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2021年9月28日 (火)

ブラウンフェルス『西欧の修道院建築』

 

 9月15日に妻が大手町で2回目のワクチン接種を終えました。その翌日、激しい頭痛と悪寒で布団を被って呻いています。あいにく、その日は私の通院日で、心配で病院からメールしましたが返事がなく、死んでいるのでないかと思って慌てて電話すると、弱々しい声で応答があったので一安心。幸い、熱は38度までしか上がりませんでしたが、丸三日間苦しみ抜いて、「もうモデルナは懲り懲りだ、3回目は別のワクチンを打つ。」と言っています。

 先日、OKストアまで歩いて、ワインや野菜などを買い出しに行ったのですが、背負ったリュックで肩が痛くなり、仕方なく駅前からの無料バスに乗って帰って来ました。久しぶりにバスに乗ったので酔ってしまい、吐き気が翌日まで残って、しかもスーと血の気が引いたような嫌な気分、体温は35度4分と低く、血圧も100-67とやはり低い。パジャマを2枚重ねて着ても寒く、靴下をはいて寝ても足が冷たい。熱い紅茶を飲んで、何とか息をつきましたが、こんな時はいつも死の近さを感じてしまいます。

 『列王記』上巻の冒頭に、年老いたダヴィデが、いくら衣服を重ねても暖まらず、臣下たちが相談して、ダヴィデ王にむかって、「王様のために、年若き処女を探し出して、王様の世話をさせ、王様とともに寝るようにさせましょう。そうすれば王様は暖まるでしょう。」と申し出ました。そこで彼らはイスラエル全土から美しい娘をさがし、シュナム生まれのアビシャグを見つけ、王のもとに連れて行きました。アビシャグは献身的にダヴィデに尽くしましたが、ダヴィデはついに彼女を「識らなかった」ということです。それゆえにシュナミスムshunammismは「処女妻」あるいは「全裸の少女の横に眠ること」を表しているそうです。

 こうくれば、思い出すのは川端康成の『眠れる美女』で、何十年かぶりに読み返してみましたが、67歳の隠居老人が、鎌倉あたりの一軒家に薬で昏睡している少女と一晩添い寝するという話で、そのネチネチした文体がいやらしさを増幅します。倫理的判断は文学の本筋でないとはいえ、こういう老人になったら終わりだと思ってしまいますが、対話的接触を一切回避して少女を生身の人形として扱うのは性的快楽としても中途半端です。生きた女性への恐怖、嫌悪、面倒くささが根底にあるのでしょう。ジョン•オハラの短編『河を渡って木立を抜けて』を今思い出したのですが、(うろ覚えですが)老人が親類の少女と自動車旅行をして、道々話をするうちにだんだん好きになり、目的地の別荘について、思い切って花を持って少女の部屋を訪れると、「クソ爺い!」と一喝されるというお話。そのような残酷さを味合うのも人生の醍醐味ではないでしょうか。

 『眠れる美女』といえば、むろんガルシア•マルケスの『わが悲しき娼婦たちの思い出』を忘れるわけにはいきません。川端と違って、こちらはたいへん明るくて面白い。こういう読みやすく楽しい本を書くことがどれほど難しいか。気難しい読者を飽きさせず最後のページまで連れて行くのはまさに作家の力量そのものです。主人公は90歳の誕生日の記念に14歳の処女と一夜を明かすことを企てますが、本気でその娘を好きになって、音楽を聴かせたり、アクセサリーを贈ったり、自転車を買ってあげたりします。新聞のコラムニストである主人公は、自分の思いを率直に感動的にコラムに吐露して読者の評判を呼びます。客観的状況からして幸福な結末は望み難いが、しかし、前向きに生きようとするその生き様は老人の夢物語とも言えるでしょう。90歳の誕生日に新聞社の同僚が贈ってくれたものが保護猫の引換券であるのも面白い。

