2019年2月28日 (木)

近況など


今年は悪いことが重なるもので、先日夜、鼻血を出して止まらず、救急車で東京ベイ市川浦安医療センターに運ばれました。大変な出血で、ガーゼを鼻の奥に詰める応急処置で凌ぎましたが、翌日、かかりつけの順天堂病院で焼いてもらって何とか出血は止まりました。両方の処置とも、ものすごい痛さで、東京ベイでは、実際、失神して横になっていました。
当分、仕事はできないが、妻と相談して、この際、すっぱりと引退を決意しました。これからどうして暮らそうか、競馬を始めるか、とりあえず、弁当を作って、図書館で一人で、昼食を食べましたが、 なんとなく味気ない。

思えば、退院後に仕事を再開したのが短慮だったので、少なくとも一二年は様子を見るべきでした。思考力におとろえを感じないものの、流石に記憶力はやや減退して、スチレンの簡単な構造式を忘れて生徒に教えてもらう体たらくです。2月の最後に、妻を連れて、職場に、退職の挨拶に出向きましたが、みな良い人ばかりで、恒例の飲み会にもう参加できないのが残念といえば残念です。思わず、余暇が舞い降りて、懸案の読書やブログ記事も書けそうです。1日1日を悔いないように生きていきたいと思います。

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2019年1月31日 (木)

正月は残酷な月?

遅くなりましたが、今年もよろしくお願いいたします。
正月は毎年波乱が多いのですが、今年もその例に漏れず、苦難の幕開けとなりました。1月6日の日曜に再び風邪を引いて、翌月曜は8度2分あったのに仕事に出かけたその帰り、深夜の道を急ぎ足で歩いていたら、小石に躓いて転倒してしまいました。深夜の線路沿い、誰も歩いていない道で起き上がれず呻いていると、心善きサマリア人のような親子が通りかかって助けてくれました。何とか妻に電話すると、走って迎えにきてくれ、肩にすがってようやく家に帰ったのですが、気がつくと眼鏡のレンズは失くなり、つるも折れています。それどころか顔面腫れ上がって腰も痛い。仕事を1週間休ことにしましたが、運悪く火曜から妻がインフルエンザにかかって、正月から二人枕を並べて寝込むことになりました。

月曜まで元気だった妻が急にインフルエンザで倒れたとなると、実は私もインフルエンザに罹っていて(それが妻に感染して)、高熱で足元もフラフラしていた故に転んでしまったのでしょう。二人とも寝込むと、もはや介助猫と化したルーミーだけが元気でペロペロと顔を舐めてくれます。そんな中でも望外の慰めがあって、それは布団の中で夫婦でラジオを聞くことで、NHKのアーカイブから山本周五郎の初期短編の朗読をいくつか聞くことができました。時代劇ファンの妻は周五郎の代表作をほとんど読んでいるそうですが、私は一冊も読んだことはありません。時代小説というのか、大衆小説というのか、この初期短編は傑作揃いで、素晴らしく、夢中になって聴き込みました。

完全に治るまで二週間たっぷりかかりました。転倒による顔の腫れも収まり、あわてて新調した眼鏡にも慣れ、二人とも嘘のように元気になりました。災難の1月もようやく終わりになるようです。皆様の今年が良き年でありますように。

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2018年12月31日 (月)

2018年の大晦日に

年末に大きな風邪をひいて二週間ばかり苦しみました。妻ののど風邪がうつったらしいのですが、風邪らしい風邪をひいたのは30年ぶりです。自分はもう風邪はひかないものだという過信があったのでしょうか、いろいろ油断したのかも知れません。風邪のために年末の予定はすべて影響を受けて、仕事納めの29日もなお、ぼんやりした感じが残っていました。

12月3日、退院して一年ということで、脳のMRI検査を受けました。12月6日に、夫婦でその検査結果の説明を受けたのですが、脳の画像は一年前と全く同じで、新たな出血の箇所はないということで、安心しました。妻が、鮮明に映し出された映像のコピーを欲しいというと、CD-ROMに焼いてくれて、帰り際に渡されました。寒くなって血圧は若干上がり気味ですが、薬がよく効いて、依然として低い値を保っています。

一年は、まことにあっという間で、6月にフランス旅行に行ったことも、何か遠い過去のことのように思われます。夏の猛暑も何とかやり過ごし、秋には水道橋の後楽園で野外の能を鑑賞しました。文化の日には、中学校以来のギタリストの親友から手紙があって、東京文化会館の小ホールでのコンサートの招待があったのですが、ちょうど、長男のラップの発表と重なったので、残念ながら断りました。その友人は、彼が京都の大学の哲学科在学中にその下宿に一週間滞在して、いろいろ京都を案内してもらったのですが、その時に「世界黒軍の歌」という歌を私が作詞して、彼がギターで作曲してくれたのを思い出しました。30年近く音信が途絶えた後に、西荻窪の画廊での彼のミニコンサートで再会したのですが、彼によると、私のブログを読んでくれていて、大学時代、京都や東京で徹夜で話したことの全く同じことを書いているので驚いた、と言われました。いわば、あの青春時代のその熱っぽい議論がそのまま数十年も凍結して、そのままの形で蘇ったのに愕然としたというのです。

恐ろしいことに、時々私は塾の生徒に国語を教えていて、教える能力などないが、分かったようなフリをして説明をしたりしています。先日、中学校の教科書に載っている漱石の『坊ちゃん』について教えましたが、以前私は、この本は東京の青年が田舎者を馬鹿にした小説だと思っていたのですが、読み返すと、これは、一つのドッペルゲンガーの物語、つまり、もう一人の自分の物語ではないかと気付いて、ちょっと背筋が寒くなりました。あらゆる意味で、主人公の「坊ちゃん」は、作者の漱石と正反対です。「坊ちゃん」は無鉄砲で、後先を考えず行動しますが、漱石自身は親類とのしがらみ、周囲への心遣いで身の細る生活を送りました。「坊ちゃん」は直情径行ですが、漱石はおそらく、その時代のもっとも先鋭で複雑な自意識の持ち主の一人でした。「坊ちゃん」は天ぷらを4皿、ぼた餅を2皿食べて生徒たちを驚かせますが、漱石は胃弱で食が細い。「坊ちゃん」は物理学校卒で数学の教師ですが、漱石は帝大出の英語の教師でした。1906年の漱石は、実に荒っぽい仕方で、自分自身と裏側で一対一対応のする人物を作り上げたのです。

漱石は、多分、自分自身と対面することの恐ろしさを知っていて、意図的に正反対の、いわば精神のバランスを保てるような人間を必要としたのです。スタンダールが、自分とはまったく違う、反省することなく成功していくジュリアン・ソレルやファブリス・デル・ドンゴを創造したように、あるいはブルクハルトが、自身の謹厳な独身生活では望み得ない権力と奢侈の欲望をルネサンスの城主たちを描くことで埋め合わせたように、過度に意識的な人間は常にもう一人の分身を必要とするのです。人が、酒に酔って、羽目を外して、人生を棒に振るようなことがありますが、運が悪いというよりも、そのもう一人の自分、いわばその人の本質が出ただけであり、分身こそその人そのものなのでしょう。

今年は、本当にいろいろなことがありました。年末にかけて、徴用工やらレーダー放射問題などで、韓国の異様さが露わになっって来たのですが、まさにネットの時代ならではで、昔には考えられないことでした。戦後教育がどれだけ偏向していたか、教師の教える戦後民主主義がどれだけ自分の国を貶めていたか、本当に信じられないことです。その最大の被害者が、いわゆる団塊の世代といわれる人たちで、彼らは、日本は中国人と朝鮮人に悪いことをしたと教え込まれてきたのです。

ところで、これは暴論ですが、団塊の世代が他の世代を大きく凌ぐ人口を持ちながら目立って優れたことを成し遂げないように見えるのは、彼らの親が戦争を生き残った世代だからかも知れません。勇敢で、正義感が強く、正直で真面目な人間は戦争で死ぬことが多く、その遺伝子があまり残らなかったからでしょう。

私は、中学2年になった頃が、自分が大人の世界に入りかけた時期だと思うのですが、というのも、中学1年までは学校が楽しくて、いろんなことにあまり疑問というものを持たなかった記憶があるのです。中学1年の三学期に声変わりして、中2の時のクラス替えで、仲良い連中と離れ離れのクラスになった頃から、父親や教師を尊敬できなくなってきたのです。その時のクラス替えで、最初の学期にクラス委員に選ばれたのは、私とSさんという女子でした。その頃の東京の下町の中学校は不良の子分のような生徒が多く、学級会などは必ず紛糾して、民主主義の真似事のような馬鹿馬鹿しい議事進行など、時間の無駄のように私には思えたのです。話す時間もなかったし、席も離れていたので、私は不満を紙に書いて、同じ学級委員のSさんに渡すようになりました。ところが、Sさんからくる返事は整った字で、しかも私が見たこともない難しい熟語を使った大人びた文章でした。その後、中学を卒業した時、卒業アルバムの写真をみて、はじめて彼女が社会部に入っていたことを知ったのですが、その部の顧問は私のクラスの担任の社会科の教師で、彼はテストの答案用紙の裏面にベトナム戦争について意見を書きなさい、と指示するほどの典型的な政治的教師でした。

私とSさんとは別々の高校に入りましたが、どういうわけか、私の方から連絡したのか、私は彼女の高校の文化祭を訪れたのでした。彼女の高校は荒川に面した淋しいところにあって、以前、在日朝鮮人の青年によるその高校の女子高生殺害事件があり、大島渚がそれを映画化したが、そのロケは何と私の高校の屋上で行われました。彼女の高校の文化祭から数日後、今度はSさんが私の高校の文化祭を訪れて、帰りにステーションビルのレストランでナポリタンを食べたのですが、何とそれが私がスパゲティを食べた最初でした。(知らないで卓上の辛いソースをたくさんかけたので、Sさんが笑ったのを覚えています)

その後、私たちは別々の大学へ入り、ある時、(恥ずかしながらその頃私が凝っていた)アナキズム関係のパンフレットを配りに彼女の大学の文学部のキャンパスにいくと、偶然Sさんに出会いました。久しぶりの再会で、近くの喫茶店で話をしましたが、彼女は、確か「命を救う」ような運動をしたい、などと言っていた記憶があります。その後は家の近くの区立図書館で偶然会った以後は40年近く全くその存在すら忘れていました。ある日、家の書庫にしてある部屋に並べてある岩波文庫のコレクションを漫然とながめていると、そこにSさんの名前があるのにはじめて気付きました。彼女は山川菊栄評論集の編集をしていたのです。ネットで検索すると女性史研究家として某大学の講師をしている彼女の写真(かつての少女の面影が少し残っている)が出てきました。

割とよくいそうな平凡な姓名だったので、まさかSさんとは分からなかったのですが、私は読書家の血が騒いで、手に入る限りでの彼女の著作を図書館を通じて集め、読んでみました。女性史の専門家として、市川房枝などの戦争責任を追及したところは読み応えがありましたが、なぜか、それから従軍慰安婦の問題に傾注するようになり、その種の本をたくさん出しています。よく知られているように、この問題は証明史料が怪しいのが多くて、はっきり言えば、デタラメの可能性が大きい。人間というものについての考え方、また政治と社会についてのもっと深い興味が彼女には欠落しているように思いました。むろん、私などにそんなことを言う資格も能力もないのですが。

浮谷東次郎という名は、どれほどの人に知られているのでしょうか。退院してから、毎日のように付近をウォーキングしているのですが、この辺りには彼に因んだものがよく目に入ります。東次郎の実家は市川の大地主で、祖父は市川の初代市長で、市の会館には胸像もあります。東次郎は、地元の日出学園で中学生活を送り、高校は都立の両国高校、大学は日大を中退し、英国のレーシングスクールを最優秀で卒業しています。中学校のときに、千葉大阪間を50ccバイクで往復し(昔は14歳で原付免許がとれた)、それは『がむしゃら1500キロ』という本となって、また高校時代のアメリカ留学は『俺様の宝石さ』という本(ともにちくま文庫)に結実しました。その後、トヨタのテスト・ドライバーをしながら各レースでことごとく優勝し、日本の最初期のカーレースの舞台で最も輝かしい戦績を残しました。

東次郎は1965年に千葉のサーキットで練習中にコースに侵入した人間を避けてコース横の水銀灯に激突し、23歳の若さで亡くなりました。熱心なプロテスタントであった東次郎の母親は、私財を投じて市川駅にほど近い千葉街道沿いに教会をたて、その二階を東次郎記念館にあてています。母親は、常に東次郎に自らを犠牲にして人のために尽せと教えていたので、違法に侵入した人間を無理によけて死んだのだろう、と書いています。そのがむしゃらで物怖じしない性格、卓抜な行動力など、私には全く無縁の、ほぼ正反対の人物ですが、私にとっては唯一尊敬できる先輩でもあります。

さて、以前玄関には中国人の書家に書いてもらった李白の詩が飾ってあったのですが、いつのまにか、安永・文化の浮世絵師である窪俊満の『宇治茶摘み』が飾られています。俊満独特の色を抑えた渋い色調の素晴らしい版画で、妻に聞くと、お金を貯めて買ったとのことです。2年ほど前、千葉市立美術館で、鈴木春信の錦絵展を観に行ったのですが、妻はそれから江戸時代の浮世絵を集めたいという願望を持ったようです。俊満の版画の下には、私が時折盗み読みするプレイヤッド版アラン著作集『芸術と神々』がなぜか置かれています。

今年は、天皇退位を控えて、いわば記念すべき年になりました。私は、三島由紀夫が言っていたように、天皇は静岡あたりの田舎の質素な家に転居すべきだと思います。外交的な儀式は内閣にまかせて、自身は国に殉じた人々と国家的災害の死者たちの鎮魂に専念すべきでしょう。というのも、天皇で我慢できないのは、天皇自身ではなく、それを取り巻き、その権威を身に纏おうとする周囲の連中と関係する諸制度だからです。天皇の神秘的な権威は、実質的に、太平洋戦争の終戦で、多くの国民の死に応えようとせず、一身の安穏を甘んじて受け入れた時に終わったと思うからです。

紅白歌合戦もそろそろクライマックスを迎えようとしています。新年は、間違いなく、忘れ得ぬ年になるでしょう。それよりも、私は養生して生き続けること、妻と猫を残して逝かないこと、酒を飲みすぎないようにすることに意を注ぐべきだと自戒しています。

