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2020年5月24日 (日)

丸山眞男『日本政治思想史研究』(1)

 

  5月1日に小沢書店の元代表の長谷川郁夫氏が亡くなられていたことを知りました(食道がんで享年72歳)。小沢書店といえば、吉田健一や柴田宵曲などの瀟洒な美しい製本で知られていますが、何より吉田一穂、田村隆一などの詩の本の出版社でした。詩の本では儲からないと考えるのが普通で、小沢書店も2000年に倒産してしまいましたが、その後郁夫氏は『美酒と革嚢』や『藝文往来』などで著述家としても名を成しました。郁夫氏とは一度会ったことがある、といっても顔を見ただけですが、半世紀ほど前、大学生の時に同級生仲間と四人で都内をぶらぶらしていた時、飯田橋辺りに来たとき、仲間の一人が「この近くに麻布の先輩が働いている出版社があるから寄ってみよう。」と言ったのです。それで、雑居ビルの二階の「小沢書店」と書かれている扉を開けてはいると、その先輩が段ボールの箱に本を梱包している最中でした。私たちの顔を見ると、奥のデスクに座っていた郁夫氏に一言二言私たちのことを説明して、「ひと段落したら手が空くから、向かいの喫茶店で待っていてくれ。」と言いました。それで、私たちが室を出ようとすると、奥にいた郁夫氏が「ちょっと、ちょっと」と声をかけて、壁いっぱいに並べてある本を指して、「欲しい本があったら、持っていっていいよ。」と言ったのです。みな高価そうな美本ばかり、畏れ多くて、「いや、結構です」と言って出て行きました。ほどなく、喫茶店に先輩が来て、現今の出版事情などを話してくれたのですが、いや、遠い遠い昔のことを瞬間的に思い出してしまいました。そういえば、つい先日、家にあった桶谷秀昭の『中世のこころ』(小沢書店コレクション)を読んだばかりでした。

  妻は外出自粛で、家でテレワークしているのですが、最近、作り方を会得したのか、狂ったようにパンケーキを焼いています。ホイップクリームやあずきをのせたり、カナダの市場で買ってきた缶入りのメープルシロップをかけたり、美味しいのでどんどん食べていると、わんこそばのようにお代わりを皿に載せてきます。さすがに食べ過ぎて、夜布団に横になった途端、ココア・パンケーキが食道を逆流してきました。で、しばらくはパンケーキ作りは自粛していますが、粉を蓄えていて、隙あらばまた焼こうとしているようです。

  コロナ鬱というのか、毎日が息苦しいようで、おまけに腰痛と痔痛で寝ながらしか本が読めず、QOLはかなり下がっています。幸い、血圧は薬のおかげで下がったままですが、夜中に緊急地震警報が鳴ったときは、びっくりして瞬間血管が切れたかと思いました。夜は酒に頼らないと眠れないが、先日は飲みすぎて目が回ってしまいました。コロナの第一波は収束に向かっていると思うが、感染の危険は強くまだ油断できません。何となく死が近づいていると思うと、一日一日を大事に生きなければと思いながら、いつもだらだらと過ごしてしまうようです。やりたいことを生きているうちにやってしまおうと思うのですが、その強い欲望がない。美食への執着もない。旅への憧れはあるが、健康が許すかどうか。音楽はネットや「アレクサ」でだらだら聴いているが(あいみょんやスピッツやジブリの曲やモーツァルトなど、他に50、60年代のアメリカンポップスとか)、これも別に聴けなくとも苦ではありません。そうなると、やはり読まずにおいた本を生きているうちにきちんと読んでおくことが最後の欲望となるようです。何を読むか? フランス語の小説とか日本の古典もよいが、常に興味を惹かれるのは思想史・文化史・美術史などです。丸山真男は、政治思想史には性欲のように強く惹かれると言っています(間宮陽介『丸山眞男』ちくま学芸文庫)。この気持はよくわかります。人間精神のダイナミズム、時代と個性の強烈な交錯など、自分の無知の心が満たされていく歓びは例えようがありません。

  丸山自身の思想史の本は、もちろん『日本政治思想史研究』(1952東京大学出版会)ですが、私はこの本を12、3年前、妻と銀座に洋服を買いに行った帰りに偶然手に入れました。暮れかかったマロニエ通りを歩いていると、銀座プランタンの横に珍しく古本のワゴンが出ていて、場所柄インテリアや写真集などの本が多いが、その中に『日本政治思想史研究』が混じっていたのです。値札は840円で、その頃どの古本屋でも決まったように1500円だったのですぐに買いました。