 ところで、インド思想関係の本ばかり読み散らかして、おまけにインド映画、インド音楽、インドカレーまで手を伸ばして、大分飽きて来ました。気分を変えて、1969年に初版の出た、W.ブラウンフェルスの『西欧の修道院建築』(渡辺鴻訳•八坂書房)をとりあげましょう。ブラウンフェルス(1911~1987)はドイツの文化史家、美術史家で、パリでアンリ•フォションの、ボンでE.R. クルティウスの薫陶を受けました。アーヘン工科大学の1964年の講義から生まれたこの本は刊行当初から名著の誉高く、実際、内容•文章とも素晴らしい。また、渡辺鴻の翻訳も原著の格調ある文体を彷彿とさせる名訳です。

 修道院建築の基本形が生まれ、発展し、変容する歴史は、ただ西ヨーロッパ、つまりイタリア、スペイン、フランス、イギリス、ドイツのみで見られました。西ヨーロッパでは、五世紀から十八世紀にかけて四万もの修道院が存在したのですが、おそらくラテン的合理性と秩序感覚が、神の国を組織的に地上に具現しようとする意志を鼓舞したのでしょう。合理的精神にとっては、内面的形式は外面的形式として視覚化されなければならなかったのです。こうして、十二世紀にはクリュニー会とシトー会はロマネスクを確立し、13世紀にはフランシスコ会とドミニコ会がゴシックの形式を、16世紀にはイエズス会の建築がマニエリスムの新形式を生み出し、17、18世紀の貴族修道院はバロックの世界観を決定したのです。しかし、西欧の修道院建築を振り返る前に、東方教会とアイルランドの修道院を見てみましょう。

 東方教会の修道思想は、大バシレイオス(330頃~375)の書き下ろした詳細な戒律によって始まります。この戒律は、後に西方の修道院でも採用される時禱、沈黙、労働、共同生活などを規定したもので、何と千年以上も変わらず権威を保ち続けています。バシレイオスは巨大な修道院を設立し、その中に孤児院や病院なども備えていましたが、なぜか修道院建築はその後の歴史でほとんど発達しませんでした。

 有名なギリシアのアトス修道院を見てみましょう。エーゲ海に突き出た岬の突端にあるアトス山には20もの修道院が存在し、現在でも1700人ほどの修道者が祈りと瞑想の生活を送っています。多くは厳格な各修道院の規則を遵守していますが、個人主義を尊重するギリシア人は、各自小屋を作って隠棲したり、独自の祈りと労働の生活を守っている者も多いようです。特徴的なことは女人禁制を厳守していることで、女性は入山はむろん、海上500メートル以内に近づくのも禁じられています。家畜も雄しか飼えず、例外はネズミを捕食する猫のみだそうです。

 シリアは四世紀から五世紀にかけて文化が花開き、七世紀のアラブの侵入によって廃墟と化しました。シリアの修道院はそのほとんどがカラト•シメーン修道院への巡礼路になっていました。カラト•シメーン修道院は柱上生活者シメオン(390~459)の立っていた柱を中心に次第に修道院が形作られて行ったものです。アナトール•フランスの『舞姫タイス』にも出てくるこのシメオンは、最後には19メートルにも及んだ石柱の上に小屋を立てて30年間暮しました。記念すべき石柱は、いまでも廃墟の中にその痕跡を残しています(その後2017年に爆撃で消滅しました)。

 アイルランドは、西ヨーロッパでかなり特異な修道の経験を持ったのですが、その主要因はケルトの民族性にあります。その修道形式は懺悔のための永遠の放浪でした。放浪への憧憬、即興性への愛、持続性への軽蔑、不当なる永遠性の拒否が、歴史に残るような修道院建設を不可能にしたのです。アイルランドのもっとも重要な修道指導者はコロンバヌス(530/40~615)ですが、彼の中にこそ、アイルランドの豊富な想像力、幻想性、情熱的な急進主義、極限を志向する気負った意志が如実に現れています。彼の定めた罰則規定は、とくに官能的空想に対して厳しく、不自然な行為(手淫とか)が発覚すると、その修道士はアイルランドの海岸の荒れ狂う海中に首まで浸り、日没から夜明けに到るまで讃美歌を誦して肉欲を懺悔しなければなりません。コルンバヌスの弟子たちは大陸を彷徨い、洞窟に住み、草を食べ、石を積んでその下に眠りました。

