« 2019年11月 | トップページ | 2020年1月 »

2019年12月31日 (火)

師走の読書ノート(3)

今年も、あっという間に大晦日ですが、2019年は我が家にとっては激動の年でした。まず、妻の転職があり、生活の色合いがかなり変わりました(妻にとっては大変なキャリアアップです)。次に、私の転倒と鼻血の大出血と仕事からの引退、これも忘れ得ぬ出来事です。幸い、12月のMRIその他の検査では非常に良好で、むしろ人生で一番健康ではないかと思ってしまいます。しかし好事魔多し、崖に張り付いたわずかな小道を綱を伝って歩くイメージこそ今の私の心境です。

◎私がフォローしているフランス大使館のツィートが、先日の日本政府が実施した中国人の死刑執行に文句を言ってきました。フランスは、いかなる場所、いかなる状況においても死刑に反対する、というのです。フランスの歴史を考えれば「あなたには言われたくない」と誰しも思うでしょう。しかも、中国に逃げた共犯者も当地で処刑されているのにそちらには黙認のようです。あたかも自分が文明の裁判長であるごとく「野蛮な」国を叱りつけるのはどうかと思います。実は、死刑とはやっかいな、そして難しい問題であると私はいつも思っています。これは一つのアポリアといってもよいでしょう。私が、今のところ良いと思うものは、最近日本とは仲の悪いアジアの某国の死刑制度です。死刑は存続しているが、20年以上実施されていません。しかし、死刑があるということが大事で、というのも国家反逆罪や人道に反する大罪など国民に大きく害を与える罪もあるからです。昔、ジョセフ•ド•メーストルの『サンクト•ペテルブルグ夜話』を読んだのですが、ネヴァ河を下って三人の紳士が主人公の伯爵の別荘で政治的論議を交わします。伯爵は死刑賛成派で、国家のもっとも大事な役職は死刑執行人だとまで言っています。討論の相手の一人である若い騎士は、死刑があると冤罪の場合取り返しのつかないことになるのではないかと反論します。「ああ、それは問題ありませんよ」と伯爵は答えます。「死刑の嫌疑をかけられるような人間は、必ず別の所で死刑に値するような犯罪を犯しているからです。」この理論はド•メーストルにとっては少しも暴論ではありません。なぜなら、すべての人間は、原罪というアダムとイヴの犯した罪を代々背負っている死刑囚に他ならないからです。

◎昨年は、オーム真理教の13人の死刑囚の刑が執行されて、大きな反響をよびました。私も少なからず衝撃を受けて、毎晩眠りに入るときに、死刑囚一人ずつの人生を回顧して感慨に耽ったものです。というのも、彼らは(麻原を除いては)ほとんどインテリで、麻原に会わなければ殺人など犯さなかっただろうし、ということは私のような人間でも道を踏み間違えて彼らの仲間になったかも知れないのです。そして、逆説的かもしれないが、私は彼らのような人間たちこそ死刑という極刑が意味を持つと思うのです。強盗殺人や放火殺人など明らかに死刑に値する凶悪犯は、すでに死を内包しており(魂において死んでおり)、その死は骸を叩くほどの意味しか持たないのではないでしょうか。

◎最近の読書で面白かったのは『ウィトゲンシュタイン「秘密の日記」』(春秋社•丸山空大訳)です。これはウィトゲンシュタインが第一次大戦の最中の戦闘中に『論理哲学論考』をノートに書いている折、そのノートの左側に暗号で書き留めていたもので、なぜ「秘密」かというと、毎日の自慰などが正直に記されているからで、この正直さは、ノヴァーリスの日記に記されている墓石に腰かけて牛乳を飲みながらする自慰同様にある崇高さを与えているのです。ウィトゲンシュタインの日記には、戦闘中の克明な描写、兵士や上官のどうしようもない愚劣さ、病気による苦痛、友人や家族への思い、などが記されていますが、なぜキリスト教に同化したユダヤの大富豪の家に生まれ、ケンブリッジで優秀な学生であった彼が志願して従軍したか、実はその謎こそ、彼の秘密を解く鍵なのです。彼は、グラックの『森のバルコニー』の主人公グランジュ少尉と同様、戦争をイニシエーションと思って参戦したのであり、過酷な体験が自身を変容させてくれる、いや、ある決定的なイニシエーションを与えてくれると信じていたのです。

◎1921年に刊行された『論理哲学論考』はまさに革命的な書物で、彼はこれで哲学における自分の役割と、そして哲学自身も終わったと思って、オーストリアの田舎の小学校教師や修道院の庭師などをしていました(すでに全財産を兄弟や友人や詩人などに寄付していました)。しかし、1929年に、やり残した哲学的問題に気づいてケンブリッジに復学、直ちに博士号が授与され1930年から講義を始めます。大修館から出ている『ウィトゲンシュタイン全集』第10巻は「講義集」と題されていて、ムーアの記述による1930年の言語哲学•数理哲学の講義、および少数の学生相手に行われた1938年の「美学•心理学および宗教的信念についての講義と会話」が含まれています。この中で、宗教的信念について記述された箇所を見てみましょう。というのも、「秘密の日記」の鍵は、そこにこそあるからです。 ウィトゲンシュタインは参戦するときにトルストイの『福音書注釈』を携えて行きました。激しい軍隊行動の最中で、彼は「人間は肉において無力だが、霊において自由だ」というトルストイの言葉を繰り返し自身に言い聞かせていました。そして、最後には捕虜に至る激戦の中で、彼は、死を恐れず、というか死に向かって、常に最も危険な任務を志願するのです(何度も勲章をもらっています)。「日記」には「死の近さが僕に生の光をもたらす」「死こそが、生にその意味を与える」と書かれています。死こそ決定的イニシエーションの場なのです。これがゲーテの「死して成れ」の意味であり、自殺したクラウス•マンがあれほど執拗にアメリカ軍に志願して戦闘に参加した理由なのです。もっとも死に近い場所が、もっとも死を克服する場所なのです。

