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2020年5月 6日 (水)

4月の読書ノート

 

◎昼間出歩くのが怖いので、夜8時過ぎにスーパーに買い出しに出かけました。歩く人影もまばらで、映画に出てくる核戦争の後の街のように静まりかえっています。世界はこれからどう変わっていくのだろう。家ではテレワークで疲れた妻がゆっくりと休んでいます。一口にテレワークといっても、機器を揃えたり、部屋を模様替えしたりして、いっぱしのワークステーション並になっています。仕事中は奇声を発したりして邪魔しないようにしているのですが、妻の仕事はけっこう忙しく、夜や早朝にミーティングが入ることも多いです。私は気晴らしに将棋や囲碁のゲームなどもしていますが、最近「どうぶつの森」というゲームが話題なので、妻にきいたらすでに持っているというので、私のタブレットにも入れてもらいました。果物や魚を採ったり、家具を買ったり、友だちを作ったりするのですが、キャラクターがかわいいので癒されますが、半日で飽きてしまいました。

◎コロナウィルスですが、まさに世界は一変しましたね。先日、月一回の診察に行ったのですが、いつも混雑する西船橋駅も静かで、普段はぎゅうぎゅう詰の京葉線も楽に座れるほどです。新浦安駅から病院までの道も、いつもは通勤客でいっぱいの広い舗道は閑散としています。途中の若潮公園をゆっくり散策してから病院に入りましたが、ここも職員に感染者(薬剤師らしい)が出て一気に緊迫した空気に包まれています。入り口では、今までなら並んだ看護師さんが明るく元気な声で挨拶してくれるのですが、今日はビニールシートで覆われた入り口に看護師さんがいて、来院者の額に体温感知器を当てて熱を測っています。「37度1分です。」と言われてびっくり、私はいつも35度3分~8分なのですが、再び測ると今度は36度9分で何とか通過できました。するとすぐに次の看護師さんが私の両手に泡の出る洗浄スプレーをかけてくれました。脳神経内科の待合室は人が少なく、すぐに順番が回りました。担当の先生の話では、血圧が安定しているので、次の診察は三ヶ月後、薬は一ヶ月分しか出せないが、電話すれば簡単な問診をして毎月処方箋を送ると言われました。眼科の方は、まだ点眼薬が一本残っているので、検査を再延長してもらいました。しかし、病院の電話はなかなか繋がらず、あきらめかけた頃にやっと繋がりました。

◎ところで、フランス語の勉強のため毎月9.99ユーロ(約1300円)払って電子版のル・モンドを読んでいるのですが、2月頃はコロナウィルスの記事は隅に少しあっただけなのに、今ではほぼ毎日全ページにわたってコロナ記事で占められています。最近の記事では、すでに死者数が正確に数えられなくなっているということで、各国の死体の埋葬事情が取り上げられています。ブラジルやインドやイランでは、穴掘って埋めるだけ、親類が布に包んで埋葬場所に運んで来ます。スペインでは四角い建物の横に碁盤の目のようにスレートの蓋を被せてそこに棺を収納しています。ベルギーでは壁一杯に灰の缶を入れるロッカーのようなものが作られています。イタリアのベルガモでは、教会の中が夥しい棺でまさに溢れています。エクアドルの首都グワヤキルでは、通りを棺をくくりつけた車や遺体を満載したトラックが走っています。マドリッドでは盛土も何もない地面に遺体が埋められ、かろうじて上に置かれた一輪の花でそこが埋葬場所であることがわかります。

◎日本では(今のところ)、そのような夥しい遺体のイメージはありません。現実に死者数が欧米と比べて、一桁二桁違うのです。ル・モンドの記事は、この理由の一つを、老人が感染者であることを近所に知られることを恐れて、ひっそりと死んでいくからだろうと書いていますが、しかし、死は人生でもっとも印象深い出来事で、これを隠すのは至難です。

◎別の記事では、ル・モンドは、日本のパラドックスと題して、日本における感染者の少なさについて分析しています。日本は、もともと、パンデミックに脆い国のはずだった。老人人口の多さ、人口密度、聞きしに勝る通勤電車の混雑、それに加えて感染初期に政府の無策による失敗と出遅れ、それにもかかわらず、感染爆発は起きず、むしろ不規則に減少しているようにも見える。まさに、これはミステリーでしょう。ル・モンドは、その理由の一つに、アジアでは、2000年以来、SARS、鳥インフルエンザ、H1N1(豚インフルエンザ)に次々に襲われ、医学的、社会的に準備が出来ていたこと、そのために、外ではマスクをつけること、公共の建物に出入りするときはアルコール消毒をすることが日本人に根付いていたことを挙げています。さらに日本の街における公衆衛生、手すりや公共の備品などが常にきれいに拭かれていること、またソーシャル・ディスタンスの自然な振舞いもあります。加えて、決定的なことは、19世紀半ばから日本が欧米強国の商業的圧力にさらされたことです。この侵略は、同時にコレラ、ペスト、結核などの感染症の侵入も意味していたのです。当時の日本政府は、軍事的防御力の構築と同時に感染症に対しても研究者を結集してこの侵入に対しました。志賀潔や北里柴三郎の偉業はこうした基盤から出てきたのです。