 《聖ベネディクトゥス》さて、いよいよ西ヨーロッパにおける中心的な修道院の発達に目を向けましょう。それは西暦529年、聖ベネディクトゥス(480頃~553以前)が、ローマからナポリに通じる古代の軍道に沿ったモンテ•カシーノの山上に修道院を設立したことにはじまります。この529年という年は、まさに皇帝ユスティアヌス一世がアテネのアカデメイアを閉鎖した年であり、ここに人類の精神史の一頁がめくられたのです。この修道院はアカデメイアの課題を受け継ぐことになりました。すなわち、修道院は中世の教育施設になったのです。

 モンテ•カシーノは、一つの伝統の出発点でした。ベネディクトゥスは、若い時、3年間を洞窟で隠修士として過ごし、ほぼ20年近くを寂廖地に12の小さな修道院を建て、主修道院を中心に小修道院に各人が散住する経験を試みた末に、ついに529年、モンテ•カシーノではじめて大居室における共同生活を開始したのです。大居室といっても、東方の修道院のように1000人か3000人のような大修道院ではなく、多くて150人ほどの、つまり修道院長が多様な修道士たちの各々に十分目が届くようなラテン的な家族概念に基づいていました。

 聖ベネディクトゥスのもっとも偉大な功績は73章からなる戒律を定めたことだと言われています。彼はローマで修辞学を学んだような上級知的階層出身ではないので、その言葉は簡素な俗ラテン語でした。内容は平易で理解しやすく、この単純性とローマ的明快さはこの戒律が世界的に広まることを約束していました。この書は福音書に次いで第二の聖典となり、伝道の際は必ず携行され、修道士は常にこれを暗誦し、瞑想の対象にしていたのです。敬虔なキリスト教徒であったシャルルマーニュは、この戒律に感銘をうけ、その写本を作成し、加筆することなく、そのまま全修道院に配布させました。ベネディクトゥスの原本はサラセンの攻撃の際に紛失しましたが、原本から直接筆写した唯一の文書が、今日、スイスのザンクト•ガレンの修道院図書室に保存されています。この写本を製作した2名の修道士は「一句一語はおろかただの一字も原本と異なるところなし」と証言しています。

 この偉大な戒律は、ベネディクトゥスの寛容で素朴で開かれた精神をよく表しています。彼はすべて極端なものを排しました。規則は厳格だが、苛酷主義ではなく、虚弱者、老者、病者にも配慮されていました。葡萄酒さえも許されており、処罰は贖罪を目的とせず指導の形をとったのです。ベネディクトゥスは、すべての人が敏速に起床できないことをよく知っていたので、朝の賛美歌はゆっくり詠唱し、遅れて来た者が共に加わることができるよう配慮しました。彼が歿した時、すでにその名声は遠くまで行き渡っていました。モンテ•カシーノは、580年にランゴバルドによって破壊されたのですが、すでに多くの弟子がヨーロッパ中に聖ベネディクトゥスの精神を広めていたのです。戒律第57章(手仕事に従事する者について)を引用してみましょう。

「修道院について手仕事に従事する者は、修道院長の許可を受けて、あくまで謙虚な心で、仕事に従事しなければならない。もし自分はこの仕事によって修道院に役立っていると考える者があれば、この者はただちに仕事をやめさせねばならない。そしてこの者は、謙譲の心を示し修道院長から再度許可を受けた後において、はじめてこの仕事を続けることができる。」

 ここから中世ヨーロッパの真っ只中に入ることになります。フランク王国とシャルルマーニュは、カロリング•ルネサンスの一翼を担う修道院に、また、世俗的な役割を押し付けるようになります。修道院は土地管理の中心施設になり、防衛線の一環になり、旅して巡る宮廷の宿泊施設になったのです。そして、また学校になり、宮廷官房になり、研究施設になり、当然ながら伝道拠点にもなりました。このような役割の変化は、当然、修道院建築にも影響するはずです。ベネディクトゥスの親密な家族的修道院はすっかり形を変え、修道院は、聖堂、集会室、寝室、食堂、回廊などの中心施設のほかに、病院、薬草園、厩舎、外来者の宿泊施設等々の大規模な複合施設に生まれ変わりました。トゥールのように、町全体が2万人を擁する修道院都市になった例さえあります。

