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2024年1月

2024年1月21日 (日)

長谷川伸『ある市井の徒』『日本捕虜志』

 

 遅ればせながら、あけましておめでとうございます、と言うのも憚られる新年の出だしでした。元日から大地震に襲われるなどと、わが国の歴史にもかつてなかった凶事であり、この一年の行末が思いやられます。しかも、震源は能登、「能登はやさしや土までも」と謳われた能登です。旅行がとくに好きでもない私がいつか行ってみたいと思っていた土地ですが、もはや一面瓦礫の山となっているのでしょうか。そして家を失って避難所で暮らす人々の不如意は察するに余りあります。私も大雨による氾濫警報で近くの小学校の体育館に避難したことがありますが、苦しくて耐えられず、半日で帰って来てしまいました。

 さらに二日の日航のあわや全員死亡かという大事故。飛行機事故は常に謎が多いですが、海保の五人の乗組員の方々と二匹のペットの死は痛ましい。私もルーミーを国内線の貨物室に入れたことがあり、そのストレスたるや、それで猫の寿命を一年縮めたに違いない、可哀想なことをしたと思っています。貨物室で、檻に入ったまま死んでいったペットはさぞ苦しかったことでしょう。その中で、乗客乗員379名全員の救出は、唯一の明るいニュースで、海外のメディアでも取り上げられましたが、まさに日本人ならではの協調性が良い方に発揮された奇跡的な偉業であったと思います。

 その協調性というか、同調圧力とかが、良い点もまた悪い点もあるので、先日家にあった長谷川伸の随筆『生きている小説』を読んでいたら、こんなことが書いてありました。戦争中の話ですが、長谷川伸は「タア公」という小型コリー犬を飼っていました。番犬としては優秀で、長谷川伸夫妻以外には、同居の門下生にもなつかず、夫妻以外の人間には誰とは問わず吠えかかりました。長谷川伸が市電を降りて家の方に歩み出すと、ワン、と一声吠え、だんだん近づいてくるとワンワンと吠えて、家の者が迎えに出るのを催促します。しかし、戦時中のことゆえ、爆弾や焼夷弾で人々はうろたえ、犬も落ち着かずに吠え続けるので、近所の誰かに噛み付いてはいけないと、獣医に相談して、安楽死させることにしました。最後の夜に、タア公は好物のものを食べて、夫人と伸の腕に抱かれて息を引き取りました。空襲下でも一度も防空壕に入らなかったほど気丈な伸ですが、その時は何も言わず、黙って二階の書斎に上がって行ったということです。タア公は、家の庭に埋められましたが、『生きている小説』では次のように結んでいます。

 「タア公を埋めたところは、私どもがいつも目の前にしている処である。私どもは気のせいだろうか、タア公が夜更けに庭へ、礼にだろうか遊びにだろうか、来たことがあったと信じている。」

 徹底したリアリストの伸がこんなことを書くのは本当に珍しい。なお、タア公という名はもともと太郎吉で、『沓掛時次郎』に出てくる子役の名でした。当時は空襲に備えて、動物園のゾウやライオンが殺処分された時代で仕方がないですが、戦時中は公を優先し、我を殺して生きねばならず、自恃の念が強い伸には耐え難かったことでしょう。『生きている小説』は、反故になった原稿用紙の裏に書き留めたメモをまとめたもので、主に小説や戯曲のネタ本ですが、脚色された作品と違って生の事実は「オチ」がなく退屈な断片の集積で読むのに飽きてきます。その中で秀逸な一編を紹介しましょう。

 「昔、江戸在に、田村四郎左衛門という富者があって、如意輪観世音をあつく信仰していた。四郎左衛門に男の子がなく、菊という一人娘があったが、十七歳のとき急病で死んだ。四郎左衛門夫婦は、泣く泣く野辺送りをすませてから、手をたずさえ、回国巡拝の旅に出た。四郎左衛門は背に、信仰の如意輪観世音像を負っていた。正保二年(1645年)八月、越後国魚沼郡仁田に来た四郎左衛門夫婦は、往来で、死んだ娘の菊に出会った。」

 「実は、菊は埋葬の後、四郎左衛門の召使で、越後国刈羽郡善根村の彦太郎というもの、悪心を起こし、墓をあばいて、屍体に付けて埋められた衣類櫛笄(こうがい)を盗もうとして、菊が蘇生しているのに心づき、助け出して介抱し、手をたずさえて越後に向かい、落ち着いた先の仁田で男児を産んだ。そこで四郎左衛門夫婦は、初孫を見たので喜び極まりなく、有縁の地なりとて仁田に住みつき、一宇を建立し、背負っていた如意輪観世音像を安置した。これは新潟県中魚沼郡橘村大字仁田にある如意輪観世音像縁起の伝えるところである。」