◎以上がル・モンドの説明ですが、私もいくつか付け加えましょう。日本人が人的接触に非常にセンシティブであることは特筆すべきでしょう。自動販売機の普及は、治安の良さも原因だが、日本人が無用の人的接触を避けるのを恐れないことも大きな原因と言えると思います。また、自動ドアの普及。フランスではホテルや空港のような所でしか見られないのですが、電気代が高いというより、フランス窓のように、強くひねってゆっくり閉めるという操作に喜びに似たものがあるとも思えます。エレベーターや地下鉄の扉もいまだ手動のものが使われています。それに反して、日本では、目に見えない菌などへの恐怖が、出来るだけ接触を避けようとする努力につながっているようです。カフェやレストランで、手も拭かずにパンを千切るなどは日本人には絶対に我慢ならないことです。

◎医療崩壊は、どの国でも問題になっていますが、個人的には、国会議員などに俸給を渡すより、コロナ戦争の最前線で頑張っている職業意識高い医療従事者たちに相応以上の報酬を与えてほしい。太平洋戦争で、将官たちは安全なところにいて、航空兵を使い捨て同様に扱った愚を繰り返さないでほしいものです。

◎今や世界はコロナ後の経済の立て直しにむかっています。私は小規模事業者の経験から、家賃、光熱費、通信費、リース代など、固定経費がもっとも苦しいのがよくわかります。経済上の滑落の恐怖はコロナ同様恐ろしい。感染の呼び戻しのリスクを考えても早急に自粛解除すべきでしょう。

◎ひとすじの曙光があるとしたら、安倍政権のこれまでの隠蔽、捏造が、ここに来て真実に露わになったことでしょう。太平洋戦争で尊い命を捨てた英霊たちも、こんな日本の姿を見たら落胆することでしょう。また中国共産党の恐るべき体質が白日の下になったことも私には喜ばしい。

◎さて、図書館が予約本のみ貸出するとのことで、連絡のあったリチャード・エヴァンズの『フロムとの対話』(1970、みすず書房・牧康夫訳)を借りてきました。大昔に読んで面白かった本ですが、しばらく前に神保町の澤口書店で800円で見つけて買おうと思ったのですが、調べたら千葉の県立図書館に所蔵本があったので取り寄せてもらったのです。かなり古い本、というより忘れられた本なのですが、エーリッヒ・フロム(1900~1980)その人の本は今でもよく読まれているようです。フロムは、60、70年代にもっとも読まれた思想家といってもよいのではないでしょうか。『自由からの逃走』『正気の社会』『愛について』『夢の精神分析』、、、などなど夥しい著書が翻訳されているので、誰しも一度は頁を繰った覚えがあると思います。

◎フロムの立ち位置は、新フロイト派とフロイト左派の中間のところと言ってよいでしょう。ホルネイやサリヴァンよりも正統フロイトに近く、ライヒやマルクーゼなどよりずっと穏健です。この本は、独自のパーソナリティ理論を持つ思想家に彼自身のパーソナリティを含めて問い質していくというスタイルのシリーズで、ユングとアーネスト・ジョーンズ、オルポート、スキナー、エリクソンらの巻もあるそうです。

◎はじめに、フロイトの理論のおさらいをしましょう(私流のうろ覚えですが)。広い意味の性的エネルギーであるリビドーは、幼児期には口唇的、肛門的、男根的という諸段階を通るのですが、そのうち口唇的および肛門的諸段階はフロイトによって前性器的なものと位置付けられており、各人の特殊な性格のオリエンテーション(方向付け)は、この時期の固着によるものとされています。固着とは、リビドーがある段階において停滞することで、たとえば口唇期の授乳過多もしくは授乳不足が、後のタバコや飲み物や乳房への執着につながり、肛門期の排便の失敗は、後の吝嗇、過食などに関係します。男根期に、幼児は父親ないし母親をはじめて異性として見るのですが、ここで、エディプス•コンプレックスが生じ、それは成人期の性愛における何らかのトラウマを生じさせます。よって、人は誰も幼児におけるオリエンテーションによって不完全な成人として社会に入って行きます。彼•彼女が社会の中で、心的障害を感ずる時、分析医は夢や記憶の断片から、幼児期の固着を探り当てて、彼らが「正常な」心的状態に戻る手助けをします。(精神分析的治療、とくにその夢分析と転移などは私は到底納得できません。)

◎以上が大雑把なフロイト理論ですが、根本は快楽原則、つまり人間は常に(幼児から)快楽というモーターに突き動かされるという原理の発見にあるのです。フロイトは基本的に19世紀の人間で、機械論的、唯物論的観点から抜けられませんでした。人間を深底から動かしているものが何かあり、それを明るみに出すことで人間についての科学に終止符を打とうとしました。それは快楽原則に動かされるリビドーというモーターであり、それが力を貯める世界は無意識といういまだ発見され得なかった広大な領域なのです。フロムはこう書いています。

