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2020年6月29日 (月)

丸山眞男『日本政治思想史研究』(2)

 江戸時代の朱子学は一般に藤原惺窩からはじまるとされています。惺窩は、朱子学の理を戦国時代の普遍的な通俗道徳としてあった「天道」という観念に結び付けました。「天道とは天地の間の主人なり。かたちもなきゆゑにめにみえず、しかれども春夏秋冬の次第のみだれぬごとくに、四時をおこなひ人間を生ずる事も、花さき実なることも、五穀を生ずることも、みな天道のしわざなり」(千代もとくさ)。これを見ると、天道とは理よりも動的で、ほとんど神に等しいようです。もともと、天道とは、天の動く道、つまり人間の力ではどうにもならないことを言うようですが、これは、rebellion と revolution についてのハンナ•アレントの説明を思い出させます。アレントはrébellion はただ反乱を意味するが、revolution はもともと星星の回転を意味したので、そこから人間の意志を超えた「革命」を意味するようになった、と書いています〈『革命について』ハンナ・アレント•ちくま学芸文庫〉。日本語でも「お天道さま」という絶対神の存在は無条件で意思に関わりなく人間の行為を裁けるのです。

  天道が、かくして、人の心に賦与されたものが明徳であり、明徳とは一もよこしまな心なき絶対善なのです。明徳は、先天的に誰にでも在り、聖人はこの明徳を磨き立てた人間を指すのです。しかし、人間として生まれてきたからには必ず人欲があり、これが明徳という鏡を曇らせ、人を鳥獣と同じにするのです「人欲は鏡のくもりなり、曇りをはらいさへすれば明徳は顕現す」と惺窩は言いました。ここに聖人と人とが連続するオプティミスティックな世界観が生まれるのですが、実践道徳としては、「明徳と人欲は敵味方なり」というリゴリズムをも内包することになるのです。

  山鹿素行は、何より朱子学の実践道徳に異を唱えます。この道徳は「格物窮理」という根本原則に依拠しているのですが、格物は物に格(いた)る、つまり物事を本質に至るまで研究することを言うのですが、この態度は極めて静的であり観照的です。これは、素行の宣言する聖学のとる道ではありません。けだし人心そのものが「火に属し、生々息むなく」日々流れ行き運動するものだからです。彼にあってはもはや人間の諸情欲は「敵」として憎悪されてはいません。「人欲ヲ去モノハ人にアラズ、瓦石ニ同ジ、瓦石皆天理明ナリトイワンヤ」(謫居童問)。しかも、素行は、人欲は「已むを得ざる」ものではなく、実践的立場から積極的に人欲を一切の行為の、従ってまた善行の基礎と明言しているのです。「人ノ知万物ニコユルヲ以テ、其欲心利心又万物ニコユ」。

  したがって、排すべきは欲ではなくして欲の「惑ひ」であり、素行によれば「過不及」を意味します。丸山はこう書いています。「人欲が善悪一切の基礎であり、人欲を離れた天理が否定されるならば、よって以て欲の過不及を計るべき善悪の規準はもはや人性のうちに得られずしてかへってその外に求められねばならない。ここに礼楽といふ客観的規範が重大な意味をもって登場する。」「聖人の教は唯々礼楽に在るのみ」(聖教要録)。礼楽とは礼楽刑政という言葉があるように、社会の秩序を維持するための基本を指します。為政者が聖人である必要はなく、外部に拠ってたつ規範が確立されていればよい。ここで丸山は、政治の世界から倫理を排除しようとしたマックス•ウェーバーを思い出しているようです。

  山鹿素行は1622年、奥州会津の浪人の家に妾の子として生まれました。素行には、18歳年上の嫡出子の兄がいましたが、凡庸な男で、一家の命運は神童の誉れ高い素行に託されました。9歳の時に林羅山の面接を受けて弟子入りを許され、11歳で松江の城主堀尾山城守はこの早熟の天才を200石で抱え入れようとしましたが、父の貞以はこの申し出を断りました。父親は素行をもっと良い条件で、できれば幕府直参にしたかったのです。住居を転々とする居候の家族の夢は、素行の目覚ましい評判により実現一歩手前までこぎつけました。しかし、庇護のあった将軍家光と重臣松平定綱の死は、この計画を頓挫させてしまいます。その頃、例の由井正雪•丸橋忠弥の事件の影響で浪人取締が厳しくなったので、31歳の時、素行は兵法の弟子であった浅野長直(内匠頭の祖父)に千石で仕官することにします。家老の大石内蔵助(内蔵助良雄の祖父)が千五百石なので、これは相応の待遇と言えましょう。

