« 近況など | トップページ | エミリー・ブロンテ『嵐が丘』 »

2019年3月31日 (日)

ギネス・ジョーンズ The Universe of Things

 

      二月の鼻血騒動から、はや1ヶ月、退職してぶらぶらと療養していますが、三月の血液検査では、別に悪いところもなく、特にコレステロール関係は良好で、これはおそらく粗食が影響しているのでしょう。一人で食べる昼食は、いつも、御飯とかつ節かツナ缶を猫と分け合って食べています。節約のためではなく、支度が面倒だからです。暖かくなって、血圧が低くなったからか、立ちくらみをするようになりましたが、他は体調はまずまずです。

 

    ところで、岩波文庫のアンセルムス『プロスロギオン』(長沢信寿訳)には訳者による聖アンセルムス(1033~1109)の詳しい伝記が付いているのですが、たいへん立派な生涯で、感嘆せざるを得ません。彼は北イタリアのアオスタに生まれ、母を早くに亡くしてから、彼を嫌う父親から逃れて、フランスのノルマンディーにあるル・ベックという小さな町の修道院に入りました。そこに彼の敬愛するランフランクスという院長がいたからで、アンセルムスはそこで副院長を14年間務め、ランフランクスがカンタベリーの大司教になってからは(当時はノルマンディー公がイングランドを征圧していた)、ル・ベックの院長に推挙されました。しかし彼は、地に伏し、涙を流して、どうか副院長のままで居させてくれと懇願しますが、その人格と学識から彼以外の適任者はいなかったので、渋々受け入れたのでした。

 

   アンセルムスがなぜ院長職を固辞したかというと、副院長というやや気楽な地位が、思索と読書に明け暮れるという彼の理想の生活にピッタリだったからです。実際、『プロスロギオン』や『モノロギオン』といった彼の代表作はこの時期に執筆されています。実は先日、妻と、「グランド・シャルトリューズ修道院」というフランスのドキュメンタリーをネットで観たのですが、その静謐さに満ち溢れた生活は、1000年近く経った現在でも変わっていないことに驚きます。

 

     人生は面白いもので、あれほど安穏な生活を願っていたアンセルムスが、後半の生涯を怒涛の渦の中で送ることを誰が予期し得たでしょうか。聖職者・著述家としての彼の令名は全欧州に響き渡っていました。師のランフランクスの死で空いたカンタベリー大司教・英国総主座の地位が彼に差し出されたとき、むろん彼は固辞したのですが、彼を推す司教たちがアンセルムスの指を一本一本こじ開けて無理やり彼に大司教の錫杖を握らせたのです。以後の彼の人生は、ローマ教皇と英国王ウイリアム2世およびヘンリー1世との確執の間で神経と肉体を擦り減らす毎日でした。彼は2度英国を追放され、その都度全財産を没収されています。また老齢の身をおして雪のモンスニ峠を越えローマにも赴きました。最後はカンタベリーで弟子たちに囲まれて聖書の朗誦を聴きながら瞑目しました。(なお、アンセルムスは生没同日で、4月21日に生まれ死んでいます)

 

    なぜアンセルムスを再読したかというと、先日、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの『科学と近代世界』(世界思想教養全集16河出書房新社・上田泰治、村上至考訳)を読んだからで、その中に目の覚めるような指摘があったのです。ホワイトヘッドは、中世のアンセルムスと18世紀のヒュームを比較して、中世は理性を基盤として信仰に向かった時代だが、18世紀は信仰を基盤として理性に向かった時代だと言っています。私は、ここを読んで、今までモヤモヤしていたアンセルムスの思想とその人格さえも瞬間的に理解できました。『プロスロギオン』でアンセルムスは、まず冒頭に執拗なまでの信仰への確証を読者(修道院の弟子たち)に要求します。それから有名な神の存在証明に入るのですが、そこで、自分は聖書の権威には一切頼らず、ただ理性の力のみで証明を完遂すると言明します。ここには、理性は人を裏切らないものだが、それが信仰の不確かさを是正するという思想が隠れています。

 

      一方、ヒュームの懐疑にはもはや血肉と化した信仰があります。身の回りの事物、自然への信頼は一般的な神の観念を越えて自然宗教に似た信仰に裏打ちされています。ヒュームにとっては、理性こそ人間にとって疑わしいもので、自明と思われる因果性の証明でさえ理性には不可能です。よって彼の精力は人間の理性の限界を考察することに費やされたのです。それに反して、アンセルムスにとっては、信仰は揺らぎやすく壊れやすいものであり、理性の確実な細き道を辿ってのみ確証できるものでした。

 