◎その「宗教的信念についての講義と会話」でウィトゲンシュタインは、奇妙な例え話を出しています。

〈ミッドサマー•コモン広場で縁日があるとせよ。沢山の人々が輪になって立っている。毎年こういうふうになっており、そのとき誰もがその輪の反対側に死んだ親戚の者を一人見たと言うとせよ。この場合、われわれは輪になっている一人一人に「あなたが手を組んでいるひとは誰なんですか」と尋ねることができよう。それにもかかわらず、われわれは皆、その日自分たちは死んだ親戚の者を見ているというであろう。諸君ならこの場合、「わたしは異様な経験をした。[わたしは死んだいとこを見た]と述べることによって表現できるような経験をした」ということができよう。〉

   複数の学生による講義の記述には、このような尻切れトンボの記述が多いのですが、記述自体は正確です。反対側に見た人間が本当に死んだ親戚ならば、その親戚によって見られた自分もすでに死人のはずであり、この輪全体は亡霊たちによって成り立っていることになり、それはそれで偽りではありません。この記述のポイントは、一人一人に問い質せるというところで、そうして輪全員の正体が確定してもなお、死んだいとこを見たという発言が「真実」でありうるのです。同じような例をウィトゲンシュタインはルルドの涙を流すマリア像などで語っていますが(それが本当の血の涙か赤インクか判然としても「真理」には関わらない)、それこそ宗教的言語(信念の言語と言ってもよい)の特質なのです。「記述されうること、それはすなわち起こりうることである」(岩波文庫『論理哲学論考』野矢茂樹訳)

◎宗教的信念については、ヒラリー•パトナムの『導きとしてのユダヤ哲学』(叢書ウニベルシタス•佐藤隆史訳)の第1章「ローゼンツヴァイクとウィトゲンシュタイン」に『反哲学的断章』からの興味深い引用があります。「宗教的信仰とはある一つの座標系を情熱的に受け入れる、といったことにすぎないように思われる。つまり信仰にすぎないのだが、それは実際には一つの生き方であり、一つの生の判断の仕方なのである。そういう解釈を情熱的に引き受けることなのだ。だから、ある宗教の信仰を教えこむということは、その座標系の描写とか、記述の形式であると同時に良心に語りかけるということ[win in’s-Gewissen-reden]でもあるにちがいないだろう。そして、この組み合わせによって結局、教えこまれた人自身が、自分の意志で、その座標系を情熱的にうけいれるようになるというわけだ。」(ウィトゲンシュタイン『反哲学的断章』丘沢静也訳•青土社)

◎ところで、私は大学に入ってすぐに『論理哲学論考』を買って読んでとても心を動かされました。世界は事実の集積であること、そして、すべての事実は等価であること、ある夏の午後2時に1匹の蟻が幼虫を引っ張って銀杏の木の根っこの巣に運んだこと、それが神の書物のあるページのある行に確かに書かれていること、すべては無意味ではないことの何と清々しく崇高なこと!私が沢田允茂の後期の論理哲学の授業をとったのも多分それが理由だったのでしょう。朝八時からの授業に出るためにいつも六時半に家を出なければなりませんでしたが、沢田允茂はたいてい遅刻してくるので、助手の人(名前は忘れた)が出席をとり、教授が来るまで雑談をします。なんとその助手の人はカトリックで宗教哲学を専攻にしているとか。同じ大学に松本正夫というカトリック哲学の権威がいるのになぜ論理学の方に来たのか。疑問に思ったが質問はしませんでした。沢田允茂は教室に現れると、まず助手に先週までの進捗状況を聞いて、それから教科書(A.J.エイヤーの『言語•真理•論理』でした。)を開くのですが、いつも『論理•言語•真理』とか『言語•論理•真理』とか間違えて助手に訂正されるのでした。実は、私は、松本正夫の中世哲学の授業もとっていて、しかし難解で退屈なので、教授が後ろ向きになって板書するたびに後部の扉から一人ずつ学生が脱走していくのです。失礼なことをする連中だと思っていたのですが、ある時、お腹がたまらなく空いて、仕方なく、松本教授が黒板にアンセルムスの空中人間の絵を書いている隙に教室を抜け出してしまいました。多分その日のことだとおもいますが、キャンパスの中の寿司屋で鉄火巻を注文したら、同じ語学クラスのMという学生が私に気付いて近寄ってきました。汁物付きの上にぎりを食べていたのでおどろきましたが、さらに驚いたことに、紀伊國屋で岩波文庫のヒュームの『人性論』の1~4を買ったが、家に帰ってみたら全部1だった、といって高笑いしてたことです。つまらない思い出ですが、ウィトゲンシュタインのことは遥か遠い昔のことになったある日、東京の私の事務所で、アルバイトの女子大生に記号論理学の問題を質問されて、昔のその時期が俄然思い出されたのです。あんなに懸命に勉強したのに記号の意味も忘れて、女子大生に質問しながら何とか解いてあげましたが、いや、色々なことのあった年の大晦日の差し迫ったときに何とつまらないことを思い出しているのでしょう。来る年が少しでもよい年でありますように。

79e096eec2754664b5092a1706dcdcf5

| | コメント (0)

2019年12月19日 (木)

師走の読書ノート(2)

◎不眠症で苦しんでいたのですが、我慢して昼寝をしないようにしたら夜ゆっくり眠れるようになりました。4時間ほどで猫に起こされるのは仕方ありませんが、食事をやり、トイレのしまつをして、書庫の部屋で猫の寝息を聞きながら熱燗で一杯やるのが最近の楽しみです。それから猫と一緒に布団に戻って朝まで眠ります。そんな時に書棚の手が届くところにあった『九鬼周造随筆集』(岩波文庫)を読んでみました。その中の「小唄のレコード」という随筆が面白い。少し長いが引用してみましょう。

