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2018年7月29日 (日)

病み上がりのパリ(8)帰国、ガリエラ美術館

6月22日(金)

   チェックアウトは12時なので、ゆっくり部屋の整理や土産物のパッキングをしました。12時少し前にロビーに降りて清算。飛行機は夜10時半発なので、荷物をレセプションに預けて、身軽になって外に出ました。どこに行こうか全く決めていず、歩きながら考えました。リュクサンブール美術館ではティントレット展を開催していますが、私はヴェネツィア派は好みではありません。それで、まだ行っていないモンパルナス墓地に行くことを妻に提案したところ、そこでもいいというので、モンパルナス方面に足をむけました。

   ところが、モンパルナス大通りに差し掛かったところ、急に妻がガリエラ美術館に行きたいと言い出しました。ガリエラ宮の美術館は企画展の時のみ開場するので、どうかと思ってネットで調べると、 マルタン・マルジェラの回顧展をやっています。それでは、そっちに行こうと決まりましたが、お腹が空いてきたので、モンパルナス大通りにあった軽食屋でサンドイッチと缶ジュース(セットで5.4ユーロ)を1人ずつ注文しました。ハムと卵のサンドはとても美味しかったので、少食の妻も全部残さず食べていました。この店は通りに開け放たれていて、労働者や学生が黙々とお昼を食べています。

   ヴァヴァンの交差点から82番のバスに乗って、イエナへ。金曜日だからでしょうか、結構混んでいます。そこに、ムク犬を連れた30歳ほどの太った男が乗って来て、私たちの斜め前の空いている席に強引に座ってきました。リードでつながれたムク犬はジャンプして、飼い主の懐にしがみついています。あまりにかわいいので写真をとりました。フランスでは原則として犬はどこでも連れて行って構わないようです。

   イエナに到着。すぐ近くのガリエラ宮に向かって歩き始めたところ、妻が「装飾美術館と間違えた!」とカン高い声を出しました。衣服やインテリアなど装飾美術館とモード専門のガリエラ美術館とでは大分違います。しかも、妻は以前装飾美術館に行ったことがあり、しかも装飾美術館はルーヴルの隣ですから場所も全然違います。間違えるとは信じられません。私には、しかし、どうでもいいことで、ガリエラに行くのは初めてなので、このまま入ってみることになりました。私たちの声に気づいたのか、少し前を歩いていた30歳前後のいかにも洗練された上品な女性が振り返って私たちを見ました。どうも日本人らしい。その女性の後についてガリエラ宮の庭に入ると、その女性は戻って来て、入り口は反対側らしいです、と私たちに教えてくれました。ぐるっと回って入り口に向かう途中で話を聞くと、フランスに一人で来て、明日日本に帰る予定だそうです。
    一人10ユーロ払って入館。ベルギー出身のデザイナー、マルタン・マルジェラの1998〜2009の20年間の初の回顧展だそうです。(マルジェラは2009年に引退しましたが、ブランドはメゾン・マルジェラとして日本にもいくつか支店は残っています。現在のデザイナーはジョン・ガリアーノです)実は、マルタン・マルジェラという名前は私には初耳で、ベルギー派のデザイナーといえば将棋の佐藤天彦名人も愛用するアン・ドゥムルメステールしか知りませんでした。しかし、それほど大規模でない展示を見ただけでもマルジェラというデザイナーの革新的なところがわかります。展示は年代順に代表的なスタイルを並べ、またその時のコレクションのビデオなども流されています。

    ところで、むろんマルジェラの展示も刺激的だったが、私たちを驚かせたのは来場した客のコスチュームでした。半分ほどはアジア系でしたが、皆例外なく、斬新で目を惹く格好です。既存の店で揃えたような安直な服を着ている人間など一人もいません。異様に長いドレス、腰巻を巻いた男性、ターバンのようなものを垂らしている女性など、明らかに手づくりとわかる装いです。わざわざマルジェラの展示を見に来たのですから、ファッションに意識が低いわけはありません。それにしても、あまりに個性的な洗練さに目からウロコが落ちる思いでした。というのも、その中に一人、異様に浮き上がっている格好の見学者がいたからです。ユニクロっぽいファストファッションを無定見に着ている男、マルジェラを見に来たとは思えない安直な服装の人間、なぜこんな人間が紛れ込んできたのか疑問を持たざるを得ない俗っぽい安物の服を着た男、もちろんそれは私ですが、実際、展示を見ているうちに自分が恥ずかしくなりました。