  ところで、最近、丸山の弟弟子にあたる福田歓一の『丸山眞男とその時代』(2000岩波ブックレット)を面白く読みました。それによると、東大で丸山は、政治学の南原繁の助手募集に応募してみごと採用されたのですが、その当時の国粋主義の雰囲気を極度に嫌うクリスチャンの南原にとって、この俊秀の助手は使い道があったのです。というのも法学部に一歩先んじて決まった文学部の日本思想史の講座をファナティックな国体明徴の右翼学者平泉澄が担当していたからで、それに対して南原は法学部の日本思想史の講座を自分に近い丸山に任せようと思っていたのでした。恩師の期待に応えようとした丸山ですが、もともと好みも研究の対象もウェーバー、シュミット、マンハイムなどの西洋政治思想史にあったので、日本思想史はお門違いでした。いざ徳川時代の儒者の書物に取り組んでも、全然面白くなく、ほとほと嫌になって、府立一中(今の日比谷高)一高の先輩である政治史の岡義武教授に弱音を吐いてみると、教授から「スコラ哲学をやるつもりで我慢しろよ」と慰められたということです。

  こうして1940年に何とか完成に漕ぎつけたのが『日本政治思想史研究』の第一章を成す「近世儒教の発展における徂徠学の特質並びにその国学との関連」で、その出来は素晴らしい。すでに古くなって、学問的には見るべき点もないとも言われますが、とんでもない。その史料的価値に疑問が持たれたにしても、『イタリア・ルネサンスの文化』や『中世の秋』がその書物としての価値を減じるでしょうか。そのような名著には著者の情熱のエネルギーが宿っているのです。

  丸山のこの論考には、急迫した時代の要請がありました。大正デモクラシーの時代は遠く過ぎ去り、世界恐慌とそれに続く満州事変、二二六事件は国体明徴派を勢いづかせ、大学に籠る穏健派を恫喝する風潮もあったのです。丸山は、日本における封建社会たる江戸時代が、何ゆえに近代社会に変貌していく過程で、自己解体し、分裂し、奇怪なものになっていくかを西欧の政治哲学の理論で解明しようとしたのです。

  早速、本文に入りましょう。まず、朱子学の復習から。戦国時代の諸子百家の論争を通じて、儒教は次第にその体系を整え、漢の武帝の頃に官学として確固たる位置を占めるに至りました。おそらく、子の父に対する服従を人倫の基本におき、君臣・夫婦・長幼のようなすべての人間関係を上下尊卑の間柄において説く儒教は、「帝王の父としての配慮と、道徳的な家族圏を脱しえず、従ってなんら独立的・市民的自由を獲得しえない子供としての臣下の精神」(ヘーゲル『歴史哲学』)によって構成された壮麗なる漢の帝国に最もふさわしい思想体系だったのでしょう。このヘーゲルの記述は、現在の中国の政治と国民の性格にも当てはまりそうです。国民を細部にまで上下の区別をつけ、その区別を確認することで精神の安定を得、同胞という概念には無縁で、市民一般の倫理には無頓着、上下関係さえ弁えていれば何をしようが自由というのは江戸時代の日本にも当てはまるでしょう。前漢以降、清に至るまで王朝は変われどヘーゲルの「持続の帝国」たる中国の根幹は変わらなかった。いや、今も変わらず、彼らには人倫や国家間の信義などは露ほども考慮に値しないのです。

  朱子学の基礎となったのは、宋の周敦頤の『太極図説』ですが、わずか238文字で宇宙から人倫まで詳にしたその精妙・壮大な結構は驚嘆に値します。これは、元々、易の繋辞上伝の「易に太極あり、是れ両儀を生じ、両儀四象を生じ、四象八卦を生ず」から来ているらしいのですが、『易経』は玄妙で難解、私は人生で何度も読解を試みたが、何度も挫折しています。それは一つの神秘主義を表していて、この世のあらゆる偶然な事象は、すでに定められたあるものとの一対一対応を持つというのです。

  丸山は『太極図説』を次のように要約します。「自然と人間の究極的根源たる太極より陰陽二気を生じ、その変合より水火木金土の五行が順次に発生しそこに四季の順環が行はれる。また陰陽二気は男女として交感し、万物を化生するが、その中人は最も秀れた気を稟けたため、その霊万物に優れ就中聖人は全く天地自然と合一してゐる。故に人間道徳はかうした聖人の境地を修得するところに存する。」

  これは流出論 emanatism あるいは発出論とも言えるもので、太古に絶対的、超越的な一者があり、それが何らかの衝動に駆られ(例えば自己の力を試すような)自分と反対のもの(悪のような)あるいは自分より低位のものを次々と産み出していくという考え方です。グノーシス、新プラトン主義にみられる思想で、プラトンの『ティマイオス』に神話的な記述がなされていますが、プロティノスはそれの逆の道を辿って人間は絶対知に至ると言いました。『太極図説』は中国思想らしく、陰陽二つの気が生じ、その二つの対立・交感によって万物を産み出すとしたのです。以上のことは、すべて、仮説としては面白いが、思想としては幼稚で、神話としてなら納得出来ましょう。

