2017年6月18日 (日)

アントワーヌ・コンパニョン『アンチモダン 反近代の精神史』(前編)


プルーストの母親は、1889年9月に、つまりフランス革命から百年に当たる年に、プルーストに宛てて、「お前は18世紀を馬鹿にしているように思えるよ」と書いています。この言葉は、この母親が、ユダヤ人解放はフランス革命の成果だと考えていたアドルフ・クレミュー(1796-1880フランス系ユダ人の弁護士・政治家)の甥娘であったことを考えると深い意味を持っています。『失われた時を求めて』の中でフランス革命は誇張あるいは皮肉をもって描かれているにすぎないが、とアントワーヌ・コンパニョンは書いています。「『失われた時を求めて』がしばしば一つの百科事典を思わせ、そこには世界のすべてが描かれているにしても、18世紀は不在であることによって作品の中で輝いているのである」と。

フランス17世紀は「聖人の世紀」、19世紀は「歴史の世紀」と呼ばれるのに対して、18世紀は「理性の世紀」あるいは「啓蒙の世紀」と呼ばれることが多いようです。啓蒙(lumières)とは光のことで、18世紀がまた「光明の世紀」と呼ばれるのもそのためです。旧制度(アンシャン・レジーム)への反抗、人間理性への信頼、進歩についての楽観的合理主義、自然への回帰などによって、「暗い」時代に光を刺し込ませるというのが啓蒙の思想の根幹です。プルーストが、これらについて政治的言及をすることはないのですが、登場人物の皮肉な言動が、18世紀啓蒙への彼の特異な身振りを思わせ、彼を典型的なアンチモダンの一人としているのです。

ところで、アンチモダンとはいかなる人たちを指すのでしょうか。「アンチモダンとは、何よりも近代の潮流に巻き込まれ、そしてこの潮流に嫌悪を覚える作家たちのことである」と、コンパニョンは書いています。啓蒙が猛威を振るったフランスで、人間理性の弱さを指摘し、人間の浅知恵で作り出した制度の脆さを示し、人間社会の進歩を信じた楽観主義者に警鐘を鳴らした一群の魅力的な人々こそアンチモダンそのものなのです。

アンチモダンとは、また亡命者(シャトーブリアンやド・メーストルのように)のことであり、その後帰国しても亡命者であり続ける人たちのことです。現実的にせよ精神的にせよ、時代から身を引く態度を露わにし、国民感情に一体化することをためらう「内面の亡命者」と言ったらよいでしょうか。そして、これ故に、彼らは私たちにとって足を止め、目を止めるに値する人びとなのです。「ニーチェが言うように、時宜を得ず、時流にそぐわないからこそ、彼らアンチモダンは現代性(モデルニテ)の真の創始者であり、その最も卓越した代表者であったのではないだろうか?」とコンパニョンは書いています。

また、彼らは、以前の記事(『ふさがれた道』)の登場人物のようにフランス最難関の高等師範出(ベルグソン、デュルケーム、フェーヴル、ブロック、サルトル、メルロ=ポンティら)のスーパーエリートではありません。『アンチモダン』の登場人物のうち高等師範出はロジェ・カイヨワだけで、しかも彼はバタイユの付録のようなものです。アンチモダンの主役たちは、みな独学で、雑学を好み、旅行記や人類学に詳しく、その時代の収集家であり、浮世の野暮用に時間を取られ、人生を嘗め尽くした人びとでした。

アントワーヌ・コンパニョン『アンチモダンー反近代の精神史』(2012・名古屋大学出版会・松澤和宏訳)は、フランス革命によって露わになった反啓蒙のすべての様態を取りあげ、それらを6つのファクターに分けて詳述します。政治的には反革命、哲学的には反啓蒙、精神としては悲観主義、宗教としては原罪への執着、美学としては崇高、言葉としては罵詈雑言の六つです。順番に紹介していきましょう。

(1) 反革命
アンチモダンの政治的態度は、その言葉そのままに「反革命」です。しかし、これは絶対王政への復帰を願うのではなく、絶対王政が骨抜きにした伝統的な封建貴族を中心とした社会へのノスタルジーに裏打ちされているのです。前世代の啓蒙を代表するフェヌロン、サン=シモン、モンテスキューなどの目的とするところは貴族的自由主義の擁護でした。彼らの敵は王制の増大する絶対権力であり、その目指すところは中間集団によって抑制された緩やかな君主制だったのです。
「人民国家と独裁国家のあいだで、彼らが擁護したのは穏健な王制だった」と、トクヴィルは『旧体制と大革命』で書いています。「封建時代のフランスの貴族階級ほど、言論と行動において矜恃(きょうじ)と独立心を持ったものはなかった。民主的な自由の精神が最も積極的に、あえて言えば粗暴に発揮されたのは、中世期のフランスの自治都市と、17世紀初頭まで様々な時期に召集された全国三部会においてである」。この文章はバークを思い出させます。エドマンド・バークは、フランスの貴族にみられる習慣的な放縦(それも礼儀で覆われていたのですが)を非難しつつも、フランスの貴族こそ勇気と親切と繊細な名誉心とを持った人たちであり、どんな階層にもおとらず自由の精神を呼吸し、改革を押し進めて行ったのだ、と書いています。残念なことに、フランスでは、この自由主義が強力な基盤を持つに至らず、貴族の弱体化とも関連して、英国のような穏やかな立憲君主国にする機会を逸してしまいました。

一方、18世紀フランスが好んで打ち立てようとしたのは、自由よりも平等であり、それはルソーの中心主題ともフランスの人民の心性にも合致していました。ナポレオンについての文章でシャトーブリアンはこう書いています。「フランス人は本能的に権力に擦り寄っていく。彼らは自由を少しも愛していない。平等だけが彼らの崇拝の対象である。ところで、平等と専制政治の間には密かな結びつきがある。この二つの関係の下で、ナポレオンはその権力の源をフランス人の心の中に持っていたのだ」と。シャトーブリアンは、ルソーにかぶれた青年時代からキリスト教と名誉と王政に捧げた生涯のゆえに、アンチモダンとしてはアクセントが弱いが、上記の言葉は永遠の真実のように私には思えます。

このフランス的な平等への希求は、つまるところ、普通選挙の実施に極まります。1848年に制限のない(男子のみの)普通選挙が臨時政府によって行われたとき、啓蒙そのものに不信感を持つ知識人が示した反応は強烈なものでした。ルナンは「まことに1848年の人々の軽率さは類を見ない。フランスが望んでもいないのに、彼らはフランスに普通選挙を与えたのだ」と1871年に書いています。 フローベールは1852年に「普通選挙の無謬性が、教皇の無謬性の後に続く教義になろうとしている。すでに腕力、数の力、群衆への敬意が、名誉の権威、神権、霊の優位の後を継いだ」と訴えました。ゴンクール兄弟の『日記』には、普通選挙への抗議と知性の貴族性への要求で溢れています。「普通選挙は数の神権であり、知性の諸権利を著しく縮減するものである」。大衆の非合理な妄動については、すでに群衆心理学のギュスターヴ・ボン以前に、ボードレールやヴィリエ・ド・リラダンの作品の中で嘲弄されていました。「民衆の声は神の声」という諺は、フローベールの『紋切型辞典』のエピグラフでもあります。 ジョルジュ・サンドは1970年の秋に、「普通選挙に対する深い蔑み、一種の苦痛に似た憎しみ、抗議の声が高まっていくのが見られる」と指摘しています。フローベールは、サンドへの手紙の中で、普通選挙を「人間精神の恥」と呼び、「今や我々の救いは、正統なる貴族性の内にしか存在しません。」と言い切っています。

民主主義と普通選挙について最も冷静に、しかし、力強く語ったのはルナンでした。 「フランスは平等主義的な物質主義の犠牲者であり、普通選挙ではこのような状態から脱するのは不可能である」とルナンは書きました。なぜなら、普通選挙が正統性を持ちうるのは、すべての者が知性の分配に与ったときに限られるだろうからです。そうでない現在では、大衆の無教養は、すぐれた人物を選び出すどころか、卓越した人物への露骨な敵意となり、すべてを悪しき平準に引きずり下ろす基になるに過ぎないでしょう。ルナンの希望するところは、貴族制あるいは君主制なのですが、しかし、むろん、民主主義に行き着く時代の波は如何ともし難く、ここに、「アンチモダンは民主主義という十字架を背負っている」という言葉の深い意味があるのです。ルナンは、その解決を教育に求めます。普通選挙を廃止することは現実的でなかったので、政治体制よりもむしろ社会におけるエリートの役割やその選び方を見直そうとしました。というのも、ただ教育だけが普通選挙の欠点を恒久的に糾すことができるからです。高等教育の発達は、知性の貴族性の出現や、精神的寡頭政治を生み出すに違いないとルナンは考えました。

普通選挙は、大革命が考え出した人民主権を制度化した形態なのですが、すでに1833年にバルザックは『田舎医者』で、この普通選挙、並びに民主主義の弊害について書いています。普通選挙は確かにローマ教会内部では素晴らしい制度だった。というのも、そこでは各自が学識があり、宗教的感情でもって己を律し、同じ原理を体得していて、自分がしたいことや目指すことが何かをよく弁えていたからだ。ところが、哲学的思弁から生まれたフランスの民主主義は、人間に備わった堕落への傾向を押し留めることができず、自由主義者自身の破滅をも招くだろう、と。このアンチモダンの言説ゆえに、ブールジェとプルーストにとって、『田舎医者』は「人間喜劇」全編の中で最も愛すべき作品となりました。

「ブールジェによれば、バルザックは、大革命から第三共和制までの19世紀に起こったあらゆる災禍の預言者であった。この災禍とは、民主制、議会主義、階級闘争、普通選挙、物質主義、アナーキズムといった1789年のすべての遺産のことであり、バルザックはそれらの腐敗をすばやく見通していたのである。」とコンパニョンは書いています。人類愛や正義を謳ったヴィクトル・ユゴーと何と違っていることでしょう。プルーストやボードレールは、むろん、ユゴーよりバルザックを好みました。バルザックはフランスを救うには、カトリックと王制しかないだろうと言っていますが、共和制の時代のプルーストは「たとえ絶対君主制と教権主義がフランスの唯一の手段でないとしても、そのために『田舎医者』が価値を減じるでしょうか?」と書いています。民主主義も普通選挙も反対することはできないが、それでもマラルメやサルトルと同様、プルーストが投票に出かけたということはありえない、とコンパニョンは付け足しています。プルースト同様、選挙に嫌悪感を持っていたクローデルはその『日記』に、こう書きつけています。「選挙のたびに、フランス人の愚かさと底意地の悪さを一望することができる。国の命運を四年ごとに、民衆にではなく、群衆に委ねるこの行政システム以上に愚かなシステムを思い浮かべることができようか。四年ごとにフランスはその代表者を、アルコール中毒者の強硬症(カタレプシー)の発作の中で指名するのだ」。

普通選挙も民主主義も国と時代によって様々な形を取りうるのですが、フランスは今に至るも頑迷な合理主義をとって、啓蒙の理想を標榜するEUの旗振り役を演じているのには驚きます。一方、伝統を重んじる常識の国である英国は市民革命の荒波を何とか乗り切って、17世紀末に議会政治を確立できました。また、神のもとでの自由と平等を謳い、フランスの人権宣言と比較される独立宣言を打ち建てたアメリカは、しかし、ザ・フェデラリスト・ペーパーズに見られるごとく根本には人間とその制度への不信があります。どんな人間も自分の利益のために道を誤りうるという懐疑の精神は、モンテスキューの周到な理論の実現といっても良いでしょう。翻って、日本を見ると、民主主義はテレビに映る政治家の醜悪な顔に凝縮されているようです。民主主義も普通選挙もどこ吹く風、その精神などどこかに売っちゃらって、明治以来の権力者意識そのまま、その圧縮し、無限に再生産される図式は、地方のもっとも小さな選挙を観察すれば明らかでしょう。
(2) 反啓蒙思想。
フランスの18世紀とは啓蒙の別名のことなのですが、この啓蒙精神に一貫して説得力ある反論を展開したのは英国人のエドマンド・バークでした。1729年にアイルラーンドで生まれたバークはフランス革命の時にちょうど60歳でした。彼は『人間の権利』の著者トマス・ペインと同様ホイッグ党の論客であり、アメリカ独立軍の良き理解者でした。しかし、1789年に起こったフランス革命の騒乱で、ベルサイユの王族がパリに強制送還させられた時に、彼は激しい怒りに満たされました。実は、バークは1773年のフランス旅行の際に、ベルサイユを訪れ、「暁の星のような、生気と幸福に満ちた」17歳のマリー=アントアネットに出会った思い出を生涯忘れていなかったのです。バークは、英国でフランス革命を名誉革命と同様、自由を求めるフランス人の正当な革命と歓迎する風潮が沸き起こるや、直ちにそれに反論しようと1790年『フランス革命の省察』を発表します。

以下に、J. ゴデショ『反革命・理論と行動1789ー1804』(1986みすず書房・平山栄一訳)も参考にしながら、バークの思想を要約してみましょう。
『フランス革命の省察』は二つの目的をもって書かれました。一つは、フランスの諸制度とフランスの諸事件の批判。二つ目は、1789年のフランス革命と1688年のイギリス革命を比較しようと努める連中を論破することです。
まず、大革命を準備した連中は(みな知識人だったので)、ゼロから出発し、一人一人が持っている理性に基づいて行動できるものと思いこんでいた。そして、矮小化され、大衆化されたルソー主義によって、社会というものをタブラ・ラサ、つまりその上に何でも書きこめる白紙委任状とみなしたのだった。しかし、バークによれば、白紙の上に、すなわち合理性の上に、建設された諸制度は恒久性を持たない。大革命は、抽象的で無意味な表現に過ぎない人民主権、一般意思、平等、自由の名において、人間の歴史の根幹である経験や歴史や習俗といったものを無視したのである、と。

