« 病み上がりのパリ(8)帰国、ガリエラ美術館 | トップページ | 入院生活の諸相 »

2018年8月31日 (金)

中野重治『本とつきあう法』

中野重治の『本とつきあう法』(ちくま文庫)を手に取ると、私は、なぜか、ほっこりした感じになります。本好きの友人と話をする様な感じ、あるいは亡き友の書棚を覗く時の軽く胸のときめく感じ、気取らない、力を入れない、細やかな優しさに満ちた感じです。まだインターネットが普及する前の頃に、私はパソコン通信のあるフォーラムで、「私の旧刊案内」と題して、ロットマンの『セーヌ左岸』や、シュミットの『政治的ロマン主義』、ガダマーの『哲学修行時代』などの紹介をしたことがあります。実は、その題名は、この本の中の「旧刊案内」という章からヒントを得たものでした。またまた実はですが、この「憂愁書架」というブログ名も、最初は「私の旧刊案内」とするつもりでしたが、自分を誇ることをしない中野が珍しく、「旧刊案内」という題名の思いつきを自慢気に書いているのを思い出して、鳩居鵲巣ではないが、私ごときがその名を借りるのは烏滸がましいと思いました。

「私の読書遍歴」という章で、中野は「歩き回ったからといって遍歴したことにはなるまい」として、自分の読書が、学問上や宗教上の目安などない単なるぶらつきであった、と書いています。そして、大きな後悔としては、外国語をものにできなかったので原書を読むことができなかったこと、日本古典を体系的に読んでいないことを挙げています。源氏物語を読んでいないという告白には驚きますが、夏目漱石も篤学の英文学者であるにもかかわらず、聖書を読んでいない、と言っています。一時話題となったピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』によれば、ジョイスの『ユリシーズ』について人に語るためには、「ダブリンを舞台にした意識の流れによって書かれた小説」であると知っていれば十分ということです。中野はむろん、そんな姑息なことをせず、読書量を誇るどころか逆に隠そうとします。

私は、読書の醍醐味は日記を読むことにあるのではないかと思います。背後に大きな事件が起こる、日記にはそのことは殆ど記されていないが、その事件はその文章の行間にある陰影を与えるのです。秋田雨雀の有名な五巻にわたる日記には十月革命のことは記されていない、私はそのことをこの本によって知りました。中野は馬琴の日記と雨雀の日記についてこう書いています。

「それにしても、なんとこの人たちは日記をつけることが好きだったのだろう。馬琴なぞは、仇討ちをするようにして、親の仇を狙うようにして日記をつけている。こくめいに、長い期間にわたって連続して日記をつけるということは、たぶん人間にだけ考えられる特別のことであるのだろう。人間のするすべてのことを人間以外のものもするとしても、馬や、犬や、鶏が日記をつけるとはとても思えない。これほどこくめいに日記をつけた人というものは、その点では、人間のうちでももっとも人間的な人だったといえるのかも知れない。」

雨雀の日記のはじめの方にエロシェンコのことが出てきますが、中野は「ひとつの小さな無尽蔵」という章で、エロシェンコ全集について書いています。

「エロシェンコはロシヤの人だった。彼は盲人だった。不思議な縁で彼は日本へ来た。それはロシヤ革命と前後する時期だった。彼は若い日本人から愛せられて四年ほどの日本滞在をすごしたが、その挙句に、社会主義者、アカとして扱われて、住んでいたところから警察まで引きずって行かれー地面の上を文字通り引きずって行かれた。ー敦賀まで持って行かれてそこから追放された。(中略)こういう不幸な生涯のなかで、彼は実にいろいろなものを日本人のために書き残した。ある特別な少数者に見られるように、この人は、どんな不仕合せもその人を不幸にできぬ人の一人だったらしく、またそういう人がたいていそうだったように、どこかの民族の人というよりも、たとえての話ではあるが、生れつき人類に属するような人でもあった。」

エロシェンコは日本滞在中に女性活動家の神近市子と親しかっので、周囲は二人は結婚するのでは、と思っていたそうです。しかし、エロシェンコは、自分は根っからの放浪人だから結婚することはありえないと言いました。この判断はおそらく正しかったのでしょう。神近市子は、その後、愛人で財政援助もしていた大杉栄が伊藤野枝に心移りしたことに激昂し、葉山の旅館で大杉を刺傷するのですから。大杉は一命をとりとめたが大正13年の関東大震災の時に官警の手にかかって、伊藤野枝と一緒に殺されてしまいます。なお、伊藤野枝の伝記は『村に火をつけ、白痴になれ』という題で栗原康が書いています。

