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2019年10月13日 (日)

ワールポラ•ラーフラ『ブッダが説いたこと』

 

     先日、スーパーでワインを買って、家に帰って冷蔵庫に入れようとしたら、違うワインでした。どうも、隣に並んでいるワインを間違って籠に入れてしまったらしい。飲んでみたら美味しかったので、まあいいとしても、近視が進んでいることが心配で、いつもの脳神経内科の診察の時に担当医師に告げると、早速、その日のうちに眼科の診察に回してくれました。色々と検査した後で、女性の眼科医から手術の日程を決めようと言われたので吃驚、慌てて拒否したので、当分点眼薬で様子を見ることにしましたが、家に帰ってからぐったり疲れて寝込んでしまいました。小林よしのりの『「目の玉」日記』やジョイスの緑内障、親鸞の「眼も見えず候。なにごともみな忘れて候ううへに、ひとにあきらかに申すべき身にもあらず候ふ」などという手紙の文句も思い出されて暗鬱とした気分になりました。

    妻が秋らしく「おでん」を作ってくれたので、心身ともにあたたまる気がしましたが、テレビでラグビーW杯の日本ーサモア戦を見て、選手がぶつかるたびに力が入って見ているだけで、また、ぐったりしてしまいました。夜中に目が覚めて、長男にもらった赤霧島のお湯割りを飲みながら岩波文庫の『ブッダのことば スッタニパータ』を読んでいたら、その447~448番の詩句にまたまた吃驚、もとネタはどこかと探していたグスタフ・マイリンクの『ゴーレム』の冒頭の一節がそこにあるではありませんか。

    「一羽の烏(からす)が、一片の脂肪に見えている石のところに飛んでいった。そして、ひょっとするとこれは御馳走かもしれない、と考えた。だがそれがご馳走でないのを知ると、烏は飛び去った。石に近づいたこの烏のように、ぼくらは―ぼくら試しみる者は―苦行者ゴータマのもとを、彼に興味を失うと立ち去っていく」(白水Uブックス・今村孝訳)

    『スッタニパータ』を全部読んだ後で、日曜に図書館で、前から読もうと思っていたワールポラ・ラーフラの『ブッダが説いたこと』(岩波文庫・今枝由郎訳)を借りて読んでみました。著者のラーフラは、小乗仏教(テーラワーダ仏教)の牙城スリランカに生まれ、小乗仏教のみならず大乗仏教も研究し、さらにパリに渡って、西欧仏教学の深奥を極めたのちに、この西欧の読者向けの小さな仏教概論を著したのです。1955年刊行ですが、今もなお最良の仏教概説書と言われているとのことです。

    最初に記しておくと、私はむろん仏教徒ではないし、仏教に思い入れもありません。アレキサンダー大王はインド遠征で、全裸で生活するジャイナ教信者を見て胸を打たれたのですが、そのような感動は仏教にはありません。また、イエス・キリストは、教会で物を売る商人たちを追い払い、その屋台をひっくり返しましたが、そのような激しさも仏教にはありません。仏教は、妻と家庭と王国を捨てた一人の男が、六年間の放浪の末に、35歳で人生の意味を見出したと思ったそういう男の記録です。彼は80歳で死ぬまで45年間の長きにわたって、彼のまわりに集まってくる人びとに分け隔てなく、浮浪者にも富者にも遊女にも、自分が発見した「真理」について辛抱強く、繰り返し繰り返し、丁寧に教えました。

     彼の人生には奇跡も神秘も見出せません。迫害もされず、誰をも攻撃せず、磔にもならず、赤痢で衰弱し、弟子たちの傍らで死にました。所有物は何もなく、残したのは骨だけでした。苦しんでいる最中に、アーナンダに、料理を提供した鍛治工のチュンダが(自分の出した料理で具合がわるくなったことを)後悔しないよう慰めてくれと頼んでいます。また、アーナンダが、「尊師には、こんな(クシナーラのような)小さな町、竹藪の町、場末の町でお亡くなりになってほしくありません、王捨城やバーナラシーのような大都市なら富裕な王族やバラモンの信者も多く、尊師の遺骨を崇拝してくれるでしょう。」と言うと、ブッダは、「アーナンダよ、そんなことを言うな。(小さな町、竹藪の町、場末の町)などと言ってはいけない。」と言いました。彼の最後の言葉は、もろもろの事象は過ぎ去るものである、怠ることなく修行せよ、でした。

