーの『Deniche la fille』(「トライ・ガール」抜粋らしい)。チャンドラーの仏訳を読むのは初めて。ミステリーは最初の10ページが試練で、それを乗り切れば割と楽に読めます。

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スポーツ専門紙L'Equipe.。1−0で勝利したペルー戦の記事。「夏の味わい」と題してフランス代表の快進撃を伝えています。むろん左はグリーズマン、右はムバッペです。昔、パリ・サンジェルマンを応援するため、お金を払ってフランス・リーグの試合を観ていましたが、仕事が忙しくてやめてしまいました。近年のフランスの好調は異端分子を外して、和を最優先にしたのが効いています。代表監督のことをフランス語でselectionneur(選ぶ人)という時がありますが、まさにその通り、チームとは目標に向かって狂ったように一丸となるとき実力以上の力を発揮するのです。

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2018年7月11日 (水)

病み上がりのパリ(3)プティ・パレで冷や汗をかく

6月17日(日)

   朝7時半に起きましたが、妻は昨夜の疲れで、まだぐっすり寝ています。一人でホテルを出て、日曜に市の出るモンジュ広場へ。ところが、まだ店を準備中で、かろうじて開けていた果物屋でサクランボを半キロ(3.5ユーロ)買いました。それから途中のムフタール通りに戻って、店を開けているパン屋でクロワッサンとパン・オ・ショコラを2つずつ、鶏肉屋で骨つきもも肉を2本(1本2.5ユーロ)を買いました。昨日のモベールの肉屋より高いのは、観光客の多いムフタール通りだからでしょう。帰り道、ホテルの裏の通りで、ベージュのカーディガンに同じ色のパンツを着けた小柄な金髪の若い夫人とすれ違いました。小さなむく犬を散歩させており、離れていたのにかすかに上品な香水の香りがします。ホテルの前の道で、一周してきたのか、またその女性と出会いましたが、なんと私たちのホテルの隣の隣の建物に入って行きました。

   ホテルに戻るともう妻は起きています。コーヒーを沸かし、パンとサクランボを食べました。サクランボがとても美味しかったので食べ過ぎたのが後の悲劇につながったとは、この時はむろん思いもしませんでした。今日は日曜でお店はほとんど休みなので、妻は2時からのプティ・パレでのピアノ・コンサートと5時半からのサントゥスタッシュ教会でのオルガン・コンサートに行くことを希望していました。それで63番のバスで国民議会まで行って、アレクサンドル3世橋を渡ってプティ・パレへ。今日も良い天気が続いています。アレクサンドル3世橋からグラン・パレとプティ・パレが向かい合いっているこの風景はパリでもっとも豪奢な風景のひとつと言ってもよいでしょう。

      それにしても、2年前のパリとは全く違うパリを私たちは見ています。2年前は、まだテロの影に怯えて、観光客は少なかったのです。グラン・ブールヴァールの名物レストラン、シャルティエも閑古鳥が鳴いていました。ところがどうでしょう、今はこれまでの閉塞感をぶち破るように、どの通りも観光客で溢れています。左岸のサン・ミッシェル通りも、人種の博覧会のように、黒人、白人、南米の人々がぎっしりと隙間なく歩いています。機関銃を持った軍人も巡回しているが、華やかな街のなかでは浮いているようにさえ見えます。今回の滞在中(ほとんど左岸にいたのですが)一度もスリらしき連中とは会いませんでした。

  プティ・パレに入場。コンサートまで大分あるので、常設展示を見ていくことにしました。以前入館した時は、時間に余裕がなく、大急ぎで通り過ぎたので、今回はじっくり見ようと思ったのです。ルーヴルを小規模に圧縮したような感じですが、きちんと見るとさすがに疲れます。まず、ギリシア美術から。すべては、そのまま超一級の出来栄えです。ギリシアで頂点まで行ってしまったことが、西洋の悲劇で、中世美術はそれに比べると貧弱で、病的で、グロテスクです。続いて、近代美術、クールベ、ドラクロワ、シスレー、ピサロなど、これはたいへん充実しており、一作も逃さず見ようとするとぐったり疲れます。

   休憩のため、プティ・パレ内のカフェへ。日曜日だからか客がいっぱいで、比較的空いている二階席に上りました。ここは、とてもゆったりして雰囲気が素晴らしい。妻はビール、私はミネラルウォーターを注文しました。ところが、妻のビールを一口もらって飲んだ途端、いやな感じの腹痛を感じました。すぐ治るだろうと思っていると、痛みはどんどん酷くなり、胸にまで上って息が苦しくなりました。だいたい五年おきに経験するゲップが出ずに胸が詰まる症状で、病院でランソプラゾールという薬をもらって飲むようになってから軽い胸焼けすらしなくなって安心していたのです。おそらく、今朝サクランボを食べ過ぎたのが原因でしょう。この症状が起きると、じっとしていられない息苦しさで冷や汗がどっと出るのですが、前回はコーラを二本飲むという逆療法でゲップを出してかろうじて治りました。今回はさらに苦しい感じで、爪でテーブルをかきむしるほどでした。しかし、妻はまったく心配していないようで涼しい顔です。私が、救急車を呼んだ方がいいかも知れない、と言って、初めて事の重大さに気づいたらしく呆然とした顔になりました。だが、一瞬後に、(椅子がちょうどソファーのように長かったので)その場に横になると、不思議なことに痛みがケロリと治ってしまったのです。それからすぐにゲップが出て、嘘のように元気になりました。

   ところが、ここに至って、反対に妻の方に異変が起こったのです。救急車という言葉を耳にして、トラウマがよみがえり、パニックに似た気持ちに襲われたようです。去年の12月に起こった私の発作と救急車による入院(救急車の中で私は意味不明なことを呟いていたのですが)、その時の先の見えない不安と、亡くなってしまうかもしれないという恐怖、がよみがえってきたのです。パリで救急車に乗ってアメリカン・ホスピタル(旅行保険の指定病院)に行くことを想像したら誰しも絶望的になるでしょう。私はすぐに立ち上がって笑顔を見せ、妻を元気づけようとしましたが、妻は気が抜けたように座ったままでした。そして、ピアノ・コンサートも、オルガン・コンサートも聞かないで、すぐにホテルに帰りたいと言うのです。

   プティ・パレ横の停留所から、今度は72番のバスで帰ろうとしましたが、日曜日で本数が少ないのか、なかなか来ず、やっと来たバスは超満員でした。それでも、無理やり乗って、古本屋や土産物屋が並ぶセーヌ河の岸に沿って進み、シャトレで降りました。シテ島にかかる橋を二つ渡って、サン・ミッシェル広場まで来て、日曜もやっているカルフール・エクスプレスというコンビニのようなスーパーでサラダやお菓子やワインを買ってホテルへ。まだ2時過ぎなので、部屋の清掃が済んでいるか、済んでいないならロビーでどのくらい待てばいいのかをレセプションの黒人男性に聞いたところ、彼のフランス語と英語が癖がありすぎて、さすがの妻も細部が判然としない様子です。ところが、たまたま、いつも私たちの部屋を掃除してくれる眼鏡をかけたインド人の若い女性が居合わせて、レセプションの男性にはフランス語で、妻には英語でわかりやすく通訳してくれたのです。私はルソーの『告白』の中で宴会の客の誰も読めなかった壁のラテン語を給仕をしていたルソーが読んで皆を驚かせた場面を思い出しました。そのインド人の女性は、順番を飛ばして、すぐに私たちの部屋を掃除してくれたので、心付けを渡したのはもちろんのことです。

    部屋で軽く食事して、妻がベッドで休みたいというので、私は風呂に浸かりながら、午後の時間をどう過ごそうか考えていました。ひとりで本屋巡りしたいのですが、あいにく日曜です。店はほとんどみな閉まっているでしょう。すると妻が浴室の戸を開けて「メキシコードイツ戦が始まったよ」と知らせてきました。14日から始まったW杯サッカーですが、パリでは熱気はそれほどではありません。土産物屋にはワールド・カップのグッズが溢れているものの、フランスが気楽なグループ(C組)に入ったせいか、メディアもまだのんびりしています。しかし、ドイツ対メキシコは重要な試合、ワインを飲みながら(さすがにビールなど炭酸は怖いので)ゆったり観ていたら、余裕を持って開始したドイツが次第に焦っていく面白い展開、思わず終了まで夢中になって観てしまいました。

  その後ぐったり疲れて、夜早くにベッドに入り死んだように寝ていたところ、深夜1時頃、iPhoneの防災速報が三度にわたってけたたましく鳴りました。妻も私もびっくりして飛び起きたところ、大阪で震度6弱とのこと。大阪には心配な人も心配でない人もいないので、また寝てしまいました。

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パンテオン広場に面した道。突き当りの左が私たちのホテル。家賃の高騰するパリで、この辺に住めるのはかなり裕福な人です。

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アレクサンドル三世橋とその向こうにグラン・パレ(左)とプティ・パレ(右)の尖塔が見えます。

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プティ・パレの入口に続く道。観光客が続々と。

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ギュスターヴ・ドレの「涙の谷」。死の直前に描かれた油絵。キリストがあらゆる人々(王侯から乞食まで)に慰めを与える光景。ドレは天才すぎて圧倒されるばかりです。現代のバンド・デシネ(フランスの漫画)の祖型とも言うべき膨大な挿絵その他を残し、51歳で死にました。

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クールベが描いた社会改良家プルードンとその二人の娘の有名な肖像。クールべは同郷のプルードンの思想に大きな影響を受けました。遊びに夢中な末の娘はこの画が出来た時にはすでにコレラで死んでいます。

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シスレーの「モレ・シュール・ロアンの教会」。シスレーはこの教会をたくさん描き、これは夕方の光景。シスレーのやさしい筆触は日本人好みだが、彼の本当の才能は構成的できっちりしした輪郭線にあります。この画もまさに傑作です。

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ピサロの「クノックの村」。クノックはベルギーの北の海辺の村。フランス大統領カルノー(熱力学者カルノーの甥)がアナキストに暗殺された(1894)時、アナキズムに好意的だったピサロは逗留中だったクノックに念のため留まっていました。赤い屋根と黒い雲が印象的。私はピサロが大好きです。

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メアリ・カサットの「水浴」。ペンシルヴァニアの富豪の家に生まれ、パリで印象派の運動に加わったカサットの画を嫌いな人はいないでしょう。この優しさと透明性が彼女の欠点といえば欠点です。空を入れない上からの構図は彼女が影響を受けたドガ譲りのもの。場所は彼女が晩年を送ったパリ郊外のボーフレスヌの城の池だそうです。

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モーリス・ドニの「ペロ・ギロックの海水浴」。いわゆるナビ派の中心人物。ナビ派の源流はゴーギャンですが、ゴーギャンに見られる荒々しく朴訥な宗教性はドニにはありません。第三修道会の式服を着て死んだドニには一種共感し難い抹香臭さがあります。