  朱子は、程伊川の論を摂取して、この太極を「天地万物の理」と規定しました。『太極図説』の流出論を希釈して、理をただ天地に太初から存在し、万物に内在するとしたのです。アリストテレスのエーテル、アナクシメネスのプネウマに、プラトンのイデアとカントの物自体の性質を合わせ持ったような概念で、これは十分考慮の基になるでしょう。朱子学の形而上性が理だとすれば、形而下にあたるののが気で、万物は理を根源とする意味で平等だが、気の作用によって差別相が生じます。人間はもっともすぐれた気を稟けているがゆえに万物の霊長となり、また差別相は人間相互の間にも生じて、聖人は全く透明な「本然の性」を有しますが、一般人は混濁した性を持つゆえにそこから数々の情欲が生まれます。この辺は『太極図説』の思想と一致します。

  朱子のこの考えの根底にはある目的が、つまり宇宙と人間を貫通する合理主義哲学を樹立するという野望があったのです。小は日常起居の修養法から、大は世界実体論に及ぶ壮大な体系です。そして、この体系は、人間にとって、ひとつのオプティミスムでもあります。聖人は充実した気を持っているが凡人はそうではない。しかし、理は気として万人に共通に分かたれており、誰しも欲望を消すことによって、聖人に至ることができる。が、このオプティミスムはリゴリズムをもまた内包しています。人は聖人に至ることができるのではなく、聖人に至らねばならないのです。拠って立つ規範がそのまま自然(本然の性)となり、自由な実践が絶対的当為として「情欲」に対立することになります。崎門派の総帥山崎闇斎は、朱子の教えを墨守して厳格を極め、弟子には他の門派の書物を読むことを禁じ、最高弟の佐藤直方でさえ闇斎の家を出るとホッと安堵したといいます。

  しかし、「天理は果たして本然の性であろうか。人欲はそもそも滅尽しうるか、また滅尽すべきものだろうか。理は一切の事物を規定するほどしかく強力であろうか。窮理が純粋に道徳的実践といへようか。人ははたして皆、聖人たりうるのだろうか。修身斉家はそのまま治国平天下の基礎となりえようか、、、」これらが、安定期に至った徳川政権下の日本の儒者たち(素行、仁斎、益軒ら)が逢着した問題でした。

  ここで、徳川封建社会で、何ゆえに儒教が官学として、また広く一般にも浸透し得たかを考えてみましょう。まず、社会の劇的な変化です。鉄砲の普及は戦術を変化させ、刀狩り•検地は兵農分離を促進させ、結果、武士が土地との直接的関連を喪失し、城下町に集中して、ここに階級制的な家臣団を形成するに至りました。福澤諭吉によれば、中津藩凡千五百人の藩士の序列は100余に及んだということです。むろん、武士のみならず、商人•工人•農民の末端に至るまで階級社会は貫徹し、人々は彼我の序列を確認することで安心できる徹底した差別社会であったのです。このような社会では、もはや「なさけ」や「ちぎり」などの主従関係の心理的支柱は失われ、単なる情緒への依存を超えた客観的な倫理が求められるのも当然でしょう。江戸の封建社会と儒教倫理の思想構造は驚くほど類型的な照応を持っていたのです。

  以上は儒教倫理が浸透する客観的条件ですが、主観的条件も存在します。日本に儒教が渡来したのは、紀元4世紀頃の応神天皇の時代らしい。しかし、儒教は日本では寺院の中での僧侶の趣味的学か朝廷の博士の漢唐訓詁の学に過ぎなかったのですが、宋学の渡来が劇的変化をもたらしました。ともに仏門の出である惺窩と羅山が、宇宙から人倫まで届く広大な程朱の学に魅了されたのですが、これには江戸幕府の祖徳川家康の強い要望もありました。家康は度々惺窩から講義を受け、彼の推挙で羅山を政治顧問としています。家康は特に、宋学の名分論に則って、武力で勝ち取った権力に永続的な権威を持たせたかったのです。これが社会の静的な身分制度とうまく共鳴して徳川政権の強力なバックボーンとなりました。

  このようにして、朱子学的思惟方法がもっとも普遍性をもったのは、17世紀初頭から半世紀の間だったのですが、その後享保時代までの五十年に安定したる江戸時代は、それゆえに大きな変貌を遂げるようになったのです。そのとき登場したのが素行、仁斎らの古学派の儒者たちで、その話は(2)で紹介しましょう。

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