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2019年12月19日 (木)

師走の読書ノート(2)

◎不眠症で苦しんでいたのですが、我慢して昼寝をしないようにしたら夜ゆっくり眠れるようになりました。4時間ほどで猫に起こされるのは仕方ありませんが、食事をやり、トイレのしまつをして、書庫の部屋で猫の寝息を聞きながら熱燗で一杯やるのが最近の楽しみです。それから猫と一緒に布団に戻って朝まで眠ります。そんな時に書棚の手が届くところにあった『九鬼周造随筆集』(岩波文庫)を読んでみました。その中の「小唄のレコード」という随筆が面白い。少し長いが引用してみましょう。

〈林芙美子女史が北京の旅の帰りに京都に寄った。秋の夜だった。成瀬無極氏と一緒に私の家に見えた。日本の対支外交や排日問題などについて意見を述べたり、英米の対支文化事業や支那女性の現代的覚醒を驚嘆していた。支那の陶器の話も出た。何かの拍子に女史が小唄が好きだといったので、小唄のレコードをかけて三人で聴いた。

「小唄を聴いているとなんにもどうでもかまわないという気になってしまう」

と女史がいった。私はその言葉に心の底から共鳴して、

「私もほんとうにそのとおりに思う。こういうものを聴くとなにもどうでもよくなる」

といった。すると無極氏は喜びを満面にあらわして、

「今まであなたはそういうことをいわなかったではないか」

と私に詰(なじ)るようにいった。その瞬間に三人とも一緒に瞼を熱くして三人の目から涙がにじみ出たのを私は感じた。男がつい口に出して言わないことを林さんが正直に言ってくれたのだ。無極氏は、

「われわれがふだん苦にしていることなどはみんなつまらないことばかりなのだ」

といって感慨を押え切れないように、立って部屋の内をぐるぐる歩き出した。林さんは黙ってじっと下を向いていた。私はここにいる三人はみな無の深淵の上に壊れやすい仮小屋を建てて住んでいる人間たちだと感じた。〉

◎妻に頼まれて、隣の市の中央図書館に本を借りに行きました。ついでに自分の本も借りたのですが、それは以前持っていたが事情があって手放した、E.R.クルティウスの『文学と旅』(みすず書房•小竹澄栄訳)でした。この本には、1922年から1925年まで、クルティウスが「ルクセンブルク新聞」に寄稿した19編の評論すべてが集められています。当時クルティウス(1886~1956)は30代半ばの少壮の文献学者でした。「ルクセンブルク新聞」を買い取ったルクセンブルクの大実業家エミール•メリシュの妻アリーヌ•メリシュ•ド•サン=テュベールは「新フランス評論(NRF)」誌に、出たばかりのクルティウスの本『新しいフランスの文学開拓者』についての書評を寄稿したばかりでした。アンドレ•ジッドは、その書評を読んで、ただちに、まだあまり知られていないこの文献学者に手紙を書きました。というのもジッドは、この女性の評価をたいへん信頼していたからで、実は、ジッドが限定300部で『背徳者』を世に出したとき、ベルギーの『現代評論』誌に卓抜な書評を書いたのが彼女だったのです。その後、ジッドは、ドイツのメリシュ家の城でクルティウスに会って、以来ジッドの死まで厚い友情が結ばれることになったのです。

◎ところで、アリーヌ•メリシュの目指すところはドイツとフランスの文化的架け橋になることでした。メリシュ家が買い取った時の「ルクセンブルク新聞」はどちらかというと通俗的な新聞でした。アリーヌは、この二か国語の新聞の定期寄稿者としてジャック•リヴィエールとクルティウスを迎え、この新聞は一気に高度な論調と格調を持つようになったのです。この二人の協力は、リヴィエールがチフスで39歳で死に、クルティウスがハイデルベルク大学の正教授になった1925年まで続きました。

◎さて、『文学と旅』の内容を説明しましょう。出版社の付けた副題に「ゲーテ、トーマス•マン、イタリア」とあって、19編の評論のすべてを貫くものは、ドイツ的なものの探究にほかなりません。