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プティ・パレのカフェで。二階はゆったりして居心地が良い。私が苦しみ出したのはこの後すぐです。

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プティ・パレの中庭。パリのシンボルマークであるセーヌ河に浮かぶ舟の彫刻があります。

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プティ・パレのギリシア室。レキュトスほか垂涎の名品ばかりです。

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サン・ミッシェル広場の交差点。日曜日なので人は少ないが、かつての明るいパリが戻ってきました。

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2018年7月 6日 (金)

病み上がりのパリ(2)バルザックとロッシーニ

6月16日(土)

   機器の故障で、出発が遅れ、温かい飲物が提供出来ず、手洗いの水も使用不能だったことで、エール・フランスからお詫びのメールが来ていました。しかし、一通のメールで事足りるとするのではあまりに不遜です。せめてスタバのコーヒー一杯無料券ぐらい配るのが筋というものでしょう。
   昨日は疲れすぎてあまり眠れず、二人とも朝5時すぎに目が覚めてしまいました。コーヒーと紅茶を入れて、昨夜モノプリで半額で買ったパン・オ・レザンを半分ずつ食べました。7時半にホテルを出てモンジュ広場へ。月に一度週末に古本市が開かれるらしいので行ってみたが、何もありません。よく考えたら、早朝から古本を買う人もいないでしょう。気を取り直して、モンジュ通りをしばらく歩いてモベール広場へ。ここは木曜と土曜に市が出ます。小規模の市場ですが、けっこう買い物客が多い。市場に面して店を出している鶏肉屋からは、もう美味しそうな匂いがしています。「あれが食べたい」と妻が指差した骨つきもも肉(1.9ユーロ)を二つ買って店を出ようとすると、白いあごひげを生やしたみすぼらしい老人が、ケースの中の手羽先を指差して、私たちに向かって「これは美味い、これは美味い」と言っています。どうも手羽先を買ってほしいらしいが、むろん無視しました。

   その並びのパン屋でクロワッサン(1ユーロ)を二つ買って、歩いてすぐのクリニュー公園のベンチに腰掛けて食べました。骨つきもも肉もクロワッサンも熱々で素晴らしくおいしく、妻が感嘆の言葉をあげています。先ほどの手羽先をねだった老人もきっと食べたかったんだろう、買ってあげればよかったかな、と思いました。クリニュー公園は細長くとても狭い公園で、鳩が何羽か、私たちの周りを遠慮がちに囲んでいます。

   お腹がいっぱいになったので、サン・ミッシェル通りのSNCF(フランス国鉄)の支店へ。実は大分前に6月20日(水)ルーアン行きの往復切符をネットで買った(二人で40ユーロ)のですが、パリ行きの一週間ほど前に、SNCFからメールがあって、帰りの切符だけ annule(取り消された)とのこと。それで、前後の列車を探したが、ネットではなぜか変更できなかったのです。妻はオデオン座で働く友人のJ...さんへ問い合わせたところ、おそらく手違いだろうが、今はスト中なので何が起こるかわからない、ホテルから5分のところにSNCFの支店があるから聞いてみれば、と言われたのです。それで、サン・ミッシェル通りの支店をたずねたところ、人が二人ほど入口の前に立っていて、ドアに張られた紙を見ています。何と、今日は休みにするとのこと、例によって理由などは書いてありません。入口に立っていた老女が、「さっき来たら、いきなり紙が張ってあった」と半ば諦めたように私たちに向かって言っています。これでは仕方ない、月曜日にサン・ラザール駅まで行って聞いてみることに決めました。

   ところで、今回のストは4月から6月まで二日間ストの後五日間正常というサイクルで行われています。私たちに関係あるのは17(日)18(月)22(金)のみですが、コメディ・フランセーズがストの日の公演を中止したりしているので、日曜のゴルドーニ『抜け目のない未亡人』を観たかったが、心配でチケットは買いませんでした。一般にフランス人はストに寛容と思われているようですが、今回は労使の歩み寄りは期待できず、期限いっぱい続きそうで、さすがに国民も国鉄職員も気疲れが見えてきました。強力な国鉄労組に対して同情など持てず、さらにフランス国民の最大の関心ごとであるバカンスに抵触するかもという危惧もあるのです。

   それから、ジベール・ジョセフでバスの地図を買って(以前買ったものはボロボロになったので)、クリニューから70番のバスに乗ってバルザック記念館に行くことにしました。バスの終点であるラジオ・フランスの近くにあるのです。ところで、70番に乗ると、席はちらほら埋まっていて、空いている四人がけの席に座ろうとして、ハッと身を引きました。何と、床にとぐろを巻いたウンコがあるのです。それを避けて、横の二人がけの椅子に座っていると、後から乗って来る人もみなびっくりしてその席を避けています。しばらく後に乗ってきた老婦人が、ウンコを蹴飛ばしているので、よく見るとオモチャでした。日本ではまず引っかからないイタズラですが、道にふつうに犬のウンチが落ちているパリではバスの中にあってもおかしくないと思ってしまいます。

   70番のバスには初めて乗りましたが、このバスはオテル・ド・ヴィル(パリ市庁舎)を出発し、サン・ジェルマンーオデオンを通り、サン・シュルピス寺院の横をすり抜け、パリの南部をゆったりと走って、セーヌ河をグルネル橋で渡ります。あまり混雑せず、観光客もほとんどいない路線で、私はたいへん気に入りました。セーヌ河を渡ると、後ろの席の幼児が「ラジオ・フランス! ラジオ・フランス!」と叫んでいます。前方に、丸く特徴ある大きな建物が終点のラジオ・フランスで、ここはフランス国立管弦楽団の本拠地であり、France Inter, France musique(クラシック),France Culture などで私には馴染み深い。

  それにしても何という良い天気でしょう。ラジオ・フランスの停留所には、バルザックの家へ行く矢印が付いており、その方角へ坂を登って行くと、西方に開けた坂の上からエッフェル塔が美しく立ち上がるのが見えます。パリは私たちが到着する前日まで雨が続いて天気が悪かったそうです。一週間ほど前に、J...さんから、パリ滞在中、隣の人とするバーベキューパーティに参加しないかというメールが来たのですが、妻は行きたがっていたが、私が渋っているうちに、天候不順が続くので中止になってしまいました。「コミュ障にも困ったもんだ」と妻は私にあてつけて言うのですが、わざわざパリまで出かけて、なぜ初対面の人たちとバーベキューをやらなければならないのか私にはわかりません。気苦労はするだろうし、そういうところでは国際標準語である英語が活躍するだろうが、仕事で英語を使う妻はともかく、会話力は日本語すらもどかしい私には楽しい時間を過ごせるとは思えません。

   バルザックの家(Maison de Balzac)。坂上から急な階段を降りて行くと芝生の上に緑色の平屋の建物があります。入館料は無料ですが、見学者はごくわずかです。展示は、バルザックの使用した家具、彼の筆蹟、胸像、版本、人間喜劇の登場人物ほぼすべての肖像を焼き付けた陶器、などです。バルザックの作品の多く、少なくとも主要作品のいくつかを読んだ人でなければ面白くないでしょう。私はこの16区の静かな住宅地に立つ緑色の慎ましい建物と、その広くない芝生の庭、人を驚かせない謙虚な展示、パリを見渡せる素敵な眺望、が好きになりました。

   また70番のバスに乗ってマザリーヌ通りで降りて、近くのカルフールで牛乳、サラダ、ヨーグルト、水、ビールなどを買ってホテルに戻りました。8時からのシャンゼリゼ劇場でのオペラのため昼寝しようと思ったのです。寝過ぎると疲れが出るから2時間で起こしてと妻が言うので、二人とも5時前に起きました。それでも、昼寝をしたら一気に疲れが出たのか、妻は、できるならホテルで休んでいたいと言いだしました。しかし、そういうわけにもいかず、だらだらと出発の準備。和服の着付けが思ったより早く済んだので、妻がコーヒーを飲んでいる間、私がロッシーニの『チェレネントラ La Cenerentola』のあらすじを大急ぎで説明しました。

   ラテン系の民族はファンタジーが苦手ですが、とくにイタリアはその傾向が強い。シンデレラの物語も、イタリアに来ると、カボチャの馬車も妖精の老婆も登場せず、ガラスの靴さえ普通の腕輪に変えられてしまいます。前妻の娘チェレネントラは、後妻とその二人の娘にいじめられ、一日中、掃除や洗濯や料理に追われています。折も折、お城の王子の結婚相手を探すべく、王子の家庭教師が乞食に変装して娘のいる家を訪問しているのですが、チェレネントラの家にもやってきて、意地悪な姉妹に追い返されました。ところが、チェレネントラはパンと飲み物でその乞食(実は家庭教師)を暖かくもてなします。またまた折も折、お城の御触れ係が各家を訪問し、王子が結婚相手を決めるべく舞踏会を催すと告げるのです。絶好のチャンスと姉妹は張り切りますが、チェレネントラには家で留守番を言いつけます。

   家庭教師からチェレネントラのことを聞いた王子は、従者に変装してこっそりチェレネントラに会いに行きます。意地悪な姉妹は従者ということで全く相手にしませんが、チェレネントラと王子は一目見て互いに心を奪われます。舞踏会の日、姉妹は王子に変装している従者に、それとは知らず媚びを売ります。留守番を言い付けられたチェレネントラに、家庭教師がきれいな服を用意してお城に連れて行きます。着飾ったチェレネントラは姉妹にも誰にも気付かれません。チェレネントラは従者(実は王子)に再会し、王子は彼女に目印の腕輪を贈ります。舞踏会の翌日、腕輪の持主を探し、王子はついにチェレネントラを見つけます。ここで、初めて従者が実は王子であったことがわかり、姉妹もチェレネントラも驚きます。結婚式が行われ、チェレネントラは意地悪な姉妹を許して、壮大なハッピーエンドとなります。

   63番のバスで、クリニューからイエナに向かいます。開演前にブランドの本店が軒を連ねるモンテーニュ通りを散策しようとしたのですが、あまりに場違い過ぎて早々に諦めました。シャンゼリゼ劇場の前は、まだ開演40分前なのに人が大勢集まっています。前回は日本人が一人もいなかったのに、今回は一人で来たらしい若い日本の女性がいました。いよいよ開場、私たちは案内係りに誘導されて左手のボックス席に入りました。9人入る部屋で、私たちは前から三列目ですが、34ユーロの席なので贅沢は言えません。特徴的なのは観客のほとんどが案内係の女性にチップをあげていることです。しかもその渡し方が実にさりげない。案内係の女性も小さなポシェットを携帯していて、そこにお金を入れています。先ほどの若い日本女性も財布から小銭を出して渡していました。実は、パリ・オペラ座やバスチーユ・オペラ座は国立なので案内係は国家公務員で、とくにチップの必要はないのですが、シャンゼリゼ劇場は民間の団体の劇場なので、チップは大事な収入源らしいのです。そういえば、会員になって会費を払ってくれという案内がシャンゼリゼ劇場から来ることがあるのです。

