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2023年12月

2023年12月31日 (日)

ガザについての読書メモ

 

 師走の寒い夜にこの記事を書いています。ルーミーが死んでからもう三ヶ月、夫婦二人だけの年末は寂しいですが、今は新しい猫サーディが我が家に来ました。妻は、ルーミーの死によって、ぽっかりと空いた穴を埋めるように、熱心にサーディの世話をしています。まるで、ルーミーがサーディを私たちに送り届けてくれたように、無邪気な笑いが、ふたたび私たちに戻って来ました。

 ところで、夏の終わり頃から、阪神タイガースが優勝して日本一になるのではないかという恐ろしいニュースが聞こえて来ました。38年前の1985年、つまり阪神が西武を破って日本一になった年は、不幸が重なったので、嫌な予感がしたのです。その年の夏、私は、仕事帰りに倒れて、中野総合病院で一ヶ月余り入院しました。入院中、毎朝、下の売店でスポーツ新聞を買いに行っていたのですが、夕方、ロビーのテレビで、日航123便が消息不明のニュースが流れて来ました。そして、退院してすぐに、父が釣りに行って崖から落ちた傷が元で死亡したのです。

 またそんなことが起こるのではないかという危惧は的中しました。10月1日にルーミーが死亡、10月7日にハマスのテロと、それに続くイスラエルの空爆で、またまた悲惨な映像が流れて来ました。世界中が注視の中で、子や父や母を亡くした人々が、報道のカメラの前で絶叫しているのです。そういえば、ロシア•ウクライナ戦争の陰で、パレスチナのことはすっかり忘れていました。

 パレスチナについては全く無知だったので、図書館で本を借りようと、web検索をかけると、皆同じことを考えているのか、最近のパレスチナ関係の本はことごとく貸し出されています。仕方なく、多少古いが、岩波ブックレットの土井敏邦の『ガザの悲劇は終わっていない』(2009)と同じブックレットの古居みずえの『パレスチナ 戦火の中の子どもたち』(2015)を借りて来ました。

 2014年の夏、ヨルダン川西岸でユダヤ人入植者の少年三人が殺されました。その報復として、イスラエル兵は、パレスチナの16歳の少年に灯油を飲ませ焼き殺しました。それに対し、ハマスは、直ちにロケット弾でイスラエルを攻撃。イスラエルも時を移さず、7月8日にガザ地区に空爆を開始しました。この侵攻は二ヶ月にわたり、2000人以上のパレスチナ人が殺され、うち約500人が子どもでした。

 7月23日、ガザで、近くのフザァ村に避難しようとしていた4000人近くのパレスチナ人の集団に向けて、イスラエル軍の戦車から突然激しい銃撃がありました。人々は、パニックに襲われて逃げ出したが、その中に車椅子に乗ったガディールという少女がいて、一人取り残されました。車椅子を押していたガディールの兄は手と足を撃たれて、人々に担がれて逃れました。ガディールの父親は、戦車に駆け寄って、指揮官に、娘は障害者で、イスラエルの病院で治療を受けている、病院に連絡して確認してくれと訴えました。しかし、ガディールは、その場で2発のミサイルを体に受けて車椅子もろとも粉々にされました。車椅子に爆弾が隠されていると思われたのです。

 同じような侵攻が、2008年から2009年にかけても起こりました。2008年11月4日、イスラエル軍はガザ地区南部に侵攻して、ハマスの戦闘員六人を殺害しました。ハマスは、報復として、直後からロケット弾攻撃を開始しました。イスラエルは、それに応じて、12月27日から前例のない大規模な空爆を開始し、一週間後にはガザの地上侵攻に踏み切りました。1月17日の戦闘終結までの三週間で、パレスチナ人の死者は1417人、うち一般住民926人、その中の子どもは313人でした。

 地上侵攻四日目の2009年1月7日、ガザ地区の北東部、イスラエルから1kmほどに位置するアベドラボ地区。昼間の12時40分ごろ、休戦協定でガザ住民たちには食料の確保、死傷者の収容•避難のための三時間の猶予が与えられる筈でした。しかし、ハーレド•アベドラボの家に来たイスラエル兵は一家の人々に、全員外に出ろと命令しました。皆、家の中から白い布を探し出して、旗のようにして、祖母を先頭に外へ出ました。家のすぐ前に戦車が止まっていて、その上でイスラエル兵はポテトチップを食べながら彼らを見ていました。祖母に続いて、三人の姉妹が白旗を掲げて外に出て来ました。突然、別の兵士が戦車から現れて姉妹たちを撃ち始めました。後ろに居た両親は、兵士が子どもたちを撃つはずがない、これは威嚇なんだと思いました。ところが兵士たちは何度も執拗に祖母と子どもたちを撃ち続けました。両親はかろうじて祖母と子どもたちを家の中に引っ張り込みました。父親のハーレドは赤十字の救急車を呼びましたが、到着した救急車は家の前で戦車に潰され、運転手は逃げ出しました。