 《クリュニー》10世紀から十一世紀にかけて、すべての修道院の頂点に立ち、修道院帝国の首都になろうとしたのは、ブルゴーニュのクリュニーでした。この修道院は、それぞれ50年にわたる在位期間を持ったすぐれた四人の修道院長の力によるところが大きい。そして、この時代の課題、皇帝と教皇の狭間で、クリュニーはどちらに対しても指導し、助言する立場を維持し得たのです。修道院長は皇帝の友人であり、同時に教皇と並ぶほどの力を持っていました。世俗と絶縁することを希いながら、十字軍やスペインのレコンキスタの推進者となり、精神的、世俗的権力を交互に要求しながら、異常なほどに富裕になり、巨大な影響力を奮ったのです。ペトルス•ウェネラビリス修道院長の時の第三クリュニーはロマネスク最大の規模を持ち、当時の訪問者の残した文書によれば、修道院内部は高価な宝物で飾られていたということです。クリニューは啓蒙主義の時代に理性信仰の連中に徹底的に破壊、掠奪され、今残っているのは第三聖堂の南翼廊の塔だけです。

 《シトー会修道院》12世紀において、クリュニーと正反対の方針を示したのはシトーでした。それは、修道院が時の流れのままに負荷されてきた世俗的な課題に対して、ベネディクト的精神の本来の姿を再確認しようという試みだったのでず。もし修道院が過度に富裕になった場合、その中に生きる修道士は清貧の理想に生き続けることができるのでしょうか。11世紀の終わりに、ロベルトゥスほか7名の修道士が、かつての理想に生きようとシトーの沼地に隠遁の生活を始めます。しかし、シトー会をクリュニーに並ぶ大修道会にしたのは、1112年にフォンテーヌのベルナルドゥスがブルゴーニュの30名の貴族を引き連れて加入してからでした。このベルナルドゥスは、全中世を通じてもっとも魅力的な人物の一人で、「彼は尖鋭な神学的意識と無限の実行力と無限の禁欲希求を兼ね備えていた。彼の語りまた書く言葉は、叙情性に溢れ、若年者に修道思想を鼓吹した。」とブラウンフェルスは書いています。

 ベルナルドゥスは、アイルランドからロシアにいたる地域に343に及ぶ修道院分院を設立し、その中心地であるクレルヴォーはシトー会の象徴となりました。この新修道院の精神を特徴づけるものは、無限の献身ということでした。修道士は、禁欲生活のために平均年齢が28歳まで低下しました。修道士は入所してからわずか12年ほどしか生きられなかったのです。聖ベルナルドゥスは、クレルヴォーに修練士が入所する際に、「もし諸君がすみやかに信仰を実現しようと志すならば、まず諸君の肉体を放棄せられよ。ここにはただ魂のみが入所できる。肉体は不要である」と述べました。にもかかわらず、1148年には、このシトー王国の首都クレルヴォーには700人もの修道士と助修士がいたのです。

 シトー会は、神の瞑想の妨げになる全ての虚飾に対して急進的に戦いました。彼らの衣服は羊毛か麻の無漂白な白無地で、寝室は簡素そのもの、寝台は板敷で敷布もなく、衣服のまま寝たのです。十字架さえ塗装した木製で、壁面は漆喰さえ許されず、クリュニーを絢爛に飾っていたステンドグラスなどは一切用いられませんでした。ベルナルドゥスは、『ギレルムスへの弁明』の中で、クリュニーやサン•ドニの修道院長に対して、そのロマネスク的奢侈を強く非難しています。「あなたがた清貧を義務付けられた者が」とベルナルドゥスは書いています。

