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2024年5月31日 (金)

読書余滴 レヴィ=ストロース(3)


「レヴィ=ストロースは、最後に自分自身を解体するが、その直前に彼を捨てるのが秘訣(うまいやり方)である。どこでそれをやるかは、なかなか決めにくいが、それは、よそからきた人に、どこでバスを降りるか聞かれて、「私を見ていて、私が降りる一つ前の停留所で降りなさい」と答えた、ある女性の話を思い出させる。私たちは、途方に暮れて、慌てて飛び降りるが、たいていは、行き先まできていないことに気づく。そして別のバス(神学とか心理学とか)に乗るのだが、場合によっては何度も乗り継ぎしなければならず、そして結局、訳がわからなくなる。」

 これは『神話の意味』(1996みすず書房•大橋保夫訳)に付されたシカゴ大学のインド学者ウェンディ•ドニジャーの序文の中の言葉ですが、ところで、それなら一層、レヴィ=ストロースの降りる停留所まで一緒に乗って行って、そこからゆっくり(口笛でも吹きながら)戻ってくればよいでしょう。彼の最終的な「停留所」については後述するにして、彼の生涯と思索を振り返って見なければなりません。それに最適な本が『遠近の回想』(1991みすず書房•竹内信夫訳)です。これは、ディディエ•エリボンとの対話で、レヴィ=ストロースの生涯の思索の痕跡が率直でありながら、やや婉曲的に深みを持たせた色合いで展開して行きます。彼は、その時、80歳でした。エリボンは哲学を専門にしたジャーナリストで、ジョルジュ•デュメジルとの素晴らしい対話も本になっています。

 『遠近の回想』のプロローグで、レヴィ=ストロースは、自分は、昔から、記憶力にはまったく自信がなく、そのため実生活に支障が出るので困っている、と打ち明けます。それを防ぐために日記とかつけないのですか、とエリボンが尋ねると、日記など一度も付けたことはない、自分は自分自身に対して本能的に不信感を持っているからだ、とレヴィ=ストロースは答えました。これは不思議な答えでも逆説的な答えでもありません。これは、自分に対して誠実であろうとした人間が発することのできる唯一の答えです。

 それでは、あの『親族の基本構造』や『神話論理』の膨大な資料の記憶は、どう保管されたのでしょうか。『親族の基本構造』には世界中から集められた民族や地域のデータが、『神話論理』にはゆうに800を越える神話が整理•分析されています。レヴィ=ストロースは、例えばある地域の神話を調べるとき、それに関するあらゆる書物、記録、自分の感想などのメモをすべてカードに書いて、特定の箱に放り込みます。いよいよ執筆の時には、それらのカードを占いをするようにテーブルに並べ、順番をいろいろ変えて偶然が思いがけないものを生み出すかのように期待します。こうして記憶は保存されるのです。

 記憶力の無さといえば、レヴィ=ストロースの語学習得の不得手さも特筆ものです。彼の友人たち、ヤーコブソン、バンヴェニスト、デュメジル、また彼が尊敬するボアズなどは楽々と10以上の言語を使いこなしました。デュメジルなどは、対訳本を100ページも読めばほぼ完璧にその言語を理解できた、ということです。レヴィ=ストロースは、研究の本拠地であったアメリカ英語は何とか習得したものの、思考の根幹はもっぱらフランス語のみでした。

 考えてみれば、彼のキャリアの前半は、決して天才などと呼べるものではありませんでした。ヤーコブソンは言わずもがな、エコール•ノルマル(パリ高等師範)を首席で合格(20点満点中19点)したデュメジル、シリアのユダヤ人社会で天才少年ともてはやされたバンヴェニストなどの光彩陸離たる連中と比べることもできませんが、レヴィ=ストロースは、あのアグレガシオン(教授資格試験)も同期のメルロ=ポンティやボーヴォワールに2年遅れて合格しています。

