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2020年2月 3日 (月)

1月の読書ノート

 

  1月は大変忙しく、気の休まる暇がありませんでした。妻のカナダ出張への準備もあたふたしましたが、気候の不順で血圧が上下がするのも不安です。しかし何より気が重いのは武漢で発生した新型肺炎です。どうも持病のある高齢者ばかり死んでいるので、人ごとではありません。10年以上前の記事ですが、クロスビーの『史上最悪のインフルエンザ』の書評も参考になるかと思います。

  忙中閑あり、で金曜日に神田古書会館の「趣味の会」にいって来ましたが、珍しく拾い物は何もなく、妻とサンマルクでコーヒーを飲んだ後、一人で古書街をぶらぶらしました。澤口書店の店頭に『群書類従』の復刻本が30冊ほど一冊200円で並べられています。安いのか高いのか分かりませんが、古文書を読む力がないので買う気になれません。その並びを歩いていると、一誠堂の堂々たる店構えがあって、ここの店頭にはロクな本がないのですが、その日は『群書解題』が100冊近く、部門ごとに紐で縛って並べてあります。『群書解題』は題名の通り解題で、『群書類従』に採られている作品•文書の簡易な解説ですが、値段が出ていないので、手前の束をひっくり返していたら、店主らしき恰幅の良い男性が声をかけてきました。「一冊300円ですけど、どうですか? その束は八冊ですから2400円になります。」私が黙っていると、「2000円でもいいですよ。」と、むろん買いませんでしたが、一誠堂らしからぬ値引き販売です。思えば、はるか昔、この一誠堂で『紅葉全集』全巻揃いを長兄に買ってもらったことがありました。その後、『真山青果伝』を買ったことがあるぐらいで、たいていは見ることもなく通り過ぎます。

  ところで、ヘレン•ケラーが1937年に訪日したとき、埼玉県でも講演したのですが、その理由は埼玉県が『群書類従』の編纂者塙保己一の出身地だからだそうです。全盲の保己一が生涯をかけて成し遂げた大事業のことは遠く米国でも知られていたわけです。そういえば、年末年始に岩波文庫のコロレンコ『盲音楽師』を読んだのでした。自然主義の作風で面白かったが、コロレンコの作品では、やはり岩波文庫『悪い仲間•マカールの夢』に収録されている「マカールの夢」が傑作でしょう。ロシア文学の幻想的作風がよく出ています。

  視覚障害者といえば、ずっと昔に読んだ佐々木たづの『ロバータ さあ歩きましょう』(偕成社文庫)がまた読みたくなって図書館の児童室で借りてきました。緑内障の急速な悪化により視力が低下していく過程が恐ろしくも丁寧に描かれています。著者は昭和25年都立駒場高校三年の時に、ある日、道で緑色の洋服を着た婦人が歩いて来るのを見ました。すると、そのすぐ後にまた緑色の服を着た婦人が歩いて来たのです。これがすべての始まりで、眼圧の異常な圧迫が物を二重に歪んで見せたのです。その後の様々な苦しい治療、家族の協力と励まし、しかしついに著者の視力は失われ、高校を中退し訓盲院に入って点字を覚えます。30歳の時に、意を決して単身英国に渡り、盲導犬を使う厳しい訓練をうけます。盲導犬を使えれば一人で外を歩くことができると思ったからです。訓練所の先生や同じ受講者とのやりとりも面白い。そして、とうとう、生涯の友となるロバータという犬と出会うのですが、このロバータの賢さと優しさは読んでいて目頭が熱くなるほどです。日本に帰る時、日航の乗務員はロバータをオリに入れるよう説得しました。また、粗相した時の消臭剤は持っているかとも訊ねました。「厳格に訓練された盲導犬」の凄さを当時の日本人は知らなかったのです。この犬は飛行機では何も食べないし、大人しいから心配ない、と言うと「でも21時間ですよ!」と驚いています。著者が手洗いに立つとき、CAの女性が「おすみになりましたら声をかけて下さい。お席までお連れします。」と言ってくれたのですが、洗顔を終えて外に出て声をかけても誰も来てくれません。エンジンのごう音にかき消されたか、乗務員がみな前の方へ行ってしまっているようで、途方にくれていると、ロバータの冷たい鼻先が手に触れてきました。ロバータの後についていくと、ロバータは様子の分からない機内で不安を与えないように、きわめてゆっくり進み、通路を通ってゆるやかに左に曲がり、うずくまると、そこが著者の席でした。