「私が言いたいことは、フロイトは啓蒙哲学を大いに拡大したということです。それをするために彼のやったことは、さまざまな本能的あるいは非合理的なパッションがどれだけの現実的な力を持つか、またそれらが理性によってどのように統制しうるものであるかを実証することでした。彼は少なくとも、無意識に存在するものを理解することによって、いくらかでも統制しうることを示しました。彼の合理的な接近法はなお19世紀の楽天的な気分を反映していたのです。」

「第一次大戦が実際に二百年から三百年にわたる人間文明を終わらせたとき、フロイトは、人間の生命に対するすさまじい残酷さや鈍感さによってひどく動転させられました。このことによって彼は人間の破壊性の深さに気付くようになり、人間の中には破壊しようという欲動(drive)があること、あるいは少なくとも、生に奉仕すると同じくらい死に奉仕する欲動があることを思弁するようになりました。」

◎人間の精神生活が彼の5歳までの前性器的な性的体験によって決定されるということ、人間の経験は繰り返し、固着したその時期に立ち返るということ、フロムはこのフロイトの原則に反対し、「人の経験は決して繰り返されることはない」と書いています。それよりむしろ、フロム理論は、フロイトの性的情動をそっくり消去しています。彼はフロイトの前性器的オリエンテーション、つまり口唇的、肛門的、男根的というオリエンテーションを、五つの別のオリエンテーション、つまり受容的、貯蓄的、市場取り引き的、搾取的、愛死的に分けます。これらは全く非性器的なもので、たとえば搾取的オリエンテーションは、人生のすべての段階で、物や異性を他の人から奪うことでしか受容できない性格の人間を指します。市場取り引き的オリエンテーションは、すべてを(恋愛や結婚も)等価交換で乗り切ろうとする人たちで、他は説明の要がないでしょう。

◎フロムのこのような理論、そして新フロイト派のサリヴァンやホルネイの理論、そしてユングやアドラーの理論の全努力は、フロイトから性的要素を削ぎ落とし、「文化の圧力」や「アーキタイプ」などに転換してしまうことでした。そこから「個性」「アイデンティティ」「共感」などといういくらでもごまかしのできる概念や、「男性原理」「女性原理」などという、これまた怪しげな概念が生まれてくるのです。

◎ここでアドルノの本を思い出して、妻に書庫から探し出して来てもらいました。それは『ゾチオロギカ 社会学の弁証法』(1970イザラ書房・三光長治、市井仁訳)で、その中の「修正された精神分析」の章にこんな記述があります。「修正主義者が所与のものとして前提している性格の全体性なるものは、外傷のない社会にならなければ実現されないような理想である。現在の社会を批判しようとする者は、この社会がショックのうちに経験されるという事実に対しても目をふさいではなるまい。修正主義者たちが実体化して見ている性格なるものは、持続的な経験よりも、むしろはるかに大きな度合においてこうしたショックによる産物なのである。その全体性と呼ばれているものは、つくり事である。苦しんだ挙句につねに不完全にしか癒着しない瘢痕(はんこん)のシステムが性格である、といってもよい位なのだ。こうした傷あとこそは社会が個人のうちに土足で踏み込んできた証拠なのだ。」「どこまでも人間の性(さが)の性懲りもない悪を主張しつづけて、ペシミスティックに権威の必要を説いた陰気な思想家たちーフロイトはこれらホッブス、マンデビル、サドなどの仲間であるーは、反動呼ばわりで片附けられぬものを持っている。現に彼らは自らの出身階層から歓迎されたためしがない。」

◎アドルノの本を読んでいると、若かりし自分の青年時代が思い出されます。これでもか、というぐらい本を読んだのは大学一年の頃で、その時『プリズム』という本を読んでアドルノを「発見」したのでした。アドルノの本はほとんど訳されてなく、古本屋を回って社会学の論文集のような本から彼の論稿を見つけたりしました。友人や兄と話しても、アドルノは訳の分からない本を書いているぐらいの話しか聞けませんでした。しかし、その頃の学生はよく本を読んでいた。中学、高校と同じだったKという友人の家に遊びに行った時(彼は早稲田の文学部に入っていました)、書棚にオルテガの本が並んでいて、自分はこれからオルテガの本を指針に生きていこうと思う、と言っていました。

◎なかなか読書に集中できないのは時勢柄仕方ないでしょう。最近の楽しみは家で酒を飲むことです。妻が買ってきてくれた高知の亀泉という純米酒はとても美味しかった。カナダのお土産で、Forty Creek とRoyal Crownというお酒を買ってきてくれましたが、どちらも淡白で飲みやすいがいささか物足りない。Amazonで買ったフランス直輸入のワイン詰め合わせはどれも美味しい。ビストロで飲むワインとほぼ同じ味のようです。もうしばらくは欧州に行けないのは残念だが、コロナが治まったら群馬の温泉でも行こうかと妻と話しています(たぶん行かないでしょうが)。

 

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