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2019年5月31日 (金)

モンテルラン『欲望の泉のほとり』

 

    ルキアノスは「ペルグリノスの昇天」(岩波文庫・高津春繁訳『遊女の対話』所収)で、現在に至るも随一のペルグリノスの伝記を書いています。ルキアノスは、しかも、ペルグリノスの死んだ時、その現場にも居合わせていたのです。ペルグリノスの命日は正確に紀元後165年で、おそらく、彼は60歳半ばで亡くなったと思われます。

      哲学者ペルグリノスの確実と思われる史実は、まず姦通罪で捕縛されるが、尻の穴に山葵を刺したまま屋根から飛び降り脱走して助かりました(2世紀のアテネでは姦通者の尻に山葵を刺したと言われています)。それから、しばらくして、アルメニアの美少年と淫行しているところを現行犯逮捕されますが、少年の家が貧乏だったため三千ドラクマで和解しています。その次は重い罪で、彼は自分の父親が60歳になったという理由で首を締めて殺害してしまいます。故郷を追われ、各地を転々とするが、なぜかペルグリノスはその間にキリスト教に入信し、膨大な知識を蓄えて、信者たちから敬われました。しかし、むろん、ローマ帝国から迫害され、捕らえられますが、信者たちが津々浦々から彼を救うために集まりました。シリアの総督は哲学を好んでいたので、ペルグリノスを釈放し、彼はしばらくは信者たちの有り余るほどの喜捨で楽に暮らしたということです。

       その後、彼は戒律のようなものを破ったということでキリスト教を追われ、故郷の家に帰りますが、かつての父殺しを忘れていない土地の人たちから追い詰められ、石打ちの刑に処せられる直前に、父の遺産を皆に分割して分け与えると約束して放免されます。(その後、遺産を取り戻すべく訴訟を起こしますが却下されてしまいます)。ペルグリノスは、今や、昔の信条へ、つまりアンティステネスやディオゲネスに端を発する犬儒派の哲学に戻りました。しかし、犬儒派の哲学は盛期を過ぎて、鋭い批判精神は影を潜め、奇矯な振る舞いでかろうじて人々の興味を引いていたのです。ペルグリノスは顔に泥を塗り、ズタボロの袋を抱え、全てに無関心を装い、公衆の面前で局部を勃起させ、その他、人目を引くようなあらゆることを行いました。

       ペルグリノス(変幻自在ということでペルグリノス・プロテウスとも呼ばれた)は、またローマに赴き、皇帝の施政についてあれこれ文句を並べ、しかし案の定相手にされず、仕舞いには民衆にも飽きられ、石もて追われるごとく地中海世界を彷徨いました。

       もはや自分は誰からも忘れ去られるに違いないという恐怖から、彼は最後の賭けに出ます。死さえも無関心であることを証明するために、次の四年後のオリンピックの時に火の中に飛び込んで死ぬと宣言したのです。予告自殺は何よりも衝撃的です。期限が迫ってくると、「死なないでくれ」とか「約束通り決行しろ」など民衆の声はうるさいまでに盛り上がります。すでに、ペルグリノス自身の手で、オリンピック会場の近くに掘った穴に芝や薪が積まれています。決行前夜、逃げ出しはしないかと監視する人々がペルグリノスの住まいの周りを囲んでいます。夜、ペルグリノスが最後の散歩にでると、野次馬や信奉者や仲間がぞろぞろついて歩きます。ペルグリノスは、歩きながら遺書を小声で口ずさんでいます。

         いよいよ決行の夜、ペルグリノスと仲間たちが松明を持って自殺の場に向かいます。むろん鈴なりの人。ペルグリノスはいったん躊躇したように後ずさりしますが、意を決して松明を穴に投げ込みます。火は一気に燃え上がり、同時にペルグリノスは「俺は俺の天才に身を任すんだ」と叫びながら火中に飛び込みました。

 

        「そこに何の偉大さがあろうか?」とルキアノスは書いています。彼は友人に誘われて、この場に赴き「悪臭鼻をつく愚かな老いぼれの丸焼き」に立ち会いました。「これがあわれむべきペルグリノス・プロテウス、要約すれば、真理にはいまだかつてその眼を向けず、名声と大衆の賞賛とを目的に、常に語り行動して、その挙句に賞賛の声がきかれなくなって、もはやこれを享受することがあるまいと思った時に、火の中に飛び込むことさえやった男の最後だった」と。「ペルグリノスを賞賛するような狂人は軽蔑せよ。」これがルキアノスの結びの言葉です。

