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2023年7月

2023年7月31日 (月)

ブラニング『フランス革命』

 

 暑いですね。どうなってんだか。世界中の国の首脳が危機的状況といっているのもわかります。このブログ記事を書くために、iPadと本を数冊持って近くのスタバに行ったのですが、途中、ショッピンングモールの入口に着くまでのコンクリートの鋪道で焼けつく太陽熱射を浴びて動けなくなりました。何とか辿り着いたものの暑さで生命の危険を感じたのは初めてです。ところで、スタバの店員にしょぼくれた老人と見られないように、危ない人間が着るような派手なアロハシャツを着て行ったのですが、実は、先日、このシャツを着て長男に会ったとき、「ルーヴル美術館のグッズ売場で買ったの?」とか言われて、さすがに何を着ても教養が滲み出てしまうのかと低脳らしい錯覚をしたのですが、本当はGUで580円で買った処分品でした。

 話はさておき、フランス革命ですが、この前、ミュッセの『世紀児の告白』を読んで面白かったのですが、むろんこの本はジョルジュ•サンドとの狂おしい恋を書いた告白小説ですが、全編ミュッセらしく面白い。冒頭、ミュッセは当時付き合っていた女性を連れて会食に行くのですが、落としたナプキンを拾おうと卓の下に身を屈めると、何と恋人が隣の席の男性と脚と脚をからめているのです。しかもその男はミュッセの幼馴染の親友でした。動転した彼は家に帰るとすぐに知人を介してその友人に決闘を申し込みます。翌日、ヴァンセンヌの森で決闘が行われ、慣例どおり、決闘を申し込まれた方が最初の一発を放つと、弾はミュッセの右腕に当たり血が流れて来ました。弾を撃った親友は慌ててミュッセの下に駆けより彼を介抱します。片方が流血すると決闘は終わりになる取り決めなので、ミュッセは大人しく帰宅して医者をよんで包帯を巻いてもらいます。そのうちに女性への怒りが再発して、包帯をしたまま女性の家に乗り込むと、彼女はしおらしくうなだれて彼に許しを乞います。気持ちが治まったミュッセは女性の家を後にしますが、15分後、やはり怒ったことを謝ろうと再び女性の家に戻るのですが、何と彼女は念入りに化粧して、件の親友と食事に出かけるところでした。

 前置きが長くなりましたが、アルフレッド•ミュッセ(1810~57)は著名な公爵領の出で、金髪の巻毛が光る美青年。子供の頃、父方の祖父パテー侯爵の古城に泊まったとき、天蓋のある寝台の下の揚げ蓋を開けると、そこには婦人たちや僧が隠れる秘密の部屋への通路がありました。母方の祖父デゼルビエは裁判官で、多くの人間を断頭台から救ったということです。この祖父からミュッセは大革命の話をたくさん聞かされたに違いありません。

 昔、岩波新書のソブールのフランス革命史を読んだ筈ですが、教科書程度のことしか覚えていません。そこで、もう一度復習しようと、図書館からブラニングの『フランス革命』(天野知恵子訳•岩波書店)という本を借りて来ました。この本は、英国の歴史家たちによる「ヨーロッパ史入門」シリーズ(全十冊)の一冊で、入門とはいえ、史実の逐一な記述ではなく、最新の研究を踏まえた学説史のような体裁をとっています。本文は百ページほどと短いのですが、注釈と文献目録が30ページもあって、読み応えあります。しかし、何より、英国の研究者らしく、記述は簡潔で無駄なレトリックもない非常に読みやすく好感の持てる本です。さっそく紹介して行きましょう。

 「1954年のこと、故アルフレッド•コバン(A. Cobban)は、ロンドンのユニヴァーシティ•カレッジへの就任記念に、「フランス革命の神話」と題する講演を行ったが、これほど長期にわたってあとに尾を引くことになる衝撃をもたらした就任記念講演は、ほとんどないであろう。」と、ブラニングは書きはじめます。コバンは、ここで、フランス革命についてのマルクス主義的解釈という「神話」を広範囲にわたって批判しているのです。

