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2023年11月

2023年11月 1日 (水)

ジョージ•ギッシング『南イタリア周遊記』

 

 ルーミーがいなくなって一ヶ月ですが、まだ猫のいない生活というものに慣れません。妻は、幸福感が明らかに減った、と言っていますが、私も、二人の人間と一匹の猫の穏やかで楽しい毎日を思い起こすと、虚しさと後悔の気持ちが起こります。ショッピングモールに買物に行くと、ザワザワした雑踏の中で、もうルーミーは、この同じ世界にいないんだ、と思って胸が詰まりました。

 元気に生きないと、死んだ猫に笑われると思って、久しぶりに遠出をし、神田に本を見に行きました。古書会館の「グロリア会」で手元に欲しかった集英社の世界文学全集の「現代評論集」とアイザア•バーリンの『自由論1』(みすず書房)(ともに200円)を拾い、日本特価書籍まで足を伸ばして、店頭ワゴンからギッシングの『南イタリア周遊記』(岩波文庫)を100円で買いました。家に帰って、早速ギッシングを読み始めると、これが意外に面白くて夢中になって読み、頻発するイタリア語の単語や文章に影響を受けて、何とイタリア語の勉強を始めてしまいました。

 ジョージ•ギッシング George Gissing (1857~1903)のこの本(原題は By the Ionian Seaイオニア海のほとりで)は、彼の3回目のイタリア旅行の記録です。1回目は、1888年、31歳の時で、ローマ、ナポリ、ヴェネツィアなどを巡りました。2度目はその翌年、マルセイユからメッシナ海峡を通って、ギリシャまで行く旅でした。そして3回目のこの旅は、ナポリからタラントまで行って、そこからイオニア海沿岸を汽車でイタリア半島のつま先にあたるレッジョまで巡る旅、この旅が旅行記として書き上げられた理由は、まず健康上の理由で、多分これが最後の旅になるだろうという思惑から、次に、カラブリアと言われる南イタリア地方は、かつてギリシャの植民地で、その後にローマ帝国が支配し、次にゴート族が、さらにはサラセンが蹂躙した地域で、とくに、ギリシャとローマの文化的足跡が興味深い場所だからです。

  実は、ギッシングの心の奥底にある強烈な欲望の源泉は、まさにここにあったのです。「人間誰しも知的欲求を持っているが、私の場合は、現実の生活を逃れて、少年時代の楽しい夢だった古代の世界の中へとさまよい入ることだった。」と、彼はこの旅行記のはじめに書いています。

 「ギリシャやラテンの古名は、他とは違った魅力を持っていた。その名を思い出すと私はもう一度若くなり、ギリシャ語やラテン語の本のページを繰るごとに、新しい美を発見できた時代の旺盛な印象が戻って来る。」

 「ギリシャ人やローマ人の世界は、私にとってのロマンスの国だ。ギリシャ語やラテン語の引用句は、私に不思議な戦慄を与えてくれ、読むたびに目がうるみ、朗誦するたびに、おろおろ声になってしまう語句がいくつもある。マグナ•グラエキアにおいて、二つの泉から湧き出た水が混じり合い、一緒に流れる。その水の味は何と素晴らしいことか!」

 マグナ•グラエキアとは「大ギリシャ」の意味。かつて南イタリアはギリシャの植民地だったためこう呼ばれました。紀元前400年頃からローマ帝国の支配下に入り、ギリシャ文明とラテン文明が融合して栄えた、と言われています。

 南イタリアというと、現代では、アマルフィ、マテーラ、アルベルベッロなどの観光地が有名ですが、ギッシングは、むろん、そんなところへは目もくれず、南イタリアカラブリア地方の古代の旧跡がかすかに残る淋しい土地を巡ります。持ち物は必需品以外は書物のみ、ギボンはもちろん、何よりもフランソワ•ルノルマン(1837~1883)の『大ギリシャ』La Grande Grèce (マグナ•グラエキアのこと)を肌身離さず携帯して行きました。それでは道順に沿って『南イタリア周遊記』を読んでいきましょう。