「立派な愛国者や真の政治家ならば、いかにすれば自らの国に現存する素材で最善の結果が得られるか常に考えるものです。保存しようとする気質と改善する能力とを合わせたものが私にとって真の政治家の基準です。それ以外のすべては考えるだに低俗であり、実行されれば危険です」とバークは書いています。「無神論者は我々の説教師ではありませんし、気狂いが我々の立法者でもありません。我々は自分たちが何も発見していないことを知っています。また道徳に関して新発見などありえないと思っています。統治の大原則の多くや自由の観念についても同様です。そうした原則や観念は、我々が生まれるはるか以前に理解されていましたし、我々の高慢は墓土で覆われ、物言わぬ墓所の掟が我々の生意気な冗舌を封じた後も、何時に変わらず同じであり続けるでしょう。」

バークのもっとも精鋭な論理は「自然」の観念についてです。ルソーにとって(そしてロックにとっても)すべての時代、すべての場所において、人間性に内在するものが自然物でした。これに反し、バークにとっては、長い歴史的発展、長い習慣の結果であるものが自然的なものなのです。バークにとっての自然は、明白に特殊なもので、普遍的に適用されないものであって、それは合理主義哲学者の自然概念とは正反対の自然の概念です。バークは、事物はそれ自身で放置されれば、一般に、「自然の秩序」ordre nature を見出すものと考え、その結果、すべての過去からの継承物は、自然によって望まれたのであるから、測り知れない価値を持つ、と書いています。

よって、バークによれば、「平等」は自然に反します。というのは、歴史的発展は平等を出現させなかったからで、人民主権を標榜する社会主義もむろん例外ではなく、むしろ、平等を建前とする社会はその欺瞞性の故により甚だしい不平等を生むのです。形式的に王政をとる国家が意外と安定した社会を作ってしまうのも、種々の階級で構成されている社会は、必然的に、支配する一つのものを持つのが自然だからです。

また合理主義者が否定しようとする先入観 préjugés もバークにとっては歴史の結果であるという理由で、大きな価値があり、先入観に固執するのは人間にとって本能なのです。フランス流のフィロゾフにとって、理性は、伝統を少しも考慮しないで、演繹によって構成されたものですが、バークにとっては、理性は先入観の総体なのです。「先入観は隠された理性の衣装である」「先入観は精神が知恵と徳の道を変わらずにたどるように決定する」と彼は書いています。

以上のバークの根本思想から、彼が名誉革命とフランス革命を峻別する理由も明らかでしょう。バークは1688年の革命は、王位の世襲制、貴族の世襲制を回復し、下院の古い規則を再建して、過去の継承物を是認しただけである、と書いています。「名誉革命がアンチモダンでありえるのは、それが古来のものの中に最上のものを見出した点においてである」とコンパニョンも書いています。これに反して、フランスの革命家たちは、「過去を一掃する」と宣言して、歴史の先例や宗教の教訓を無視して、唯一理性のみに基づいて既存の制度や基本法を破壊し、諸世紀の成果を一気にひっくり返そうとしたのです。
長くなりましたので、後編に続きます。



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2017年4月 8日 (土)

ヴェルジーリン『植物とわたしたち』

おかしな夢ですが、なつかしい夢を見ました。岩波少年文庫にびっしり囲まれた部屋に一人で取り残されているのです。その部屋の硬い椅子に腰かけて、美しく装丁された特装本の『ドリトル先生』や『宝島』や『飛ぶ教室』を読んでいるのです。目覚めて気がつくと、その部屋になかった一冊の岩波少年文庫のことがふっと頭の片隅に思い出されました。それはヴェルジーリンの『植物とわたしたち』(1956 八杉竜一・日高敏隆訳)で、さっそく図書館の児童室のパソコンで検索すると、書庫にあるので奥の一般図書のカウンター に行ってくれと言われました。腰の痛みをこらえて、一番奥のレファレンス・カウンターまで行き、図書票を出すと10分ほどで古書の強い匂いを放っている緑色の本が私の前に現れました。この図書館が神社の隣にあった旧館の頃からの白紙の貸し出し票が挟んであり、どうもこの本は60年近く誰からも借りられていないようです。

この本は1954年に、まだスターリンやルイセンコが幅をきかせていた頃のソ連で出版されました。当時のソ連の労働者の献身的な働き、次々と新しい発見をするソ連の科学者たち、国民のために尽力する党の指導者たちのことが多く書かれており、こういう本を翻訳出版したその時代の雰囲気も察せられます。しかし、私はこの本から実に多くのことを教えられ、今に至ってもこれに勝る植物の本はないようい思います。「多くの子供たち、とくに小さい子どもたちの植物に対する態度はどうも公平ではないようだ」と、ヴェルジーリンは書いています。「子供たちは小犬や仔猫、さては棘の生えたハリネズミとでも、いっしょに楽しく遊びまわる。けれども植物には、たいてい目もくれない。」こんな子どもたちは植物の教科書や植物の本を、ちっともよろこばない。維管束や単子葉や細胞の分裂の他に、それらの本にはおもしろいことが何か書いてあるのでしょうか。人間にとって太陽の次に大切な(というのも、太陽のエネルギーを十全に取り入れて、それを人間に与えてくれるのは植物だけだからです)植物が、こんなふうに子どもたちに思われているのは本当に残念です。

前置きはともかく、さっそく、本のページを開いてみましょう。何と最初はキャベツについて書かれています。古代エジプトから食後の甘い煮物として食べられていたキャベツは、ギリシャでは「つねに元気と明るい落ちついた気分を保つ野菜」(ピタゴラス)であり、ローマ人はその薬効、すなわち不眠症、中毒、酒の酔い、頭痛、胃病、難聴などほとんどあらゆる病気に効く薬としてキャベツをたくさん食べていました。ローマの政治家カトーは「キャベツ、それはもっともすばらしい野菜で、生でも煮てもよく、生の場合は酢にひたすと消化によい」と書いています。キャベツは塩をふって保存するとビタミンCが逃げないので、冬の大切な栄養源にもなります。しかし、キャベツを栽培したことのある人はわかるでしょうが、お店で売られているような立派なキャベツを庭で作るのは至難の技です。『若きウェルテルの悩み』の中で、ゲーテはこう書いています。
「庭番は机の上に花キャベツの玉をおいた。『何だ、それだけか』ときみは思うだろう。そうじゃないんだ。暁の光、すがすがしい朝つゆ、真夏の暑い日に苦労したこと、水をやりにいった静かな夕暮、その伸び具合や花にうっとりと見とれていたことーこれらすべてが、今何もかもいっしょになって、その机の上にのっているのだ。」

キャベツの次にはジャガイモ、ニンジン、カボチャ、トマト、さらに小麦と米などが紹介されています。スイカやサクランボ、リンゴ、そしてワインの原料となるブドウも興味深い。それらを全部飛ばしてコーヒー のところを読んでみましょう。お茶やコーヒーが珍重されたのは、それがヨーロッパの乾燥した冷たい気候ではうまく栽培できなかったためです。コーヒーはアフリカ東部南アビシニアにそのルーツを持っています。コーヒーの若木は直射日光をきらい、種子は日陰に落ちて芽を出すが、すぐに生きる力を失ってしまいます。そのため、原産地以外では栽培できなかったのですが、アラビア人たちが、ついに栽培に成功しました。そのコーヒー豆はその出港地の港の名前をとってモカと呼ばれました。モカは今でも最も上質のコーヒー豆のひとつです。

コーヒーを飲むことは1454年にトルコのコンスタンチノープルに、さらに1642年にはイタリアに広まりました。ロンドンで最初のコーヒー店「ヴァーゴニア・コーヒー店」が開店したのは1652年でした。パリでは1672年にコーヒー店が出来て、50年後にはもう380軒にもなっていました。ルソーやヴォルテールもパリのコーヒー店で作品を書いていたのです。

ヨーロッパではコーヒーの流行について言い争いも起こりました。宗教家の中には「トルコ人の黒い血」を飲むのを禁じるよう国に嘆願する者も現れました。しかし、この新しい飲み物を弁護する者も現れ、それはとくに医者に多かったのです。生理学者のモレショットは「コーヒーは感受性と注意力を鋭くさせる。さらに判断力を発達させ、活動力を鼓舞する。そして創作力を呼び起こす。新しい考えが次から次へと浮かんで来、眠気などはもちろん追い払われてしまう」と書いています。カフェイン中毒といわれるバルザックは毎晩深夜一時に起きて、朝までコーヒーを50杯以上飲みながら執筆していたそうです。スタンダールのコーヒー好きは有名です。『恋愛論』で彼はこう書いています。
「羽ペンを剪る道具が発明された。私は今朝それを買ったがうれしくてたまらず、早く使ってみたくて仕方がない。しかし、それを知らなかったといって私は不幸だったろうか。コーヒーを飲まなかったといってペトラルカは不幸だったろうか。」

コーヒーの人気が高まると、ヨーロッパ諸国の政府は自分たちの植民地でコーヒーを栽培したいと考えるようになりました。1690年、ジャワのバタヴィアからアムステルダム植物園に数本のコーヒーの苗木が送られてきました。アムステルダム市長は、このうち一本を珍品としてルイ十四世に献上しました。ルイ十四世はそれをマルルの庭園で育てようとしましたが、すぐに枯れてしまいました。ほぼ同じ頃、南アメリカ東北部のギアナでオランダ人たちがコーヒー園を作り始めました。この計画は絶対秘密のうちに実行され、厳重な監視の下にあったにもかかわらず、フランスのカーンの知事だったドゥ・ラ・モットという男が生きた苗木をまんまと盗み出しに成功しました。そして1723年、ついにパリの植物園で、たった一本の木を種子から育て上げることに成功したのです。若きルイ十五世は、この木をドゥ・クリエという船長に託し、フランス領マルティニーク島に運んでくれるよう頼みました。何ヶ月の苦しい航海の間、ドゥ・クリエは自分に割り当てられた水を苗木と分け、何とか無事にマルティニーク島に到着しました。彼は農園のもっともよい場所に苗木を植え、人を雇って昼夜を分かたず監視させました。やがて2ポンドほどの種子を得るとドゥ・クリエはそれを他の農園主たちに分け、こうしてマルティニークとして知られるコーヒー豆の栽培が始まったのです。

ロシアは針葉樹の宝庫です。ロシア人はあらゆるものを(釘や錠前さえも)木材で作りますが、針葉樹は傷つけられたところから樹液を出し、それが腐敗菌や寄生植物の侵入を防止します。それが針葉樹が広葉樹よりも長命な理由なのです。ドナウ川には紀元2世紀にローマ人によって作られた橋げたが今でも残っていますが、カラマツは水中でも容易に腐らないのです。針葉樹の中でもロシア人にもっとも愛される樹は白い樹皮を持つシラカバでしょう。その樹液は甘いシロップのようです。20世紀にソ連の考古学者がロシア西部の大ノヴゴドロ市の発掘調査をしました。10世紀と15世紀に栄えたこの都市は、6メートルの幅の大通りが滑らかな木片で二重三重に覆われ、その下には木製の水道管も発見されました。古い城壁は壁も塔も木でできていて難攻不落でした。考古学者は、さらに、土砂の下から貨幣、財布、木製の皿や容器、骨のかけらで刻まれたシラカバの皮も見つけ出されました。シラカバの皮で書かれた手紙は約40通も発見され、ある手紙には「こっそり私に手紙をください!」と書かれていました。

樹液といえば、カナダのインディアンたちが砂糖カエデからとっていたメープルシロップが有名ですが、人類にもっとも有用だったのはゴムの樹液です。1493年、コロンブスはその2回目の航海の時に今のハイチ島でインディアンたちが歌を歌いながら黒い玉を投げ合っているのを見ました。驚いたことにその玉は地面に落ちると大きく跳ね上がるのです。またインディアンの指揮官の着ている服は雨に打たれても濡れていませんでした。その後200年近くたって、パリの科学アカデミーからペルーに派遣されたラ・コンダミンは、インディアンたちが「カオチュ」つまり木の涙と呼んでいるネバネバした液体を持ち帰りました。フランス語のカオチューcaoutchouc(ゴム)という語はここから来ています。はじめて消しゴムを使って鉛筆の字を消したのはイギリスの化学者プリーストリーでしたが、暑いと溶け寒いと硬くなるゴムはなかなか実用に適しませんでした。1852年、アメリカのチャールズ・グッドイヤーが、生ゴムでいろいろ実験しているうちに、誤って生ゴムとイオウの入ったかめを焼けた敷石の上に落としました。加熱された生ゴムとイオウは激しい変化を引き起こし、冷えると固まり、熱するとベタつくゴムの性質はすっかり消えていました。彼はこの世紀の発見までにあらゆる試行錯誤を繰り返し、極貧のため皿が買えずゴムの皿で食事をとり、息子の葬儀代も払えませんでした。

最後はスウェーデンのウプサラにあるリンネ博物館を紹介しましょう。そこには偉大な植物学者リンネが中国に特別注文した茶器一式が展示されています。その茶器に描かれているのは、リンネがもっとも愛好したがゆえにその名がつけられているリンネソウで、それはコケむしたモミの林に生えているありふれた小さな地味な花なのです。


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2017年2月18日 (土)

森銑三『武玉川選釈』

先日読んだフランスの日刊紙 Direct Matin に興味深い記事が載っていました。フランスのサン・ルイに住むミーナさんという動物保護団体で働く女性は2002年に三匹の捨て猫を家に保護していました。その三匹にシーバ、ビアンカ、シェイタイという名を付けて、目印にタトゥーも入れていましたが、翌年、ミーナさんは医者から癌と診断され、やむなく三匹の子猫を他家にあずけます。普通でしたら話はここで終わるのですが、その13年後、2016年11月に、ミーナさんは玄関先に、痩せ細ってお腹を空かしたみすぼらしい猫を発見します。知り合いのの獣医のもとに連れていくと、何と嘗ての飼猫である雌のシーバだと告げられました。60キロ離れたコルマールに住むその猫の引き取り先によると、シーバは、引き取って一カ月で家出したということです。13年間 vagabonde(放浪)して60キロの距離をやっとたどり着いたのでした。ミーナさんと過ごした幸福な時期の思い出がシーバを長い旅に出したのだろうと獣医は言っているそうです。ミーナさんは、シーバには幸せな余生を送らせてあげたいと言っています。