◎1922年10月に出たクルティウスの記念すべき第一稿は「ドイツ精神の心理学」と題されています。国の統一に時間がかかり、革命の失敗、第一次大戦の敗北とそれによる多額の負債、共和国の蹉跌、等に苦しめられるドイツに、クルティウスはマックス•シェーラーの『ドイツの使命とカトリックの思想』(1918)の言葉を思い出させます。それは、ドイツ文化には形式(form)感覚が欠けているという言葉です。芸術にも学問にも、政治や経済においても、独自の〈形式〉がドイツ人の強みになったことは一度もない。人間理想の形式はイギリスではジェントルマンであり、フランスではオネ•トームhonnête hommeあるいはシトワイヤンであったが、ドイツにはプロシアの士官とか、ドイツの官吏、学者のように職業•身分でしか表されず、人間一般に共通する理想形式は生まれなかったと。また、フランス人エミール•ブートルーはドイツ人の特徴を全体の観念、全体性と総体性を把握しようとする努力と指摘し、それがドイツ人の本質に形式の生成を難しくしている理由なのだと書いています。マックス•シェーラーも「ドイツ精神の不変の要素は、無限の観念と、この観念に帰依する歓喜と幸福とを感受できる感覚なのである。」と言います。無限に続く努力こそドイツの本領であり、美しい瞬間を享受するよりは、永遠に求め続け力を尽くす方がよい、というのがゲーテの『ファウスト』の根本思想なのです。それゆえに、ゲーテは、ドイツ精神には《結果》がないことを強調します。『ファウスト』やケルン大聖堂が完成するまでにどれだけかかったか思い出しましょう。そして、これはまた、ドイツの教養理想にも関係してくるのです。ここで教養とは、理解力や知識を増やすことではなく、人間をまるごと形作ることを指します。柳田国男は、確か、かつて、ドイツ教養主義を批判して、それは、いつかは完全な人間になろうとする思想だが自分のような(駄目な)人間には与り知らぬことだと書いていました。

◎1922年の11月に載せられた「ドイツ便り。ドイツ文学通信」はオーストリアの作家•批評家フランツ•ブライの『近代文学の大動物寓話』への書評ですが、フランツ•ブライについては別項で紹介しましょう。

◎1923年2月の「ドイツ文学通信。トーマス•マンと共和国」はおそらくもっとも重要な寄稿でしょう。1922年の10月にベルリンのベートーヴェン•ホールで行われたトーマス•マンの講演は衝撃を持って迎えられました。トーマス•マンは、そこで何と、共和国万歳を叫んだのです。あの、デモーニッシュで、ペシミスティックで、イロニーに溢れた作家、1918年秋の『非政治的人間の考察』では、西欧の合理主義、啓蒙主義、デモクラシー、「文明かぶれ」に対してドイツの「文化」の優位を説いた作家がです!戦争に敗れ、共和国に幻滅していた聴衆(大半は学生)は激しく靴で床を擦り、演説を妨害しようとしました。マンは、嫌気をさすことなく、粘り強く、聴衆を説得します。この講演(岩波文庫『ドイツとドイツ人』所収)は「ノイエ•ルントシャウ」誌11月号に掲載され、クルティウスは直ちにそれを読んで、「ルクセンブルク」新聞にこの論考を寄せました。「そう、この講演は大事件である」とクルティウスは書いています。それは二重の意味でそうなのです。まず、不和と荒廃と重圧と無気力に押しつぶされた国民が徐々に立ち直っていく新しいドイツの相貌を示したこと、二番目は、これまでにない姿のトーマス•マンを明らかにしてくれたことでした。「不意に彼は、再び私たちのすぐそばにいる。私たちは何も知らずにいたのだが、急激な発展が彼の中でひそかに進行していたのだ。」