 長谷川伸のエッセイといえば、自伝『ある市井の徒』(中公文庫)が面白い。四歳のとき、父親の度重なる浮気で母親が家を出、爾来47年、会うことのなかった母親に再会する最後の場面がクライマックスですが、そこに至るまでの波乱の人生こそ読み応えがあるのです。伸は、ここでは人から呼ばれた通り「新コ」という名で登場します。(本名は伸二郎)

 母親に出奔されて以来、新コは大叔父にあたる秀造の庇護のもと、父の寅と兄の日出太郎の三人で暮らし始めます。この秀造が新コに最初に強い印象を与えたのです。土木建築請負業の秀造は、17歳で野州(栃木県)の八幡宮の造営をやり遂げてその名を知られ、安政六年六月五日が横浜開港の日と知ると、移住を願い出、一族で横浜に引っ越します。当時横浜村は四方何もない百戸ほどの寒村でした。そこから、山を削り、海を埋め立て、外国人向けの家を建てる、そんな仕事はいくらでもあろうという先見の明が秀造にはあったのです。

 自宅を日の出町に構えた秀造ですが、近くの広くもない川に橋がなくて不便だ。それで、自分で橋を架けてしまったのが、今もその名の残る黄金橋です。近隣の住民は大回りせずに渡れるのでたいへん便利になり、秀造に礼を言う人もいたが、秀造は「あっしが不便だから架けた。皆さんは勝手に渡ってくれ、礼に及ばねえ」と言っていました。とにかく豪快な人間で、近くに銭湯がないと困ると銭湯を建て、娯楽がないとつまらねえと寄席を建てる。時刻がわからないと不便だろうと、居留地へ行ってボンボン時計の大きいのを買って、担いで帰り、店の前に建てて、町内遠慮せず見てくれと触れ回ったが、本人は文字盤が読めなかったという。

 秀造が、居留地の道路工事を請け負ったとき、居留地の白人技師に、約束通りの砂利石を地下に埋めなかっただろうと疑われました。秀造はその白人技師に現場に来て貰い、仕上がった道路の何処でもいいから指してくれと求め、指示した場所を掘り返してみせると、仕様書にある約束より一寸厚く砂利石が埋めてあった。その白人技師が喜んで、あなたは正直ですねと褒めたところ、秀造は、「ふざけんな、あっしが正直なんじゃねえ、日本人が正直なんだ!」と啖呵を切ったという。

 このような庶民のナショナリズムというか、日本人としての矜持というものは長谷川伸にも受け継がれているようです。戦時中から構想され、草稿の書かれていた『日本捕虜志』は戦後すぐに完成されましたが、世界中から浴びせられた日本人の残虐性に対する非難の嵐に対して、どうしても反論したいという思いで書かれました。日本人の優秀さとか、性質の良さとかを主張するのではない。昔から日本人が生活の中で自然に身についたものを書き残そうとしただけなのです。日本人を残虐で野蛮だという風潮は、戦後の日本人自身にもあって、『日本捕虜志』は当然のようにどの出版社からも拒否され、やむなく伸は五百部を自費出版して各方面に贈呈しました。

 『日本捕虜志』の一部を紹介しましょう。日露戦争の初めの頃、中隊長の守永大尉は、新兵たちに、捕虜になったロシア兵を見学したい者はおるか、と訊いた。皆大陸に来たばかりでロシア兵を絵以外で見たことはないから興味あろうと思ったのです。ところが、見学を希望したのは半分で、残り半分は見学したくないと言った。守永が、見学を拒否した兵士にその理由を尋ねたところ、金子亀作という兵士が次のように言った。自分は在郷のときは職人であります、軍服を着たからは日本の武士であります。何処のどういう人か知りませぬが、敵ながら武士であるものが運拙く捕虜になって彼方此方と引き回され、見世物にされること、さだめし残念至極でありましょう。自分は見学に行って彼らを辱めたくありませぬ、と。それを聞いて、見学賛成だった兵士の顔にも金子の意見に同意する兆しが多く見られた。守永も金子の考えを喜び、捕虜見学は直ちに中止とされた。長谷川伸は、当時の日本には、金子と同じ心ばえを抱いているのがむしろ正常だった、と書いています。さればこそ、他の兵士も共感し、中隊長も同意したのであろう、と。