 その神話とは、マルクス主義の牙城ソルボンヌのフランス革命史担当教授ジョルジュ•ルフェーブルによれば次のようなものです。いわゆるアンシャン•レジームは第一身分と第二身分、すなわち聖職者と貴族によって支配されていました。国家と社会の支配的要職を占めたのも、威信のすべてを享受したのも彼らでした。土地が実際に富の唯一の形態であった封建社会においては、彼らの経済的基盤は安定したものでしたが、18世紀後半にはもうそれは時代遅れのものになっていました。商工業の発達によって新しい階級ブルジョワジーが生まれ、彼らはだんだんと数を増し、力を増し、自信を強め、それにつれて、自らの従属的地位に不満を募らせるようになりました。つまり、見せかけと経済的現実の間に矛盾が生じ、それが耐えきれずに爆発して革命が生じたというのです。そして、自らの地位の崩壊に臨んだ特権階級の恐怖が引き起こした反革命は逆に革命を推進し、それまで圧政を強いられていた都市民衆と農民がブルジョワジーの革命を後押ししたというのです。

 ルフェーブルの後を継いでフランス革命史講座の担当教授になったアルベール•ソブールは次のように書いています。「1789年に三つの革命(ブルジョワ•民衆•農民の)があったわけではない。ただ一つブルジョワの自由主義的革命のみが、民衆の支持、とりわけ農民の支持を得て行われたのである。」これはフランス革命を広い意味でブルジョワ革命と規定するマルクスとエンゲルス、そしてルフェーブルの考えと一致します。

 しかし、さしも隆盛と権威を誇ったソルボンヌ革命史学も、1954年のコバンの講演以来、レヴィジョニスト(修正主義者)たちの一連の攻撃にさらされました。その中でも決定版といえるのがフランソワ•フュレとドゥニ•リシェの『フランス革命』(1977)とフュレの『フランス革命を考える』(1981 )(岩波書店)です。フュレの考えはややわかりにくいが、ソブールの『大革命前夜のフランス』(叢書ウニベルシタス)に付された訳者山崎耕一のまとめが私のような素人にもわかりやすいので引用します。

 まず、山崎は、ソブールによる伝統的なマルクス主義的解釈を要約します。

 (1)旧体制末期に「封建制」は、中世におけるものからは変化していたが、依然として存続していた。これがアリストクラート層の基盤である。

 (2)ブルジョワジーを含む平民全体は封建制を嫌悪していた。ここに、アリストクラート対平民という基本的な対立がある。

 (3)確かに一部の上層ブルジョワジーは官職購入などによって貴族に入り込んでいた。したがって一部の貴族と上層ブルジョワジーは利害が一致していた。

 (4)しかし、18世紀後半にアリストクラート層は閉鎖化し、平民を締め出す傾向がみられた。これが「アリストクラートの反動」である。

 (5)このため上層ブルジョワジーはアリストクラートへの上昇の道を閉ざされ、自らの経済的•知的な能力と社会的•政治的地位の較差を強く自覚した。

 (6)こうしたブルジョワジーの不満は、封建制のくびきのもとにおかれた民衆や農民の不満と同じものではない。それでもなお、彼らは反アリストクラートという点で一致した。これがフランス革命の起源である。

  すなわち、封建制とそれにそれに対する反対を基本とし、その上にアリストクラートの反動にもとづくブルジョワジーの不満をかぶせるのである。このような図式に対し、フランソワ•フュレ(とドゥニ•リシェ)は以下のような解釈を対置させてソブールを批判する。

 (1)いかなる社会においても、その社会に通念として受け入れられている価値観があるかぎり、その体現者=エリートが存在する。

 (2)旧体制末期のフランスにおいては貴族(全体)と上層ブルジョワジーがエリートであった。

 (3)この時代、貴族と上層ブルジョワジーの間に、身分の差にもとづく利害の対立はない。それは(ℹ︎)ブルジョワジーは官職購入などにより貴族に入り込んでいること、(ⅱ)この時代の貴族の土地経営は資本主義的な小作に拠っており、封建制による地代徴収は少数であること、などによる。