 「真に清貧であるならば、聖所において黄金で何をしようというのか。精神の光輝によっては世俗の民衆を信仰に導くことができないために、とかく物質の光輝に頼らざるを得ないこともよくわかる。しかしながら、我々は民衆とは違って、美しきもの耳ざわりよきもの香りよきものなど、すべての肉体的な愉びを空しいとみなして、キリストに与ろうとしているのである。宝石で飾られたシャンデリア、技巧を凝らした有枝燭台など、、、おお、空しき虚飾よ、これは空しいというより狂気に近い。聖堂の壁体は輝いているが、貧しきものは苦しんでいる。その石材は黄金で被われているが、その子らは裸のままである。」

 それにもかかわらず、シトー会の歴史は、清貧は富裕ほど維持できないことを教えています。彼らは常に人里離れた森の谷間に自分たちの修道院を建てて、自給自足の生活を営み、草根や燕麦で生命をつないでいたのですが、この労働と清貧は、やがて富裕をもたらしたのです。彼らは、高い教養と指導力を持ち、中世後期における最良の農学者であり、畜産学者、また養魚と給水設備の技術者、採鉱冶金技術の先駆者でした。敬虔で勤勉、賞賛さるべき修道院は、それゆえに世俗社会からの富を流入させたのです。その信仰と清貧ゆえに、十字軍に赴く兵士たちはこぞってシトー会に大量の寄付をしました。多くの騎士はその財産を修道院に寄贈して出発していきました。13世紀にはクリュニーよりも富裕なシトー派修道院も現れるほどでした。

 また、塔やファサード、彫像や美術品を一切廃した無機質な修道院は、建築史に大きな変化をもたらしました。石だけの空間は、必然的に石造建築の技術の進化を生み出します。石は完璧に磨かれ、その配置、組み立ては正確な比例関係によって究極でしかも永続的な美を作り出します。木造天井は石造穹窿に変えられ、それを支えるために、等間隔で置かれた堅固な円柱列が必要でした。私たちが古い修道院を訪れるとき、あの屋根付き回廊の円柱列の静謐な佇まいに心が洗われるようになる時がありますが、虚飾を廃した簡素さ素朴さが、ついにシトー会の建物をクリュニーよりも美しくしてしまったのです。そして、この石造技術が、ロマネスクからゴシックへの橋渡しをすることになりました。残念ながら、クリュニーと同様に、フランスのシトー会修道院も啓蒙期に徹底的に破壊尽くされました。残存しているのは、紙工場に転用されたため生き延びたフォントネー修道院とプロヴァンスの三姉妹と言われたル•トロネなどです。英国はフランスほど啓蒙主義が猛威を振るわなかったので、生き残っている修道院が多かったのは幸運でした。

 《カルトゥジオ会修道院》クリュニーやシトー会とほぼ同じ時期に、西ヨーロッパにまったく新しい修道院形式が誕生しました。グルノーブルの近く、海抜千メートルの山中に開設されたのがシャルトリューズ修道院で、山中の荒地に建設されたことから、ラ•グランド•シャルトリューズと呼ばれました。ここを建設したケルン出身の聖ブルーノは、孤独こそ瞑想生活に不可欠という信念で、すべての修道士を中庭つきの個室に収容しました。早朝時課と晩祷時課のみ参集し、日曜日の大食堂での会食以外の時間は各自、読書、瞑想、祈り、中庭での野菜作りなどをして、他の修道士と顔を合わすことがありませんでした。日々のパンや必要な野菜、時たま葡萄酒などが差し入れられたが、小さな受け渡し口から渡されるので、互いに顔を見ることはありません。クリュニーやシトー会が、大寝室や大食堂での共同生活を必須のこととしているのに対し、ここでは孤独が第一の要件となっているのです。2005年にフィリップ•グレーニング監督の映画『大いなる沈黙へ グランド•シャルトリューズ修道院』というドキュメンタリー映画が公開されて、秘密に閉ざされたこの修道院の生活が人々に知られることになりました。