話はまったく関係ないのですが、最近硬い本ばかり読んでいるので、 軟文学でも読もうと思って、たまたま手に取った森銑三の『武玉川選釈』(森銑三著作集続編第9巻)を読んでみました。実は、昔、岩波文庫の一括復刊で『誹諧武玉川』全四巻を手に入れたのですが、難解で、とても楽しんで読むまでには至りませんでした。それで、『宗長日記』や『竹斎』と一緒に書棚の奥に放りこんでいたのですが、森銑三によると、『武玉川』は十に一つ分かればよいので、自分の好きなように読めば良いということです。確かに一万二千余首すべてを解釈するのはヒトゲノム解読より難しく、田辺聖子『武玉川ーとくとく清水』や神田忙人の『「武玉川」を楽しむ』などのすぐれた類書も、自分のわかる句だけを取り上げて解説しています。250年前の江戸庶民の日常生活の細やかな断片は、こうして永遠の秘密のように隠されているのです。

『武玉川』とは何か?神田須田町の鋳物師の息子である慶紀逸が寛延三年(1750)に発刊した雑俳集で、大きな人気を呼び、安永3年まで18巻も発行されました。一般に、『武玉川』は俳諧と川柳の中間の時期に現われた、そして両方の特徴を併せ持っている、と言われていますが、それは半ば当たっています。芭蕉(1644〜1694)は、むろん偉大な人間で、連歌における発句を和歌にも匹敵する芸術にまで高めました。その極点が「かるみ」ですが、芭蕉自身はこのかるみを十全に展開するには至らなかったのです。俗的なものを聖化することは蕉門の人々により高度に練られた俳諧の言葉に転生されましたが、そこで俗の俗たる所以の日常のおかしみは失われたのです。それを徹底してすくい上げたのが川柳ですが、その日常生活の観察の鋭さは人間生活のあら探しにつながり、皮肉の一方に走る傾向はその作句から生活への暖かな眼差しを奪ったと言ってよいでしょう。

それに反して、『武玉川』には、俳句や川柳がその先鋭化のために振り捨てていったもの、おっとりとした日常時間とともに流れていくものが残っています。

○恋しい時は猫を抱き上げ

非常に名高い句。「恋しい時」と「猫を抱き上げ」には何らの関連もないはずですが、これが連結すると不思議と納得できる情緒を醸し出します。『武玉川』には、このように七七の短句が半分近くを占めていますが、前句を切り離して短句を独立させたのが紀逸の慧眼で、このゆえに『武玉川』は全く独自の世界を形作っています。

○手拭うせて猫もなくなる

掛けておいた手拭が見当たらない。気がつくと猫もいなくなっている。おやおや、それでは、、、と納得した顔だ。人間をまねて猫も手拭を被って猫の盆踊りに行くと言われており、この話は江戸時代の随筆に散見するとのことです。

○ 手代をつけて初の勘当

道楽息子を世間の手前勘当せざるを得ないが、心配なので手代をつけてやるという話。息子も遊山気分で銚子あたりの叔母さんの家に出掛けて行く。

○次男に手間のかかる遺言

死期を悟り、身内の一人一人に遺言するが、出来のいい長男と違って、駄目息子の次男にはかなり時間がかかっている。

○惚れて報いる看病の恩

大店の跡取り息子が病気になり、選ばれて世話をしている下女の一人の親身な看病に、いつしか惚れて夫婦になるという目出度い話。

○異見してつくづく見れば美しき

異見は意見のこと。男親が廓まで出かけて、どうか息子と別れてくれと頭を下げる。神妙に話を聞いている傾城だが、よくよく見ると気立ても顔も美しい。これでは息子もあきらめかねる筈だと妙に納得する。

○めくら息子の乳(ち)をながく飲み

普通の子ならとっくに乳離れしているのに、盲目の子はまだ母親の乳房にしゃぶりついている。いたいけな子への母親の強い愛情が感じられます。

○朝日寂しく坐るめくら子

めくらの子は、朝起きても何もすることなく陽の当たる縁側に坐っている。「哀れの深い句である」と森銑三は添えています。

○検校にして死にたがる母

自分の産んだ盲目の子を何とか検校(盲の最高位)にしたいという親心。しかし、検校にするには大変な金がいる。不具の子への悲痛な思い。

○夢でゐる子を入れる誓文

夢を見ているようにぐっすり寝ている子の横で、その子を廓に入れる誓文に判を押している。あたりまえのような情景に作者はやるせない気持ちをぶつけています。

○子守のもたれかかる裏門

十一二になると、子守に出されることが多かったのですが、夕方になると疲れて赤子をおぶったまま裏門にもたれてぼんやりしています。故郷の兄弟のことなど思っているのでしょうか。

○先腹の子がひとり精進

母親が亡くなって、父親は後添いをもらいました。実母の命日には子供ひとりがこっそりと肉魚を断って母を忍びます。

○しゃがれた声で迷い子の礼

子供がいなくなって、必死で、子の名を呼びながら駆けずり回ってやっと見つけた。協力してくれた家々への挨拶まわりも叫び疲れてしゃがれている。

○向うから女房も使う硯箱

夫が帳面に何かを書いていると、向かいで女房が巻紙を手に持って誰やらに手紙を書いている。絵になりそうな日常の風景です。

○返しどころをいはぬから傘

大雨の翌朝、濡れた傘を整理していると、どこから借りたか分からぬから傘がある。女房が夫に聞いてもはぐらかして答えない。

○橋ですべるも神のなぐさみ

神社の橋はなぜか滑りやすい。亀戸天神の太鼓橋も雨の日などきわめて危険で、ここで滑っては合格祈願も何もありません。人形町の水天宮も階段が急でとても安産の神とは思えません。この句によれば、神社の橋が滑りやすいのは、滑っている人間を見て神が楽しむからだということです。

○留守に生まれて軽い名を附け

夫が旅に出ている留守に子が生まれた。携帯電話のない時代、後で叱られないよう長松とかはなとか平凡な名を附けておきます。現代は難読・奇矯な名前が多いですが、無料で自由とはいえ、それだからこそ平凡な名をつける親には細心な愛情が感じられるようです。

○売った屋敷を編笠で見る

家業が左前になって、やむなく家を手放しました。かつての隣人に会いたくないので顔を隠して昔の家を見に行きます。テレビの時代劇を見ると、江戸の時代は、顔をかくす工夫が多いのに驚きます。ヴァレリィの「人はもっとも隠すべきもの顔を出して歩いている」という有名な言葉があります。

○塩引は頭になってむつかしき

今でも年の瀬に鮭をもらうことがありますが、江戸時代は塩鮭を天井に吊るして、出刃包丁で削ぎ落としながら食べていたそうです。頭だけになっても捨てず、酢の物や汁物にしたとか。

○海を眺めてやめる入唐

日本海の荒波は人の知るところですが、実際目の当たりにすると当初の覚悟も萎えそうになるというお話。「歴史もの」はほかに、「○波打ち際に公達の馬」(熊谷直実に討たれた敦盛のこと。馬に目を付けたのが秀逸)もよく知られています。

○一段聞いて帰る仲人

現代では存在感もなくなりましたが、かつての仲人は社会的に大変な役目を担っていました。娘親の要望で琴を聴いたが一段だけ聞いて帰っていった。素人の手習いの琴が上手いはずもないが、相手の男の親には尾ひれをつけてほめておきます。植草甚一は、昔、知人の家へ行って一番嫌なのは娘の下手くそな踊りを見せられることと、家族のアルバムを見せられることだと言っていました。アルバムはゆっくりめくらねばならず、知らない人の写真を見ても面白くないからです。

○物思ひこよりの犬も痩せがたち

手慰みでこよりで犬を作るのは江戸時代から行われていたようです。悩み事のある時はその犬もやっと立てるほど貧弱なものになったという、『武玉川』ならではの句です。

○惚れたとは短い事のいいにくき

これこそ端唄・小唄から近現代の歌謡曲まで続く普遍的なテーマですが、蕉門俳諧が洗練さの代わりに感動を失ったのは庶民のこのような気持ちを切り捨てたからではないでしょうか。止むをえぬ事情により惚れたとは言えないことが、世の中には何と多いことでしょう! 「○よその女房になるを見に出る」という武玉川の句も実らなかった恋の哀しい一場面です。


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2017年1月28日 (土)

スチュアート・ヒューズ『ふさがれた道』(2)

1929年、リュシアン・フェーヴル(1878〜1956)とマルク・ブロック(1886〜1944)はストラスブールで、雑誌『経済史・社会史年報』Annales d'histoire economique et sociale を発刊します。Revue(雑誌)ではなく、Annales(年報)としたのは、当面のライヴァルだった『社会経済史雑誌』Revue d'Histoire Economique et Sociale と区別するためでしたが、地理学雑誌でよく使われるAnnales というやや曖昧な名称は学際的で懐の深いこの雑誌の色合いをよく表しています。そして、後にアナール派の拠点として知られるこの雑誌によって、フランスは十八世紀以降はじめて歴史学の分野で世界の最前線に躍り出ることになったのです。 史料一辺倒の実証主義歴史学とも、クローチェ、マイネッケ流の新理想主義歴史学とも、政治家と偉人の俗流歴史学とも違って、「アナール」の目的は、経済的、社会的、地理学的、心理学的な歴史を一体としたような一つのフォーラムを作り出すことでした。歴史へのこの新たな興味は、時代の危機意識とも重なって、この雑誌を、続く10年間に、西欧世界における歴史研究を再び活潑化せしめるもっとも重要な唯一の論議の場所にしたのでした。

「一にも二にも証拠資料」という呪物崇拝的な流行思潮に対して、リュシアン・フェーヴルは自分はもう一人のミシュレになるのだ、と宣言しました。しかも、もっと批判的な精神で、もっと装備されたミシュレに。フェーヴルとその仲間たちはミシュレのうちに、過去をその多様性と複雑さのままに復活させようとした歴史家、フランス文明をたんに国王や政治家だけでなく、全民衆の素朴な努力の所産として把えようとした歴史家を見たのです。歴史を、環境・心性・風土の織り合わさったものと見ること、一言で言えば、「情念的風土」の歴史と見ることがフェーヴルの目標でした。「われわれは『愛』の歴史を持っていない」とフェーヴルは言いました。「『死』の歴史も、『慈悲』の『残酷』の『喜び』の歴史も、、、」人間の感性の全領域は、学問によって全く手付かずのままなのだ、と。10年の歳月をかけた主著の一つ『十六世紀における無信仰の問題ーラブレーの宗教』の中でフェーヴルは、ラブレーを無神論の自由思想家とする近代の解釈に反対して、16世紀の人間は20世紀的な意味での無神論者などになれるわけがなかった、と主張します。ラブレーの生きた世界は、全体としても身の回りでも宗教の雰囲気に包まれていた、信ずることを欲する世紀、あらゆるものの中に神の反映を求める世紀だった、つまりラブレーは自由思想家などでは全くなく、宗教についての個人的な内面的で寛容な理解も持たず、奇蹟や聖書や礼拝についての批判的な感覚も持たない同時代の教養人の典型であった、と。

フェーヴルの主著とほぼ同じ頃にマルク・ブロックも彼の業績の頂点に達しました。『封建社会』(1940)は、『奇蹟を行う王』や『フランス農村史の基本性格』同様、頁ごとに巨匠の歩みを確認させるような書物です。ブロックは、従来の封建性についての図式的、法制的議論の代わりに、むしろそのような制度が機能する精神世界に目を向けました。中世の陸上交通の困難さ、時間感覚の変動する不安定さ、現在の必要に合わせて過去を歪曲する集団的記憶の役割などについての飽くなき探索こそ彼の独創的部分を形作っています。ブロックは、それらの探索のために、フランスの枠内を越えて全ヨーロッパと比較し、近代言語(ロシア語・スカンジナヴィア語を含む)、古典語は言うに及ばず、古ゲルマン語、古ザクセン語まで熟達して膨大な資料を博捜しました。むろん、そこには、経済学、地理学、農学、神学、叙事詩などについての卓越した知識の裏打ちがあります。

『奇蹟を行う王』(1924)には、ブロックの農政史と王制の心理学的基礎についての研究が生かされています。古来、瘰癧(るいれき・頸部にできる結核性のコブ)は王が触れることによって治ると信じられ、とくに英国とフランスで伝統的に実施されて来ました。これは一つの奇蹟であって、ブロックが惹かれたのはその民俗的、民間信仰的側面でした。近代以降ひとびとは、このような奇蹟に対して真実か否か、すなわち全てか無か式の曖昧さを許さぬ結論を求めました(宇宙人やUFOの存在などについてもそうでしょう)。しかし、中世の人々はそうではなかった、彼らは施術を行なう者たちから常に奇蹟を期待したわけではなかった、時たま奇蹟じみたことが起きればそれで十分だった(実際それは時折起こった)、彼らは頑固な信仰を持っていたのではなく、周囲の状況に自らの信仰を合わせる心理的下地を持っていた、「奇蹟を信じさせるものは、奇蹟が起こるだろうという観念であった」つまり一種の集団的幻想が起こったのです。

ブロックの専門とした中世農村史はほとんど残された記録がなく、彼は少ない資料をつなげながら想像力を駆使した遡及的方法で歴史の中に入ります。農民の歴史は数百年も変わりなく続いているようだが、そこには技術的革新と旧来の制度との軋轢があります。水車の事例は彼の得意としたところでした。水車の原理はギリシャから知られていたが、古代の奴隷制は水車の動力を必要としなかった。しかし、キリスト教が奴隷制を禁止すると、人手不足から水車の経済的必要が高まった。そこで封建領主は水車の独占を強行するため農奴の手動用具を駆逐した。こうしてテクノロジーは宗教的権力と関係なく自らを貫徹していく、まさにこれこそ歴史の分析でしょう。