 (4)したがって「アリストクラートの反動」は存在しない。当時における対立はエリート内部の新旧の対立、すなわち、ブルジョワジー•新参の叙任貴族対旧貴族の対立なのである。

 (5)(3)の(ⅱ)から必然的に導かれるように、この時代には封建制はもはや重要な問題ではない。ちなみに、ここからフランス革命についても従来とは異なる解釈が導かれる。すなわち、

 (6)(4)に述べたエリート内部の対立を王権が調停する能力をもたなかったので、革命が生じた。

 (7)この革命は政治権力をめぐるエリート内部の争いで、1791年までに結着がついた。

 (8)しかしこの革命はたまたま都市民衆や農民の反乱とぶつかり、合体したために紛糾した。

 (9)この紛糾のためフランス革命は(7)の本来の革命から逸脱し、「横滑り」した。すなわち、1792年から94年の段階、。とりわけジャコバン独裁である。

 (10)しかし混乱がおさまると、エリートは再び政治と社会の支配力を取り戻し、秩序を再建した。

 見事な要約であり、フランス革命の骨格というべきものを明快に示しています。ここでブラニングの『フランス革命』に戻ると、上の要約にいくつか付け加えるものがありそうです。革命の直接の原因は上の(6)のように王権の弱体化ですが、それには原因があって、まずアメリカ独立戦争の援助のために巨大な出費をしたこと、さらに18世紀後半の不況(気候的問題と英国との通称関係)で財政的にまさに逼迫していたことです。これが全国三部会の開催を余儀なくさせ、革命の直接的な原因を作ったのです。

 ここで、避けては通れないもう一つの問題、啓蒙思想と革命の問題に移りましょう。フランス啓蒙思想というと、そのレンジは広く、モンテスキューの貴族的立憲制からルソーの平民的民主制まで含めると全く収拾がつかないでしょう。まず、その出自は様々だが、教養ある貴族階級と教養あるブルジョワジーが主体で、その抱懐する思想は、ピーター•ゲイによれば次のように結論づけられるということです。すなわち、フィロゾーフたちは、世俗的、合理的、人間的、平和的、開放的で自由な社会的•政治的体制を求めた、と。ちなみに、この自由とは、「恣意的権力からの自由であり、言論の自由、職業の自由、才能を開花させたり審美的判断を下せる自由であって、ひとことで言うなら、道義をわきまえた人間が、この世でわが道を行くための自由である。」

 このリストには「平等」が抜けていますが、それは彼らがそれを望まなかったためです。彼らフィロゾーフたちは生まれながらの特権は否定したが、貴族的感性は尊重しました。また彼らは、貴族的秩序の撤廃を求めはしませんでした。なぜなら彼ら自身の多くが貴族だったからです。彼らが本当に否定したのは啓示宗教で、とくに、特権を享受しているカトリックには例外なく憎悪の目を向けていました。ブラニングはこう書いています。「フランス啓蒙思想は、教養あるエリートの、教養あるエリートのための運動であった。ルソーはいつでも例外であるが、もっとも影響力をもった啓蒙思想の代表者たちは、大衆の啓蒙が可能であるとも、望ましいとも考えていなかった。民衆の教育は、読み書き計算と、一定の肉体的、職業的、道徳的訓練にとどまるべきであった。というのも、その主たる目的は、経済的有効性と社会的安定性を促進することで、それ以上ではなかったからである。」

 ブラニングの本は、第1章の「起源ーアンシャン•レジーム」に不均衡なまでの力点が置かれていますが、実はその第4節「公共圏と世論」がこの本の最重要箇所であり眼目となっているのです。先の山崎耕一の要約は、ソブールのマルクス主義的革命史観とそれに対するレヴィジョニストの反論でしたが、1980年代からポスト•レヴィジョニストともいうべき研究書が次々に陽の目をみたのです。彼らは、まず、啓蒙思想が革命の源流となったという俗説に異議を唱えます。ポスト•レヴィジョニストによれば、啓蒙思想が革命を作ったのではなく、逆に革命が啓蒙思想を作ったというのです。革命家たちが、自分たちの先達としてフィロゾーフを名指ししたので、後世の歴史家たちも、その歪められたレンズを通して、フィロゾーフたちが革命の先駆者のように見てしまったというわけです。

