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2020年1月17日 (金)

ジルベール・ガヌ『わが愛する猫の記』

 

   みなさま、遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。新年からバタバタして、落ち着かなかったのですが、先週の金曜日、神田古書会館の「愛書会」に出かけて、何冊か買ってきました。妻の仕事場がこの近くなので、昼休みに一緒に古本漁りをしたわけですが、見つけた本の一冊、ジルベール•ガヌ  Gilbert Ganne(1919~2010)の『わが愛する猫の記』原題Orgueil de la Maison(家の誇り高きもの、1973潮出版社•大塚幸男訳•原書は1964Plon社刊行)が面白かったので紹介しましょう。作者のガヌはフランスのジャーナリスト、文芸批評家、作家ということで、原題はボードレールの詩句からとられています。本文は、こんな言葉で始まっています。

   「私はしばしば夢見てきた。もはや、利害とか、祖国とか、《ブロック》とかによって、世界を分けるのでなく、猫に基づいて世界を分けることを。」

   すなわち、猫を愛する、あるいは猫を理解する人たちのいる世界と、そうでない人たちのいる世界とを分ければ良いというのです! でも、なんと多いことでしょう、猫を憎まないまでも理解しない人が。昔の友人で、たいへん頭のよく、性格もやさしかったが、犬が好きで、猫を蔑んでいる男がいました。猫は、利己的で打算的で主人を愛さない、ほら「犬は人間につくが、猫は家につく」と言うだろう、というのです。こういう意見は実に多いし、今でもそう信じている人はたくさんいるでしょう。しかし、そういう人たちも、猫と一緒に暮らす経験をするとその魅力に抗しきれず、意見を変えることがしばしば見られます。学生時代の女の友人で、犬がとても好きな人がいました。彼女にとっては犬は裕福な暮らしの象徴で、猫は庶民の金のかからない慰めに過ぎないと思っていたのです。ところが、何十年も経っていたのですが、偶然彼女のフェイスブックを見たら、「猫命」と書かれていて、猫の写真に溢れていたのにはびっくりしました。

   猫を飼っていても、なかなか好きになれない人もいます。私の母がそうで、猫好きの父親のため仕方なく飼っていたのですが、母の猫に対する愛情は、猫好きのそれではなく、生来の優しさから出たに過ぎなかったのでしょう。猫もそれをわかっていて、食事をくれるとき以外は甘えることはありませんでした。しかし、母は一度たいへん良いことを猫(タケという名でしたが)にしたのです。ある日、風呂場でタケが凄まじい声で泣き叫んでいました。母が驚いて風呂場にいってみるとタケの産んだ子猫が風呂の残り湯に落ちて溺れています。間一髪で母が救い出して子猫は助かりました。タケは、また面白いことに、母が米櫃を開けて升で米を量りだすと、必ず飛んできて米の計量を見ているのです。私は今でも思い出すと懐かしさで胸が熱くなるのです、台所の床に腰をついて米を計る母とそれをきちんと座って見ているタケの姿を。

   私の妻は、それまで犬しか飼ったことがなく、保護施設から譲り受けた子猫にも最初はなかなか馴染めなかったようです。その頃、私の塾の仕事の帰りが遅く、しかし、妻は朝が早いので、はやく寝なければなりませんでした。ところが、子猫(ルーミーという名ですが)は夜がふけるにつれて元気になって鳴きながら走り回るのです。眠れない妻はついにがまんの限界がきて、「猫が人間の生活に合わせなければいけないのに、なんで人間が猫に合わせなければならないのか」と怒り出しました。それから暫くは、夜は書庫のある部屋で、猫が寝るまで、私が撫でてあげたのですが、幸い、妻とルーミーの間はすっかり仲良くなって、ルーミーの爪をきったり、耳や鼻をきれいにしたり、お風呂に入れたり、トイレの砂を変えたり、食事を誂えたりの衛生面はすべて妻がやってくれます。もしこの猫が死んだら(ルーミーはもう11歳です)私よりも、きっと妻が悲しむだろうと思います。

   ところで、ガヌは、犬と猫の比較をしています。どちらが優れているとかではなくて、それは、ただその人間の好みによるのです。犬との経験について、ガヌはこう書いています。

