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2018年9月16日 (日)

入院生活の諸相


退院してから8ヶ月あまり、常に脳梗塞で一発即死の危険は抱えているものの、何とか元気に暮らしています。「何か書いとかないと忘れるよ」という妻の忠告を真剣に受け止めて、記憶の薄靄の中に消滅してしまう前に拾い出せるものを拾い取っておくことに決めました。「ありふれた事実の集積」が10年経てばかけがえのない光を持つことを祈りながら。むろん、入院からしばらくは意識が明確でなかったこともあり、途切れているところは妻から教えてもらって補完しようとしました。

さて、発端は去年の12月9日の土曜日です。だいたい土曜日は妻と二人で図書館に行って、帰りにショッピングモールで買い物をして帰ります。すぐ近くなのですが、帰りの荷物を考えて、わたしは自転車、妻は徒歩で行くのが普通でした。その日も、図書館からショッピングモールに歩く途中、何か気分の悪さを感じたので、妻がニトリで買い物をしている間、ニトリの家具売り場のソファに座っていました。そのとき、視野全体が青みがかって来たのを覚えています。普通なら、それほどの異変があれば不審に思うのですが、すでにその時正常な判断ができなくなっていたのです。

その後、食料品売り場で買い物をして、駐輪場で、いったん別れたのですが、自転車の鍵を穴に入れようとして何度やっても鍵穴に入らないのです。この時も、おかしいと思わなかったのがすでに異常だったのです。仕方なく、自転車を放置したまま歩いて帰ろうとしました。ショッピングモールを出るところで、急に吐き気がして、傍らの植え込みに吐きそうになったが、なぜかすぐに吐気は収まりました。ところが、今度は帰り道がわからない。確か工事中の青いビニールシートのところを曲がるんだった、と思い出して何とか住まいにたどり着きました。この時も、自分に異変が起きているとは全く気づいていませんでした。

妻が天津丼を作ってくれて、遅い昼食を食べましたが、妻によれば、ふつうでなく、ご飯がボロボロこぼれていたそうです。さすがに、救急車を呼ぼうかと妻が私に尋ねましたが、私は、大丈夫だと頑強に拒んだそうです。その時はお茶を飲めば気分が良くなると思っていたのと、生来の病院嫌いで、救急車などとんでもないと思っていました。そこからは記憶は途切れ途切れで、妻によれば、私はすぐに布団に横になって鼾をかいて寝込んでしまったそうです。その間、妻は四国の実家の母親に電話して、救急車を呼ぶべきか聞いてみたそうです。すぐに呼べという助言を受けて119番したのですが、都合の良いことに消防署はすぐ近くで、電話中にすでに救急車が発車しているのですから、その迅速な対応には驚きます。

眼が覚めると、青い消防服を着た隊員が何人も部屋にいるのでびっくりしました。妻によれば、ここに至っても私が病院に行くことを拒むので、隊員は、検査して何でもなかったらすぐに帰れますから、と丁寧に説得してくれたそうです。それから大きな袋に足から入れられて、気がつくと救急車の中に寝ていました。「血圧232」という救急隊員の声で目が覚めたのですが、またすぐに意識を失いました。横に乗っていた妻は、私の口の端が痙攣しているのを見て、大変な事態になるかもしれないという恐怖に襲われたと後で言っていました。

当初は市川の歯科大病院へ向かう予定でしたが、受け入れる余裕がないというので、浦安のJ大病院に向かうことになりました。後になってみると、浦安の方が妻の通勤の途中にあるので便利なので、これは幸運でした。妻によると、病院に到着後、裸にされて、紙オムツをつけられ、白い患者服のようなものを着せられたそうです。それからX線検査、点滴注射を受けて、1時間後、ストレッチャーに載せられて6階の脳卒中集中治療室(SCU)に運ばれました。この間、何度も腕や足を針で刺されて痛みを聞かれたり、簡単な質問に答えるよう促されました。