◎「人間性(フマニテート)の問題としての、人間性の表現形態としての共和国。これがトーマス•マンのメッセージである。」人間性とは何でしょうか? それは、「真の国民性に根ざしながら世界を包含する全体意識にまで発展した、活気あふれる精神を備えた自由な人間らしさ」です。トーマス•マンのこの言葉の宣誓保証人はドイツ•ロマン主義のもっとも神秘的な寵児、フリードリヒ•フォン•ハルデンベルク、すなわちノヴァーリスです。トーマス•マンは、最近、ひとりでノヴァーリスを発見した。彼の引用の仕方には紛れもない発見の喜びがある、とクルティウスは書いています。若々しい愛の幸福感とも言ってもよい。長い間、異国の庭を彷徨ったあげく、彼は自分の国で、この愛する自国で、自分自身のゲーニウス(守護神)を発見したのです。トーマス•マンが、それまでどんな思想家•芸術家に育まれて来たか思い出しましょう。それは、ショーペンハウアー、ワーグナー、ニーチェ、フローベール、そしてロシアの作家たちなどだったはずです。そして、彼らも、そして彼らの時代のドイツ人も、みな己の存在のどこかに否定の要素、つまり非情さ、冷淡さ、破壊性、辛辣さがありました。彼らの心中には(ゴットフリート•ケラーやブルクハルトも含めて)世界と神と歴史に対する不屈の抵抗が潜んでいたのです。しかし、今や、トーマス•マンは、彼にとっては無縁であったといってよい、1800年代のロマン主義ドイツの響きを聴こうとしたのです。この時代のロマン主義者たちはみな、精神が自然と歴史に、世界と神に和合するところに、生の最高の意味を見出していた、とクルティウスは書いています。「普遍の調和が彼らの生の感情である。この普遍主義は、ジャン•パウルでは宗教的にして詩的であり、ノヴァーリスでは魔術的、神秘主義的色合いを帯びている。」

◎ノヴァーリスは北ドイツの官僚貴族の家に生まれました。そして、当たり前のように、君主制と身分制からなる国家への忠誠心を備えていました。しかし、フランス革命が彼の心に火をつけたのです。それは、新時代の黎明に思われたのであり、王政と共和制は彼にとって二つの聖なる言葉になりました。彼はこう語っています。「両者は人間の胸に潜む根絶しがたい力なのである。一方には古代に寄せる敬虔な思い、歴史的体制への愛着、父祖や国家への愛情、他方には自由の魅力的な感情、新しく若々しいものの歓喜、あらゆる同胞との自由な触れ合い、人間の普遍妥当性に対する誇り、個人の権利と全体の所有の歓び、そして力みなぎる市民感情。」

◎ノヴァーリスのこのような言葉が、トーマス•マンのかつての、頑迷さ、硬直、否定的態度を和らげてくれたのだろうとクルティウスは言っています。トーマス•マンの中で、ノヴァーリスを通して、ニーチェの誤りが正されていくのです。次のノヴァーリスの言葉に、マンは「的確だ」と言添えています。「道徳の理想にとって、最高の強さ、つまり最強の生という理想ほど危険なライヴァルはない。それは美的偉大さの名で呼ばれたこともあるが…野蛮の極致である。ところがこのような文化荒廃の時代にあっては、まさにもっとも虚弱の者の間にこそ、その信奉者がきわめて多く見られる。この理想によって人間は動物精神と化すが、それは弱者にまさしく粗暴な魅力を感じさせる粗暴な機智を備えた混合体ということなのである。」

◎「ロマン主義の深い心の発する物柔らかな輝きが、懐疑に悲劇的に引き裂かれた時代の遅咲きの花に救いの手を差し伸べたのだ」とクルティウスは書いています。しかし、今これを読むと、トーマス•マンの気持ちはもっと切羽詰まっていた、ファシズムの跫音がその行間に感じ取れるのです。この後、マンは亡命を余儀なくされ、ドイツは破滅に向かって転げ落ちて行きます。

◎7番目の寄稿は「ヘルマン•バール」で、フランツ•ブライ同様オーストリアを代表する批評家で、最近岩波文庫からやっと評論集が出ました(『世紀末ウィーン文化評論集』西村雅樹編訳)。クリムトやクリンガーらオーストリア分離派を支持し、マーラー、リヒャルト•シュトラウスなどの音楽家や、建築家オットー•ヴァーグナーへの賛辞も面白い。しかし、もっとも興味深い一編は「ロリス」でしょう。ウィーンのカフェでロリスという筆名で書かれた自分についての論評が載っている雑誌を読んでいました。読み始めると取り憑かれたように夢中になり、この「ロリス」という人物にどうしても会いたくなりました。おそらく、40歳から50歳ぐらいの成熟した精神を持った人物に違いない、そう思っていたバールは、ある日、行きつけのカフェ•グリーン•シュタイドルで、ロリスを名乗る若者に声をかけられて驚きます。なんと、ロリスは当時17歳のホーフマンスタールの筆名だったのでした。