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窪俊満の「宇治茶摘み」1796年頃

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2018年10月 4日 (木)

マーティン・ジェイ『暴力の屈折』(1)


『暴力の屈折』(岩波書店・谷徹、谷優訳)は2004年の刊行で、まさに旧刊案内というにふさわしい本の紹介ですが、当時も今も、さして書評に上らなかったと記憶しています。それは「記憶と視覚の力学」という副題の曖昧さにもあるのですが、著者が近年追求している視覚というテーマが、すでに何人もが手をつけている余りに言及されやすいファクターでもあるからです。しかし、このエッセイ集に集められている論稿はそれなりに面白い。著者のマーティン・ジェイはスチュアート・ヒューズの弟子筋にあたるアメリカの思想史家で、各エッセイとも夥しい引用にあふれているのですが、私は、実を言うと、本の名前や人名がたくさん出てくる書物が好きなのです。40年も前になりますが、渋谷のブルックボンド・ティーショップの隣にあった紀伊国屋書店で、私は乏しい財布の中身をはたいてマーティン・ジェイの『弁証法的想像力』(みすず書房・荒川幾男訳)を買って、ダージリンの紅茶が冷めるのを気にせずに、それこそ貪るように読みました。様々な人生の曲折にもかかわらず、その本がまだ私の書棚にあるのは驚くべきことでしょう。

さて、『暴力の屈折』の原題は Réfractions of Violence で、これはジョルジュ・ソレルの
Réflexions sur la Violence 『暴力についての考察』を巧みにもじっています。
目次は以下の通りです。
第1章 慰めはいらない
(ベンヤミンと弔いの拒否)
第2章 父と子
(レームツマとフランクフルト学派)
第3章 ホロコーストはいつ終わったのか
(歴史的客観性について)
第4章 恩知らずの死者たち
第5章 バラ(ローズ)の回心
第6章 ユニコーン殺人犯との文通
第7章 正義は盲目でなくてはならないのか
(法とイメージの挑戦)
第8章 難破船へ潜る
(世紀末の美的スペクトラム見物)
第9章 天文学的な事後見分
(光の速度と現実のバーチャル化)
第10章 光州
(虐殺からビエンナーレへ)
第11章 宗教的暴力の逆説
第12章 恐怖のシンメトリー
(9・11と左翼の苦悩)
なお、原書からは「ジョン・デューイと現代のボディアート」など四篇が割愛されています。

ここでは記事を何回かに分けて、(1)では導入として「難破船へ潜る」を取り上げ、順次(とくにベンヤミンについて)、暇な時に書き継いで行こうと思います。

『難破船へ潜る』は、映画『タイタニック』の冒頭の数分の描写で始まります。1985年に、タイタニックの残骸が発見され、ロボット式の潜水カメラが、海底に眠る史上最大の船の無惨な姿を映し出します。ちょうど、平穏な日常生活のただ中で死んだポンペイの遺跡のローマ人のように、そこには、豪奢な舞踏会やディナーや調度品に囲まれた乗客の華やかな船上生活が、一夜の暗転によって永遠の眠りにつく瞬間が残されているのです。いや、そこに埋められたのは、また、
かなわぬ恋であり、悲劇に終わった二人の青春の物語でもあります。
しかし、この映画の背景にある基調は、観るものに「正義が乱暴に果たされた」という納得感を与えることにある、とジェイは書いています。人は、水に浮かぶ船を「不沈」と呼ぶほどに傲慢であった、当時の最新のテクノロジーが、むき出しの自然の象徴である氷山にかすっただけで海の藻屑に消えた、つまり、海底の墓に眠っているのは、船体や死者ではなく、人々の傲慢さの残骸であった、というのです。

ジェイは、ここで、ハンス・ブルーメンベルクの『難破船』(1989・哲学書房)を引用し、古代ギリシア以来、陸地から離れること自体が危険で向こう見ずな企てだった、と書いています。ブルーメンベルクによれば、古代ギリシア人にとって、すべての難破船は、物事の秩序に挑戦を投げかけ、そしてその代償を受けることの証明だったと言うのです。天空に舞い上がり墜落死したイカロスのように、大地の絶対不敗性のタブーを犯した人間の運命は、ギリシア人にとって、あえて危険に飛び込む大胆不敵な人間のメタファーとなっていたのです。

ところで、遠くの陸地からその光景を眺める見物人はどうなのでしょう。実はここに、ブルーメンベルクとジェイの主要な観点があるのです。ブルーメンベルクは、まずローマの詩人ルクレティウスを引用し、優れた知恵の高みから自然を見つめることのできる賢者の「安全性」について満足の気持ちを表明します。懐疑家モンテーニュは、陸地にとどまる人間が味わう快感(危険なことに足を踏み入れない)について言及し、「彼は、自分が無用であるという性質のおかげで生き残る。つまり、見物人であるという能力によって生き残るのである」と書いています。もう一つ啓蒙主義者ヴォルテールの例を挙げておきましょう。彼によれば、見物人は何の意味ある存在でもなく、たとえ難破しても、進歩のために安全な港を離れる航海者に劣る存在だと言うのです。

ブルーメンベルクによれば、これに対して、重要な視点の置換えが、最初はパスカルによって、次にニーチェによって本格的になされた、ということです。それによれば、港の安全性も、乾いた陸地で見物しているという信念も欺瞞的な幻想にすぎない、生存しているということはまさに、人生という海の旅にすでに船出しているということなので、そこでは、救出されるか沈没するか以外の結末はありえず、それゆえ、そもそも不参加はありえない、というのです。人生は、ジェリコーの「メデューズ号の筏」のごとく、決して迎えに来ない(あるいは、犠牲者のほとんどにとって手遅れになってからしか来ない)船に向かって無駄に手を振り続けるようなものなのです。パスカルは、このことを別のメタファーで、つまり、生きるとは、神の存在を確実に知らないまま賭けに出るようなものだ、という有名なメタファーの下支えに使っています。この議論は、現代ではさらに重要になって、哲学も科学も、処って立つ確かな存在論的根拠も価値論的根拠もないのだ、という懐疑論にまで行き着くのです。

してみると、優れた芸術作品とは、ある意味で見物人と難破船の区別に不信を抱き、われわれは好もうと好まざると、荒れ狂う海に船出してしまっている、という体験を与えようとするものではないでしょうか。マーティン・ジェイは、その一例として、アドリエンヌ・リッチの1972年の有名な詩、まさにこの章の表題となった「難破船へ潜る」を引用しています。リッチは、その詩の冒頭で、自分は水に飛び込むための装備を身につける前に、まず神話の本を読んだ、と書いています。

わたしは難破船を調べにきた
言葉で 目的を確かめ
言葉で 場所を確かめ
その損害を 散乱する宝物を調べに
やってきた
ランプの光で ゆっくりと
魚や海草よりも
長く生きているものの脇腹を
やさしく撫でてあげる

わたしがここに来たのは
この難破船のため その物語のためでもない
その神話のためでもない

語り手は、黒い潜水服を着た両性具有の人魚に姿を変え、船倉に潜り込んで犠牲者と一体化します。

わたしは女 わたしは男

その顔は 目を見ひらいたまま眠る 溺死者の顔
(中略)
わたしたち 今では こわれかかった道具と同じ
水につかった丸太
狂った羅針盤

わたしたちは わたしは あなたは
臆病だから 勇気があるから
ここへ戻ってくる道を
見つけるだろう
ナイフに カメラ
神話の本を持ち
でも そこに
わたしたちの名前はない

廃れるべき時代遅れの神話とは、父権制社会の神話—女性の名前が書かれない書物—のことであり、難破船とは伝統的ジェンダー関係の残骸のことであり、実は、「難破船へ潜る」はフェミニストのマニフェストとして理解される、というのです。この詩の優れているところは、フェミニズムの枠を超えて、人間一般の哀しみにまで降りていることでしょう。

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2018年9月16日 (日)

入院生活の諸相


退院してから8ヶ月あまり、常に脳梗塞で一発即死の危険は抱えているものの、何とか元気に暮らしています。「何か書いとかないと忘れるよ」という妻の忠告を真剣に受け止めて、記憶の薄靄の中に消滅してしまう前に拾い出せるものを拾い取っておくことに決めました。「ありふれた事実の集積」が10年経てばかけがえのない光を持つことを祈りながら。むろん、入院からしばらくは意識が明確でなかったこともあり、途切れているところは妻から教えてもらって補完しようとしました。

さて、発端は去年の12月9日の土曜日です。だいたい土曜日は妻と二人で図書館に行って、帰りにショッピングモールで買い物をして帰ります。すぐ近くなのですが、帰りの荷物を考えて、わたしは自転車、妻は徒歩で行くのが普通でした。その日も、図書館からショッピングモールに歩く途中、何か気分の悪さを感じたので、妻がニトリで買い物をしている間、ニトリの家具売り場のソファに座っていました。そのとき、視野全体が青みがかって来たのを覚えています。普通なら、それほどの異変があれば不審に思うのですが、すでにその時正常な判断ができなくなっていたのです。

その後、食料品売り場で買い物をして、駐輪場で、いったん別れたのですが、自転車の鍵を穴に入れようとして何度やっても鍵穴に入らないのです。この時も、おかしいと思わなかったのがすでに異常だったのです。仕方なく、自転車を放置したまま歩いて帰ろうとしました。ショッピングモールを出るところで、急に吐き気がして、傍らの植え込みに吐きそうになったが、なぜかすぐに吐気は収まりました。ところが、今度は帰り道がわからない。確か工事中の青いビニールシートのところを曲がるんだった、と思い出して何とか住まいにたどり着きました。この時も、自分に異変が起きているとは全く気づいていませんでした。

妻が天津丼を作ってくれて、遅い昼食を食べましたが、妻によれば、ふつうでなく、ご飯がボロボロこぼれていたそうです。さすがに、救急車を呼ぼうかと妻が私に尋ねましたが、私は、大丈夫だと頑強に拒んだそうです。その時はお茶を飲めば気分が良くなると思っていたのと、生来の病院嫌いで、救急車などとんでもないと思っていました。そこからは記憶は途切れ途切れで、妻によれば、私はすぐに布団に横になって鼾をかいて寝込んでしまったそうです。その間、妻は四国の実家の母親に電話して、救急車を呼ぶべきか聞いてみたそうです。すぐに呼べという助言を受けて119番したのですが、都合の良いことに消防署はすぐ近くで、電話中にすでに救急車が発車しているのですから、その迅速な対応には驚きます。

眼が覚めると、青い消防服を着た隊員が何人も部屋にいるのでびっくりしました。妻によれば、ここに至っても私が病院に行くことを拒むので、隊員は、検査して何でもなかったらすぐに帰れますから、と丁寧に説得してくれたそうです。それから大きな袋に足から入れられて、気がつくと救急車の中に寝ていました。「血圧232」という救急隊員の声で目が覚めたのですが、またすぐに意識を失いました。横に乗っていた妻は、私の口の端が痙攣しているのを見て、大変な事態になるかもしれないという恐怖に襲われたと後で言っていました。

当初は市川の歯科大病院へ向かう予定でしたが、受け入れる余裕がないというので、浦安のJ大病院に向かうことになりました。後になってみると、浦安の方が妻の通勤の途中にあるので便利なので、これは幸運でした。妻によると、病院に到着後、裸にされて、紙オムツをつけられ、白い患者服のようなものを着せられたそうです。それからX線検査、点滴注射を受けて、1時間後、ストレッチャーに載せられて6階の脳卒中集中治療室(SCU)に運ばれました。この間、何度も腕や足を針で刺されて痛みを聞かれたり、簡単な質問に答えるよう促されました。

しばらく妻が横につきっきりだったので安心でしたが、終電近くなると、「付き添いで泊まると1日2万円かかるから」と言って帰りました。それから朝までが非常に苦しかったのを覚えています。ベッドから立ち上がるのを禁じられ、体にはいろいろ管が巻かれて、一晩中腰と背中が痛み、多分一睡もできなかったと思います。夜中に看護師さんを呼んで小水を取ってもらうのも心苦しく、おまけに、カーテンを挟んでもう一人の救急患者が一晩中うめき声を上げているのには参りました。実は、朝が来たら病院を脱走しようと思っていたのだからやはり正常な頭ではなかったのでしょう。

翌日は日曜日で、看護師さんが窓を開けてくれると、明るくさわやかな浦安の空が見えました。多分、空の先には東京湾がひろがっているのでしょう。私自身はさわやかとはほど遠く、相変わらず腰と背中は痛い。それで、点滴をしたまま体を動かそうとすると、男の看護師の人が来て、絶対安静だから動いてはだめで、特に足を直接床につけてはいけない、と言われました。私は、靴さえあれば脱走できるのにと思いながら、とにかく妻が早く病院に来てくれないかと念じていました。てっきり、朝一番で来ると思っていたのですが、8時になっても、10時になっても来ず、やっと12時ごろに姿を現しました。キャリーケースを引っ張ってきて、その中にはパジャマや下着や洗面道具など入院セット一式が入っていました。

妻が来てから30分も経たないうちに、長男が姿を見せました。長男は私の離婚した前妻と暮らしていて、フランス旅行の時に猫の世話をいつも頼んでいます(私に似て大変な猫好きです)。今日は日曜で仕事が休みだそうで、すぐに出向いてくれました。妻が買い忘れた歯磨き用の茶碗などのほかに、100円均一で知恵の輪のセットも買ってきてくれました(頭のリハビリに丁度いい、と看護師さんにほめられました)。実は、長男が子供の頃は、私の仕事が多忙で、学校の勉強も生活の悩みも考えてやれず、小遣いを与えるだけのひどい父親でした。しかし、長男が大学を出たころから、度々一緒に酒を飲むようになって、それが私の数少ない楽しみになってからは気の置けない友人のような関係になりました。

その日の夕方に、はじめて全粥の食事が出ましたが、看護師さんにすぐ横でひとくちひとくちゆっくり食べるように監視されていたので、美味しいとは感じられませんでした。長男が帰ってからしばらくして、看護師さんが来て、集中治療室は新しい患者のために開けておかねばならないので、大部屋に移ってもらいます、と言われました。新しい病室は、同じ6階で、6人部屋ですが入室者は五人です。今はカーテンが完全に隠されるので、同室の人間関係の煩わしさはまったくありません。テレビはテレカードを買って観るのですが、イヤフォンで観るのが煩わしく、ほとんど観ませんでした。