 祖母は四発の銃弾を受け、背中は銃痕でむき出しになり、背骨と肺がはっきり見えるほどでした。長女のスアード(七歳)は自動小銃の弾倉一個分の銃弾を受け即死でした。一番下の娘アマル(二歳半)は腹部に五発の銃弾を受け、小さな体から内臓が飛び出していました。二番目の娘サマール(四歳)は生きていましたが、背中に四発の銃弾を受けていました。イスラエル兵は、家を破壊するので全員外に出ろと言いました。父はスアードの遺体を、母はアマルの遺体を、祖父は瀕死のサマールを抱えて外に出ました。重傷の祖母は兄弟たちにベッドに乗せられて運ばれました。母親が運んでいた末娘の遺体の大きく開いた傷口から内臓が道路にこぼれ落ちました。母親はそれらを残らず拾い集めました。2キロほど歩いて幹線道路に出ると、住民たちが病院に運んでくれました。サマールは、その後ベルギーの病院に移送されて治療を受けています。

 ところで、なぜこんなことが可能なのか、いたいけな子どもたちに銃弾を浴びせるなどということが。三人姉妹の父親ハーレド•アベドラボは、これは威嚇でなく「処刑」だった、と言いました。イスラエル兵は意図的に10歳以下の子どもたちを標的にしていたのだというのです。これは何となく納得できる意見で、うろ覚えですが、映画『栄光への脱出』でパレスチナにユダヤ人を運ぶ主人公が、13歳未満の子どもを優先させろ、希望はその子たちにあるという場面があったように記憶しています。つまり、パレスチナの子は生き残れば皆ハマスになる可能性があると考えられているわけです。よって、子どもたちや子を産む女性たちの多くいるところ、病院•学校•避難キャンプこそ真の標的になるわけです。

 そして、このように残酷になり得るイスラエル兵の心情も考えねばならないでしょう。昔はパレスチナの人々と対峙する兵隊は情に流されない思想堅固なエリートが多かったらしい。しかし、今は、イスラエルでも貧富の格差が拡大し、より良いキャリアのために仕方なく軍隊を選ぶ若者も増えた。彼らは小さい時から、学校でユダヤ人の選民思想とパレスチナ人のテロについていやというほど教えられて育った。ニュースで報道するのは、パレスチナのロケット攻撃や自爆テロの犠牲者ばかりで、パレスチナの子どもたちの悲惨な状況など決して報道されない。17歳になるとイスラエルの青年は全員アウシュビッシュを訪問させられ、自分たちが「犠牲者」であること、いや「唯一の犠牲者」であることを教えられる。犠牲者は「迫害者」に何をしても許される。彼らは「悪魔」だからだ。今回(2023)のガザ侵攻で、ネタニエフがパレスチナ人を「動物」呼ばわりしたことはけっこう抑制された言い回しだった。イスラエルのある少女は、ガザもヨルダン川西岸もイスラエルの領土だ、なぜならアメリカがインディアンとの戦争に勝って土地を得たように我々もアラブ人に勝ったのだから、と言っていた。

 ここで、イスラエルのプロパガンダについて書きましょう。ガザへの攻撃の時は、常にハマスのテロへの報復という形をとります。それが国内の支持と国際社会の同意を得る必須の条件なのですが、これが実に巧みに誘発されたものである可能性が高いのです。2009年の空爆と侵攻は偶発的なものではなく6ヶ月前より周到に準備されていたという意見もあります。常に自らの正当性を担保にしているわけです。そしてこの「報復」は倍返しを遥かに超しているのもいつものことでしょう。「卑怯者」には手加減なく懲らしめてもよいという論理で、真珠湾と原爆が釣り合わないように、今回のイスラエルの1400人近く(これも空前の数ですが)の犠牲者に対して2万人を超える住民(ハマス戦闘員を含む)の殺戮は常軌を逸しています。