〈林芙美子女史が北京の旅の帰りに京都に寄った。秋の夜だった。成瀬無極氏と一緒に私の家に見えた。日本の対支外交や排日問題などについて意見を述べたり、英米の対支文化事業や支那女性の現代的覚醒を驚嘆していた。支那の陶器の話も出た。何かの拍子に女史が小唄が好きだといったので、小唄のレコードをかけて三人で聴いた。

「小唄を聴いているとなんにもどうでもかまわないという気になってしまう」

と女史がいった。私はその言葉に心の底から共鳴して、

「私もほんとうにそのとおりに思う。こういうものを聴くとなにもどうでもよくなる」

といった。すると無極氏は喜びを満面にあらわして、

「今まであなたはそういうことをいわなかったではないか」

と私に詰(なじ)るようにいった。その瞬間に三人とも一緒に瞼を熱くして三人の目から涙がにじみ出たのを私は感じた。男がつい口に出して言わないことを林さんが正直に言ってくれたのだ。無極氏は、

「われわれがふだん苦にしていることなどはみんなつまらないことばかりなのだ」

といって感慨を押え切れないように、立って部屋の内をぐるぐる歩き出した。林さんは黙ってじっと下を向いていた。私はここにいる三人はみな無の深淵の上に壊れやすい仮小屋を建てて住んでいる人間たちだと感じた。〉

◎妻に頼まれて、隣の市の中央図書館に本を借りに行きました。ついでに自分の本も借りたのですが、それは以前持っていたが事情があって手放した、E.R.クルティウスの『文学と旅』(みすず書房•小竹澄栄訳)でした。この本には、1922年から1925年まで、クルティウスが「ルクセンブルク新聞」に寄稿した19編の評論すべてが集められています。当時クルティウス(1886~1956)は30代半ばの少壮の文献学者でした。「ルクセンブルク新聞」を買い取ったルクセンブルクの大実業家エミール•メリシュの妻アリーヌ•メリシュ•ド•サン=テュベールは「新フランス評論(NRF)」誌に、出たばかりのクルティウスの本『新しいフランスの文学開拓者』についての書評を寄稿したばかりでした。アンドレ•ジッドは、その書評を読んで、ただちに、まだあまり知られていないこの文献学者に手紙を書きました。というのもジッドは、この女性の評価をたいへん信頼していたからで、実は、ジッドが限定300部で『背徳者』を世に出したとき、ベルギーの『現代評論』誌に卓抜な書評を書いたのが彼女だったのです。その後、ジッドは、ドイツのメリシュ家の城でクルティウスに会って、以来ジッドの死まで厚い友情が結ばれることになったのです。

◎ところで、アリーヌ•メリシュの目指すところはドイツとフランスの文化的架け橋になることでした。メリシュ家が買い取った時の「ルクセンブルク新聞」はどちらかというと通俗的な新聞でした。アリーヌは、この二か国語の新聞の定期寄稿者としてジャック•リヴィエールとクルティウスを迎え、この新聞は一気に高度な論調と格調を持つようになったのです。この二人の協力は、リヴィエールがチフスで39歳で死に、クルティウスがハイデルベルク大学の正教授になった1925年まで続きました。

◎さて、『文学と旅』の内容を説明しましょう。出版社の付けた副題に「ゲーテ、トーマス•マン、イタリア」とあって、19編の評論のすべてを貫くものは、ドイツ的なものの探究にほかなりません。

◎1922年10月に出たクルティウスの記念すべき第一稿は「ドイツ精神の心理学」と題されています。国の統一に時間がかかり、革命の失敗、第一次大戦の敗北とそれによる多額の負債、共和国の蹉跌、等に苦しめられるドイツに、クルティウスはマックス•シェーラーの『ドイツの使命とカトリックの思想』(1918)の言葉を思い出させます。それは、ドイツ文化には形式(form)感覚が欠けているという言葉です。芸術にも学問にも、政治や経済においても、独自の〈形式〉がドイツ人の強みになったことは一度もない。人間理想の形式はイギリスではジェントルマンであり、フランスではオネ•トームhonnête hommeあるいはシトワイヤンであったが、ドイツにはプロシアの士官とか、ドイツの官吏、学者のように職業•身分でしか表されず、人間一般に共通する理想形式は生まれなかったと。また、フランス人エミール•ブートルーはドイツ人の特徴を全体の観念、全体性と総体性を把握しようとする努力と指摘し、それがドイツ人の本質に形式の生成を難しくしている理由なのだと書いています。マックス•シェーラーも「ドイツ精神の不変の要素は、無限の観念と、この観念に帰依する歓喜と幸福とを感受できる感覚なのである。」と言います。無限に続く努力こそドイツの本領であり、美しい瞬間を享受するよりは、永遠に求め続け力を尽くす方がよい、というのがゲーテの『ファウスト』の根本思想なのです。それゆえに、ゲーテは、ドイツ精神には《結果》がないことを強調します。『ファウスト』やケルン大聖堂が完成するまでにどれだけかかったか思い出しましょう。そして、これはまた、ドイツの教養理想にも関係してくるのです。ここで教養とは、理解力や知識を増やすことではなく、人間をまるごと形作ることを指します。柳田国男は、確か、かつて、ドイツ教養主義を批判して、それは、いつかは完全な人間になろうとする思想だが自分のような(駄目な)人間には与り知らぬことだと書いていました。

◎1922年の11月に載せられた「ドイツ便り。ドイツ文学通信」はオーストリアの作家•批評家フランツ•ブライの『近代文学の大動物寓話』への書評ですが、フランツ•ブライについては別項で紹介しましょう。