  39歳で、浅野藩を致仕しますが、ここでようやく素行の思想ははっきりと形になって現れます。44歳の時、弟子が編集した講義録『山鹿語類』さらにその抜粋である『聖教要録』が世に出されますが、これが大変な問題を引き起こします。素行は、この書で宋儒(朱熹など)明儒(王陽明など)さらに朱熹一辺倒の闇斎学派を批判しているのです。朱子学以外の学問の禁は18世紀末の寛政の改革まで出ていないのですが、時機が悪く、山崎闇斎の大ファンであった保科正之(家光の異母弟であり、秀忠の子)が幕閣を凌ぐ権力を持っていたからです。弟子たちは危険を察知して、『聖教要録』の出版を取りやめるよう諫言しますが、素行は「聖人の道は、一人の私するところに非(あら)ざるなり。如(も)し一人に施す可くして、天下に拡む可からざれば、則ち道に非ず。必ず之を天下に示して、後の君子を待つ。惟(こ)れ吾が志なり」(『聖教要録』序)。と言って世に出すのです。

  『配所残筆』によれば、1666年10月3日の朝、素行は大目付であり、兵学の先達でもある北条氏長邸に書状で呼び出されます。直ちに参上する旨の返事を出して、家族と最後になるかも知れぬ朝食をとり、行水をし、立ったまま遺書をしたためて家族に残し、死罪の場合の公儀への一通もしたためて懐中に入れ、知人への5、6通も書き残し、若党を二人のみ連れて馬で自宅を出ました。途中牛込宗参寺の先祖の墓により、氏長邸に着くと門前には多くの人馬がいました。素行は刀を下人に渡し、座敷に上ると、程なく北条氏長が接見して、不届きな本を書いたので浅野家にお預けになった、直ちに赤穂に出立する、と告げました。筆と硯と紙が出され、家族に伝言を書き残すよう言われますが、素行はその必要はない、それより自分の本のどの箇所が問題なのか教えてほしいと質しました。氏長は、老中の決めたことゆえ仕方ないと答えました。すでに護送役人が待機して、浅野家からも磯部彦右衛門が参上しています。素行には多くの門弟がいて、芝•品川などで師を奪還するかも知れぬから警戒を怠るなとの通達もありました。

  以上の顛末をどう見るか。死罪を免れたのは、素行が法を犯したわけでもなく、ただ保科正之の逆鱗に触れたからでしょう。ただ、当時、由井正雪の件で浪人が徒党を組むのを恐れていたし、素行がお膝元の江戸にいて、しかも羅山門下の秀才だったことも悪い影響を与えていたのでしょう。素行を敬慕している浅野家へのお預けは、温情の処置で、四人の老中すべて素行の弟子であり、大目付の北条氏長も互いに知り合った仲、実際、保科正之が他界すると程なく素行は許されて江戸に帰っています。赤穂での9年間は賓客待遇と言ってよく、筆頭家老の大石が朝晩野菜を届けていたそうです。

  ところで、1702年の赤穂浪士討ち入り事件と素行は何らかの関係があるのでしょうか。素行は1685年に病没しているので、ほぼ影響はないという論もありますが、兵学者として鳴らした素行の教えが浸透してないはずはないでしょう。源了圓の『徳川思想小史』によると、素行の影響は大きい。素行の「士道」は戦国時代の殺伐とした武士の生き方から江戸の消費社会に変化して、その荒波の中で武士はどう生きるべきかを考察したものでした。武士は生産に従事しない、しかし、それゆえに人倫の道を実現し、万民の模範になることができる。これは山本常朝の『葉隠』と真逆の考えです。『葉隠』は朝に月代を剃り、髪形をととのえ、その髪に香を匂わせ、手足の爪を切り、軽石で磨く、つまり日々を死を前にした人間として生きることを教えました。したがって、常朝としては赤穂浪士は緩い、直ちに夜討ちして首を取り泉岳寺で腹を切るべきで、もし一年余の猶予中に吉良が病死したらどうするのか、と言っています。