     さて、ホワイトヘッドの『科学と近代世界』は、17、18、19世紀において猖獗を極めたとも言える科学的な考え、つまり、あらゆる自然現象を機械論的に説明するという考えについて詳述しています。1687年のニュートンの『プリンキピア』、1787年のラグランジュの『解析力学』、そして1873年のクラーク・マクスウェルの『電磁気学』の出現で、自然は人間の側から分離し、他者として冷静に精査されるべきものとなりました。デカルト以来の二元論、精神と物質の分離、還元主義が、ほとんどドグマとさえなって来たのです。

 

    そして、行き過ぎた科学主義に対して抵抗の機運が起こるのも当然と言えましょう。ホワイトヘッドは『科学と近代世界』の第5章「ロマン主義的反動」で、勝ち誇った科学への清新な一撃をワーズワースとシェリーの二人の詩人に託して書いています。ワーズワースの「われわれは分析のために殺す」という句は、彼の科学嫌いをよく表しています。彼は、母親の墓をじろじろ見て生えている草の品定めをする哀れな男を冷笑しています。自然の神秘に対して驚き、水仙とともに笑い、桜草の中に「深き思想」を見出す彼の眼差しには、近代科学の狭量で歪められた自然観に対する痛罵があります。

 

      パーシー・ビッシュ・シェリーは、むしろ最新の科学思想に興味と知識を有していましたが、その彼にとっても自然の万物は化学の実験室では測り得ない、「われわれの知覚経験の全内容を含んで動くもろもろの有機体のなす自然」でした。シェリーの有名な「モン・ブラン」の冒頭の一節を見てみましょう。

 

        万物の住まう永劫の宇宙

        精神を貫き 波早き瀬のごとく流る

        ときには暗く ときには閃き

        影を映してはまた光を添う

        そはひとの心の泉

        おのおの流れの水を ひと知れず運べばなり

        その音 もとかそかなれども  いと高くひびきて聞ゆ

         あたかも 淋しき山の深き森にて

         あまたの滝の瀬下り落ち

         樹々と風と相闘い

         岩走る豊けき流れ砕け散る

         細谷川にも似たり

 

         The everlasting universe of things

         Flows through the mind , and rolls it’s rapid waves,

         Now dark ― now reflecting gloom―

         Now lending splendour, where from secret springs

         The source of human thought it’s tribute brings

         of waters, ― with a sound but half it’s own,

         Such as a feeble brook will oft assume

         In the wild wood, among the mountains lone,

         where water falls around it leap for ever,

         Where woods and winds contend, and a vast river

         Over its rocks ceaselessly bursts and raves.

 

       この冒頭の everlasting universe of things という句から題名をとった傑作短編が、英国の女性SF作家ギネス・ジョーンズ(Gwyneth Jones)の The Universe of Things です。翻訳は無さそうなので、原書をkindle で購入して読んでみました。

 

      近未来の英国、かつてリヴァプールと呼ばれていた港湾都市が舞台になっています。二階に自宅を持ち、一階に車の修理工場を開いている修理工が主人公ですが、ある朝、修理を頼みに来た顧客が順番を待つ列に、エイリアンが一人混じっていることに気付きます。客たちは、そのエイリアンに、むろん気付きつつも、英国人らしく知らないふりをして、好奇の目を向けたりはしません。だが、修理工はその場の押し殺したような空気を感じて、エイリアンに午後また来てくれるよう頼みます。

 

     昼休みに二階の自宅に戻った修理工は、書棚から『エイリアンとつき合う法』や『彼らはわれわれをどう思っているのか?』などの本を引っ張り出しますが、実は買ってから一度も読んだことはないのです。妻と幼い子供は一緒に妻の仕事場に出かけて留守です。本当を言うと、エイリアンがなぜ彼らの高度な技術を持ちながら修理を頼みに来たのか謎なのです。彼らは、すでに長い間地球に住んでおり、それも国の住民投票でエイリアンとの共存を可決したのは住民自身で、修理工と彼の妻も賛成票を投じたのでした。

 

      なぜ「共存」に賛成したかというと、エイリアンの高度な技術と風変わりな習性への好奇心と恐れに惹かれたからでしょう。彼らは、明らかに地球人より優れていながら、何か危害を加えようとは思っていないようです。外見は鼻のない長い顔をもち、座ると自身をコンパクトに畳んでしまいます。彼らには性別がないようで、どちらかというと女性的な感じです。地球人は彼らを呼ぶ時、it あるいはsheという単語を使います。地球人たちは敬意と何か卑屈な感じを抱いて彼らに接します。修理工は、恐れていた、いや待ち望んでもいた機会が自分にも訪れたと感じます。初めてエイリアンとの個人的な接触の機会が持てるのです。

 