リュシアン・フェーヴルはフランス東部のフランシュ・コンテに生まれ、リセに入るためにパリに上京しました。子供時代を過ごしたフランシュ・コンテの自然は彼に深い影響を残し、亡くなるまで度々そこを訪れています。マルク・ブロックはリヨン生まれですが、二歳で家族と一緒にパリに出、それからずっとパリジャンとして過ごしました。二人は、8年の差がありますが、共にリセ・ルイ・ル・グランとエコール・ ノルマル・シュペリュール というフランス最高のエリート・コースを歩んで来ました。フェーヴルとブロックは、1920年、第一次大戦の勝利によりフランス領に戻されたばかりのストラスブール大学で歴史学の同僚となります。フェーヴルは42歳、ブロックは34歳でした。実は1902年に二人はすでにパリで出会っており、場所はアレジア街のブロックの父の家で、その当時マルクの父親ギュスターヴ・ブロックは高等師範の古代史の教授でした。その家のサロンで優秀な小児科医の兄の背中に隠れた物静かなブロックの思い出を後にフェーヴルは『歴史のための闘い』で書いています。

リュシアン・フェーヴルの後継者として「アナール」を継いだフェルナン・ブローデルは、フェーヴルについて、彼が世に名をなす時三つの利点があったと言っていますが、これはむろんブロックにも当てはまります。まず第一に、二人とも最高に知的な家庭に生まれました。文法学者を父に、歴史学者を叔父に持つフェーヴルは、人文的教養に深く馴染んで育ち、大人になってもモンテーニュのことを友達のことを話すように語ったということです。ブロックも、高等師範を出た祖父、パリの高等師範を出てその教授だった父、研究医だった兄の下で特権的に知的な養育を受けました。彼は、後年、教授だった時に、 尋常の家庭に生まれたにもかかわらず知的な高水準に達した学生をとくに注意して面倒を見ていたのですが、おそらくそれは幸運に恵まれた自分の運命に対してのつぐないでもあったのでしょう。

利点の第二は、ミシュレ以来のフランス歴史学の学識が彼らの前に十分に蓄積されてあったことです。詩人的想像力と情熱を持ったミシュレの次に、フェステル・ド・クーランジュやシャルル・ラングロアらの実証主義的歴史の洗礼を受けて、彼らは卵のうちにあってすでにフランスの歴史学を飛躍させる準備が出来上がっていました。殻を割ったのは彼らより一世代前のアンリ・ベールでした。広い意味で実証主義的歴史学者と言えたベールは、しかし、同世代の学者よりずっと哲学的で、同時に科学的でした。彼の不滅の記念碑は比較歴史学の精華と言える「人類の進化」L'evolution de l'humaniteと題された何巻にも及ぶ叢書です。フランス人が、このような共同の歴史研究において、他の国の追随を許さない卓抜した出来栄えを示すことは現代のピエール・ノラ編集の「記憶の場」(120人の歴史家が参加した)を見ても明らかでしょう。フェーヴルとブロックの主著は、この「人類の進化」叢書のために書かれたのです。フェーヴルは、ずっと後で 「懇切で、他人の思想を尊重し、とりわけ屈することなき楽天主義」を持ったベールの肖像を描いています。

二人の持った三番目の利点は、彼らが登場した時期がフランス社会科学の春に当たっていたことで、それにより、彼らは関係諸科学から十分な利益を得ることができたのです。とくに、デュルケームの精神と方法はフェーヴルとブロックに強い影響を与えました。社会的凝集の源泉であり、その最初の発現である宗教への関心はこのデュルケームによって教えられたのです。『ラブレーの宗教』と『ルター』によって16世紀の宗教的対立と人間の情念を研究したフェーヴルはむろんのこと、伝統的な宗教的諸価値を固く保持している小作人階級の分析に多くの労力を注いだブロックを見れば、この二人の宗教社会学への関心は明らかでしょう。特にブロックとデュルケームは、信仰を失ってしまったがなお宗教的経験に魅せられているユダヤ人としての資質を共有していました。

「ブロックとフェーヴルにとって特徴的なことは」とヒューズは書いています。「彼らがその実験的な試み(アナールの発刊)を開始したのが、多くの同時代人が懐疑主義や絶望にとらわれたか、あるいはとらわれようとしていた時であったということだった。」二人は剛毅な精神の持ち主で 、自己を信じ、自らの専門家としての訓練に確信を抱いていました。しかし、何より特筆すべきは、その精神的安定性でしょう。彼ら二人の道徳的確信は第三共和制的な啓蒙的、民主主義的、世俗的なもので、この倫理的な安定感ーやましくない良心ーは、彼らに幸福な学者的誠実さを与え、見事な大量の著作物を生み出させたのです。

この「良心にやましいところのない学者的精神」ということがもっとも重要でしょう。二人の持つフランスへの忠誠心は当たり前すぎて意識すらされず、「その愛国心は自明なものの持つあの力を帯びていた」ので、二つの世界大戦においても、自分たちの国の大義の正しさに関して少しの疑いを持つこともありませんでした。この愛国心は、彼らより一世代前のシャルル・モーラスなどの愛国心とは全く違っています。フェーヴルとブロックは、モーラスの唱えた「真の国民精神の復活」や「真の国民的伝統への回帰」などとは無縁でした。声高に愛国心など叫ばなかったが、フェーヴルの息子はレジスタンスに協力し、ブロック自身はレジスタンスの一員として命を落としました。これを、ドイツの占領政府に協力したモーラスや、フランスの土地と血に結びついた愛国心を唱えながら息子の兵役免除を願ったバレスと比較してみましょう。思えば、右翼など信用できず、ひたすら自分自身への懐疑の精神を忘れない人間こそ信頼に足りるのです。フェーヴルもブロックも、自分たちがあらゆる答えを知っているなどという風を決してしませんでした。彼らの愛国心の根幹は、その弟子たちにフランスの土壌、フランスの豊富な遺物の中にこそ歴史解釈の謎を解く鍵があるのだと教えた時に、はじめて明確に明るみに出るものだったのです。

フェーヴルとブロックは固い友情と信頼で結ばれていました。二人とも愛想良いとはいえず、社交的狡知など全く知らず、協調的というより論争的で、実際「アナール」については度々激論が交わされたようです。性格も、フェーヴルが情熱的で芸術的、ブロックが精密で分析的でした。しかし、二人はストラスブール大学の隣り合った研究室(二つのドアは常に開かれていました)で実り多い話し合いをしながら、いつかパリを征服しようと虎視眈眈と爪をみがいていたのです。その後の展開は明暗を分けました。フェーヴルは1933年、念願のコレージュ・ド・フランスの教授に選出され、フランス歴史学の指導的地位に登りつめました。大なる威信、安定した地位、最高の俸給に加えて、そこでは聴衆に直接歴史を語りかけられる特権がありました。1956年、78歳で死ぬまで、ヴァル・ド・グラースの金色のドームに面した研究室で「アナール」に執筆しながら、彼は学者的幸福のうちに死にました。後継者はフェルナン・ブローデルで、さらに数多の研究者がフェーヴルの威光のもとに、彼の指し示した歴史研究に進んで行ったのです。

八歳年下のマルク・ブロックは現在ではフェーヴルよりも偉大な歴史家とされており、その盛名は歳を追うごとに高まるかのようです。彼もコレージュ・ド・フランス教授の座を狙っていたのですが 、その選挙運動はうまくいかず、後のアメリカへの脱出同様、あれこれ奔走し、苦労したが、最後の最後で実らなかったのです。(最近読んだアントワーヌ・コンパニョンの『書簡の時代』には、友人ロラン・バルトのコレージュ教授の選挙の時の運動について描かれています。コレージュの教授一人一人の挨拶まわりは大変に気が滅入ることでしょう。わずか一票差ながら、バルトが選出された時、彼はさっそくコレージュのレターヘッドのついた手紙をコンパニョンに送って来たそうです)。コレージュに落選したブロックは次善の策として、ソルボンヌの経済史の教授になり、ソルボンヌからほど近いセーヴル・バビロンに2フロア一緒のアパルトマンを借りました(小児科医の兄がわずか40歳で死んだので、ブロックは一族を一人で養っていました)。フェーヴルと反対にブロックの人生はこれから苦闘の連続になるのです。

というのも、ブロックの先祖はアルザスで、祖父母まではユダヤの教義に深く染まった生活をしていたからです。父ギュスターヴの代になってこの一家は、一気にフランスの知的階級の最上位に上るのですが、古代史の教授だった父親はすでに同化されたユダヤ人として、第三共和制のリベラルな制度の恩恵を最大限に受けました。ユダヤ人の人権を認めたフランス革命の精神を受けて、第三共和制は各分野にユダヤ人の参入を許していました。ギュスターヴと同世代には、アルザスのラビの息子であるエミール・デュルケーム、ハシディスムの流れをくむポーランド系ユダヤ人の音楽家の息子であるアンリ・ベルグソンがいました。1894年のドレフュス事件は、陸軍の機密情報を扱う部署にまでユダヤ人が参入していることで、人々を驚かせましたが、ギュスターヴにとっては、第三共和制の精神が危機の中でも自分たちを守ってくれることの確証となりました。以降、ギュスターヴとマルクのブロック親子は差別を否定し、自由と改革を標榜する第三共和制に忠誠を尽くすことになるのです。

しかし、民衆レベルでは、フランスのユダヤ人差別感情は根強く、今日でもいまだ反ユダヤ主義騒動はメディアを賑わせます。以前、雑誌パリ・マッチの最後のページには毎週 ce jour-la(その日)と題して、著名人が自分にとっての決定的な瞬間について語る記事があったのですが、あるとき、名前は忘れたがテレビの有名女性キャスターが登場して子供時代の思い出を書いていました。ある日、学校でユダヤ人のことが話題になって、町の吝嗇なユダヤ人商店の悪口を言い合いました。彼女は家へ帰ると、祖父に、「なんて嫌な人たちでしょう!」と友人から聞いたユダヤ人の悪口を伝えました。祖父は黙って聞いていましたが、静かに立ち上がって、こう言いました。「今まで黙っていたが今言おう。私もお前もイエス・キリストと同じユダヤ人なのだ。」それを聞いて、雷が落ちたようにショックを受けた彼女は、しかし、翌日登校すると自分はユダヤ人であると学校のみんなに公言したのです。いつも遊んでいた親友の女の子たちは掌を返したように彼女に冷たくなりました。中学校に上がると、彼女は、かつての親友たちのボーイフレンドを次々に誘惑して横取りし全員に復讐したということです。

私は、真の愛国者というものは常に辺境から出る、と思っています。辺境とは、また精神の辺境という意味でもあるのですが、ユダヤの血をひきながらブロックはフランスを理解しフランスを愛しました。その愛は深く根付いているゆえに意識すらされないほどでした。アルザス出身の曽祖父からブロック家はドイツとの戦闘に身を捧げ、むろんブロックも二つの大戦に積極的に参加しています。戦争は同化したユダヤ人にとって愛国心の証明であり確信ともなったのです。しかし、誰しも平等の競争を勝ち抜けば社会の上層に至るという第三共和制の精神は、その慇懃さの陰に暗いユダヤ人差別を隠していたのです。ユダヤ人はその人口にしては異常に高い比率で各分野に進出していったのですが、当然反発もありました。ベストセラーとなったエドゥアール・ドリュモンの『ユダヤ的フランス』(1886)はその最たるものでしょう。ドリュモンは、その本で、ユダヤ人は決してフランスに同化できず、また伝統的なフランス文化はユダヤ人によって損なわれているという反ユダヤ主義の決まり文句を書き付けたのです。ブロックら知的階級のユダヤ人はそのような風潮を過小評価して、むしろ反ユダヤ主義を軽蔑の目でやり過ごそうとしました。ここには時折見られる知的弱者に対するユダヤ人の傲慢さがあるのかも知れません。

ところが、ヒトラーの台頭と、続く大戦の勃発、フランスの敗北と親ドイツのヴィシー政府の成立は、隠れていたユダヤ人への妬みと憎しみを徐々に露わにして来ました。ヴィシー政府はユダヤ人法を改正し、ユダヤ人の公的地位からの追放を指示しました。ブロックはソルボンヌ教授の地位を追われ、クレルモン=フェランに引っ越していたストラスブール大学への復職はかなったものの、妻の病気のため希望したフランス南部のモンペリエ大学への移籍はすぐには出来ませんでした。ブロックはそれらのために曽祖父、祖父、父、自分のフランス防衛戦争への参加を示す書類などを提出しなければならなかったのです。モンペリエ大学の文学部長はかつてブロックからさんざん酷評されたオーギュスタン・フリッシュで、彼により一旦拒否されたブロックの移籍は、ブロックの父の弟子で友人であったソルボンヌ学部長のカルコピーノによる免除申請でかろうじて実現しました。ブロック自身のフランスへの文句のつけようのない献身と輝かしく卓越した研究業績が考慮されたのですが、彼はユダヤ人の中で例外的に追放を免除された後ろめたさを最後まで吹っ切ることはできませんでした。

しかし、状況は次第に切迫し、ブロックはアメリカの大学からの招聘を受けてフランス脱出を考えました。ところが、病気の妻と子供6人と祖母の大家族で、リヨンのアメリカ領事館その他を奔走するものの、祖母と長男と長女のビザがどうしても降りません。さらに、セーヴル・バビロンの自宅の膨大な蔵書と資料が(モンペリエに移送しようとしたカルコピーノの努力も虚しく)ドイツ軍に略奪されてしまいます。そのため、研究の四分の三の時間が資料の収集に費やされなければなりませんでした。もっともブロックを意気消沈させたものは恐らく「アナール」の編集から外されたことでしょう。フェーヴルとの間で激しいやり取りが交わされたものの、ユダヤ人の名を表紙に載せることはやはりできなかったのです。重くなる妻の病気、自身のリューマチの痛み、子供たちの心配、収入の減収による生活の不如意、そんなこんなで、ブロックはついにレジスタンス参加を決意するのですが、その前にブロックの第二次大戦の経験について書かねばなりません。