 

       「ところで私はまさしくその狂人の一人だ」とモンテルランは『欲望の泉のほとり』(ダヴィッド社・望月芳郎訳)所収の「ペルグリノスの死」で宣言します。「ルキアノスよ、この言葉こそ、君を軽蔑するのに好都合な証拠である。私は、ペルグリノスの行為に対して首(こうべ)を垂れることに躊躇しない。こんな立派な行為は悪毒に満ちた今日のものではない。」しかし、ルキアノスの下した評価は、18世紀間ゆるぎなく通用して来ました。一人ぐらいペルグリノスを擁護する人間がいそうなものですが、「ところが、そう云うものは一人もいない。全く一人もいないのだ。この完全無欠な自己犠牲を前にして一人もいないのだ。」

        私は、元々、ルキアノスは好きではありません。常識的で深みがないからですが、モンテルランの辛辣な筆法に我が意を得たりと思いました。「ルキアノスは小人であった。彼の理解力の程は、あまりにも低くて、諸君に驚異の叫びを挙げさせるほどであるし、彼の軽蔑は常識の果実であり、また鈍感の果実である。」

 

       さて、モンテルランの「ペルグリノスの死」は、この18世紀間に及ぶ誤解を正し、正義の人としてのペルグリノスの名誉を回復することでした。ペルグリノスは、青年時代に、女性や少年を愛したが、この快楽は多くの支障に災いされていました。彼はそのために投獄すらされたのです。また、問題となった父殺しは、同情的に考えるなら、善良だった老人が子供同様の愚鈍に戻り、もはや心から尊敬することができなくなるのが子として耐えられなかったのだろうとモンテルランは書いています。ペルグリノスが、打算からキリスト教に改宗したのは明らかで、彼はこれにより貧民、奴隷、孤児、娼婦など、つまり社会から虐げられた者たちからの大いなる支持を得ることができたのです。

        そして、急場しのぎの権威が色あせてくると、彼は直ちに還俗し、ローマに赴いて皇帝の政策に対して矢継ぎ早に直言します。当時の皇帝は賢帝マルクス・アウレリウスでしたが、彼の一年に52回行われた「善意の週」の運動は、結局ローマを弱体化させたのです。皇帝はペルグリノスの直言を許さず、追放しましたが、ペルグリノスにとっては、世に入れられぬ苦い喜びはあらゆる貴族精神の持主同様快い味であったのです。

 

      しかし、やはり、人々から忘れ去られるのは辛い。彼はすでに60歳になっていました。「私は60歳だ。私は人の評判になったけれども、名誉は得られなかった。そして今もう名誉を手に入れるには時すでに遅い。」「ある日、突然天啓が彼の頭にひらめいた。しかし、それをするにはもう遅いのじゃないだろうか。いや、そんなことはない! 人生で失敗した人間だって、死から成功を獲ち得ることができる。知識や徳行は永遠に功罪が論じられる。しかし、イデアに捧げられた死に対し、いったい誰が首(こうべ)を垂れぬだろうか。やってしまえば、もう永久に正義は自分のものだ。」

 

       「彼は何も避けたのではないし、人生はやはり楽しいものであることを知っていた。ペルグリノスは生命を愛し、しかも生命を捧げてしまった。なぜなら生命より自分自身の方をずっと愛していたから。ああ、やはりこの考えは驚くべきものである。彼は自分を愛していたし、自分の錯乱を愛していた。その錯乱を彼は私に伝える。どうだ、われわれも一緒に錯乱におちいろうではないか。魂に着せる狂人拘束服などありっこないのだから。」

 

     このことは、1972年9月21日、パリで76歳でピストルを口にくわえて自殺したモンテルラン自身を思い出させます。右手にピストル、左手には念のために青酸カリのカプセルが握られていました。日射病による脳梗塞の発作、階段から転倒しての左目の失明、やがて右目も見えなくなり、自殺の自由さえ失われる前に、彼は人生に決着をつけたのです。

 