しばらく妻が横につきっきりだったので安心でしたが、終電近くなると、「付き添いで泊まると1日2万円かかるから」と言って帰りました。それから朝までが非常に苦しかったのを覚えています。ベッドから立ち上がるのを禁じられ、体にはいろいろ管が巻かれて、一晩中腰と背中が痛み、多分一睡もできなかったと思います。夜中に看護師さんを呼んで小水を取ってもらうのも心苦しく、おまけに、カーテンを挟んでもう一人の救急患者が一晩中うめき声を上げているのには参りました。実は、朝が来たら病院を脱走しようと思っていたのだからやはり正常な頭ではなかったのでしょう。

翌日は日曜日で、看護師さんが窓を開けてくれると、明るくさわやかな浦安の空が見えました。多分、空の先には東京湾がひろがっているのでしょう。私自身はさわやかとはほど遠く、相変わらず腰と背中は痛い。それで、点滴をしたまま体を動かそうとすると、男の看護師の人が来て、絶対安静だから動いてはだめで、特に足を直接床につけてはいけない、と言われました。私は、靴さえあれば脱走できるのにと思いながら、とにかく妻が早く病院に来てくれないかと念じていました。てっきり、朝一番で来ると思っていたのですが、8時になっても、10時になっても来ず、やっと12時ごろに姿を現しました。キャリーケースを引っ張ってきて、その中にはパジャマや下着や洗面道具など入院セット一式が入っていました。

妻が来てから30分も経たないうちに、長男が姿を見せました。長男は私の離婚した前妻と暮らしていて、フランス旅行の時に猫の世話をいつも頼んでいます(私に似て大変な猫好きです)。今日は日曜で仕事が休みだそうで、すぐに出向いてくれました。妻が買い忘れた歯磨き用の茶碗などのほかに、100円均一で知恵の輪のセットも買ってきてくれました(頭のリハビリに丁度いい、と看護師さんにほめられました)。実は、長男が子供の頃は、私の仕事が多忙で、学校の勉強も生活の悩みも考えてやれず、小遣いを与えるだけのひどい父親でした。しかし、長男が大学を出たころから、度々一緒に酒を飲むようになって、それが私の数少ない楽しみになってからは気の置けない友人のような関係になりました。

その日の夕方に、はじめて全粥の食事が出ましたが、看護師さんにすぐ横でひとくちひとくちゆっくり食べるように監視されていたので、美味しいとは感じられませんでした。長男が帰ってからしばらくして、看護師さんが来て、集中治療室は新しい患者のために開けておかねばならないので、大部屋に移ってもらいます、と言われました。新しい病室は、同じ6階で、6人部屋ですが入室者は五人です。今はカーテンが完全に隠されるので、同室の人間関係の煩わしさはまったくありません。テレビはテレカードを買って観るのですが、イヤフォンで観るのが煩わしく、ほとんど観ませんでした。

その日に、はじめて、血液検査がありましたが、血液がドロドロでなかなか採血できず、ベテランの看護師さんが、時間をかけて、やっと採ったのですが、ドロドロなので検査できるかどうかわからない、と言われました。とても不安でたまらない感じでした。

翌日の月曜日、一般病棟で迎えるはじめての朝ですが、その忙しいこと。6時に照明がつけられ、カーテンが開けられます。皆、洗面に向かいますが、私は、ベッドから離れる時は必ずナースコールを押して看護師さんを呼ばねばなりません。そして顔を洗うのも歯を磨くのも椅子に座ってやらねばならないし、トイレは、いずれのときも終わったらコールボタンを押して看護師さんに付き添ってもらって病室に帰ります。それもこれも再発の危険が常にあるからで、今考えると、この時あたりが、いちばん死の淵の周りを歩いていたのだと思われます。

7時ごろに看護師さんが、ノートパソコンを載せた移動式テーブルを転がして来て、昨日のトイレの回数を聞き、体温と血圧と酸素量を測ります。そして、その日の検査のスケジュール(時間など)を書いた紙を渡されて、いろいろ注意することを伝えられます。8時に朝食が出ます。パン2つと牛乳とサラダと卵のようなものが出ます。朝食の途中で、必ず、担当の医師が助手たちを連れて顔を見せます。朝食のテーブルを脇にどけて、まず両手を前に水平に上げて手のひらを閉じたり開いたりします。それから簡単な診察。昨日の血液検査の結果、血圧以外は正常で、特に糖尿病の心配はない、これからはとにかく血圧を下げるよう治療していく、ということでした。