  考えてみれば、自分はファッションについて、ほとんど何も考えていませんでした。大学に入るときに銀座の三越でVANのジャケットを買って以来、だいたいアイビーっぽいスタイルが理想であり、自分に合っていると思い込んでいました。それから何と数十年、なんの反省もなく、思考停止のまま、今ではトラッドっぽくあれば安手のファストファッションでも平気で着ていられるのです。服装にかける金額も限りなく小さくなっています。しかし、ファストファッションや安手のスーツ、安直なネクタイを身につけた人間は、ヘンリー・ミラー風にいえば、毎日精神的に自殺しているようなものだと言えるかも知れません。服装への意識の低さは自身の内面の傲慢さの現れでしょう。確かに、メゾン・マルジェラやアン・ドゥムルメステールを買うためにはユニクロに0を二つ加えねばなりません。だが、一月分の給料を払っても買い続ける人たちがいるのも事実です。 昔読んでうろ覚えですが、ミシェル・レリスは『成熟の年齢』の最後に、知人から「なぜ、いつも変な格好をしているのか」と問われて、「それは自分を守るためだ」と答えています。守るべき高貴さを持てなければ服装には何の意味もありません。

   帰りはイエナから63番のバスでクリニューへ。この辺りで、足りない土産を買い足してホテルに向かいました。預けていた荷物を受け取って82番のバスでポルト・マイヨーへ。バスで無事空港に着きましたが、結構混んでいます。出国カウンターで、中国人旅行客が何人も出国審査で長い間調べられていました。搭乗時にいつも新聞を無料でもらえるので楽しみにしています。ル・モンド、レコー(経済紙)、クロワ(カトリック紙)などで、ビールを飲みながら読んでいるうちに寝てしまいました。羽田到着後、京浜急行で帰途へ。猫に会うために自然と足取りは速くなります。今回は1日も雨に降られなかったのですが、何より大事に至ることがなかったのが幸運でした。何事もない、というのが難しいことで、常に付きまとう緊張感が海外旅行の醍醐味でしょう。出国、帰国の煩瑣な手続きも、実務能力の高い妻がいたらばこそです。しかし、ほんとうに疲れた、しばらくはルーミーとのんびり過ごしたいと思っています。

    Le  seul veritable voyage,  ce  ne  serait  pas  d’aller  vers  de nouveaux  paysages,   mais  d’avoir  d’autres  yeux,  de  voir  l’univers  avec  les  yeux  d’un  autre,  de  cent autres,  de  voir  les  cent  univers  que  chacun  d’eux  voit,  chucun  d’eux  est.

                         MARCEL  PROUST
       A  la  recherche  du  temps  perdu

   唯一のほんとうの旅、それは新しい土地に行くことではなく、他者の眼を持つこと、もうひとつの、100もの眼で世界を見ることである、それぞれの他者が見、それぞれの他者がいる世界を。

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ホテルの裏通りの Les Petits Platons という出版社のウインドウ。子供向けの哲学書や玩具を扱っています。人形は左からフロイト、ニーチェ、アインシュタイン、ソクラテス。

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モンパルナス大通り。右奥に Tschann Libraire が見えます。モンパルナス唯一の本格的書店です。

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ガリエラ宮の庭。入口はこの反対側にあります。

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チケット売り場。マルタン・マルジェラのパリでの初の回顧展です。

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場内は撮影禁止ですが、ほとんど皆 iPhone で撮影していました。さすがに一眼レフを構える人はいませんでしたが。

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普通の服に見えて、よく見るとまず見かけないスタイルです。

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アトリエをそのまま展示するという大胆さ。開場前日までマルジェラ自身が隅々まで展示のチェックをしたそうです。

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マルジェラの特徴的なアイテムであるタビシューズ。むろん日本の地下足袋をヒントにしたのでしょう。