◎1923年2月の「ドイツ文学通信。トーマス•マンと共和国」はおそらくもっとも重要な寄稿でしょう。1922年の10月にベルリンのベートーヴェン•ホールで行われたトーマス•マンの講演は衝撃を持って迎えられました。トーマス•マンは、そこで何と、共和国万歳を叫んだのです。あの、デモーニッシュで、ペシミスティックで、イロニーに溢れた作家、1918年秋の『非政治的人間の考察』では、西欧の合理主義、啓蒙主義、デモクラシー、「文明かぶれ」に対してドイツの「文化」の優位を説いた作家がです!戦争に敗れ、共和国に幻滅していた聴衆(大半は学生)は激しく靴で床を擦り、演説を妨害しようとしました。マンは、嫌気をさすことなく、粘り強く、聴衆を説得します。この講演(岩波文庫『ドイツとドイツ人』所収)は「ノイエ•ルントシャウ」誌11月号に掲載され、クルティウスは直ちにそれを読んで、「ルクセンブルク」新聞にこの論考を寄せました。「そう、この講演は大事件である」とクルティウスは書いています。それは二重の意味でそうなのです。まず、不和と荒廃と重圧と無気力に押しつぶされた国民が徐々に立ち直っていく新しいドイツの相貌を示したこと、二番目は、これまでにない姿のトーマス•マンを明らかにしてくれたことでした。「不意に彼は、再び私たちのすぐそばにいる。私たちは何も知らずにいたのだが、急激な発展が彼の中でひそかに進行していたのだ。」

◎「人間性(フマニテート)の問題としての、人間性の表現形態としての共和国。これがトーマス•マンのメッセージである。」人間性とは何でしょうか? それは、「真の国民性に根ざしながら世界を包含する全体意識にまで発展した、活気あふれる精神を備えた自由な人間らしさ」です。トーマス•マンのこの言葉の宣誓保証人はドイツ•ロマン主義のもっとも神秘的な寵児、フリードリヒ•フォン•ハルデンベルク、すなわちノヴァーリスです。トーマス•マンは、最近、ひとりでノヴァーリスを発見した。彼の引用の仕方には紛れもない発見の喜びがある、とクルティウスは書いています。若々しい愛の幸福感とも言ってもよい。長い間、異国の庭を彷徨ったあげく、彼は自分の国で、この愛する自国で、自分自身のゲーニウス(守護神)を発見したのです。トーマス•マンが、それまでどんな思想家•芸術家に育まれて来たか思い出しましょう。それは、ショーペンハウアー、ワーグナー、ニーチェ、フローベール、そしてロシアの作家たちなどだったはずです。そして、彼らも、そして彼らの時代のドイツ人も、みな己の存在のどこかに否定の要素、つまり非情さ、冷淡さ、破壊性、辛辣さがありました。彼らの心中には(ゴットフリート•ケラーやブルクハルトも含めて)世界と神と歴史に対する不屈の抵抗が潜んでいたのです。しかし、今や、トーマス•マンは、彼にとっては無縁であったといってよい、1800年代のロマン主義ドイツの響きを聴こうとしたのです。この時代のロマン主義者たちはみな、精神が自然と歴史に、世界と神に和合するところに、生の最高の意味を見出していた、とクルティウスは書いています。「普遍の調和が彼らの生の感情である。この普遍主義は、ジャン•パウルでは宗教的にして詩的であり、ノヴァーリスでは魔術的、神秘主義的色合いを帯びている。」

◎ノヴァーリスは北ドイツの官僚貴族の家に生まれました。そして、当たり前のように、君主制と身分制からなる国家への忠誠心を備えていました。しかし、フランス革命が彼の心に火をつけたのです。それは、新時代の黎明に思われたのであり、王政と共和制は彼にとって二つの聖なる言葉になりました。彼はこう語っています。「両者は人間の胸に潜む根絶しがたい力なのである。一方には古代に寄せる敬虔な思い、歴史的体制への愛着、父祖や国家への愛情、他方には自由の魅力的な感情、新しく若々しいものの歓喜、あらゆる同胞との自由な触れ合い、人間の普遍妥当性に対する誇り、個人の権利と全体の所有の歓び、そして力みなぎる市民感情。」

◎ノヴァーリスのこのような言葉が、トーマス•マンのかつての、頑迷さ、硬直、否定的態度を和らげてくれたのだろうとクルティウスは言っています。トーマス•マンの中で、ノヴァーリスを通して、ニーチェの誤りが正されていくのです。次のノヴァーリスの言葉に、マンは「的確だ」と言添えています。「道徳の理想にとって、最高の強さ、つまり最強の生という理想ほど危険なライヴァルはない。それは美的偉大さの名で呼ばれたこともあるが…野蛮の極致である。ところがこのような文化荒廃の時代にあっては、まさにもっとも虚弱の者の間にこそ、その信奉者がきわめて多く見られる。この理想によって人間は動物精神と化すが、それは弱者にまさしく粗暴な魅力を感じさせる粗暴な機智を備えた混合体ということなのである。」

◎「ロマン主義の深い心の発する物柔らかな輝きが、懐疑に悲劇的に引き裂かれた時代の遅咲きの花に救いの手を差し伸べたのだ」とクルティウスは書いています。しかし、今これを読むと、トーマス•マンの気持ちはもっと切羽詰まっていた、ファシズムの跫音がその行間に感じ取れるのです。この後、マンは亡命を余儀なくされ、ドイツは破滅に向かって転げ落ちて行きます。