   ここは本来はクラシック音楽の劇場で、年に数回オペラを上演するのですが、開演前の舞台には、すでにオーケストラがいっぱいに陣取って音合わせなどをしています。普通は下のオーケストラボックスで演奏するので、舞台を占拠していてはオペラを上演するスペースはあるのだろうか、と心配していると、時間になって、指揮者が壇上に上がり、ロッシーニ『チェネレントラ』の序曲が始まりました。劇的な展開を予想させるスピード感のある調子、メリハリのついた飽きさせない音楽で期待は嫌が応にも高まります。序曲が終わると、意地悪な姉妹が登場して、素晴らしい歌声が沈黙を切り裂くように響き渡ります。衣装は現代風で、極めて簡素です。オーケストラの前の狭いスペースで歌うので、ピアニストにちょっかいを出したり、指揮台に上ったり、喜劇なのでやりたい放題です。

    私たちの部屋ですが、オペラが始まっても私たち以外誰も来なかったので、一番前の席を独占してしまいました。ステージがとても近く感じ、歌手の表情までしっかり読み取れます。これまでのオペラ鑑賞で一番臨場感ある席になって、開演からしばらくは舞台に釘付けになりました。しかし、しかし、ここで時差ボケによる疲労が一気に来て、妻も私も抗いがたい睡魔に襲われました。10時の幕間休憩の時に、ついに耐えきれず途中退場してしまいました。今考えても本当に残念なことでした。イエナから、また63番のバスで帰り、11時過ぎにホテルに帰って、ビールも飲まずに寝てしまいました。

   

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ホテルからすぐ裏のトゥルヌフォール通り。バルザックの時代にはヌーヴ=サント=ジュヌヴィエーヴ通りという名前でした。この通りの24番地に『ゴリオ爺さん』の主要舞台となる下宿屋ヴォケール館があったこととなっています。

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トゥールヌフォール通り25番地、メリメが1820年に住んでいたというプレートが張られています。この向かいがヴォケール館の場所。

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モベールの市場。小さな規模だが、場所がら観光客の姿も多い。

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「バルザックの家」の入口。無料だが来場者はとても少ない。

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バルザックの椅子。いかにも座りやすそう。彼は一晩に50杯のコーヒーを飲みながら執筆していました。

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バルザックの胸像。

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シャンゼリゼ劇場の左側ボックス席。前の二つが空いたので絶好の席に座ることが出来ました。歌手もオーケストラもすぐ近くに見ることができました。

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ジベール・ジョセフで5.4ユーロで新しく買ったバスの本。パリのバスを乗りこなすためには、全部の停留所、ルートの地図、日曜日に走るか、夜間も走るか、それらが全て載っているバスの本が不可欠です。

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2018年7月 1日 (日)

病み上がりのパリ(1)ジャスミンの香るホテル

6月15日(金)

    退院して半年しか経ってないのにフランスまで飛んで行くのは無謀でしょうし、実際、あと1年ほどは、どこにも行かずにのんびり療養したい気持でした。ところが、一年ほど前に妻が安い航空券が出てると言い出して、私もよく考えずに承知してしまったのです。さらに、妻のお気に入りのホテル・グランゾムのプロモーション中で格安で泊まれるというので、一も二もなく決まってしまいました。それから恐ろしいことが起こったので、12月9日に私が倒れて救急車で運ばれ浦安の大学病院に入院し、10日ほどで退院したものの、むろん体調はまだ覚束なく、親類からもフランス行きを中止するよう忠告を受けたのです。だが、貧乏人の性か、飛行機のキャンセル料がもったいなく、しかもホテル宿泊料の半分は前金で払っており、おまけに、オペラ座のチケットも払い戻し不可(5ユーロ払っておけばキャンセル可だったのですが)なので、中止するという選択肢はありませんでした。

  されば、懸命に療養・リハビリするしかなく、しかし、滞在時の食費・交通費・入場料などの諸費用を捻出するために働かざるも得ず、なかなか苦しい毎日となりました。4月の血液検査の結果、血糖値の少しの上昇・ヘモグロビンの少なさ(これは生まれつき)を除けば細部に至るまで基準値内におさまっていて、はじめて旅行への明るい見通しが立ちました。実のところ、毎日のウォーキングで、足腰にはかなり自信がついていたのです。

    6月15日朝、10時半発のエール・フランス機に乗るため、七時前に家を出ました。朝早いのは苦手なので、もっと遅い便がよかったし、航空会社も日本のほうがサービスがよさそうだったのですが、「高いからダメ」と妻からすべて却下されました。ANAやJALなど割高で問題にならず、安くても韓国・中国・中東経由など怖くて乗れず、AFの直行便に限ると、この時期のこの時間がいちばん安いそうです。子どもの頃、実家に時折置いてあったアメリカの写真雑誌〝LOOK″の裏表紙には、いつもAFの一面広告があって、それは可愛く微笑む若い金髪のCAの写真でした。エール・フランスという航空会社への私のイメージは、まさにそれだったのですが、実際に遭遇するのは屈強な中年女性のCAばかりで、人生とはかくのごとしと納得させられるのが常でした。

   とまれ、早朝にもかかわらず、それまでのフランス行に比べて気分はとても良いものでした。途中のコンビニでおにぎりとお茶を買って(おにぎりこそ日本人の心を和ませるソウルフードです)京成の駅に向かったのですが、好事魔多しで、駅構内の踏切を渡るとき、大型のキャリーケースの車輪が引っかかって車輪のゴムが外れてしまいました。これでは重いキャリーケースを引きずって行かざるを得ず、まず快適な旅は不可能です。妻は家に戻って別のキャリーケースに換えることを提案しましたが、パッキングの時間を考えるとそれは無理というもので、仕方なくそれを引いて空港に向かいました。なお、このキャリーケースは10年以上前に買ったエディ・バウアーのもので、丈夫さだけが取り柄でしたが、過酷な使用が祟ったのでしょう。
成田空港に着くと、早速修理屋をさがしたら、朝8時半から開いている店があったので、たずねると、両輪のゴムの付け替えなら15分ほどで済むということで頼むことにしました。1600円という値段に妻は不満そうでしたが、パリで修理することを考えたら安いものです。

   無事に搭乗、出発と行きたいのですが、ボーイング777の水タンクの不備が見つかって、一時間も出発が遅れました。結局、根本的には直らず、機内でのコーヒー、茶などの温かい飲物サービスは停止で、しかもトイレの手洗いの水も使えないというのです。これは、トイレの後に徹底的に手を洗う病的な習慣を持つ私にはショックな告知でした。離陸の遅延で、パリ乗り継ぎの乗客については代わりの乗り継ぎ便の補償など発生して落ち着かない時間でした。無事離陸、私たちの席は777の最後尾のさらに最後尾の二人席で、隣にいつも立っているCAの男性は妻とよく話していて、私たちの席に、ワインやビールや果てはコニャックの小瓶まで持ってきてくれました。

   私は、機内ではあまり映画は見ないのですが、日本では上映されないようなフランス映画があると見てしまいます。その日は L’Apparition と La Promesse  de L’Aube という2作を見てみました。
   まずL’Apparition (出現・顕現)ですが、フランスにはよくある、いわゆるマリア様を見たという少女の話です。ただし、ミステリー仕立てなのが面白い。報道記者のジャックは、シリアの戦闘で15年来の友人を失くして失意のどん底にあり、また爆裂で負傷した耳の痛みと過酷な戦場経験による後遺症にも苦しめられています。そこに突然バチカンから電話で呼び出されます。行ってみると、南仏で話題になり、すでに巡礼者たちを呼び寄せているアンヌという少女が体験したL’Apparition の真偽を調査するメンバーの一員になってほしいとのこと。実はバチカンには常に膨大な数のapparitionの報告が世界中の教会から寄せられており、バチカンはこれらを厳しく調査して、ごくわずかの事例(ルルドやファティマなど)のみ公認しているのです。

    ジャックが選ばれたのも、無神論者で幻想を持たないリアリストであることが評価されたのでしょう。ジャックは、他の調査員と違って、アンヌの交友関係を一つ一つ洗っていき、アンヌが周囲の無理解と期待の重荷に耐えきれなくなり自死を図るに至って、アンヌは誠実な少女だが彼女に「顕現」はなかったと思います。しかし、ジャックは、最終的なバチカンへの報告には奇蹟はあった、とするのです。それはなぜか? 映画は最後に思わぬ秘密が明かされて、深い余韻を残します。

   もうひとつの映画La Promesse de l’Aube(夜明けの約束)は日本ではあまり読まれていないフランス作家ロマン・ギャリの同名の自伝的作品の映画化です。ユダヤ人の両親の元リトアニアで生まれたギャリは、母親の異常な溺愛の中で、ワルシャワ、ニースなどで少年時代を過ごします。この母子の濃密な関係はセルジュ・ゲンズブールとジェーン・バーキンの娘シャルロット・ゲンズブールとコメディ・フランセーズ出身の俳優ピエール・ニネイによって鬼気迫る演技で再現されました。作家となり、自由フランス軍の航空士として英雄となったギャリは、三年間手紙だけで音信を取っていた母親のもとに凱旋します。しかし、すでに母親は死んでいて、息子を勇気づけるために書き続けられた200通以上の手紙は母親の友人に託されて息子のもとに定期的に送られていたのでした。ギャリは映画監督、外交官など波乱万丈の生涯を送った後、66歳で、パリの自宅で38口径のスミス&ウェッソンを口にくわえて自殺します。「あなたにとって、老い、とは」という質問に彼は「破局だ。しかし、私にはそれは来ない、決して」と答えています。なお『夜明けの約束』は邦訳されて出版されており、これでもかというエピソードの連続で全く退屈させません。
   ともに2時間を越す長い映画、しかも音声・字幕ともフランス語なので見るのにたいへん疲れました。予定を遅れて夕方フランス着、目当てのパンテオン広場のHotel Grande hommes にたどり着いたのはもう8時を回っていました。10時半まで開いているサン・ミッシェル通りのモノプリで水、パン、お茶、ビールなど買って、倒れるように眠ってしまいました。

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パンテオン広場に面したホテル・グランゾム。このホテルは三度めの滞在。アンドレ・ブルトンがはじめて自動記述の実験を行ったホテル。夭折した画家佐伯祐三の滞在したホテルでもあります。玄関前に飾られたジャスミンの強烈な匂いが遠くからでも香ります。

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グランゾムのレセプション。インテリアは第一帝政様式(ナポレオン様式)です。

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グランゾムのロビー。以前よりやや寛いだ感じになっていました。

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54号室。椅子は18世紀様式で腰が浅くて座りにくい。

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2016年8月21日 (日)

オデオン広場ふたたび(8)旅の終わり・ブタペスト美術館展

6月24日(金)