朝食の時に、看護師さんがお茶を持って来てくれますが、洗面所にあるサーバーから汲むこのほうじ茶はなかなか美味しい。それから朝食がかたずけられて、薬を飲まされますが、その時、名前の確認をして、腕にはめたバーコードをチェックする非常に慎重な手順を踏みます。薬を飲んで休んでいるのもつかの間、この時間から毎朝怒涛の検査がはじまります。月曜から毎朝、まず、知能テストのようなものが必ず実施されます。検査する人は男女それぞれで、毎日違う人のようでした。内容は非常に簡単。今いる病院の名前、何県何市か、野菜の名前を五つ答える、100から順に7を引いていくなどなどです。筆記テストもあって、名前と住所を書いたり、立体図形の絵を真似して描くよう言われたりします。職業についての質問で、塾で教えているというと、何を教えているのかと聞かれたので、数学と化学を教えていると言うと、数Ⅲも教えているのか、と聞かれたので、もちろん、と答えると意外そうな顔をされました(痴呆のような顔をしていたので)。

月曜日の面会時間に現れたのがなんと前妻で、長男から聞いて来たそうで、パックに入れた冷たいゼリーを持って来ていました。まだ入院したばかりで、お腹を壊したら大変なので、食べたくなかったのですが、大丈夫だからツルって食べちゃいなって執拗に勧められたので、仕方なく食べました。実は前回の入院の時(約30年前、中野総合病院で)入院初日に前妻が、血の病気にいいからと蜆汁を作って持ってきてくれたのですが、入院時の説明で、食事も治療の一部なので病院食以外は食べないようにと言われていたので、断わったのですが、そのことが30年間ずっと心に引っかかっていたのです。ところで、久しぶりに前妻と話したのですが、四谷の聖イグナチオ教会の旧約聖書を読む会に参加していて、驚くことに将棋の加藤一二三九段も出席しているとのことです。

火曜日、入院4日目。介護休暇で休んでいる妻が、面会時間に連れて来たのは帽子を被って重いコートを着て、一見、浮浪者に見える老人でした。意外にも杉並に住む長兄で、会うのは久しぶりですが、もう歳だし、見舞いに来ることは無いだろうと思っていたので驚きました。遠くから来たので疲れた様子で、ベッドの横の椅子にどっかと腰を下ろしました。私が、これまでの経過を説明すると、(とくに血圧が232あって血もドロドロだったというところで)ああ、と言って顔を覆って泣きそうになりました。そして「きっと良くなるから大丈夫だよ。ゆっくり休んでな」と言ってくれました。長兄も何年か前に軽い脳梗塞を起こして、入院したが、居心地が良いのでずっと入院していたら5ヶ月半いて追い出されたとのことです。帰り際に、御見舞い、と書かれた熨斗袋を置いていきましたが、袋の裏には金壱萬円と書かれてありました。私は病室の金庫に大事に入れておきました。

よく考えると、今までの三度の入院のすべてに兄は見舞いに来てくれています。極端に出不精の姉が一度も来てくれなかったのとは対照的です。ところで、退院して年が明けしばらくしてから姉から電話があり、春の叙勲で長兄の名前が新聞に出ていると教えてくれました。ちょうどテレビで、北野武が叙勲されて方々から祝いの品が届いたと言っていたので、私も兄に羊羹でも送ろうか、そうだ入院時にもらった御見舞いのお金を使おうと思って袋を出したところ、裏に書いてある一万円でなく五千円札しか入っていません。兄がそそっかしいのは昔からですが、そのいい加減さが何となく憎めません。