       アンリ=マリ=ジョセフ=フレデリック・ド・モンテルラン(長いので普通はアンリ・ド・モンテルラン Henry de Montherlant と呼ばれる)は、1896年パリに生まれました。父も母も貴族の出で、父親は早くに死んだが、母と祖父母の手で厳格なカトリック的雰囲気の中で育ちました。非常に裕福な家庭で、モンテルランが労働して暮らした形跡はありません。二度婚約し、二度とも婚約解消しています。常に物事の表裏を公平に見つめ、しかるが故に特別な信条に与するところなく、カトリック的無神論者とも呼ばれるが、正確には快楽主義者、またバレス信奉者らしく自我絶対主義者でもあります。

       モンテルランには、小説、戯曲、エッセイ、それに一編の詩集があって、プレイヤッド文庫の三巻にまとめられています。後で簡単に紹介しますが、小説と戯曲はほとんどすべて面白い。20世紀フランス文学では出色の面白さです。この『欲望の泉のほとり』Aux Fontaines du Desir(1927)は31歳の時のエッセイ集ですが、すでにこの作家の全精神が現れているようです。

 

        まず、序文で、モンテルランはこのエッセイ中の文章も含む200枚の原稿をチュニジアの首都チュニスの平原に紛失したことを明かします。四ヶ月にわたる労苦が水の泡になったことに衝撃を受けて、彼は新聞に広告を出し、発見し届けてくれた人には一枚に50フランの報酬を提示しました。翌日、彼が現場にいってみると、人、人、人でごった返していて、皆夢中になって原稿を探しています。結局、50枚ほどしか回収できず、残りはヤギに喰われたか、河に流れていったのだろうとのことです。

 

     出だしから悲惨な感じですが、最初のエッセイはロマン・ロランへの呼びかけです。「良心の上位には何ものも置かぬロマン・ロランよ。あなたは確かに次のようにお書きになった。」とモンテルランは書いています。「人類は偉大な魂が集まった交響楽である。その中のある要素を破壊してしまわなければ、この交響楽を理解できない人間は、自ら野蛮人であることを暴露している。」これに対して、モンテルランはこう言います。「しからば、あなたは帝国主義という一要素を破壊しようとなされば、やはり野蛮人ということになりますね。」「ロマン・ロランよ、限定された一事だけにしか善を見出さず、その他は悪の掌中にあるとしか考えない創造などあまり愛してはならないのです。」

      世界精神、人間精神の擁護者であるロマン・ロランは、『戦を超えて』(1915)で、二つのドイツ、つまりゲーテとアッティラのドイツ、〈光のドイツ〉と〈闇のドイツ〉を対立させています。そして、ゲーテに与しない人間は、人間の名に値しない、と言い切ります。しかし、「ゲーテもアッティラも同じ宇宙のエネルギーから生まれたものである。宇宙の美や偉大は諸君が善と呼び、悪と呼ぶものの両方から作られたものである。」とモンテルランはいっています。

        彼の立場は、道徳におけるいかなる態度も退け、相互に対立した道徳的態度を〈すべては真実である〉として一様に受け入れることにあります。「人間であることは、人間のあらゆる生き方を理解することだ。」しかし、そのような力技、壮絶な〈綜合〉 は実際にはきわめて困難でしょう。この苦悩を彼は「綜合がもし、全く困難であるならば、転身によって人生のすべてを味わおう」という決意で乗り切ろうとします。「哲学者ペルグリノスは、その時代の人々にプロテウス(変幻自在の神)と呼ばれるほどいろいろな人格を転換した後に、自己を永遠のものとするため、魂も肉体もふたつながら焼き尽くしたのである。」

      次は、この書中でもっとも重要な一節です。「書物を読めば明らかだが、最初の天使は頭に可愛い羽を生やし、浄らかな心と魂を持ったクラシックな小児ではなかった。角に力がみなぎり、勃起した生殖器に本能が満ちあふれ、固くうずいた肉からは、天上の神のもとに飛んでゆける、強い大きな翼が生えた有翼牡牛であった。それ自身転身するものであり、収縮と膨張である自然は、人間が望むと望まぬとにかかわらず、同時に、というより交互に、彼の内部において、野獣と天使を、肉体的肉欲的生命と知的精神的生命とを交代させるであろう。人間の価値は、自己に無知なためこの本質的な生命の躍動を否定することをやめることにある。この躍動をはっきり認識し、自然の腕に抱かれて睡るように、その躍動に身を投じることに人間の価値はあるのだ。」