     帰国の日。昨日衝撃的なニュースがありました。英国のユーロ離脱で、まさか国民投票で決まるとは。大方の識者の予想をうらぎった結果ですが、私たちには些かうれしい影響が、、、というのもホテル代の清算を精算時のユーロだてにしているからで、すでにユーロは一時的に110円を切る勢いで下落しています。部屋の片付けを手早く済ませ、10時前には清算し、飛行機は深夜発なので荷物をレセプションに預けて、最後の街歩きに出発しました。

   まずサン・ジェルマン・デ・プレへ。L'Ecume des Pages で文芸書を立ち読みしました。出ようとすると、妻が、これを買って、と『巨匠とマルゲリータ』のフランス版のペーパーバックを持ってきました。それを買って、オデオンの交差点まで歩いて、最後にどこか良いカフェに寄ろうと思い、オデオン交差点の cafe les Editeurs に入りました。まだ昼間ですが席はほぼ埋まっています。私たちは朝食用のコーヒーとクロワッサンorパン・オ・レザンのセットを頼みました(2人で11ユーロ)。ところが、クロワッサンが品切れになったとのことでパン・オ・レザンを3つ運んできました。ひとつはサービスとのことです。

    一休みして、les Editeursの前のAvant Comptoir でハムのサンドイッチを買ってリュクサンブール公園のベンチに座って食べました。なぜか帰国の日は毎回こうして昼食をたべています。食べ終わってもまだ時間がたっぷり残っているので、ちょうどリュクサンブール美術館で開催されている「ブタペストの傑作展」に行ってみることを提案しました。これはブタペスト美術館が長期の改装に入っていることを利用して名だたる傑作がパリに移送展示されているものです。入場してみると展示は思った通りすばらしい。デューラー、アルトドルファー、グレコ、ティントレット、ゴヤ、 モネ、マネ、ゴーギャン、セザンヌ等々、これほどの凝縮した展示は日本ではなかなか見られないでしょう。さらに、あまり馴染みのない地元ハンガリー出身の画家たちの絵も興味深い。見終わった後では妻もたいへん満足気で、旅の最後に良い絵をたくさん見れてよかったと言っていました。

   リュクサンブール美術館を出て、リュクサンブール公園の金の鉄柵に沿って歩き、サン・ミッシェル通りをホテルに向かって歩く途中で、ソルボンヌ広場の哲学専門書店 J. VRIN に寄ってみました。最終日にこの本屋に寄るのが慣例のようになっていますが、私がいろいろ迷っているうちに妻が『論語』のフランス語版(原文付)を買っていました。それだけ買ってホテルに戻り、荷物を受け取って、地下鉄でエトワール広場へ。ところが、いつものリムジンバス乗り場が違う場所に移っていて、しかもエール・フランスから委託会社の違う塗装のバスになっていたので、探すのに苦労しました。バスのテロが心配だったが、無事空港へ。今回オデオン座を案内してくれた妻の文通相手が、土産は空港のマークス・アンド・スペンサーで買うといいよと教えてくれたので、そこでお茶やお菓子を買いました。搭乗前に何か食べようとマークス・アンド・スペンサーのサンドイッチを一つずつ買ってベンチで食べましたが、これがとても美味しい。モノプリやフランプリなど問題になりません。また何でも安いので、私が大きなきゅうり(コンコンブル)をカゴに入れていたら妻から取り上げられてしまいました。出国手続きを終えて、私が売店で買ったパリ・マッチを読んでいると、化粧品の売り場に行っていた妻が私に「こっちに来て」と言っています。行ってみると、シャネルのマニキュアの色で迷っているらしく、私に相談してきました。私には全部同じ色に思えたが、帰国の時に免税店で買い物をするのが妻の楽しみなので、真剣にアドバイスしました。

    今回のパリ旅行は、たぶん(私にとって)最後のパリとなるでしょう。大きなトラブルもなく、これまででもっとも満足のいく旅行だったと思います。早く買ったチケットのおかげで、往復とも窓際の二人席を取れたのは幸運でした。ユーロが下がっていたのも僥倖でしょう。今度はどこへ行くべきか。イタリアかイギリスかドイツか。ポルトガルやスペインも良いでしょう。スコットランドやアイルランドも食指が動きます。しかし、本当のことを言えば、どこにも行く気になれないのです。何年か経って、もう一度パリを訪れることがなかったとしたら、グザヴィエ・ド・メーストルの Voyage autour de ma Chambre(書斎をめぐる旅)のごとく、本に埋もれた部屋で思い出と夢想の日々を過ごすことでしょう。

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サン・ジェルマン・デ・プレの本屋 L'Ecume des Pages.

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オデオン交差点のカフェ・エディトゥール。editeurは出版社とか編集という意味。店内の壁は書棚になっています。店員の態度、店の雰囲気、料理の質、トイレなどの綺麗さ、総合的に考えて、パリ最高のカフェの一つであると思います。

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カフェ・エディトゥール。オデオンの交差点際にあります。

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Avant Comptoirで買ったJambon(ハム)のサンドイッチをリュクサンブール公園のベンチで食べました。妻はここのサンドイッチが一番美味しいと言っています。

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「ブタペストの傑作展」から。ルーカス・クラナッハ(1472〜1553)の「洗礼者ヨハネの首を持つサロメ」。クラナッハはこのサロメとやはり同じような趣向の「ホロフェルネスの首をきるユディット」をたくさん描いており、このグロテスクでエロティックな絵画の需要が並々でなかったことを思わせます。残酷趣味も官能美も聖書から由来のものであれば許されたからです。出来不出来はあるが、このブタペスト美術館のサロメがもっとも素晴らしい。

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エル・グレコ(1541〜1614)の「受胎告知」。ほとんど同じものが大原美術館にもあります。ブタペスト美術館はスペインに次いでグレコを多く所蔵する美術館だそうです。グレコの独特の画調は好き嫌いがありそうですが、その偽りのない深い宗教性には胸が打たれます。

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オランダ17世紀の代表的な風俗画家ピーテル・デ・ホーホ(1629〜1684)の「窓辺で手紙を読む女性」。フェルメールにも同名の絵があるが、この二人はデルフトの同じ組合に属していました。ともに風俗画を得意としていますが、フェルメールが劇的で詩的で独自のオーラを持っているのに対して、デ・ホーホは日常の情景を散文的に正確に描こうとしました。非個性的な職人的な誠実さ、それが彼の際立った個性なのです。なお、窓から見える尖塔はアムステルダムの西教会。

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ルーヴルで見ることができなかったフランス・ハルス(1580〜1666)にリュクサンブールで会えるとは。私はレンブラントの数点を除いては、フランス・ハルスに勝る肖像画家はオランダにはいないと思います。この「ある男の肖像」は結婚式の正装をした男の肖像だが、このまま話しかけてきても私たちは驚かないでしょう。フランス・ハルスの優れた肖像画は、皆、笑っているか酔っているか、あるいはその両方です。

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ハンガリーを代表する三人の画家が続きます。ムンカーチ・ミハーイ(1844〜1900)の「マントを着た男」。パリで長らく暮らしていたが、そのリアリズムは言い難い複雑さがあります。ハンガリーの国民画家とも言われています。

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パリで印象派の洗礼を受けたシニェイ=メルシェ・パール(1845〜1920)の「ひばり」。彼の作品としては「五月のピクニック」の方が出来がいいが、それはあまりにフランス印象派がかっています。この「ひばり」の明るさ非現実さはフランス印象派の誰も真似できないでしょう。なお会場では、この絵を模したポーチや文房具が売られていました。

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ヨーゼフ・リプル・ロナイ(1861〜1927)の「鳥かごと女」。この展覧会の目玉というべき素晴らしい作品。鳥かごと壁の緑、ソファの青、ドレスのワイン色、肌の光などは実物を見るに若くはありません。この絵はフランス滞在中に描かれ、その後リプル・ロナイはナビ派の運動に参加しました。シンプルな図柄なのに、いつまで見ても飽きることはありません。

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右の二冊が妻がこの日に買った本。『孔子』と『巨匠とマルゲリータ』。

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2016年8月14日 (日)

オデオン広場ふたたび(7)帰国前日

6月23日(木)

    帰国前日、予定では、妻はオルセー美術館に行って、私は一人でぶらぶらするつもりでした。しかし、昨日の個別行動で私は一人に飽きてしまいました。妻と二人で行動する方が安心だし、何より互いの心配をしないで済みます。それに気づいた時、何というか、自分の青春は終わったのだと思いました。はるか昔に初めてパリを訪れたとき、夕闇の迫る3月のある日に、サン・ティティエンヌ・デュ・モン教会の丸い階段の上に座っていた妖精の黒いとんがり帽を被った愛らしい女学生に話しかけた時、彼女の言っていることはほとんどわからなかったのですが、別れる時はもう暗い帳が向かいのサント・ジュヌヴィエーヌ図書館の玄関まで覆っていました。いつか再びパリを訪れる時に、またあの階段の上に黒いとんがり帽を被って腰掛けている女学生に会える気がしていたのです。

   そんなことなどあり得ないと誰も思うでしょう。昔(ずっと昔です)、小岩のアパートに一人で住んでいた時、近くにあった肉屋の店先で、焼き鳥を焼いていたおかっぱの女の子がいました。その店の娘で、私は銭湯の帰りによく立ち寄って焼き鳥を2、3本食べていたのです。それから25年ほど経って、近くまで来たついでにその肉屋を訪ねてみました。10メートルほど先にその店が見えた時、私の心臓は飛び出さんばかりに拍動したのです。何と、その同じおかっぱの女の子が焼き鳥を焼いているのです。私は少し離れて立ち止まり、そのまったく同じ情景を眺めていました。そして、それが幻影であるかも確認せず、黙ってそこを立ち去りました。

   しかし、今やすべては死に収斂する老年に差し掛かって、青春の幻影は風とともに吹き飛んでいくようです。そんな少女は私の頭の中にしかいなかったし、これからも出会うことはないでしょう。私は、それほど乗り気でなかったが、妻とオルセーに行くことに決めたのです。朝食は昨日と同じ、モノプリで半額で買ったパン・オ・レザン(2個で1.43ユーロ)とコーヒー。サン・ミッシェル近くのセーヌ川に沿ったバス停で24番のバスを待ちましたが、なかなか来ません。朝の陽射しが強くて、妻は文句を言いたそうです。渋滞の間からやっと姿を見せたバスに乗って、20分ほどでオルセー河岸に到着。目の前のオルセー美術館は予想外に行列もまったくなく、 荷物検査もスムーズに終わりました。今日は印象派を除いた19世紀後半のフランス絵画を見るつもりでしたが、一階の左の側廊の広いスペースで『ドワニエ・ルソー展』が開かれていました。