その日に、はじめて、血液検査がありましたが、血液がドロドロでなかなか採血できず、ベテランの看護師さんが、時間をかけて、やっと採ったのですが、ドロドロなので検査できるかどうかわからない、と言われました。とても不安でたまらない感じでした。

翌日の月曜日、一般病棟で迎えるはじめての朝ですが、その忙しいこと。6時に照明がつけられ、カーテンが開けられます。皆、洗面に向かいますが、私は、ベッドから離れる時は必ずナースコールを押して看護師さんを呼ばねばなりません。そして顔を洗うのも歯を磨くのも椅子に座ってやらねばならないし、トイレは、いずれのときも終わったらコールボタンを押して看護師さんに付き添ってもらって病室に帰ります。それもこれも再発の危険が常にあるからで、今考えると、この時あたりが、いちばん死の淵の周りを歩いていたのだと思われます。

7時ごろに看護師さんが、ノートパソコンを載せた移動式テーブルを転がして来て、昨日のトイレの回数を聞き、体温と血圧と酸素量を測ります。そして、その日の検査のスケジュール(時間など)を書いた紙を渡されて、いろいろ注意することを伝えられます。8時に朝食が出ます。パン2つと牛乳とサラダと卵のようなものが出ます。朝食の途中で、必ず、担当の医師が助手たちを連れて顔を見せます。朝食のテーブルを脇にどけて、まず両手を前に水平に上げて手のひらを閉じたり開いたりします。それから簡単な診察。昨日の血液検査の結果、血圧以外は正常で、特に糖尿病の心配はない、これからはとにかく血圧を下げるよう治療していく、ということでした。

朝食の時に、看護師さんがお茶を持って来てくれますが、洗面所にあるサーバーから汲むこのほうじ茶はなかなか美味しい。それから朝食がかたずけられて、薬を飲まされますが、その時、名前の確認をして、腕にはめたバーコードをチェックする非常に慎重な手順を踏みます。薬を飲んで休んでいるのもつかの間、この時間から毎朝怒涛の検査がはじまります。月曜から毎朝、まず、知能テストのようなものが必ず実施されます。検査する人は男女それぞれで、毎日違う人のようでした。内容は非常に簡単。今いる病院の名前、何県何市か、野菜の名前を五つ答える、100から順に7を引いていくなどなどです。筆記テストもあって、名前と住所を書いたり、立体図形の絵を真似して描くよう言われたりします。職業についての質問で、塾で教えているというと、何を教えているのかと聞かれたので、数学と化学を教えていると言うと、数Ⅲも教えているのか、と聞かれたので、もちろん、と答えると意外そうな顔をされました(痴呆のような顔をしていたので)。

月曜日の面会時間に現れたのがなんと前妻で、長男から聞いて来たそうで、パックに入れた冷たいゼリーを持って来ていました。まだ入院したばかりで、お腹を壊したら大変なので、食べたくなかったのですが、大丈夫だからツルって食べちゃいなって執拗に勧められたので、仕方なく食べました。実は前回の入院の時(約30年前、中野総合病院で)入院初日に前妻が、血の病気にいいからと蜆汁を作って持ってきてくれたのですが、入院時の説明で、食事も治療の一部なので病院食以外は食べないようにと言われていたので、断わったのですが、そのことが30年間ずっと心に引っかかっていたのです。ところで、久しぶりに前妻と話したのですが、四谷の聖イグナチオ教会の旧約聖書を読む会に参加していて、驚くことに将棋の加藤一二三九段も出席しているとのことです。

火曜日、入院4日目。介護休暇で休んでいる妻が、面会時間に連れて来たのは帽子を被って重いコートを着て、一見、浮浪者に見える老人でした。意外にも杉並に住む長兄で、会うのは久しぶりですが、もう歳だし、見舞いに来ることは無いだろうと思っていたので驚きました。遠くから来たので疲れた様子で、ベッドの横の椅子にどっかと腰を下ろしました。私が、これまでの経過を説明すると、(とくに血圧が232あって血もドロドロだったというところで)ああ、と言って顔を覆って泣きそうになりました。そして「きっと良くなるから大丈夫だよ。ゆっくり休んでな」と言ってくれました。長兄も何年か前に軽い脳梗塞を起こして、入院したが、居心地が良いのでずっと入院していたら5ヶ月半いて追い出されたとのことです。帰り際に、御見舞い、と書かれた熨斗袋を置いていきましたが、袋の裏には金壱萬円と書かれてありました。私は病室の金庫に大事に入れておきました。

よく考えると、今までの三度の入院のすべてに兄は見舞いに来てくれています。極端に出不精の姉が一度も来てくれなかったのとは対照的です。ところで、退院して年が明けしばらくしてから姉から電話があり、春の叙勲で長兄の名前が新聞に出ていると教えてくれました。ちょうどテレビで、北野武が叙勲されて方々から祝いの品が届いたと言っていたので、私も兄に羊羹でも送ろうか、そうだ入院時にもらった御見舞いのお金を使おうと思って袋を出したところ、裏に書いてある一万円でなく五千円札しか入っていません。兄がそそっかしいのは昔からですが、そのいい加減さが何となく憎めません。

とにかく血圧を下げなければいけないのに、なかなか下がりません。薬を飲み、点滴を打ち、胸に血圧降下パッドを2枚貼っても、依然として200を超えています。看護師さんが血圧を測る時、低い数値が出るように何度も試みてくれるのですが、まったく改善しません。神経にも異常が出始めて、あるとき、妻が持ってきてくれた私のフランス語の単語ノートを開けると、フランス語の単語がすべてXで始まるキリル文字になっているのです。すべてのページの単語が例外なくXで始まっているのです。やがて看護師さんの白衣の胸あたりにも、そのXというマークが並んで見え、天井やカーテンにもその記号が浮かんでいます。私が、あまり驚かなかったのは、去年の夏にも同じような幻覚(その時は幻聴もあった)を経験していて、てっきり熱中症だと思って、市川の大学付属病院に行ったら精神科に回されて、しかも診療は予約制で1ヶ月待ちだというので、諦めて帰ってきました。その後、幻視治療で知られる眼科医に通いましたが、検査が大変なのとお金がかかるので、また症状もよくなったので、やめました。

キリル文字が消えると、今度はカーテンや天井に漢詩のようなものがびっしり書かれているのが見えるようになりました。家の玄関に額に入れて飾ってある李白の詩のようなのですが、はっきりと読めません。入院5日か6日ごろまで続いて、血圧の低下とともに見えなくなりました。7日目の別室での妻を交えての担当医師との検査結果の診断では、MRIでの映像では、脳の左下に脳出血の跡があるが、視覚の部分とは離れており、今のところ幻覚の直接の原因はわからない。毛細血管があちこち切れているのでそれかも知れないが何とも言えない、ということでした。この担当医師が薬を二種複合の血圧降下剤に変えてくれたおかげで血圧が急に下がったのです。

幻覚が見えているうちは横になっていてもボーとしていて、記憶もはっきりしません。血圧を測りに来ていた女性の看護師が、膝をついて私と話をしている時のことです。私は、深く考える時や人と対話する時など自分の膝をさする癖があるのですが、その時も膝をさすっていたが、どうもさすっている感じがしません。ハッと気がつくと看護師さんの膝を間違えてさすっていたのでした。バツが悪かったが、体の具合が具合なので、知らんふりをしてくれました。それにしても、この病院の看護師さんたちは優秀で献身的です。一度、同室の脳梗塞患者の老人が「お茶頼んだの、まだ持ってこないのか!」と看護師さんに怒っていましたが、同じ患者として恥ずかしかったです。これは、もともと漁師町である浦安の土地柄かも知れませんが。

入院でいちばん苦しいのは、やはり各種の検査です。病室で寝たままの検査もありますが、車椅子で下まで降りて行う大がかりなものもあります。眼科の長い検査の後、冷たくなった夕飯を食べようと病室に戻ると、お腹を空かして仕事から戻った妻がチキンハンバーグを半分食べていました。いつも新聞とお茶のボトルを買って来てくれるのですが、家に一人で留守番をしている猫の話を聞くのが楽しみです。いつものように玄関でじっと待っているのではないかと心配になるのです。それにしても、毎日着替えの下着やパジャマを持ってきて、しかも仕事に追われる妻は大変だったと思います。面会時間ぎりぎりの8時まで妻は病室にいるのですが、この時に洗面その他を済ませてしまうと、いちいち看護師さんを呼ばなくていいので助かります。一度だまって一人で洗面所に行ったら、あとで看護師さんに、勝手にベッドから離れたでしょう? と注意されました。6日目に付添いつきでシャワーを使うことが許されて(それまでは妻に体を拭いてもらっていました)、シャワー室で妻に体を洗ってもらいました。

五日目にリハビリが始まって、車椅子に載せられ、一階の端にある広いリハビリ・ルームに連れて行かれました。長い廊下を、外来患者がびっしり座っている間を車椅子で行くだけで神経が疲れますが、体育館のような広いリハビリ・ルームの雰囲気にも圧倒されました。大勢の患者が、トレーナーと一緒になって熱心に体を動かしているのです。そこで私の担当になったのは若い女性のトレーナーで、いくつか問診した後、私が気分が悪くなったと言うと、血圧計を出して測り、210を超えていたので、急いで車椅子でまた病室に戻されました。翌日の午前中に、昨日の女性トレーナーが病室に来て、廊下を少し歩きましょう、と言って、私を連れ出しました。ゆっくりと広い六階の廊下をぐるりと回って、血圧を測り、今度は階段をのぼって、また血圧を測り、おりてからまた測りました。それから談話室で、少し話をしたら、彼女はこの病院は今日で終わりだそうです。リハビリはこの1日で終わりのなりました。

病院食というとあまり期待できそうもないのですが、昼食で出た「おかめうどん」は本当に美味しかった。蒲鉾と卵焼きと甘く煮た椎茸がうどんに載っていて、その上にだし汁をかけるのです。魚は毎日出て、肉はほとんど出ません。時間になると看護師さんが持って来てくれ、お茶も汲んでくれます。食べ終わるとまた持って行ってくれるのでとても楽です。病院といえば点滴ですが、今は初めに針を刺して固定し、そこに毎回薬を注入するだけです。6日目ぐらいになると体も楽になり、尿量も測らなくてよいので楽になりました。全体的に真面目に療養に専念したのですが、とくに、心電図(24時間の)の記録ノートは食事・トイレの都度きちんと記録して看護師さんに褒められました。

7日目に、すべての検査結果の報告が担当医師からあるので、妻と二人でカンファレンスルームにいきました。モニターに移された脳の影像を見てびっくり、左下に大きな脳出血の跡がありました。大事に至らなかったのは、糖尿病がなく、コレステロールが全く正常だったからだろう、と言うことです。血圧も160〜170台に落ちてきたので、あとは自宅治療ということで、退院は10日目の12月19日に決まりました。翌日は、同じカンファレンスルームで、栄養士の先生による退院後の細部にわたる食事指導がありました。

9日目、退院前日、仕事休みの長男が見舞いに来たので、6階フロアを一回りし、二人で、浦安の景色を東西南北の窓から眺めました。長男は浦安地域の高校を出たので、この辺の地理に詳しく、懐かしいことを思い出しながら、いろいろ説明してくれました。
退院の日、その日の係りの看護師さんが来て、ベッドまわりをくまなくチェックしてから薬の袋を渡されました。遅い昼食を食べていると、仕事を切り上げて来た妻が来て、前日用意していた服に着替え靴を履き、病室を後にしました。エレベーターの前のナースステーションは忙しいのか誰もいず、最後の挨拶ができなかったのは残念でした。一階で退院手続きをとって、11日ぶりに病院の外へ出ました。病院の廊下を歩くのと勝手が違って、妻に支えられながらゆっくり歩きました。コミュニティバスで浦安の駅へ。駅近くになると、焼き蛤の店が多いのが目を引きます。子供の頃、朝、味噌汁に入れる蜆やアサリを売りに自転車で浦安から来ていた日焼けした老人を思い出しました。

退院して、しばらくはボーとしていました。寒かったので、あまり外出せず、本も読まず、クリスマスも正月も何もせずに過ごしました(妻と近くのお寺に初詣に行っただけでした。)春になり、徐々に暖かくなると、血圧も下がりはじめ、フランス旅行に向けて、毎日のウォーキングを欠かさずするようになりました。3月から、徐々に、東京での仕事を始めましたが、幸い思考力の低下は感じられません。6月のフランス旅行では、毎日一万歩以上歩いたが、ほとんど苦しいとは思いませんでした。現在、9月13日の退院後二度目の血液検査では、ほぼ理想的な数値で、順調に回復しているとのことです。その日の血圧は118-70まで落ちていました。

思えば、死んでいてもおかしくなかったので、平日の昼間に倒れたり、仕事中に倒れたりしていたら、危なかった。妻がいる土曜日だから事なきを得たのです。TIA (一過性脳虚血発作)の場合、10〜15%が3ヶ月以内に本格的な脳梗塞に移行し、しかもその半数は48時間以内に発生すると言われています。一年以内に25%が脳梗塞になる、という数字も怖い。江藤淳は脳梗塞発症後5年後に再発し、退院1ヶ月後に自殺しています。浦安の病院の対処・治療は適切で完璧、この病院に運ばれたのが幸運だったというしかありません。しかし、むろん、特筆すべきは妻の存在であること、これもまた幸運と呼ぶ以外ないでしょう。



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2018年8月31日 (金)

中野重治『本とつきあう法』

中野重治の『本とつきあう法』(ちくま文庫)を手に取ると、私は、なぜか、ほっこりした感じになります。本好きの友人と話をする様な感じ、あるいは亡き友の書棚を覗く時の軽く胸のときめく感じ、気取らない、力を入れない、細やかな優しさに満ちた感じです。まだインターネットが普及する前の頃に、私はパソコン通信のあるフォーラムで、「私の旧刊案内」と題して、ロットマンの『セーヌ左岸』や、シュミットの『政治的ロマン主義』、ガダマーの『哲学修行時代』などの紹介をしたことがあります。実は、その題名は、この本の中の「旧刊案内」という章からヒントを得たものでした。またまた実はですが、この「憂愁書架」というブログ名も、最初は「私の旧刊案内」とするつもりでしたが、自分を誇ることをしない中野が珍しく、「旧刊案内」という題名の思いつきを自慢気に書いているのを思い出して、鳩居鵲巣ではないが、私ごときがその名を借りるのは烏滸がましいと思いました。

