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2018年10月 4日 (木)

マーティン・ジェイ『暴力の屈折』(1)


『暴力の屈折』(岩波書店・谷徹、谷優訳)は2004年の刊行で、まさに旧刊案内というにふさわしい本の紹介ですが、当時も今も、さして書評に上らなかったと記憶しています。それは「記憶と視覚の力学」という副題の曖昧さにもあるのですが、著者が近年追求している視覚というテーマが、すでに何人もが手をつけている余りに言及されやすいファクターでもあるからです。しかし、このエッセイ集に集められている論稿はそれなりに面白い。著者のマーティン・ジェイはスチュアート・ヒューズの弟子筋にあたるアメリカの思想史家で、各エッセイとも夥しい引用にあふれているのですが、私は、実を言うと、本の名前や人名がたくさん出てくる書物が好きなのです。40年も前になりますが、渋谷のブルックボンド・ティーショップの隣にあった紀伊国屋書店で、私は乏しい財布の中身をはたいてマーティン・ジェイの『弁証法的想像力』(みすず書房・荒川幾男訳)を買って、ダージリンの紅茶が冷めるのを気にせずに、それこそ貪るように読みました。様々な人生の曲折にもかかわらず、その本がまだ私の書棚にあるのは驚くべきことでしょう。

さて、『暴力の屈折』の原題は Réfractions of Violence で、これはジョルジュ・ソレルの
Réflexions sur la Violence 『暴力についての考察』を巧みにもじっています。
目次は以下の通りです。
第1章 慰めはいらない
(ベンヤミンと弔いの拒否)
第2章 父と子
(レームツマとフランクフルト学派)
第3章 ホロコーストはいつ終わったのか
(歴史的客観性について)
第4章 恩知らずの死者たち
第5章 バラ(ローズ)の回心
第6章 ユニコーン殺人犯との文通
第7章 正義は盲目でなくてはならないのか
(法とイメージの挑戦)
第8章 難破船へ潜る
(世紀末の美的スペクトラム見物)
第9章 天文学的な事後見分
(光の速度と現実のバーチャル化)
第10章 光州
(虐殺からビエンナーレへ)
第11章 宗教的暴力の逆説
第12章 恐怖のシンメトリー
(9・11と左翼の苦悩)
なお、原書からは「ジョン・デューイと現代のボディアート」など四篇が割愛されています。

ここでは記事を何回かに分けて、(1)では導入として「難破船へ潜る」を取り上げ、順次(とくにベンヤミンについて)、暇な時に書き継いで行こうと思います。

『難破船へ潜る』は、映画『タイタニック』の冒頭の数分の描写で始まります。1985年に、タイタニックの残骸が発見され、ロボット式の潜水カメラが、海底に眠る史上最大の船の無惨な姿を映し出します。ちょうど、平穏な日常生活のただ中で死んだポンペイの遺跡のローマ人のように、そこには、豪奢な舞踏会やディナーや調度品に囲まれた乗客の華やかな船上生活が、一夜の暗転によって永遠の眠りにつく瞬間が残されているのです。いや、そこに埋められたのは、また、
かなわぬ恋であり、悲劇に終わった二人の青春の物語でもあります。
しかし、この映画の背景にある基調は、観るものに「正義が乱暴に果たされた」という納得感を与えることにある、とジェイは書いています。人は、水に浮かぶ船を「不沈」と呼ぶほどに傲慢であった、当時の最新のテクノロジーが、むき出しの自然の象徴である氷山にかすっただけで海の藻屑に消えた、つまり、海底の墓に眠っているのは、船体や死者ではなく、人々の傲慢さの残骸であった、というのです。

ジェイは、ここで、ハンス・ブルーメンベルクの『難破船』(1989・哲学書房)を引用し、古代ギリシア以来、陸地から離れること自体が危険で向こう見ずな企てだった、と書いています。ブルーメンベルクによれば、古代ギリシア人にとって、すべての難破船は、物事の秩序に挑戦を投げかけ、そしてその代償を受けることの証明だったと言うのです。天空に舞い上がり墜落死したイカロスのように、大地の絶対不敗性のタブーを犯した人間の運命は、ギリシア人にとって、あえて危険に飛び込む大胆不敵な人間のメタファーとなっていたのです。