 なお、レヴィ=ストロースが決して悪口を言わない人間は、ヤーコブソン、ボアズ、メルロ=ポンティの3人ですが、とくにメルロ=ポンティはコレージュ•ド•フランスへのレヴィ=ストロースの三度目の立候補の時に決定的な助けとなりました。彼は死の直前(1961年に53歳で心臓発作で死亡)の三か月を友人のために奔走し、何人もの教授連中に会ったり手紙を書いたりしてくれたのです。コレージュに当選して、最初の教授会の時、メルロは友人が迷わないように、40人の教授が座る大きなテーブルの図を描いて渡してくれました。それでレヴィ=ストロースは、迷うことなくメルロ=ポンティとバンヴェニストの間の席に着くことができたのです。コレージュの開講講義のとき、冒頭でレヴィ=ストロースは数字8についての考察を披露したのですが、それがメルロ=ポンティをヒヤヒヤさせました。というのも二人は1908年生まれで同年ですが、メルロは人にそのことを言われるのを嫌がっていたのです。明らかにレヴィ=ストロースの方が年上で老けて見えるからで、メルロは自分と一緒にされたくなかったのです。

 アグレガシオンは、試験の前に実習があるのですが、レヴィ=ストロースとメルロ=ポンティとボーヴォワールは3人一緒の組で交代に授業を行いました。その時のボーヴォワールについてレヴィ=ストロースは「アピ林檎(半分が白く、半分が赤い林檎)のように白い肌が色づいて田舎娘のようだった」と回想しています。それからずいぶん経って、ボーヴォワールが『第二の性』を書き終えようとしていた頃、彼女はミシェル•レリスからレヴィ=ストロースが家族についての本を出そうとしているという話を聞いて、レヴィ=ストロースの家に来て、ゲラ刷りの『親族の基本構造』を読んでいきました。彼女は自分の本を書き上げる前に、人類学の最新の研究を知っておきたかったのです。1949年に『親族の基本構造』が出版された直後、彼女は《レ•タン•モデルヌ》に絶賛の書評を書きました。

 『遠近の回想』の第一部は「ドン•キホーテの帰還」と題されています。なぜドン•キホーテなのか。レヴィ=ストロースは、将来、自分がどういう人間であったか知りたいと思うような物好きが現れたら、私は彼に「ドン•キホーテ的精神」という鍵を渡してやりたいと思う、と言っています。その意味は?と問われて彼は、「辞書に書いてあるとおりの意味ですよ。不正を正すことへの、抑圧された者の希望の星たらんとすることへの偏執狂的情熱、という意味です。」と答えています。レヴィ=ストロースは、子供のころ、『ドン•キホーテ』の縮約版を何度も読んで、すっかり暗誦してしまっていたということです。

 彼にとって、アメリカこそドン•キホーテになれる場所でした。27歳まで、レヴィ=ストロースは、社会党代議士の秘書、学生運動の事務局、パリ大学法学部の学生、陸軍省での仕事、リセの教師、などなど、いずれも長続きせず退屈になって辞めています。彼は、もっと広い世界を見たいと思ったのです。当時、民族学はまだ確かな学問とはいえず、社会学の一分野と見なされていました。ところで、彼は、子どもの頃からお金を貯めて、古い土器や飾りや仮面といった「民族学的資料」を買い集めるのが好きでした。また、ロバート•ローウィの『原始社会』を読んでフィールドワークというものに興味を持ったのですが、実は幼少時から青年にかけて、田舎やパリ近郊を対象として「フィールドワーク」のようなものをやったこともあったのです。彼のドン•キホーテ的野望は、フィールドワークと自分が培ってきた理論的鍛錬を調和させることだったのです。

 1935年、27歳の時、彼はブラジルに出発します。フランスとブラジルはオーギュスト•コントの時代から深い関係にあって、前年にできたサン•パウロ大学にフランスから教授団が送られていたのです。レヴィ=ストロースは、その派遣団の第二次のメンバーの一人で、着任するとすぐ、社会学という名目で民族学を教え始めました。そして、妻を連れてカドヴォゥエ族とボロロ族の調査も始めました。1936年にいったんフランスに帰り、パリで民俗資料の展示会を開きます。休暇が終わると、すぐにブラジルに戻り、展示会の成功によりパリの人類学博物館から支給された資金でナンビクワラ族の調査を開始します。

 レヴィ=ストロースのブラジルにおけるフィールドワークは、1936~1938年のせいぜい3年余りで終わりました。馬に乗ったり、カヌーに乗ったり、現地人と暮らしたり、若くて体力もあり、冒険心もあったので、彼はこの調査研究を大いに楽しみました。彼がブラジルを再び訪問するのは、何と1985年、50年近く経ってからでした。