   アンリ・ルソーの絵をまとめて見るのは初めてでしたが、思ったよりもたくさんの絵が展示されていて驚きました。また、ルソーが影響を与えたピカソやエルンストやモーリス・ドニなどの絵も一緒に展示されていました。それにしても、密林や虎や蛇などを次々に見ていくのは疲れます。というのも描かれている絵のほとんどが正面を向いているからで、さらに迫力ある大作が多いのにも圧倒されました。見終わって、それほど好きでもなかったこの画家が好きになったことを告白してもおかしくはないでしょう。訴えてくる画家のイメージは力強く、虚飾も、妥協も、見せかけの宗教的深みもありません。折り重なり、水気をたっぷり含んだ肉厚の葉の信じられない深い緑をそれまで彼以外の誰が描き得たでしょうか。

   今回のパリ旅行は、朝元気いっぱいでホテルを出ても、2、3時間後に急に疲労に襲われることが多かったのですが、ここオルセーでも、ルソー展を出たら急に疲れが感じられました。オルセーの一階の奥の白くまカフェで休もうと思ったら満席でした。仕方なくベンチで休んでから、バスに乗って帰りました。停留所から私だけ先に帰って、妻にオデオン近くの Maison というハンバーガー店でハンバーガーを買ってきてもらいました。ここはFigaroのパリでもっともおいしいハンバーガー店五つに選ばれた店で、パリ一番の肉屋の肉を使っているという話です。ハンバーガーを半分ずつとビールを飲んでベッドで体を休めていたらぐっすり寝入ってしまいました。もう3時近く、今夜は観劇の予定はないのでまったく自由です。妻がマレのカフェ・ド・ミュゼかシェ・ネネスで食事がしたいと言い出しました。しかし、もうランチの時間は終わっているし、夜までは間があります。そこで、昼以降はずっと店を開けているブラッスリーのシャルティエに行くことにしました。妻はあまり乗り気でなかったが、私はあまり気を使わないで済むこの店が好きなのです。

   メトロで、グラン・ブールヴァールまで行き、シャルティエに入って驚きました。たいてい行列ができているのに、今日は誰も並んでいません。店内も客が少なく、いつもは相席になるのが普通なのに今日はテーブルを独占できました。ユーロ2016の最中で、サポーター連中が押しかけてもいいのに、景気のいい団体客の姿も見えません。やはり、観光客は目に見えて減っているのでしょう。私たちも超早割の安い航空券を買っていなかったら、パリではなく草津にでも行っていたかも知れません。シャルティエも化粧室を劇的に改装して綺麗になったのに当てが外れたようです。アペリティフのキールを飲みながら、私たちはゆっくり料理を注文して、ゆっくりワインを飲み、サラダと肉を食べ、コーヒーを飲んで帰りました。

   再びホテルに戻って休息。ベッドに寝転んでテレビを見たり20minutesを読んだりしていました。7時過ぎに二人で外出。まずジベール・ジューヌでeuro2016関連の土産を探しました。いろいろな所を見たが、ここが一番安いようです。キーホルダーなど買って、サン・ミッシェル通りを南に上がって行きました。馴染みの通りですが、恐らく、もうしばらくはあるいは永遠に来ることはないでしょう。ソルボンヌ広場のJ. VRIN に寄ろうと思ったが閉まっていました。さらに南に歩いて、スフロ通りを左に曲がるとパンテオンが見えて来ました。そのパンテオン広場の懐かしいオテル・グランゾムのちょうど裏手にワインで知られた Cafe de la nouvelle Marie があります。

    パリ最後の夜をワイン・バーで過ごそうと思ったのです。ところが、店は満員で、どこにも席はありません。あきらめて帰ろうとしたら、女性のスタッフが、8時40分までに出られるなら二人席が開けられると言って、奥の予約席に案内してくれました。30分ほどしかいられないのですが、ワインだけでも飲んで帰ろうと思って、白と赤のハウスワインを注文しました。店はとても賑やか、エコール・ノルマルやマリー・キュリー研究所の近くなので客質は男女とも知的な人が多いようです。さて、運ばれて来たワインを飲んで白赤ともその美味しさにびっくりしました。特に白はこの世ならぬ味、透き通っていてしかも豊かで飲みながらいろんな夢想が湧いてくるような素晴らしいワインでした。銘柄を聞きたかったが、店内は戦場のような忙しさで早々に退出して来ました。(料金は一杯7ユーロと5ユーロ、どちらがどちらなのかわかりません)

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Le Douanier Rousseau 展は写真撮影禁止でした。オルセー美術館のサイトから彼の渾身の一作「戦争」(1894)を見てみましょう。地上には死に瀕した人たち、枯果てた木々、死体をついばむカラスが描かれ、真ん中には全てを圧して疾走する馬、剣と松明を持つ戦争の女神が描かれています。戦争の恐ろしさ、どうしようもなさ、話し合いの無意味さの真実の表現。誰も千切れた下着をつけて髪を振り乱した女を説得しようとは思わないでしょう。この絵はカンディンスキーやピカソに深い影響を与えました。20世紀のキュビズムやシュルレアリスムなどの絵画は避けがたい人類の苦悶の表現であることを予見しているような作品です。

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私のもっとも好きなルソー作品をフィラデルフィア美術館のサイトから。「カーニバルの夜」(1886)。ルソーのもっとも初期の作品の一つだが、このとき彼はもう42歳になっていました。その後、税関を辞め、ヴァイオリンを弾いて小銭を恵んでもらうほどの耐乏生活の中から次々と傑作を生み出していきます。この幻想と現実の入り混じった世界は比類がありません。

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オルセーの一階でアメリカの画家トマス・エイキンズ Thomas Eakins(1844〜1916)の「Clara」(1890)に出会いました。フィラデルフィアに生まれ、パリで画業を学び、とくにレンブラントに感銘を受けました。その後アメリカに帰り、人物の内面に深く沈潜するリアリズムで多くの肖像画の傑作を描きました。彼とルソーが同年の生まれであることは何か信じがたい。

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オルセー一階の奥の白くまカフェ。ここで休みたかったが満席でした。

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Burger Maisonのクラシック・バーガー。写真は半分に切った後。ポテトと飲み物がついて15ユーロ。妻によると、注文の時、肉の焼き方からトッピングまで色々な選択肢に答えるのが大変だったとのこと。なお、ポテトはサラダでも可。飲み物に選んだコンコンブル(きゅうり)のジュースはとても美味しい。ハンバーガーは、、、美味しくないはずがありません。

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シャルティエの前菜。妻は小海老、私は、、、忘れました。テーブルクロスに注文を書いて、精算の時、筆算するのが伝統だが、今日のギャルソンは新米らしく電卓を使っていました。

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お客が少なくて、マネージャーもギャルソンも所在なさげです。

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スフロ通りからパンテオンを写しました。私にとっては神保町や四谷なみに懐かしい風景です。奥にサン・ティティエンヌ・デュ・モン教会とサント・ジュヌヴィエーヌ図書館が見えます。

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パリ5区、パンテオン横通りのワイン・バー Cafe de la Nouvelle Mairie で飲んだハウスワイン。生涯で最高に美味いワインでした。

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いつも満員だが、雰囲気は素晴らしい。その日の料理が黒板に書いてあります。

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夜は予約した方が無難でしょう。週末にはバンド演奏もあります。カルチェラタンを代表するワインバーです。

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帰り道、コンパニ書店のウインドウを覗きました。イタリアの作家特集で、特にエレーナ・フェランテの『非凡なる女友達』が絶対に面白そう。ペーパーバックも出たばかりです。

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2016年8月 7日 (日)

オデオン広場ふたたび(6)『水と夢』と『かもめ』

6月22日(水)

    昨夜モノプリで半額になっていたパン・オ・レザンをコーヒーと食べて、10時少し前に出発。ホテルを出て、妻は右に私は左に行きました。喧嘩したわけではなく、今日は妻がルーヴル隣の装飾芸術博物館に行くからで、その間、私も本屋巡りでもしていようと思ったのです。とはいえ、どこから行こうかわからず、まず手近のジベール・ジューヌに行ってみることにしました。ぶらぶら探偵小説や文学の棚を見て、1ユーロの本を2冊買ってから、サン・ミッシェル広場のバス停でぼんやりとバスを待っていたら96番のバスが来たので、それに乗りました。96番は、11区のパルマンティエ、オベルカンフ、そして19区のベルヴィルに行くバスです。

   とりあえず、パルマンティエで下車。パルマンティエは市場も出るたいへん活気ある地域で、その交差点に面して Les Guetteurs de vent という書店がありました。開店したばかりですが、もうお客が来て本をみたり、店員と四方山話をしています。まるで近所のパン屋に買いに来たようで、朝の活気が明るい内装の本屋全体に漲っています。最新の売れ筋本、探偵小説、軽いエッセイなど、見やすく並べられた本はどれも興味ふかい。奥には児童書が豊富で、幼児がサッカーの絵本を熱心に眺めています。サン・モール通りの Librairie Libralire や、オベルカンフ通りの Librairie Imagigraphe などの一般書店と完全に競合していますが、立地の良さからこの書店が最後まで残りそうです。

   Les Guetteurs de vent 書店を出て、ジャン・ピエール・タンボー通りを東に向かってゆっくり歩きました。途中の L'Autre Cafe でビールで喉をうるおしながら通りを行き交う人を見ていると、自分がまるで寄る辺のない亡命者のような気分になります。のんびりしていたら、ランチの準備で店が忙しくなって来たので、またジャン・ピエール・タンボー通りを東に。パリの街は、少し歩くだけでガラッと雰囲気が変わることが多いのですが、ベルヴィルの交差点に近づくにつれ、街が荒っぽくなることに気づきました。アラブ人と黒人が多くなり、活気があるというより雑然と混み合ってきた感じです。コーラやファンタとパンやサンドイッチを売る簡易なスタンド、いわゆる立ち飲み店のような狭い室内でワインやビールを飲ませる店、それらの店はみな通りに面した入り口を目いっぱい開けて客が歩道まで溢れています。

   ベルヴィルの交差点を南に曲がり、ベルヴィル大通りをメニルモンタンに向かって歩きます。アラブ色が強くなり、ハラルを扱う食堂やアラブ人用の理髪店、さらにアラブ系の本を扱う店が何軒かあります。そのうち一軒の本屋の写真を道路を隔てた所から望遠で撮っていたら、たまたま外に出てきた主人らしき男が、エファセ、エファセ!(消せ、消せ!)と叫びながら飛んで来ました。それで、わかるようにゴミ箱マークを押して画像を消すと微妙に笑いながら帰って行きました。何しろ周りはアラブ人ばかりなので、トラブルを起こしたら面倒です。また歩き出すと大通りの真ん中、定期市が開かれる場所でフリーマーケットのようなものが開かれていました。見ると、主に黒人がカバンや衣料を売っているようです。奥に入ってみると、何と一眼レフカメラ(ほとんどがニコンとキャノン)が大量に並べられています。その隣にはスマホがずらりと揃っています。仕入先を尋ねるまでもないでしょう。さすがに危険なので写真は撮れませんでした。