「私の読書遍歴」という章で、中野は「歩き回ったからといって遍歴したことにはなるまい」として、自分の読書が、学問上や宗教上の目安などない単なるぶらつきであった、と書いています。そして、大きな後悔としては、外国語をものにできなかったので原書を読むことができなかったこと、日本古典を体系的に読んでいないことを挙げています。源氏物語を読んでいないという告白には驚きますが、夏目漱石も篤学の英文学者であるにもかかわらず、聖書を読んでいない、と言っています。一時話題となったピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』によれば、ジョイスの『ユリシーズ』について人に語るためには、「ダブリンを舞台にした意識の流れによって書かれた小説」であると知っていれば十分ということです。中野はむろん、そんな姑息なことをせず、読書量を誇るどころか逆に隠そうとします。

私は、読書の醍醐味は日記を読むことにあるのではないかと思います。背後に大きな事件が起こる、日記にはそのことは殆ど記されていないが、その事件はその文章の行間にある陰影を与えるのです。秋田雨雀の有名な五巻にわたる日記には十月革命のことは記されていない、私はそのことをこの本によって知りました。中野は馬琴の日記と雨雀の日記についてこう書いています。

「それにしても、なんとこの人たちは日記をつけることが好きだったのだろう。馬琴なぞは、仇討ちをするようにして、親の仇を狙うようにして日記をつけている。こくめいに、長い期間にわたって連続して日記をつけるということは、たぶん人間にだけ考えられる特別のことであるのだろう。人間のするすべてのことを人間以外のものもするとしても、馬や、犬や、鶏が日記をつけるとはとても思えない。これほどこくめいに日記をつけた人というものは、その点では、人間のうちでももっとも人間的な人だったといえるのかも知れない。」

雨雀の日記のはじめの方にエロシェンコのことが出てきますが、中野は「ひとつの小さな無尽蔵」という章で、エロシェンコ全集について書いています。

「エロシェンコはロシヤの人だった。彼は盲人だった。不思議な縁で彼は日本へ来た。それはロシヤ革命と前後する時期だった。彼は若い日本人から愛せられて四年ほどの日本滞在をすごしたが、その挙句に、社会主義者、アカとして扱われて、住んでいたところから警察まで引きずって行かれー地面の上を文字通り引きずって行かれた。ー敦賀まで持って行かれてそこから追放された。(中略)こういう不幸な生涯のなかで、彼は実にいろいろなものを日本人のために書き残した。ある特別な少数者に見られるように、この人は、どんな不仕合せもその人を不幸にできぬ人の一人だったらしく、またそういう人がたいていそうだったように、どこかの民族の人というよりも、たとえての話ではあるが、生れつき人類に属するような人でもあった。」

エロシェンコは日本滞在中に女性活動家の神近市子と親しかっので、周囲は二人は結婚するのでは、と思っていたそうです。しかし、エロシェンコは、自分は根っからの放浪人だから結婚することはありえないと言いました。この判断はおそらく正しかったのでしょう。神近市子は、その後、愛人で財政援助もしていた大杉栄が伊藤野枝に心移りしたことに激昂し、葉山の旅館で大杉を刺傷するのですから。大杉は一命をとりとめたが大正13年の関東大震災の時に官警の手にかかって、伊藤野枝と一緒に殺されてしまいます。なお、伊藤野枝の伝記は『村に火をつけ、白痴になれ』という題で栗原康が書いています。

活動家といえば『幸徳秋水の日記と書簡』についての記述も興味深い。秋水は菅井スガとの愛人関係を周囲から咎められ中傷されて、さらに実家との面倒な問題などで、実兄や荒畑寒村などにあててたくさん手紙を書いています。大逆事件に連座して菅井スガとともに処刑されてしまうのですが(秋水39歳、菅野スガ29歳)、伝次郎(秋水の本名)を溺愛していた母の多治の手紙は胸を抉ります。息子の処刑前に母は伝次郎に会いに来て、その後故郷の高知に戻り、伝次郎に最後の手紙を書きます。それは死刑囚にあてた手紙というより、幼い息子にあてた手紙そのものです。憔悴した母多治は息子の処刑を待たずに息を引き取ります。「母多治と息子伝次郎の美しい関係については、格別に書くこともない。これは美しさの一つの限りといっていいのだろう。」と中野重治は書いています。

「旧刊案内」という章には、栗本鋤雲、松倉米吉、橘曙覧などの本が並んでおり、この本の白眉といってよいのですが、中でも和田英(旧姓横田)『富岡後記』は目を引きます。明治6年に当時15歳の英は仲間とともに郷里の長野松代から群馬県富岡の製糸工場に女工として働きに出ます。英の二人の弟は後の大審院長横田秀雄と鉄道大臣の小松健次郎で、富岡第1期の女工はこのような地方の名士の娘が多かったのです。フランス人の指導者、フランス式の建物・設備で、女工は毎日風呂に入り念入りに化粧もしていたそうです。英は一年半の研修・労働の後、松代に帰り、地元の紡績場で指導者として活躍します。それにしても、明治の女性のなんと律儀で優しい心持ちでしょう。長州出身の女工への依怙贔屓に怒って談判する姿、脚気になって臥せている仲間の女工への献身的看病、人々の歓声の中を人力車を14台連ねて松代に帰る時の晴れがましさ、など一読忘れ難い。中野重治は松代の工場時代を描いた『富岡後記』を読んで感動し、富岡時代の『富岡日記』を探すのですが、希少本であり、ついに手に入れることはできませんでした。2014年に富岡製紙場がユネスコの世界遺産に選ばれて、今や文庫本でも読めるようになったのはうれしい限りです。

『富岡日記』から半世紀ほど後1925年に出た細井和喜蔵の『女工哀史』は、労働者階級のことをほとんど知らなかった中野重治に衝撃を与えました。「私の村から私よりすこし年上の娘たちが京、大阪の方へ出て行ったが、そのある者は病気になって村へ帰っていた。だれも肺病で、それが家じゅう野良へ出たあとのがらんとした家の中でつくろいものなどをしていて、挙句に私たち子供の見たことのないさびし気なほほ笑みを残して死んで行った。」

細井は奴隷のような職工生活を経て、体を壊し、妻の助力を得ながらこの本を書き上げて、刊行の1ヶ月後、28歳の若さで腹膜炎で死にました。

吉川幸次郎『宋詩概説』。杜甫は宋の時代まではそれほど評価の高い詩人ではなかった、そのことに中野重治は驚いています。南宋の陸游の時代になって、はじめて杜甫はその然るべき評価を得たのです。さらに多くのことを中野は学んでいます。科挙の制度が十全に整備されて、宋の時代には文学と哲学が官僚の絶対の教養となりました。北宋の欧陽脩は貧しい家の出ながら、進士の試験に首席で合格し、後に宰相にまでなりました。彼は、文学・歴史学・考古学などに通じ、一代の碩学でした。この時代には政治の指導者が同時に文化文明の指導者であったのです。他に、王安石、陳与義、范成大、文天祥など燦めくような詩人たちも宰相を経験しています。北宋最大の詩人蘇軾は宰相にこそならなかったが国務大臣を務めています。歴代の大帝国のうち最も文化的な国家といってよいでしょう。
宋詩は、唐詩のような激情には無縁で、日常の細やかなことに目を配ります。主観的にならず、巨視的な目で世界を見、多面的に物事を捉えます。唐詩が酒なら宋詩は茶で、感情を歌うよりも自然の推移とそこに潜む哲学を語ります。まさに二程子や朱子を生んだ時代、哲学の時代だったのです。このことは人生の見方について新しい態度を生んだ、と吉川幸次郎は書いています。

「新しい人生の見方とは、多角な巨視による悲哀の止揚である。人生は悲哀にのみは満たないとする態度をそれは底辺としてはじまる。このことは、従来の詩が、人生は悲哀に満ちるとし、悲哀を詩の重要な主題として来た久しい習慣からの、離脱であった。」

欧陽脩は時代の骨格とその行くべき道を明示したが、詩においては友人の梅堯臣のほうがすぐれていました。梅堯臣は低い官位のまま59歳で伝染病で死にますが、葬儀の日、梅の借家のある路地の住人たちは、弔問の大官の車に目をみはりました。梅堯臣は鋭敏で繊細な神経の持主でしたが、その詩は平淡の一語につきます。欧陽脩が梅暁臣に捧げた詩は二人の友情の美しさを語っていますが、最後の二行は次のようなものです。

初 如 食 橄 欖 初めは橄欖(かんらん)を食う如きも
眞 味 久 愈 在 真の味わいは久しくして愈(いよ)いよ在り

梅堯臣の詩は橄欖つまりオリーブのように、口に入れたさいしょは苦い。かめない。しかし、かみしめればかみしめるほど味が出てくる、というのです。

森鴎外『即興詩人』。アンデルセンの原作を鴎外が訳したもの。1892年から1901年にかけて翻訳されたこの書に中野は深甚な意味を与えています。まず、そのあらすじを振り返ってみましょう。ローマに住むアントニオという少年は幼い時に母を亡くし、カンパニアの牧者のもとで育てられ、ローマの学校で学び、アヌンチャタという女優に恋をし、そのもつれから親友を傷つけ、ローマを去ります。それからナポリに行き、即興詩人として成功し、ヴェネツィアでアヌンチャタに再会します。しかし、彼女は見る影もなく落ちぶれて、アントニオは彼女を追うが、アヌンチャタはアントニオとその愛人マリアを祝福する手紙を残して姿を消してしまいます。

全体のあらすじは極めてロマンチックで、恋愛は19世紀後半の文学が帯びる肉体的欲望の香りはほとんどありません。舞台はイタリアで、主人公の変転とともに各地の風光が絵画のようにはめ込まれ、それがアンデルセン自身の不遇の身の上と重なって深い感興を呼び起こすのです。これが日清戦争と日露戦争の間の日本の読者にどれほどの影響を与えたか考えてみましょう。新しい窓が開かれ、新しく新鮮な風が入って来たと誰しもが感じるでしょう。人間個性の交錯が風景・人情とともに人々の心を打ったのです。一葉の『たけくらべ』が出たのが、やっと1896年だったことを思い出して下さい。「しかしまた一つには、おそらく、『即興詩人』の主人公の運命の悲しさ、主人公の性格の弱さ、これをとりまく人びとの善意ということが、この作を日本人に受け入れやすくさせたのだろうと思われる」と中野は書いています。

さらに、中野は、鴎外が 採用した文体について言及しています。それはこのようなものです。

「われは進みてポンテ、リアルトオに到りて、いよいよ斯土の風俗を知りぬ。エネチヤは大いなる悲哀の郷なり、我主観の好き対象なり。而して此郷の水の上に泛べること、古のノアの舟に同じ。」

和漢洋の三種混交の文体はまったく鴎外独自のもので、あまりに完成されているがゆえに、発展する者も追随する者もいませんでした。一方、二葉亭四迷の『浮雲』(1887)は未完成ながら、それゆえに生産的で、新しい時代の文体の礎になった、と中野は書いています。

この本の最後に置かれたのは、岩波書店が出していた立派な『大航海時代叢書』についてです。私は子供の頃、この叢書が欲しかったが高くて買えませんでした。中野によると、宮本百合子はこの種の本を熱心に読んでいたそうで、彼女の手紙には次のような記述があります。

「すべてのことの突然の変りやうはどうでせう。全く17世紀の帆走船の船長たちがそなへてゐた度胸と明察とが入用の有様です。そして幾分スポーティーな陽気さとが。」

彼女は、この手紙を網走に移送される宮本顕治を追って福島まで来た時に書いたのです。「この種のものを彼女が、自分の運命に引きつけて読んでいたろうこと、前に読んだのを網をしぼるようにして思い出していたらしいことは想像することができる。この叢書のものは、各人にたいして各様にそういう作用をするに違いない。」と中野重治は結んでいます。
宮本顕治も共産党も私の趣味ではないのですが、本とは、読書とは、まさにそのようなものでしょう。中野が戦争末期に召集されたとき、背囊に入れていた文庫本は『ガリア戦記』と『日本虜囚記』だったというのも、なんとなくわかるようです。


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2018年5月31日 (木)

藤原保信『ヘーゲル政治哲学講義』(2)


退院して約5ヶ月、徐々に体力も回復して、今は週に2、3回、仕事を始めています。途中で中断していたブログ記事がいくつもあって、気になっているので、少しずつ再開していくつもりです。
まず、藤原保信の『ヘーゲル政治哲学講義ー人倫の再興』(1982御茶の水書房)の続きから。この本は、以下の4章から成っています。
1、初期ヘーゲルー人倫の発見
2、『精神現象学』ー人倫の再興
3、『法の哲学』ー人倫の体系
4、結論ーヘーゲルと現代

(1)では総論としてリバタリアニズムやコミニュタリズムについて書きましたが、いよいよ本題に入ります。まず、初期ヘーゲルー人倫の発見、から。
ところで、「大病」というほどではないが、一人暮らしであったら確実に死んでいたであろう病気を経験して、さすがに私もいろいろ考えを深めました。まず、平凡ですが、命の大切さ、普段の日常の生活の懐かしさ、身の周りの人や動物(つまり妻や猫ですが)の愛おしさ、などです。つぎに時間の加速度的な収縮と言いましょうか、ドップラー効果ではないが、過ぎ去ってゆくもののあまりの速さ、退院して家の書庫に入ると、積み重なった書物の虚しさに圧倒され、もはやほとんどの本は読まずに死ぬのだという思いに胸は塞がります。私の人生とは何だったのか、私の生きた世界はこれ以外にあり得なかったのか、人生と世界の秘密はまだほんの端緒すら、自分に開示されていないのに。

18世紀から19世紀初頭にかけてのドイツ観念論は、人間と世界についての、ギリシア哲学に比すべき壮大なヴィジョンを提示しました。なかんずく、カントとヘーゲルは蒼天に並ぶ二つ星であり、汲みせぬ豊穣な泉でした。とくに初期のヘーゲルには、後にその中心から離れていった人倫についての鋭い考察があります。