◎7番目の寄稿は「ヘルマン•バール」で、フランツ•ブライ同様オーストリアを代表する批評家で、最近岩波文庫からやっと評論集が出ました(『世紀末ウィーン文化評論集』西村雅樹編訳)。クリムトやクリンガーらオーストリア分離派を支持し、マーラー、リヒャルト•シュトラウスなどの音楽家や、建築家オットー•ヴァーグナーへの賛辞も面白い。しかし、もっとも興味深い一編は「ロリス」でしょう。ウィーンのカフェでロリスという筆名で書かれた自分についての論評が載っている雑誌を読んでいました。読み始めると取り憑かれたように夢中になり、この「ロリス」という人物にどうしても会いたくなりました。おそらく、40歳から50歳ぐらいの成熟した精神を持った人物に違いない、そう思っていたバールは、ある日、行きつけのカフェ•グリーン•シュタイドルで、ロリスを名乗る若者に声をかけられて驚きます。なんと、ロリスは当時17歳のホーフマンスタールの筆名だったのでした。

◎ヘルマン•バールは50歳になってカトリックに復帰しました。「山上の説教には人生に必要なことのすべてが語られている」と彼は書いています。「自己総点検」という章の最後に置かれた次の文章は幸福なキリスト教徒のものでしょう。

「私は死を好む。救済者としてでなく。というのも、私には生きる上で悩みはないから。だけれども、成就者としては、死は、私にまだ欠けているものをすべてもたらしてくれるだろう。そのとき私の命の種は初めて開く。死は私から何も取らず、いっそう多くのものを与えてくれる。それが今やわたしにはわかっており、今死を思う時には、子どもの頃クリスマスプレゼントを心待ちにしていたのと同じように、そわそわした嬉しい気持ちになる。私たちは暗闇の中で座っていた。けれども、ドアのすき間を通して喜ばしい一条の光が射していたのだった。」

◎最後に「イタリアの印象」の中のローマについてのクルティウスの文章を引用しましょう。

「この都市は帰依を求める。ここでは、ローマという小宇宙に世界史の大宇宙を学びとることだけに没頭して何ヶ月でも何年でも過ごしたくなる。それ以外のどんな仕事もこの街ではなんの価値ももたないだろう。ここでは、あらゆるローマ巡礼者たちの不可視の群れに取り巻かれることとなるだろう。ローマの市民権はこのようにして獲得されるだろう。ローマ市民となるという、このような人生の一時期を経ずして、真の教養がありえようか?」

◎フランツ•ブライ Franz Blei(1871~1942)の『同時代人の肖像』(法政大学出版局•池内紀訳)を読み返してみました。クルティウスの本に名前が出てきたので懐かしくなって図書館から借り出して来たのです。オーストリア生まれの作家•批評家•劇作家で、世紀前後のウィーンの中心人物の一人。ナチスのオーストリア併合から逃れながら、フランス、スペインなどを転々とし、最後はアメリカの病院で死にました。若い時に18世紀のイタリアの経済学者フェルディナンド•ガリアーニ神父の影響をうけ、知性としてはまず最高の人物の一人だと思います。この本にはレーニン、ラーテナウ(ワイマール時代のドイツの外相、55歳で暗殺された)などの政治家のほか、スウィンバーン、リルケ、カフカ、ロート、ダヌンチオなどの詩人•作家など21人のスケッチが収められています。その中から印象に残った数人を紹介しましょう。

◎ルイジ•ピランデルロ(1867~1936)言うまでもなく、イタリアの著名な劇作家。14年間を狂気の妻と暮らし、25年間をローマの高等女学校で教えていました。54歳の時、『作者を探す六人の登場人物』でヨーロッパ中に知られる人物となりましたが、生涯裕福にはなれませんでした。ある時、彼は外国の新聞記者に生活について質問されました。「私は生きることを忘れてしまいました。」とピランデルロは言いました。「ですからご質問には、こうお答えするしかないのです。私が自分の作中人物に、この私に対する質問をしたい、と。あるいは彼らは私の人生について、何かを教えてくれるかも知れません。」実際、ピランデルロは日曜日ごと、7時から10時まで、自分の想像の人物たちの引見をする、と書いています。その時、与えられた生に不足を申し立てるものがいます。そこでピランデルロは、苦情の是非を念入りに検討するのですが、というのも、つくられた人物こそ、人間以上に、はるかに活きいきと生きているからで、卑俗な真理に縛られることなく、ひたすら現実の法則に従っているからです。「人間とは、おおよそ何ものでもない。つくられた人物は常に何者かである。」と彼は言っています。

◎オーブリー•ビアズリー(1872~1898)恐るべき天才。ワイルドが『サロメ』の挿絵に不満を言ったのは、挿絵が本文を凌駕していると知ったからでしょう。小さい時からの肺結核で、26歳で南フランスのマントンで最愛の姉に看取られて死にました。ある日、パリのホテル「ヴォルテール河岸」の狭い階段をブライが降りようとすると、若い男が横たわるように座っていて通れません。男はそれに気づくと、どうも失礼、といって階段に取り落とした写真を集めようとしました。お手伝いしましょうか、ビアズリーさん、とブライがいうと、彼は驚いて、どうして自分を知っているのかと尋ねました。それで、ブライは、2年前から「イエロー•ブック」や「サヴォイ」その他であなたをよく知っている、今日ホテルに着いて宿泊名簿であなたの名前を見つけた、と答えました。vraiment  本当ですか?とビアズリーは言って、部屋でお茶を飲みに来ませんかと誘ってくれました。彼の顔にはすでに死相が出ていて(この数ヶ月後に死亡)、部屋に着くと、安楽椅子にどかっと身を落として、姉にお茶を入れてくれるよう頼みました。姉は純金のような金髪を持つ美しい女性でした。その後、翌日マルセル•シュオッブを一緒に訪ねることを約束しました。「シュオッブは、ここ一年ずっと死と隣合わせにいるのです。死にかけの病人とは彼のことです。」とビアズリーは、自分のことを忘れて言いました。(シュオッブの死については、ポール•レオトーの『文学日記』に詳しい記述があるので、いつか紹介しましょう。)