   ベルヴィルからメニルモンタン通りに入ると、再び街は穏やかな感じになりました。向かいには、もうペール・ラシェーズ墓地があります。お腹が空いたので、交差点にあったフランプリで水とサンドイッチを買って緑歩道のベンチに座って食べました。隣りのベンチでは女学生らしい3人の女の子たちがやはりサンドイッチをおしゃべりしながら食べています。私はサンドイッチに飽きて食べきれず、残りをゴミ箱に捨ててしまいました。温度は急速に上がって木陰から離れると陽射しが強い。私は急に冷たい、わさびの利いたざる蕎麦が食べたくなりました。チーズやハムはもう十分です。こんなふうに思ったことはいままでなかったのに、日本食が懐かしくなるとは意外でした。

    ペール・ラシェーズの交差点からシュマン・ヴェール通りに入りました。この通りには本屋が二軒あるはずでしたが、一軒は閉店したらしく探しても見当たりません。もう一軒のLa Musardine 書店は健在で、真っ赤な店舗が鮮やかです。この本屋はエロティック関係の書店で、中に入ると、すでに客が3人いました。みな20〜30代の女性で、そのうち二人はそれぞれ熱心に立ち読みしています。あと一人の女性客は店の主人と話しをしていましたが、イタリア人っぽい粋な中年男性の店主は「この本は、いわゆる告白本で、、、」などと本の説明をしています。店内はたいへん明るく洗練されています。入ってすぐ左手にはサドなどの古典本が置かれ、店の右手は男性向けのヌード本などが並べられ、中央には女性向けの小説本(ソフトなものや激しいものも)が見やすく平積みされ、奥には親切にも大人の性玩具も揃っています。私は、アポリネールの『一万一千本の鞭』が平積みされていたので、懐かしくてパラパラ読み返しました。はるか昔ですが、私はこの滅茶苦茶なポルノ小説を読んで感動したのです。それはこの作家が人間性に何の期待もしていないからでした。私は隣に並んでいた同じ作者の『若きドン・ジョアンの冒険』をとってレジで金を払い、店内の写真を撮っていいか聞きました。とても感じの良い主人は「人が写らなければいいよ」とニコニコ笑いながら言ってくれました。

   ペール・ラシェーズ駅から地下鉄を乗り継いで19区の Ourcq 駅へ。19区とはいえ、この辺りは穏やかで住みやすそうです。近くのアルデンヌ通りをひたすら北へ歩くとロワーズ河岸quai de l'Oiseにつきます。ここはラ・ヴィレットの所から流れてくる水路で、昔は材木や農産物の移送のための重要な水路でしたが、今は近隣の住民の憩いの場になっています。運河を向こう岸に渡るとき、自動小銃を携帯して迷彩服を着た3人のフラン軍兵士とすれ違いました。また保母さんに連れられた保育園の子供たちも橋を渡っていました。天気は晴れ、日差しは暑いが、運河を渡る風は心地よい。釣りをする人、ベンチで読書する人もいます。運河を西に少し歩くと、縦に長い平底船(peniche)が係留していました。ここが最後の目的地 L'eau et les reves(水と夢)書店です。

   船にのって、舳先から遠く運河の先を見ると2隻のモーターボートが競争しながら東に走り抜けて行きます。甲板の上に腰掛けるとびっくりするほど涼しい風が吹き抜けていきます。階段を使って船室に降りると、そこは海、川、旅についての書物が非常に美しく並べられています。何人か先客がいて、みな中高年の落ち着いた人たち、店の人たちも家庭的な感じで、静かに客と話しをしています。私はここでスティーヴンソンの『旅は驢馬をつれて』のフランス語版を買いました。また甲板に出て、先日の雨で増水した運河を眺めていると、妻と二人で浜離宮から浅草まで船で行ったことを思い出しました。

   ところで、l'eau et les reves書店の名はむろんバシュラールの『水と夢』から取られているのでしょう。日本ではバシュラールは1970年代を最後に忘れ去られた思想家であるのに、フランスでは常に現役の、というよりincontournable(避けて通ることの出来ない)な人物となっています。これには当時の日本での受容についての問題があったのでしょう。バシュラールは難解な思想家で、研究者がその魅力を一般の読者に伝えることが困難だったのです。そもそも思想家は自分の考えを醸成する過程で様々な失敗、挫折、見落としなどを経験します。余分な虚飾を取り払って、自らの原点から構築する思想は、それゆえに読者を感動させるものを常に持っています。ところが、研究者・紹介者・翻訳家は思想家の到達した所から出発し、要領よくその出どころに遡ります。その文章が読者の心に何かを訴えることが難しいのは当然のことで、バシュラールのような思想家には特にそれが困難であるということなのでしょう。

    よい機会なので、数多くのバシュラールの著作の中から、際立って精鋭なものを紹介しましょう。それは『火の精神分析』(前田耕作訳・せりか書房)です。人間がいかにして火を使用できるようになったかは実は大いなる謎なのです。「合理的」な解釈では、林の中で樹々が風で擦り合わさって発火するのを目撃して、乾いた二本の木を同じように摩擦したら火を生むことができた、などと書かれていますが、実際上信じがたい解釈です。それより人間の毎夜の営みについて目を凝らすべきでしょう。硬い棒が、それより柔らかい材質の穴の中で激しく摩擦し合うと強い熱を発生し、乾いた葉をのせると燃え上がります。これが性交のアナロジーから導き出されたと考えることはもっとも妥当な解釈ではないでしょうか。人間に火をもたらしたとされるプロメテウスがあのような理不尽な懲罰を受けるのは理解しがたく、本質は彼がたくましい熱愛者であったためであろう、とバシュラールは書いています。「神々の復讐は嫉妬に身を焦がす者の復讐である」とはまさにその通りでしょう。

   メトロのCrimee駅まで歩く途中、FaceTimeに妻からメッセージが入っていました。それによると、妻はもうホテルに戻って休んでいるようです。私は急いで地下鉄でサン・ミッシェルまで帰り、モノプリでフランス産のカップ・ヌードルや果物やビールを買ってホテルに帰りました。妻は装飾博物館を堪能したようで、さらにクリニュー博物館も行ってきたそうです。私への土産にクリニューでペーパーナイフを買ってきてくれました。軽い夕食を済ませ、休んでから、8時開始のオデオン座の観劇のためホテルを出ました。今日の演目はあまりに有名なチェーホフの『かもめ』です。

   オデオン座はすぐ近くなのですが、早めに行って劇場で休もうと考えました。オデオン前の広場に設けられたカフェの席はもう近所の年寄りや、観光客や、芝居を待つ人でいっぱいです。私たちは劇場二階のカフェでシュウェップスを飲みながら開演時間を待ちました。20分ほど前になって開場。チケットを見せて観客席へ。私たちの席は二階の31ユーロの席、やや左斜めで見にくいが仕方ありません。舞台を見ると、ぼんやりした薄暗がりの中で、もう出演者が壁際のベンチに腰掛けています。背後の幕にはチェーホフの『サハリン島』からの引用がマッピングで映し出されていますが、斜めからなので読めませんでした。

   いよいよ開演。最初に出演者が二人ずつ出てきて、客をネタにして漫才の掛け合いのようなことをします。観客は爆笑するのですが、早口で言っていることがほとんど理解できず悔しい思いをしました。それから一人の女性がバケツに入れた墨と太い刷毛を持ってきて背後に貼られた大きな紙に水墨画めいたものを書いていきます。山のような、かもめのような、模様のようなものを描いて、描き終わると真っ黒に塗りつぶしていきます。ようやく始まった劇の冒頭は、女主人公ニーナが恋人のトレープレフの芝居を演ずるのですが、それが光と大音響のファンタジーめいた仕掛けで度肝を抜きます。いったいこの芝居はどうなるんだろうと心配していたら、話は何とかあらすじ通りに進んで、しかし、途中の唐突な仕掛けにイライラしながら舞台は終わりました。妻によると、今までで最悪の芝居だったということです。

   実はこの芝居の演出はドイツ出身で世界的に活躍している演出家トーマス・オスターマイヤーで、彼のやり方は原作を現代に合わせて改作し、その当時にヴィヴィッドで本質的だった問題を現代でもまた切実な課題として提示することにあるらしいのです。だから結末を変えてしまうことなど朝飯前で、常に現代にコミットする大胆な仕掛けをねらっているようです。しかし、よく考えてみれば、原作を変えるぐらいなら新たに現代的な新作を作ればいいだけで、わざわざイプセンやシェークスピアを持ち出すのは大権威に寄りかかると思われても仕方がありません。今回は、しかし、チェーホフで、彼の方法はやや空振りだったようです。というのも、(これがチェーホフの偉大な点ですが)彼は、心弱き人間の普遍的な苦悩を描き続けたので、社会性やましてや政治的メッセージなど無縁です。『かもめ』では登場人物はみな現代の衣装を纏って現れますが、そこに描かれるものは小人物的な名声への憧れと憎しみ、自己の才能への懐疑と苦悩、過ぎ去ったものへの哀愁と悔恨以上ではない筈です。

  ついでにもう一つ。チェーホフの短篇小説では、題材を絞りに絞って、人生の一断面、一瞬間を鮮やかに描き出すのに、劇作になると、登場人物すべてに重い人生を背負わせて、それらがみな描ききれず、深みのないものに終わってしまうことが多いようです。『かもめ』の往年の名女優アルカーディナが良い例で、人間ってそんなにわかりやすくないのに、と思ってしまいます。それに対して文学青年トレープレフの最後の自殺は不思議な謎を観客に残しました。オデオンの照明・効果は狙いすぎでどうかと思うが、最後の天井をいっぱいに舞うかもめの光の効果は見事でした。

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ジベール・ジューヌで積んであったロベール・ドアノーの写真集(49.9ユーロ)。ドアノーの写真は、私たちがいつもあのとき撮っておけばよかった、と思うような瞬間を見事に切り取っています。

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パリ11区パルマンティエ通りのLes Guetteurs de Vent(風の見張り番)書店。

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典型的な町の書店。入りやすく、見やすく、相談しやすく、雰囲気が明るい。ネットの時代でもしぶとく生き残るでしょう。

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ウインドウにはEuro2016関連の楽しい本が並んでいます。

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オベルカンフ随一の老舗、L'Autre Cafe。1日中活気のあるカフェ。ここでいつもの1664というビールを飲みました。

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ベルヴィルのアラブ人向けの理髪店。大人12.5ユーロ、子供8ユーロ、なぜか髭が5ユーロです。

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ハラル料理の食堂。日本人が入れるような店ではありません。

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ベルヴィルのフリーマーケット。鞄や衣料を売っていたが、奥にはカメラや携帯も並べられています。

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ペール・ラシェーズ墓地近くのシュマン・ヴェール通りにあるエロティック系書店La Musardine。ウインドウには69番をつけたサッカーフランス代表のユニフォームが飾ってあります。