◎ヘルマン•バールは50歳になってカトリックに復帰しました。「山上の説教には人生に必要なことのすべてが語られている」と彼は書いています。「自己総点検」という章の最後に置かれた次の文章は幸福なキリスト教徒のものでしょう。

「私は死を好む。救済者としてでなく。というのも、私には生きる上で悩みはないから。だけれども、成就者としては、死は、私にまだ欠けているものをすべてもたらしてくれるだろう。そのとき私の命の種は初めて開く。死は私から何も取らず、いっそう多くのものを与えてくれる。それが今やわたしにはわかっており、今死を思う時には、子どもの頃クリスマスプレゼントを心待ちにしていたのと同じように、そわそわした嬉しい気持ちになる。私たちは暗闇の中で座っていた。けれども、ドアのすき間を通して喜ばしい一条の光が射していたのだった。」

◎最後に「イタリアの印象」の中のローマについてのクルティウスの文章を引用しましょう。

「この都市は帰依を求める。ここでは、ローマという小宇宙に世界史の大宇宙を学びとることだけに没頭して何ヶ月でも何年でも過ごしたくなる。それ以外のどんな仕事もこの街ではなんの価値ももたないだろう。ここでは、あらゆるローマ巡礼者たちの不可視の群れに取り巻かれることとなるだろう。ローマの市民権はこのようにして獲得されるだろう。ローマ市民となるという、このような人生の一時期を経ずして、真の教養がありえようか?」

◎フランツ•ブライ Franz Blei(1871~1942)の『同時代人の肖像』(法政大学出版局•池内紀訳)を読み返してみました。クルティウスの本に名前が出てきたので懐かしくなって図書館から借り出して来たのです。オーストリア生まれの作家•批評家•劇作家で、世紀前後のウィーンの中心人物の一人。ナチスのオーストリア併合から逃れながら、フランス、スペインなどを転々とし、最後はアメリカの病院で死にました。若い時に18世紀のイタリアの経済学者フェルディナンド•ガリアーニ神父の影響をうけ、知性としてはまず最高の人物の一人だと思います。この本にはレーニン、ラーテナウ(ワイマール時代のドイツの外相、55歳で暗殺された)などの政治家のほか、スウィンバーン、リルケ、カフカ、ロート、ダヌンチオなどの詩人•作家など21人のスケッチが収められています。その中から印象に残った数人を紹介しましょう。

◎ルイジ•ピランデルロ(1867~1936)言うまでもなく、イタリアの著名な劇作家。14年間を狂気の妻と暮らし、25年間をローマの高等女学校で教えていました。54歳の時、『作者を探す六人の登場人物』でヨーロッパ中に知られる人物となりましたが、生涯裕福にはなれませんでした。ある時、彼は外国の新聞記者に生活について質問されました。「私は生きることを忘れてしまいました。」とピランデルロは言いました。「ですからご質問には、こうお答えするしかないのです。私が自分の作中人物に、この私に対する質問をしたい、と。あるいは彼らは私の人生について、何かを教えてくれるかも知れません。」実際、ピランデルロは日曜日ごと、7時から10時まで、自分の想像の人物たちの引見をする、と書いています。その時、与えられた生に不足を申し立てるものがいます。そこでピランデルロは、苦情の是非を念入りに検討するのですが、というのも、つくられた人物こそ、人間以上に、はるかに活きいきと生きているからで、卑俗な真理に縛られることなく、ひたすら現実の法則に従っているからです。「人間とは、おおよそ何ものでもない。つくられた人物は常に何者かである。」と彼は言っています。