 

      二番目のエッセイは「バレスは遠ざかる」と題されています。少年時から熱狂的なファンであったバレス、そして現在も20世紀最大の作家であると信じるバレスから、自ら遠ざかろうとする記録です。バレスとは親友でもなかったし、彼には手紙の返事もくれなかった。しかし、バレスが死んだ時、涙はとどめようもなく流れてくる。「しかし、何のために涙を流しているのだろうか? 偉大さに対してである。戦争で男が男のために流す涙と同じこの涙。女たちよ、分かるか? 心が流せなかった涙を、魂が流すということを。」

 

    そして、モンテルランはバレスが訪れたトレドを訪れ、バレスが歩いたタホ河の左岸を、バレスが一人静かに祈っていた聖光キリスト礼拝堂を訪ねます。「あの人はいつも一人でした」とバレスを覚えている土地の人は言いました。モンテルランは、バレスが教会を訪ねるのは一人になりたいためだった、と悟ります。バレスはそのために、人を近づけないように、パリから自分専用の祈祷椅子も運んで来たのです。モンテルランは、それと反対に、トレドの街で知り合った可愛い女と接吻するために教会に入ります。神を冒涜するためではなく、ホテルでの情事は危険だからです。また、不思議なことに、バレスのトレド訪問の主目的はグレコを見るためでしたが、モンテルランは一度しかグレコに言及していません。そもそも、スペインにいると驚くような美しい女性と何度もすれ違うのに、なぜ画家は道化役者とか無能の皇太子ばかり描くのか、と彼は不思議に思います。

 

        バレスとの違い。あの『自我礼拝』の中のルナンやテーヌへの激越な攻撃などはモンテルランにはありません。何ものも否定せず、すべてを肯定するモンテルランとポレミックなバレス、それは公的生活への二人の接近によく現れています。バレスは議員になり、政治活動に参加することによって、「自由人」の地位を失いました。モンテルランは、平和条約を議定するための議会でバレスの演説を聞きました。「こんなことなど僕にできることではない」とモンテルランは思います。「いや、全く真平だ。憎悪、激怒、軽蔑、その通り! なんて絶叫することなど、首を絞められ、毒を飲まされるようなことだ。」「政党人は馬鹿者のなるものだ。自分の理屈だけしか考えず、社会的偽善や虚偽に貢献し、公共の福祉とか祖国のためにすべてを正当化する。こういう条件のために、バレスはすぐれた人間の第一の義務は、自己に対する義務であることを忘れているのだ。」

 

      この書の最後の章は「処置無し」と題されています。これは、聖テレサの言葉「われらの欲望に対する処置は無い」から採られています。また、題名に記された〈欲望の泉〉とはアランフェスのラブラドル宮の正面にある、三つの寓意的な姿を持った泉を示していて、その三つの寓意とは餓え、渇き、羨望、つまり人間の欲望を表しています。ところで、モンテルラン の哲学は、まさにその欲望の否定の反対で、欲望の絶対的な肯定です。「快楽を賛美し、快楽以外なにもないときっぱり断言した詩人オマール・ハイヤームの書籍の最後の頁に、バレスは〈虚無の書〉と書いた。またまたの紋切文句。僕らの人生に強い快楽の一時間が有れば、虚無なんてものは存在しない。また、快楽は麻痺することだと言われる。とんでもない。全く反対である。快楽こそ唯一の真理である。」「ほんとうに生きようとしないから、人々は理智とか主義とか、いわゆる義務とかいうものの中にかくれるのだ。僕には普通の意味での幸福はない。僕にとって、快楽にあらざるものは苦痛だ。」

          自分は好きなことを今しようと準備しているのだ、という人に向かってモンテルランはこう言っています。「ああ、あなた、あなたはあなた自身にお帰りなさい。あなたの中にはあなたが今なさろうとしていることより、ずっとあなたのお好きなものがあるではありませんか。あなたはそれをなさらない、ああ、あなたは眠っているのだ。その暇に時はどんどん過ぎてゆくし、一方であなたの命を取る動脈瘤や癌は身体の中にできているのです。この世の中から、歓喜を掴みとるようにお膳立てしてくれる、今日のような偉大な世紀はまたとなかったのです。大胆不敵な人間でなくても、めいめい自分たちの幸福のために掴むべきものは到るところに転がっているのです。」