    「ブッダを、一般的な意味での『宗教の開祖』と呼ぶことができるとすれば、彼は『自分は単なる人間以上の者である』と主張しなかった唯一の開祖である。」とラーフラは書いています。「他の開祖たちは、神あるいはその化身、さもなければ神からの啓示を受けた存在であると主張した。」

   ブッダは、いつも、「自分の握り拳には何も隠されていない」と言っていました。つまり、彼の教えはバラモンがこっそり教えるような秘儀なのではなく、誰もが自分の努力と知性によって達成可能なものであり、ブッダが言ったように、「あなたたちは自ら歩まなくてはならない。タターガタ(真理を発見した者)はその道を示すにすぎない」のです。また、ブッダは、疑わずに信じてはいけない、物事を明晰に見、ブッダ自身の教えさえも自ら疑い、吟味するように諭しました。これは宗教史上まったく例外的なことだとラーフラは書いています。死の直前にブッダが弟子たちに言った言葉は感動的です。彼は、弟子たちに、あとになって疑問が晴らせなくて悔いることのないように自分が教えたことで疑問があれば質問するようにと言いました。「弟子たちよ、そなたたちはもしかしたら、師への敬意ゆえに質問しないかもしれない。もしそうなら、それはよくないことだ。友人に問いかけるように質問するがいい。」

 

   ところで、仏教とは何でしょうか。それは、「人生がドゥッカであることを正しく認識し、修行によってそれを克服し、ニルヴァーナ(涅槃)に至ることを目指す」と言えるでしょうか。ドゥッカとは一般に「苦しみ、痛み」と訳されますが、他にも不完全さ、無常、空しさ、といった意味もあります。人生が苦しみであるということは簡単には同意出来ないでしょう。なぜなら、人生には無上の歓びも楽しみも、また穏やかな安息の時も存在するからです。しかし、誰であれ、病・老・死別という宿業から逃れない限り、人生の基調は、いやその本質的な意味はドゥッカであるといって間違いないのではないでしょうか。

   よって、人生の真理は四つあり、それは、

   ドゥッカの本質

   ドゥッカの生起

   ドゥッカの消滅

   ドゥッカの消滅に至る道、に収斂されます。

   この克服には、まずそれをはっきり認識するしか道はなく、ゆえに無知が最大の障壁になります。逆に言えば、ドゥッカをしっかりと認識さえすれば、救済の道は容易に開かれます。「ドゥッカを見るものは、ドゥッカの生起を見、ドゥッカの消滅を見、ドゥッカの消滅に至る道を見る」のです。

    「ここから言えることは、仏教徒にとって人生はけっして憂鬱なものでも、悲痛なものでもない。本当の仏教徒ほど幸せな存在はない。仏教徒は、ものごとをあるがままに見るゆえに、どんなときでも穏やかで、安らかで、変化や災害によって動揺し、うろたえることがない。ブッダが憂鬱、あるいは沈鬱だったことはけっしてない。同時代人も『ブッダはたえず微笑みを湛えていた』と伝えている。仏教絵画や彫刻でも、ブッダはいつも幸せで、静逸で、充足し、慈しみ深く表現されており、苦しみ、不安、悲痛の片鱗さえ窺えない。」とラーフラは書いています。ブッダの高弟シャーリプトラが、まだ修行中のバラモンであったとき、道でにこやかな顔をしている修行者にあって、不思議になって問いただすと、ブッダの門弟だということで直ちに自分も仏門に入ったとのことです。