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La Musardine書店の店内。明るく、くつろいだ感じで入りやすい。客は全て女性でした。

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ウインドウには「ビールとサッカーとポルノの夕べ」という催しのお知らせがありました。

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ロワーズ運河。19区ヴィレット近く。のんびりした風景です。

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非常事態宣言の出ているパリ。こんな穏やかな場所にも3人一組で兵隊が巡回しています。

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この大きな平底船は下の船室全体が旅と水に関する書店になっています。

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これが舳先の部分。店名はバシュラールの『水と夢』から。

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船に乗ると、なぜかワクワクします。

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階段を降りると書店の入り口です。道楽でやっているとしか思えない贅沢な本屋です。

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店内は旅の本、海・河の本が美しく並べられています。

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夜7時過ぎのオデオン広場。老人が多いのに驚きます。

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開演前のカフェ・オデオン。バー・カウンターには行列ができています。

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オデオン座の観客席。出演者はもう舞台に座っています。背景に映し出されているのは、チェーホフの『サハリン日記』。演出のオスターマイヤーはこの著作がチェーホフの生涯の転機になったと言っています。

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最後の舞台挨拶。右から二人目、主人公ニーナ役のメロディ・リシャールはさすがに美しい。

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オデオン座の正面。La Mouette(かもめ)の垂れ幕があります。

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妻がクリニュー博物館で買ってきてくれたペーパーナイフを早速使ってみました。本はブラッサンス公園で買ったParis-Peintres et Ecrivains. ユイスマンスのフォリー・ベルジェールの章にゴッホのモンマルトル風景が添えてあります。

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今日買った本。ジベール・ジューヌで買ったロマン・ギャリの『紅海の財宝』とウナムーノの『見るための目』、La Musardine書店で買ったアポリネールの『若きドン・ジュアンの冒険』、それにL'eau et les reves書店で買ったスティーヴンソンの『旅は驢馬をつれて』。ロバの本は必ず買います。

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2016年7月31日 (日)

オデオン広場ふたたび(5)ケ・ブランリーと17区のオデオン座

6月21日(火) 

  昨日の雨が嘘のような青空、昨夜モノプリで買ったパン・ド・カンパーニュをコーヒーで喉に押し込んで、ケ・ブランリー美術館に行くべくホテルを出発しました。実は今回のパリ旅行は観劇以外は全然予定を立てていなかったのですが、昨日、妻がオデオン座で働くJ...さんに、ケ・ブランリーは行った方がいいよ、と言われたので、行ってみることにしました。J...さんによると、庭がすてきだということです。ケ・ブランリー美術館は2006年に開館した、アフリカ・アジア・オセアニア・南アメリカの文化・民俗・芸術などを展示する美術館で、さほど興味はなかったのですが、妻が行こうよと言うので行くことにしました。

   バスで行こうと思いましたが、バスは乗り換えが面倒なので、メトロでアルマ・マルソーまで行き、セーヌ川を渡ってケ・ブランリーの入り口に着きました。11時開館まで10分ほど待って入場(二人で15ユーロです)。足下を光が戯れるような不思議な廊下を通って展示場へ。ところで、この美術館はよくある民俗学博物館とは随分違っています。例えば千葉の佐倉にある歴史民俗博物館のような来館者を教育する意図など一切ありません。ただ、珍しいものを楽しんで見るようにとだけ作られているので、展示品も多くなく(所蔵品は30万点以上ですが)、しかも部屋によって区切られてなく、大きな空間を楕円形に一周するだけです。展示方法も斬新です。すべての展示物が360度の角度から見ることができるよう工夫されています。照明を落とされ、光によって導かれる様はまるで劇場空間そのものでしょう。さらに、ギメの東洋博物館が突出したカンボジア美術から始まるように、ここはもっとも馴染みのないオセアニア(ポリネシア・メラニシア・ミクロネシア・ニューギニア・ニュージーランドなど)から始まります。

   というのも、このオセアニア民俗・文化がまさに衝撃の展示だったからです。私が考えていたオセアニアのイメージは素朴な楽園という枠をあまり出ないものでした。ところが展示されているものは、奇怪・グロテスク・不気味・恐怖そのものです。想像力のはるか先を行くもの、理性では何とも理解しがたいおぞましさを孕んだものだったのです。西洋人がこれらの島々を初めて訪れたとき、どの島々にも住民が住み、しかもそれぞれ違う言語を話すことに驚いたそうですが、恐らく、島々での戦争、皆殺し、人肉嗜食などが日常に行われ、夜は死者の精霊が跳梁する濃密な空間が展開していたのでしょう。

   オセアニアの展示を過ぎると、突然ぐったりしてしまいました。尋常ならざるものを見た精神の疲れか、あるいは旅も中盤に来た疲労か。美術館のベンチに腰掛けてしばらく休んでから、アフリカ、アジア、アメリカと見ていきましたが、後はだいたい馴染みのものばかりで驚きはありません。外に出て、併設のカフェ・ブランリーで、パスティスを飲みながら広い庭をゆっくり眺めました。有名な造園家の作った庭らしいのですが、自然の野放途さを出しながら、林の中をぶらぶら歩いて偶然美術館に出会うような巧みさがあります。

   メトロでサン・ミッシェルまで帰り、モノプリで果物やハムやサラダを買ってホテルに帰りました。ここで、私は20minutes を読みながらぐっすり昼寝をして、目がさめるともう夕方、妻が黒いワンピースをきて観劇の準備をしています。今日の観劇はオデオン座だが、6区のオデオンではなく、17区のOdeon Atliers Berthier、つまりオデオンのもう一つの劇場です。17区は危険な地区ではないが、劇場のあるポルト・ド・クリシーは18区との境でパリの北西の外れ、street viewでみると、とても殺伐とした地域です。メトロのポルト・ド・クリシーを上がると、一帯は大規模な工事中で、いかにもパリの外れという感じです。

    劇場は駅のすぐ近くにありました。工事の曲がりくねった規制線に沿って歩き、オデオンのAtliers Berthierへ。入口で荷物検査があって中へ入ると、開演時間8時の40分前なのにもう何人も客が待っています。カフェで軽食を食べる人や座ってプログラムを読む人もいます。六区オデオン座前の演劇書専門店 Le Coupe-Papier も小さな本屋を出しています。時間になって客席へ。広くはないが、いかにも実験的な演劇をする場所という感じです。席は一階のちょうど真ん中の37ユーロの席、通路に面して足を伸ばせる絶好の場所です。

   さて、演目は何とフォークナーの『野生の棕櫚』です。全く関係ない二つの話が交互に進行するこの野心的な小説を、女性演出家の Severine Chavrier はものの見事にぶった切って、二人の男女の愛が展開される片方の物語だけに焦点を当てました。しかも登場人物はその二人だけです。簡単に原作のあらすじを振り返ると、「野生の棕櫚」と題された片方は27歳の医学のインターン中の学生と25歳の人妻の愛欲の逃避行ともいうべき話です。夫と二人の子を捨てて医者の卵と駆け落ちする人妻は、最後には恋人による堕胎手術の失敗で命を落とします。恋人のハリーは50年の刑を言い渡されて刑務所に収監されます。もう片方の「オールド・マン」はミシシッピ川の洪水の被災者の救助に駆り出された囚人の話です(オールド・マンとはミシシッピ川の別名です)。彼は濁流に呑み込まれて仲間からはぐれ、途中で木につかまって救助を待つ妊婦を救います。この妊婦としばらく生活した後 、もとの刑務所に戻ってさらに10年の刑を追加されます。

   この趣向についてフォークナーは、「野生の棕櫚」の第1章を書いているうちに説明不足の点に気付いたので、補足的・背景的な意味で「オールド・マン」のパートも書き始めた、と言っていますが、自作についての作家自身の説明を鵜吞みにする人が多いのに驚きます。実体は、単純すぎる本編をより複雑・難解に見せるために別のパートを付け加えたと見る方が自然でしょう。そうすると、Severine Chavrier の思い切った手法は、愛欲の行き着く先をより純粋にそれ自身のみで追求したわけで、納得できなくもないのです。(しかし、私の読後感では、オールド・マンのパートの方がずっと素晴らしく、ミシシッピ川にまつわる描写はフォークナーそのものです)

    ただ、出来上がった舞台は、まず退屈なものになってしまったようです。約半分はセックス・シーンで、およそ三分の一は全裸です(16歳以下観劇禁止です)。口論、怒鳴り合い、部屋の中を動き回り、叫び合い、抱き合うだけです。さらに、最新の映画技術の音響専門家によるという音響効果の迫力(外の嵐、雷、雨、そして無意味な大音響)がその空っぽさをより引き立てています。私はすぐに寝てしまい、寝言を言って妻から起こされました。舞台終了時の拍手もおざなりで、観客も白けていましたが、これがハリウッドの予定調和とは違うオデオン座の演劇なのでしょう。帰りもメトロで帰り、サン・ミッシェルで、夜中にしては騒がしいと思ったら、今日は音楽の日でした。モノプリでビールを買おうとすると、深夜はアルコール類は売れませんと言われました。毎年音楽の日は騒いで瓶や缶が散乱するので、今年は規制されているのでしょう。疲れていたので、すぐに寝てしまいましたが、妻も今日の芝居について文句を通り越してさんざん怒っていました。

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ケ・ブランリー美術館の入り口から展示室に伸びる光の廊下。世界中の地名が次々に流れて行きます。

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オセアニア(ポリネシア・ミクロネシア・メラネシア・ニュージーランド等)の先頭はこんな彫刻から始まります。とらえどころのない不気味さ。これらが皆、19世紀の作品であることに驚きます。

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精霊を表す像らしい。こういうものを見ると、日本のルーツが南方文化にあるなどという説は信じ難くなります。

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これも精霊を装うマスク。なぜこれほど気味悪く作れるのか不思議です。

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戦いの武具や面がたくさん展示されてありました。南太平洋では、ヨーロッパの宣教師たちが切り刻まれ、食べられたという歴史もあります。

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カフェ・ブランリーでパスティスを飲みました。自然の風がたいへん心地よかったです。

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アンドレ・シトロエン公園の設計者、ジル・クレマンによる庭。無造作ながら全て計算された樹木と花。エッフェル塔のすぐ近くにこれほどの敷地があったことは驚きです。

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17区の外れ、ポルト・ド・クリシーのオデオン・ヨーロッパ劇場のアトリエ・ベルチエ。この周辺は大規模な再開発が進められています。

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開演を待つ人々。ほとんどが中高年。女性の方が多いようでした。

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芝居の前後に店を開けるカフェ・オデオン。白髪の男性が一人だけで注文を処理しています。

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『野生の棕櫚』の登場人物は二人だけ。ロラン・パポとデボラ・ローチ。大熱演の後の最後の舞台挨拶。

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『野生の棕櫚』のパンフレット。写真のように、1時間半の舞台のほとんどが裸の場面です。

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2016年7月24日 (日)