 〈ナポリからコゼンツァへ〉

 ナポリは10年前の最初のイタリア旅行の曾遊の地。しかし、1897年のナポリは何と変わっていたことか。サンタ•ルチア地区の美しい通りは俗悪な建物に囲まれ、港は埋め立てられて、遠くへ押しやられてしまった。「ああ、以前ここをさまよい歩きながら、ヴェスヴィオ火山の赤い炎を見たり、ソレント岬の黒い輪郭を眺めたり、月光が海に浮かぶカプリ島に魔法をかけるのを待っていたのが懐かしく思い出される!」

 ナポリからパオラまでの船旅。貨物船で、船客は私一人、デッキに出ると、前方にカプリ島、近くにソレントも見える。沿岸に沿ってカラブリアの下の方へ航行し、翌朝早くパオラに着く。私と私の荷物を積み込んだ「はしけ」は高い波を蹴散らせながら、住民たちが待つ陸に向かって走る。私の旅行カバンが岸に投げ出されると、住民が一斉に飛びかかる。見事にカバンを手に入れた夫婦の後について私は彼らの旅館に連れて行かれる。途中で税関(ドガーナ)に荷物を徹底的に調べられ、ダチオ(町税役人)に金を払う。南イタリアには、こんな役人がいっぱいいる。

 パラオから、船の到着時刻に合わせてコゼンツァまでの郵便馬車(コリエーレ)が出る筈だったが、旅館の人の話では、もうコリエーレは出てしまった後で、今日中にコゼンツァに着くためには馬車を一台雇わねばならないと言われる。すぐに一人の男が現れて、馬車で山越えをしましょうと申し出る。その法外な値段に驚くが、金額を言うとき目をパチパチさせていたので、私は吹っ掛けられたと気付き、その半分の値段で交渉し、決まると、男はホクホク顔で帰って行く。

 山道を越えてコゼンツァの近くに来ると、平坦な道が何マイルも続いている。これはローマ帝国が築いた街道で、この道を通ってアラリック率いる西ゴート族の軍勢が西暦410年ローマへ侵入し、さんざん掠奪した挙句、金銀財宝を満載して帰って行った街道だ。途中でアラリック王が死ぬと、部下は財宝と一緒に王を葬った。そのゴート族よりも600年も前に、ハンニバルはイタリアからの退却時にこの街道を通ったのだ。

 エツコ•ラルベルゴ(ここが宿です。)と言って御者が飛び降りた。そこは旅館というよりあばら屋といった感じで、中に入っても誰も姿を現さない。食堂に入るとかすかに揚げ物の匂いがした。やがて出てきたみすぼらしい男に部屋を所望し、食事の用意もさせた。食事はまあまあ美味しく、ワインもたらふく飲めた。部屋は汚らしく、家具も全くなかったが、イタリアの他の宿屋と同じようにベッドは清潔で、少しも湿っていなかった。

 翌朝早く、私は宿を飛び出した。コゼンツァに来た目的は、アラリックに思いを致し、彼の埋葬地をこの目で見たかったからだ。子供のときはじめてギボンを読んで以来、私はアラリックの死んだ場所について、あれこれ想像するのが好きだった。アラリックはこの地でおそらく熱病によって死んだ。彼は、ブゼント川とクラティ川の合流地点の近くに埋葬されたらしい。部下たちは、多数の捕虜の労働によって、ブゼント川の川筋を変え、王の棺と夥しい副葬品を川底深くに埋葬し、その後川筋を戻して王の遺体を永久に水底に沈めてしまった。ゴート族たちは、埋葬場所の秘密を守るため、捕虜の全員を殺してしまったという。そのブゼント川を、いま私は朝日の光の下で見ているのだ。歴史に名を残す二つの川は、快い音を立てながら流れ、その岸辺では女たちが洗濯物を叩く音が混じり合う。この場所のどこかにアラビアの物語で語られる以上の財宝が眠っているのだ。