 さらにもう一つ、日露戦争を観戦に来た観戦外国武官の最高位は英国のハミルトン中将ですが、あるとき、将校を含めたロシア兵捕虜の見学を勧められた。ハミルトン中将は、ロシア人とはいえ、同じ白人が虐待され、嬲り殺しにあっているかもしれないを見るのも忍びないので隙間から覗いて見ることにした。ところが、豈図らんや、ロシア兵捕虜はビールを飲んで、楽しそうに写真を撮っている。しかも禁獄されていないのだ。「立派に勇敢に戦った敵兵を日本兵は敬意をもって遇する」とハミルトンは英国で出版した『観戦武官の思い出』に書いています。

 『日本捕虜志』には、捕虜ばかりではない、戦場で武運拙く散った兵士•侍の話も数多記されています。北条時宗が死んだ蒙古軍の兵士を丁重に慰霊した話は知られていますが、あの陰惨な幕末の戦いも忘れてはいません。「沢田幾蔵は薩摩の軽輩で、間諜を勤め、幕府の佐久間近江守の僕となり、機密の探索に努めているうち、佐久間の観破するところとなったが、殺さるるを憫れみ、路費を与えて夜喑に逃亡させた。後沢田は脱藩して佐久間に仕え、生命の恩に酬いたく用人役を勤め、伏見の戦いに歩兵精錬隊第一大隊を率いる近江守の身辺をはなれず、近江守が戦死するやその死体に覆いかぶさり自刃したのだった。」

 膨大な資料、冷静な記述、有り余る挿話の豊富さで『日本捕虜志』は長谷川伸の代表作の一つと言ってよいでしょう。その序文で、伸は「これは日本に関する捕虜について、世界無比の史実を闡明し、どの程度かは知らず残存する日本人の間に、語り継ぐべき資料を遺さんとした。」と書いています。太平洋戦争の後期から書き始められ、終戦の時は草稿400枚を超えていたと言います。空襲の時はサイレンが鳴ると、草稿を土中に埋め、解除のサイレンが鳴ると掘り出しました。家が焼け、自分は死んでも、土中にあれば、誰かが掘り出して残りを完成させてくれるだろうと思ったのです。

 私は、ほんとうのナショナリズムがあるとしたら、それは長谷川伸のような人間にこそあったと思います。天皇や国体など問題ではない。象徴など無用です。『日本捕虜志』の中で、伸は軍旗を崇めるあまり、砲火の中を軍旗を取りに戻って死んだ兵士の無念さを書いています。『ある市井の徒』(中公文庫)の解説の伊東昌輝(長谷川伸の弟子平岩弓枝の夫君)によれば、 伸は戦時中、匿名で陸海軍に総額一万七千円もの献金をしたという。自腹を割いて自分の小説本を戦地の兵士に送ったりもしました。さらに、法律に違反するヤミ米など買わず、終戦の折には栄養失調で痩せ細っていたらしい。また伸が、身寄りのない老人や苦学生に、これも匿名で寄付を続けていたことも知られています。伊東は次のように書いています。

 「著者の著述をみると、とくに戦争を賛美している文章は見当たらない。それよりも、戦地で血を流して戦っている将兵たちに対して、内地に居る自分たちは何かの形でそれに報いなければならないという気持ちが強かったようだ。そのようなことを弟子たちにも語り、日記にも記している。自分だけ要領よく木陰に隠れて嵐のおさまるのを待つという態度は、著者のもっとも嫌うところだった。」

 このような人格が、いかにして形成されたか、再び『ある市井の徒』を見てみましょう。明治20年、四歳のとき、母が夫の女性問題のため家を出、明治21年一族の大黒柱であった秀造が78歳で朝風呂の折に脳溢血で死亡すると、秀造の駿河屋は一気に没落します。新コの兄は生糸店に奉公に出、父と新コは小規模な煙草屋を営みますが、父親は外出が多く、幼い新コがいつも店番をしていました。ある日、親に頼まれたか、子供の客が来て、刻み煙草を買って行ったが、しばらくして店に戻って来て、代金を払い戻してくれと言いました。新コが代金を返し、その子の後をそっと追ってみると、別の煙草屋に入って行った。新コは、その時の悔しさから、それ以後は、どんなことであれ、間違ったものであれ、破損したものであれ、一たん買ったものは決して返しにゆくことはありませんでした。青年になって、職場の仲間が『文庫』という雑誌に載っている詩を暗誦していたので、本屋でその雑誌を手にとってみようとしたら表紙が少し破れました。知らんふりをして出ていくことなどできず、なけなしの金をはたいてその『文庫』を買ったということもありました。このような、ある種の潔癖さは女性関係にも表れていて、新コは処女を奪って逃げるなど決してできない。同棲した相手の女性は異人館(外国人相手の娼館)にいたメレーのお隈という女で、別れるとき新コはそのとき着ていた着物以外の持ち物や金をすべてお隈にあげてしまった。相手の女のためではない、後になって思い出したとき、自分が惨めに思わないためだという。その後結婚した政江は芸者で、新コが不遇のとき置屋を営んで生活を支えていました。「彼の女は無学な新コよりも更に無学でしたが、人としては新コより高いものをもっていた」と伸は書いています。

