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2023年12月 8日 (金)

サァーディ『ゴレスターン』

 

 ルーミーの死から二ヶ月あまりが経ちました。自分にとって最後の猫だと思い、悔いの残らないよう頑張って飼ったつもりですが、やはり、あれこれと後悔は多い。写真を見るたびに胸が詰まります。しかし、最近になって、何かしら解放感に似たものが感ぜられるようになりました。もう心配しなくてよい、ルーミーは安らかに眠っているのだという安心感です。寂しいけれど、しばらく、この静謐な日常の中で生きたいとも思いました。だから、妻が喪失感に耐えられず、新しい猫を迎え入れたいと提案しても、年が明けたら考えようとしか答えられませんでした。

 ところが、生きている時は、毎朝、妻が片手でルーミーを抱きながら、もう片手でコーヒーを淹れていたのですが、最近はぬいぐるみを抱きながら、しかも話しかけながらコーヒーを淹れています。何か狂気の縁を際どく渡っているようで、神経の糸が切れる前に、とにかく猫を飼わねばと、馴染みの柏のボランティア施設に予約を入れました。

 そこを訪れるのは16年8ヶ月ぶりです。2011年の地震で古い建物は崩壊し、今はプレハブの二階建てになっていました。保護猫は思っていたよりたくさんいて、選ぶのも苦しかったが、ホームページで目星をつけていた三匹からやっと一匹を選びました。施設の人の話では、わざわざ病気や障害のある猫をもらっていく家庭もあるそうです。この施設は、猫の情報を、良いところも悪いところも詳細に説明してくれるので助かります。

 ルーミー(Rumi)の名はペルシャの神秘主義詩人から取ったのですが、新しい猫もペルシャの国民的詩人シェイフ•サァーディの名を取ってサーディSa’diとしました。今回紹介するのは、そのサァーディ(サアーディとも表記)のもっとも有名な著作『ゴレスターン(薔薇園)』(岩波文庫沢英三訳。他に東洋文庫版もあり)です。

 サァーディは1291年という没年しかわかりませんが、100歳近くまで生きたと言われています。父アッブドラーは、ペルシャの古都シーラーズの半聖半俗の敬神家であったという。半聖半俗とは、スーフィ(神秘主義托鉢僧)の性格を備えた実務家のことで、実際、父親はアターバク王朝の第四代サァド•ザンギー(1195~1226在位)に仕えていました。父親は謹厳実直だが深い宗教心に富み、また広い人間的魅力を備え、幼いサァーディに強い影響を与えました。しかし、その父親は早くに死に、一家は困窮に沈みますが、サァーディの才幹は周囲に轟き、分限者の力添えで、当時最高の大学であったバクダッドのニザーミー学院に入学を許されます。彼は、そこで10年近く伝承(ハディース)などを学びますが、その後、彼の運命を決する大旅行に出発します。

 托鉢僧の姿で、西は北アフリカ、東はインドまで、30年になんなんとする放浪の旅でした。むろん、ほとんど徒歩で、時に駱駝で、ある時は履き物もなく裸足でクーファの大寺院に辿り着きますが、そこで、足の無い人が祈る姿を見て、裸足で不平を言った自分を恥じました。

 この大旅行が彼の本当の「大学」だったので、旅での経験、出会い、見聞が、彼の後半生に決定的影響を与えました。シリアのトリポリで、十字軍の兵士に捕まって、塹壕掘りをさせられていたとき、アレッポの知り合いが偶然彼を見つけて、金十ディナールの身代金を払って奴隷の身から自由にしてくれたのですが、その恩義として百ディナールの持参金付きでその娘と結婚させられました。ところが、この娘は性格が悪く、始終喧嘩をふっかけてくるので、サァーディが不平を言うと娘は「あんたには文句を言う資格なんかない。父親が十ディナール払って、あんたを買ったんだから」と言うのでサァーディは「その代わり、おまえは百ディナールで私をまた奴隷にしたんだ。」と言い返して逃げ出してしまいます。