ところで、遠くの陸地からその光景を眺める見物人はどうなのでしょう。実はここに、ブルーメンベルクとジェイの主要な観点があるのです。ブルーメンベルクは、まずローマの詩人ルクレティウスを引用し、優れた知恵の高みから自然を見つめることのできる賢者の「安全性」について満足の気持ちを表明します。懐疑家モンテーニュは、陸地にとどまる人間が味わう快感(危険なことに足を踏み入れない)について言及し、「彼は、自分が無用であるという性質のおかげで生き残る。つまり、見物人であるという能力によって生き残るのである」と書いています。もう一つ啓蒙主義者ヴォルテールの例を挙げておきましょう。彼によれば、見物人は何の意味ある存在でもなく、たとえ難破しても、進歩のために安全な港を離れる航海者に劣る存在だと言うのです。

ブルーメンベルクによれば、これに対して、重要な視点の置換えが、最初はパスカルによって、次にニーチェによって本格的になされた、ということです。それによれば、港の安全性も、乾いた陸地で見物しているという信念も欺瞞的な幻想にすぎない、生存しているということはまさに、人生という海の旅にすでに船出しているということなので、そこでは、救出されるか沈没するか以外の結末はありえず、それゆえ、そもそも不参加はありえない、というのです。人生は、ジェリコーの「メデューズ号の筏」のごとく、決して迎えに来ない(あるいは、犠牲者のほとんどにとって手遅れになってからしか来ない)船に向かって無駄に手を振り続けるようなものなのです。パスカルは、このことを別のメタファーで、つまり、生きるとは、神の存在を確実に知らないまま賭けに出るようなものだ、という有名なメタファーの下支えに使っています。この議論は、現代ではさらに重要になって、哲学も科学も、処って立つ確かな存在論的根拠も価値論的根拠もないのだ、という懐疑論にまで行き着くのです。

してみると、優れた芸術作品とは、ある意味で見物人と難破船の区別に不信を抱き、われわれは好もうと好まざると、荒れ狂う海に船出してしまっている、という体験を与えようとするものではないでしょうか。マーティン・ジェイは、その一例として、アドリエンヌ・リッチの1972年の有名な詩、まさにこの章の表題となった「難破船へ潜る」を引用しています。リッチは、その詩の冒頭で、自分は水に飛び込むための装備を身につける前に、まず神話の本を読んだ、と書いています。

わたしは難破船を調べにきた
言葉で 目的を確かめ
言葉で 場所を確かめ
その損害を 散乱する宝物を調べに
やってきた
ランプの光で ゆっくりと
魚や海草よりも
長く生きているものの脇腹を
やさしく撫でてあげる

わたしがここに来たのは
この難破船のため その物語のためでもない
その神話のためでもない

語り手は、黒い潜水服を着た両性具有の人魚に姿を変え、船倉に潜り込んで犠牲者と一体化します。

わたしは女 わたしは男

その顔は 目を見ひらいたまま眠る 溺死者の顔
(中略)
わたしたち 今では こわれかかった道具と同じ
水につかった丸太
狂った羅針盤

わたしたちは わたしは あなたは
臆病だから 勇気があるから
ここへ戻ってくる道を
見つけるだろう
ナイフに カメラ
神話の本を持ち
でも そこに
わたしたちの名前はない

廃れるべき時代遅れの神話とは、父権制社会の神話—女性の名前が書かれない書物—のことであり、難破船とは伝統的ジェンダー関係の残骸のことであり、実は、「難破船へ潜る」はフェミニストのマニフェストとして理解される、というのです。この詩の優れているところは、フェミニズムの枠を超えて、人間一般の哀しみにまで降りていることでしょう。

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