 レヴィ=ストロースは、1939年、フランスに帰りますが、大戦の直前で、期待していた教職にはつけそうもありません。もう兵役を終えていましたが、退屈なので、英国軍との連絡係を申し出ます。危ういところで戦闘を避け、イギリスに避難して、またトラックと船でフランスに戻りますが、もうフランスはドイツに占領されていました。家族のいるモンペリエに避難して、以前予定されていたアンリ四世高の教職につこうとしますが、君の名前では(ユダヤ人の名なので)パリでは駄目だと断られます。その時初めて、人種法が施行されていたことを知りました。

 フランスでは何もできず、レヴィ=ストロースは意を決してアメリカに旅立ちます。折しも、以前書いたボロロ族の論文がロバート•ローウィ、アルフレッド•メトローの目に止まって、アメリカに来ることを打診されたのです。全く無名だったレヴィ=ストロースは、アメリカでの移民許可を取るためにかなりの額の保証金を支払わねばなりませんでした。幸運にも、叔母の一人がアメリカに住んでいて、その知人の女性が保証金を払ってくれたのです。レヴィ=ストロースの生涯にはこのような幸運が幾度となくまとわりついているようです。

 1941年、レヴィ=ストロースはキャプテン•ポール•ルメルル号でアメリカに向かいました。同じ船にはアンドレ•ブルトンも乗っていて、この二人は後に親しくなります。ブルトンは「帝王」と呼ばれるように、礼儀正しく常に尊大でした。ニューヨークでも、パリでも、彼は取り巻き連中を引き連れて、骨董屋や蚤の市を歩いて美術品を買いまくりました。レヴィ=ストロースは、いつもブルトンの審美眼に感嘆し、その影響を強く受けたのですが、ブルトンは、作品と自分の審美眼の間に批評が介在するのを強く嫌いました。

 ニューヨークで、レヴィ=ストロースは、市民のためのニュー•スクールや、亡命者のための自由高等学院で教えていましたが、ここでドン•キホーテ的野望の一つ、自己のフィールドワークを基に壮大な理論の構築に専念します。このために、彼はニューヨーク公立図書館に毎日通って、その最新の民族学資料を存分に使いました。『親族の基本構造』を書くためには世界各地の部族•民族の資料がどうしても必要だったのです。

 1944年、ノルマンディー上陸作戦の報を耳にして、レヴィ=ストロースは帰国を決意します。アメリカの輸送艦隊に同乗して、V2ロケットが落ちるロンドンを経由してパリに着きました。肩書は自由高等学院の事務長というものでしたが、これは文化交流委員会のアンリ•ロジェの要請だったのですが、今度は新たにフランスの文化参事官として再度アメリカに出発します。パリにいたのはわずか3ヶ月ほどで、メルロ=ポンティと再会して実存主義について教えられたのが収穫でしょう。アメリカでの文化参事官の仕事は忙しく、フランスからやってきたサルトルやボーヴォワールやカミュなどを案内しながら、書きかけの『親族の基本構造』を完成するため、またまたニューヨーク公立図書館通いを始めました。

 1949年、文化参事官の任が解かれると、レヴィ=ストロースは完成したばかりの『親族の基本構造』の原稿を抱えて、パリに戻ります。ソルボンヌの学部長のジョルジュ•ダヴィに頼んで、副論文に『ナンビクワラ族の家族生活と社会生活』を添えて博士号の審査をしてもらいました。このナンビクワラ族についての論文は1955年の『悲しき熱帯』の後半に挿入されています。審査は通り、『親族の基本構造』は出版されましたが、専門家以外からは(難しすぎて)興味を持たれませんでした。