その記録は『奇妙な敗北』(岩波書店)という題名で死後に出版されました。すでに53歳なのでフェーヴル同様田舎に引っ込んでいてもよかったのですが、あえて一介の大尉として参戦したのは、何よりもフランスへの忠誠からでしょう。配属された所はベルギー国境で、その任務は燃料補給の責任者としてでした。これは大変な責務で、戦車をはじめ機動部隊の命綱である燃料の配置、移送は重大で、もし敵の手に落ちそうな場合は爆破しなければなりません。ブロックはフランス・ベルギーの地図に首っ引きで、各燃料貯蔵地を巡回していました。ところで、地理学を最優秀で学んだブロックにはこれは最適の仕事でした(伝統的にフランスの歴史学は地理学と結びついており、ドイツ歴史学が哲学と密接な関係にあるのと対照的です)。しかも、複雑な条件を整理分類することは最も得意とするところで、おまけにブロックは軍隊という秩序ある組織が性格的にあっていたし、実は好きだったのだと思います。そして、戦場でむすぶ上官、同僚、部下との人間関係から彼は大事なことを学びました。第一次大戦以来、フランスの軍上層部は進歩せず、老害という言葉そのままに旧態依然とした防御構想に支配されていました。それに反して、ブロックが出会った下級の兵士は、フランスのエリートたちが失っていた良識と人間性を保持しているように思われました。「通常の生活を真面目に営んでいたものは戦場においても有能である」「市民の中には軍人以上に軍人である市民がいる」などと彼は思うのでした。実際の戦場は、ドイツ軍機動部隊の速攻にフランス軍は壊滅し(もしフランスから先制攻撃していたなら勝負は分かりませんでしたが)、ブロックも敗走するフランス軍とともにダンケルクから命からがら英国に脱出します。それから汽車でイギリス西部の海岸まで行き、そこから再びフランスのカレーに舞い戻りますが、すでにドイツ軍の支配下にあるフランスを見て、軍服を脱ぎ、大学教授に扮するのですが、すれ違うドイツ軍兵士に全く見破られなかったそうです(当然ですが)。

ブロックがこの戦争で学んだことは、フランスは外からではなく、内部から、フランスの民衆自身の手で変えていかねばならないということでした。すでに米英を中心とした連合軍の援軍はフランス南部に近づいていましたが、フランス人自身の努力なくしてフランスの再建はあり得ない、この考えが彼をレジスタンスに参加させたのだと思います。またそれは、五世代続いた彼の家系によるフランスへの献身の最後の集大成とも思えたのでしょう。ブロックは1943年のはじめに彼の生地であるリヨンでレジスタンスの組織に加わりました。このレジスタンスの57歳の「新米」は、しかし徐々にその実力をあらわし、組織の中堅として活躍するようになります。時折連絡のためパリを訪れ、フェーヴルに会うと、自分はすでに「恐ろしい死」を覚悟していると言うのでした。パリの空気はリヨンよりも清々しく、ナチの旗はいたるところにはためいていたがセーヌ川は変わらず美しい。彼はカフェで好物のサンドイッチを食べ、映画を観、地下鉄に乗って束の間のパリを楽しみました。1944年の3月にリヨンの橋の上でブロックはゲシュタポに逮捕され、拷問を受け、監獄に放り込まれます。彼はそこで歴史学の教授らしく同房の青年にフランスの歴史を教えていたということです。1944年6月6日の連合軍ノルマンディー上陸の知らせが密かにブロックに知らされました。敗走の準備としてドイツ軍は捕虜を始末し始めます。6月16日夜9時、小型トラックに乗せられた28人のレジスタンスはリヨン郊外の牧草地で降ろされ、4人ずつ連れていかれて至近距離で銃殺されました。順番を待っている時、16歳の少年がブロックに「銃で撃たれるのは痛いでしょう?」と聞いたので、彼は「いや痛くない、大丈夫だよ」と答えました。ブロックは「フランス万歳」と叫んで死にました。以上は2名の生存者の証言で残された事実です。ブロックは58歳という学者として知的青春の只中で死にました。

「アナール」はその後リュシアン・フェーヴルが刊行を続け、フェルナン・ブローデルが引き継ぎました。ブローデルの大著『地中海』はブロックの精神を継いでいると本人はいうもののあまりに大部でブロックの緻密さと分析力に欠ける、とヒューズは批判しています。ブロックの生涯は偉大だったが、彼の担った責任はあまりに重い。彼は遺書の中で、自分がユダヤ人であることを確認するが、葬儀は無祈祷で無宗教で行われることを望みました。彼は「なによりも自分をフランス人と感じ、その精神的遺産と歴史によって養われていたので、心の安らぎを得られる何かほかのもを考えることはできなかった」と書いています。

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2016年12月10日 (土)

スチュアート・ヒューズ『ふさがれた道』(1)

—— 小説『モーヌの大将』のなかで、アラン・フルニエは「昔話のふさがれた道、疲れ果てた王子が入口を見つけることができなかった道」の探索について語っている。「それは、11時かあるいは12時が打とうとしたのをもうとっくに忘れてしまったころ、朝方のすっかり諦めきったときに、ついに発見される。…しげみやいばらを押し分けてみたとき、突然…長い影に沈んだ道がひらけ、その果てに小さな丸い斑点のような光が見える。」

スチュアート・ヒューズは「失意の時代のフランス社会思想1930〜1960」と副題のある『ふさがれた道』(荒川幾男・生松敬三訳・みすず書房)をこのように書き始めます。アラン・フルニエは第一次大戦で消息不明になりました。『モーヌの大将』は1913年の発表ですが、この「ふさがれた道」というモティーフは、その後のフランス社会に終始取り付いていたとヒューズは書いています。「行き止まりの小路と閉ざされた見通し、よろめきと手詰り、ますます絶望的となる脱出口の模索というモティーフは、第一次大戦の勃発に続く半世紀近くを通じて、あらゆるタイプ、あらゆる知的関心のフランス人の思考に滲みわたっていたのである」と。

第一次大戦は近代戦争の残酷さを告げるエポックメイキングな出来事でしたが、フランスでは、特に、青年の死傷が償いえないほど悲惨だったために深い悲しみと失望を人々の心に残しました。今でも、いたる所の教会や学校や広場などに第一次大戦の戦死者の名が刻まれたプレートが張られています。 150万人の死者、170万人の戦傷者、壊滅した北部の工業地帯、インフレによる貨幣価値の下落、あれほど右翼も左翼も熱狂して突入した戦争は、人々に失望と不安を残したのです。現実への流入と生の飛躍を訴えたベルグソンの哲学は、戦争の残骸を前に急速にその色をうしないました。人間の理念への信頼と寛容の精神を標榜した第三共和制への忠誠を掲げたデュルケームの言葉は、大戦の荒波の中で押し流されてしまったのです(デュルケーム自身も息子の戦死による失意のうちに1917年59歳の若さで没しました)。

しかし、覚醒は急激にではなく、ごくゆっくりとフランス人に訪れました。ドイツの敗退がフランスを大陸随一の陸軍国に押し上げ、文化的伝統のゆるぎない自信が生活の不如意の心理的代償になったのです。1920年代の安定に向かう動きは、しかし、29年の大恐慌とヒトラーの台頭によって一気に混乱し、フランスは再び坩堝の中に投げ込まれました。30年代は、フランス人にとって、混迷そのものと言ってよいでしょう。フランスの威信の低下は誰の目にも明らかになってきました。文化的優越もどれほどフランス人の心の支えになったのか。アヴァンギャルドの勢いは消え、プルーストはすでに亡く、ジッドとヴァレリーはその影響力を失い、それに代わる偉大な名前はいまだ現れませんでした。文化的停滞は、空虚な修辞に満ちた文章が政治や教育や文学に目につくことにも窺われました。第三共和制の道徳がいかに浅薄に思えたか、ソルボンヌの大家がどんなに愚かな俗物に見えたかが分からなければ、第二次大戦前夜の知的既成勢力に対するサルトルのような若い哲学者の抱いた憤怒—嘔吐—の意味を理解することはできないだろう、とヒューズは書いています。

40年代のレジスタンスと解放の経験は、再びフランスに文化的優位をもたらしたかに思えました。しかし、第一次大戦後の20年代にフランス詣でをした人々が感じた気持ちと、第二次大戦の後で実存主義の洗礼を受けようとサン・ジェルマン・デ・プレを訪れた外国人が感じた気持ちはいささか変わっていました。彼らは四年の占領の時代にフランス人が沈黙のうちに蓄積したものを学びに来たのですが、それは奇妙に懐かしくも古くさいものでした。レジスタンスの経験と現象学とマルクス主義が混合して、一種特殊フランス的な哲学が出来上がって行きつつあったのです。人々は、そこに改めてフランス的な孤立を恐れない、悪く言えば、傲岸で独善的な雰囲気を感じとったのです。

思えば、フランス的孤立こそ十九世紀から二十世紀へのフランスの基本常数であったと言ってよいでしょう。古典主義は唯一フランスでのみ明確に存続しました。イギリスのロック、ドイツのカント以上に、デカルトは300年以上もの間、フランス人の心性の拠りどころであったのです。十九世紀末から二十世紀初頭の思想史的出来事を、フロイトとウェーバーに代表させるとして、そのどちらにもフランスは、アングロサクソンやゲルマンほど影響を受けませんでした。モンテーニュやスタンダールを有する人間意識の大家たるフランスが、ウィーンの一医師が唱えた無意識の説に簡単に教唆される必要もないのです。また、厳密で実証的な社会研究が真の道徳哲学にいたるというデュルケームの思想(彼はそれを大成する前に歿したのですが)は、すべての価値からの自由を訴えるドイツ社会科学をすすんで受け入れる余地もなかったのです。

そして、そのことが1930年代のフランスの特異な状況を説明するのです。フランスは大陸の主要国で随一、ファシズムに屈しない国でした。そのために知識人で諸外国に脱出する人間はほとんどいなかったのですが(アメリカに一時滞在したジャック・マリタンとサン=テクジュペリは例外的です)、それ故に、二十世紀前半の西欧世界における最大の知的事件といえる流動する知識人の波から取り残されたのです。30年代で、フランスほど共産主義・社会主義の運動が高まった国はありません。また、カトリシズムが全く例外的に、十九世紀から二十世紀前半まで強烈な信仰を維持した国もありません。それもすべてフランス内部でのみ起こったことでした。そして、フランス人が、亡命の必要を初めて感じた1940年には、もう遅かったのです。

『ふさがれた道』はこの時代にもなお普遍的な価値を持つ独自の探求を行なった学者・作家・哲学者を取り上げて紹介します。目次を紹介してみましょう。
・歴史家と社会秩序 The Historian and Social Order
リュシアン・フェーヴルとマルク・ブロック
・カトリックと人間の条件 The Catholics and the Human Condition
ジャック・マリタンとガブリエル・マルセル
・英雄主義の探求 The Quest for Heroism
マルタン・デュ・ガール、ベルナノス、サン=テクジュペリ、アンドレ・マルロー
・現象学とマルクス主義の結婚 The Marriage of Phenomenology and Marxism
サルトルとメルロ=ポンティ
・脱出口 The Way Out
カミユ、ティヤール・ド・シャルダン、クロード・レヴィ=ストロース

以上の各章を断続的に(同じようなことが続くと飽きるので)書いていこうとおもいます。

スチュアート・ヒューズ(1916〜1999)は、むろんアメリカの著名な歴史家で、『意識と社会』(1958)『ふさがれた道』(1968)『大変貌』(1975)のヨーロッパ思想史三部作で知られています。これらは古典というよりも、もはや定番の教科書といったほうがよいでしょう。この辺りの思想家の動向や時代の観念の概観を知りたい時に、まず読むべき本なのです。むろん、半世紀も前に書かれたので、今とは力点がかなり違います。マルタン・デュ・ガールやティヤール・ド・シャルダンを読む人間はもう多くはないでしょう。それにもかかわらず、この書を超えるものは寡聞にして知りません。

『意識と社会』の第1章「いくつかの予備的考察」でヒューズは〈思想史〉の難しさについて書いています。全体を細かく書き上げることは不可能で、時代を狭くとることでかろうじて観念の俯瞰図が可能になる、また(『意識と社会』では)ドイツ・フランス・イタリアの思想家を中心に書いたが、それはこの3国がもっともヨーロッパ的なものを表しているからである、と。30年という区切りは納得できます。しかし、英国・スペイン・ロシアの思想家についての言及がほとんどないのは、やはり奇妙に思われるでしょう。クローチェ、パレート、モスカなどのイタリアの思想家偏重にも首を傾げます。芸術的な面も弱く、シュルレアリスムの運動を素通りする理由はあり得ません。

しかし、なにより疑問なのはその姿勢です。歴史家が特定の思想を抱懐していることは全く当然で、ピーター・ゲイも言うように、むしろ偏向したその精神が時代の真実に鋭く切り込む鍵になるのです。しかし、そのためには意に反した思想にもそれなりの目配りが必要でしょうが、ヒューズは頑固に自らの自由主義(直感的なものも含めた)、懐疑主義に固執しています。彼の考えは次のようなものです。十九世紀後半から二十世紀にかけて、人間は自らのあずかり知らないものに統御されている(無意識のような、社会の下部構造のような)という感覚が支配的となった、人間の行動は全く自由でないどころか、同じパターンのくり返しだ、思想家はこの時代に懐疑的になり、慎重になり、結局は判断停止に陥るのだ、と。

ヒューズの魅力は、こうしたリベラルで面白みのない視点からでも、彼の隠し通すことのできない偏愛、また歴史そのものへの愛着が表れていることでしょう。エッセイ集『歴史家の使命』の中で、8歳の時、家族でフランス旅行へ行った時の思い出が書かれています。マリー・アントワネットの幽閉されていたコンシェルジュリの冷たい石の壁、モン・サン・ミッシェルの拷問室と闇の中の修道僧の部屋などは子どもの心に深い印象を残しました。200年足らずの歴史しか持たない母国から歴史が何重にも積み重なったヨーロッパへの旅、それは子どものみならず1920年代にフランスに渡った米国の知識人に共通する憧憬とルサンチマンに彩られていたのです。そして、これがヒューズの本に、フランスや他の国の歴史家とは違った一種の親密さを与えているのではないでしょうか。

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妻の書棚から借りてきたヒューズのヨーロッパ思想史三部作。左から『意識と社会』『ふさがれた道』『大変貌』。

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2016年11月 6日 (日)

カンタン・メイヤスー『有限性の後でー偶然性の必然性についての試論』(2)