  どうでしょうか? 私はジャイナ教やゾロアスター教も好きだが、こう見ると仏教も捨てがたい。しかし、私は、どうも日本仏教には馴染めません。伝言ゲームではないが、インドで生まれた仏教が、シルクロードを通って中国にもたらされ、海を渡って日本に来る間に、そして平安、鎌倉と時代が進むにつれて、ブッダの教えとはかなり違うものに変質してしまっているように思えます。大乗仏教も、まだ、チベットやブータンなら理解可能だが、鎌倉新仏教になるともはや理解を超えています。妻帯僧侶など「スイスの海軍」と同じ矛盾語でしょう。阿弥陀仏や弥勒仏など、ありもしない仏をなぜ捻出するのか。仏とは、私には、ブッダ・ゴータマしか存在しないように思えるのですが。読経や写経など、意味もないことをなぜありがたがるのか。小乗仏教には墓がないが、そのために疑問のある戒名や法事にも無縁です。日蓮や親鸞は宗教者としては偉大かも知れないが、ブッダの思想とはあまりにも違って見えます。禅宗のみは、まだ微かに初期仏教の息吹を残しているが、それは、まだ自力救済を是としているからです。しかし、私の実家の檀家である禅宗の坊主を見る限り堕落しているのは明白で、酒を飲み、煙草を吸い、大きな寺院兼住宅を所有し、そっくり息子に世襲しようとしている、いやこれが普通なのでしょうが、ブッダが見たらどう思うでしょうか。

   かくいう私も、去年は年末にクリスマスを祝い、元日は家の近くの天照大神を祀る神明社という神社で手を合わせ、その足で中山法華経寺で鐘を打つ行列に並びました。昔の東京下町の実家でも、正月には父が、神棚に御神酒を並べ、その下の仏壇に水と果物を備えていました。初詣に出かける人びとの多くも、私の家とあまり違わない宗教意識を持っているのだと思います。私は、こういう態度には、神道も仏教も、つまり神も仏も馬鹿にする国民性があるのではと思います。みなし宗教とでもいうのか、偉い仏様が存在するかのように、あるいは八百万の神々が存在するかのように、いやどうでもよいが本気で信じて、野暮ったい詮索抜きで楽しんでいる国民性です。ホイジンガは確か『ホモ・ルーデンス』で、日本人は茶も華も書も皆~道にして真面目に追求しているが、その本性には、この世はすべて遊びであるという確信が存在する、などと書いていました。

    私の母は、長女を幼くして亡くしてからは、毎月21日には西新井大師に参詣し、子供供養の線香をあげていました。むろん、熱心に拝んでいましたが、目的の半分は物見遊山にあったと思います。縁日の屋台を覗き、私におもちゃを買ってくれ、参道の食堂でおでんや寿司をたべ、お土産に草団子の折をぶら下げて、私の手を取り、東武電車で帰る時の母はなんともいえず幸せそうでした。その一日をもう一度繰り返せるのなら、どんなによいことでしょう!

    国民性といえば、インドのそれも非常に変わっています。『スッタニパータ』に付けられた中村元の注釈は、たいへん役に立つのですが、インド人は一人で居ることを好み、また優れた記憶力を持っているようです。これが、瞑想や苦行を好み、ブッダの言行だけで棒大な量の記録を残せた民族性なのでしょう。ところで、仏教の重要概念に縁起と輪廻がありますが、ラーフラは縁起を条件付けられた生起と説明していますが、輪廻については西欧人にうまく説明するのを諦めたようです。輪廻は、独特の宇宙的な時間観念を持つインド人に特有の考えで、現実的な中国人はこれを全く拒否しました。日本人も同じように、この観念になじめず、その代わりに、如来蔵思想というか、本覚思想というか、人間を含めた事物すべてに仏性が宿るという思想にのめり込んでいったのです。ブッダの教えからどれだけ離れていったことでしょうか。

    私の思い出の中から、仏教的なものをつまみ出してみましょう。まだ、ずっと若い時、いわゆるシングルマザーである女性と深い関係になりかけたことがあります。最後に会ったのは、三軒茶屋から一緒に乗った世田谷線の中で、カーブを曲がる時キシキシーと音のする車内で、運転席の近くに立ち、窓にもたれて、その女性は、「もう嫉妬に苦しむのは嫌だから、残りの人生を穏やかに過ごしたい。」と私に言ったのです。電車は終点の下高井戸まで行って、京王線に乗る女性を見送りました。彼女はまだ28歳でした。あれから何年、いや何十年経ったでしょう。私は煩悩と我執にまみれた人生を送って来たのですが、今になるとその時の彼女の気持ちがわかるようです。ブッダが認めたように、欲望の果てにあるのは苦の世界だし、人生はドゥッカなのです。