 《托鉢修道会の修道院》アッシジの裕福な布地商人は、フランスびいきで、フランス人の妻を娶り、生まれた息子にフランシスクスと名付けました。これがかの有名なアッシジのフランチェスコ(1181~1226)です。キリストは家も持たず、人の家や戸外で寝、一切所有しなかったと言われていますが、フランシスクスも、自らの土地にささやかな小舎を建てることさえもが、清貧の裏切りになると考えていました。ですから、修道院を建てることなど構想すらされなかったでしょう。彼は後世から忘れ去られることを望んでいて、自らも都市城壁前面の刑場を見下ろす、どうでもいい、急峻な丘に埋葬させたのです。そのため、現在に残るアッシジの聖フランチェスコ大聖堂を建てるためには大変な基礎工事が必要でした。斜面に建てられたので上と下に二つの聖堂入り口があります。上の聖堂内にはジオットーの聖フランチェスコ伝の壁画があって、とくに小鳥に説教するフランチェスコの絵は有名ですが、狂人だったのではなく、私も近所の野良猫に話しかけることは普通のことです。

 同じ頃、スペインにドミニクス(1170頃~1221)が生まれました。彼は、形式主義と奢侈と富裕を否定し、自由で清貧な聖職者の組織を作り出しました。フランシスクスと同様、早くから教皇権に服従し、その庇護を受けてきました。ドミニクスの肖像は、しばしば書物を抱えた姿で表されますが、彼は神学を修めた学問好きで、アルベルトゥス•マグヌスやトマス•アクィナスがドミニコ会士だったのも偶然ではありません。

 シトー会が谷間の寂廖地に修道院を建てたのとは反対に、フランシスコ会やドミニコ会は都市の中や都市の周辺に修道院を建てました。そしてカルトゥジオ会が孤絶した生活を厳守し、伝道を一切行わなかったと反対に、フランシスコ会やドミニコ会は民衆の中に積極的に溶け込んで、その勢力を拡大していきました。12世紀末から14世紀半ばまで(つまり大黒死病の時代まで)西ヨーロッパは急激な人口増加に見舞われ、とくに手工業者の増加は信者の増加をもたらしたのです。また、女性の女子修道院入所の希望も多く、都市によっては入所を断る場合もあったそうです。その結果、女子だけのべギン会や女子懺悔会などが生まれたのです。

 私が九州で学習塾を開いていた時、近くに聖ドミニコ学院という女子校があったのですが、決して優秀とはいえない高校でしたが、女子生徒たちは皆、素直で素晴らしく性格が良かったのを覚えています。フランシスコ会とドミニコ会で特筆すべきは、その聖堂がたくさんの驚嘆すべき名画で飾られていたことでしょう。チマブエやジオットーからフラ•アンジェリコ、パオロ•ヴェロネーゼなど、またレオナルドの『最後の晩餐』はミラノのドミニコ会サンタ•マリア•デッレ•グラツィエの大食堂のために描かれたのです。絵画は説教以上に一瞬にしてキリスト教の真理を民衆に伝えることができます。『最後の晩餐』は聖体秘蹟と背信者を描くことによって、恩寵と罪の中間に立つ人間の逆説的存在という主題を喚起しているのですが、堂内に閉じこもるのでなく、民衆の感覚にもっとも効果的に訴えようとした13世紀の精神がここにあるのです。

 本書は、この後、修道院国家、バロックの貴族修道院、近代の修道院と続いて、ル•コルビュジエの設計したラ•トゥーレット修道院の紹介で終わります。長い物語ですが、中心はやはり中世そのものでしょう。神の国を地上に実現しようという努力、自分らの献身が人類の救済につながるという信念、自らを捨てることによって自らを得る、これはもう神秘主義そのものです。

 「ある事象の完全な理解は、そのパロディによって得られる。」とジョルジョ•アガンベンは『いと高き貧しさ』(1915、みすず書房、上村忠男•太田綾子訳)の中で書いています。修道院の歴史のパロディとしてこの本が挙げているのは、ともに著名な2冊の本、ラブレー『ガルガンチュア物語』とサド『ソドムの百二十日あるいは淫蕩学校』です。