「実存の肉のなかにあるどんな傷を癒すために、そこにあるどんな棘を抜くために、私は哲学者と呼ばれるものになったのだろうか」と、自らが編者となったスイユ社の叢書《哲学の次元L'Ordre Philosophique》についてアラン・バディウは語っています。そして、その叢書の一冊として世に出たカンタン・メイヤスーの『有限性の後でー偶然性の必然性についての試論』(人文書院・千葉雅也、大橋完太郎、星野太訳)こそ、そのような問いに答える書物に分類されるだろう、と。Quentin Meillassouxは1967年に生まれ、パリの高等師範学校を出て、現在ソルボンヌの准教授、父親は人類学者のクロード・メイヤスーです。この書物はいわゆるポストモダンや、いわゆる脱構築とは違って、映画やSFや文学などには目もくれず、謎めいた問いを投げかけたり、牽強付会な説で煙に巻いたりもせず、ひたすら哲学の王道を突っ走ります。細い紐の上を伝う軽業に似た証明の連続は、いろいろ突っ込みどころがありそうです。しかし、1ミリでも、それまで誰もやったことのないことを証明するのは偉大なことではないでしょうか。

メイヤスーを突き動かす動機、それは知的蒙昧主義に対する憎悪、イデオロギーの批判(イデオロギーとはあることがらが必然的であることを原理において主張すること)、 ある宗教にアクセスするものが行う暴力の正当化への批判、現に存続する政治体制が必然的にこのように存在すべきだということへの反論、つまり今もなお亡霊のように徘徊する独断的形而上学への批判です。メイヤスーは、そのようなものに対して、実在的必然性などあり得ない、必然性があるとしたら、それは唯一偶然性でしかない、不可避なものとして提示される社会状況も実は偶然的なものであると主張するのです。

話の前提として、なぜこの時代に形而上学が生き延びているのか、形而上学とはいかなる考えを根底に持っているのかを説明しなければなりません。完全なる神という概念はカントに至って葬り去られた筈でした。ところがカントに始まる相関主義(メイヤスーの造語・我々は物自体は認識できず、ただ我々の受容の形式に合わせて知覚できる、という考え一般を指す。訳者の千葉雅也は、これをパソコンにおけるOSに喩えています)は、カント以降その考えを徹底して、結局我々は〈我々自身にとって〉という回路でしか物事を認識できない、すなわち、結局何事も我々には真実は閉ざされている、という不可知論に行き着いたのでした。それが、かつて、デカルトやライプニッツのように宇宙を思考が自在に羽ばたくような哲学世界から、対象と私の関係に限定された、ただ関係のみが真実だという世界に限定されるようになったのです。この相関主義自体は何らの宗教的信念を主張することはないのですが、しかし、それは宗教的信念は思考不可能であるからという理由でそれを不当化せんとする理性のあらゆる要求を掘り崩してしまうのです。その結果、絶対者を放擲した懐疑論は、むしろその反対に絶対者の価値を破棄するどころか、絶対者に驚くべきライセンスを付与することになったのです。「形而上学の終焉は、絶対者への権利要求の合理性を放棄した結果として宗教的なものの激しい回帰という形をとることになった」「絶対者は、形而上学の領野から離れた結果、無数の断片に砕け散って、知の観点から何でも正当化されるさまざまな信仰になってしまったように思われる」。

メイヤスーはこのような傾向を信仰主義と名付けます。そして、その代表がヴィトゲンシュタインとハイデガー、つまり分析哲学と現象学の二大巨頭に代表されているというのです。ヴィトゲンシュタインは書いています。「だがもちろん言い表し得ぬものは存在する。それは示される。それは神秘である」(論理哲学論考)「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるということである」(倫理学講話)。またハイデガーも「あらゆる存在者のうちで、ただ人間のみが《存在》の声によびかけられて、あらゆる驚異中のこの驚異を経験する。この驚異は存在者が存在するということである」(形而上学とは何か)と書いています。

メイヤスーは、これに対して答えます。「私たちはこう言おう、他でもないこのしかたで事物が存在しなければならない理由が存在すると信じている間は、私たちはこの世界をひとつの神秘にするだろう」。ところで、なぜ、ここまで哲学は信仰主義に傾いて来たのでしょうか。メイヤスーは、その理由は、形而上学の中途半端な抹殺によるのだと言っています。完全に息の根を止めるのを怠ったために形而上学は死霊のように復活してきたのです。具体的には、形而上学の根幹である《理由律》を葬り去ることができなかったからでした。というのも、形而上学とはその極致において存在者が絶対的に存在するという言明に至るからですが、それは理由律の展開によるのです。なぜなら、理由律とは、あらゆる事物、事実、出来事が、他でもなくそのようであるための必然的理由をもつという原理なのですから、ある物事に理由があるのなら、さらにその理由の物事にも理由があり、またまたその理由にも理由があることになり、最後にはすべての理由の根拠となる絶対的な本質(神のような)にたどり着くのは必然だからです。

ヒュームは、この〈理由律〉に疑問を呈しました。あることが起きると、それに続いてあることが起きるというのは、確たる理由があるわけではない。ただ、これが起きると、常にそれが起きるからという経験の積み重ねが証明の代わりになっているだけだ。ところで、今までがそうであるからといって、未来もまたそうであるという保証はない。経験は未来の出来事に何の確証も与えないのだから。ヒュームの有名なビリヤードの球の例を挙げましょう。ビリヤードの一つの球がもう一つの球にぶつかります。その時、私たちの心の中にはもう一つの球の百にも及ぶ結果が思い浮かびます。急に停止するかもしれない、あるいは先の球を飛び越えてしまうかも、さらにまた突然元の方角に戻ってくるかもしれません。これらの想定のうちの一つの想定をなぜ私たちは優先させねばならないのか。自然法則? 自然法則がそれまで当てはまったからといって、新たなこの状況でまた当てはまるというアプリオリな根拠はありえません。

この回答は古くはデカルト、ライプニッツとその後継者たちにまで遡ります。彼らは完全なる神を措定して、そのような神が善意を持って創り出したこの世界が永続性を持つのは当然だと結論づけるのです。この形而上学的回答に対してヒュームは懐疑主義でもって答えます。いかなる推論も自然法則の安定性を保証する根拠にはなり得ない。ところで、あることの真理を打ち立てるためには、私たちには経験と無矛盾律(いかなる命題もそれが成り立つと同時に成り立たないことはない)しかないが、ヒュームによれば、経験は現在まで通用した法則を明日もまた信用する根拠を与えてくれないし、無矛盾律について言えば、同じ原因が翌日には異なる結果をもたらすだろうと考えることにはいかなる矛盾もないのだ、と。

しかし、ヒュームは自らの説をその極点まで実行する勇気に欠けていました。因果的必然性など何もなく、世界は偶然によって成り立っていると結論づける代わりに、そもそも因果的結合の必然性は我々人間には証明できないのだから、法則の必然性を問うのはやめて、むしろ法則の必然性に対する我々の信頼はどこから来たのか、と問題を置き換えてしまったのです。事物の本性についての問題を、事物と私たちの関係の問題へと転換するのです。この新しい問題に関するヒュームの回答は一言で済まされます。それは習慣つまり「慣れ」だというのです。すでに反復されて来たものの慣れが確信に至るのだと。毎朝、目覚めると陽が昇っていることが、また翌日も陽が昇ることに確信に似た自信を持たせると。

カントもヒュームに教えられて、この理由律の問題に疑義を呈しました。しかし、因果的必然性についてのカントの回答はヒュームと違って見事なものです。カントの回答は背理法に似た証明と言ったらよいでしょう。因果的必然性がない世界を仮定して、それがあり得ないことを証明するのです。なぜなら、因果性が世界を規定することをやめたのなら、いかなるものも恒常性を持たなくなり、表象可能ではなくなるでしょう。「もし人間があるときには動物のような形態に姿を変え、ひじょうに長い一日の間に、田舎があるときは果物に包まれ、あるときには氷や雪に覆われるとしたら」(純粋理性批判)それはあらゆる形式の表象の完全な破壊でしょう。ビリヤードの球の例でいえば、ヒュームの事例はビリヤードの球だけが因果性を逃れているが、球が転がるテーブルやそのテーブルが置かれる部屋はそうではない。まさに安定した文脈の中だからこそ気まぐれな結果を仮定できるのです。つまり因果的必然性とは意識と意識が経験する世界にとっての必然的な条件の一つである、と。

メイヤスーは、以上の三つの回答とも共通の公準として、因果的必然性という真理を疑いの余地なく認めていると言います。ライプニッツとカントの回答は言わずもがな、彼らの目的は因果性の真理の証明にあるのですから。しかし、ヒュームも、実は内心では因果的必然性について疑いを抱いてはいないのです。ただ、彼は、自然現象を発生させる原理の究極的源泉は人間の好奇心、探究から全面的に閉ざされている、といっているのです。懐疑主義者とはまさにこのような人たちのことなのです。しかし、懐疑主義は簡単に迷信に転じうる、とメイヤスーは書いています。「というのも、事物の流れには底知れぬ必然性が存在すると肯定し信じることは、まさしくさまざまな摂理を信じることになるからだ」

メイヤスーは、ヒュームが迂回した問題を再び取り上げ、因果的必然性についてのカントの証明を打ち破らねばなりません。もし、私たちが世界について持つ表象が必然的結合によって支配されていないのなら、世界は曖昧な知覚が無秩序に集積したものでしかなくなるだろうし、それは統一された意識の経験を構成することができないであろう、それは脈絡のない断片の経験の集まりににすぎない。つまり、法則の必然性とは、それをもとに意識の条件それ自体が作られる以上議論の余地ない事実なのです。このカントの証明は攻略不可能に思えるのですが、、、。

「カントの推論には同意することしかできないが」とメイヤスーは書いています。しかし、同意できるのは、世界の安定性の概念だけであって、決してその必然性ではない、と。 朝、蛇口をひねると水が下に落ち、窓を開けると風が部屋に入り、足を互い違いに動かすと会社の玄関に着く。これは自然の斉一性の原理で、この安定性には異論がないように思えます。しかし、その斉一性の必然性についてはどうか。明日もまた水は下に落ち、窓を開けると風が吹き抜けるのか、その確実性の保証はどこから来るのでしょうか。

実は、その斉一性の必然性を主張する必然性論者は、自然法則の安定性から、その強制的な条件として自然法則の必然性を次のように推論しているのです。
1、もし法則が実際に理由なく変わりうるものであるならば、すなわち法則が必然的でないとするならば、法則は理由なく頻繁に変わるだろう。
2、ところが、法則が理由なく頻繁に変わることはない。
3、したがって、法則が理由なく変わることは起こりえない。言いかえれば、法則は必然的である。

2の命題は異論の余地がありません。問題は1の命題の帰結部分で、もし自然法則が偶然的であるなら、それはなぜ頻繁に変わらねばならないと結論づけるのか。問題はこの一点にかかっています。メイヤスーはジャン=ルネ・ヴェルヌの『偶然理性批判』を援用して、暗黙のうちに法則の安定性から必然性へと移行する推論の根拠は確率論者の論理にある、と主張します。ビリヤードの球は、アプリオリにほぼ無限に近い行先・振舞いが可能です。しかし、実際には自然法則に最も適った一つのみが常に実現されます。サイコロの投擲を考えてみましょう。一時間の間、投げ続けたサイコロが常に同じ目を出す。いや一時間ではなく、一生を通じて、いや人類の記憶すべてを通して同じ目を「出す」と仮定しましょう。そのサイコロには何かイカサマが(鉛の玉のような)隠されていると思うのは普通でしょう。そのサイコロを前に卓の前に座っているのがヒュームとカントです。彼らは、もし偶然性が真なら、サイコロが常に同じ目を出すはずがない、もしすべてが偶然なら、サイコロは常にデタラメな目を出すだろうと推論するのです。しかし、今度は、頭の中だけで、膨大な数の〈宇宙サイコロ〉を考えてみましょう。サイコロのそれぞれの面はそれぞれの物理法則を持つ世界という一つの集合を表しています。私たちはそれを頭の中で転がす、頭の中では無数の物理法則を持つ世界が思考可能です。しかし、何万回ふっても宇宙サイコロは常に「私たちの物理法則」という目を出します。慣れ親しんだ私たちの世界が常に現出するのです。

ここで問題なのは、カントは、物理法則(自然法則)という目を現実のサイコロと同様に考えているところで、実は宇宙全体を全体集合とした場合、確率論は適用できないはずです。なぜなら、カントールの超限数(いくらでもより大きな濃度の高い集合が考えられるということ。集合の部分集合は常に元の集合より多い。集合{2 4 6}の部分集合はφ(空集合){2}{4}{6}…{2 4 6}と8個あります)は常により大きな集合の存在を証明しているので、確率の分母たる全体数が無限にあるのなら確率論は意味をなしません。これは私たちの自然法則の世界が安定した記憶を持っていても、いつ何時でも変わりうる可能性を否定しないということなのです。

もし、この証明(正直、不安な証明ですが)が真実なら、この勝利はピュロスの勝利(割りに合わない勝利)です。なぜなら、この証明は私たちの世界がまさにハイパーカオスの世界であり、明日何が起こるか予測できない、小惑星の衝突、太陽エネルギーの逓減、キリスト再臨と死者の蘇りすら可能であることを示しているからです。しかし、明日目が覚めて、地球が安泰であることを確認して喜ぶ必要はありません。これはまた思考が思考可能なものを思考する試みであり、世の中の必然性論者(独断論者)を糾弾する試みなのです。メイヤスーの最後の結論は感動的です。「私たちに〈なぜそうであって別様でないのか〉という形而上学的問いかけに対しては〈いかなる理由もない〉というのがその答えなのだ。〈私たちはどこから来たのか、なぜ存在しているか〉という問いに対して、笑い飛ばしたり、微笑を持って応じるべきではない。〈無からである。いかなる理由もない〉という答えこそがまさしく答えなのである」。

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2016年11月 1日 (火)

カンタン・メイヤスー『有限性の後でー偶然性の必然性についての試論』(1)