 さらに、ポスト•レヴィジョニストの中には、フランス革命にはそもそも知的起源なぞないのだと主張する連中も現れました。その代わり彼らは文化的な解釈を展開しました。彼らのアプローチで重要なのは、「文化」や「政治文化」という語彙です。彼らは、文化を、マルクス主義者のように社会構造や経済構造で規定される上部構造であるとは捉えず、文化そのものとして捉えることを主張しました。つまり、文化は階級のアンデンティティではなく、それ独自の独立した存在だというのです。政治とは、立場が違うものが、主張し合い、立場を表明し、行動する総体ですが、そうした主張がなされる象徴的実践の一式が政治文化と言われます。そして、ポスト•レヴィジョニストたちは、政治行動に携わった人間たちが実際に用いた言語やシンボルや儀礼を何かの反映としてでなく、それ独自のものと見、そのとりとめのないさまざまな中にこそ真実があるのだと主張しました。

 よって、ポスト•レヴィジョニストたちは彼らの思想としての基盤を歴史家のみならず、クリフォード•ギアツやクエンティン•スキナー、ジャック•デリダのような人たちの著書にまで求めたのですが、中でももっとも影響を受けたのはユルゲン•ハーバーマスの『公共性の構造転換』でした。この本は1962年に出たのですが、1978年に仏訳、1989年に英訳が出てから、英仏の18世紀フランス史の研究者に深甚なインパクトを与えたのです。

 『公共性の構造転換』の主な目的は、現代社会において自由な諸制度といわれるものがもつ欺瞞性を明らかにすることでした。ハーバーマスはこの批判を展開する過程で、アンシャン•レジームからブルジョワ社会への移行を描きました。そして、前者の文化を「表徴的representational 」であると見なしました。つまりそれは文化の支配者の威厳を、それらしく褒め称え畏敬の念を抱いてくれる聴衆に対して「表徴するrepresent 」(示して見せる)必要に基づいているのです。すべての芸術が太陽王への賞賛を奏でるべく結びついたヴェルサイユの文化複合体は、この一つの典型と考えられます。

 「だが、この表徴的文化は、資本主義が発展し、ものや情報の交換がしだいに加速化して、識字率が上昇し、家族の質が変化する中で、だんだん浸食されてゆく。18世紀の間に、政府の統制を越えたところで新たな種類の社会空間が発展し、個人が私的に情報や意見を伝達するようになった。人びとは多くの方法でそれを為し得た。とりわけ、数量や流通の点で急速に拡大した新聞•定期刊行物を通して、また、どのヨーロッパの主要都市にも叢生したコーヒーハウスにおいて、あるいはフリーメイソンの集会所や、やはり時代の産物であった読書クラブのような自発的会合の場において。」

 この新しい社会空間を、ハーバーマスは「公共圏public sphere 」と呼びました。その基本的な特徴は「批判」でした。表徴的文化の聴衆が完全に受け身だったのに対して、話し合うために集まった公共圏の構成員は、質問し、答えをたずね、コメントしました。彼らの討論の対象は、オペラや演劇や小説もあったが、しだいに政治が中心になったのは仕方のないことです。こうして、公的な絶対主義と張り合う新しい政治文化が登場し、文化的な主導権はヴェルサイユからパリに移って来たのです。『18世紀パリ生活誌』の文人ルイ•セバスチャン•メルシェ(1740~1814)は1782年にこの文化の死亡証明書を次のように書きました。

 「宮廷ということばはもはや、ルイ14世の時代のようにわれわれの間で畏敬の念を生じさせることはない。支配的な意見はもう宮廷からは来ないし、どんな類の評判も宮廷が決めるのではない。、、、宮廷はあらゆることについて、優越性を失ったのだ。」