  「、、なるほど、私たちの間には親密な関係は成り立たなかった。しかし、それは私のせいであった。というのも、犬は誰にでもついて行くものだからである。自分の主人でさえあれば、たといその主人が自分を殺すものであっても、その男について行くものだからである。私は私にへばりついてくる生きものを愛好したことはかつてない。そうした生きものたちの愛情は私にはうるさいのである。それは私にとっては鎖であり、そうした生きものたちにとっては弱さなのである。私は忠実な犬と一緒に寝ようとは思わないであろう。」

   しかし、だからといって、猫を愛する人たちを全面的に擁護するのではありません。過度の愛は、しばしば我々を愚鈍にし、また盲目にするからです。

  「動物についても人間についてと同様で、その動物をそれ自身のために選び、愛しなければならない。そして、とりわけ猫についていえば、猫を利己的に自分のものにするのでなく、猫の性質を、あえていえば猫の〈人格〉を、理解し尊重しなければならない。他人の裡において、人格を、すなわち相違を、愛する人々は少ない。まして、尊敬や最も真実な相互の理解は〈距離〉をともなうこともありうるということを、理解する人々はいっそう少ない。ところで、猫は距離を保っていて、よそよそしいものである。そしてこれこそ、私には猫の主たる魅力の一つをなすものなのである。どんな強いきずなによって結ばれていても、自分自身であることをやめないようにと、全的に身をゆだねる様子は決してしないということ、自分を取り戻すことができるということ。このゆえにこそ、猫は普通一般の趣味を持つ人々にあれほどしばしば気を悪くさせるのであり、真価を認められることが稀なのである。」

   実は私が猫を愛するのもまさに同じ理由によるのです。アドルノは、理想の人間関係を constellation (星座)の比喩で表しています。星々は互いに離れながら、しかし、切れない力で引き合っています。離れているからこそ、互いを認め合い、そして細やかな愛情の糸を張りめぐらせることができるのです。猫は、あるときは甘えてくるのに、違うときには無関心の風をして通り過ぎます。呼んでも来ないのに、新聞を広げるといつの間にかその上に長々と横になります。さりげなく、あなたの心の中の自分の位置を示すように。

   よって、あからさまな偏愛、すなわち度を越した溺愛は、猫にとっても迷惑かも知れません。ガヌは、その例をポール•レオトーに見ています。レオトーの猫崇拝は有名ですが、彼のボヘミアン的な自堕落なだらしなさは、猫特有の清潔さや快適さを好む性質と必ずしもあっているとは言い難い。(彼の『日記』には、始終病気の猫を抱えてオロオロする彼の姿が描かれています。)しかし、ここで、ガヌは、レオトーの胸の内に踏み込み、彼を擁護するのですが、これはそのまま彼自身のための擁護であり、この本全体の要約となっています。

  「レオトーが傷つけられた人間であったこと、癒しがたい古疵に傷つけられた人間であったことを知らなければ、彼の態度は全く理解できないだろう。彼が棄てられた鳥やけものに施したあの慈善は、彼自身は施してもらうことのなかった慈善であったのだ。というのは、幸福な人間は好んで他の人々―友人や、手に入れたいと思う女や、動物や、美しい飾りを、享受するものだからである。それは共に分かち合える健全なよろこびである。しかし、傷つけられた人間は裏切りや、拒絶や、冷淡を恐れる。そうした人間は恵まれない落伍者たちの方へとおもむく。そこでは、ほかならぬ自分自身の弱さと、自分の心にあふれているあの愛情とが、はねつけられることはあるまいと知っているからである。」

  「私が猫を愛するようになった諸理由は、ほかならぬ私の生涯の歴史と一緒になっている。」とガヌは書いています。幼いときは優しい母親と美しい猫たちと共にいて幸せでした。ところが、ガヌはやがて、学校とそれに伴う孤独という恐ろしい世界に直面することになります。

  「われわれの幼い年ごろの夢から、また、その後にくる夢想と恋愛から、われわれを引き離すのは、常にわれわれの同胞(人間仲間)である。というのも、われわれが悪と不幸とに対する趣味に出会うのは、もっぱらわれわれの同胞の裡においてだからである。そしてこの汚れた性質は子供にあって非常に早くからあらわれる。子供は、速くも、その小さな仲間たちの残忍さを目のあたりに見、その残忍さがいかに力強いものであるかを実感するからである。」

  「そうだ、私はすでにこの世界と絶縁していた。私は確信している。環境と教育とは重要な役割を演じるとしても、われわれは侵すべからざる、しかも非常に強く組み立てられた気質と性質とを持って、生まれるものであるということを。それに、これは猫においても同様である。猫たちはどんな家庭に投げ入れられても、趣味と物腰とを変えるものではない。」