活動家といえば『幸徳秋水の日記と書簡』についての記述も興味深い。秋水は菅井スガとの愛人関係を周囲から咎められ中傷されて、さらに実家との面倒な問題などで、実兄や荒畑寒村などにあててたくさん手紙を書いています。大逆事件に連座して菅井スガとともに処刑されてしまうのですが(秋水39歳、菅野スガ29歳)、伝次郎(秋水の本名)を溺愛していた母の多治の手紙は胸を抉ります。息子の処刑前に母は伝次郎に会いに来て、その後故郷の高知に戻り、伝次郎に最後の手紙を書きます。それは死刑囚にあてた手紙というより、幼い息子にあてた手紙そのものです。憔悴した母多治は息子の処刑を待たずに息を引き取ります。「母多治と息子伝次郎の美しい関係については、格別に書くこともない。これは美しさの一つの限りといっていいのだろう。」と中野重治は書いています。

「旧刊案内」という章には、栗本鋤雲、松倉米吉、橘曙覧などの本が並んでおり、この本の白眉といってよいのですが、中でも和田英(旧姓横田)『富岡後記』は目を引きます。明治6年に当時15歳の英は仲間とともに郷里の長野松代から群馬県富岡の製糸工場に女工として働きに出ます。英の二人の弟は後の大審院長横田秀雄と鉄道大臣の小松健次郎で、富岡第1期の女工はこのような地方の名士の娘が多かったのです。フランス人の指導者、フランス式の建物・設備で、女工は毎日風呂に入り念入りに化粧もしていたそうです。英は一年半の研修・労働の後、松代に帰り、地元の紡績場で指導者として活躍します。それにしても、明治の女性のなんと律儀で優しい心持ちでしょう。長州出身の女工への依怙贔屓に怒って談判する姿、脚気になって臥せている仲間の女工への献身的看病、人々の歓声の中を人力車を14台連ねて松代に帰る時の晴れがましさ、など一読忘れ難い。中野重治は松代の工場時代を描いた『富岡後記』を読んで感動し、富岡時代の『富岡日記』を探すのですが、希少本であり、ついに手に入れることはできませんでした。2014年に富岡製紙場がユネスコの世界遺産に選ばれて、今や文庫本でも読めるようになったのはうれしい限りです。

『富岡日記』から半世紀ほど後1925年に出た細井和喜蔵の『女工哀史』は、労働者階級のことをほとんど知らなかった中野重治に衝撃を与えました。「私の村から私よりすこし年上の娘たちが京、大阪の方へ出て行ったが、そのある者は病気になって村へ帰っていた。だれも肺病で、それが家じゅう野良へ出たあとのがらんとした家の中でつくろいものなどをしていて、挙句に私たち子供の見たことのないさびし気なほほ笑みを残して死んで行った。」

細井は奴隷のような職工生活を経て、体を壊し、妻の助力を得ながらこの本を書き上げて、刊行の1ヶ月後、28歳の若さで腹膜炎で死にました。

吉川幸次郎『宋詩概説』。杜甫は宋の時代まではそれほど評価の高い詩人ではなかった、そのことに中野重治は驚いています。南宋の陸游の時代になって、はじめて杜甫はその然るべき評価を得たのです。さらに多くのことを中野は学んでいます。科挙の制度が十全に整備されて、宋の時代には文学と哲学が官僚の絶対の教養となりました。北宋の欧陽脩は貧しい家の出ながら、進士の試験に首席で合格し、後に宰相にまでなりました。彼は、文学・歴史学・考古学などに通じ、一代の碩学でした。この時代には政治の指導者が同時に文化文明の指導者であったのです。他に、王安石、陳与義、范成大、文天祥など燦めくような詩人たちも宰相を経験しています。北宋最大の詩人蘇軾は宰相にこそならなかったが国務大臣を務めています。歴代の大帝国のうち最も文化的な国家といってよいでしょう。
宋詩は、唐詩のような激情には無縁で、日常の細やかなことに目を配ります。主観的にならず、巨視的な目で世界を見、多面的に物事を捉えます。唐詩が酒なら宋詩は茶で、感情を歌うよりも自然の推移とそこに潜む哲学を語ります。まさに二程子や朱子を生んだ時代、哲学の時代だったのです。このことは人生の見方について新しい態度を生んだ、と吉川幸次郎は書いています。

「新しい人生の見方とは、多角な巨視による悲哀の止揚である。人生は悲哀にのみは満たないとする態度をそれは底辺としてはじまる。このことは、従来の詩が、人生は悲哀に満ちるとし、悲哀を詩の重要な主題として来た久しい習慣からの、離脱であった。」