  今年は東京オリンピックが開催されますが、何年か前に児童室で読んだ『まるわかり! パラリンピック チームでたたかう! 夏の競技②』(文研出版)に紹介されていたゴールボールの浦田理恵選手のことは忘れられません。熊本出身の浦田選手は、教師になるため福岡の大学で勉強していました。しかし、あと3ヶ月で卒業という時に、網膜色素変性症という病にかかり、次第に目が見えなくなります。心配して何度も連絡してくる母親に病気のことを打ち明けられず、しかし、正直に話そうと決心してわずかな視力と記憶をたよりに故郷の駅に降り立ちます。迎えに来た母親に「あのね、お母さん、わたし目が見えなくなってね」そう言うと抑えていた涙がどっと溢れてきました。その後、家族の励ましもあって、彼女は福岡市立障害センターでマッサージの勉強を始めます。幸運にもそこにはアテネオリンピックで銅メダルを取った日本ゴールボールチームの主力選手とコーチがいたのです。教師の夢をあきらめ、希望を失いかけた彼女は、必死の思いでそのチームに飛び込みました。努力の日々が続き、ついに彼女は北京オリンピックの代表チームの主力選手になりますが結果は8カ国中7位と惨敗します。ゴールボールは3人でチームを組み、横9mのゴールを守ります。真ん中の位置のリーダーが鈴を入れたボールの動きを読んで左右の選手に指示します。この競技はパワーとスピードが年々向上して、男子では投げるボールは150キロの速さに達するそうです。主将として臨んだ次のロンドン五輪で、日本チームはついに常勝中国を1ー0で破って、日本パラリンピックの団体競技史上初の金メダルを勝ちとります。

  一月はもう一冊読んだのですが、それはピエール•ヴィレーの『モンテーニュの〈エセー〉』(飯田年穂訳•木魂社)です。1908年に出たヴィレーの『モンテーニュのエセーの源泉と進化』は、それまでのモンテーニュ研究に衝撃を与える画期的な書物でした。ヴィレーの本が出るまでは、評家は各自勝手にモンテーニュを懐疑家や無神論者や合理主義者、あるいはストア派の道徳主義者や自然主義者または享楽主義者などと評していたのです。ヴィレーは、勝手なモンテーニュ解釈に異を唱えて、『エセー』を詳細に分析して、その記述から各章の書かれた時代を特定し、その当時モンテーニュが読んでいた書物を割り出し、引用された原典を隈なく検討し、『エセー』が絶えず進化し変容し、本然の自分に至りつく道程と捉えたのです。この論の背景には、モンテーニュがその時読んでいた書物に非常に影響されやすい人間であるという発見があります。こうして、まずセネカの影響で自分自身を律することを最上とするストア派として出発したモンテーニュは、次にプルタルコスを読むに至って人間の自然な姿(崖の上では震えたりするような)に共感をしめし、セクストゥス•エムプリコスの読書に没頭することで懐疑家(ピロニスム)の姿を示し、「レーモン•スボンの弁護」で理性主義はけっきょく信仰主義に陥ることを発見し(理性を絶対視することはそれ自体ひとつの信仰である)、ついに確実なことは自己でしかないことを自覚し、書物にではなく、ひたすら自分自身の探究に向かうのです。ここで追求されるのは、絶えず悩み発展し、進化する一人の有りのままの人間に他なりません。

  ピエール•ヴィレー Pierre Villey (1879~1933)はフランスのカンで生まれ、4歳の時、事故で両眼の視力を失います。ヴィレー家は多くの学者を輩出した知的名門でしたが、ピエールは自身も障害を克服してその家名に連なろうと決心します。地元の盲学校を経てリセ•ルイ•ル•グランからフランス最難関のパリ高等師範に5番の成績で入学します。専攻は16世紀フランス文学で、まず『エセー』の全部を点字に翻刻します。そしてモンテーニュにとっては〈母語〉であったラテン語に精通し、すべての引用を原典で確認し、朗読者や点字タイプの力を借りて29歳で大作を仕上げました。その書は多くの賞と賞賛に輝いて、ヴィレーの名を不朽のものにしましたが、彼はまた盲人についての本もたくさん書いています。が、1933年乗っていたパリーカン間の急行列車がサンテリエ鉄橋で脱線して崖下に落ち、35人の乗客とともに命を落とします。54歳でした。残された三人の息子はそれぞれ経済学、医学、法学の教授になっています。ヴィレーの名はカンとパリ7区の通りとパリ18区のコレージュと、そしてカンの盲人のための音声図書館の館名に残されています。

