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2019年9月17日 (火)

アドルノのキルケゴール論

    深夜、我が家の猫のルーミーはオットマンの上で長々と寝そべっています。妻は隣の部屋で寝息をたてているはずです。私は、肘掛け椅子に深く腰を埋めて、ジャック・ダニエルを注いだ氷のグラスを揺らしながら、書庫の本を眺めています。ふと、遥か昔に読んだアドルノの『キルケゴール』を読みたくなって書棚の奥を探すのですが、見当たりませんでした。イザラ書房のその本は、たしか長兄に池袋の盛林堂あるいは大盛堂で買ってもらったものでした。翌日、妻と二人で書庫中の本を大捜索しましたが、やはり見つかりません。2年前に大掃除をして、ダンボール14箱分の本を捨てたのですが、その時捨ててしまったのかも知れません。「アドルノの本は捨てないよ」と妻は言うのですが、あるいは私が間違えて捨てたのでしょう。しかし、そこで諦めがつきました。市内の図書館に無いので、都内の図書館から『キルケゴール 美的なものの構成』(1974イザラ書房、三浦永光・伊藤之雄訳)を、また県立図書館から新訳された『キルケゴール 美的なものの構築』(1998みすず書房、山本泰生訳)を取り寄せてもらって読んでみました。

       キルケゴールというと、ずっと若い頃に読んだ『死にいたる病』の一節が思い出されるのですが、それは、たぶん、こんな話でした。地下一階と地上一、二階の家に住む人がいて、しかし、その人はなぜか常に地下一階の部屋にしか居ないのです。地上一階の方が陽当たりがいいよ、とか、二階は見晴らしがいいよ、とかすすめるのですが、どうしても地下の部屋を離れません。実は、この住まいは人間そのものを表していて、地下は美的な生き方(享楽的な独身者の生き方)一階は倫理的生き方(妻帯者の真面目な生き方)二階は宗教的生き方(キリスト者の生き方)の比喩になっているのです。

       人間は成長するにつれ、美的な生き方から倫理的、そして宗教的生き方へと上昇して行くのでしょうか。これら三段階の生き方は、極端には、単独者、実業家、殉教者と分類されるのですが、キルケゴール自身も、そして普通の人たちも、地下から二階までふらふらと行ったり来たりしているのではないでしょうか。

       地下にこだわって、そこから離れない人は、そしてこれが『キルケゴール  美的なものの構成』のテーマの一つなのですが、仮象(シャイン)の中に、真理から遠く離れて生きているが、倫理的及び宗教的生き方と違って「希望」を持っているのです。『人生行路の諸段階』(1832)は、まさにこの三つの段階について述べられているのですが、その第1部「酒中に真あり」でこの美的生き方が象徴的に表されています。「酒中に真あり」は、ヴィクトル・エレミタやコンスタンチン・コンスタンチウスや沈黙のヨハンネスなどキルケゴール作品には馴染みの仮名の人物など五人が森の中の館に集まってワインや美食を楽しみながら、プラトンの『饗宴』さながらに、恋や女性について談論するのです。

        饗宴の後、「コンスタンチウスは主人として別れの言葉を述べ、五台の馬車が用意してあるから、めいめいが自分の気分にしたがって、ひとりであろうと一緒であろうと、どこへであろうと誰とであろうと、行くがよいと彼らに言った。」すると、「その時、打ち上げ花火が一度にさっと打ち上げられ、一瞬、全体がまとまったまま空中にとまったかと思うと、次に火花を散らして四方八方に飛散した。」

       この謎めいた文章についてアドルノはこう書いています。「美的な領域の理念も同様である。この理念は、主体的な弁証法から自由であり、むしろ主体的弁証法に遥かにまさって光っている。この理念は、全体が仮象として、瞬間の永遠性の中にとまっている。」と。

 

        『キルケゴール  美的なものの構成』はアドルノ26歳の時に書き上げ、フランクフルト大学に提出された教授資格論文です。1933年に出版されましたが、まさにそれはヒトラーが独裁権を掌握した日でした。検閲官によって発売禁止にならなかったのは、その難解さが検閲官の理解を超えていたからと言われています。難解というより、アドルノの思想の幼芽を豪勢にぶちまけた感じで、後に展開される「星座」「和解」「自然支配的理性」などといった夥しい概念の洪水に圧倒される感じです。これをまともに論じるのは大変で、そこは素人の気軽さ、1963年の第二版に補論として付けられた『キルケゴールの愛に関する思想』(イザラ書房版)について前回の記事で感想を述べてみたのですが、さらに、1966年の第三版にさらに補論として付け加えられた『キルケゴールいまひとたび』(みすず書房版)について一言書きましょう。これは1963年にアドルノが行なった講演で、キルケゴールの「勝利」について書かれています。なぜ「勝利」 なのか。というのもキルケゴールには勝利は許されないからです。1854年に、つまり死の一年前に、キルケゴールがデンマーク国教会に向けて行った激烈な攻撃はよく知られています。国教会が、ミュンスター総監督の死に際して彼を「真理の証人」と呼んだことはキルケゴールには我慢のならないことでした。ミュンスターは、国教会の長として、並ぶもののない権威ときらびやかな栄光に包まれて死にました。それが「真理の証人」という別称に相応しいことでしょうか。キルケゴールはこう書きます。