  対して、殉死を否定し、「命に安んじる」素行の士道は赤穂浪士たち、就中大石内蔵助良雄の中に生きていました。源了圓はこう書いています、「これは主を討たれた武士の激情的な復讐の事件ではない。浪士たちは一年有余の歳月をついやし、その間思慮にみちた行動をしてその目的を達成し、しかも彼らの行為を「義」のための行為と称している。(中略)浪人たちの忍耐強い行動と、素行の「我が身たとへ生きながら敵人の手に渡るとも、命は卒爾に棄つべからざると存ずる也。己が一時の怒に身を棄て、恥を思うて早く死し、死を潔くして一時の思いを快くせんことは忠臣の道にあらざる也」という考え方との間には一脈相通ずるものがあるように思われる。」

  ここにこそ素行の真骨頂があります。素行の士道は、それによって礼楽が具体化し完成するものでした。威儀を正す、という言葉ほど素行に相応しいものはありません。素行を出世しか考えない欲深い人間とした後の批判者たち(たぶん司馬遼太郎とか)もいますが、確かに醇儒として諸大名の招聘にも応ぜず赤貧洗うがごとき生活を耐えた伊藤仁斎などに比すると、江戸の著名人たちと付き合い、華やかと言ってもいい生活を送った素行は俗儒とも言われるでしょう。しかし、知人宅に居候する浪人の家庭に生まれて、多くの兄弟親類の生活を見なければならなかった人間が、幕府直参に出世することを夢見ることは極めて普通です。素行は、清廉、正直、仁義、教養など、武士の倫理を唱導し、自ら実践しました。思想は必ずその人間の立居振舞に現れると信じていたからです。それが、かくも夥しい門弟•庇護者を引きつけた理由なのです。

  江戸時代には、素行は儒学者としてより兵学者としてはるかに著名でした。仁斎や徂徠のような原典批判の力が彼には欠けていたからですが、また素行には彼らにないプラグマティックな学的態度がありました。『聖教要録』の「読書」の項に彼はこう書いています。

 「書を読むは聖人の書に在り。聖教は甚だ平易なり。毎(つね)に読みて之をを味ひ、玩びて之を繹(たづ)ね、推して之を行へば、以て之を証するに足る。」

  つまり、書を読むには聖人の書を読むのが最上である。(素行は聖人を伏犠神農から文武周公に至る十聖人に加えて孔子を最後の聖人にしています。曾子•子思•孟子は望むに足らず、まして宋儒(二程や朱熹)や陸王(陸象山と王陽明)は数えるに足らずと言っています。)よって、聖人の書とは『論語』以外にない。『論語』は極めて平易である。いつも読んで味わい、分からないところは人に聞いて、進んでこれを実行すれば、この書の正しいことがわかるだろう、というのです。「書を読むは聖人の書に在り。聖教は甚だ平易なり。」という言葉が素晴らしい。「一冊の本を読む人を恐れる」という至言はこのようなことを言っているのでしょう。

  戦前、もっとも多く読まれた素行の本は『中朝事実』だと言われています。昭和16年に出た『山鹿素行全集思想編巻15』の広瀬豊の解説によれば、この書は児童向けに「實に日本を中華と呼び、世界最高の君子國として萬丈の気炎を吐いた点にある」とのことで、日本書紀•古語拾遺•本朝神社考などから要約したもので、各項の終わりに「謹みて按ずるに」として素行の見解を付したものです。これは素行48歳の赤穂謫居中に書いたもので、それまでの自分の学問がとかく支那崇拝に陥り、日本を正解し得なかったことを懺悔し、皇国日本を見直し、日本の日本たる所以を明らかにしたものだそうです。乃木希典は、この本を清書し、当時の皇太子に献上したということです。私も読もうと努力したが、30ページほどで挫折しました。これなら福永武彦の『古事記物語』(岩波少年文庫)の方がずっと面白い。私は、父親に愛されなかった悲運の王子ヤマトタケルノミコトが遠く大和の地を見て死ぬところでいつも涙してしまうのです。

