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2019年11月 9日 (土)

柴田宵曲『蕉門の人々』(2)

  天気が良くなったので、神田の古本祭りに行ってきました。妻のオフィスがその近くにあるので、お昼にブックブラザー源喜堂の前で待ち合わせて、すずらん通りのサンマルクカフェでウィンナコーヒーを飲みました。妻と別れてから、神保町の並べられた平台を一通り見て、四冊ほど本を買って帰りました。田舎から段ボールに入った野菜が届けられていて、開けると、サツマイモやピーマンや柿や蜜柑などが入っていました。サツマイモを見ると何故か遠い昔を思い出します。母が、ふかし鍋でふかした熱々のサツマイモを取り出して、パクッと二つに割って幼い私に渡してくれるのです。ところで、前回の記事で披露した俳句ですが、妻は、思ったほど下手でなかったと言ってくれたので、調子に乗ってまた作ってみました。

    空高しラグビーボール蹴られたり

    去来抄小銭で買わん本の市

    亡き母よふかしてたまへ薩摩いも

  〈惟然〉さて、柴田宵曲が次に取り上げるのは広瀬惟然です。惟然の場合、肝心の年譜が判然としないのですが、美濃の大きな酒造家の三男坊として生まれ、40歳近くで妻子を捨てて出家。その頃、旅の途中美濃を訪れた芭蕉に出会い、その門下になります。芭蕉はその頃44歳で、惟然はその後7年間芭蕉に薫陶を受け、伊勢から難波までの師の最後の旅にも付き添っています。惟然は何よりもその奇行で知られています。乞食よりも粗末な身なりをしていたので、どこでも宿所を断られ、一時住んだ小屋は四畳半で、真ん中に柱があったそうです。伴嵩蹊の『近世畸人伝』には芭蕉の門人が二人載っていますが(もう一人は丈艸)、それによると、惟然は名古屋で豪家に嫁いで侍女たちを連れて歩いている実の娘に偶然出会います。行方不明の父に会って娘は懐かしさで袖をつかまえ、何処でどのように暮らしているのか涙ながら父に問います。惟然も思わず涙を流しますが、

  両袖に唯何となく時雨哉

と言い捨てて走り去ってしまいます。その後、娘が惟然の京都の住居を尋ね当て訪問すると、惟然は、

  おもたさの雪はらへどもはらへども

という句を人に託して越後の方へ旅立ってしまいます。

    思えば、芭蕉の風狂の精神を一身に継承したのは、ただ一人惟然だったのです。芭蕉も惟然について「性素にして、ふかく風雅に心ざし、能く貧賤にたへたる事をあはれみ」て、その俳句修業を助けたのです。しかし、芭蕉は道半ばにして倒れました。芭蕉を仏とも神とも思い、すべてを抛擲して師に仕えた惟然にとって、師の死はあまりに衝撃でした。以後、惟然は風羅念仏というものを唱えながら、九州、四国、近畿などを放浪します。それは、「古池や~蛙とびこむ~水の音~南無阿弥陀~」などという芭蕉の俳句を歌いながら念仏を唱えるものでした。

    俳句においても、惟然は師に教えられた無分別というキーワードを頼りに、次第に造りものを捨て、極端にまで素朴に徹していきます。彼は、教えを乞うて訪ねる人びとに「句は悪くするように作れ」と教えました。惟然が達した句の境地はつぎのようなものです。

  梅の花赤いは赤いはあかいはな

  水さっと鳥よふはふはふうわふわ

  きりぎりすさあとらまえたはあとんだ

  あれ夏の雲又雲のかさなれば

    これらは、家を捨て妻子を捨てたように、俳句から一切の技巧を遮断し、無分別に徹してはじめて可能かも知れない境地です。許六はもちろん、去来でさえ許容できないと感じたこの境地は後代になって小林一茶によって復活を見るのですが、俳句としては破綻しているのかも知れません。「彼は一切を捨てて風狂に身を委ねたのである」と宵曲は惟然について言っています。「芭蕉さえ健在であったならば、惟然も風羅念仏を歌って浮かれ歩く必要もなかったろうが、また一方から考えれば一たび芭蕉に遭い得たからこそ、風羅念仏を歌ってでも残生を全うしたのであろう。芭蕉に別れた惟然の悲愁は同情に堪えぬけれども、芭蕉に遭い得なかった人、たとい遭い得ても彼のごとく魂の契合を見出し得なかった人に比べれば、彼は遥かに幸福であったと言わねばならない。」