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2000年から2001年のラインアップ。

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アメリカ軍の放出品の8組のソックスを組み合わせて作ったセーター。作り方も丁寧に図示されていました。古着やガラクタを劇的に再生する独特の手腕。

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英語で解説してくれるガイドの人もいました。

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年度によって順番に展示されたコスチューム。その当時のコレクションのビデオも流れています。妻も展示に引き込まれていました。

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ガリエラ宮からイエナの停留所に至る道。これが今回のパリ旅行の最後の写真となりました。

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2018年7月25日 (水)

病み上がりのパリ(7)帰国前日・音楽の日

6月21日(木)

   オペラと旅行という2日続きのハードなスケジュールでかなり疲れました。今日を予備日にしていたのは正解で、10時過ぎまでぐっすり寝て休養もとれました。クリニュー辺りまでぶらぶら歩いて、エコール通りのソルボンヌ書店という本屋で店頭の台から妻がジェリコーの画集(7ユーロ)を抜き取って来ました。この本屋は場所柄観光客も多いが、店内は芸術・哲学・宗教などかなり充実しています。店頭台以外は値付けはやや高いか。

   エコール通りをさらに歩いて、再びモベールの市場で骨つきもも肉とクロワッサンを2つずつ買いました。市場の端にモロッコ雑貨のお店があって、妻がバブーシュというモロッコ皮のスリッパ(18ユーロ)を買いたいと言いました。職場で使いたいというのです。モロッコ人の女性はテントの下から色違いのバブーシュをたくさん出してくれました。試着して気に入ったのでピンクのバブーシュを一足買いました。妻によると日本では倍以上するそうです。

   それからマークス・アンド・スペンサーで大きなバケツに入ったサラダを買って、もも肉やクロワッサンと一緒にリュクサンブール公園のベンチで食べました。途中、一瞬頭がボーとして、ヒヤッとしましたがすぐに治りました。この公園は広くてほんとうに気持ちがよいです。裏通りを通ってホテルに帰る途中、モーリス・ナドー書店という小さな本屋がありました。モーリス・ナドーといえば、かつてモンマルトルの南の本屋巡りしたとき、金曜日書店という本屋の扉にモーリス・ナドー生誕100年というポスターが張ってありました(ナドーは2013年に102歳で死んでいます)むろん、『シュールレアリスムの歴史』のナドーです。そのナドーとどんな関係があるのでしょうか。

   妻がその店のウインドウの中に22ユーロのベンヤミンの本を見つけて、どうしても買いたいと言っています。しかし、22ユーロは高い。しかも扉は閉まっているようなので、入らずに通り過ぎようとしました。すると妻が、中に occasion(割引本)があるよ、と言ったので扉を見ると、確かにそう書いてあります。それで、扉を開けて入って見ると、割引本を入れた箱が二つありました。それを探していると、二つ目の箱の中に、ウインドウにあった同じベンヤミンの本が10ユーロでありました。ちょうどその時、店の主人らしき老人が二階から降りてきました。ベンヤミンの本と10ユーロを渡すと、裏表紙を指差して、ここが少し汚れているから、、、と言っています。そして中国から来たのか、と聞くので、日本人だ、というと、訊ねもしないのに壁に貼ってある写真の作家名(ジッド、ヘンリー・ミラー、ジョイスなど)を教えてくれました。この老人の写真を撮り忘れたのは本当に残念です。(あとで調べたら老人はナドーの息子ジル・ナドーさんらしいです)

   ムフタール通りで土産物を買ったあと近くを散策した後で四時過ぎにホテルに戻りました。風呂に入って、のんびりコーヒーを飲みながらテレビでワールドカップのフランスーペルー戦を観戦しました。途中でワインを飲み始めたら寝てしまい、気づくと試合は終わっていました。今日は音楽の日ということで、七時過ぎから外に出て行きました。ところが、外に出ると風が強く、一気に体が冷えてきました。よりによってノースリーブのワンピースを着てきた妻は部屋に戻ってスカーフを取って来ました。これまでと同じように、スフロ通り、リュクサンブール、サン・ジェルマン・デ・プレなどで、バンドが賑やかな音を出しています。