      午後にエイリアンが赤く塗装された車を運んで来ました。韓国製の普通の車です。エイリアンによると、この車を売りたいので、売れるように修理して欲しいと言うのです。エイリアンが、なぜ彼らの高度な乗り物を使わないのか、なぜ車を売りたいのか、修理工には分かりません。ひと通り車の修理すべき箇所を調べていると、修理工の頭にムラムラとかつてのメカニックの腕前が蘇るのを感じました。実は、彼の工場では全自動の修理設備が完備していて、プログラムを入力してスイッチを入れれば寝ていてもよいのです。しかし、修理工は徹夜になってもこの車をハンドメイドで修理してやろうと決意しました。彼はエイリアンに向かって、翌朝の9時にまた来てくれ、車は完璧に直しておくと言って、帰しました。

 

      二階では帰宅した妻と子供が夕飯を食べ、妻はリビングでくつろぎ、子供はタブレットで宿題をしているようです。修理工は、妻に、徹夜の仕事になると言って下の工場に篭りました。彼が修理を始めると、工場の空気が変わって来たようです。車はある期間エイリアンと共にいて、スライムのような粘液質のもので全体を覆われているようにも感じられます。車は何か人間の言葉を理解するような眼差しを向けて来ます。修理工がスパナを手に取ると、それは人間の筋肉のように盛り上がります。ホースは工場の床の上を這いずりまわり、車の排気口は尻の穴にようにすぼまります。修理工は、吐き気とめまいに襲われ、驚きと不安で心臓は激しく鼓動を打ちます。

 

       実は、エイリアンの特徴は、すべてのものを自分の中から生み出し、関係するものをすべて自分のものにすることにあるのです。エイリアンの体の中の腸内細菌が周囲に伝染して、次々と彼の派生物を生み出していくのです。彼らの移動手段の車も、彼らの衣服もすべて彼ら自身そのものなのです。エイリアンにとっては、自分が世界の一部という感覚はなく、自分自身が世界のすべてなのです。

 

      修理工は眩暈に襲われ、自分がエイリアンの感覚で物を見、感じていることに気付きます。手に持つ工具が自分の筋肉になり、自分の腕が工具の一部になります。そして、このことが彼を不安にするのです。外部の事物はもはや彼にとって冷たい他者ではありません。彼とは全く違う、冷たい事物であることが、何と安心感をあたえていたことでしょう。事物は事物であることによって、自分と完全に切り離されたものであるがゆえに安全で安心なものだったのです。しかし、今や車は彼を理解し、彼もまた車と感覚を共有しているかのようです。朝が来るまで、修理工はこの熱狂的な感覚のまま仕事に没頭しました。修理がすべて終わった時、その車は何とThank you と彼に言ったのです。

 

     朝9時に、エイリアンが車を引き取りに来ました。修理工は、ピカピカに整備された車を見せて、何とこの車を自分に売ってくれないか言い値を払うからとエイリアンに言ったのです。彼は昨夜のめくるめくような体験、自分が世界に、世界が自分になったような狂乱に似た体験を忘れられませんでした。むろん、この車がエイリアンのもとを離れれば昨夜の狂宴のようなことが起こり得ないことは分かっていました。しかし、彼は、そのような体験をしたという思い出のよすがを手元に置いておきたかったのです。エイリアンは、突然の提案に、少したじろいだようにみえましたが、結局は彼の提案を受け入れました。そして、修理工が言われた金額を機械に打ち込むと、エイリアンはカードを差し入れて増えた残高を確認し、まだ朝日の残る道を帰っていきました。途中でエイリアンはふりむいて、なんとも言えない表情を彼に見せたのです。

 

      実は、スティーヴン・シャヴィロSteven Shaviro の『モノたちの宇宙』The Universe of Things (上野俊哉訳・河出書房新社)の題名はこのジョーンズのSFからとられているのです。この本は「思弁的実在論とは何か」という副題の通り、今流行りと言ってよい思弁的実在論の巧みな紹介・研究の本なのです。ちょっと疲れて来たのですが、この本についてもさーと書いてみましょう。

 

       思弁的実在論とは、2007年ロンドン大学ゴールド・スミス校で行われた四人の哲学者の論文発表によって始まるとされています。その四人の創始者とはカンタン・メイヤスー、レイ・ブラシエ、グラハム・ハーマン、イアン・ハミルトン・グラントですが、今や、思弁的実在論の分岐は非常に多岐にわたり、それらをすべて押さえるのは容易ではないでしょう。かなり大雑把に分けて、メイヤスーとブラシエは、(この二人の間もかなり異質なのですが)数学と科学に頼る証明で、ハーマンとグラントはオブジェクト指向存在論 object-oriented ontology (ooo)と呼ばれる、「モノ」に即した思考を続けているようです。メイヤスーについては、以前、ブログ記事で書きましたので、今回はハーマンとその先達ともいえるホワイトヘッドについて書きましょう。