 さて、話は戻って、煙草屋は人手に渡り、新コは知り合いの品川の妓夫(娼婦に客を紹介する男)の家に居候することになります。其処から南品川の城南小学校に三年生として編入するが、お金を稼がねばならないので、1ヶ月で中退します。結局新コの学歴は小学校二年まででした。そのため、新コは、校友や学友という言葉も同窓会という言葉も別の世界のこととしか思えません。

 その後、新コは横浜のドックで現場小僧として働き出します。つまり雑役夫ですが、そこで働く連中は現場小僧など屑とも思っていないので、新コの前で平気で表と裏の顔を見せました。いわゆる「善人」は普段はいい人だが何か事があると後ろに引っ込みます。才ある人も多くいたが、たいていが狡かったり嘘つきが少なくありません。粗暴な人間もいて、新コは頬に平手打ちを何度も喰らいました。新コは、いつのまにか、人を軽蔑すること、信頼しないことを覚えました。その中でも、途中で退めた学問への思いは捨て難く、拾った新聞を読んで漢字を覚えようとしました。昔の新聞は漢字にすべてルビが振ってあったからです。

 現場小僧から撒水夫になって給料が少し上がったので、近くにあった私立の夜学に通うことにしました。夜学といっても、教師と一緒に『日本外史』や『十八史略』を素読するぐらいですが、圓朝の速記本ぐらいしか読んだことのない新コには難しいことばかりでした。その夜学の男ばかりの生徒の中に一人美しい顔立ちの少女がいました。自分とは全く違う世界の女性だと思っていたので、新コは離れて見るだけで話すこともありませんでした。ずっと後になって、その少女は山口定子と名乗る女優となっていました。その師匠は新派の山口定雄で、その山口定雄が亡くなったとき、知人の劇評家伊原青々園が新コに、弟子の山口定子が失意にあるから探してくれと頼みました。新コは頼まれた金を持って、下谷竜泉寺に住む山口定子を探り当て、事情を話し、金を渡し、受取書をもらった後で、実は、自分はハマの私学であんたと同じ教室で学んだ、と告げると山口定子は新コをじっと見つめるがむろん覚えてはいません。それから、後ろの男と何やら話すと、男は封筒に五円札らしいのをを入れて新コに渡しました。新コは「これは受け取れねえ。山口さん、わずかの時とはいえ、ガキの頃、一つ棟の下で人見先生に字を教わったんだ。これを受け取ったら、その誼(よしみ)がフイになってしまう。」と切口上で言うと、定子は大きな瞳に涙を溜めたのでした。

  新コは再び、品川の妓夫の家へ戻って、今度は遊郭専門の出前持ちを始めます。ここで働いている時に、遊び客の娼婦に対する暴力や非道な仕打ちを見て、胸を詰まらせ、それが新コが遅くまで童貞だった理由となったようです。その後、秀造の営んでいた土木建築請負業の関係から土木建築を手伝うことになりました。その頃の土木建築の職人たちは、ヨーロッパ中世の聖堂の石工たちのように、腕一本で全国を渡り歩いていました。仲間間での情報は素早く、何処其処で埋め立てや道路工事があると知ると一斉に駆けつけます。現場の小屋に入るとき辞儀(仁義の本来の意味)を切るのですが、「関東といっても広うござんす」など冗長なことは言わず、名前、出生地、従いた親方などできるだけ簡潔に述べます。大事なのは、謙遜が強くあることで、その姿勢が通じると、一宿一飯の寝泊まりが許されます。また、トンネル工事の崩落など災害の場合、恩義がなくとも駆けつけ、土瓶に藁や布を詰めて油を入れて火を灯し、現場中に吊るして、昼夜を分かたず仲間の救出に全力を尽くします。むろん危ないこともあって、儲けの多い海岸の埋立などでは地元の顔役と争いが起こることもあり、新コは常に拳銃を印半纏の下の巻いたさらしに丁度銃口が臍に当たるように準備していました。弾も状況に応じて、脅かすための空砲と反撃のための実弾を揃えていました。