        「『真理の証人』とは、貧の中にあって真を証しする人である。貧しく、軽んじられ、辱しめを受け、さらには誤解され、憎まれ、嫌われ、またさらには罵られ、蔑まれ、嘲笑されるーそしてついに、彼は十字架にかけられ、あるいは首をはねられる、、、(中略)キリストは使徒と弟子たちを証人と呼び、彼らに自分を『証し』せよと命じた。その男たちはすべてを捨て去り、貧しく、蔑まれながら、あらゆる苦難をいとわず、そして外の世界へと出てゆかねばならない、キリスト者に対して生死をかけて対立する世界へと。これをキリストは『証しする』『証人となる』と呼んだのだ。」

       キルケゴールが、これほど強い調子で論難したのは、彼自身その資格があったからです。彼はコペンハーゲンでも有数の金持ちの家の末っ子として生まれましたが、父の死後、家産を食いつぶし、貧乏になり、路上で昏倒し、病院に運ばれて42歳で死にました。産を資として利を得ることは彼のキリスト教が絶対に許さなかったのです。「思いどおりにこの世で敗北しおおせた男が、自分の作品の行末に、別の途を期待し、望んだはずはなかろう。」とアドルノは書いています。「彼が自分の著作の中に化肉していると考えた真理がこの世のうちで勝利するなどということを、彼自身の勝利を許さなかったように、決して許しはしまい。死後に強い影響を残すかもしれぬ、という想像も、彼を幸せにしたとはとても思われない。一切を同時性の中へ、瞬間の中へ投げ入れた彼が、この世に望んだ以上の何を、後の世に望みえただろう。」

       ところが、この特異な思想家は、死後数十年経った後、同じデンマークのすぐれた文学史家ゲオルク・ブランデスの注意をひきました。しかし、彼はキルケゴールに魅了されてしまうことはなく、後の研究者たちと比べて囚われることなく、むしろ批判的にキルケゴールを見ていました。1920年頃になって、キルケゴールは、まずプロテスタント神学者たちの心を捉えました。バルトをはじめ弁証法神学は、挙げてキルケゴールに「まねびて」ゆく人々だった、とアドルノは書いています。影響は次に哲学に及んで、ハイデガーやヤスパースがキルケゴールの実存概念を彼らの人間学的存在論に組み込んでいきました。ヤスパースはこう書いています。「キルケゴールを欠いた哲学など今日では不可能だ、と私には思われた。私の目に映った彼の偉大さは、ニーチェと並ぶ世界史的地位を占めていたのである。」また、清水書院のセンチュリー・ブックスの『キルケゴール』の表紙には、王立図書館の庭にあるキルケゴールの彫像の写真がのせられ、その下に「世間の嘲笑のうちに淋しく逝ったこの孤独な哲学者は、今や、現代実存思想の開祖とあがめられて、コペンハーゲンの王立図書館の中庭から全世界の思想界に君臨する、一方の雄となっている」と記されています。

        「世界史的地位」「開祖」「君臨」などキルケゴールの軽蔑する言葉が並んでいます。彼はついに「勝利」したのでしょうか。アドルノは「勝利」は実は敗北であった、と言っています。キルケゴールは「あがめられる」ことなど望んでいず、ましてやいくつもの銅像が建てられることなど心底唾棄したことでしょう。世界中の研究者が飯の種にし、それで結婚し、不動産を持ち、大衆向けの解説書を書き散らすことを見たら呪いの果てに卒倒したことでしょう。しかし、あの小さな、可愛いレギーネにだけは、彼の死後半世紀近く生きて、その名声がゆっくりと醸成しつつあるのを見た愛するレギーネにだけは、彼の思い出を語るのを許したことでしょう。

      「最も幸福な実存とはどのようなものであろうか。それは16歳の若い女の子が、純粋無垢で、この世界に自分の自由になるものを何一つ持たず、自分の部屋も、自分の衣装箱も持たずに、ただ彼女の宝のすべてである堅信礼用の服と賛美歌の本をお母さんのたんすの中にしまっている、そのような女の子の実存なのだ。」(『人生行路の諸段階』)

     ここには、むろん、レギーネ・オルセンへの思いの照り返しがあります。キルケゴールはレギーネに惹かれ、婚約するが、11ヶ月後に破棄します。理解不能なものはそこにはありません。苦渋の決断であることは間違いなく、キリスト者であろうとする意志は結婚という市民的幸福を許さなかったのです。「時間の中では、このような具合である。さて、永遠に関して言うならば、私たちが永遠に於て互いに理解し合えること、また彼女がそこで私をゆるしてくれるだろうことを、望んでいる。」幸運にも、長い年月の後にレギーネは彼を理解し、許したように思われます。穏やかで幸福な結婚生活(夫はやさしい人間で、コペンハーゲンの市長になり、枢密顧問官にもなった)が夫の死で終わった後も、彼女は「キルケゴールのかつての婚約者」と呼ばれることを苦痛とは思わなかった。むしろ、人がそのことに話をむけると、活き活きと嬉しそうに、このデンマーク最大の思想家についての思い出を語るのでした。

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若き日のキルケゴール  (中公・世界の名著より)

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