まず、「人倫」という言葉から。普通は「人と人との間の道徳的秩序」を表すのですが、ヘーゲルの用語では(《大辞林》の記述によれば)「理性的意志が客観化された形態で、家族・市民社会・国家として現れる。偶有的諸個人の実体性・普遍的本質であり、主観的な道徳性に対立する」ということだそうです。藤原保信の解説によると、それは「各人の精神が自立的でありながら、しかも孤立的ではなく、他者との絶対的統一を確信し、まさに他者との関係のうちにーあるいは他者の自己意識のうちにーおのれの真実体を得ているような人間の結合の仕方」ということになります。つまり、一人はみんなであり、みんなは一人であるような「人格相互の共同体」を表しているのです。

このような人間像をアリストテレスは〈ゾーン・ポリティコン〉ポリス的動物と呼んだのですが、ヘーゲルが「人倫の王国」を表象するにあたってモデルにしたのは、まさにそれに他なりません。すべての市民が公的決定に参加し、公的目的をおのれの目的とした古代ギリシアのポリス的結合はヘーゲルの理想そのものでした。また、古代ギリシアにあっては、道徳性と合法性の区別はなく、国家は単に法的に正しい事柄のみではなく、道徳的に善きことをも命じうるのであり、プラトン『国家』の最終巻は、正しい人間がまた幸福な人間でもあるという証明に捧げられているのですが、まさに、そのことを成り立たせる基盤こそポリスであったのです。

しかし、このようなポリス的な人倫の観念は、マキャベリに始まる近代政治哲学において、たんなる幻想として退けられ、完全に拒否されていきました。ホッブズは『市民論』で、ギリシア人のゾーン・ポリティコンを、まったくの虚偽の公理であり、人間性をあまりにも皮相的にしか考察しないところに由来する誤りである、と断じました。人間は、欲求を求め嫌悪を逃れながら、それによって自己保存を図っていく徹底的にエゴセントリックな存在で、彼らが社会を求めるとしたら、それは「名誉」や「利益」を得るためであってそれ以外の何ものでもない、つまり、文字通り「万人に対する万人 の戦争」こそ人間の状態である、と。

ホッブズは、この理論を、イギリスの内乱に触発され、近代自然科学の勃興に依拠しながら組み立てていきました。この理論は、自由で平等な近代的な個を析出しながら、権利と義務の体系を市民社会的に組み換えるという意味を持っていたのです。ここで市民社会というのは、のちにヘーゲルが「欲求の体系」という言葉によって表現した社会、私有財産所有者としての自由な個人が、市場を媒介として相互に関係しあう社会、すなわち資本主義を母体とする社会でした。

しかし、ホッブズのラディカルな思考の革命を、具体的、現実的に政治的帰結にまで引き延ばしていったのはロックだったので、その意味で彼こそ名実ともに市民革命のイデオローグと言ってよいでしょう。ヘーゲルの政治哲学の最後のアウトラインも、いや、現代の立憲的な議会体制の原型も驚くほどロックの理論から離れてはいないのです。ホッブズが最悪の自然状態(万人の万人に対する戦い)を回避するために主権を絶対的に不可分なものとしたのに対して、ロックは自然状態であっても、一定の自己規制能力を示す自律的人間を出発点としました。(私は近頃はロックを再確認し読み直そうと思っています)

ところが、ロックにあっても、考え方の根本は、ホッブズと同じく、快楽を善とし苦痛を悪とするブルジョア的人間観でした。それゆえに、国家が保護するものは諸個人の生命・自由・財産以外のものではなく、「欲望の体系」としての資本主義に容易に収斂していくものだったのです。この個人主義のダイナミズムは、多数決原理を根底に据えて、議会主権、法の支配、権力の分立、抵抗権など今に至る見事な立憲民主体制を作り出していく基となりました。むろん、商品交換を法則的に把握しようとする古典派経済学がその強靭なバックボーンになったのは間違いありません。

ロックに至って、どれほどポリス的人倫の理想から離れて行ってしまったことでしょうか。道徳は法律と分離し、正しくあることと幸福であることは全くの別物と考えられるようになったのです。ヴィンケルマン以来のギリシア世界への憧れとその消失は18世紀の西欧知識人の消されることのないスティグマと言えましょう。この苦悩を担い、近代の「欲求の体系」としそれによって生み出される商品世界に風穴を空けたのはルソーでした。カントやヘーゲルが熟読し、ロベスピエールやシャトーブリアンが熱狂したルソーは、ポリス的理想を近代の合理主義を通過した人為の力で復興しようとしたのです。彼はホッブズの「自然状態」の人間は、現在の人間のねじまがった情念をそのまま持ち込んで措定したものだと糾弾しました。ルソーの考えは次のようなものです。(私は以前ほどルソーに対しても批判的ではなくなりました。)

ルソーによれば、自然状態は自己保存の本能としての自己愛 amour de soi と憐憫 pitié が調和をたもっていた自由で平和な世界だった。しかし、道具の発見、冶金・農業の発達による生産力の増大が、私有と富の不平等を生み出し、それによってもたらされる余暇の増大が、人びとに欲望を植え付け、虚栄心 amour propre を生み出した。そして、欲望の拡大がさらなる生産力の拡大を生み出し、生産力の増大がさらなる欲望を刺激するという悪循環の展開の中で、幸福な自然の状態は死滅した。ルソーは、この市民社会批判の後で、新たなる人間の理論と政治社会の理論を打ち立てようとした。彼は、人間が素朴な自然状態に戻り得ないことを十分に知っていて、唯一の可能性は、人間の可塑性に賭け、失われた自然を人為の世界で回復する以外にないと信じた。『エミール』は、市民として成長するために、必要な知的教育と、良心を拠りどころとする道徳教育をほどこされ、最後に外の世界をよりよく理解するために旅に出る。「彼は自分と戦い、自分にうち勝ち、自分の利益を共同の利益のために犠牲にすることを学ぶ」これは、まさにポリスの人倫的共同体における人間に他なりません。

ルソーの影響を強く受けたカントは、その先験的観念論により、ルソーとは全く違う道から人倫の再興を企てました。カントが、現象と物自体を区別したことはよく知られていますが、彼は認識の世界を感覚で知りうる現象世界に限定しながら、実践理性の世界では、むしろ先験的な物自体の世界を道徳の存立根拠としたのです。自然の因果律の世界から完全に自由な意志の自律を前提としつつ、まさにその道徳に普遍妥当性をもたせました。義務はまさしく義務のために存在するので、そこに向かう自律的意志こそ人間の尊厳の証しとなるのです。これは、おそらく、太陽系が死滅を迎えるほどの時間が経過してもなお人類には至難の課題でしょう。それは、いかにしたら我々は幸福になれるかという教えではなく、いかにしたら我々は幸福に値する人間になれるか、の教えだからです。

カントのこのような考えの背景には、少年の時に死に別れた母親の持っていたキリスト教敬虔主義の強い影響が見られるようです。むろん、伝統的な道徳規範が根強く残っていた北方ドイツの精神風土も考慮に入れなければいけません。彼は、海の向こうの国で、市民社会が進展し、道徳規範が解体して、功利の体系が行動の基準になっていくことへの大いなる危惧があったのでしょう。欲望の解放と価値相対化の進展を認めながら、なお道徳の規範性に固執するカントの思想には、市民社会の分裂の構図がそのまま現れているのかもしれません。

初期ヘーゲルはカント的な道徳主義の立場から出発しましたが、その根本の心根においてはかなり違っていました。カントは、理性と感性を峻別し、「理性の事実」としての道徳律より出発しながら、厳格主義を貫きつつ、実践理性の要請としてのみ神の存在を認めました。すなわち、彼は、最初から、快楽や幸福という実質的内容を意志の規定根拠から排除していった結果、「正しくあることは同時に幸福であることである」ことを証明できず、徳による生活=最高善の生活を正当化するものとして、霊魂の不滅や神の存在を持って来ざるを得なかったのです。遥か遠い未来の到達すべき地点から人間社会を見下ろしたために、徳の要請は、人間の自由意志を認めながらも、人間の自然的欲望を抑圧し対立し拘束するものとして現れる危険性を常に持っています。カントの道徳律の世界が実現されたならば、それは一瞬にして地獄と化すだろうと揶揄したベンサムの言葉を思い出しましょう。

さて、ヘーゲルが、テュービンゲン大学の神学部時代から書きためていた原稿は、死後『ヘーゲルの初期神学論集』という表題で刊行されていますが、藤原によれば、その内容の中心は、神学そのものであるよりも、宗教を媒介とした道徳的理想の追求であり、カント的な道徳律の世界に理想を見出していたヘーゲルが、やがてそれが含む現実的矛盾を感じ、次第に自己克服をとげつつ、独自の立場を築き上げていった過程がそこには読み取れるということです。

理性によって判断され、理解されるカントの道徳律に対して、ヘーゲルの道徳は、人びとの感性に浸透し、それを動かし、行動の動機となるものでした。『初期神学論集』の冒頭の、「民族宗教とキリスト教」で、ヘーゲルは、客観的宗教 objective Religion と主観的宗教 subjective Religion の区別について書いています。客観的宗教とは、我々の義務や願望と神や霊魂不滅という理念という関係における全体系、つまり客観的な教義体系に示される宗教であり、そこに作用する力は悟性と記憶です。それに対して、主観的宗教は、ただ気持や行為において表われ出るものであり、存在の内奥における活動を示しています。それゆえに、ある人に宗教があるといった時、意味するものは、宗教について広範な知識を持っているということではなく、自分の魂の中に神の業、奇蹟、近在を感じている、ということなのです。若きヘーゲルが、後者の優位を認めていることは明らかでしょう。

ヘーゲルが、人びとの感性に基礎を持ち、生ける魂をもって自然に浸透していく主観的宗教を評価するとき、そこには近代啓蒙への批判と人間の善性への信頼があるのです。 啓蒙とは、カントによれば「悟性を使う勇気を持つこと」でした。しかし、ヘーゲルによれば、悟性の啓蒙は、人びとを利口にしても善良にはしない、むしろその自己保存の追求で、道義心を高揚するよりも、低下させる、と断じました。客観的宗教が悟性によって解明された教義体系として国家の庇護のもとにあるとき、それは権力と結びつき、人びとの自由を抑圧するものになるが、対して、主観的宗教は、人間がもつ自然な善性の発露により、正しい社会結合の絆として機能していくというのです。ここにはルソーの強い影響が見られるでしょう。

ここに、ヘーゲルが挙げているもうひとつの対概念、民族宗教と私的宗教について説明しましょう。私的宗教が、個人に働きかけ、個人の魂に安息を与える機能があるのに対し、民族宗教は、魂一般に力と感激ー偉大で崇高な徳行に不可欠な精神ーを吹き込むというのです。そして、民族宗教が、個人と共同体との結合の絆になるのに反して、私的宗教は逆に個人と共同体の結合を破壊し、分裂の要因となると言います。民族宗教が古代ギリシアの宗教を表して、私的宗教が帝政ローマ以降のキリスト教を表しているのは明白でしょう。前者は、人間の善性を信じ、善性に訴え、それに期待するのに対して、後者は人間に対する絶望と神による救済を唱えます。ソクラテスとキリストのそれぞれの弟子たちに対する関係を見てみましょう。キリストが十二人の弟子を選び、固定化し、それに上下の関係をつけたのに対して、ソクラテスはいかなる弟子も、およそいかなる命令も下さず、万人と交わり、公正の模範たる師であったにすぎません。

この時期のヘーゲルは、(ルカーチによれば)カントと同じく、社会問題を正に道徳的問題とみ、かかる意識の変革による社会の変革を意図してしていたが、カントと違って、最初から集合的、社会的、歴史的に見ていたということです。自分を民衆の道徳的啓蒙家、民衆の教育者として自覚し、それを使命としていったことは、カントより遥かにルソーに近いでしょう。しかし、1794年に、ヘーゲルは改めてカントに取りくみ、『実践理性批判』そして特に『単なる理性の限界内に於ける宗教』を研究して、それは1795年の『イエスの生涯』に結実します。

『イエスの生涯』で描き出されるイエスは、信仰の対象としてのそれであるよりも、カント的な純粋道徳の実践者、改革者です。みずからの律法の正しさとその独占を主張し、それゆえ利己的となったパリサイ人に対して発したイエスの言葉(ヨハネ 8ー21〜31)をヘーゲルは次のように要約します。「わたしは、ただ、わたしの心と良心の純粋な声だけを頼りにしている。この内なる法則こそ自由の法則であり、自分自身によって与えられたこの法則に、人間は自由意志にしたがって服従するのである。‥‥ところが、それに反してあなたがたは奴隷である、何故ならばあなたがたは、外からあなたがたに課せられた法律の軛のもとにいるからである。」ユダヤ教の律法主義は、外より課せられた他律的な立法に人びとを従属させ、その自由と尊厳を奪うのです。しかも、この律法がユダヤ人にのみ啓示されたとする選民意識は、彼らを排他的にし、利己的にしています。これに対して、イエスは、まさに純粋な良心から発する内なる道徳法則の実践者として現れるのです。

「それゆえ、ここではキリスト教における信仰的要素、すなわち、人間の堕罪、イエスの贖罪、復活、あるいは奇蹟というような諸要素は、その本来の意味においてはまったく語られていない。むしろ、神がみずからに似せて作ったすべての人間に与えたもう良心=善性に対する信頼より出発し、かかる良心の覚醒こそイエスの役割であったとするのである。」しかし、このイエスの改革運動、人間の善性を信じ、内なる良心を覚醒し、「善への愛」のみが支配する道徳的完成者の結合をめざす運動は成功しませんでした。その顛末と理由は、その年の秋から翌年にかけて書かれた『キリスト教の実定性』に精密に書かれています。