 〈タラント〉

 コゼンツァから北に走る鉄道で、一気にタラントまで行って、それからイオニア海の海岸線を走る列車でレッジョまで下りてくることにした。タラントはイタリア半島の踵の上のあたりにあり、かつてはタラントゥムと呼ばれた町だ。プラトンが紀元前388年にこの地のピュタゴラス学派の人々を訪れている。ローマ軍に包囲されたハンニバルが、船を引きずって内海から脱出したのもまさにこの場所だ。

 私がタラントを訪れた理由は、ホラティウスの有名な詩句、DULCE GALAESI FULMEN (甘きガラエススの流れ)と詠われたガラエスス川を見るためだ。タラントの博物館長への紹介状を持っていたので、私は早速、博物館を訪ねた。「タラントを訪問できた人で、ガラエスス川に思いを致して、その堤を歩きたいと思わない人はいないでしょう。」と館長は言った。「しかし、不幸にして、その位置をはっきり知っている人はいないのです。小さな内海に流れ込んでいる川があって、ガレゾと呼んでいる人もいますが、土地の人は普通ジャルトレッツィと名付けています。」

 もちろん、私は自分の目で確かめてみることにした。とりあえず、駅員に、ジャルトレッツィ川の方角を尋ねた。ジャルトレッツィ川なら三キロほど先で海に注いでいます、と答えた駅員は、なぜそんな川を尋ねたいのか不思議な顔をして、ノン•チェ•ノヴィタ(珍しいものではありません)と何度も繰り返した。しかし、私は愚かにも歩を進め、途中で出会った漁民や農夫に、その先の川の名を聞くと、皆、ジャルトレッツィ川と答えた。けれど、鉄砲を担いだ猟師に会ったのでまた尋ねると、ガレゾ川と答えた。私は喜びのあまり鼓動が速まった。間もなく、川そのものが見えてきたが、半マイルほどの長さもない。両岸は葦で覆われ、わずかに2、3本のオリーブの樹があるだけである。これがガラエスス川、ホラティウスの愛した川なのか。そうに違いない、私が内海に注ぎ込む音を聞いたこの川は「甘きガラエススの流れ」に違いない。思い出には失望の入り込む余地がないのだ。

 〈メタポント〉

 タラントからイオニア海沿岸をカーブして走る列車の途中駅はメタポント(古代にはメタポントゥムと呼ばれた)だ。駅で時刻表を確かめてから、2時間ほどの時間を潰すために駅からぶらぶらと散歩に出た。博物館も馬車もない土地で、駅舎が旅館を兼ねていた。歩いていると白い牛を引いた農夫に出会った。メタポントゥムは昔から肥沃な土地で有名で、その証拠に、この土地は毎年デルフォイの神殿に「黄金の麦束」を奉納していたのだ。私はユーカリの林の隅に寝そべり、ピュタゴラスのことを考えた。実はピュタゴラスは紀元前497年に、ここメタポントゥムで死んだと言われている。人類を温和で理性的にしようとして挫折し、失意のうちに死んだが、1897年の今になっても彼の希望は実現してはいない。

 〈コトローネ〉

 次の停車駅はコトローネだが、ここはかつてクロトンと呼ばれた町。名所旧跡といえば、ヘラの大神殿があるが、16世紀までは48本の柱がすべて残っていたが、今は一本しか残っていない。クロトンは海賊に襲われなかった町で、その理由は12マイルに及ぶ堅固な壁に囲まれていたからだが、今は全くその跡すら残されていない。「クロトンより健康」という文句がある通り、住民は皆健康で輝いていたという。しかし、今は正反対となり、道ゆく人の顔は一様に暗く不健康で、元気な人は一人もいないようだ。原因は天気のせいもあるが、マラリアの後遺症で奇形に近くなるためらしい。マラリアはイタリア語のmal’aria(悪い空気)から来ており、よって住民は夜の外気に当たらぬよう外出を控えている(実際はハマダラカによる感染)。