 大旅行を終えて、1256年に故郷のシーラーズに帰ってくると、彼は早速、旅行の見聞記を本にまとめました。教訓詩集『果樹園(ブースターン)』(1257)、『薔薇園(ゴレスターン)』(1258)と傑作が次々に出されると、彼の名声は高まり、当時名君と言われたアビー•ベクル(『ゴレスターン』はこの王に捧げられています)はサァーディを宮廷詩人として迎えます。けれども、もともと引っ込み思案で自由人のサァーディは、宮仕えに耐えられず、まもなく宮廷を辞して自分の庵に帰り、余生を詩作に捧げます。晩年は訪問者も多く、寄進者もいて安楽に暮らしたようでした。

 さて、 苦難と冒険に満ちた彼の大旅行は、サァーディをどのように変えたのでしょうか。若い時は、真面目で勉強熱心、ガチガチの信仰心を持ち、自負心強く、他を見下すこともあったようです。幼い時、深夜、家族が寝静まって、父とサァーディだけが起きていたとき、サァーディはコーランを読んでいたのですが、「お父さん、他の兄弟たちはコーランも勉強せずに寝てしまっていますね」と言うと、父親は「おまえもあの連中のように寝てしまえば、他人の悪口も言わずに済んだのにな。」と言ったそうです。

 30年近い放浪の生活はサァーディをすっかり別の人間にしました。訳者の沢英三は次のように書いています。「サァーディは、世に所謂道学者でもなければ、聖人でもない。また、夢見る空想詩人でもなかった。極めて常識に富んだ実際家であった。それでいて、宗教的意識の豊かな哲人であり、博学多才の賢人でもあった。そして、信念は強いが、寛仁大度の人情家でもあり、ユーモアのある苦労人であった。彼自ら、托鉢僧の姿をして諸国行脚の旅を続けながらも、形式的な托鉢僧のしきたりや珠数には価値を認めなかった。教育や道徳の基礎を宗教に置きながらも、独善的な世捨人や隠者•行者の類にはあまり共鳴しなかった。」

 本文は八章に分かれていて、王侯、托鉢僧、恋愛、老年、教育などについての教訓話が続きます。詳細に紹介するのは面倒なので、興味を持った小話だけ引用しましょう。

 ◉ある王が、口にできないような恐ろしい病気に罹った。ギリシャの医師団が呼ばれて、さんざん診察したが、ある条件を持つ人間の肝を食べる以外に助かる手段がないということで意見が一致した。国中を探して、その条件を持った農夫の息子が見つかった。そこで彼の両親を呼び出し、たくさんの贈物を与えて満足させ、裁判官は王自身の安全のために人民の一人の血を流すことは許されると判決を下した。死刑執行人はその準備をした。息子は天を仰いで笑ったので、王は、「こうした場合に、どうして笑うだけの余裕があるのか」と訊いた。息子は答えて、「子供は親の愛情にすがり、裁判官には訴訟が提出され、国王には正義が要望されるものなんです。ところが、今や、両親は物欲に目が眩んで私の命を見放し、裁判官は私を殺すように判決を下し、王はご自身の安全のために、私が死ぬのを見ようとしています。偉大にして栄光ある神のほかに、私が避難するところはないじゃありませんか。」この言葉で王の心は痛み、目に涙を浮かべながら言った。「何の罪もない者の血を流すよりは、自分の死ぬ方が良い」と。それから、彼の頭と眼に接吻し抱擁したうえ、たくさんな贈物をして自由にしてやった。また、その同じ週に、王の病気も全快したと言われる。

◉ある会合で、人々がある聖者をほめそやし、その美徳を極力賞揚していた。やおら、聖者は頭を上げて言った。「私は、自分でこうだと承知している通りの者です。」わが身は世の眼に美しからんも、わが内なる卑しさに恥じて頭を垂るべし、と。

◉偉大なるシェイフ(長老)が、私に、托鉢僧たち特有の円陣舞踊会を棄てて隠退するよう勧告してくれた。それにも拘らず、私は自分の若々しい青春の血に打ち勝てず、かつ煩悩に圧迫されて、遂にわが恩師の忠告に背いて、托鉢僧たちとの交際や歌舞を享楽するようになった。ある夜のこと、私は人々の集いに出かけたところ、その中に一人の楽人を見つけた。彼の調子外れの提琴の弓は、心の琴線を破り、その歌声は父の死の知らせより不快だった。仲間たちは、耐えられず、指を耳に当て、「黙れ」とて、指を口先に当てるのであった。しかし、私は彼に近づき、抱擁し、ターバンを脱いで彼に与え、金貨を一枚彼の帯に挟んだ。後で、仲間の一人が、私を非難したので、私はこう言った。「私の偉大なシェイフが、度々歌謡を棄てるように申されたのに、私の耳には入らなかったのです。ところが、今夜、私は縁起のよい星と幸運に恵まれて、ここに案内されたため、二度と自分の余生を歌舞や社交に近づくまいと、この歌手によってつくづく思い知らされたわけなんです。」