この『キリスト教の実定性』においても、まずユダヤ民族の悲惨な状況から筆を起こします。その立法を最高知そのものから引き出しながら、今やその精神は、日常生活のあらゆる瑣末な行為にまでも一律に規則を定め、国民全体に僧侶階級の威信を示すところの、杓子定規的な掟の重荷に押しつぶされています。この律法の奴隷ともいうべき服従の状態から、精神の自由を求める運動が起こってくることは当然でしょう。イエスは、少年時から自分自身の教養に専念し、名誉心や他の悪徳にも染まらず、その時代の伝染病から自由であり、その情熱のすべてを、その民族の聖なる書物にうちに横たわっている道徳原理を彼らに思い起こさせるために費やしたのです。彼はそのことにより、宗教と徳行を道徳性にまで高め、その本質をなす自由を再興しようとしました。ここに描かれるイエスは、ヘーゲルにとって、ソクラテス同様、道徳の教師そのものです。

ところが、彼の運動は最初から挫折しました。というのも、イエスは彼の運動をもっぱら人間の理性と良心の声に訴えかければそれで十分であると考えていたのですが、当時のユダヤの人びとの精神状況は、このような理性の声に傾ける耳をまったく持っていませんでした。それで、イエスは、仕方なく、神の言葉を借り、神の権威に頼り、神の意志として語らずを得ず、みずからが神の意志の体現者であることを示すために、奇蹟信仰が用いられ、それによって自分の教説を権威づけていったというのです。またイエスの弟子たちも当時の偏見や狭量さから自由でなく、イエスの教えを忠実に理解し伝えていくという態度に欠けていました。イエス自身も、復活後には、徳の行為そのものでなく、信仰と洗礼という実定的な二つのものが至福に預かる条件で、無信仰者には永遠の罪が帰せられると説くようになります。

イエスの「道徳」は、何と変節して行ってしまったことでしょう。ヘーゲルは、そのことを社会的に次のように説明します。イエスの小宗派は拡大し、友好的な小集団においてのみ可能な自由と平等は消え失せ、上下の権威的な関係が生じてきた。またそのような小集団においてのみ可能な最初の財産の共有性も消滅し、平等は現生の平等から神の前に於ける平等に転換していった。聖餐式をはじめとする儀式が信仰のための掟としての意味を持つようになり、とりわけ教会という組織の成立が、役員や聖職者を作り、人びとに服従を要求するようになった。そして、かかる教会が国家権力と結びついたとき、理性の自由と道徳への服従は完全に圧殺され、キリスト教はユダヤ教と同じ実定的な宗教と堕した。のみならず、ユダヤ教においては単に行為のみが命ぜられていたのに対して、キリスト教においてはさらに感情をも命ずるという補足物が付け加えられたというのです。

ここにおいてヘーゲルは、再び、古代ギリシアとローマの共和制を賛美し、そこでは個人が自由な人間として、公的な場において自己を実現していったが、そこにはギリシアやローマの宗教が密接に関わっていた、と書いています。しかし、そこにキリスト教が浸透し、ローマの国教となって、すべては変化しました。誰もが自分自身の中に閉じこもり、国家は少数の人びとによって運営され、市民の政治的自由は失われていきました。疎外された人びとの精神は彼岸の世界に普遍を求め幸福を待望します。ここに至って、ヘーゲルの意図が露わになるのです。歴史における精神の遍歴が、当時のドイツの状況に重ね合わされていくのです。ヘーゲルが説く道徳は、決して、理性によって引き出された抽象的な理想ではなく、現実の古代の共和制のなかに具体化されていたのです。「徳の再興を企てたイエスの試みが挫折し、次第に実定化し、律法化していく過程を見ながら、そこに現実から乖離した抽象的な理想の現実化において陥らざるをえない、ひとつの歴史の悪循環をあるのだ」と藤原保信は結んでいます。

(初期ヘーゲルの続き、その白眉たる『キリスト教の精神とその運命』および『ドイツ憲法論』はまた後日の機会に。次は『アンチモダン』の続き、さらに昨年からの懸案であるラヴェッソンの『19世紀フランス哲学』そしてその間に鏡花など日本文学も書きたいと思います。生きている間に『精神現象学』までたどり着けるでしょうか。マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないか』も購入したまま、まだ1ページも読んでいないのですが。)

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2017年12月31日 (日)

織田作之助『船場の娘』


年の瀬に倒れて救急車で運ばれ、間一髪助かって退院してきました。妻の機転のおかげと言ってよいのですが、図書館の帰り道で迷ったり、ごはんがボロボロ口からこぼれるのを見て、すぐに救急車を呼んでくれたのです。それからすぐに意識を失くし、気がついたら、浦安のJ大付属病院の脳卒中ケアユニット(SCU)に絶対安静で寝かされていました。病名は一過性脳虚血発作(TIA)ですが、処置が速かったので麻痺も残らず幸運でした。翌日には息子も駆けつけ、遠くから長兄も様子を見に来てくれましたが、何より暮れの多忙な時に仕事に支障をきたしながら毎日来院してくれた妻には感謝せねばならないでしょう。

自身30年ぶり三回めの入院ですが、若くて有能な看護師さんたちに世話されて、退院する時はやや寂しくもありました。リハビリは疲れるし、ベッドから離れるときは必ずナースコールで呼ばねばならないのは面倒でしたが、テレビもスマホもあるので退屈はしません。妻に頼んで、家の書棚から一番薄い文庫本を持ってきてもらいましたが、何とそれは昭和30年刊行の角川文庫版織田作之助の『船場の娘』というわずか90ページの本でした。

『船場の娘』は短編集で、「女の橋」「船場の娘」「大阪の女」「俗臭」の4編からなっていますが、「俗臭」以外は連作もので、母娘孫の三代の物語です。その中でもっとも出来の良い「女の橋」を紹介しましょう。
船場の瀬戸物問屋伊吹屋の藤助(とうすけ)は、十二の時から伊吹屋に丁稚に上がり三十年、先代の主人の亡くなった今では押しも押されぬ大番頭になっていました。その藤助の唯一の願いは伊吹屋の暖簾を守ることで、四十を過ぎてからは妻子を持つのも諦め、生涯を伊吹屋に尽くす覚悟を決めていました。彼の当座の気がかりは先代の跡取り息子の恭助で、ボンボン育ちで、お人好しで、柔弱な性格、道楽でいつ屋台を潰すやも知れません。それで藤助は、これがまた船場のやり方でもあるのですが、若旦那の恭助には商売には一切手をださせず、先代からの馴染みの宗右衛門町の大和屋に連れて行き、そこでだけ自由に遊ばせることにしたのです。むろん大和屋の女将からは、逐次電話で恭助の動向を連絡させ、酒は銚子三本まで、同じ芸妓は3日続けて付かせない等、細かい取り決めをしていました。

ところで、その恭助が女将の制止も聞かず、小鈴という芸妓を強引に連日指名することで一悶着起きてしまうのです。ある夕、法善寺横丁の「夫婦善哉」で氷白玉を食べながら、小鈴は恭助に妊娠したことを告げます。狼狽する恭助、しかし、気の弱い彼は結婚を約束することしかできません。お腹の目立つようになった小鈴は、母親の住む借家へ引っ越して嫁入りの準備をします。読み書きできないのでは伊吹屋の御寮はんにはなれないと思い、必死で手習いにも励みます。そんな時に大番頭の藤助が突然母娘のもとを訪れ、恭助との別れ話を切り出します。このことは恭助はんも承知のことかと母親が尋ねると、そうだと冷静に藤助は答えます。実は、すでに、ある乾物問屋の長女と恭助との縁談を内内にすすめており、優柔不断の恭助は、器量は悪いが家柄のしっかりしたその娘との結婚を承諾せざるを得ませんでした。

苦労人の母親はすぐに事情を飲み込んで、藤助に頼まれた通り、手切れ金の受け取りを兼ねた證文を書くため筆硯を持ってきます。ここで藤助は予想外の愁嘆場に出くわすのですが、それは小鈴がどっと泣き出したことで、船場に嫁入りするために習った字が別れの證文を書くために使われることの悲しさだったのです。こうして母娘は大阪を離れ、生まれた子はいったん里子に出した後、伊吹屋が引き取って育てることになりました。

それから20年近くの歳月が流れて、大正十一年の夏、大和屋の玄関にしょんぼり入って来た40前後の女がいました。「お勝姐はんゐやはりまつか」とかつての朋輩の名を言われて出てきたお勝は小鈴のやつれた姿を見て驚きます。聞けば、大阪を出た後、苦労の連続で母親にも死なれ、三味線を教えたりしながら糊口をしのいでいるとのこと、たまたま中座で催される花柳一門の名取の披露 に今春女学校を出た伊吹屋の長女雪子が娘道成寺を踊るということ、またその三味線を弾くのが宗右衛門町の芸妓衆で、お勝もその一人だとの噂をどこかで小鈴は耳にしたのです。

「お勝姐ちゃん、わての一生の願いです。その三味線、わてに弾かせて貰へまへんやらか」20年の間、会うことを許されなかった娘の晴れ舞台の三味線を引く、その気持ちはお勝にも嫌というほどわかりました。「小鈴はん、弾きなはれ、弾きなはれ、わての替え玉となって、、、。けど小鈴はん、あんた身體は?」一眼見て病人と分かる小鈴のやつれようだったのです。

中座の舞台の日、お勝の着物を着た小鈴は 、やせ衰えて身幅があまっていたのですが、赤い毛氈の上でこの上なく幸せでもありました。美しく成長した雪子の姿、それを見ながら娘道成寺を弾く小鈴、しかし踊りの終わる頃、いきなり撥(ばち)を落として小鈴は前のめりに倒れてしまいます。幕が弾かれ、楽屋に運び込まれた小鈴を雪子が見舞うと、お勝は、もうたまり切れず、「嬢(とう)はん、、、」と廊下に連れ出して何もかも打ち明けました。母親だと聞くなり、雪子は転げるように小鈴の枕元ににじり寄ったが、もうその時は小鈴の息は切れていました。

織田作之助(1913〜1947)は紹介するまでもない大正昭和の大作家ですが、直截的で乾いた文体はスタンダール譲りで、彼には一片の気取りもありません。書くものはみな面白く、とくに大阪ものは(ほとんどがそうですが)読み応えがあるようです。生涯の大一番に初手に無用の端歩を突く坂田三吉、文楽人形の所作に一生を捧げた吉田文五郎、放蕩を繰り返す『夫婦善哉』の柳吉とそれから離れられない蝶子、作之助の愛したこれらの人物には的確に当てはまる言葉は一つしかありません。それは、阿呆、という言葉ですが、それこそ作之助が大阪と大阪人を愛した所以だったのです。

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2017年9月23日 (土)

ゲザ・ローハイム『龍の中の燃える火』

    7月初めに熱中症から脳神経を冒されて、二ヶ月ほど仕事を休んで自宅療養していました。回復は難しいと思われたが、8月半ばに通院以外の外出が出来るようになって、9月から少しずつですが、仕事に復帰しています。『アンチモダン』が途中ですが、思想史ものは時間がかかるので、もっと気楽に書けるゲザ・ローハイムの『龍の中の燃える火』(新曜社2005・鈴木晶、佐藤知津子訳)を取りあげてみます。

    ローハイムは私好みの忘れられた思想家で、フロイトとサンドール・フェレンツィの弟子筋にあたり、精神分析人類学というものを提唱した人物です。私は、もともと、ユングやラカンのようなフロイトから肝心の性的一元論を捨象した哲学的精神分析学者を好きになれず、ローハイムのように個人の性的な夢や体験に固執する一徹さを持つ人間を好んで来ました。『龍の中の燃える火』はアメリカの民俗学者のアラン・ダンデスが、ローハイムの論文の中から主に民俗学を中心とした17編を選んで編んだもので、読みやすいとは言えないが、狂おしいほどの資料の引用と博捜は、これまた私の偏愛するところでもあります。

   まず、その中の一編、「聖アガタと火曜日の女」から紹介しましょう。これはピレネー山脈に伝わる民話です。

      聖アガタの日の前夜、一人の女が遅くまで糸紡ぎをしていた。九時になると、戸をたたく音がして、見知らぬ女が入ってきた。女は「わたしも糸を紡ぎたい」と言って羊毛をもらうと、仕事にとりかかった。女はその家の女主人の四倍もの、すさまじい速さで糸を紡いだので、女主人は恐ろしくなって、隣家に駆け込んだ。話を聞いた隣人は、彼女に、「墓地が火事だ」と叫びながら家に入るように助言した。その言葉を聞くなり、見知らぬ女は「家に帰らなくちゃ」と叫んで飛び出していった。ところが、女はまた戻ってくると女主人に、「もう少しでおまえは死ぬところだった」と告げた。「わたしが紡いでいたのは、おまえの経帷子(きょうかたびら)だったのさ」

    この民話の類型は、ハンガリー、ルーマニア、ロシア、ギリシア他、ヨーロッパの至る所にあり、その根幹は、仕事をしてはいけない日に仕事をすることへの罰則です。聖アガタは、シチリアの王に嫁ぐことを拒否して乳房を切り取られた殉教聖女で、墓に入ってから、自らの聖日に働く人間への復讐に駆られて墓場を飛び出してくると言われています。ピレネーの民話は聖日の前日ですが、特に前夜は準備日として重要とされていました。多くの地方では聖アガタの日ではなく、単に火曜日に糸を紡いだり洗濯や針仕事をすることを禁じています。これには夥しい例があり、さらに木曜、金曜、土曜などの日に労働を禁じられている地方もあります。なぜ火曜日(あるいは木曜、、、)なのかの理由はわかっていません。

   ローハイムはピレネーの民話を次のように解釈します。まず、神話や民話は、もとは誰かの見た夢であったに違いない、と自らの前提を確認した後で、夢は常に超自我の叱責に対する防衛である、と書いています。超自我とは、かくあるべし、という道徳的倫理的要求で、幼児には母親の叱責や要求が超自我そのものになるのです。してはいけない時に仕事をすることは、超自我としての母親像に対する 直接的反抗です。しかし、超自我の現れは複雑で、糸を紡ぐという行為は超自我の要求する禁欲的労働なのですが、休まねばならない時に仕事をすることは故意になされた未完の仕事、つまり日中にやるべきだった仕事の残滓として表されます。見知らぬ女がめざましい働きで主人公の女を助けるのは、「もっと糸を紡げ」という命令とともに主人公の超自我への象徴的追蹤であり、本人にとっては超自我を抱き込む行為とみなされているのです。一方、決定的な助言を与えてくれる隣家の女性は超自我に対する母親像の保護的な側面の現れとも言えましょう。火事は、たいてい尿意の代替として、夢に終了を告げるために呼び出されます。こうして、ローハイムは一つの結論にたどり着きます。超自我は内面に取り込まれた社会の要求、あるいは禁止として解釈されるが、それに対する反抗、つまり対象(母親)に向けられた攻撃は次には自我に矛先を転じて一種複雑な様相をとる、これが一見意味不明な夢の内実を表しているのだ、と。