 ガルガンチュアは戦いの勝利の後、味方の修道士に、好きな修道院のどれでもあげようと提案します。その修道士は、領地をくだされば自分の望み通りの修道院を建てたいと申し出ます。そこでガルガンチュアはロワール河畔の広大なテレームの地を差し出すと、修道士は「せっかくだから、これまでの修道院とは裏腹の修道院を建てたいのです。」と言います。つまり、どんな修道院かというと、これまでの修道院では、女性が院内に入ると、その後を祓って清めたが、私どもの修道院では僧や尼僧が入るとその後を清めるのです。そして、これまでの修道院では、規則規則でがんじがらめに縛られていたが、私どもの修道院では、規則と言えばただ一つ、〈欲することをなせ〉しかありません。そう修道士が言うと、ガルガンチュアも同意して、修道院に入るものといえば、これまでは男も女も、かたわか阿呆か狂人か生まれそこないか一家の厄介者に限られていたが、これからは眉目秀麗で18歳までの男女に限るとしよう、と宣言します。これが世に言う「テレームの僧院」です。

 1785年、サドはバスチーユの独房で、わずか20日で、12mの巻紙に微小文字で『ソドム120日』を書き上げました。権力と金にまみれた極悪非道の四人の男が、42人の犠牲者をシリング城に幽閉し、悪逆の限りを尽くすのですが、現実の修道院と同様に朝から晩まで規則規則で金縛りになっています。たとえば、トイレは礼拝堂の中でしかできず、それ以外の場所でしたものは処罰されます。神の名を発するときは必ず呪詛の言葉を付け足すこと、宗教的行為をしたものは即死刑、淫蕩の時は沈黙を守り、破ったら即男根切除、等々、これも典型的なパロディです。『閨房哲学』に挿入された「フランス人よ、共和主義者たらんとせば、あと一息だ」というパンフレットを読むと、ホルクハイマーの言うとおり、サドは啓蒙の冷徹な貫徹者だということがよくわかります。

 私は、むろん、ラブレーもサドも好きではありません。規則だらけの生活も願い下げですが、アガンベンが引用している聖アウグスティヌスの言葉、「愛せよ、あとはしたいようにするがよい」(ヨハネの手紙1の注釈)だけは守りたいと思っています。

 

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アガンベン『いと高き貧しさ』とガルシア•マルケス『わが悲しき娼婦たちの思い出』。アガンベンの表紙は聖フランチェスコ大聖堂のジオットーによるフレスコ画「世俗の富の放棄」。フランチェスコは古びた教会を修繕するため父親の金を何度も持ち出して、父親が教会に怒鳴り込むと、突然高価な衣服を脱いで父親に投げ返し、じゃあ出てくからいいよ!と言いました。とんでもない馬鹿息子ですが、その生涯は天才そのものです。

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本社から送られたワクチン接種見舞いの花束。どこに飾ってもルーミーが食べようとしてきます。

 

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グランド•シャルトリューズ修道院で1605年から製造されているリキュール「シャルトリューズ」。130種のハーブの配合は三人の修道士のみに伝えられている。長寿の霊薬とも言われ、ジョーヌ(黄)とヴェール(緑)があり、これはジョーヌ。43度と強いのでオンザロックに炭酸を加えると格別の美味さ。ラブレーの『ガルガンチュア物語』は1987年の復刊の時箱入りを買ったもの。「テレームの僧院」は第一巻の最後に書かれています。

 

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ブラウンフェルス『西欧の修道院建築』の表紙はモン・サン・ミシェル。フランス革命の際に牢獄として使われ、かろうじて生き残りました。

 

 

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コメント

楽しみに拝読させていただいている者です。
ご存知とは思いますが、
ほとんどの百合は(花も葉も茎も)、猫にとっては猛毒です。
どうか、ルーミー様をお近付けになられませんように。
皆様のご多幸をお印利しております。

投稿: ちゃちゃこまる | 2021年10月12日 (火) 15時49分

ちゃちゃこまる様 コメントありがとうございます。
百合が毒だとは全く知りませんでした。
でも、多分害だろうと食べさせないようにしていました。
幸い、花は枯れたので全部捨てました。ご忠告感謝いたします。
いつも拙ブログをお読みくださって恐縮です。それでは。

投稿: saiki | 2021年10月12日 (火) 16時04分

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