   しかし、寒い寒い、この寒さにもかかわらず、それぞれのバンドの周りには人々が群がっています。踊りだす者、ビールを競って飲む者、どんちゃん騒ぎを始める者、いつもこんな感じです。サン・ジェルマン・デ・プレに行ったついでに、夜12時まで店を開けている レキューム・デ・パージュ書店に寄りました。ここでfolioの2ユーロ文庫を2冊買って、ホテルに帰りました。明日はいよいよ帰国の日、なにかあっという間の感じです。

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ソルボンヌ書店。クリニューの近く。この辺りは観光客目当ての店も多いが、この店の店頭本は良心的。

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リュクサンブール公園。広くて、静かで、一種華やいだ公園というのは他ではあまり考えられません。シモーヌ・ヴェイユが高校生の時、この公園で露出狂の男にあったというエピソードは有名です。

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パンテオンに続くスフロ通り。パンテオンの前にソルボンヌ法学部があるので、この辺は法律の専門書店が軒を連ねます。

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ムフタール通り。ヴァイオリンを弾くおじさん。この通りも今や観光客の絶えない通りとなりました。元々はラブレー以来の古い通りです。

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コントルスカルプ広場。ムフタール通りはここから始まります。すぐそばにヘミングウェイの住んでいたアパルトマンもあり、左岸でもっともcosy な場所になっています。今日は音楽の日なので、昼頃からバンドが演奏を始めています。

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モーリス・ナドー書店。出版もしています。シュールレアリスムに特化した書店のようです。主人と言葉を交わしましたが、お互いに何を言っているのかわかりませんでした。

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夜7時過ぎですが、スフロ通りではもう演奏が始まっています。

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スフロ通りとサン・ミッシェル通りの交差点。歌っている人の横を通行人が容赦無く通り抜けて行きます。

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オデオンからサン・ジェルマンに抜ける道。店内での演奏がスピーカーから大音量で流れています。

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サン・ジェルマンおお通り。中年のバンドの人気は今ひとつ。見る人の目も冷ややかです。

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サン・ジェルマン・デ・プレ教会前の広場。たまらず踊り始めている人もいます。

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オデオンで。デキシーランド・ジャズの元気な演奏。服も揃えています。

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妻がモベールの市場で買ったモロッコのバブーシュ(18ユーロ)職場でスリッパとして使っているそうです。

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今日買った本。左上ジェリコーの画集(7ユーロ)。これはお買い得でした。その隣はベンヤミンの『一方通行路・ベルリンの幼年時代』(10ユーロ)。出版元はもちろんモーリス・ナドー書店です。下はレキューム・デ・パージ書店で買ったfolioの2ユーロ本。『パリはいつも祝祭日』(モンテーニュからぺレックまでパリ賛美の文章を集めたもの。そしてチャンドラーの『Deniche la fille』(「トライ・ガール」抜粋らしい)。チャンドラーの仏訳を読むのは初めて。ミステリーは最初の10ページが試練で、それを乗り切れば割と楽に読めます。

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スポーツ専門紙L'Equipe.。1−0で勝利したペルー戦の記事。「夏の味わい」と題してフランス代表の快進撃を伝えています。むろん左はグリーズマン、右はムバッペです。昔、パリ・サンジェルマンを応援するため、お金を払ってフランス・リーグの試合を観ていましたが、仕事が忙しくてやめてしまいました。近年のフランスの好調は異端分子を外して、和を最優先にしたのが効いています。代表監督のことをフランス語でselectionneur(選ぶ人)という時がありますが、まさにその通り、チームとは目標に向かって狂ったように一丸となるとき実力以上の力を発揮するのです。

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2018年7月22日 (日)

病み上がりのパリ(6)ルーアンへの旅

6月20日(水)

   8時53分発の列車に乗るため7時半頃ホテルを出ました。27番のバスでサン・ラザール駅へ。出勤時なのにバスも道も空いています。ところが、サン・ラザール駅へ着くと、列車の到着につれて、夥しい人がすごい勢いでプラットホームから出口に向けて押し寄せてきます。電光掲示板を見ると、私たちの列車は表示されてあったが、まだホームの番号は出ていません。待合室に行くと、たくさんのテーブルがあるのに、眠っている人がほとんど占領しています。妻が有料トイレ(0.8ユーロ)に行っている間、空いている椅子で水を飲んでいました。