    ところで私は惟然が好きなのですが、その半端ない生き方に加えて、彼がまだ「素牛」という号で作っていた俳句は、『猿蓑』での凡兆や去来と同じ水準に達していると思うからです。

  山吹や水にひたせるゑまし麦

  蜻蛉や日は入ながら鳰(にお)の海

  竹の葉やひらつく冬の夕日影

  枯蘆や朝日に氷る鮠(はえ)の顔

    これらの句は直感というより完璧を求める精神の高さを表していますが、また観賞する方も流し読みでは捉えきれない一語一語の言葉の深みを感ずるはずです。ゑまし麦とは(『蕉門名家句選』の堀切実の解説によれば)水に浸した麦のことで、その水の中にあざやかな山吹色の花をつけた枝が活けてあるというのです。平凡な農家の台所の朝の情景が一気に魔法の光で天然色に彩られるようです。「鳰の海」とは琵琶湖の異称で、丘みどりの演歌でも有名ですが、宵曲は自身琵琶湖を周航した時、偶然入り日と蜻蛉の瞬間を体験して感動に打たれたと書いています。琵琶湖の大景と蜻蛉の一見無造作な取り合わせが作る入り日の光景が素晴らしい。「竹の葉」の句は、江戸時代初期の僧で漢詩人、元彦根藩士で46歳で亡くなった元政上人ゆかりの深草の庵を訪ねた時の句。予が墓には竹三竿を植えよ、という遺言で、惟然の頃にも竹が三本植っていたらしい。ひらつく(ひらひらする)という語がなかなか秀逸。「鮠」とはハヤのこと。川面の薄氷の下に鮠が顔を覗かせているのです。朝の光、枯れて先っぽの折れた蘆、凍てつく冬の光景、これはまず江戸時代を通じて最上の俳句の一つでしょう。

    最後に秀句とは言えないが惟然らしい句を挙げてみます。

  夏の夜のこれは奢(おご)りぞあら筵(むしろ)

  ひだるさに馴れてよく寝る霜夜かな

  短夜や木賃もなしでこそはしり

  しる人になりてわかるるかゞしかな

  かるの子や首指し出して浮藻草(ひるもぐさ)

  撫子やそのかしこきにうつくしき

   寝るところを所望したらあら筵を貸してくれた。いつも地面の上で横になるのでこれは贅沢すぎる、という句。「ひだるさ」は空腹、ひもじさのことだそうです。空腹だと寝られないのが普通ですが、馴れてしまえば寒い霜夜でもよく眠れるというのです。「短夜や」の句は前書によると、木賃宿で一夜を明かしたが気付くと宿賃の持ち合わせがない、仕方なく枕元の唐紙にこの句を書いて逃げ去ったとのこと。「しる人に」の句は二、三日でも同じ場所に居ると案山子とも仲良くなって別れも少しさびしいという惟然ならではの句です。「かるの子」はカルガモの子のこと。「撫子」の句と同様生きとし生けるものへの惟然の愛情がわかります。

   「惟然は党を立てて人と争い、論を以て他に見ゆる風の人ではなかった。」と宵曲は書いています。孤高を恐れず、貧しさは心を軽くすると考えていた惟然は、蕉門の他の誰よりも精神の高貴さを感じさせます。『近世畸人伝』の伴嵩蹊は、惟然坊の項の最後に惟然の、

  人はしらじ實(げに)此道のぬくめ鳥

という句を引用し「其の情その生涯のありさまをしるべし。」と結んでいます。「温め鳥」とは冬の季語で、鷹が暖をとるために雀などの小鳥を捉えて足を温めることで、朝になると小鳥を放し、その日はその方角へは狩りに行かないという。人は知らないだろうが、自分は人の世の温め鳥であった、という意味でしょうか。凡兆や去来•丈艸についても書くつもりでしたが、疲れたので、後日書けたら書くことにします。

 

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