◎ミゲル•デ•ウナムーノ(1864~1936)スペインの思想家。「ウナムーノが敬虔なカトリック教徒であるかどうか私は言うことができない。とまれ、もっとも力を注いだ小説や短編の分野において、彼はあきらかにカトリック作家であった。カトリック作家のテーマと課題は常に悪である。悪魔である。人間性を信じ、美徳への着実な歩みを信じているキリスト教的自由思想家は、あるいはゾラの夢のような、純潔の書なら書くこともできよう。だがカトリック作家は決して地獄に目をそむけてはならないのだ。」「彼は、作品の中でも話すときでも、ボルンタト(意志)という言葉をついぞ用いなかった。冷ややかで、概念的すぎたからであろう。そのかわりに、ごく平易なガーナを用いた。たぶん、ケルト•イベリア語に派生する言葉だろう。常に新しく民衆の血を受けてきた言葉だ。ガーナはほぼ熱望に相当する。フランス語のdesir (欲望)を含み、それはほとんど肉体的欲求に等しい。ガーナは純理念的なものと対立する。そういえば、人は思い出すに違いない。スペインはいかなる瞑想的な聖人も知らないのである。聖テレサにしろ、聖イグナチウスにしろ、この国の聖人はすべてガーナを持っていた。そして、ウナムーノはこのガーナにとり憑かれていた。」

◎カール•クラウス(1874~1936)、ペーター•アルテンブルグ(1859~1919)世紀末ウィーンを語って、この二人を逸するわけにはいきません。観光客の行列が絶えないウィーンのカフェ•ツェントラルの入口横には、テーブルについて店内を見回しているアルテンブルグの等身大人形が置かれています。アルテンブルグはウィーンの富裕な家に生まれたが、ボヘミアンになり、カフェでお金を恵んでもらっていました。一文無しだったのではなく、一文無しを演じていたのです。奇行で知られ、ウィーンの名物男でした。日常風景のごく短いスケッチをたくさん書きためていると、友人のクラウスがまとめて『私の見るところ』という題で出版してくれました。カフェ•インペリアルのクラウスの定席には、常に、彼に認めてもらいたいという若者がやってきました。何回か話すと、クラウスは冷たく彼らを突き放すのです。アルテンブルグだけはいつも歓迎されて50クローネもらうと機嫌よく帰っていきました。若者がみな貧乏なことはクラウスも知っていましたが、ペーター以外にはビタ一文与えませんでした。ケチだったわけではなく、クラウスは資産家の家に生まれ、自身も相当稼いでいたのですが、全財産を慈善施設に寄付していたのです。

◎とりとめなく書いてしまいましたが、書き忘れたことを一つ二つ。ドイツの文化的地図は南西のロマン地域と北東のゲルマン地域に分かれるとクルティウスは書いています。南西はゲーテ、シラーなど古典主義の揺籃だが、ドイツの神秘主義者は、みな北西地域の生まれだそうです。マイスター•エックハルトやヤーコブ•ベーメについては次の読書ノートで書きたいと思いますが、12月後半は病院の検査が集中しているので(MRI、血液検査、眼科検査)大晦日までに書き上げられるかわかりません。

46f0401e8abf49cea6955e7a8ca41dbd

C7d07fad75514460a50b3e308b8c7441

Ff926132a2c74cfcbd2d2ba302d48eab

01375c4e461a4c36a064818f841fccff

フランツ•ブライ。聡明な批評家という言葉がピタリと当てはまります。背が高く痩身で、いつも黒い服を身につけていたという。

 

 

 

| | コメント (0)

2019年12月 6日 (金)

師走の読書ノート(1)

 

◎倒れて入院してからちょうど2年経ちました。切れた血管が危険なところだったら、そのまま逝ってしまったわけで、運が良かったと妻といつも話しています。鮎川信夫は甥の娘とスーパーマリオを遊んでいるときに脳卒中で倒れ、その日のうちに杏林大附属病院で亡くなったことはよく知られていますが、ゲームで興奮して瞬間的に血圧が上がったのでしょう。私は怖がりのくせにホラー映画が好きで、ときおり観たくてたまらなくなるのですが、ドキンとさせられる時があるので最近は観ないようにしています。ところで鮎川信夫の『最後のコラム』は、大岡昇平の『成城だより』や武田泰淳の『目まいのする散歩』と同様、文学者晩年のどうとも言えないエッセイですが、その中で、甥の家族とディズニーランドへ行った時のことが書かれていて、日本人がこんな楽しそうな笑顔をしていたことがあるだろうか、という感慨に襲われているのが面白い。思えば、大岡や武田や鮎川も戦争で散々苦労して、戦後の著作はおしなべてみな粘りつくような暗さがあります。前の世代の薄田泣菫や蒲原有明、後の世代の吉本隆明や江藤淳ら、戦争を経験していない世代との違いは明白でしょう。

  姉さん!

  飢え渇き卑しい顔をして

  生きねばならぬこの賭けはわたしの負けだ

と歌った詩人は、ディズニーランドで見た日本人の心底楽しそうな笑顔に驚愕したのです。ところで、私は、詩人というものは俗人の最たるものだと思うのですが、『最後のコラム』にもそれの例証らしきものがあります。鮎川の家の近くの古本屋に丸山薫に献呈された詩集が大量に売られていた、どうも丸山は献呈本を次から次に売り飛ばしているらしい。丸山薫と云えば、実家に『帆•ランプ•鴎』を含む丸山の詩集があって、子供の頃よく読んだものでした。「どうだろう、この沢鳴りの音は、、、」とか「あいるらんどのような田舎に行こう、、、」などは暗誦したものです。鮎川によると、石垣りんの「へんなオルゴール」という詩に丸山のことが書いてあるそうです。それによると、「歴程」夏のセミナーのため千葉県の旅館に宿泊していた石垣は、夜に石垣の詩集『表札など』を持参した年配の男性の訪問を受けてサインしてくれと頼まれました。「これも挟んでありました」と言われた紙を見ると、「丸山薫様石垣りん」と書かれています。

  おお、『帆•ランプ•鴎』!