 ポスト•レヴィジョニストの代表的史家キース•マイケル•ベイカーは次のように書いています。

 「絶対主義の政治文化は、1789年よりかなり以前に新しい政治空間を出現させた変化によって、その最後の数十年間にはすでに変形してしまっていた。印刷物がこの新しい政治空間の媒体であるとすれば、「世論」がその権威の究極の原理であった。世論は王権のそれからは離れた正当性や権威を伴い、新たな政治空間を明瞭に表現する概念となった。そこは国民が王権に対して自らの権利を主張できるような公共の空間である。この空間の中で、フランス革命も考えうるものとなったのである。」

 世論の、もっとも卑近な例は、巷間にあふれた誹謗文書です。とくに、王室に関する政治的ポルノグラフィは人びとが王室に抱くイメージに大きな印象を与えました。この闇の部分を自家薬籠中のものとしたのは、歴史家ロバート•ダーントンです。過去25年間、彼は一貫して自らの信条を繰り返して来ました。それは、アンシャン•レジームの基盤を実際にむしばんだ腐食力は、モンテスキューやヴォルテールやディドロとその仲間たちによって代表される「高級な啓蒙思想」ではなく、誹謗文書作成者たちの低俗な出版物であったというのです。18世紀が進むにつれて、フィロゾーフたちは切れ味の良さを失い、体制に吸収されてしまったとダーントンは書いています。彼らは年金を与えられ、おだてられて、完全に上流社会に統合されたのですが、一方、誹謗文書作成者たちは一旗あげようとパリに出て来たのに、高級な啓蒙思想のサークルに入れず、むろんサロンなどに招待されず、欲求不満を体制への攻撃に発散した怒れる青年たちでした。いわば革命の導火線に火をつけたのは彼らだったのです。

 ブラニングの『フランス革命』は、この後、革命の衝撃、ナポレオンの台頭と続きますが、ひとまずここまでにしましょう。まとめてみると、フランス革命は、それが勃発まえにすでにほぼ終わっていた。ブルジョワ革命などなかった。ということでしょうか。著者はケンブリッジの教授ですが、ドイツやフランスの思想書の難解さはありません。ギゾーは『ヨーロッパ文明史』でイギリスの研究者の特徴として「一面では、良識の堅実、実務的巧妙さ、他方においては抽象的な思想の欠如、理論上の問題における精神的な高さの欠如」をあげていますが、確かに平凡なことを難しく言ったり、それほどでもないことを大袈裟に叫んだりはしませんね。その点ではたいへん好感が持てるようです。

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岩波のヨーロッパ史入門シリーズ(全10冊)の一冊。ブラニング『フランス革命』ブラニングはケンブリッジの教授。表紙のイラストは、パリ国立文書館に保存されている「ルイ16世の処刑」

 

 

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◉ジョルジュ•ルフェーブル『1789年ーフランス革命序論』(1939)岩波文庫。原題はQUATRE VINGT NEUF フランス人にしては、平易でわかりやすく、しかも興味深いエピソードも多い、フランス革命史の最初に読むべき本。情熱のこもった文章は著者の人柄も偲ばせる。革命の心性史としても優れていて、私はマルクス主義は嫌いだが、この本は好きです。最後に記された人権宣言の理想への熱い思いはドイツとの戦争を目前にした1939年の若者に向けられています。日本語版の序文は、ソルボンヌで2年間ルフェーブルから直接指導を受けた東大の高橋幸八郎が書いています。ルフェーブル(1874〜1959)はフランス史の大学者grand maître ですが、生まれはリールの貧しい家、父親は商店の雇人でした。給費生として苦学して地元の大学を出たのですが、リュシアン•フェーブルやマルク•ブロックやアルベール•ソブールなどエコール•ノルマル出のエリート中のエリートと比べると、人間的な幅が二倍ほどありそうです。なお、この本にあった面白い話。ブルジョワの願いの第一は貴族になることでしたが、ロベスピエール家は、もともとドゥロベスピエールだったのですが、貴族風に二つに切ってドゥ•ロベスピエールにしたそうです。また、ダントンの綴りはDantonでしたが、間にアポストロフをつけてd'Antonとしたそうです。しがない宿屋の息子ブリソーは、必要もないのに村の名をつけてブリソー•ドュ•ワルヴィルとしました。