 イスラエルのシオニスト強硬派とそれに同調する国民の精神は非常に堅固です。彼らにとってアラブ人は殺しても許される相手で交渉の余地なぞありません。イスラエルは、このような過激なユダヤ人(他国では持て余している)の恰好の集積場とも言えましょう。むろん、反ネタニエフの平和主義者、パレスチナ人との融和主義者、戦場で過酷な体験をした懐疑主義者も存在しますが、彼らの活動は限られています。しかし、ネタニエフやウルトラ•ナショナリストのもっとも恐れているのは、強硬派と融和派の対立による国の分裂でしょう。

 一方、ガザの方も一枚岩ではありません。ガザの市民のほとんどがイスラエルとの戦闘で家族を死傷させており、また不断の監視、閉じ込め、通行制限、侵攻などで、イスラエルへの憎しみは骨の髄まで染み込んでいるでしょう。それがハマス武装組織への暗黙の同調となっているのです。ところが、2007年の政権掌握以降、ハマスはイスラエルにも比すべき監視体制を敷いたのです。スパイの強引な炙り出し、若者の強制的な戦闘員加入など、それでも住民はイスラエルに対する敵愾心の強さからハマスへの同調を余儀なくされていたのです。ところが、11月17日、IDF(イスラエル国防軍)の特殊部隊が、ガザ最大のアル•シファ病院を強襲した頃から、空爆•侵攻を呼び込んだハマスへの反発が強まったようです。状況はあまりに絶望的であり、また国外で安穏と暮らしていると言われるハマス幹部への不満も拍車をかけているようです。

 そして、このガザ内部の分裂こそイスラエルの目指すところだと思われるのですが、事態の進展はそうではなく、イスラエルの目的は報復ではなく、ガザそのものの消滅、ガザ全住民の殺戮、もしくは移住(エジプトのシナイ半島など)だとわかって来ました。さらに、ヨルダン川西岸を紛争に引っ張り込んで、ガザよりも欲しかった西岸をも没収するつもりだったのです(すでに西岸は50%以上がイスラエルの支配地と入植地になっています)。話を大きく広げれば、聖職者を中心としたウルトラナショナリストの真の目的は、シリア、ヨルダン、レバノンをも包含する「大イスラエル」の建設にあるのです。

 このような連中が、パレスチナの住民の命を考慮する筈もなく、避難キャンプを爆撃したり、避難経路を指示しておいて、まさにそこにミサイルを撃ち込むなど当然のことでしょう。2009年にも、ガザの村の住民を指定した家に避難させ、そこにミサイルを撃ち込みました。それに加えて、イスラエルはガザの全インフラを壊滅しようとしています。工場の破壊、農場の壊滅、都市も田舎も関係なく、瓦礫に化そうとしているのです。

 もっとも悲惨なのはガザの子どもと女性でしょう。病院に運ばれる7割以上が女性と子どもだということです。今や190万人近くが身を寄せ合う南部の難民キャンプは崩壊寸前で、悪臭と死臭が立ち込めています。日に200台以上の支援のトラックも焼石に水です。しかも指定ルートを走るトラックに爆撃で妨害するのがIDFなのです。

 しかも、これは序章に過ぎない。最大の悪夢はイスラエルとイランの核の撃ち合いです。イランが小型核爆弾をテルアビブで爆発させ、イスラエルが報復としてF16によるテヘランへの核攻撃を行えば、中東のみならず世界全体が奈落を見ることになるでしょう。

 床屋政談にもならない安直な読書メモですが、最後にホイットマンの言葉を。「誰であれ共感の心無くして1ファーロングを歩むものは、経帷子を身に纏うて自らの葬式に行く者だ。」暗い話題で沈鬱な年末となりました。新年は、良き知らせがありますように。

 

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図書館で借りた岩波ブックレット2冊。

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ガザで支援の食糧に群がる避難民。基本的に大家族で移動しているので、動けるものが食糧を取りに来るが、一日一食、水は一家で1リットルもない。もはや限界に近づいている。

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シファ病院への攻撃が始まった頃、ガザから遠くないテルアビブのイェシヴァ(民間の宗教学校だが国の援助を受けている)で勉強する生徒。超正統派のユダヤ人はイスラエルの12%ほどだが、それ以上の影響力を持つ。超正統派の指導者はハマスのテロを決定的な試練と意味付け、今こそ「革命」の時が来たと兵士を励ます。彼らは兵士の家族にテレビ電話で慰めや祈りを与えている。