   東京で事務所を構えて仕事をして何年か、同僚に20代で、明るくて誰にでもやさしい女性がいました。休み時間に、仏教の輪廻の話が出た時、彼女は「もう充分。また人生をやり直すなんて真っ平だわ。」と言ったのです。前向きに生きている女性と思っていたので驚きましたが、この時のことも、今考えると、仏教の真理を若くして体感した人間もいるのだということを知らされた驚きでしょう。

   さらにもう一つ。高校を出て20年ほどした後、昔の友人から電話があって、高校時代にグループでよく遊んだ同級生の女性の夫が40代で癌で亡くなった、と知らされました。四谷の会堂での通夜の席で、懐かしい友人たちと再会しましたが、焼香の長い列を待っている間、僧侶の読経が続けられている間も、同級生の女性は涙を堪えることもなく泣きっぱなしでした。その時は言葉も交わせなかったのですが、後に会葬のお礼の手紙が来て、その中で彼女は、読経をしてもらったが、それが何の役に立つのか、成仏とはいったい何なのだ、自分には全くわからない、と悲痛な気持ちが綴られていました。むろん、成仏とは大乗仏教的考えで、本来のブッダの教えとは少しも関係ありません。

   思い出したことを、よるべなく書き散らしてしまいました。仏教で尊敬すべきは、その慈悲心でしょう。それは生命あるものへのブッダのやさしさなのです。また書き忘れたことを思い出しました。仏教は無我を目的にするが、それはウパニシャッドのアートマンと正反対です。ウパニシャッドはアートマンの中に究極のブラフマンを見出すのです。それに反して、仏教はアートマンを否定し、アートマンの消滅を目指します。無我も涅槃も私のような俗人かつ凡夫には無縁で、どちらかというと、私はウパニシャッドの真理に与したいと思います。

  ここまで書いて、防災速報から台風19号の避難勧告のメールがきました。すぐ近くに川があるので、万一とは思うが、氾濫の危険を考えて、近くの小学校の体育館に避難することにしました。ペットも可でしたが、避難先でのストレスが心配なので飼猫は残しておくことにしました。この猫の運の良さと賢さに賭けたのです。体育館への避難は初めてで、けっこう準備が大変でした。妻がサンドイッチ、私が弁当を作って、激しくなった雨の中、午後3時ごろ出発しました。こんな時、私はいつも不安で体調を崩すのですが、妻は「お弁当が楽しみだね」などと言っています。避難人数は100~150人ほどで、余裕をもって場所を確保できました(毛布が一人一枚ずつ支給されました)。私はすぐに毛布を掛けて横になってしまいましたが、妻はサンドイッチと弁当とデザートのチョコレートまで食べています。小児が走りまわってなかなか寝付けず、夜に入って地震も起こったので、これは東京湾でゴジラが暴れている時に小田原にアンギラスが出現したようなものだと思いました。夜の9時にお茶のペットボトルと菓子パンが配られましたが、その後すぐ風雨が強まり、体育館の窓が揺られて、間欠的に咆哮のようなうなりを上げています。1時間ほど続いて、急に静かになったので、様子を見ながら11時半ごろ荷物をまとめて帰り支度をしました。外は暗かったが、海が凪いだような穏やかな感じ、道には枝が落ち看板が倒れていました。猫は毛布の上に座って私たちの帰りを待っていました。熱い湯に入り、グイッと飲む冷たいビールが美味しくないはずはありません。朝になって、千曲川が氾濫して長野市も被災したニュースにまた驚きました。東北にも被害が及び、結果的に千葉がもっとも軽微に済んだとは何となく申し訳ない感じです。昔の友人たちも無事だったでしょうか?

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岩波文庫の三冊。この三冊でブッダの何たるかは十分にわかるでしょう。

 

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