とにかく血圧を下げなければいけないのに、なかなか下がりません。薬を飲み、点滴を打ち、胸に血圧降下パッドを2枚貼っても、依然として200を超えています。看護師さんが血圧を測る時、低い数値が出るように何度も試みてくれるのですが、まったく改善しません。神経にも異常が出始めて、あるとき、妻が持ってきてくれた私のフランス語の単語ノートを開けると、フランス語の単語がすべてXで始まるキリル文字になっているのです。すべてのページの単語が例外なくXで始まっているのです。やがて看護師さんの白衣の胸あたりにも、そのXというマークが並んで見え、天井やカーテンにもその記号が浮かんでいます。私が、あまり驚かなかったのは、去年の夏にも同じような幻覚(その時は幻聴もあった)を経験していて、てっきり熱中症だと思って、市川の大学付属病院に行ったら精神科に回されて、しかも診療は予約制で1ヶ月待ちだというので、諦めて帰ってきました。その後、幻視治療で知られる眼科医に通いましたが、検査が大変なのとお金がかかるので、また症状もよくなったので、やめました。

キリル文字が消えると、今度はカーテンや天井に漢詩のようなものがびっしり書かれているのが見えるようになりました。家の玄関に額に入れて飾ってある李白の詩のようなのですが、はっきりと読めません。入院5日か6日ごろまで続いて、血圧の低下とともに見えなくなりました。7日目の別室での妻を交えての担当医師との検査結果の診断では、MRIでの映像では、脳の左下に脳出血の跡があるが、視覚の部分とは離れており、今のところ幻覚の直接の原因はわからない。毛細血管があちこち切れているのでそれかも知れないが何とも言えない、ということでした。この担当医師が薬を二種複合の血圧降下剤に変えてくれたおかげで血圧が急に下がったのです。

幻覚が見えているうちは横になっていてもボーとしていて、記憶もはっきりしません。血圧を測りに来ていた女性の看護師が、膝をついて私と話をしている時のことです。私は、深く考える時や人と対話する時など自分の膝をさする癖があるのですが、その時も膝をさすっていたが、どうもさすっている感じがしません。ハッと気がつくと看護師さんの膝を間違えてさすっていたのでした。バツが悪かったが、体の具合が具合なので、知らんふりをしてくれました。それにしても、この病院の看護師さんたちは優秀で献身的です。一度、同室の脳梗塞患者の老人が「お茶頼んだの、まだ持ってこないのか!」と看護師さんに怒っていましたが、同じ患者として恥ずかしかったです。これは、もともと漁師町である浦安の土地柄かも知れませんが。

入院でいちばん苦しいのは、やはり各種の検査です。病室で寝たままの検査もありますが、車椅子で下まで降りて行う大がかりなものもあります。眼科の長い検査の後、冷たくなった夕飯を食べようと病室に戻ると、お腹を空かして仕事から戻った妻がチキンハンバーグを半分食べていました。いつも新聞とお茶のボトルを買って来てくれるのですが、家に一人で留守番をしている猫の話を聞くのが楽しみです。いつものように玄関でじっと待っているのではないかと心配になるのです。それにしても、毎日着替えの下着やパジャマを持ってきて、しかも仕事に追われる妻は大変だったと思います。面会時間ぎりぎりの8時まで妻は病室にいるのですが、この時に洗面その他を済ませてしまうと、いちいち看護師さんを呼ばなくていいので助かります。一度だまって一人で洗面所に行ったら、あとで看護師さんに、勝手にベッドから離れたでしょう? と注意されました。6日目に付添いつきでシャワーを使うことが許されて(それまでは妻に体を拭いてもらっていました)、シャワー室で妻に体を洗ってもらいました。

五日目にリハビリが始まって、車椅子に載せられ、一階の端にある広いリハビリ・ルームに連れて行かれました。長い廊下を、外来患者がびっしり座っている間を車椅子で行くだけで神経が疲れますが、体育館のような広いリハビリ・ルームの雰囲気にも圧倒されました。大勢の患者が、トレーナーと一緒になって熱心に体を動かしているのです。そこで私の担当になったのは若い女性のトレーナーで、いくつか問診した後、私が気分が悪くなったと言うと、血圧計を出して測り、210を超えていたので、急いで車椅子でまた病室に戻されました。翌日の午前中に、昨日の女性トレーナーが病室に来て、廊下を少し歩きましょう、と言って、私を連れ出しました。ゆっくりと広い六階の廊下をぐるりと回って、血圧を測り、今度は階段をのぼって、また血圧を測り、おりてからまた測りました。それから談話室で、少し話をしたら、彼女はこの病院は今日で終わりだそうです。リハビリはこの1日で終わりのなりました。