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サーディ。まだ5ヶ月の雄猫。目の下の白い縁取りが異国風。

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グレーの毛並みは日本猫には見られない。目のオレンジ色からシャルトリューの雑種とわかるらしい。

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キャットタワーで。シャルトリューの性格は遊び好きで、犬に似て忠実らしい。サーディもボールを放り投げると、すごいスピードでくわえて持ってくる。

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 首をかしげるのが癖。

 

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ルーミーは私によくなついたが、サーディは妻になついていて、夜は布団にも入ってくる。

 

 

 

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2023年12月 8日 (金)

サァーディ『ゴレスターン』

 

 ルーミーの死から二ヶ月あまりが経ちました。自分にとって最後の猫だと思い、悔いの残らないよう頑張って飼ったつもりですが、やはり、あれこれと後悔は多い。写真を見るたびに胸が詰まります。しかし、最近になって、何かしら解放感に似たものが感ぜられるようになりました。もう心配しなくてよい、ルーミーは安らかに眠っているのだという安心感です。寂しいけれど、しばらく、この静謐な日常の中で生きたいとも思いました。だから、妻が喪失感に耐えられず、新しい猫を迎え入れたいと提案しても、年が明けたら考えようとしか答えられませんでした。

 ところが、生きている時は、毎朝、妻が片手でルーミーを抱きながら、もう片手でコーヒーを淹れていたのですが、最近はぬいぐるみを抱きながら、しかも話しかけながらコーヒーを淹れています。何か狂気の縁を際どく渡っているようで、神経の糸が切れる前に、とにかく猫を飼わねばと、馴染みの柏のボランティア施設に予約を入れました。

 そこを訪れるのは16年8ヶ月ぶりです。2011年の地震で古い建物は崩壊し、今はプレハブの二階建てになっていました。保護猫は思っていたよりたくさんいて、選ぶのも苦しかったが、ホームページで目星をつけていた三匹からやっと一匹を選びました。施設の人の話では、わざわざ病気や障害のある猫をもらっていく家庭もあるそうです。この施設は、猫の情報を、良いところも悪いところも詳細に説明してくれるので助かります。

 ルーミー(Rumi)の名はペルシャの神秘主義詩人から取ったのですが、新しい猫もペルシャの国民的詩人シェイフ•サァーディの名を取ってサーディSa’diとしました。今回紹介するのは、そのサァーディ(サアーディとも表記)のもっとも有名な著作『ゴレスターン(薔薇園)』(岩波文庫沢英三訳。他に東洋文庫版もあり)です。

 サァーディは1291年という没年しかわかりませんが、100歳近くまで生きたと言われています。父アッブドラーは、ペルシャの古都シーラーズの半聖半俗の敬神家であったという。半聖半俗とは、スーフィ(神秘主義托鉢僧)の性格を備えた実務家のことで、実際、父親はアターバク王朝の第四代サァド•ザンギー(1195~1226在位)に仕えていました。父親は謹厳実直だが深い宗教心に富み、また広い人間的魅力を備え、幼いサァーディに強い影響を与えました。しかし、その父親は早くに死に、一家は困窮に沈みますが、サァーディの才幹は周囲に轟き、分限者の力添えで、当時最高の大学であったバクダッドのニザーミー学院に入学を許されます。彼は、そこで10年近く伝承(ハディース)などを学びますが、その後、彼の運命を決する大旅行に出発します。

 托鉢僧の姿で、西は北アフリカ、東はインドまで、30年になんなんとする放浪の旅でした。むろん、ほとんど徒歩で、時に駱駝で、ある時は履き物もなく裸足でクーファの大寺院に辿り着きますが、そこで、足の無い人が祈る姿を見て、裸足で不平を言った自分を恥じました。

 この大旅行が彼の本当の「大学」だったので、旅での経験、出会い、見聞が、彼の後半生に決定的影響を与えました。シリアのトリポリで、十字軍の兵士に捕まって、塹壕掘りをさせられていたとき、アレッポの知り合いが偶然彼を見つけて、金十ディナールの身代金を払って奴隷の身から自由にしてくれたのですが、その恩義として百ディナールの持参金付きでその娘と結婚させられました。ところが、この娘は性格が悪く、始終喧嘩をふっかけてくるので、サァーディが不平を言うと娘は「あんたには文句を言う資格なんかない。父親が十ディナール払って、あんたを買ったんだから」と言うのでサァーディは「その代わり、おまえは百ディナールで私をまた奴隷にしたんだ。」と言い返して逃げ出してしまいます。