◉アルベール•ソブール『大革命前夜のフランス』(叢書ウニベルシタス)マルクス主義の歴史家は「大革命」la Révolution と大袈裟にいうことが多いようです。ルフェーブルの後を継いで、ソルボンヌフランス革命史担当教授となったソブールは、ルフェーブルのブルジョワ革命論をさらに徹底させました。ルフェーブルが農村に詳しいのに対してソブールはパリのサン•キュロットに詳しい。この本は一応入門書だが、実証研究に詳しくて途中眠くなります。なお、冒頭に置かれた日本語版への序文は短くて面白い。もともとルフェーブル『1789ーフランス革命序論』のあとがきに「現代世界史におけるフランス革命」と題されて訳されたのですが、文庫化された時に削除されていました。フランス革命史講座のあるパリ第一大学(ソルボンヌ)はパンテオン広場に面していて、私たち夫婦が何度か宿泊したオテル•グランゾムの向かいに建っていました。なお、訳者の山崎耕一氏は、ソブールのもとで研究され、奥さんのカトリーヌさんはフランス人らしい。

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 ◉ロバート•ダーントンは、アメリカ人のフランス近代史家。ハーヴァードに学び、オックスフォードで学位をとり、プリンストンで教えていました。フランス史家でもっとも面白い本を書く人と言ってよいでしょう。『猫の大虐殺』は以前のブログ記事「民話の本を繙けば」でその中の一編「農民は民話をとおして告げ口する」を紹介しましたが、ここでは「フランス革命はなぜ革命的であったか」を紹介します。日本の明治維新は仏像を壊し、仏典を焼き払い、帯刀を禁止などしましたが、フランス革命はもっと凄かった。町や通りの名前、トランプの絵札までかえたのです。月の名も変え、一週間は10日とされました。もっとも驚くべきことは、自由•平等•友愛というスローガンで、それまでフランス人は、人間が不平等であることを当然と思っていたのです。さらに友愛の観念があります。フランス人は、人間の間の差別は撤廃すべきこと、人間が互いに兄弟であることを法制化しようとしていたのです! キリスト教が人間をキリスト教化することに失敗したように、この理想も失敗に終わりました。現代は、ホッブズの言うとおり、万人が万人の敵である弱肉強食の時代ですが、しかし18世紀後半のフランスのように、多くの人間が立ち上がれば世界の模様替えも不可能ではないかも知れないとダーントンは書いています。

◉『革命前夜の地下出版』(岩波書店)は、パリで誹謗文書を書いていた三文文士の話が中心です。彼らは、その日の食にありつくため地べたを這いずりました。どん底に落ちた作家は警察のスパイにさえなりました。ブリソーは有名になってからも、スパイ容疑の噂がまとわりついていました。

◉『禁じられたベストセラー』はダーントンの労作。フランス国内とのほぼ唯一のルートであったスイスのヌーシャテル印刷工房の膨大な古記録の綿密な調査。当時フランスでは書物の検閲は厳しく、出版や販売はもちろん、本を運ぶ荷馬車の馭者まで、発覚すればガレー船に鎖で繋がれる恐れがあったのです。よって、暗号の使用は必須でした。「哲学書を六冊送って下さい、私は哲学書以外興味はありません」という注文書は「ポルノを六冊、他は不用」と言う意味だったのです。送り主は『淑女学院』『娼婦』(ファニー•ヒルの仏訳)などを梱包して送ります。当時最大のベストセラーは、『デュ•バリー伯爵夫人の逸話集』で、売春婦から玉座のベッドまで成り上がった女性のヴェルサイユにおける淫蕩生活が執事の冷静な目をとおして語られます。

 

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◉フランソワ•フュレ『フランス革命を考える』はポスト•レヴィジョニストの魁をなす本。読みにくいが、「革命家の教理問答」のソブール批判、「トクヴィルとフランス革命の問題」は面白かった。全体的に難解で疲れます。

◉『フランス革命の政治文化』(ちくま学芸文庫)このリン•ハントの本は、政治文化という概念を初めて広く資料的に具体的に考え抜いた本、世界的に評価は高い。この本が出て、階級対立やブルジョワ革命という語はほぼ死語になったようです。