旅行の後、案の定、調子を崩してしまって、複数の病院に通う日々が続いて、だいたい寝込んでしまう毎日が続いていました。横になって考えることは、縁起でもないが、死についてのあれこれです。私が死を恐れてきた理由は、意識の全き遮断による無限に続く虚無の恐怖です。しかし、よく考えてみると、こんな風に「無の世界」に滑り込んでいくというのも、私の勝手な思い込みで 、その確からしさは、ISの自爆戦士が、60人の処女の待つ天国に行けると信じているその確率と変わらない筈です。なぜなら、死後にどんな世界が待っているか、今のところ死んでみないと確証する手立てがないからで、それはちょうど、扉を閉めないと灯りが点かないパリの古いカフェのトイレに入るようなものだからです。してみると、死後の世界があるかどうかの確率は50%だと言ったバートランド・ラッセルはやはり正しかったのでしょうか。

以上のことをポヤポヤ寝つつ考え、考えつつ寝ていたのは実はカンタン・メイヤスーの『有限性の後で』(人文書院・千葉雅也・大橋完太郎・星野太訳)を読んでいたからで、この本の第3章に、死後の世界について立場の違う五人の架空の論争が描かれているからです。最初の一人はキリスト教の独断論者で、魂は死後にも残り神の意志のままであるが、神の正確な意図は人間には閉ざされていると言います。次に登場するのはかつての私のような無神論者で、死んだら私たちの存在は完全に破棄され、全き無の世界が訪れると主張します。3番目に相関主義者が現れるのですが、ここで相関主義(correrationisme)について簡単に説明しておかねばなりません。

相関主義とはメイヤスーの造語で、私たちの認識は、私たちの受容機関と対象の間の関係にあるという考えです。林檎の赤さは、リンゴの中にあるのでなく、また私たちの中にあるのでもあ りません。それは林檎と私たちの関係の中だけにあるのです。だから、即自的なもの(自分自身だけであるもの)を私たちは認識できないし、ただ「私たちにとってのもの」に変換し、構成することによって初めて認識できるのです。これは、むろん元々はカントの考えで、カントは物自体(即自的なもの)は認識できないが、思考はできるとしました。ところが、カントの後に続くものは、さらに徹底して、物自体を思考することさえできないのだと主張しました。カントとその徹底論者を含めてメイヤスーは相関主義者と名付けるのですが、これ以降、哲学は実体を求めるという哲学本来の目的を捨てて、何がより根源的な関係かという探求に向かったのです。それは主に意識と言語という二つの主要な「環境」で起こりました。それぞれ前者は現象学を、後者は分析哲学のさまざまな流れを支えています(代表はハイデガーとヴィトゲンシュタインです)。また、本質的なものは対象と私たち自身の、つまり、存在と思考の関係にしかないという考えは、相関の絶対化、ないしは、より本質的な相関を求める思索に通じます。ヘーゲルの「精神」、ショーペンハウアーの「意志」、ニーチェの「力への意志」、ベルグソンの記憶を充塡された知覚、ドゥルーズの「生」、等々、この考えは現代に至るほとんど全ての哲学を覆っていると言ってもよいのです。

話が中断しましたが、キリスト教信者が、死後に永遠の魂を得ると言うのに対して、無神論者は、死んだら無で、後には何も残らない、と断言します。この二人に対する相関主義者の回答は、次のようなものです。つまり、キリスト教信者は魂の永遠、無神論者は絶対の虚無と、どちらも絶対的なものを措定しているが、即自的なものは〈私にとってのもの〉に変換されなければ知ることができない。つまり、キリスト教信者も無神論者もどちらも正しいことを言っているのだろうが、それは自分たちにとっての必然なので、だからどちらも誤りとは言えず、はっきり言えば無意味なのだ。私たちは、この世界にもはや私たちが属していないという条件下で私たちがどうなりうるかを知ることはできない、と。

四番目に登場するのは主観的観念論者です。主観的観念論とは、世界や事物をすべて自らの主観によるものとして、客観的な実在を認めない人間で、哲学史ではバークリーが有名でしょう。死後の世界について、主観的観念論者は、先の三者の誤りは、いずれも、私たちの現在の状態と異なる即自的なものが存在することを認めている点だと指摘します。理性にとって到達不可能な神や、また純然たる無もまた即自的なものである、さらに相関主義者もそのようなものを認識することはできないが、存在することを認めている。しかし、そもそも、そんなものは思考不可能である。とりわけ、私がもはや存在しないことを私が思考することなど不可能であり、私は存在するものとしてしか思考できないし、私が思考できるとしたら、それは私が存在するからである。従って、私は存在するしかないし、私の存在は、身体はともかく精神は不死である。こうして主観的観念論者は死さえも無化するのです。

これに対して先の相関主義者が反論します。独断的実在論者たちがそれぞれに主張する死後の状態の可能性は、それ自体としては思考不可能であるとはいえ(神の観想、純然たる無)、そういう主張自体は思考可能であるわけだ。死において私が全く別様になりうること(神に召されることや無化されることや自己同一的に存続し続けること)は思考可能である。なぜなら、私は自分を存在している理由を欠くものとして、このように存続する理由を欠くものとして思考しているのだから、それはすべての可能性に開かれていると言える。つまり、思考不可能なものの可能性であれば、間接的に思考できるはずだ。

最後に、思弁的哲学者が介入します。思弁的とは、経験によらず思考や論理で考えていくことで、世界を一から論理的に組み立てて行くヘーゲルは思弁的観念論者、経験をもとにアプリオリ(先験的に決まっている)な作用によって知覚と認識を構成するものが、カントのような超越論的観念論者と言われています。実はメイヤスーの立場は、思弁的に実体を考えて行く思弁的唯物論(一般には思弁的実在論)で、この『有限性の後で』はそのバイブルともなった書物です。さて、その思弁的哲学者はどのように前の四人に立ち向かって行くのでしょうか。

メイヤスー の考えは、いわば、相関主義者の方法を逆手にとったものです。死後には、永遠の魂も無限に続く虚無もどちらが真実に存在するか誰にもわからない。地獄の審判があるか、楽園の愉悦があるか、それもわからない。みな等しく、可能であり、また不可能である。起こりうることは全て等価である。なぜなら、相関主義者が言うように、死後に何が起こるかという理由など存在しない。デカルトの完全なる神がいなければ、どんなことが起ころうと予測することはできない。ただ確実にわかるのは人間とそれをとりまく事物との相関という事実性のみである。メイヤスーは、この相関性という事実を取り上げて、この事実性(哲学における事実性とは何の根拠も理由もなくただ事実としてあること)こそ唯一の絶対的なものであり、その非理由こそ私たちのよって立つ拠点だというのです。私たちは、私たちが存在することの〈理由の不在〉によって〈全き別様である可能性〉に開かれているのです。

実は、この一点にこそ相関主義者に対するメイヤスーの渾身の一撃が隠されているのです。カントが素朴実在論を蹴散らして、我々は対象そのままを知覚するわけではなく、超越論的主体によって構成された認識によるのである、と断言して以来、すべての世界・事物は「人間を通して」、あるいは空間と時間と悟性のカテゴリーを通じて、つまり、すべては相関性によってのみ我々に与えられるとされたのです。しかし、この死後の世界の可能性についての思索は、そこに一点の穴を穿ちます。もし、人間と事物との間の、つまり思考と存在の間の相関が単なる事実性であり、非理由であり、それゆえに私たちの存在が〈別様である可能性〉を持つのなら、この〈別様である可能性〉は私たちの思考に相関的に思考されることはありえない、なぜならそれは、まさしく私たちの非存在の思考を含意するからである、とメイヤスーは書いています。

書き出しのつもりでだらだら書いていたら、いきなり結論に行ってしまいました。ここで一服して(紅茶でも飲んで)(2)では、この書物と、それとキーワードである〈非理由〉や〈偶然性〉について書いて行きましょう。

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2016年6月26日 (日)

昔の飼猫の思い出

どうでもいいような話ですが、私が死んだらもう誰の思い出にも残らないので、やはり書いておきます。それは30年以上前に、田舎で共に暮らした一匹の仔猫の話にすぎません。私は九州の小都市の郊外に一軒の古い農家を借りて暮らしていました。広い縁側、土間にある台所、石造りの五右衛門風呂などが私の「世捨て人」気取りに合っていたのでしょう。そんな暮らしを始めて程ないある夜のこと、その夜は激しく雨が降り続いていたのですが、布団に入って間もなく仔猫の泣き声が聞こえてきました。どうも家の軒先で泣いているらしい。無視して寝ようと思って目を瞑るのですが、泣き声は次第に叫び声に変わって行きました。 あまりの必死さに仕方なく台所のある土間の戸を開けると、茶トラの思ったより小さい仔猫がびしょ濡れになって座っています。タオルでくるむと、寒さのためかガタガタ震えています。泣き疲れたのか、もう口を弱々しく開けるだけで泣き声も出ません。炊飯器に残っていたわずかの白米をあげると、夢中になって食べ始めました。

翌日、大家さんの家へ行って猫を飼う許可をもらいました。私は実家に猫がいたので猫という動物には慣れているつもりでしたが、この仔猫ほど愛着を露わにする猫には出会ったことがありません。四六時中私から離れないので、近くのスーパーに買い物に行く時はコートの懐に入れて行きました。散歩に出ると、畑の道を私の後になり先になり遊びながら付いてきます。借りた農家がちょうど通学路にあったので、小金を稼ごうと学習塾を始めたのですが、教室の隣の部屋に隔離しておくと泣き叫んで授業になりません。教室に入れると体に上ってくるので、止むをえず抱きながら黒板で授業することになりました。天気の良い日は縁側で四肢を伸ばして寝ていました。近くの陸軍墓地の芝生が好きで、私がベンチに座って本を読んでいると、芝生の上を駆け回って蝶々や虫や蜻蛉を追っています。魚肉ソーセージが好物で、私が包丁で輪切りにするのを傍できちんと座って待っていました。こんなことも思い出しました。生徒の修学旅行の土産に長崎のカステラを貰ったのですが、カステラ好きの私は翌日食べようと卓袱台の上にのせて置きました。朝起きると、布団の中で私の腕に首をもたせて寝ている仔猫から甘い香りがします。はっと気がついて、卓袱台の上を見ると、カステラが半分近く食べ散らかされていました。

しかし、この仔猫との生活もほぼ一年近くで終わってしまいました。東京で慶事があって一週間ほど留守にしていたのですが、その間、私の家と畑を一つ隔てた向かいに住んでいる若夫婦に仔猫の食事を頼んでいたのです。その若夫婦とは時折食事をして無駄話をしたり、また仔猫も勝手に遊びに行って食べ物を貰ったりする仲だったのです。然るに、その東京滞在中に、九州の親類から電話があって、仔猫が死んだというのです。その親類の話によると、仔猫は腹を下していたので若夫婦は正露丸をちぎって飲ませたら死んでしまった、ということでした。猫に石炭酸を飲ませるとは! 何という無知でしょう。亡骸は親類が山に持って行って埋めたとのことでした。九州に帰ると、若夫婦の奥さんが顔を出して、主人は合わせる顔が無いとのこと、合わせる顔も何も命が一つ失われたことはどんな償いも無意味です。

一人で死ぬのはきっと苦しかったことでしょう。小さな命の何とはかなく愛しいことでしょう。私は死後の存在を信じないので、あの世でまた仔猫に会えるとは思っていないのですが、私が死ぬ時には長い夢を見て、その夢の中であの仔猫がきっと待っているような気がするのです。そして、私を陸軍墓地に似た芝生の公園に連れて行き、モンシロチョウにジャンプしたり、私の足にからまってきたり、私の手から魚肉ソーセージを美味しそうに食べるでしょう。なにせ30年以上待っていたのだから、甘える権利は十分あるわけです。
(6・24 パリー東京間の機上にて)

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2016年6月12日 (日)

フランス語の勉強

「趣味は何ですか?」と聞かれると「将棋です」と答えることにしているのですが、「ふうん」とか返事されて、そのまま会話が途切れてしまうことが多いのです。ちなみに、私がこの趣味にかける年間費用は0円で、そのため妻にはたいへん好評です。あまりに健気に思ったのか、誕生日に棋士の名入りの湯呑み茶碗を買ってくれたこともありました。ところが、歳を重ねて人生の残り時間が少なくなるにつれて、この趣味にもそれほど執着がわかなくなりました。頭を使う割には得るところがあまりないし、それに何より才能皆無のヘボ将棋なので上達などたかが知れているのです。思えば、すべてに執着心が薄れたのか、阪神タイガースにも30年前のような熱意はなくなり、囲碁やチェスへの興味も薄れ、酔っぱらって知らない街を歩くこともまったくなくなりました。

そう考えると、今でも続く密やかな趣味といえばフランス語の勉強しかないような気がします。ここ何年も早朝に目が醒めることが習慣になり、その1〜2時間をネットで仏語の新聞を読むことに使い、朝食前のわずかな時間にその日の忘れた単語や新規の単語をノートすることにしています。そして、フランス24のテレビを見ながら朝食を食べ、余暇の読書はほとんど仏語の本ですし、電車内ではラジオフランスを聴くか、ユーロニュースを観ています。これほどの持続的な興味の理由はどの辺にあるのでしょうか。私は、よく考えて、それには二つの理由があることに思い至りました。

その一つは、フランス語の難しさです。膨大に思える単語、底の知れない慣用語法の奥深さ、うまく聴き取れないリスニングの歯がゆさ、どう考えてもわからない哲学書の数ページ、頭を絞り、記憶力に鞭打ってこれらの難敵に立ち向かうことは趣味だからこその楽しい苦闘です。分厚い単語ノートを整理していると、妻が「あれだけ覚えたのに、まだ知らない単語があるの?」と聞いてきました。「とんでもない」と私がすぐさま答えます。「単語って覚えるよりも忘れる方が多いんだよ。まるでザルで水をすくうようなものさ。おまけに自分は頭が悪いから、一つの単語に50回出会ってやっと覚えるんだ。」

フランス語の勉強のもう一つの魅力は、矛盾するようですが、その易しさです。所詮は語学であり、ピアノやテニスと同じように弛まぬ努力によって身につく技術に過ぎません(むろん卓越した才能はその類ではありませんが)。それは、検定試験に表されるようにその技量を客観的に測ることもできるのです。飽きずに努力すれば必ず向上する。勉強の難しさと易しさはそこにあります。書庫で本を探していると、昔に読んだ仏語の小説などに出会うのですが、その時難解に思えた頁もすらすら読み進めることに気付いて驚きます。凡愚な人間でもその成長を確認できるとは何とうれしいことでしょうか。