 大旅行を終えて、1256年に故郷のシーラーズに帰ってくると、彼は早速、旅行の見聞記を本にまとめました。教訓詩集『果樹園(ブースターン)』(1257)、『薔薇園(ゴレスターン)』(1258)と傑作が次々に出されると、彼の名声は高まり、当時名君と言われたアビー•ベクル(『ゴレスターン』はこの王に捧げられています)はサァーディを宮廷詩人として迎えます。けれども、もともと引っ込み思案で自由人のサァーディは、宮仕えに耐えられず、まもなく宮廷を辞して自分の庵に帰り、余生を詩作に捧げます。晩年は訪問者も多く、寄進者もいて安楽に暮らしたようでした。

 さて、 苦難と冒険に満ちた彼の大旅行は、サァーディをどのように変えたのでしょうか。若い時は、真面目で勉強熱心、ガチガチの信仰心を持ち、自負心強く、他を見下すこともあったようです。幼い時、深夜、家族が寝静まって、父とサァーディだけが起きていたとき、サァーディはコーランを読んでいたのですが、「お父さん、他の兄弟たちはコーランも勉強せずに寝てしまっていますね」と言うと、父親は「おまえもあの連中のように寝てしまえば、他人の悪口も言わずに済んだのにな。」と言ったそうです。

 30年近い放浪の生活はサァーディをすっかり別の人間にしました。訳者の沢英三は次のように書いています。「サァーディは、世に所謂道学者でもなければ、聖人でもない。また、夢見る空想詩人でもなかった。極めて常識に富んだ実際家であった。それでいて、宗教的意識の豊かな哲人であり、博学多才の賢人でもあった。そして、信念は強いが、寛仁大度の人情家でもあり、ユーモアのある苦労人であった。彼自ら、托鉢僧の姿をして諸国行脚の旅を続けながらも、形式的な托鉢僧のしきたりや珠数には価値を認めなかった。教育や道徳の基礎を宗教に置きながらも、独善的な世捨人や隠者•行者の類にはあまり共鳴しなかった。」

 本文は八章に分かれていて、王侯、托鉢僧、恋愛、老年、教育などについての教訓話が続きます。詳細に紹介するのは面倒なので、興味を持った小話だけ引用しましょう。

 ◉ある王が、口にできないような恐ろしい病気に罹った。ギリシャの医師団が呼ばれて、さんざん診察したが、ある条件を持つ人間の肝を食べる以外に助かる手段がないということで意見が一致した。国中を探して、その条件を持った農夫の息子が見つかった。そこで彼の両親を呼び出し、たくさんの贈物を与えて満足させ、裁判官は王自身の安全のために人民の一人の血を流すことは許されると判決を下した。死刑執行人はその準備をした。息子は天を仰いで笑ったので、王は、「こうした場合に、どうして笑うだけの余裕があるのか」と訊いた。息子は答えて、「子供は親の愛情にすがり、裁判官には訴訟が提出され、国王には正義が要望されるものなんです。ところが、今や、両親は物欲に目が眩んで私の命を見放し、裁判官は私を殺すように判決を下し、王はご自身の安全のために、私が死ぬのを見ようとしています。偉大にして栄光ある神のほかに、私が避難するところはないじゃありませんか。」この言葉で王の心は痛み、目に涙を浮かべながら言った。「何の罪もない者の血を流すよりは、自分の死ぬ方が良い」と。それから、彼の頭と眼に接吻し抱擁したうえ、たくさんな贈物をして自由にしてやった。また、その同じ週に、王の病気も全快したと言われる。

◉ある会合で、人々がある聖者をほめそやし、その美徳を極力賞揚していた。やおら、聖者は頭を上げて言った。「私は、自分でこうだと承知している通りの者です。」わが身は世の眼に美しからんも、わが内なる卑しさに恥じて頭を垂るべし、と。