 ここで、新コ24歳から27歳まで3年間に渡る軍隊生活について記しましょう。新コは下総国府台の野砲兵第一聯隊に配属されます。休みの日は神田に本を買いに行くことが多かったのですが、ある日、小川町の小さな本屋で『覚悟禅』という白文の本を見つけました。以前中国人の友人に有名な猥書だと教えられていましたが、煽情的な字面は大体わかるので、漢文の勉強になると思って五十銭で買ったのです。ところが抜き打ちの私物検査で隠していた『覚悟禅』が見つかり、特務官に没収されます。猥書なので営倉入りは確実だと思っていると、何と「携帯許可」の判が押されて戻ってきました。さらに、新コを篤学の青年と判断したのかいきなり上等兵に命ぜられたのでした。

 満期除隊の日を迎えた後、新コは横浜の地方新聞社に入社します。担当は社会面で、新コは、顔を知っている町の遊び連中を使って記事になるネタ集めをしました。新コの前任の記者は、強盗致傷で網走刑務所に入り、脱獄の際銃弾で殺されたというから恐ろしい。貧乏な新聞社で、連載小説が買えず、挿絵だけ買って、それに合うように小説を書いていたから話が混乱するのが当たり前です。新コは強引な取材、目一杯なネタ取りで有名記者となり、知人の推薦で東京の都新聞(今の東京新聞)に入社しますが、さすがは東京の新聞で周りは新コより遥かに博識で頭の良い人間ばかり、それで、新コも四六時中本を手放さず勉強します。そこで筆一本で独立するまで十六年勤めました。

 最後に、生き別れの母との再会について書きましょう。母親は、夫の浮気が元で家出したのですが、その時新コは四歳、兄は八歳でした。それから四年後、兄は誰に教えられたか、新コに母に会いに行こうと言い出しました。電車賃が無いので、二人は横浜駅から神奈川駅まで、線路に沿って歩きました。母の家に着くと、立派な門構えの屋敷で、取り次ぎの女中が出てくると菓子の包みを渡され、人力車が呼ばれて、横浜の家まで送られました。母は新しい家への体面上、元の子供たちに会うことが出来なかったのです。人力車の上で、兄はずっと泣いていました。それから兄は47歳で死ぬまで、母親のことは新コに一言も話しませんでした。

 母と別れてから47年後、伸が50歳の時、『婦人公論』に「瞼の母を語る」という上下2回の随筆が掲載されました。それを読んだある人から母親の現在を知らせる手紙が届きました。「お母上様は今年72歳の御高齢で、三谷家の長男隆正氏の許に、御幸福にお過ごしになっておられます、、、あの小さな子は今何処に居るんでしょう。たった一目でいいから会いたいと仰っておられます。」

 それを読んで伸は、意を決して、3日後、千疋屋で最高の苺を買い、牛込の三谷家を突然訪問します。母親の方でも探していたが、まさか伸二郎が股旅物作家の長谷川伸とは思いつかなかったのでした。「ああ、伸くんですか」と長男(伸の異父弟にあたる)隆正氏が暖かく迎えてくれ、母親との対面、さらに弟の隆信氏も急遽駆けつけて遅くまで話はつきませんでした。三谷家はクリスチャンで、長女の民子は女子学院校長、長男隆正は法学者で一高教授(岩波から全集が出ている)、次男隆信はスイス、フランス大使を歴任し侍従長も勤めました。伸はいっぺんに兄弟姉妹を持ったのです。

 その夜、遅くなって西大崎の自宅に戻ると、家族、友人、知人が心配して待っていてくれました。すぐに朝日その他の新聞に母子再会の報が掲載され、伸の元にはたくさんの祝電や祝いの品が届けられました。母親は片方の耳が遠くなっていましたが元気で、再会の13年後、昭和21年に84歳で亡くなりました。「越しかたは愉しからずやそこはかと思ひうかぶること悲しくも」と、伸は『ある市井の徒』の結びに自作の歌を記しています。

 

 

 

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中公文庫の『生きている小説』と『ある市井の徒』

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図書館で借りた長谷川伸全集第九巻。『日本捕虜志』は中公文庫にも入っています。

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全集第九巻の写真。長谷川伸(1884〜1963)

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私の手を甘噛み(love bites)するサーディ。

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キャットタワーの穴から顔を出すサーディ。

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妻の膝の上でまったり。ルーミーのぬいぐるみも一緒。サーディにはベンガルの血も混じっているように見えてきました。お腹の斑点、手足の縞模様など。茨城の保健所から柏の施設にやって来たそうですが、どこでどうして生まれて、どうして捨てられたのか。

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