病院食というとあまり期待できそうもないのですが、昼食で出た「おかめうどん」は本当に美味しかった。蒲鉾と卵焼きと甘く煮た椎茸がうどんに載っていて、その上にだし汁をかけるのです。魚は毎日出て、肉はほとんど出ません。時間になると看護師さんが持って来てくれ、お茶も汲んでくれます。食べ終わるとまた持って行ってくれるのでとても楽です。病院といえば点滴ですが、今は初めに針を刺して固定し、そこに毎回薬を注入するだけです。6日目ぐらいになると体も楽になり、尿量も測らなくてよいので楽になりました。全体的に真面目に療養に専念したのですが、とくに、心電図(24時間の)の記録ノートは食事・トイレの都度きちんと記録して看護師さんに褒められました。

7日目に、すべての検査結果の報告が担当医師からあるので、妻と二人でカンファレンスルームにいきました。モニターに移された脳の影像を見てびっくり、左下に大きな脳出血の跡がありました。大事に至らなかったのは、糖尿病がなく、コレステロールが全く正常だったからだろう、と言うことです。血圧も160〜170台に落ちてきたので、あとは自宅治療ということで、退院は10日目の12月19日に決まりました。翌日は、同じカンファレンスルームで、栄養士の先生による退院後の細部にわたる食事指導がありました。

9日目、退院前日、仕事休みの長男が見舞いに来たので、6階フロアを一回りし、二人で、浦安の景色を東西南北の窓から眺めました。長男は浦安地域の高校を出たので、この辺の地理に詳しく、懐かしいことを思い出しながら、いろいろ説明してくれました。
退院の日、その日の係りの看護師さんが来て、ベッドまわりをくまなくチェックしてから薬の袋を渡されました。遅い昼食を食べていると、仕事を切り上げて来た妻が来て、前日用意していた服に着替え靴を履き、病室を後にしました。エレベーターの前のナースステーションは忙しいのか誰もいず、最後の挨拶ができなかったのは残念でした。一階で退院手続きをとって、11日ぶりに病院の外へ出ました。病院の廊下を歩くのと勝手が違って、妻に支えられながらゆっくり歩きました。コミュニティバスで浦安の駅へ。駅近くになると、焼き蛤の店が多いのが目を引きます。子供の頃、朝、味噌汁に入れる蜆やアサリを売りに自転車で浦安から来ていた日焼けした老人を思い出しました。

退院して、しばらくはボーとしていました。寒かったので、あまり外出せず、本も読まず、クリスマスも正月も何もせずに過ごしました(妻と近くのお寺に初詣に行っただけでした。)春になり、徐々に暖かくなると、血圧も下がりはじめ、フランス旅行に向けて、毎日のウォーキングを欠かさずするようになりました。3月から、徐々に、東京での仕事を始めましたが、幸い思考力の低下は感じられません。6月のフランス旅行では、毎日一万歩以上歩いたが、ほとんど苦しいとは思いませんでした。現在、9月13日の退院後二度目の血液検査では、ほぼ理想的な数値で、順調に回復しているとのことです。その日の血圧は118-70まで落ちていました。

思えば、死んでいてもおかしくなかったので、平日の昼間に倒れたり、仕事中に倒れたりしていたら、危なかった。妻がいる土曜日だから事なきを得たのです。TIA (一過性脳虚血発作)の場合、10〜15%が3ヶ月以内に本格的な脳梗塞に移行し、しかもその半数は48時間以内に発生すると言われています。一年以内に25%が脳梗塞になる、という数字も怖い。江藤淳は脳梗塞発症後5年後に再発し、退院1ヶ月後に自殺しています。浦安の病院の対処・治療は適切で完璧、この病院に運ばれたのが幸運だったというしかありません。しかし、むろん、特筆すべきは妻の存在であること、これもまた幸運と呼ぶ以外ないでしょう。



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