 

         モンテルランにとって欲望は大きく分類して三つあります。一つ目は性的な快楽、二つ目は闘牛とスポーツ(サッカーと短距離走)彼は100mを11秒8で走って新聞に載りました。そして三つ目は文学作品の創作です。時が経つにつれて、そして年老いるにつれて三つ目の創造意欲が次第に強くなりました。少し長くなりましたが、彼の小説と戯曲の中からその本然の表れているものを紹介してみましょう。

 

         まず、『カスティーリャの姫君』から。モンテルランの小説は日本で言えば私小説的なものがほとんどなのですが、日本の私小説のように貧乏臭いところは全くありません。「ぼく」は、闘牛で受けた裂傷は癒えぬまま、バレンシアからバルセロナまで行く列車の一等車に乗り込みます。席に着くなり、窓からホームを見ていると、世にもかわいい娘が三等車に乗っていくではありませんか。ぼくは、直ちに、一等の切符を持ちながら三等に席を移し、進行方向に座らないと気分が悪くなるからと言って、強引に娘の隣に座ってしまいます。スペインの三等車の恐ろしい光景、赤子が始終泣きわめき、上の棚に寝かせられている幼児の足がぶらぶら揺れています。娘は壺から牛乳を飲み、持参したパンと肉のかたまりを食べています。いかにも田舎娘らしく耳飾りも靴下留めも片ちんばです。夜行列車なので、車内の電気が消えると、あちこちから寝息が聞こえてきます。周囲の人間が寝たのを確認して、ぼくは上着を娘の膝の上に広げて、娘の手を握り、髪の毛の匂いを嗅ぎます。車掌を呼ぼうとでもするなら、黙らせるようにお金も用意しておきます。こういうところを読むと、同じ愛の狩人でありながらスタンダールとは何と違うのでしょう。モンテルランにとっては、愛とは肉体的愛にほかならず、自分が傷つくような恋なぞは願い下げなのです。

        さて、「ぼく」はバルセロナで、あれこれと遊蕩した後、 バレエを観せるクラブでほっそりしたバレリーナの少女を見つけます。すっかり魅惑されたぼくは、少女をパリに連れ帰るべく、仲介人を介して母親と交渉してもらいます。経済的に余裕のない母親は一も二もなく、ぼくの申し出を受け入れます。パリに帰る前の日、ぼくは、突然、ある考えにとらわれます。これまでの情事の顛末、快楽を満たした後の快楽の消滅、一晩中考えた後で、ついに「ぼく」は少女の手を握っただけで別れます。

        小説をもう一つ、それは『闘牛士』で、これこそモンテルランのスペインと闘牛への愛が十二分に吐露された作品です。13歳の時に叔母の家に遊びに行った時、バイヨンヌで初めて闘牛を見て、すっかり魅了されてしまいました。それから,闘牛のみならず、スペインの地理・歴史・言語を積極的にわが物にし、まもなく仔牛を相手に初めて闘牛を実際に体験します。狂おしいまでの熱情。闘牛を観に行ったが、血を見て真っ先に退散したバレスとは大違いです。

         モンテルランの戯曲は、小説と一転して、古典的で、ギリシャ悲劇、ラシーヌ、コルネイユを踏襲した格調高く、台詞まわしも素晴らしい。『ポール・ロワイヤル』『死せる女王』等々,読書としても十分に楽しめます。

       長過ぎて、最後はかなり疲れました。尻切れとんぼのようですが、この記事はこれまでにします。次回は久し振りに政治哲学に戻りたいと思います。

 

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左はダヴィッド社1955年刊の本書。真中は『ペルグリノスの昇天』が入っている『遊女の対話』右はロダン美術館近くの古本屋で2ユーロで買った『子供が君主である町』。『ポール・ロワイヤル』『サンチャゴ騎士団長』とのカトリック戯曲三部作の一つ。神父のそれと気づかぬ少年愛がテーマ。

 

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アンリ・ド・モンテルラン

       

 

         

         

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