欧陽脩は時代の骨格とその行くべき道を明示したが、詩においては友人の梅堯臣のほうがすぐれていました。梅堯臣は低い官位のまま59歳で伝染病で死にますが、葬儀の日、梅の借家のある路地の住人たちは、弔問の大官の車に目をみはりました。梅堯臣は鋭敏で繊細な神経の持主でしたが、その詩は平淡の一語につきます。欧陽脩が梅暁臣に捧げた詩は二人の友情の美しさを語っていますが、最後の二行は次のようなものです。

初 如 食 橄 欖 初めは橄欖(かんらん)を食う如きも
眞 味 久 愈 在 真の味わいは久しくして愈(いよ)いよ在り

梅堯臣の詩は橄欖つまりオリーブのように、口に入れたさいしょは苦い。かめない。しかし、かみしめればかみしめるほど味が出てくる、というのです。

森鴎外『即興詩人』。アンデルセンの原作を鴎外が訳したもの。1892年から1901年にかけて翻訳されたこの書に中野は深甚な意味を与えています。まず、そのあらすじを振り返ってみましょう。ローマに住むアントニオという少年は幼い時に母を亡くし、カンパニアの牧者のもとで育てられ、ローマの学校で学び、アヌンチャタという女優に恋をし、そのもつれから親友を傷つけ、ローマを去ります。それからナポリに行き、即興詩人として成功し、ヴェネツィアでアヌンチャタに再会します。しかし、彼女は見る影もなく落ちぶれて、アントニオは彼女を追うが、アヌンチャタはアントニオとその愛人マリアを祝福する手紙を残して姿を消してしまいます。

全体のあらすじは極めてロマンチックで、恋愛は19世紀後半の文学が帯びる肉体的欲望の香りはほとんどありません。舞台はイタリアで、主人公の変転とともに各地の風光が絵画のようにはめ込まれ、それがアンデルセン自身の不遇の身の上と重なって深い感興を呼び起こすのです。これが日清戦争と日露戦争の間の日本の読者にどれほどの影響を与えたか考えてみましょう。新しい窓が開かれ、新しく新鮮な風が入って来たと誰しもが感じるでしょう。人間個性の交錯が風景・人情とともに人々の心を打ったのです。一葉の『たけくらべ』が出たのが、やっと1896年だったことを思い出して下さい。「しかしまた一つには、おそらく、『即興詩人』の主人公の運命の悲しさ、主人公の性格の弱さ、これをとりまく人びとの善意ということが、この作を日本人に受け入れやすくさせたのだろうと思われる」と中野は書いています。

さらに、中野は、鴎外が 採用した文体について言及しています。それはこのようなものです。

「われは進みてポンテ、リアルトオに到りて、いよいよ斯土の風俗を知りぬ。エネチヤは大いなる悲哀の郷なり、我主観の好き対象なり。而して此郷の水の上に泛べること、古のノアの舟に同じ。」

和漢洋の三種混交の文体はまったく鴎外独自のもので、あまりに完成されているがゆえに、発展する者も追随する者もいませんでした。一方、二葉亭四迷の『浮雲』(1887)は未完成ながら、それゆえに生産的で、新しい時代の文体の礎になった、と中野は書いています。

この本の最後に置かれたのは、岩波書店が出していた立派な『大航海時代叢書』についてです。私は子供の頃、この叢書が欲しかったが高くて買えませんでした。中野によると、宮本百合子はこの種の本を熱心に読んでいたそうで、彼女の手紙には次のような記述があります。

「すべてのことの突然の変りやうはどうでせう。全く17世紀の帆走船の船長たちがそなへてゐた度胸と明察とが入用の有様です。そして幾分スポーティーな陽気さとが。」

彼女は、この手紙を網走に移送される宮本顕治を追って福島まで来た時に書いたのです。「この種のものを彼女が、自分の運命に引きつけて読んでいたろうこと、前に読んだのを網をしぼるようにして思い出していたらしいことは想像することができる。この叢書のものは、各人にたいして各様にそういう作用をするに違いない。」と中野重治は結んでいます。
宮本顕治も共産党も私の趣味ではないのですが、本とは、読書とは、まさにそのようなものでしょう。中野が戦争末期に召集されたとき、背囊に入れていた文庫本は『ガリア戦記』と『日本虜囚記』だったというのも、なんとなくわかるようです。


|

« 病み上がりのパリ(8)帰国、ガリエラ美術館 | トップページ | 入院生活の諸相 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 病み上がりのパリ(8)帰国、ガリエラ美術館 | トップページ | 入院生活の諸相 »