   このブログでも時折書いていますが、私はバンジャマン•コンスタンの「人間はすべて性格である」という意見に完全に同意するものです。

  「実際、子供の上に襲いかかるあの呪詛のようなものは、凶暴な、むき出しの状態における〈不正〉である。学友たちは、すなわちその子供が毎日を共にしている人間どもは、その子供の責任でもない理由や不幸な欠陥のために―ユダヤ人だとか、私生児だとか、せむしだとか、肥っちょだとかというので、言われなき残忍さから、その子供を嗤ったり、いじめたり、辱めたりするものなのである。•••私はといえば、早くもその時から、人間の根源的邪悪さに対して自己防衛をしなければならないと感じた。まことに人間の特性であるあの愚劣さの、あの同じ犠牲である動物たちとともに。」

  「1910年ごろ、その小説『駄目になった男』の中で、《人間は意気地なしでなければ下衆野郎であるとの深い確信》を述べていたジョヴァンニ•パピー二は、そのような言葉でさえなお生ぬるきにすぎることを知らなかったのである。」

  「人生の現実を前にすれば、バンジャマン•コンスタンが語っているあの恐怖をどうして覚えずにいられよう? いわく、人生はおぞましいものに満ちているので、われわれは時として、人生を急いで横切りたいという思いに駆られることがある、と。」

   ですから、自己防衛の手段や気力を欠いているものは不可避的に敗北者となります。ここでガヌは、テネシー•ウィリアムズのその題名も『呪詛』という中編小説を紹介するのです。

   ルシオと呼ばれるある若い労働者が、合衆国の北部のある町にやって来て、やがて彼の伴侶となるニチェヴォという牝猫に出会います。

  「•••その牝猫は彼の物問いたげなまなざしに答えるように見えた最初の生きものであった。牝猫は一つの階段の上に寝て、真心をこめてルシオを見つめていた。そして本当に彼をその人と認めたかのようであった。彼はまるで自分の名が呼ばれるのが聞こえるような気がした。《おお! あなたでしたね、ルシオさん、わたしはここで、長いこと、もう長いこと、あなたを待っていたのですよ》と牝猫はいうかのように見えた•••」

  若者はこの牝猫と自分との間には、一つの契約があって、その契約は一生続くだろうと感じます。しかし、やがて、ルシオは解雇されて、病気にたおれます。退院して、汚ならしい自分の下宿に戻ると、彼はエチェヴォが下宿のおかみから追い出されたことを知ります。彼は暗い気持ちになり、途方に暮れ、何も考えることができないでその下宿を出ます。自分がこの地上で過ごした時間は、呪われた肉体の巡礼であったのか。万事休すである。•••

  「その時、突然、彼は生涯においてこれを最後と、あわれにも健気な一つの行為―神のごとき行為を達成することになった。」ある路地の入口に、彼はその失った友なる牝猫の、軽くびっこをひいた、ねじれたようなシルエットを見つけます。身をかがめて、エチェヴォを両腕に抱き上げて見ると、彼女は片足を轢かれていました。彼女は彼にあいさつをするためにごろごろ言おうとしましたが、聞き取れるか聞き取れないくらいの音しか出ませんでした。「ルシオは牝猫がもはや長く生きないだろうと知っていた。牝猫もそれを知っていた。•••彼女の目は世界の絶え間のない問いに対するただ一つの答えであるありとあらゆる秘密と悲哀とに満たされていた。とりわけ孤独と、飢えと、不安と、苦痛と。すべてそうしたものが彼女の目にはあった。その目はもはや精魂つき果てていた。彼女は世界の上に目を閉じたがっていたのである。もはや何ひとつ見たくないと思っていたのである。•••」

   そこで、ルシオは、小さな舗道に沿って、川の方へと牝猫を運んで行きます。水のほとりに来ると、彼は牝猫に話しかけてささやきます。「もうすぐ•••もうすぐ、もうすぐだからね」

  「彼女はほんの束の間もがいたばかりであった。疑いの一瞬に、彼女は彼の肩と片腕とを爪で引っ掻いた。《わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給いし?》それから法悦が来て、彼女は信を取り戻した。〈ふたり〉は川の中を、町から遠く離れて、互いに姿を消して行った。煙突から遠く離れて、風に運ばれて流れ去る煙のように。」