『日本政治思想史研究』の続きですが、一気に素行、仁斎、徂徠、宣長まで突っ走るつもりでしたが、江戸思想史関連の本ばかり読んで疲れて来ました。加えて、コロナのために中止になっていた将棋の大きな対局が連日のように開催されているので、そっちにも気が散ってしまいました。で、とりあえず山鹿素行までで、この項はひとまず休止と致します。ところで、東京のコロナ感染者数はじわじわ増えているようで、暑くなると収束するという話はどうなったのでしょう。神田の古書街とかに行きたいが、人の多く集まる所はとても不安です。すずらん通りのキッチン南海も6月26日に閉店しましたが、味はともかく狭いテーブルに詰め込んで座らせられると落ち着いて食べられません。同じ通りのスヰートポーツとかいう餃子屋も古い店で閉店が決まりましたが、一度餃子ライスとビールを飲んだが、米飯が不味いのに驚きました。

 先日、久しぶりに眼科の診察に行きましたが、待合室はいっぱいで、予約していてもかなり待たされました。医師によると、自粛解除で、どっと患者が押し寄せたとのことです。隣に座っていた車椅子の老人は「混んでいるからもう帰りたい」と言っていましたが、付き添いの女性に「でも、お父さん、眼が見えなくなったら嫌でしょう」と宥められていました。確かに、徐々に視界がぼんやりして狭くなる恐怖は体験しないとわからないでしょう。眼科の検診は無事済んで、眼圧も低かったので一安心、ところが病院の外に出た途端、強烈な初夏の陽射しに当てられて目が見えなくなり、頭もクラクラしてきました。瞳孔を開く薬とか色々差されたので眼が弱っていたのでしょう。木陰で立ち止まって休んでから、ゆっくりと駅に向かいました。脳神経内科は、電話で2度処方箋を頼んだので、7月半ばまで診察はありません。

  最近酒量が増えたためか、逆流性食道炎になって、胸痛で苦しみました。3週間禁酒しましたが、結果、体調はよくなり睡眠もとれるようになりました。血圧も劇的に下がって、むしろ下がり過ぎて心配でさえあります。今は、夕食前に梅酒を一杯飲んで、週末にビールやワインを飲んでいます。貝原益軒は『養生訓』で「酒は微酔(ほろよい)にかぎり、花は半開に見るのがよい」と言っていますが、確かにその通りで、どんな酒も最初の一杯が至上であり、桜は誰も見に来ない蕾の開き初めが至高というものです。なお、『養生訓』は今でも読むべき書物で、とくに老後の心構えが役に立ちます。「老後の一日は千金に値する。なぜならば、老後は若い時の十倍の速さで時が過ぎていくからである。」この理論は今では科学的にも証明されているようです。また益軒は、金末元初の道士である丘処機の「衛生の道ありて、長生の薬なし」という言葉を引用していますが、人を長生に導く道士の言葉ということが面白い。長生の薬などなく、そうやって売りつけている輩はすべて詐欺師である。人の寿命は定めで決まっていて、その天寿を全うできるかどうかは、日々の養生にかかっている。養生とは肉欲を制限し、外邪を防ぎ、起居を慎み、動静を適時にすることである、と益軒は言っています。

  妻のテレワークは秋頃まで続きそうです。というのも、外資のIT系の会社なので国によっては外出がまだ禁止されているところもあるからですが、仕事は大変忙しく、昨日テレワークで話した外国の同僚が今日レイオフされていなくなるのは珍しくないとのことです。会議はすべて英語なので、仕事を終えると妻はぐったりとしていますが、夜の「のんびりタイム」にもフランス語やスペイン語の本を読んでいるので、語学がもともと好きな人間なのでしょう。私は妻の休憩時間に珈琲を淹れたり、夕食の支度などしていますが、猫のルーミーも自分のできる範囲で癒しになろうとしているようです。

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  図書館で借りて読んだ素行の主著(講談社学術文庫)原文、書き下し文、現代語訳がすべて揃っていてたいへん便利。『聖教要録』は繰り返し読むべきもの。『配所残筆』は赤穂に謫居しているとき書いたもので自伝としても秀逸。素行の真面目はこの二作品で事足りるでしょう。

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モニターを前に。ルーミーもオンライン•ミーティングに参加

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