 そして、ここコトローネで、ついに私も熱病に倒れる。もともと肺病持ちだが、町の人々がほとんど感染している熱病に自分も罹った。宿の女将が町で唯一の医者スクルコ先生を呼んでくれるが、診察の結果、やはり右の肺がかなり肺充血を起こしているという。キニーネを処方してもらって一日中寝たきりになったが、苦しいのは夜だった。まったく寝られず、熱で汗びっしょりになり、それから冷たい汗でガタガタ震え、眠りに落ちようとすると、再び高熱が出て目が覚める。

 翌朝、喉が渇いたが、壺に入った水はまるで飲めず、山羊のミルクはやっと飲める程度の味だ。往診に来たスクルコ先生が、薬局で紅茶を売っているというので、すぐに宿の給仕頼んでに買ってきてもらった。包んである紙を開けると真っ黒な茶葉らしきもの。湯で濾すと黄色くなったが、味はまったくしない。すぐに引き出しにしまって二度と口にしなかった。

 コトローネの人々は素朴というより野蛮で、服装はみすぼらしく、ロンドンの貧民窟より劣っているほどだ。料理は最悪で、肉のスープは小さなラードのような塊が浮いているだけで、コーヒーは薄めた湯のようで味がしない。一日寝台で寝ているだけで気が滅入ってくるが、ある日、窓の下から辻音楽師の弾く手回しオルガンの音が流れてきて、何と嬉しかったことか。間もなく人々が集まってきて、合唱を始めた。いかにも南国の歌らしい、トレモロの高音、無限の哀愁を帯びた低音のリズム、音楽のプロは軽蔑するだろうが、私は、サー•トマス•ブラウンの意見に与したい。卑俗な民衆酒場の音楽も教会音楽と同じほどの感動を与えるのだ。

 この時まで、私はこの町とこの町の住民たちに悪意に似たものを持っていた。しかし、音楽が止み、人々の合唱が収まると、私は不思議な感動に襲われ、自分の心の偏狭さを責めた。イタリアの空の下で、イタリアの音楽を聴いた途端に、この民族の欠点などすべて忘れてしまった。イタリア人がどれほどの苦しみをなめ、さんざん痛めつけられながらも、どれほどの成果を残したかを思い出してみるとよい。この美しい栄光の土地の上に、野獣のような民族が次から次へと襲いかかり、幾世紀にもわたる征服と隷属とが、イタリア人に与えられた運命だった。イタリア人の陽気なメロディーの中から、記憶の及ばぬ昔からの悲しみが聞こえてくる。遺跡の上に響き渡るこの歌声を聞いていると、感動のあまり自分の愚かな苛立ち、傲慢なあら探しを詫びる気持ちになった。ここにやって来たのは、この土地と人々を愛したからではなかったか。牛の後について畑を耕しながら、オリーブの枝をゆすって実を取りながら口ずさむカラブリア農民の歌に耳を澄ましてみるがよい。古代さながらの静けさの中に響く悲しげな声、報われることの少ない労働の慰めとなる長い嘆き節は、イタリアそのものの奥底から湧き上がり、人類の記憶を呼び起こしてくれるのだ。

 結局、私は熱病から回復するのに10日を要した。治る頃、明け方に凄い幻覚を見た。最初にいくつもの大きな壺が見え、それには豊かな装飾や模様がついていた。次に大理石の立派な墓石が見え、それは今まで見た中でもっとも美しい形に彫られていた。幻は次第に大きくなり、細部がもっとはっきりして来た。間もなく、古代の生活図、軍隊の行進、宗教儀式の行列、大宴会場、それらがまばゆいばかりの光輝に包まれて見えた。この幻覚は約一時間続いたが、それらが終わったとき私が感じた無念の痛みは、今でも憶えている。

 その幻影の中で、今でもはっきりと憶えている唯一の情景は次のようなものだ。ハンニバルが、第二ポエニ戦争の終わり頃に南イタリアに追い詰められ、クロトンに陣を敷いた。カルタゴからの命令にいやいや従って、ローマ帝国の土地から退却し、クロトンを船出した。このとき一緒にイタリアの傭兵を連れていたが、この兵士たちが敵陣につくのが癪なので、一緒にアフリカに来るよう命じた。兵士たちがこれを拒んだので、ハンニバルは海岸で彼ら傭兵を一人残らず殺した。この情景を私は見た。ハンニバルの部下たちが傭兵を殺すのをまざまざと見たのだ。

