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2019年9月17日 (火)

アドルノ『キルケゴールの愛に関する思想』

「キルケゴールの愛に関する思想」はアドルノ『キルケゴール  美的なものの構成』(1974イザラ書房、三浦永光・伊藤之雄訳)の補論として付けられたものです。

      「主体性が真理である、というキルケゴールの命題は、真理は信仰の生きた過程の中にその本質をもつ、ということを意味している。彼の哲学的著作活動は、この実存的な真理体得の過程を、その諸段階に於いて示すことを試み、読者をして諸段階の弁証法を通り抜けて神学的真理にまで導くことに努めているが、そうしながら彼は始めからこの過程に対して『矯正的(コレクティーフ)な力』として積極的(ポジティーフ)キリスト教的なものを対置する必要を感じていた。」

        この積極的キリスト教にあたるものが1847年出版の『愛の本質と働き』という宗教的講話集で、キリスト教的愛に関する聖書釈義なのですが、彼の哲学的著作が否定的神学とすれば、その講話集は積極的神学を、批判に対して愛を、弁証法に対して単純率直さを対置させる試みにほかなりません。キルケゴールの哲学的著作をいくつか読んだ人なら分かるでしょうが、その文体は反省的というか、率直さとは程遠く、くねくねと論理の筋道を辿りながら、饒舌さ、同じことの繰り返し、思いついた例え話、錯雑と混迷を極めていて、いわば読者を真理の中へとだまし入れようともくろまれているかのようです。それに反して、キルケゴールの宗教的講話は、単純さをよそおうことで読者がだまし込まれることを困難にし、真理を面白くもない、できるだけ魅力のないものとなそうとし、一般にキリスト教なるものについて警戒させ、むしろ遠ざけようとするかのようです。

      これは、かのパウロの時代に、ユダヤ人には躓きとなり、ギリシャ人には愚かさとなったキリスト教的逆説、つまり、いと高き所にいますキリストが、実際は、賤しさのままに現れ、貧困と不遇のなかに苦しみの生涯をおくり、辱められ、嘲られ、唾をかけられ、人びとが彼から遠ざかろうとした、まさにその躓きの石を思い起こさせるのです。それは、人びとが、遠ざかるというより、 むしろキリストから突き放され、そうすることでキリストが除き去ることを欲した多くのものがあらかじめ取り払われるのです。この巧まれた躓きと愚かさが、キルケゴールの宗教的講話の基調をなしているのです。

         彼は「汝愛すべし」というキリスト教的戒めから出発します。そして、この戒めを解釈する際に、その抽象的普遍性のみを強調するのです。愛の対象は、ある意味でどうでもよいものとなり、他者というものは、キルケゴールの哲学にとって外界全体が意味しているもの、つまり主観的な内面性にとってたんなる「機縁」となってしまうのです。「永遠の前で義とされる」という彼の思想によると、愛の内実が「キリスト教的」であるか否かを決定するものはただ、愛する主体の主観的な性質、つまり無私、限りない信頼、目立たぬこと、実際には無力で助けることができないにしても憐み深くあること、自己否定及び誠実さ、などです。「主体性が真理である」という命題の意味することの一端はここにあります。

         キルケゴールにとって、愛は自然を打破することによってのみキリスト教的となります。つまり、愛は自己の直接的衝動を打破し、この直接的衝動を神に対する精神的な関係に換えることによってキリスト教的となるのです。友人や恋人への特別の愛(自然的愛あるいは偏愛)が否定され、偶然に出会った者をその抽象的な出会いの中で愛すべきと主張されるのです。さらに、すべての利己心も打破されねばなりません。「幸福への思念は最悪の歪曲としてこの愛から遠ざけられる。そして永遠の幸福についての彼の語る調子は陰うつになり、そのため永遠の幸福は、すべての現実的な幸福の追求を放棄することにほかならないかのようである。」

         「汝愛すべし、などの戒めの意味はキリスト教的には、広く一般に行われているいわゆる『正義』を突き破ることにほかならない。道徳的生活を罪責と贖罪との間の完結的な連関と考える観念を突き破ることを意味する。罪責と贖罪とは等価概念であり、いわば互いに交換可能なものである。キリスト教的愛は、運命をそのような無際限な罪責関係として捉える神話的な運命観に反対する。 」

          しかし、ここに一つのアポリアがあります。愛は命ぜられることができないという矛盾です。だが、ヘーゲル主義者としてのキルケゴールにとって、戒めの中核となるのは正にこの不可能性であって、戒めの遵守ではありません。愛は命ぜられることができないがゆえに「汝愛すべし」なのです。キルケゴールの愛についての教説が「愚かなもの」また「躓きとなるもの」として述べられていることを思い出しましょう。キルケゴールの言葉を借りれば、それは「無限性に突き当っての有限性の難破の苦悩」なのです。

        キルケゴールはつぎに、「汝隣人を愛すべし」という戒めに言及します。彼は、隣人とは誰であるかであるかを問うて、次のように答えます。「隣人とは本来、君自身の自己の二重化なのだ。隣人とは哲学者らが『他者』と名づけるであろう所のものであり、自己愛をとおして自己的なものがそこで明らかになるべきものである。愛がこのように抽象的思考であるがゆえに、隣人は全く存在する必要さえないのである。」