◉ある時、私は若気のいたりから、母にひどく怒鳴ったことがあった。母は心を痛めながら、すみっこに坐って、「お前が私につらく当たるなんて、多分子供の頃のことを忘れたんでしょう」と泣きながら言った。

◉ある富者の息子が、父親の墳墓の前で、一人の托鉢僧の息子と議論していた。「ぼくの父の墓は石造りで、彩色を施した碑文、大理石を敷きつめた床、それにトルコ玉色の煉瓦が使用されている。ところで、君のおやじの墓はどうかというと、二つの煉瓦を合せ、一握りの土をかぶせてあるだけだ」と言った。托鉢僧の息子は、これを聞いて、「君のおやじが、その重い石を持ち上げるまでに、ぼくのおやじは天国に着くよ」と答えた。ロバはその荷少なき時、楽に旅する。教祖は言える「貧者の死は安易なり」と。托鉢僧に悩みの種となるものなし。貧困の重荷を背負う托鉢僧は、その荷も軽やかに死の門に入るなり。されど、恵み•のどけさ•安易のうちに生きる者は、それら故に、その死は痛まし。

◉私がまだ若かった頃、ある町を通るとき、暑さのためのどが渇き、息詰まるような熱風で、骨の髄まで煮えたぎるようであった。私は正午の太陽の熱に耐えられず、誰かが七月の暑熱を私から追い払い、氷水で消してくれるのを期待しながら、とある壁の蔭に避難した。すると、突然、家の玄関の暗がりから光が輝き出した。つまり一人の美人が、丁度、暗い夜が明けるように、あるいはまた、不滅の水が暗がりから湧き出るようにして、砂糖と果汁を混ぜた氷水のコップを手にしながら現れたのであった。彼女が、それを薔薇水で薫らしたか、あるいは彼女の顔の花から数滴したたり落ちたか、私は知らない。間もなく彼女の麗しい手から果実水を取り上げて飲み、生気を取り戻したのであった。その時の詩、「酒に酔える者、夜半にまた目覚むべし、されど、酒くみ人に酔える者は、最期の審判の日まで目覚めず。」

 『薔薇園』という題名についてサァーディはこう書いています。ある日、友とバラの花園で歓談し、帰る時、友はバラの花束を記念に持ち帰ろうとしました。それを見てサァーディは、バラは5、6日でしおれてしまうが、わが詩は永遠に生きる、と言ったそうです。なお、彼の故郷シーラーズは、バラと詩人の都として知られています。

 

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わが家に来た新しい猫、サーディ。緑色の瞳の周辺がオレンジ色になっている。毛の色はグレーなのでシャルトリューとの雑種らしい。

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妻の膝の上で眠るサーディ。再び家に笑いが戻って来ました。

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ルーミーのぬいぐるみとサーディ。

 

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サァーディ『ゴレスターン』 この岩波版の方が東洋文庫より読みやすい。ペルシア=アラブ世界ではコーランに次いで読まれているという。

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大学書林『対訳薔薇園』の口絵から。托鉢僧姿のサァーディ。

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妻の書棚から持って来たシーラーズ出身の神秘主義者ルーズべハーンの『愛に忠実な者たちのジャスミンの花』。スーフィーの重要文献の一つ。スーフィーの神秘主義は、神との合一を目指し、それは愛による、と説く。自らを神となすこの神秘主義は、結果的に多神教的になり、イスラム正統派から迫害された。唯一神の絶対性を否定するからである。そのため、アル=ハッラージュ、アイヌ=ル=クザート•ハムダーニーは処刑され、スフラワルディーは暗殺された。サァーディはスンニー派のスーフィーだが、『ゴレスターン』は穏健で、情愛に満ちている。

 

 

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