  〈レッジョ〉

 コトローネからの停車駅、カタンツァーロ、スクィラーチェ、ミゼリアは省略して(書いていたら疲れてきたので)、一気に最終目的地レッジョに行きましょう(ゴート族の歴史を書いたカッシオドールスの極めて興味深い伝記も割愛して)。イタリア半島の突端に位置するレッジョは、その戦略的重要性から度々戦火の下にさらされた。ゴート人、チュートン人、トルコ人の軍勢が、それぞれこの海峡を見下ろす要衝の砦を攻め落としてきた。さらにエトナとヴェスヴィオの両火山に挟まれて常に地震の脅威がある。現に、1783年のカラブリアの大地震で、レッジョは壊滅的な被害を受けた。そのため、新築の家が多く、古代都市レギウムの遺跡はほとんど見えない。

 倒壊した建物の残るレッジョの町を歩いていると、17世紀建立の聖ペテロ大聖堂に行き当たった。その正面に「走る人でも読めるように」(旧約聖書ハバクク書第二章第二節)大きな文字で『使徒行伝』の言葉が記されていた。Circumlegentes devinimus Rhegium. (それから私たちは船を進めてレギウムに着いた。)パウロは、カエサレア(現在のパレスチナ)からローマへの途中で、ここレギウムに寄港した。キリスト教の碑文で、これほど感動したことはない。この句はその日一日中私の頭の中で鳴り響いた。古代世界の明白な一事実が、古代の言葉の音楽となって記録されているのだ。

 『南イタリア周遊記』の最後は、多く引用される有名な箇所です。レッジョの市営博物館を訪ねると、館長が自身長い年月をかけて集めた収蔵品の説明をしてくれました。辞去する前に、館長は観覧者名簿を開いて、私の署名を求めた。開館以来たった20ページほどしか埋まっていない。大多数はドイツ人の名だった。いい塩梅と私が最初の方を眺めていると、第一ページに、「フランス学士院会員フランソワ•ルノルマン」とあり、日付は1882年である。私は喜びのあまり身体が震えるのを覚えた。私の逍遥旅行の間、絶えず私の精神的ガイド•教師•楽しい伴侶となってくれた人に、突然出会えたようなものだ。ルノルマンさんは今でもはっきり覚えています。と館長は言った。見上げた青年でしたよ!(ウン•ブラーヴォ•ジョヴァーネ)と。

 ジョージ•ギッシングは、1857年、英国ウェイクフィールドで生まれました。父親は薬剤師で植物学者でしたが、ギッシングが13歳の時に亡くなります。ここから長男としてのギッシングの苦闘が始まります。寄宿学校在学中に14歳で、ケンブリッジ•オックスフォード両大学の地方執行試験に合格し、奨学生としてマンチェスターのオウエンズカレッジに入学します。そこで、抜群の成績を収めた彼は、特にギリシャ•ラテンの古典語で学校の賞を総なめにしました。さらに17歳でロンドン大学に入学すると、その努力と才能はますます光輝を放ち、将来を嘱望される学生生活を送ります。

 ところが、18歳の時、同じ歳の娼婦が好きになり、彼女に生業を与えるためミシンを買ってやろうとします。しかし、貧乏な彼は、ついに他生徒の財布に手を出して、張り込み中の警官に現行犯逮捕されます。禁錮一ヶ月と強制労働で済んだのは、彼が一番の優等生だったことと、学友たちの懇願があったからでしょう。大学を追われ、なけなしの金を持ってアメリカに渡り、種々の職業を経験して、一年有余でロンドンに戻り、かつての女を探し出して結婚します。