    次に紹介するものは「龍の中の燃える火」の章で分析される神話です。ローハイムがポリネシアで取材したこの神話は、実はニュージーランドやハワイに至る南太平洋のほとんど全てで知られている文化英雄(火や作物の栽培法など有益な知識を人々にもたらした英雄)であるマウイに関するもので、ディズニーの映画『モアナと伝説の海』でもモアナを助ける半神の大男として大活躍します。

   「ポリネシアの英雄神話は、マウイの偉業を中心に展開する」とローハイムは書いています。彼はあちこち旅をしたのですが、その主要なものは火を求めての旅と、永遠の命を得るための旅です。マウイは、父親タランガの後をつけて冥界に入り、火の神マフィエから火を奪い取ろうとします。マフィエはマウイに襲いかかってきたが、マウイはその腕をもぎ取り、残った腕をひねり上げました。ついにマフィエは、腕を自由にしてもらうかわりに、マウイに木片同士をこすり合わせて火を起こすやり方を教えます。マウイ誕生の歌は、木片同士をこすり合わせることが、性交の物語であることをはっきりと示しています。「その歌のどの言葉にも深遠な象徴的意味がこめられている」とローハイムは書いています。

     おとめたちの情熱の歌
  最初の声:
     困難な入口、秘められた門
  第二の声:
     襲われ、嵐のように乱れる。 
  コーラス:
     侵入者は欲望の核(中心)に突き進む。
     ここにおとめが一人。その下には避けた入口。
     おそらくそれは「長い刀身のトゥ」だったのだろう
     彼女を地面の上にうつぶせに投げ出したのはー。
     指の爪で広げられた網が開いている。
     網の中には取ってが一つ。
     網はきつく引き寄せられる。きつく引き絞られる。
     ああ、めくるめく歓びを呼び覚ます小さきものよ。
     ああ、ぬめぬめした傷口を探る性の狩人よ。
     情熱の泉がほとばしる。
     刀身がさかんに抜き差しし、
     やがて、内なる門に激しく突き立てる。
      突然 奔流が溢れ出る。
      恋人たちは激しくからみあい、一つとなる。
      その抱き合う音が聞こえるほどに激しくー。

   さらに、マウイの有名な仕事は、日の長さを調整したことです。太陽が日々のコースをあまりにも急いで回るため、マウイの母親はちゃんと料理をする暇がありませんでした。マウイは母親の髪の毛を切り取って編み、丈夫な縄を作って太陽を捕まえて、その運行を遅らせました。実は、マウイは他の男根英雄と同じく太陽なのです。太陽が地平線に姿を消す時、マウイの生涯も終わるのです。マウイの母親の髪の房は、実は恥毛であり、それにからめとられるのはマウイ自身なのです。「彼は日の入りの道を通ってラロトンガから去り、また日の出の道を通って帰って来た」と神話は語っています。

   上記のローハイムの記述は、彼が影響を受けたサンドール・フェレンツィの子宮回帰説に多くを負っています。ポール・A・ロビンソンの『フロイト左派』(1972せりか書房・平田武靖訳)によれば、フェレンツィはその主著『タラッサ』(性欲説試論)で、性交とは生誕過程を逆行する試みであり、性行為で男性は自己をペニスと同一化し、そのペニスを文字通り子宮に帰還させる、なぜなら、それが母親との再会をはたしうる唯一の手段だからであると書いています。「けだし文明の逆説とは、人間が幼児性を残さんがため文明に立ちむかう行為にほかならない。、、、文明をめざす人間の努力のいっさいは、その真実の相を探ると子宮に復帰する目的を隠した巧妙な偽装にほかならない」とロビンソンは書いています。

   マウイの神話には続きがあります。マウイは母親の白髪に気づいて尋ねました、「どうすれば、人は永遠に生きつづけられるの?」母親が答えます。「ロリ・マタポポコ(深くくぼんだ目のウミウシ)の胃を手に入れることができたら、おまえは絶対に死なずにすむんだよ」。
   マウイがロリ・マタポポコの胃を手に入れ、それを殆ど食べ尽くしたところに、彼より年長の人間が大きな叫び声を上げたので、彼はまた吐き出してしまいました。永遠の命を望む試みは失敗し、彼は死ぬ運命にあるのですが、死ぬことによって一族に永遠に続く生をもたらすのです。妻が身ごもると、マウイは娘たちに「永遠に」生きられるようにと願いをこめて、長女にはロリ=イ=タウ(濡れた男根)、次女にはテ・ヴァリネ・フイ=ロリ(男根をつかむ女)と名付けました。マウイの生涯とその運命は、いわゆる文化英雄というものが、人々の不安状況(この場合は死すべき運命)とそれを乗り越える手段を象徴的に示しているとローハイムは書いています。

   
    さすがにちょっと疲れてきたので、最後に最も有名な民話「ホレおばさん」について簡単にその大筋だけ紹介しましょう。この話はペローにもグリムにも出てきます。

     ある未亡人に二人の娘がいました。一人は美しくて働き者、もう一人は醜くて怠け者でした。母親は働き者の娘を嫌い、怠け者の娘をかわいがっていました。働き者の娘は来る日も来る日も指先から血が出るまで井戸端で糸を紡がされました。糸巻きが血だらけになったので、娘が井戸で洗おうとすると、糸巻きは井戸の中に落ちてしまいました。未亡人は彼女に井戸に飛び込んで拾ってこいと言いつけました。娘は言われた通り飛び込みましたが気を失って倒れてしまいました。目を覚ますと、そこは美しい草原で、花々と陽の光で輝いていました。ふと気がつくと、パンが詰まったパン焼きがまがあって、「ここから出しておくれよ。でないと焦げちゃうよ」と叫んでいます。そこで娘はパンを一つ残らず引っ張り出してやりました。次に一本の木が言いました。「どうか、ゆすぶっておくれ。リンゴの実はどれもみんな熟しているんだよ」。娘は言われたとおりにしてやりました。しまいに娘は一軒の小さな家にたどり着きました。そこにはホレおばさんという小柄なおばさんがいて、「あんたがちゃんと働いて言いつけを守るなら、何もかもうまくいくよ。とくに毎朝寝床を整えて羽根布団をよくふるってくれればね。そうすると羽根が飛びちって大地に雪が降るんだよ」。
   娘はしばらくホレおばさんに仕えていましたが、だんだんさびしくなってきて、家に帰りたくなりました。ホレおばさんは娘を上の世界に連れて帰ってくれました。二人が大きな門の前に着き、娘が門の下に立つと、金貨の雨が全身に降り注ぎました。「これはご褒美だよ。あんたはとてもよく働いてくれたからね」とホレおばさんは言って、娘に糸巻きを返してくれました。娘がお礼を言おうと口を開くとバラと真珠が口から溢れ出てきました。意地悪な母親はそれを見て、怠け者の娘にもっとたくさんの金貨をもらってくるように言って井戸の中に降ろしました。しかし、怠け者の娘はパン焼きがまとリンゴの木の頼みをはねつけ、ホレおばさんの言いつけも聞きません。そして、門から出た途端に煤を浴びせられ、口を開くとヘビとヒキガエルが飛び出してきました。

   ローハイムは、この 民話の分析のために次のようなヒントを与えています。糸巻きは明らかにペニスの象徴で、井戸に落ちて気を失うことは眠りに落ちることを、パンのいっぱい詰まったパンがまとリンゴの木は多産の母親を、二人の娘がくぐる夢の門はそれぞれ膣からの出産と直腸からの排出を意味する、と。

    『夢の門』とは、ローハイムの死後に出版された最後の本の書名であり、彼の主著ですが、その序文の冒頭に彼はこんなことを書いています。
   「先日、私は古くからの友人の家に招かれた。彼は若い同僚と話し込んでいて、真剣に質問していた。「精神分析学的人類学なんてものが本当にあるのかね?」若い同僚はニヤニヤ笑うと、私の方を見た。私は心の中でつぶやいたーこれまでの人生は無駄だったのだろうか、と。べつに本心からそう思ったわけではなかったが。」
   編者のアラン・ダンデスの記述によると、ゲザ・ローハイム(1891〜1953)は、ハンガリーのブタペストの裕福な商人の家に生まれました。ブタペスト中に名の知られた名家で、彼はその一粒種として、両親に溺愛された過保護な少年として育ちました。大好きな祖父の影響で 幼い頃から民俗学に強い関心を持ち 、それに気づいた両親は、彼が10歳のとき、ブタペストの老舗の書店から書籍を付けで自由に購入する許可を与えました。ローハイムを知る古参の店員は、彼が読みそうな神話や民俗学誌学の本をあれこれ苦労して探し出してくれました。「民族学者の個人的な収集としては最大級のもの」と賞賛された彼の膨大な蔵書収集はこのようにして始まったのです。

     ハンガリー民族学会で初の講演をしたのは彼が17歳の時でした。彼は、とくに、タイラーの『原始文化』、フレーザーの『金枝篇』、フロイトの『トーテムとタブー』に影響を受けました。とりわけ、フロイトは彼に神秘の扉を開く鍵を与えてくれました。精神分析を人類学に適用する試みはローハイムの他にもあったのですが、それらは人類学者の収集したデータを 頼みにするだけでした。しかも、精神分析を非西洋文化に適用することへの批判はその頃から強かったのです。ローハイムは、彼が身を捧げることを決意した精神分析学が普遍的に適用できるものであることを証明するために自らフィールドワークに出かけることを決意します。これには、個体心理を集団に適用することを決して 認めないデュルケーム学派や、文化所産はそれを産み出す特定文化の全体の文脈の中でしか理解できないとするマリノフスキーの徹底した文化相対主義に対する反発もあったのです。このフィールドワークは、波乱のほとんどないローハイムの生涯の特筆すべき出来事となりました。彼は、ギリシャ大公妃でフロイトの弟子の一人マリー=ボナパルトの後援を得て、アフリカ、アメリカ、オーストラリアへの三年に及ぶ調査旅行に出発します。記録や写真撮影などを務めたのは最愛の妻イロンカで、二人は二ヶ月で現地の言葉に習熟し、その後も夫婦で人に聞かれたくない話をするときは、アランダ語やピッチェンタラ語を使っていたということです。

     人類学に精神分析学的アプローチを適用することで生じるあらゆる不利益や困難に立ち向かった彼は、その膨大で偉大な仕事に見合う十分な賞賛を受けることはありませんでした。精神分析学からも人類学からもどちらからも孤立に追い込まれ、死んだ時には学会専門誌に訃報すら載りませんでした。ポール・A・ロビンソンの本からローハイムの『文化の起源と機能』を引用しましょう。
   「社会生活においては、悪しき父のイメージは集団外部のいっさいに投影される。民族的憎悪は、妨害者たる父に対する子どもの憎悪の成人期に入ってからの代用品にすぎない。戦争と国際関係は、なによりもまずエディプス情況に基礎を置いている。父は幼児の生活における最初の異邦人であり、異邦人はいつの場合も父である。こうして戦争は社会もそうであったように人間の永遠なる幼児性の所産とされる。愛する時もそうであったように、人間がたたかうのは、分離の避けがたい重荷に耐えきれないからである。」
   (北朝鮮の指導者は代々の男根英雄であり、ミサイルへの執着心はそれがペニスの象徴であるからに他なりません。)

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2017年6月18日 (日)

アントワーヌ・コンパニョン『アンチモダン 反近代の精神史』(前編)

プルーストの母親は、1889年9月に、つまりフランス革命から百年に当たる年に、プルーストに宛てて、「お前は18世紀を馬鹿にしているように思えるよ」と書いています。この言葉は、この母親が、ユダヤ人解放はフランス革命の成果だと考えていたアドルフ・クレミュー(1796-1880フランス系ユダ人の弁護士・政治家)の甥娘であったことを考えると深い意味を持っています。『失われた時を求めて』の中でフランス革命は誇張あるいは皮肉をもって描かれているにすぎないが、とアントワーヌ・コンパニョンは書いています。「『失われた時を求めて』がしばしば一つの百科事典を思わせ、そこには世界のすべてが描かれているにしても、18世紀は不在であることによって作品の中で輝いているのである」と。

 

フランス17世紀は「聖人の世紀」、19世紀は「歴史の世紀」と呼ばれるのに対して、18世紀は「理性の世紀」あるいは「啓蒙の世紀」と呼ばれることが多いようです。啓蒙(lumières)とは光のことで、18世紀がまた「光明の世紀」と呼ばれるのもそのためです。旧制度(アンシャン・レジーム)への反抗、人間理性への信頼、進歩についての楽観的合理主義、自然への回帰などによって、「暗い」時代に光を刺し込ませるというのが啓蒙の思想の根幹です。プルーストが、これらについて政治的言及をすることはないのですが、登場人物の皮肉な言動が、18世紀啓蒙への彼の特異な身振りを思わせ、彼を典型的なアンチモダンの一人としているのです。

ところで、アンチモダンとはいかなる人たちを指すのでしょうか。「アンチモダンとは、何よりも近代の潮流に巻き込まれ、そしてこの潮流に嫌悪を覚える作家たちのことである」と、コンパニョンは書いています。啓蒙が猛威を振るったフランスで、人間理性の弱さを指摘し、人間の浅知恵で作り出した制度の脆さを示し、人間社会の進歩を信じた楽観主義者に警鐘を鳴らした一群の魅力的な人々こそアンチモダンそのものなのです。

 

アンチモダンとは、また亡命者(シャトーブリアンやド・メーストルのように)のことであり、その後帰国しても亡命者であり続ける人たちのことです。現実的にせよ精神的にせよ、時代から身を引く態度を露わにし、国民感情に一体化することをためらう「内面の亡命者」と言ったらよいでしょうか。そして、これ故に、彼らは私たちにとって足を止め、目を止めるに値する人びとなのです。「ニーチェが言うように、時宜を得ず、時流にそぐわないからこそ、彼らアンチモダンは現代性(モデルニテ)の真の創始者であり、その最も卓越した代表者であったのではないだろうか?」とコンパニョンは書いています。