オデオン広場ふたたび(4)雨のレピュブリック広場

6月20日(月)
    朝からひどい雨。折りたたみ傘を一つしか持ってこなかったので、ホテル並びの大型本屋ジベール・ジョゼフで一番安い折りたたみ傘を一本買いました(5ユーロ)。ついでに、文房具売り場でペーパーナイフを探したが気に入ったものはありませんでした。これまたついでに、2階の文学書売場をさーと見て、38番のバスでダンフェール・ロシュロー広場へ。天文台のすぐ裏なので歩いても行けそうですが、この雨なので仕方ありません。ダンフェール・ロシュローはたいへん活気あるところで、広場にあるライオン像、賑やかなダゲール通り、人骨で埋め尽くされたカタコンブなどが有名です。

    とりあえず、傘をさしながら広場のライオン像を鑑賞。それからダゲール通りに行きましたが、月曜日ゆえか休みの店も多く、雨模様なので人もまばらです。ブラール通りを歩いていたら、妻が急にお腹が空いた、と言い出しました。まだ、12時前ですが、いったんダンフェール・ロシュロー広場に戻り、ルネ・コティ通りをRERのB線に沿って歩きました。五分も歩かずに、左に曲がってダロー通りに入ると、高架橋をくぐったすぐ右手にLe Vaudesir というビストロがありました。12時まであと5分ほどあるのでランチはまだ早いだろうかと思い、ガラス戸から中を覗きました。ちょうど通りがかりの女の人が私に向かって、親指を立てて「この店は美味しいよ!」というジェスチャーをしました。目を上げると、太ってにこやかな店の主人と目が合ってしまい、思い切って店に入りました。

    広くはない店ですが、10余りのテーブルにはまだ客はいません。常連客らしい男と女がカウンターでワインを飲んでいます。飲み物か食べ物か聞いてきたので、店の前に書き出されていた今日のランチ Paleron Braisee を注文しました。すると奥から2番目の席に案内すると、厨房からランチの見本を持ってきて、これでいいのか?と聞いてきます。それでいい、と答えるとその料理を隣のテーブルに置きました。あれ?と思っていると、そこに料理番らしい若い黒人女性が座って、どうも同じランチを賄いで食べるようです。この黒人女性はにこにこして、とても陽気で、妻がトイレの場所を尋ねると、丁寧に教えてくれました。 妻が帰ってくると、「大丈夫だった?」と聞いてきます。妻が「大丈夫。少し難しかったけど」と答えると二人で恥ずかしそうに笑っています。妻にきくと、なんとトイレは戦前の和式というのかトルコ式というのか、旧式で天井にシャワーが付いていて戸もしっかり閉まらないような時代物だということでした。

   私がカメラを取り出すと、主人が飛んできて「写真を撮ってやろう」と言って私たち二人の写真を2枚撮ってくれました。ビールを飲んでいるとランチが出て、実はPaleron という単語を知らなかったのでスマホの中のロベール仏和大辞典で調べてみると、何と牛の腕肉とのことです(Braiseeは蒸し煮のこと)。しかし、とても柔らかく親しみのある味、付け合せの大きなジャガイモも私好みの味でした。妻も美味しいと言っていましたが、肉の量が多くさすがに食べきれず、私が残りを食べてしまいました。食べているうちに客が入り始め、あっという間に満席に。この店の人気がうかがい知れます。食後のコーヒーを飲んで、迷惑にならないよう席を立ちましたが、これで23.9ユーロとは安いものです。

   実は、この店こそ私が執念で探したビストロだったのです。メジャーで一度も紹介されたことのない、パリ中心部から遠くなく、地元の人に愛されて、観光客は絶対に行かない、安くて美味しく、雰囲気の良い店、こういう店を見つけるのがどれほど大変だったか。だから、この店の扉を開けた時、私はこの店のことのほとんど知りうる限りのことを知っていました。主人の名も従業員の名も常連たちの顔も週末の催しも。オーヴェルニュ地方といえばフランス南東部の山岳地帯ですが、そこの郷土料理がこの店の特長です。トイレのことは予想外でしたが、これはしかし観光客を全くあてにしていないことの証左でもあるのです。パリには、きっとこの店のような、私たちが気付かない隠れた愛すべき店がたくさんあることでしょう。

    お腹がいっぱいになったので、ぶらぶらリュクサンブール公園を抜けて歩いて帰ることにしました。ところが、途中でまた雨が激しく降ってきて、バスで帰らなかったことを後悔しました。2時近くにホテルに帰還。少し休んでから、妻は文通しているフランス女性と会うためにオデオン座に向かいました。そのJ..さんという女性はオデオン座で働いているのですが、妻にオデオン座の舞台裏など案内してくれるということでした。オデオン座はホテルから3分もかかりません。私も妻をオデオン座の前まで送ってから、劇場となりの古書店デイレッタント書店で本を探しました。が、めぼしい収穫もなく店を出て雨の中をサン・シュルピスの方へ歩きました。雨はますます激しく、まさに土砂降りの雨です。馴染みのカトリックのサロン・ド・テに入ろうとしましたが、今日はカトリックの特別な集まりがあるらしく一般客は入れません。雨を避けるため、メトロのサン・シュルピス駅の階段を降りて、思い立ったままにレピュブリック広場に行ってみることにしました。実はレピュブリック広場に行くのは初めてです。メトロのレピュブリック駅から上へ上がると、思ったより広い長方形の広場です。豪雨にもかかわらず、見学かあるいは祈りに来ている人々もいました。私は雨を避けて、目前のCafe Repubrique で1664というビールを飲みながら、「共和国広場」の蝋燭や花や写真の置かれた像を眺めていました。

   乾いたフランスの夏には珍しく、カフェの中は雨具や濡れた衣服による熱い湿気が充満しています。狭苦しいカフェのテーブルに座って、レピュブリック広場に屹立するマリアンヌ像を見ていると、陰惨さを秘めた葬祭の壇のように見えてきます。11月13日のテロの場で殺された人々の大部分は30歳前後のいわば人生の盛りの好奇心の強い、知的な、恐らくは反体制的な、社会の多様性を信じる人たちでした。それがいっそう虚しさに拍車をかけます。イスラームについては私にも複雑な思いがあるのですが、20歳前後の若者が過激な聖戦思想に染まるのは理解できなくもありません。人間は時に十分愚かだからです。しかし、現代のイスラームの指導者が強烈で清新なメッセージを発せないのは寂しいです。すでにホメイニからおかしかったのですが、ほとんどのイスラーム信仰の国で世俗的なものの象徴である石油が出てくるのも神の皮肉な試練とも言えるし、サウジアラビアの不可解で不透明な存立も表立って非難されることはありません。

   偉大なアヴィセンナは、ある朝、朝の礼拝のため上半身裸で身を清めに行こうとする弟子に、今朝は寒いので風邪をひくからやめろと注意しました。しかし、弟子はそれを聞かずに外に清めに行き震えて帰ってきました。愚か者よ、とアヴィセンナは言いました。「お前は現代の医学の最高の権威である私の忠告をさけて、4世紀前の文盲のお前が会ったこともない男の指導に従ったのだ」と。話は変わりますが、最近ホイットマンの『民主主義の展望』(講談社学術文庫)を読みました。徹底して非宗教的なこの本の拠って立つ基盤は、ありふれたものの中の奇跡、平凡な男女の抱く真実、日常の瞬間の限りない高貴さです。ホイットマンは、南北戦争のさ中に数多くのむごたらしい遺体を見た経験の後で、希望は死んだ者たちの中にこそあると気付きました。死者が私たちを起立させ、私たちに何かを促すのです。

    雨が降り止まないので街歩きも面白くなく、仕方ないのでメトロでサン・ミッシェルまで帰りました。まだ早いので、サン・ミッシェル広場前のジベール・ジューヌに寄って本を漁っているとツヴァイクの『 Pays, Villes, Paysages 』のハードカバー本が8.9ユーロで売られているのに気付きました。今日の朝、ジベール・ジョセフではまったく同じ本が5.9ユーロでした。早速、Book Finderで調べてみると、最安値はアマゾンの5.9ユーロだがこれはペーパーバックです。すぐにジベール・ジョセフに行ってツヴァイクの本を買ってしまいました(ジベール・ジューヌとジベール・ジョセフは兄弟店です)。私は文学者の書いた旅のエッセイが好きなのですが、このツヴァイクの本は素晴らしい。「世界でもっとも美しい墓」という章には、ヤースナヤ・ポリャーナの草の山に埋もれたトルストイの墓が紹介されています。「何のメッセージもなく、何の言葉もなく、ただ風のつぶやきに身を任せているだけの墓」とはトルストイの願いどおりの墓だが、またツヴァイク自身の憧れでもあったでしょう。

   妻の好きなサラダとビールを買ってホテルに戻ると、妻もちょうど帰ったばかりでした。オデオン座ではJ...さんにいろいろ案内してもらって、図書室も見せてくれたそうです。また、昨日私たちがFan Zone に行った話をするとかなり驚いて、というのもフランスでは知的な人間はサポーター連中を嫌っていて、そんな所には行かないからということです。

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ダンフェール・ロシュロー広場の有名なライオン像。偶然ですが、下を走るプジョーもブランド・マークはライオンです。工具店から出発したプジョーはライオンの固い牙からこのマークを思いつきました。

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ブラール通りの映画・演劇専門のAlias書店は予想通り閉まっていました。

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ダンフェール・ロシュロー広場に続くフロワドゥヴォー通り。

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41rue Dareau ビストロ Le Vaudesir。RERのB線の高架下すぐの淋しい通りにあります。

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カウンターの中にいる主人は大変フレンドリーで面白い。まさに庶民のビストロです。

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Plat de jour は牛の腕肉の蒸し煮が四つ。柔らかくて芳醇で、むろん美味だが、量が多いので妻は食べきれませんでした。

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ランチのメインが8.2ユーロとはパリでは最安値です。3ユーロの梨のタルトも食べたかったが、お腹がいっぱいで無理でした。

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「ここ、ヴォデジールでは、クリストフとミッシェルがあなたがたに、毎日の新鮮で家庭的で本当の手作り料理と前菜、デザートを提供します」と書かれています。

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帰り道に寄ったリュクサンブール公園のライオン像。倒した鹿を踏みつけています。

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今日最後に出会ったレピュブリック広場のライオン像は泣いているように見えました。その下のフランス国旗には、私たちは決して忘れない、平和と愛がいたるところに永久(とこしえ)にあることを、と書かれています。

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遠い国から来た人たちでしょうか、土砂降りの雨の中を長い間立ち尽くしていました。

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雨のオデオン座。今、チェーホフの「かもめ」が上演されています。

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オデオン座の図書室。演劇関係の本が集められています。事前申し込みで閲覧可能です。

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めったに見れない舞台から客室を眺めるショット。セットは「かもめ」の最後の場面です。

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ジベール・ジョセフで買ったツヴァイクの『土地、町、風景』。

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