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◉ミシェル•ヴォヴェルの『フランス革命の心性』(岩波書店)エコール•ノルマル出の秀才、南仏プロヴァンスの死と祭りの歴史家ヴォヴェルは、ソブールの死によってパリに戻され、マティエ、ルフェーブル、ソブールと続くフランス革命史担当教授を引き継ぐことになりました。ヴォヴェルは伝統あるジャコバン史観を引き継いでフランソワ•フュレらレヴィジョニストと論戦を開始しますが、マルクス主義の雰囲気は全くなく、リュシアン•フェーブル、マルク•ブロックらアナール派と同様宗教にも造詣が深い。時間がなくてゆっくり読めなかったのですが、後日また読みたい。日本にも二度来ています。

◉ロジェ•シャルチエ『フランス革命の文化的起源』(岩波書店)書物や読者についての文化史の研究家シャルチエのフランス革命論ですが、読みやすく面白いが吃驚することはありません。ハーバーマスの公共圏の考えに影響を受けていますが、そもそも革命に文化的起源はあるのかとも問うています。今回、イポリット•テーヌの『現代フランスの起源』、モレルの『フランス革命の知的起源』を読めなかったのは残念で、それらを読んでいたら、もっと興味が違っていたでしょう。

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◉遅塚忠躬『フランス革命 歴史における劇薬』(岩波ジュニア新書)は青少年に訴えかけるような調子で書かれています。高橋幸八郎以来の東大フランス史学の継承者らしく、フランス革命を偉業と捉えています。恐怖政治や民衆による虐殺は、癌も殺すが正常な組織も殺す抗癌剤と同様の劇薬と説明しています。画家のドガが子供の頃、母親に連れられてある老婦人の家を訪問した時、壁にかけられてあるロベスピエールやサン•ジュストの肖像を見て、ドガの母親が「まあ、何でこんな怪物の肖像を飾っているのですか!」と言うと、老婦人は「何を言ってるんですか、この人たちは聖者なのですよ!」と答えたそうです。実はその老婦人はロベスピエールの盟友で処刑の朝に自殺したルバの妻だったのです。遅塚は最後に青年に、自分の信ずることに生きろ、フランス革命は君たちにその勇気を与えてくれる、などと言っていますが、革命によって生まれた新しい世界はほとんど前の社会より悪い、と言うのは常識ではないでしょうか。善良で真面目な人間が、自分が絶対正しいと信じることを行うほど怖いことはないのですから。

◉ミシュレ『フランス革命史』(世界の名著37)名著と言われるが、情熱が先走りすぎてとても読むに堪えません。マラーの暗殺、国王のヴァレンヌ逃亡、テルミドール反動など有名な箇所を読めば十分でしょう。

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◉ゴデショ『反革命 理論と行動』重要な本で、理論のところは何度も読みました。ド•メーストルとボナルドのところが面白い。

◉ウイリアム•ドイル『アンシャン•レジーム』ドイルは優れた本を多く出している英国の歴史家。イポリット•テーヌの紹介がたいへん勉強になりました。テーヌは自然科学に由来する実証的研究が持ち味。『文学史の方法』(岩波文庫)は傑作。『現代フランスの起源』を書くためにパリの国立歴史文書館、国立図書館に通い詰め、その第一巻は調査研究を手助けしてくれた文書館や図書館の職員に捧げられています。

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◉トクヴィルの『アンシャン•レジームと革命』おそらくフランス革命史学でもっとも引用される本。革命は、結局は中央集権に至る途中の出来事だという。しかし、トクヴィルの文体はわかりにくい。

◉カミュ『ギロチン』カミュの父親はカミュが一歳の時に死んだのですが、母親の話では、ある日ギロチンを見に行くと言って、張り切って朝早く家を出ました。昼過ぎに帰ってくると、何も言わずベッドに横になって吐き始めたそうです。ギロチンがいかに残酷な刑かよくわかります。

 

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昼寝するルーミー。殺処分になる寸前にボランティアの人に助けられたルーミーは、ほんとうに幸運でした。

 

 

 

 

 

 

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