 これを契機に、レヴィ=ストロースにコレージュ•ド•フランスの教授に立候補しないかという話が舞い込みます。当選すれば願ったり叶ったりですが、彼は1949年と1950年、2年続けて落選します。彼が3回目の立候補でメルロ=ポンティの援助で当選するのはその10年後でした。フランスでは、もうアカデミズムで職は得られないと失望した彼にさらに気を落とさせる出来事がありました。二番目の著書となるだろう筈の『構造人類学』の出版を引き受けてもらおうとガリマール社を訪ねるのですが、その話を受けたのは査読者で編集長のブリス•パランでした。彼はサルトルの『嘔吐』を世に出したことで知られていますが、レヴィ=ストロースから新著の概要を聞くと「あなたの考えはまだ熟していない」という理由で断ったのです(パランは、その後、フーコーの『狂気の歴史』の出版も断っています)。アカデミズムどころか、出版界からも駄目だしされて、レヴィ=ストロースは自棄になって、好きな本を好きなように書こうと思い、傑作『悲しき熱帯』を書き上げます。この本は民族学の領域を超えた評判を呼び、ゴンクール賞の候補にさえ取り沙汰されました。すると、ガリマール社のオーナー、ガストン•ガリマールから電話があって、『構造人類学』をぜひ出版したいと言ってきました。すでにプロン書店が引き受けてくれた後だったので、今度は彼の方が断る番でした。

 特筆すべきは、1953年、パリを訪れたタルコット•パーソンズにハーヴァード大学のポストを提示されたことでしょう。これは講座付きの正教授で罷免されることのないポストでした。パーソンズといえば、アメリカ社会学会の大立者で、その『社会的行為の構造』のマックス•ウェーバー論は私も熟読したものでした。レヴィ=ストロースは、文化参事官の頃にハーヴァードで講演したことがあり、その時、二人は知り合いになったのです。かつての上司だった文化教育長のガストン•ベルジュに相談すると、「迷うことはない、引き受けたまえ」と言われました。

 確かに、こんな申し出を断る人はいないでしょう。ましてや、コレージュの選挙を2年連続で落選している、実質無職のレヴィ=ストロースにとっては渡りに船のはずです。ところが、彼は断りました。理由は、(ハーヴァードのある)マサチューセッツ州ケンブリッジで暮らすより、パリでボヘミアンの暮らしをしながら土曜日に蚤の市に行く方が好きだから、ということでした。私は、何となくレヴィ=ストロースの気持ちがわかります。ハーヴァード出身者など、付き合いにくい人ばかりでしょうから。

 パーソンズの申し出を断ったあたりから、レヴィ=ストロースの名声は徐々に高まってきました。『今日のトーテミスム』『野生の思考』で、構造主義の潮流の最先端に躍り出ます。1960年のコレージュ•ド•フランスの教授就任、そして1973年のアカデミー•フランセーズ入会で経歴の一つの頂点を迎えますが、このアカデミー入会は、知人、友人、家族からも失望の声が起こりました。アカデミーは保守主義の象徴だったからで、しかし、彼が入会した理由は、アカデミーがまさにフランスの保守と伝統の体現だったからにほかなりません。大革命以来失われていた伝統の唯一の生き残りの組織の一員として、彼は毎週木曜日の例会に欠かさず出席し、フランス語の伝統の保持に尽くしました。ジュール•ロマンは『善意の人々』の中で二人の主人公ジャレスとジェルファニオンに、俺たちはアカデミー•フランセーズなんかには絶対入らないと誓おう!と言わせていますが、当時若い読者に共感を呼んだこの言葉もジュール•ロマン自身がアカデミーに入会しては裏切りというものでしょう。だいたい、権威にたてつく人間の心性はどこでも同じようなものです。

 『遠近の回想』の第二部は、理論的な問題を扱っていて、彼の著作の出版後に出た批判•反論に答えたものです。その中で、いくつか気に留まったものを記しておきましょう。まず、家族感情と近親相姦について。家族感情(共に生活していると性的欲求が起きにくくなる)は、一般によく浸透しているもので、最近の研究では動物にも近親相姦を避ける種があるという発見はそれを証拠立てるものだという反論。レヴィ=ストロースは、それに対して、近親相姦は、人間にもともとある強い欲望の一つで、(もっとも強いかも知れない)、だからこそ、社会がそれを禁止するほかはなかった、つまり、近親相姦の禁止は人間が人間であるための、「自然」が「文化」になるための必要事項だったのである。「冷たい社会」と「熱い社会」の区別は歴史における発展の概念を無視しているという反論について。冷たい社会は、やむを得ず停滞した社会ということではない。積極的に変化を拒絶した社会、太古の祖先のままであることを願っている社会のことである。等々。