 社会の最底辺の女性に引かれるというのは、いわく説明し難い彼の性癖で、娼婦であった最初の女性と死別した後も、街で出会った女中と再婚しています。英仏独伊希羅の書物をすべて原文で読めるほどの能力を持つ彼が、身持ちも性格も悪い女との窮乏生活であれほど苦しんだのは不幸という他ありません。ギッシングの短編集『蜘蛛の巣の家』の冒頭に「ジョージ•ギッシングの業績」を書いたトーマス•セコムはギッシングについて「二等の切符を持ちながら三等の客車に無理やり押し込められた人間」と言っています。最晩年の『ヘンリ•ライクロフトの私記』で、ギッシングはこう書いています。

 「明らかになにかが初めから私には欠けていた。なんらかの程度に、たいていの人々にそなわっているある平衡感覚が私には欠けていたのだ。私には知的な頭脳はあったが、それは人生の日常の問題処理にはなんの役にもたたなかった。」

 私にもわかるのですが、この「ある平衡感覚」というのがとても難しい。バランスのとれた人間性というのは理想でしょうが、現実ではもっとも至難のことでしょう。ギッシングの理想は、しかし、片田舎の小さな家に、係累の心配もなく、静かな読書三昧の生活を送ることでした。『ヘンリ•ライクロフトの私記』に描かれているのは、知人から300ポンドの年金を遺贈され、デヴォン州で一人で暮らす50歳の男の知的で平穏な生活、まさにギッシングの念願の生活ですが、現実の彼は46歳で旅の途中で亡くなっています。ギッシングの小説には、しばしば登場人物が遺産を受け取って人生が好転する場面が現れますが、現実のギッシングにはそのような幸運は恵まれなかった。ひたすら家族を養うために書き続けたのです。

 『ヘンリ•ライクロフトの私記』の中で、ギッシングは、書物好き、研究好きの自分は、学者に向いていただろうと書いていますが、ジョージ•オーウェルは「ジョージ•ギッシング」(オーウェル著作集4)の中で、ギッシングは本来の小説家で、たとえ学者になっても、結局小説を書くようになっただろう、その点では、小説を書いて糊口を凌がざるを得なくした女性たちに感謝しなければならない、とにかく後期ヴィクトリア朝の英国を、その醜さ、空虚さ、悲惨さを、飾らず、率直に、ロマンティックな誇張なしに、ただ事実を直視して描いた作家は彼のほかにいないのだから、と書いています。

 私もその通りに思うのですが、一部屋に10人の家族が住むのが普通だった1880年代の都市労働者の生活を、最底辺の女性が救われるには裕福な男に拾われるしかなかった19世紀後半のロンドンをホガースの絵そのままに描いた筆力は、メレディスやハーディやジョージ•ムアより遥かに勝ります。しかし、それらを考慮してもなお、ギッシングの魅力は、『南イタリア周遊記』のような、過去と現在が交錯し、書物の世界と土地の人々が不思議に溶け合う一編の旅行記の中にあると思います。彼が46歳でピレネーの宿所で客死しなかったら、何冊かのその種の本が私たちに残されたに違いありません。

 

 

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ギッシングの短編集『蜘蛛の巣の家』トーマス•セコムの長文の批評付き。図書館で借りた『ギッシング短編集』と『ヘンリ•ライクロフトの私記』。『短編集』の中の「詩人の旅行カバン」は傑作。

 

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ギッシング(1857〜1903)

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ギッシングの作品ではこの周遊記が一番好きです。

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仏語版ウィキペディアから書影を借りたフランソワ•ルノルマンの『大ギリシャ』の第一巻。「イオニア海の沿岸」という説明がある。ギッシングはこの本を絶えず携帯していた。

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カラブリアの地図。ギッシングは、ナポリ→パオラ→コゼンツァ→タラント→メタポント→シバリス→コトローネ→カタンツァーロ→レッジョの順に周遊した。 

 

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ルーミーの写真と飯台と好物の缶詰と専用のスプーン。ヨーグルトが好きで毎朝食べていた。

 

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寂しさを紛らすため妻が買った大小のぬいぐるみ。ルーミーの尻尾は短いので、そのようにカスタマイズした。

 

 

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