◎オーブリー•ビアズリー(1872~1898)恐るべき天才。ワイルドが『サロメ』の挿絵に不満を言ったのは、挿絵が本文を凌駕していると知ったからでしょう。小さい時からの肺結核で、26歳で南フランスのマントンで最愛の姉に看取られて死にました。ある日、パリのホテル「ヴォルテール河岸」の狭い階段をブライが降りようとすると、若い男が横たわるように座っていて通れません。男はそれに気づくと、どうも失礼、といって階段に取り落とした写真を集めようとしました。お手伝いしましょうか、ビアズリーさん、とブライがいうと、彼は驚いて、どうして自分を知っているのかと尋ねました。それで、ブライは、2年前から「イエロー•ブック」や「サヴォイ」その他であなたをよく知っている、今日ホテルに着いて宿泊名簿であなたの名前を見つけた、と答えました。vraiment  本当ですか?とビアズリーは言って、部屋でお茶を飲みに来ませんかと誘ってくれました。彼の顔にはすでに死相が出ていて(この数ヶ月後に死亡)、部屋に着くと、安楽椅子にどかっと身を落として、姉にお茶を入れてくれるよう頼みました。姉は純金のような金髪を持つ美しい女性でした。その後、翌日マルセル•シュオッブを一緒に訪ねることを約束しました。「シュオッブは、ここ一年ずっと死と隣合わせにいるのです。死にかけの病人とは彼のことです。」とビアズリーは、自分のことを忘れて言いました。(シュオッブの死については、ポール•レオトーの『文学日記』に詳しい記述があるので、いつか紹介しましょう。)

◎ミゲル•デ•ウナムーノ(1864~1936)スペインの思想家。「ウナムーノが敬虔なカトリック教徒であるかどうか私は言うことができない。とまれ、もっとも力を注いだ小説や短編の分野において、彼はあきらかにカトリック作家であった。カトリック作家のテーマと課題は常に悪である。悪魔である。人間性を信じ、美徳への着実な歩みを信じているキリスト教的自由思想家は、あるいはゾラの夢のような、純潔の書なら書くこともできよう。だがカトリック作家は決して地獄に目をそむけてはならないのだ。」「彼は、作品の中でも話すときでも、ボルンタト(意志)という言葉をついぞ用いなかった。冷ややかで、概念的すぎたからであろう。そのかわりに、ごく平易なガーナを用いた。たぶん、ケルト•イベリア語に派生する言葉だろう。常に新しく民衆の血を受けてきた言葉だ。ガーナはほぼ熱望に相当する。フランス語のdesir (欲望)を含み、それはほとんど肉体的欲求に等しい。ガーナは純理念的なものと対立する。そういえば、人は思い出すに違いない。スペインはいかなる瞑想的な聖人も知らないのである。聖テレサにしろ、聖イグナチウスにしろ、この国の聖人はすべてガーナを持っていた。そして、ウナムーノはこのガーナにとり憑かれていた。」

◎カール•クラウス(1874~1936)、ペーター•アルテンブルグ(1859~1919)世紀末ウィーンを語って、この二人を逸するわけにはいきません。観光客の行列が絶えないウィーンのカフェ•ツェントラルの入口横には、テーブルについて店内を見回しているアルテンブルグの等身大人形が置かれています。アルテンブルグはウィーンの富裕な家に生まれたが、ボヘミアンになり、カフェでお金を恵んでもらっていました。一文無しだったのではなく、一文無しを演じていたのです。奇行で知られ、ウィーンの名物男でした。日常風景のごく短いスケッチをたくさん書きためていると、友人のクラウスがまとめて『私の見るところ』という題で出版してくれました。カフェ•インペリアルのクラウスの定席には、常に、彼に認めてもらいたいという若者がやってきました。何回か話すと、クラウスは冷たく彼らを突き放すのです。アルテンブルグだけはいつも歓迎されて50クローネもらうと機嫌よく帰っていきました。若者がみな貧乏なことはクラウスも知っていましたが、ペーター以外にはビタ一文与えませんでした。ケチだったわけではなく、クラウスは資産家の家に生まれ、自身も相当稼いでいたのですが、全財産を慈善施設に寄付していたのです。

◎とりとめなく書いてしまいましたが、書き忘れたことを一つ二つ。ドイツの文化的地図は南西のロマン地域と北東のゲルマン地域に分かれるとクルティウスは書いています。南西はゲーテ、シラーなど古典主義の揺籃だが、ドイツの神秘主義者は、みな北西地域の生まれだそうです。マイスター•エックハルトやヤーコブ•ベーメについては次の読書ノートで書きたいと思いますが、12月後半は病院の検査が集中しているので(MRI、血液検査、眼科検査)大晦日までに書き上げられるかわかりません。

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フランツ•ブライ。聡明な批評家という言葉がピタリと当てはまります。背が高く痩身で、いつも黒い服を身につけていたという。

 

 

 

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