それに対して、私が本当に難解なことと思うのは、手前味噌になりますが、このブログで続けている書評(というか本の感想)のようなものです。人の真似でないような、自分自身の本質とどこかで通じているような、それでいて面白く読めるようなものを書くことは私のような凡才には簡単なことではありません。その本を読みに読んで、その本の奥の奥に、自分と共有できる魂の一点を見つけることができずにのたうち回ったことが幾度あったことでしょう。ついにその一点に逢着できずに無駄に失われた時間のなんと多いことでしょう。このような苦しみと焦燥はフランス語の勉強には無縁で、それは趣味の矩を決して越えることはないのです。

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2016年5月15日 (日)

ナボコフ『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』

Kさん
もう初夏の訪れですね。約束した本の感想をもう半年ほどさぼっていますが、身体の不調はどうにもなりません。まあ、生きていけるだけで感謝すべきなんでしょう。ところで、ナボコフのこの本を読むと、私たちが出会った20年ほど前を思い出しました。確か、阪神淡路大震災の翌日か翌々日だったと思います。仕事の仲間たちとレストランで昼食を食べながら、関西の惨禍にひとしきり意見が飛び交いました。私たち二人だけが食べ遅れて(注文したグラタンの調理に時間がかかって)皆が仕事場に戻った後も大きなテーブルで食後のコーヒーを飲んでいましたね。あなたは黒いスーツを着て、青いストライプのブラウスの首までボタンを留めて、コーヒーカップを両手で持って口に運んでいました。その時、はじめて、私たちは仕事以外の言葉を交わしたのですが、Kさんは唐突に私に対して、「〇〇さんは、他の人たちを皆馬鹿だと思っているのでしょう?」と聞いてきたのです。「何を言っているんですか、Kさん、僕がそんなこと思っているわけがないでしょう」と慌てて否定したのですが、実は私は職場の他の人間を皆知的障害者とみなしていたのです。むろん、頭の問題ではなく(皆私よりずっと知能の高い人たちです)感覚の絶対的な鋭敏さとでも言えばよいのでしょうか。

こんなことを書くと、ずいぶん私が高慢で思い上がった人間であると思われるでしょう。しかし、どんな人間でもどこか平均以上のものを持っているし、それに私のこの特徴は生涯に渡った私自身の苦しみの源泉でもあるのです。それにしてもKさん、あなたもこの点に関してボードレールの「偽善の読者、わが同類、わが友」ではありませんか! あなたが私に手渡してくれる書物は、みな、密やかな感覚の王国の刻印が押されています。それはまるで、死滅して四散した憂愁の惑星の住人の手がかりを集めるようなものです。『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』(富士川義之訳・講談社文芸文庫)はまさにそのようなもので、私は、Kさん、あなたが共感したその理由が分かるように思うのです。この小説は鋭い感受性を持った青年の自覚と苦悩の物語だからです。

作家のセバスチャン・ナイトが36歳で心臓病で亡くなって2ヶ月後からこの小説ははじまります。六歳下の腹違いの弟である「ぼく 」はセバスチャンの伝記を書くために、彼を生前知っていた乳母や、大学の同僚や、かつての恋人を訪ねます。次第に明らかになっていくセバスチャンの生、それは彼の作品にすでに書かれていた彼自身の秘密を発見することに他なりません。まず20世紀初頭のロシアでの幼少年時代、雪のペテルブルグ、湖と美しい森に囲まれたヴィラ、そこには夢見る少年にとってのすべてがありました。母親との散歩、少女との逢瀬、幸せに包まれた生活の靄の中で、何かわからない意識の芽生え。彼は17歳で広大な領地を相続するが、革命のためにすべてを失い、19歳で家族と離れ、ケンブリッジの学生寮に逃げ込みます。

英国はセバスチャンにとっての憧れの地で、このどんよりした銅色の空の下で、ロシアの日々を思い返します。セバスチャンが思い返していたのは何だったのだろうか、と「ぼく」は考えます。
「黒々としたロシアの樅の林の彼方の霧に包まれた日没のことだろうか? 草の葉や星の隠れた意味のことだろうか? 未知なる沈黙の言語のことだろうか? 露の雫のものすごい重みのことだろうか? そのすべてに意味があるのだが、何百万という数の小石のなかのたった一つの小石がもっている胸が張り裂けるような美しさのことだろうか? そのすべてに意味があるのだが、一体どういう意味があるのだろう? 夕暮れのなかで奇妙に捉えがたくなった自分の自我に対して、そして人間が実際には一度も導き入れられたことのない周囲の神の世界に対して、発せられた《おまえは何者だ?》というあの古い、古い問いかけのことだったのだろうか?」

「何百万という数の小石のなかのたった一つの小石が持っている胸が張り裂けるような美しさ」を感じることができる人間にとって、彼が生きてゆく世界はあまりに豊饒な意味に満ちています。「さあ、憶えておくのよ」と自伝『記憶よ、語れ』の中でナボコフの母親は少年に言い聞かせます。凝乳色の空へ昇っていく雲雀の姿、褐色の砂にできた楓の葉のパレット、新雪に小鳥の残した楔形の足跡、ロシアの森のあれこれの美しいものすべてを決して忘れないようにと。母から相続したこの目に見えない財産は、とナボコフは語ります、後の喪失に耐えるためのものだった、と。

ケンブリッジで、セバスチャンは、英国の学生になりきり、英国の学生風に生きようと努力します。しかし、努力すればするほどケンブリッジの学生社会に溶け込めない自分に気付くのです。やがて、三学期、四学期と過ごすうちに、彼は自分のぎごちない不適応性について思い悩むことをやめ、自分がいかほど努力しようと自分の秘密の部分はどうしようもないほど孤独だ、いや孤独こそ自分の基調であると気付くのです。同時に彼は自分の魂のリズムが、他人のそれよりはるかに豊かであること、自分のほんのちょっとした考えや感覚すら仲間たちのよりも常に次元が最低一つは上にあることに感づいたのです。

「ぼくの場合、心のあらゆる鎧戸(よろいど)や蓋や扉が四六時中すぐに開いてしまうのだ。たいていの人の頭脳には日曜日というものがあるが、ぼくの頭脳には半日の休暇さえも拒絶されているのである。この間断なくつづく不眠状態は、それ自体きわめて苦痛なばかりでなく、その直接的な結果においてもまた苦痛をもたらすのであった。当然のことながら、ぼくが実行しなければならないあらゆる日常的な行動は、非常に複雑な様相を呈し、非常に多くの観念連合をぼくの心に生じさせるのだった。」

セバスチャンは、遠い中国で起きた地震の惨禍に悲しむことのできる人間が、なぜ中国への距離数と同じだけ離れた昔に起きた地震の被害に胸を打たれないかを不思議に思います。残された彼の小説のなかでセバスチャンは次のように書きます。「レストランの客たちは、食事を運んだり、外套を預かったり、ドアを押し開いてくれる活動的だが人目につかぬ人たちに決して気がつこうとはしない。ぼくは数週間前に中食を共にしたある実業家に、帽子を手渡してくれた女が、耳に脱脂綿を詰めているのを一度気づかせてやったことがある。彼はびっくりした様子で言った。そこにそもそも女がいたなんて気がつきませんでしたなあ…どこかへ急いで行く途中だからといって、タクシーの運転手の裂けた唇を見落とすような人間は、ぼくには偏執狂としか思えない。チョコレート売りの少女がかすかに、ほんのかすかに足を引きずっているのではないかしらと感じるのは、群集のなかで自分一人だけなんだと思うようなとき、ぼくはまるで盲人や狂人たちの間に挟まって坐っているような気が始終するのだった。」

セバスチャンと「ぼく」が レストランを出て、脇目もふらずタクシーの行列の方に歩いていたとき、かすみ目の老人が親指に唾をつけ、二人に広告のチラシを渡そうとしていました。二人は夢中になっていたので、それに気づかず通り過ぎました。しばらく行って、セバスチャンは「しまった、見て見ぬ振りをしてしまった」と言って、「ぼく」を置き去りにし、やがて一枚の小さな紙切れを持って戻ってきました。そして、その紙切れを捨てる前にていねいに目を通していました。

「そのすべてに意味があるのだが、いったいどういう意味があるのだろう?」これがセバスチャンが終生抱き続けた謎です。彼はこの謎を人や社会との関係の中ではなく、個人の、つまり自分自身の意識の中に求めます。これがきわめて特異な点で、またきわめて感動的な点でもあるのです。自伝『記憶よ、語れ!』の中でナボコフはこう書いています。「人間の意識、一個人の記憶、そして言葉によるその表現に比べれば、宇宙とはいかにちっぽけで(カンガルーの袋にもすっぽり入りそうだ)、いかにくだらなくけちくさいものだろうか!」 Kさん、まさにそのとおりなのです。生きるとはそのようなめくるめく世界を体験することであり、自分に起こる出来事のすべてを意味付けて思い起こすことなのです。「幼年時代を探ることは」とナボコフは言っています。「永遠性を探ることの次善策である。」

セバスチャンはナボコフ自身のさらに先鋭化された姿であり、彼が知的で美人で彼の生活に溶け込んでいたような恋人クレアと別れてしまう理由も、この過剰な意識の故なのです。「クレアはセバスチャンの陽のあたる部分しか知らなかった。」そして、最後の軽薄な女友達ニーナともむろん心が通うことなく別れていきます。セバスチャンはロンドンの住居にこもり、また旅行をし、持病の心臓病の発作に苦しみながら、最後の小説『疑わしい不死の花』の執筆を続けます。物語は「ぼく」が重病のセバスチャンに会いに行き、もう一歩のところで臨終に立ち会えなかったところで終わるのですが、そこで「ぼく」は『疑わしい不死の花』に想いをめぐらせるのです。

セバスチャンのこの小説は、臨終の床に就いている一人の男の意識の描写だけで成り立っています。死についての考察、やがて訪れる臨終の苦痛、ちょうど舞台の端に男が横たわっている寝台が置かれ、その横のスポットライトが当たっているところに、次々と人物が登場し、また退場するように、混濁しつつある最後の意識は記憶の中のすべてを蘇らせてきます。チェスの名手、シュヴァルツが登場し、孤児の少年に桂馬(ナイト)の動かし方を教えています。愛らしい背の高いプリマドンナが、慌てていたため水たまりに足を踏み入れ、銀白の靴を台無しにしてしまいます。すすり泣いている一人の老人が、薄く口紅を塗った喪服姿の少女に慰められています。これらの人びとや他の人びとがスポットライトの当たっているときだけ活動し、一人の男が臨終の床に就いているという主要主題の波の中に順次飲み込まれていきます。その男が腕を動かしたり、頭の向きを変えたりするたびに、今挙げたような人生模様が生起してくるのです。

そしてついに読者はこの本の中枢部に読み進んできます。「今となってはあまりに遅すぎるのだが、《人生》という本屋がもう閉店する時間になって、初めて彼は前から手に入れたいと思っていたある本を購入しなかったことを後悔した。地震や火事や列車事故を一度も経験しなかったことも後悔した。ある日、人気のない林間の空地で出会った淫らな目付きのふらふらさ迷い歩いていた女学生に話しかけなかったことも。汽車に乗りそこない、いろんな引喩や機会を利用しそこなったことも。身を刺すような寒い日に、手をがたがた震わせながらヴァイオリンを弾いてくれた年老いた男にポケットの小銭を手渡してやらなかったことも。」

最後にセバスチャンは生と死についての真実を語ります。人生とはもつれ合った糸であり、自分とはその硬い結び目なのだ。力まかせにほどこうとすれば出血するが、もし糸のからまり具合に注意して、上手く辿って行けば彼が、そして万物が解きほぐされるであろう。こうして「この世の生活を通じて、鉄輪の巻きついた頭脳と自分自身の個性というぴったりはまった幻想に惑わされて、がんじがらめに束縛された思考」はついに解放されるのです。「そして万物の意味がそれぞれの姿形に応じて一様化され、もはやいかなる物も無意味ではない」と悟った時、その一瞬の逡巡の間に瀕死の男は息を引き取ります。

『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』は「ぼく」がほんとうはセバスチャンその人であった、という自覚で終わるのですが、この「ぼく」にはナボコフの実の弟セルゲイの影が宿っています。明るく活発なナボコフに対して弟セルゲイは内気で寡黙であり、ナボコフが音楽嫌いにたいして、セルゲイはピアノが巧みでした。兄弟は子供時代は打ち解けなかったが、ドイツとフランスでの苦しい亡命生活を通じて心が通うようになります。兄弟の唯一の共通の趣味であったテニスで、左利きのセルゲイは吃音のため審判に判定についての抗議ができなかったとナボコフは書いています。『記憶よ、語れ!』では曖昧に書いていますが、実はセルゲイは同性愛者で、ナボコフとリュクサンブール公園で待ち合わせた時、口紅を塗ったパートナーを連れて来てナボコフを驚かせました。しかし、戦争終結の間際にセルゲイはハンブルクの収容所で栄養失調で死んでしまいます。「そのすべてに意味があるのだが、いったいどんな意味があるのだろう?」セルゲイはナボコフの幸福な幼年時代と苦しい亡命時代の数少ない目撃者で、意識の惑溺とも言える自身の病のもっとも自然な語り手と思えたのでしょう。

Kさん、遠い昔の話から結論とも思えぬ終わり方でさぞ不満のことと思います。あのレストランのあった駅近くのショッピングモールも、いつの間にか閉鎖されていましたね。あの日、遅くなった昼食のため私たちは急いで仕事場に戻って行ったのですが、私はコンビニのところで転んでしまい、先に走っていたKさんから「遅刻してクビになっても知りませんよ」と声をかけられたのでした。「Kさん、ぼくが経営者だって忘れてるでしょう?」と言って何とか起き上がったのですが、22年も昔のことなのにその日の東京の空の青さはよく覚えています。そのすべてに意味があるとしたら、私たちが注文した海老のグラタンも相応の役目を果たしていたのでしょうか。


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