  「ここにおいてこそ、人間と動物とを結びつける共通の運命が、テネシー•ウィリアムズの筆によって、輝かしくも明らかに示されているのである。」とガヌは書いています。「不幸な子供の運命と、追い出された猫の運命とは、どんな点で異なっているか? われわれの長い断末魔において誰がわれわれを守ってくれるだろうか? われわれの悲惨において誰がわれわれを救ってくれるだろうか? 誰ひとり救ってはくれないのだ。不幸な人間たちよ、君たちはこの世界の者ではない。なぜならこの世界は清純な人々を嫌悪してこれを投げ棄てるものだからだ。しかし、もしも君が幸運にもニチェヴォのような猫に出会うなら、君はひとりで死ぬことはないだろう。君は愛されたことになるだろう。」

   この本の忘れ難き箇所は、ガヌのかつての多くの飼い猫の中で最も愛したオランプの死を語るところでしょう。オランプは身寄りのない猫を集めた展覧会で、ガヌが買い求めた混血の牝のペルシア猫で、灰色の長い毛を持っていました。オランプは成長するにつれ女王のように気品と威厳をもつようになり、いつも居間のテレビ•セットの上に寝そべって、部屋全体を見回していたのです。オランプは、いつも朝にベッドのところに挨拶に来て、それから主人と一緒に布団の中で水入らずの楽しい時を過ごしました。ある日、居間の窓が開いているのを見て、オランプは飛び出したのですが、目測を誤って、八階から虚空に落ちてしまいました。部屋に連れ戻し、獣医を呼び、オランプは何度か立ち上がろうとしたが、24時間後に安らかに死にました。

  「オランプよ、お前に生命を与えていた息吹が、お前の魂が、永遠に消えたとは私には信じられない。あの世というものがあるなら、私があの世でまず最初に出会うものがお前でないということはありえない。なぜなら私はこの世で出会った多くの人間どもよりも、お前のほうをこそいっそう真実に愛して来たからだ。そうだ、子供のような魂を失うことなくそれゆえに持ち続けている人々にとっては、世界はあまりにも残酷である。あらゆる不正なことどもが償われ、あらゆる嫌悪すべき酷いことどもがその報いを受けて消し去られる場所が、どこかにあるに違いない。私はお前を私の胸に抱き締めて、その〈楽園〉に入っていくだろう。その時には私たちのまわりに、天使の歌が湧き上がることだろう。」

  終わりに一言。ガヌは、人間の野蛮を説いて、猫の気質を賛美します。人間には裏切りが日常的にあるが、猫は一度抱いた愛情を決して翻すことはないと書いています。猫は不快なことをされると必ず復讐するが、それは腕や足を軽く噛んだりすることで、それは噛んだということを知らせるためだけなのです。しかし、人間の復讐は卑劣で陰湿で残酷です。フランス語には、いじめ、虐待に関する単語がたくさんあるのにも驚きますが、いやこれは万国共通でしょう。ガヌは戦後すぐにこの本を書き始めましたが、それゆえに第二次大戦の生々しい記憶も生きています。ヒトラーの行ったユダヤ人の殺戮、解放後ナチと親密だった女性たちを裸にしてパリの街を歩かせた野蛮さなど、猫の支配する国があったら、決して許すまじき所業でしょう。むろんガヌの筆は、人間の動物たちへの虐待にも及びます。ガヌの知人であったリスレール教授は、1匹の兎を用いて白内障の手術の実験をしていた女の助手の場合をガヌに話してくれました。たまたま隣室に居合わせた教授は、兎が人間の叫び声に似た恐ろしい悲鳴をあげるのを聞きました。駆けつけてみると、その娘は兎の目をつぶす前に、麻酔をかけるのを忘れていたことがわかりました。「何ということだろう、犯罪者ともいうべきこの娘は、どうしてその愛人の腕に抱かれておだやかに眠ることができたというのだろう? もし私がその娘を知っていたとしたら、私はそんな行為をした彼女を赦さなかったであろう。そして彼女が目の前にいることにもはや耐え得なかったであろう。」

  動物虐待の凄まじい例は保健所による犬•猫の殺処分でしょう。密閉された箱に二酸化炭素を注入された子猫は苦しみのあまり眼玉が飛び出るほどだそうです。わが家のルーミーは殺処分寸前に保護された猫ですが、窓から工事現場の作業員のグレーの制服を見ると保健所の職員を思い出すのか唸りながら部屋の奥に逃げて行きます。

 

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ルーミー。お気に入りの寝場所で。

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