 

      カントのいわゆるコペルニクス的転回はよく知られています。むろん、われわれの対象認識はわれわれの認識形式によるのであり、物自体はわれわれには閉ざされているという考えです。これにより、人間の周囲の事物はわれわれが見るとおりに存在するというそれまでの考えは素朴実在論としてほぼ顧みられなくなりました。大事なのは事物ではなく、われわれと事物との関係であるという前提は、もはや哲学的議論の盤石の基盤となり、これを全的に否定することは不可能とみなされました。メイヤスーは、このような考えを相関主義と名付け、数学的な思考にその脱出路を見出そうとしました。

 

     ハーマンらオブジェクト指向存在論を主張する人たちは、かつてホワイトヘッドが素朴実在論を再び取り上げたように、物自体などなく、われわれは溢れるほどのモノに取り囲まれているのだと主張しました。それの証明根拠はあるのでしょうか。いや、そのことを十分納得させるためには、ホワイトヘッドが『過程と実在』(1929)で書いたように、「私たちの経験のあらゆる要素が解釈できる一般観念についての、整合的で論理的かつ必然的な体系を組み立てる」ことができればよいのです。もともとカントの批判理論でさえ無謬などということはないのですから。

 

      まず、ホワイトヘッドから。彼は、われわれを取り巻く事物は、皆、相互に関連し合い、かつ影響し合っていると言います。なぜかというと、すべての事物は、今そこにある因果性を持ち、それぞれ経験の滴dropsを有しているからです。一つの小石は、何万年の昔から地下深くにあり、地表に放り出され、他の石と衝突し、風と水にさらされてきました。こうして経験の滴を持つものが風や水、他の石などと関連を持ち、影響を与え合うことをホワイトヘッドは抱握prehenshion すると名付け、そのような存在を活動的存在actual entityと呼んでいます。ここで特筆すべきは、以上の思考の中には、人間の優位性、人間認識の優位性が露ほどもないことです。人間も感じ、prehension します。しかし、それは他の事物、岩や風や紫外線や、むろんカモメとも等価であり、何ら特別なものではありません。

 

       この事物の絶対的等価性は、ハーマンも共有しています。だが、ハーマンはホワイトヘッドと違って、事物は関連し合うことなく、それぞれ個別に引きこもっているのだと言っています。つまり、宇宙は、自らの内に引きこもる事物の集積なのです。それでは、この単一の事物たちがどうやって動くことで世界を形作るのでしょうか。ハーマンは、ここで懐かしやマルブランシュの機械原因説を取り上げ、事物は互いに魅了allure することによって関係を持つと言っています。マルブランシュは、われわれが手を使ってペンを動かすのではなく、神がわれわれを使ってそうさせるのだと言いました。精神と肉体に分離したデカルトの二元論はこれによって解決させられたのですが、実はド・メーストルも人間の小賢しい意思を否定するためにこの説を引用しています。

 

      ところで、ホワイトヘッドやハーマンの説には揺るぎない偏見があり、それは二人とも事物は美に向かって進み、あるいは美こそ事物に先立つものと考えているようです。ホワイトヘッドの場合は複雑で難解だが、ハーマンの魅了の説は背景に美に向かう、または美を前提にしたものであることはわかるでしょう。

 

        ハーマンとホワイトヘッドについて最後にもうひとつ、それは、これも懐かしい汎心論panpsythism の復活です。汎心論とは、万物に精神が宿るという考えで、犬や猫はむろん当然でしょうが、植物や粘菌なども環境に応じて生きていく手段を講じています。では、岩はどうでしょうか、石は、ペンは、車は? ここでギネス・ジョーンズのSF小説に再び戻って来るのです。修理工は、様々な道具の反乱に幻惑されますが、これこそハーマンの「魅了」によく似ていると言えるでしょう。それはまた、マーシャル・マクルーハンのメデイア論にも関係してきます。マクルーハンによれば、メデイアは「人間の拡張」です。メデイアは、工具が修理工の体に一体化して来るように、われわれのどんな隙間にも入って来ます。それは不安でたまらないことであるが、また同時にわれわれもメデイアに取り込まれるのです。いったん、メデイアの内部に入るとわれわれもまたメデイアと化し、「工具」となるのです。これは恐ろしいことだが、また魅了そのものでもあるのです。ゲゲゲの鬼太郎が描く妖怪の世界は、これとそれほど違わないでしょう。

495e5961c2f1453d8d2292f6494d3adb

 

|

« 近況など | トップページ | エミリー・ブロンテ『嵐が丘』 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 近況など | トップページ | エミリー・ブロンテ『嵐が丘』 »