        隣人というものの抽象性は、神の前におけるすべての人間の平等性の表現として称賛されます。「どの人間も隣人である。彼は、神の前では君と平等であるがゆえに君の隣人なのである。」隣人が普遍的人間的なるものへと還元されることにより、隣人は偶然的性格を帯びてきます。「君が部屋の中で神に祈った後、扉を開けて外に出るとき、君が出会う最初の人間、それが君が愛すべき隣人なのである。」

       この隣人についてのキリスト教的愛に対してフロイトは『文化の中の不満』でつぎのように書いています。「選択しない愛は、その対象を不当に扱うことになるため、その愛自身の価値の一部を失うように思われる。そしてまた、あらゆる人間が愛されるに値するわけでもないのだ。」

       ところで、福音書における隣人は単純な家内経済の生活を営む漁夫や農夫であり、又牧人や取税人たちでした。「これら具体的な、つねに親しんでおり、誰にでもすぐわかる隣人というものが、福音書において、隣人一般という抽象的理念へと変えられたとは、我々には考えられない。キルケゴールは人間という一般概念を、彼自身の時代、すなわち発展した市民生活の時代から作っている。そしてその概念をキリスト教的なものへとすりかえるのである。」

       これは決定的なすりかえで、キリスト教的隣人愛は、人との直接の交わりをはじめて可能にするところの活き活きした具体性を失うのです。アドルノは、このすりかえの中に、後期資本主義社会が直面した新しい人間と社会の関係を読み取ります。社会は画一化され、物象化(人間同士の関係が物と物との関係に置き換えられること)は隅々まで貫徹し、すれ違う隣人はほんの数秒だけ意識を通り抜ける、あたかも存在しない「対象」に過ぎません。キルケゴールは、ポオやトクヴィルやボードレールと同じく、19世紀前半に起こりつつあったこの世界そのものの変化を敏感に感じ取った思想家の一人なのです。

        さらに、神の前での隣人の絶対的平等の概念があります。隣人の抽象化は、人間全般への平等を呼び起こすはずです。しかし、キルケゴールは社会的不平等を是正するかわりに、いや、すでに平等は実現しているのだと断言します。「キリスト教はそのようなものに一切関わらない。キリスト教は永遠をもたらし、直ちに目標に到達するのである。それは一切の差別を存続させるが、しかし永遠の平等性を教えるのである。」

        ここにはキルケゴール独特のイロニーがあります。彼は、ブルジョワ的平等論が、単なるイデオロギーにすぎないことを大変よく知っています。ブルジョワが提唱する神のもとでの平等が、現実の不平等をそのままにして維持するためにやっていることもよく知っています。

        「彼は福祉という概念に対して痛烈な嘲笑を浴びせる。」とアドルノは書いています。「そこには、福祉という形で人間に与えられる幸福そのものが貧弱であることについての知がいく分か含まれているのである。」キルケゴールが繰り返し掲げる要求、つまり「キリスト教との関係に入るためには、人は先ず冷静で醒めていなければならない」という要求もこのことと関係するのです。冷静さは陶酔の幸福を奪う。しかし、とアドルノは決定的な言葉を書きつけます。

        「冷静さの戒めの背後には次のような深い意識が含まれている。つまり、個人の個別化と特殊化のあらゆる特徴の中に不正が全般的に浸透しており、この不正のために、本来その人間が現在とは異なったあり方ができたかもしれないのに、これ以外のあり方ができなくされてしまっているということ、それゆえ、究極的には、人間と人間との間のもろもろの差別などというものは決定的でないということ、このような意識である。」

       「異なったあり方ができたかもしれない」これが、キルケゴールのキリスト教的愛の根底にある思想です。彼は世俗的なもの一切を切り捨てるのですが、この世俗的なものに対抗して立てる対立概念は、単に現存しているものに対抗して確保されねばならないとする「可能性」の概念です。

       「(キルケゴールの)可能性の教説は先ず何よりも『知』を攻撃する。彼が闘いの相手とした知は、いままでそうであったし、将来もそのままであるに違いないものについての知である。」この知にたいして希望としての可能性が存在します。キルケゴールによれば希望とは「可能性の感覚」のことです。「ところで希望は残った。しかし、この希望は人を愛する者にのみ残ったのである。しかし、これに反して、人間に精通している者、すなわち人生が過去においていつもどんな風であったか、またいつも必ずどんな風にならざるを得ないかを知っている者は、悪への親近性を密かに持っているのである。」これは心理学者キルケゴールの鋭い洞察の一つである、とアドルノは書いています。

         キルケゴールの愛についての思想は「我々は如何にして愛をもって死者たちのことを想うか」という講話で頂点に達します。死者への愛は、愛に対して愛をもって答える生きた人間を、いや、そもそも主体性なるもの一般を排除する愛であり、一般にそれは物神崇拝(フェティシズム)的な愛そのもであるように見えます。しかし、それは同時に、交換、すなわち対価を要求する思考を排除するする愛でもあります。今なお生き生きした愛は死者へ愛のみだということは一種の逆説でしょう。

       キルケゴールは死を「あらゆる錯覚を根底にまで考え抜くのみならず、思考によって根底の中へと入り込む所の強靭な思想家」と呼んでいます。これは、死を老船長と読んだボードレールを思い出させる、とアドルノは書いています。二つの比喩とも、死の体験という逆説的な事柄が、可能にして不可能なものdas MöglichーUnmögliche を保証するというのです。  

 

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18歳のアドルノ。フランクフルト大学で哲学、社会学、心理学、音楽理論を学び始めた。

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左がイザラ書房版『キルケゴール  美的なものの構成』1974。右が新訳のみすず書房版『キルケゴール  美的なものの構築』1998

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