 私は、スタンダールやバンジャマン•コンスタンと同じように、最近はレヴィ=ストロースが好きになっています。理由の一つは、ユダヤっぽくないこと、非宗教的、非民族的と言ってよい「いい加減さ」です。両親がユダヤ人で、とくに母方の祖父はラビで、レヴィ=ストロースは子供時代、ユダヤのすべての儀式を経験していたにもかかわらずです。

 2番目の理由は、これも単純な理由ですが、親日家であること。彼は日本に四度以上来ており、来日すると講演会を1、2回こなすとあとは自由で、いろいろな地方の旅のルートを作ってもらって気楽に旅するという。まず自然、日本は国土の四分の三が人の住まないところで、自然の豊かさは類を見ない。ヨーロッパの自然は雑然として多様だ。が、日本は杉の林、茶畑、竹林、水田と様式化されている。その形態からいっても、色彩からいっても、日本の自然はわれわれの自然より濃密で、しかも豪奢だ。「日本に行けば、歴史遺物や風俗と同じほどに、私は樹木や草花に関心をもって見ました。しかし、草や木も、さらには石でさえも、生命を付与されたものであるというのは、日本人の古くからの宗教感情の精髄ではないでしょうか。日本が私にとって魅力ある国である理由の一つは、そこでは高度に発達した文学•芸術•技術からなる文化が、ずっと古い過去の時代に直接つながっているとことが感じられるという事実にあるのだと思います。」とレヴィ=ストロースは書いていますが、そのようなほめ言葉よりも、私は、彼がパリの地下鉄で日本人らしい夫婦を見ると、思わず何か助けになることをしてやれないかと思う、という独白に感動します。もしかしたら、その夫婦は私たちだったかも知れません、、、。(年代的にそれはないか)

 3番目の理由は、レヴィ=ストロースの思想の根幹にも関わるのですが、人間中心主義ではないことです。68年のパリ五月革命のとき、学生たちがバリケードを作るために立木を切ったのを見て、彼は「木は生き物ですよ。敬意を払うべきです」と言いました。エリボンが「神話とは何ですか?」と質問したのに対し、彼はこう答えています。「もしあなたがアメリカ•インディアンの誰かにお訊ねになったとしましょう。そうすると、彼はきっとこう答えるでしょう。それは、人間と動物がまだ区別されていなかった頃の物語であると。この神話の定義は、私には、なかなか意味深いものに思えます。ユダヤ=キリスト教的伝統がそれを隠蔽するためにいろんなことを言ってきたのですが、この地上で他の動物と一緒に生きながら、地上で暮らす喜びを彼らとともに享受している人類が、その動物たちとコミュニケーションを持てないという状況ほど、悲劇的なものはなく、また心情にも精神にも反するものはないと私は思うからです。これらの神話は、この原初の欠陥を原罪だなどとは考えないで、自分たち人間の出現が、人間の条件と欠陥を産み出した事件であると考えている、というのはよく理解できますね。」

 これに関連して、『神話の意味』の中で、レヴィ=ストロースが紹介しているカナダ西部のある神話が面白い。「それは人類以前、つまり、動物と人間とがはっきり区別されておらず、半人間•半動物であった時代の物語です。」と、彼は語り始めます。皆が南風に困り果てていました。というのも、意地の悪い南風がしじゅう吹き続けるので、魚を獲りに出たり、海岸で貝を集めることができなかったからです。そこで風と戦って、もっと行儀よくさせることにして、人間と動物の遠征隊が組織されました。その中にガンギエイもいて、南風を捕えるのに重要な役割を果たしました。南風は、もう一年中吹き続けることはしないで、ある時期だけ吹くと約束して、やっと解放されました。こうして、風のない時に、漁や貝拾いをできるようになったのです。

 ところで、なぜガンギエイなのか。ガンギエイは、上や下から見ると大きく平べったいが、横から見ると非常に薄い。このため、狙いやすい的だと思って敵が矢を射ると、ガンギエイはヒラリと向きを変えて側面だけを見せるのです。こうしてガンギエイは逃げてしまいます。ですからガンギエイが選ばれた理由は、ある面から見るか他の面から見るかによって、イエスかノーか一つの答えのみを与える動物だからです。一方は肯定、他方は否定という不連続の二状態を持ちうるので、神話のガンギエイの役割は、イエスとノーの答えを積み重ねることによって非常に難しい問題を解く現代のコンピューターの要素と同じです。