  どうしてうらんだり かなしんだりいたしましょう。

  売って下さったのですか 無理もないと

  それゆえになお忘れ難くなった詩人よ。

◎前回の記事のために俳書をたくさん読んだので、もう俳句に飽きてしまったのですが、図書館で『井月句集』(岩波文庫)があったので借りてみました。井月(せいげつ)は乞食井月とも言われ、66歳で乾田の中で糞まみれで発見され、知人宅に運ばれて死んだのですが、実は昔、貸本屋時代からのつげ義春の漫画本を集めていたことがあって、その中に井月について描いた漫画があったのを思い出したのです。井上井月は上越に生まれ、各地を彷徨った後、信州は伊那谷で乞食暮らしを37年間ほどしていました。酒が好きで、伊那の俳句好きの金持ちの家を回っては酒食にありつき、お礼に俳句を達筆の書で書いて渡したりしたとのことです。なぜ伊那(今の信州赤穂あたりの飯田線の沿線らしい)に居ついたかというのは謎ですが、どうも住民の性格が良くて、酒好きの土地柄だったからでしょう。性格は穏健で問題を起こすこともなく、尊敬はされずとも嫌がらせとかは余りされなかったようです。自らの過去は黙していたとのことですが、その俳句は芭蕉の遺風を継いで軽妙で格調もある、同じ放浪生活とはいえ山頭火や放哉、あるいは晩年の惟然などのような破格な句は作らない、それが特徴と言えましょう。ただ、時代が悪く、幕末から明治の御一新を跨いだ時代だったので、あの壬申戸籍など、浮浪者がせっつかれた時代なのが井月には可哀想でした。幸い、庇護者の家の当時子供だった下島勲が井月のことをよく覚えていて、成長して医師になり田端で医院を開くと、偶然芥川龍之介が田端に住んでいてその主治医となります(自殺の際の検分もした)。その下島が芥川に井月のことを話して、俳句好きの芥川は井月に興味を持ち、その句集刊行に助力を惜しまず、その跋も書いています。芥川全集第8巻に収録されているその跋を見ると、井月の句には駄句が多いと書いていますが、これこそ「おまえが言うな」で、芥川自身の俳句でも良いものは無いか、ごくわずかです。そもそも芭蕉が言ったとおり、生涯に三、五句秀句をものせば十分なので、

  降る雪や明治は遠くなりにけり(草田男)

  湯豆腐やいのちの果ての薄明り(万太郎)

  水枕ガバリと寒い海がある  (三鬼)

などに感心して草田男や万太郎や三鬼の句集を読むとがっかりすることが多いでしょう。井月の句ですが、残念なことに後世に残るほどのものは一句もなかったと思います。ところで、性懲りもなく、また作句してしまいました。

   天皇になり替わりたし年の暮れ

   熱燗を虚しき夢と啜りたり

   人の子は哀しく生まる聖夜かな   

◎さて、芥川全集の同じ第8巻に『上海遊記』『江南遊記』が収録されていますが、芥川はこの中国旅行の直後から(旅行中も入院していたのですが)体調を崩し、一気に自殺まで急坂を転げ落ちていくのです。坂口安吾は、中国で性病をうつされたのが貴族的な芥川の苦悩を引き起こし、それが自殺の原因だろうと書いていますが、中国で女遊びをしたのは確実としても、それが自殺の原因の一つとはとても思えません。やはり遺伝(母親も精神病だった)から来る神経過敏によるものではないでしょうか。この二つの旅行記は近代日本の作家の旅行記の中では読むに値しないまでも傑作とはとても思えません。『上海遊記』の中に中国美人についての章があって、クラブで接待に来た美人たちの耳が日本女性と比べて美しいと書いてあります。芥川によれば、これが彼自身の発見で、日本女性はずっと日本髪で耳を隠していたので、髪油のせいで美しくない、それに対して中国女性は耳をすっかり外に出しているので美しくなったのだと、これは遊蕩児ゆえの観察でしょう。話が下世話になりますが芥川の巨根伝説は有名ですが、以前サイデンステッカーの『流れゆく日々』という自伝を読んでいたら谷崎潤一郎の一物は極少で、それが彼の文学に抜きがたい影響を与えていると書いてありました。芥川と谷崎が例の「小説の筋」論争で熱く戦ったことを考えると面白いです。まあ、これはサイデンステッカーの谷崎への嫌味かも知れません。と言うのも谷崎はニューヨーク生まれで洗練されて話の面白いドナルド•キーンが好きで、それがコロラドの山中から出てきたサイデンステッカーの嫉妬心を煽ったのでしょう。ところで、キーンもサイデンステッカーも海軍の語学学校で日本語を習得したことは興味深い。軍隊と相撲部屋は語学習得に最適の環境なのでしょうか。

◎先日、本八幡の山本書店で、岩波の日本思想体系『中世禅家の思想』を200円で買いました。栄西の『興禅護国論』は予想通り難しくて、しかも退屈。一休の『狂雲集』を読んでいたら、見たことのある詩句が出て来て吃驚、「夢中猶読小時書(夢中なほ読む小時の書)」は南宋の詩人劉後村(1187~1261)の詩句にあり、江戸時代後期の遊歴の漢詩人柏木如亭が編集した詞華集『聯珠詩格』に載せられているもの。一休宗純は室町時代の禅僧で、明らかに後村の詩を盗んでいますが、一休はどこでこの詩句を知ったのか。愛慾まみれの破戒僧なので何をしてもおかしくありませんが。