◉偉大なるシェイフ(長老)が、私に、托鉢僧たち特有の円陣舞踊会を棄てて隠退するよう勧告してくれた。それにも拘らず、私は自分の若々しい青春の血に打ち勝てず、かつ煩悩に圧迫されて、遂にわが恩師の忠告に背いて、托鉢僧たちとの交際や歌舞を享楽するようになった。ある夜のこと、私は人々の集いに出かけたところ、その中に一人の楽人を見つけた。彼の調子外れの提琴の弓は、心の琴線を破り、その歌声は父の死の知らせより不快だった。仲間たちは、耐えられず、指を耳に当て、「黙れ」とて、指を口先に当てるのであった。しかし、私は彼に近づき、抱擁し、ターバンを脱いで彼に与え、金貨を一枚彼の帯に挟んだ。後で、仲間の一人が、私を非難したので、私はこう言った。「私の偉大なシェイフが、度々歌謡を棄てるように申されたのに、私の耳には入らなかったのです。ところが、今夜、私は縁起のよい星と幸運に恵まれて、ここに案内されたため、二度と自分の余生を歌舞や社交に近づくまいと、この歌手によってつくづく思い知らされたわけなんです。」

◉ある時、私は若気のいたりから、母にひどく怒鳴ったことがあった。母は心を痛めながら、すみっこに坐って、「お前が私につらく当たるなんて、多分子供の頃のことを忘れたんでしょう」と泣きながら言った。

◉ある富者の息子が、父親の墳墓の前で、一人の托鉢僧の息子と議論していた。「ぼくの父の墓は石造りで、彩色を施した碑文、大理石を敷きつめた床、それにトルコ玉色の煉瓦が使用されている。ところで、君のおやじの墓はどうかというと、二つの煉瓦を合せ、一握りの土をかぶせてあるだけだ」と言った。托鉢僧の息子は、これを聞いて、「君のおやじが、その重い石を持ち上げるまでに、ぼくのおやじは天国に着くよ」と答えた。ロバはその荷少なき時、楽に旅する。教祖は言える「貧者の死は安易なり」と。托鉢僧に悩みの種となるものなし。貧困の重荷を背負う托鉢僧は、その荷も軽やかに死の門に入るなり。されど、恵み•のどけさ•安易のうちに生きる者は、それら故に、その死は痛まし。

◉私がまだ若かった頃、ある町を通るとき、暑さのためのどが渇き、息詰まるような熱風で、骨の髄まで煮えたぎるようであった。私は正午の太陽の熱に耐えられず、誰かが七月の暑熱を私から追い払い、氷水で消してくれるのを期待しながら、とある壁の蔭に避難した。すると、突然、家の玄関の暗がりから光が輝き出した。つまり一人の美人が、丁度、暗い夜が明けるように、あるいはまた、不滅の水が暗がりから湧き出るようにして、砂糖と果汁を混ぜた氷水のコップを手にしながら現れたのであった。彼女が、それを薔薇水で薫らしたか、あるいは彼女の顔の花から数滴したたり落ちたか、私は知らない。間もなく彼女の麗しい手から果実水を取り上げて飲み、生気を取り戻したのであった。その時の詩、「酒に酔える者、夜半にまた目覚むべし、されど、酒くみ人に酔える者は、最期の審判の日まで目覚めず。」

 『薔薇園』という題名についてサァーディはこう書いています。ある日、友とバラの花園で歓談し、帰る時、友はバラの花束を記念に持ち帰ろうとしました。それを見てサァーディは、バラは5、6日でしおれてしまうが、わが詩は永遠に生きる、と言ったそうです。なお、彼の故郷シーラーズは、バラと詩人の都として知られています。

 

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わが家に来た新しい猫、サーディ。緑色の瞳の周辺がオレンジ色になっている。毛の色はグレーなのでシャルトリューとの雑種らしい。

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妻の膝の上で眠るサーディ。再び家に笑いが戻って来ました。

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ルーミーのぬいぐるみとサーディ。

 

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サァーディ『ゴレスターン』 この岩波版の方が東洋文庫より読みやすい。ペルシア=アラブ世界ではコーランに次いで読まれているという。

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大学書林『対訳薔薇園』の口絵から。托鉢僧姿のサァーディ。

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妻の書棚から持って来たシーラーズ出身の神秘主義者ルーズべハーンの『愛に忠実な者たちのジャスミンの花』。スーフィーの重要文献の一つ。スーフィーの神秘主義は、神との合一を目指し、それは愛による、と説く。自らを神となすこの神秘主義は、結果的に多神教的になり、イスラム正統派から迫害された。唯一神の絶対性を否定するからである。そのため、アル=ハッラージュ、アイヌ=ル=クザート•ハムダーニーは処刑され、スフラワルディーは暗殺された。サァーディはスンニー派のスーフィーだが、『ゴレスターン』は穏健で、情愛に満ちている。

 

 

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