 「人間と他のすべての生物(動物だけでなく植物も含めて)とのあいだに、乗り越えられないような断絶はないのだと感じるようになれば、そのときにはおそらく、私たちの予期以上の、高い叡智に到達することができるでしょう。」「人間の諸権利というものの根拠を、人間というただ一つの生物種の特権的な本性に置くのではなく、人権というのは、あらゆる生物種に認められる権利の一つの特殊事例に過ぎないと考えるべきだ。」などともレヴィ=ストロースは言っています。

 さて、いよいよ終わりにしましょう。「レヴィ=ストロースは最後に自分自身を解体する」というドニジャーの言葉を冒頭で引用しましたが、彼は80歳になって、自分の成し遂げた仕事は、すべての人間を納得させるものではないし、また永遠に説得性を持つものでもない、と言っています。それどころか、もう2、30年もすれば、時代遅れになってしまうだろうと。実は、このことが、『神話論理』第四巻の最後の「終曲」に結びつくのです。

 「神話は、壮大で複雑な建築物のようであり、これもまた研究者の凝視のもとに無数の色に輝き、静かに広がってゆくが、やがて崩れ、はるか遠くに消えてゆく。あたかもそれはかつて一度も存在しなかったように。」

 「このイメージは人類そのもののイメージと言えるだろうか。人類だけでなく、鳥、チョウ、貝や他の動物、植物と花など生命あるもののすべてについて言えるのではなかろうか。諸生物の進化は進み、形態を多様化させ、しかしそれらはつねにやがては消滅し、そしてついには、自然、生命、人間、言語、社会制度、習慣、芸術上の傑作、神話などの繊細な洗練された作品のうちで、それらが最後の花火を打ち上げたのちに残るものは何もない。」

 「というのも、人間には、生き、戦い、考え、信じ、とくに勇気を持ち続けていくことが課せられ、しかも彼は以前には地球上にいなかったことや、つねに地球上にいつづけるわけではないこと、さらにはそれ自身消滅することの約束されたひとつの惑星の表面から人間が間違いなく消えていくのと同時に、人間の労働、苦しみ、喜び、希望、作品もまた、あたかも存在したことがなかったようになくなるという確実さを一瞬も見失うことはないのだから。というのは、それらの束の間の現象のいくつかは、かつて何かが生起したというわずかな証拠を残すだろうが、その何かもまた無にほかならない。」『神話論理』4-2「裸の人」(みすず書房)

 壮大な『神話論理』の、そしてレヴィ=ストロースの生涯の業績の最後の言葉が(ということは最後の結論が)「すべては無に帰す」というのは、やや衝撃的ですが、すでに『悲しき熱帯』の末尾で、「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう。」という記述があります。生にまだ解脱の機会があるとしたら、その瞬間とは、「われわれの作り出したあらゆるものよりも美しい一片の鉱物に魅入りながら。百合の花の奥に匂う、われわれの書物よりもさらに学殖豊かな香りのうちに。あるいはまた、ふと心が通い合って、折々一匹の猫とのあいだにも交わすことがある、忍耐と、静穏と、互いの赦しの重い瞬きのうちに。」(『悲しき熱帯』みすず書房川田順造訳)

 

     

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『遠近の回想』には数多くの学者•思想家•芸術家が登場します。その中で、レヴィ=ストロースが愛読した歴史家アルフレッド•フランクラン(1830〜1917)を紹介しましょう。パリのマザリーヌ図書館の館長だった彼は、13世紀から18世紀までのパリ市民の私生活についての膨大な記録を残しました。一時、プルーストが彼の下で働いていたのですが、事務仕事が出来ないのですぐに退職したそうです。二人とも失われた時を求める点では同類だったのですが。

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図書館で借りた『裸の人』と『神話の意味』。レヴィ=ストロースの本の多くはみすず書房から出ているので文庫にはなりにくい。

 

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メルロ=ポンティ(1908〜1961)

 

 

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シモーヌ•ド•ボーヴォワール(1908〜1986)

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レヴィ=ストロース(1908〜2009)

 

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ジョルジュ•デュメジル(1898〜1986)

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サーディ。新しいぬいぐるみと。

 

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お気に入りの籠にもたれて。

 

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テレビの前の狭い台の上で寝るサーディ。

 

 

 

 

 

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