 

また、彼らは、以前の記事(『ふさがれた道』)の登場人物のようにフランス最難関の高等師範出(ベルグソン、デュルケーム、フェーヴル、ブロック、サルトル、メルロ=ポンティら)のスーパーエリートではありません。『アンチモダン』の登場人物のうち高等師範出はロジェ・カイヨワだけで、しかも彼はバタイユの付録のようなものです。アンチモダンの主役たちは、みな独学で、雑学を好み、旅行記や人類学に詳しく、その時代の収集家であり、浮世の野暮用に時間を取られ、人生を嘗め尽くした人びとでした。

 

アントワーヌ・コンパニョン『アンチモダンー反近代の精神史』(2012・名古屋大学出版会・松澤和宏訳)は、フランス革命によって露わになった反啓蒙のすべての様態を取りあげ、それらを6つのファクターに分けて詳述します。政治的には反革命、哲学的には反啓蒙、精神としては悲観主義、宗教としては原罪への執着、美学としては崇高、言葉としては罵詈雑言の六つです。順番に紹介していきましょう。

 

(1) 反革命
アンチモダンの政治的態度は、その言葉そのままに「反革命」です。しかし、これは絶対王政への復帰を願うのではなく、絶対王政が骨抜きにした伝統的な封建貴族を中心とした社会へのノスタルジーに裏打ちされているのです。前世代の啓蒙を代表するフェヌロン、サン=シモン、モンテスキューなどの目的とするところは貴族的自由主義の擁護でした。彼らの敵は王制の増大する絶対権力であり、その目指すところは中間集団によって抑制された緩やかな君主制だったのです。
「人民国家と独裁国家のあいだで、彼らが擁護したのは穏健な王制だった」と、トクヴィルは『旧体制と大革命』で書いています。「封建時代のフランスの貴族階級ほど、言論と行動において矜恃(きょうじ)と独立心を持ったものはなかった。民主的な自由の精神が最も積極的に、あえて言えば粗暴に発揮されたのは、中世期のフランスの自治都市と、17世紀初頭まで様々な時期に召集された全国三部会においてである」。この文章はバークを思い出させます。エドマンド・バークは、フランスの貴族にみられる習慣的な放縦(それも礼儀で覆われていたのですが)を非難しつつも、フランスの貴族こそ勇気と親切と繊細な名誉心とを持った人たちであり、どんな階層にもおとらず自由の精神を呼吸し、改革を押し進めて行ったのだ、と書いています。残念なことに、フランスでは、この自由主義が強力な基盤を持つに至らず、貴族の弱体化とも関連して、英国のような穏やかな立憲君主国にする機会を逸してしまいました。

 

一方、18世紀フランスが好んで打ち立てようとしたのは、自由よりも平等であり、それはルソーの中心主題ともフランスの人民の心性にも合致していました。ナポレオンについての文章でシャトーブリアンはこう書いています。「フランス人は本能的に権力に擦り寄っていく。彼らは自由を少しも愛していない。平等だけが彼らの崇拝の対象である。ところで、平等と専制政治の間には密かな結びつきがある。この二つの関係の下で、ナポレオンはその権力の源をフランス人の心の中に持っていたのだ」と。シャトーブリアンは、ルソーにかぶれた青年時代からキリスト教と名誉と王政に捧げた生涯のゆえに、アンチモダンとしてはアクセントが弱いが、上記の言葉は永遠の真実のように私には思えます。

 

このフランス的な平等への希求は、つまるところ、普通選挙の実施に極まります。1848年に制限のない(男子のみの)普通選挙が臨時政府によって行われたとき、啓蒙そのものに不信感を持つ知識人が示した反応は強烈なものでした。ルナンは「まことに1848年の人々の軽率さは類を見ない。フランスが望んでもいないのに、彼らはフランスに普通選挙を与えたのだ」と1871年に書いています。 フローベールは1852年に「普通選挙の無謬性が、教皇の無謬性の後に続く教義になろうとしている。すでに腕力、数の力、群衆への敬意が、名誉の権威、神権、霊の優位の後を継いだ」と訴えました。ゴンクール兄弟の『日記』には、普通選挙への抗議と知性の貴族性への要求で溢れています。「普通選挙は数の神権であり、知性の諸権利を著しく縮減するものである」。大衆の非合理な妄動については、すでに群衆心理学のギュスターヴ・ボン以前に、ボードレールやヴィリエ・ド・リラダンの作品の中で嘲弄されていました。「民衆の声は神の声」という諺は、フローベールの『紋切型辞典』のエピグラフでもあります。 ジョルジュ・サンドは1970年の秋に、「普通選挙に対する深い蔑み、一種の苦痛に似た憎しみ、抗議の声が高まっていくのが見られる」と指摘しています。フローベールは、サンドへの手紙の中で、普通選挙を「人間精神の恥」と呼び、「今や我々の救いは、正統なる貴族性の内にしか存在しません。」と言い切っています。

 

民主主義と普通選挙について最も冷静に、しかし、力強く語ったのはルナンでした。 「フランスは平等主義的な物質主義の犠牲者であり、普通選挙ではこのような状態から脱するのは不可能である」とルナンは書きました。なぜなら、普通選挙が正統性を持ちうるのは、すべての者が知性の分配に与ったときに限られるだろうからです。そうでない現在では、大衆の無教養は、すぐれた人物を選び出すどころか、卓越した人物への露骨な敵意となり、すべてを悪しき平準に引きずり下ろす基になるに過ぎないでしょう。ルナンの希望するところは、貴族制あるいは君主制なのですが、しかし、むろん、民主主義に行き着く時代の波は如何ともし難く、ここに、「アンチモダンは民主主義という十字架を背負っている」という言葉の深い意味があるのです。ルナンは、その解決を教育に求めます。普通選挙を廃止することは現実的でなかったので、政治体制よりもむしろ社会におけるエリートの役割やその選び方を見直そうとしました。というのも、ただ教育だけが普通選挙の欠点を恒久的に糾すことができるからです。高等教育の発達は、知性の貴族性の出現や、精神的寡頭政治を生み出すに違いないとルナンは考えました。

 

普通選挙は、大革命が考え出した人民主権を制度化した形態なのですが、すでに1833年にバルザックは『田舎医者』で、この普通選挙、並びに民主主義の弊害について書いています。普通選挙は確かにローマ教会内部では素晴らしい制度だった。というのも、そこでは各自が学識があり、宗教的感情でもって己を律し、同じ原理を体得していて、自分がしたいことや目指すことが何かをよく弁えていたからだ。ところが、哲学的思弁から生まれたフランスの民主主義は、人間に備わった堕落への傾向を押し留めることができず、自由主義者自身の破滅をも招くだろう、と。このアンチモダンの言説ゆえに、ブールジェとプルーストにとって、『田舎医者』は「人間喜劇」全編の中で最も愛すべき作品となりました。

 

「ブールジェによれば、バルザックは、大革命から第三共和制までの19世紀に起こったあらゆる災禍の預言者であった。この災禍とは、民主制、議会主義、階級闘争、普通選挙、物質主義、アナーキズムといった1789年のすべての遺産のことであり、バルザックはそれらの腐敗をすばやく見通していたのである。」とコンパニョンは書いています。人類愛や正義を謳ったヴィクトル・ユゴーと何と違っていることでしょう。プルーストやボードレールは、むろん、ユゴーよりバルザックを好みました。バルザックはフランスを救うには、カトリックと王制しかないだろうと言っていますが、共和制の時代のプルーストは「たとえ絶対君主制と教権主義がフランスの唯一の手段でないとしても、そのために『田舎医者』が価値を減じるでしょうか?」と書いています。民主主義も普通選挙も反対することはできないが、それでもマラルメやサルトルと同様、プルーストが投票に出かけたということはありえない、とコンパニョンは付け足しています。プルースト同様、選挙に嫌悪感を持っていたクローデルはその『日記』に、こう書きつけています。「選挙のたびに、フランス人の愚かさと底意地の悪さを一望することができる。国の命運を四年ごとに、民衆にではなく、群衆に委ねるこの行政システム以上に愚かなシステムを思い浮かべることができようか。四年ごとにフランスはその代表者を、アルコール中毒者の強硬症(カタレプシー)の発作の中で指名するのだ」。

 

普通選挙も民主主義も国と時代によって様々な形を取りうるのですが、フランスは今に至るも頑迷な合理主義をとって、啓蒙の理想を標榜するEUの旗振り役を演じているのには驚きます。一方、伝統を重んじる常識の国である英国は市民革命の荒波を何とか乗り切って、17世紀末に議会政治を確立できました。また、神のもとでの自由と平等を謳い、フランスの人権宣言と比較される独立宣言を打ち建てたアメリカは、しかし、ザ・フェデラリスト・ペーパーズに見られるごとく根本には人間とその制度への不信があります。どんな人間も自分の利益のために道を誤りうるという懐疑の精神は、モンテスキューの周到な理論の実現といっても良いでしょう。翻って、日本を見ると、民主主義はテレビに映る政治家の醜悪な顔に凝縮されているようです。民主主義も普通選挙もどこ吹く風、その精神などどこかに売っちゃらって、明治以来の権力者意識そのまま、その圧縮し、無限に再生産される図式は、地方のもっとも小さな選挙を観察すれば明らかでしょう。
(2) 反啓蒙思想。
フランスの18世紀とは啓蒙の別名のことなのですが、この啓蒙精神に一貫して説得力ある反論を展開したのは英国人のエドマンド・バークでした。1729年にアイルランドで生まれたバークはフランス革命の時にちょうど60歳でした。彼は『人間の権利』の著者トマス・ペインと同様ホイッグ党の論客であり、アメリカ独立軍の良き理解者でした。しかし、1789年に起こったフランス革命の騒乱で、ベルサイユの王族がパリに強制送還させられた時に、彼は激しい怒りに満たされました。実は、バークは1773年のフランス旅行の際に、ベルサイユを訪れ、「暁の星のような、生気と幸福に満ちた」17歳のマリー=アントアネットに出会った思い出を生涯忘れていなかったのです。バークは、英国でフランス革命を名誉革命と同様、自由を求めるフランス人の正当な革命と歓迎する風潮が沸き起こるや、直ちにそれに反論しようと1790年『フランス革命の省察』を発表します。

 

以下に、J. ゴデショ『反革命・理論と行動1789ー1804』(1986みすず書房・平山栄一訳)も参考にしながら、バークの思想を要約してみましょう。
『フランス革命の省察』は二つの目的をもって書かれました。一つは、フランスの諸制度とフランスの諸事件の批判。二つ目は、1789年のフランス革命と1688年のイギリス革命を比較しようと努める連中を論破することです。
まず、大革命を準備した連中は(みな知識人だったので)、ゼロから出発し、一人一人が持っている理性に基づいて行動できるものと思いこんでいた。そして、矮小化され、大衆化されたルソー主義によって、社会というものをタブラ・ラサ、つまりその上に何でも書きこめる白紙委任状とみなしたのだった。しかし、バークによれば、白紙の上に、すなわち合理性の上に、建設された諸制度は恒久性を持たない。大革命は、抽象的で無意味な表現に過ぎない人民主権、一般意思、平等、自由の名において、人間の歴史の根幹である経験や歴史や習俗といったものを無視したのである、と。

 

「立派な愛国者や真の政治家ならば、いかにすれば自らの国に現存する素材で最善の結果が得られるか常に考えるものです。保存しようとする気質と改善する能力とを合わせたものが私にとって真の政治家の基準です。それ以外のすべては考えるだに低俗であり、実行されれば危険です」とバークは書いています。「無神論者は我々の説教師ではありませんし、気狂いが我々の立法者でもありません。我々は自分たちが何も発見していないことを知っています。また道徳に関して新発見などありえないと思っています。統治の大原則の多くや自由の観念についても同様です。そうした原則や観念は、我々が生まれるはるか以前に理解されていましたし、我々の高慢は墓土で覆われ、物言わぬ墓所の掟が我々の生意気な冗舌を封じた後も、何時に変わらず同じであり続けるでしょう。」

 

バークのもっとも精鋭な論理は「自然」の観念についてです。ルソーにとって(そしてロックにとっても)すべての時代、すべての場所において、人間性に内在するものが自然物でした。これに反し、バークにとっては、長い歴史的発展、長い習慣の結果であるものが自然的なものなのです。バークにとっての自然は、明白に特殊なもので、普遍的に適用されないものであって、それは合理主義哲学者の自然概念とは正反対の自然の概念です。バークは、事物はそれ自身で放置されれば、一般に、「自然の秩序」ordre nature を見出すものと考え、その結果、すべての過去からの継承物は、自然によって望まれたのであるから、測り知れない価値を持つ、と書いています。

 

よって、バークによれば、「平等」は自然に反します。というのは、歴史的発展は平等を出現させなかったからで、人民主権を標榜する社会主義もむろん例外ではなく、むしろ、平等を建前とする社会はその欺瞞性の故により甚だしい不平等を生むのです。形式的に王政をとる国家が意外と安定した社会を作ってしまうのも、種々の階級で構成されている社会は、必然的に、支配する一つのものを持つのが自然だからです。

 

また合理主義者が否定しようとする先入観 préjugés もバークにとっては歴史の結果であるという理由で、大きな価値があり、先入観に固執するのは人間にとって本能なのです。フランス流のフィロゾフにとって、理性は、伝統を少しも考慮しないで、演繹によって構成されたものですが、バークにとっては、理性は先入観の総体なのです。「先入観は隠された理性の衣装である」「先入観は精神が知恵と徳の道を変わらずにたどるように決定する」と彼は書いています。

 

以上のバークの根本思想から、彼が名誉革命とフランス革命を峻別する理由も明らかでしょう。バークは1688年の革命は、王位の世襲制、貴族の世襲制を回復し、下院の古い規則を再建して、過去の継承物を是認しただけである、と書いています。「名誉革命がアンチモダンでありえるのは、それが古来のものの中に最上のものを見出した点においてである」とコンパニョンも書いています。これに反して、フランスの革命家たちは、「過去を一掃する」と宣言して、歴史の先例や宗教の教訓を無視して、唯一理性のみに基づいて既存の制度や基本法を破壊し、諸世紀の成果を一気にひっくり返そうとしたのです。
長くなりましたので、後編に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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