   さて、本書『モンテーニュの〈エセー〉』は死の一年前、つまり1932年に出た一般向けの概説書ですが、巷に溢れるモンテーニュ解説の本では抜きん出て面白い。ミシェル•ド•モンテーニュ(1533~1593)はボルドーの非常に裕福な貴族の家に生まれました。父親はボルドーの市長を務めた人物で、特筆すべきは、その個人主義的で寛容な教育方針です。暴力はもちろん、何事も強制せず、息子のミシェルが自分で学んでいけるよう工夫していました。モンテーニュが、過酷な宗教戦争のまさにそのさ中にあっても拷問や魔女裁判や虐殺に反対したのも、父親の影響によるものでしょう。21歳で法務官となり、38歳で引退し、39歳で領地の塔にこもりエセーの執筆を始めます。最初は、当時よく広まっていた古人の書の引用による説話集とも思われる物でしたが、次第に賢人たちの引用が自分にとってよそよそしく感じられるようになり、かくてモンテーニュは妄想と観念と理性でいっぱいになった自分自身の探究に本格的に打ち込みます。もはや彼の道標となるものは、古典の書物ではなく、自分の経験と自分の判断にほかなりません。45歳でイタリアなどへの17ヶ月に及ぶ旅、腎臓結石の激痛、4年間のボルドー市長としての職務、ボルドーを襲ったペストとの戦いを経て、彼はつぎのような「結論」に辿り着きます。〈自己〉とは唯一独自のものである、世界中に同じ人間は二人といない、されば我々が自分の経験から引き出してくる教えは自分にしか通用しないだろう、ところが〈自己〉が互いに異なっているにしても、何らかの面で似通っているのもまた事実である。つまり、〈自己〉について書くことは人間について書くのと同じに違いない。モンテーニュはエセー第三巻第二章でつぎのように書いています。最後の一文は〈エセー〉の真髄として極めて有名です。

 〈普段はあんまり人前に出ない私なのに、その私を公表しようとするのは道理に合わないことだろうか…私は程度の低い、輝きにも欠ける一つの生活をお目にかけよう。それでもやはり同じ生活である。庶民の私的生活であっても、それよりはるかに華々しい生活に負けず劣らず、道徳哲学にこと欠きはしないのである。各人は自己のうちに、人間としての本性を完全な形でそなえている。〉

  私の拙い感想を一言。自分について書くことは難しいし、モンテーニュのようには誰でもできるものではありません。埴谷雄高は晩年に、いわば魂の共同体のようなものを夢見ていたのですが、世界中の人間一人一人が思っていることを書き尽くせばそれが実現するかも知れない、というようなことを書いていました。しかし今、blog やTwitterで、そのようなことが自由にできるようになっても、精神の世界はさらに深まるとは言えないでしょう(政治社会的には革命的な意味があるのですが)。戦後すぐにブログがあったとして、各自が自らの戦争体験を自由に発表できたとしても、それが戦争及び人生の真実にどれだけ迫りうるかは疑問と言えるでしょう。自分のことを書くことはそれほど難しいのです。E.A.ポーが言っているように、誰でも有りのままの自分を描けたら空前の大文学が書けるのです。けれど、戦没者の手紙などはその心情の率直さで胸を打ちますが、それは率直さこそ人の心に届く唯一の道だからです。だから率直に書けばよいのかというとそうでもない。剥き出しの率直さは心の傲慢さと紙一重です。スタンダールは、女性たちの手紙が魅力的なのは、それは彼女たちが半分しか率直になろうとしないからだ、と書いています。モンテーニュも、以上のようなことは十分心得ていて、人間には〈裏部屋〉が必要だと言っています。妻も子供も財産も御付きのものも召使もいない完全に自由な一人になれる部屋が。エセーの本質的魅力は、この裏部屋と表部屋との、つまり自分自身ともう一人の自分との密かな対話にあるのでしょう。

  実はこの記事は1月に書いたのですが、アップデートしたココログの写真の貼り方が分からなくて、妻がカナダから帰ってくるまで待っていました。カナダでも感染者が出て、中国人の経営する飲食店などは敬遠されているようです。私も一月末に病院に行った時、いつも人でいっぱいの脳神経科が空いていて、すぐに順番が回って来たのには驚きました。電車も心なしか空いていてパンデミックの静かな恐怖が忍び寄ってくるような気がします。

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