◎ブログ記事に書く本を探そうと近所の図書館をぶらぶらしました。哲学の棚から『フィヒテーシェリング往復書簡』(法政大学出版会•座小田豊、後藤嘉也訳)を取り出してパラパラ読んでみると、編者のワルター•シュルツの前書と概要が面白い。この書簡集は、最初の一通を除いて、1799年7月から1802年1月までのわずか2年半ほどの文通の記録です。1798年にイェナ大学で二人が出会った時、フィヒテ36歳、シェリング23歳でした。ほどなくフィヒテは「無神論論争」(弟子のフォルベルクの論文がきっかけとなった)に巻き込まれてイェナを去り、ベルリンに赴きます。こうしてイェナとベルリンを往復する二人の文通が始まるのですが、はじめのうちは二人の間は全き信頼関係で結ばれ、二人が共同で出す予定の哲学雑誌についての話題が中心になります。1781年のカント『純粋理性批判』の出版から1831年のヘーゲルの死までの50年間は、ドイツの哲学思想がはじめてヨーロッパの思想のトップランナーになった時代であり、ドイツ思想界は百花繚乱の喧しい議論に沸騰していたのです。中傷や誤解、反目と同調が交錯していたこの時代に、フィヒテとシェリングはこの雑誌によって新しい哲学精神をドイツのみならずヨーロッパ中に喧伝しようと思っていたのです。むろん、二人は出会った当初から哲学の根本精神においては違ったものを持っていましたが、時代を正そうという情熱が二人の分離を促す一切のものに勝っていたのです。しかし、1800年の秋頃から、二人の書簡の調子は変わってきます。書簡は長くなり、一方が他方を自分の思想に組み入れようと腐心するようになります。共にお互いを当時の最も重要な思想家であると認めており、そういう有力な自立した思想家に対して、それゆえに彼にこそ自分の哲学を理解してもらいたいという必死の努力が互いの文章に垣間見えるのです。書簡の調子は凝縮され、余分な話は一切捨象され、一つの論文ほど長く、互いに相手の思想を知り尽くした上で、にもかかわらず自分を理解させようと懸命に書き続けるのです。けれども1801年、つまりシェリングの『わが哲学体系の叙述』、フィヒテの『人間の使命』の発表に至って、二人の離反は決定的になっていきます。二人の各々の取り巻き連中が、悪口や告げ口を二人に吹き込みます。誤解をただそう、もう一度理解し合おうと努力しながら、しかし、もはや相手を自分の立場に引き入れることは不可能だという諦めに達して行くのです。書簡は相手への人格攻撃まで及び、表面は紳士的な丁重な文面を墨守しているものの、それゆえにいっそう破局的な様相を呈して行き、書簡は突然終了するのです。

◎フィヒテはカント哲学から出発し、カントの『純粋理性批判』と『実践理性批判』を一つの哲学にまとめようとしました。カントが至り得ないと断じた物自体の絶対の点から道徳の基準を紡ぎ出したことにフィヒテは強く反発したのです。そこからフィヒテが考え出したのが自我の絶対性、あるいは絶対自我の存在で、カントと違って、この自我は行動し、反発し、次々と反応して行くのです。これがフィヒテ前期の知識学で、1800年頃を境にフィヒテの自我はますます破壊的になり、自分自身の存在根拠まで脅かすようになります。しかし、自我は自我自身のうちで反省し、共同的人間(同胞の世界)に目覚め、道徳的秩序のうちにこそ唯一の実在性があるのだと認識するに至ります。フィヒテはこの理念的な紐帯を神とよび、それへの接近方法は信仰しかないのだと結論づけました。1801年の『人間の使命』の第三部「信仰」はフィヒテの熱情こもった圧倒的な迫力で読む者の心を揺さぶるでしょう。

◎そして、まさにシェリングがフィヒテから離れたのもこの点においてなのです。シェリングは、フィヒテが信仰に陥った理由を、絶対存在を知の概念で説明できなかったからだと非難します。「私の見るところからすれば」とシェリングは1801年10月3日の手紙で書いています。「哲学においては、信仰について語ることができません。それは、幾何学において信仰について語ることができないのと同じです。」そして、シェリングは、絶対的なものは知によってでもなく、信仰によってでもなく、ただ直接的な直観によってのみ把握されうると書くのです。私は、ここにドイツ観念論の栄光とも悲劇ともいえるものを見ます。フィヒテとシェリングは相半しながらも、ドイツ観念論の内実ともいうべきもの「哲学は唯一ただ絶対的なものへの問いによってのみ規定される」また「思惟する主観性は如何にして絶対的なものを把捉できるか」という問いと信念を共有していました。冷静に人間悟性の限界を探求したカントと、理性の実在性を世界領域の全体に広げたヘーゲルとも違って、フィヒテとシェリングの狂おしくも報い少ない探究は、この書簡集に濃い影を落としています。書簡集の編者のワルター•シュルツは最後にこう書いています。「ヘーゲルの思惟が、国家や社会など現実の諸問題を自分のうちに取り込んでしまったために、ドイツ観念論以後の哲学者たちは、この思考と対決せざるをえなかった。これに対して、知を、〈或る純粋な、計り知れない、没世界的な絶対的なもの〉のうちに根拠づけようとする後期フィヒテと後期シェリングの努力は、世界に背を向けた神学的形而上学の表現なのである。19世紀後半には、この形而上学に至るどのような通路も、もはや見出せなかった。」

   長くなりましたので、読書ノートの後半は(2)に回します。

6d75202f2a5f4e099dd455c3174171bf

 

   

| | コメント (0)

« 2019年11月 | トップページ | 2020年1月 »