   18番という番号が表示されて、急いでホームへ。二等はホームの一番端なのでかなり歩きます。指定された車両の指定された座席に行くと、大きなリュックを横の座席に置いたバックパッカーが占拠しています。その後ろの空いている席に座ると、どうも二等はどこに座ってもよいようです。座って発車を待っていると、髭を生やしてリュックを背負った青年が私たちの前に現れて、小声で何か言っています。聴き取れなかったが、どうも物乞いらしい。断ると、丁寧にお詫びの言葉らしきことを言って、向かいに座っていた母と子の方に行きました。何と母親らしき人は財布を開けて小銭を渡していました。快速なので1時間10分ノンストップでルーアンを目指します。車窓の風景は、よくある田園風景で、すぐ飽きてきました。しかし、ノルマンディーに入るとColombageという木組みの家がちらほら見えてきました。

   10時過ぎにルーアン に到着。古都ルーアンはパリの北西部ノルマンディー地方の首府で、ジャンヌ・ダルクが15世紀に火刑に処せられたことでも知られています。駅前に早速見えるのはジャンヌの幽閉されていた塔ですが、工事中で中には入れませんでした。
   まずルーアン美術館へ。地方の美術館としてはたいへん充実しているという評判ですが、さてどうでしょうか。ルーアンは2016年から主だった美術館・博物館がすべて無料になっています。建物はかなり古い、というより古色を帯びたまま放置された感があるのです。部屋部屋を進んで行くと、半分工事中の部屋があったり、額縁だけ展示されている部屋があったりします。所蔵作品は中世初期から現代まで、かなりの数ですが、特に中世末期からルネサンスにかけての宗教画に特徴があるようです。私たちは、かつて、クリニューやルーヴルで宗教絵画を見尽くした気持ちもあるので、その辺は足早に通り過ぎました。しかし、ルネサンスまでが異常に多いので、肝心の近代に来る前に観る人は疲れてしまいます。もっと精選して要領よく展示してくれたらと思います。
   案内の係員も地方の事務員という感じで洗練されていない。というより、パリが洗練されすぎているのでしょう。ルーヴルやオルセーやオランジュリーを観た後で上野の国立博物館や西洋美術館に入った時に感じるある種の淋しさがどうしてもそこには感じられます。いや、これはルーアンという町自体にも言い得ることで、ルーアンは古く、あまりに古いのですが、その古色は剥き出しで、煤は払われておらず、石畳は凸凹で歩きにくい。町中たくさんの教会に埋め尽くされていて、大聖堂の尖塔は何の目印にもなっていない、教会の尖塔があちこちにそびえ立っているからです。宗教的雰囲気が半ば土着的に残っていながら、そのすぐ近くにセックスショップやタトゥーの店が並んでいたりします。

  美術館を出たらお腹が空いてきました。駅に戻って、カフェ・ノルマンディーという店で妻はデセール付き昼の定食、私はサラダとシードルを頼みました。食後すぐルーアン大聖堂へ向かいます。立派な聖堂で、大きいが素朴なところがよい。大伽藍という言葉がぴったりです。その後、妻の要望で鉄工芸博物館へ。建物は何と使われなくなった教会堂です。中身はどうということもない鉄製の日用道具で私は全く興味を感じませんでした。続いて、今度は私の趣味で陶器博物館へ。ここも鉄工芸と同じく来館者がほとんどいず、係員は見学者がいると飛んで来ていろいろ説明してくれます。しかし、魅力的なものは一つもありませんでした。私は、陶器は中国の華やかで可愛いものが好きです。

   それからメイン・ストリートのジャンヌ・ダルク通りを歩いてBeau Voisin (善き隣人)通りに入ります。ここで目当ての Librairie Tel-Phil (神学・哲学書店)を訪ねました。神学といっても主に聖書関連で、むしろ社会科学・精神科学・文学・芸術関連の本が並んでいて、しかも値札がみな安い。家の近くにあったら毎日通いたい本屋です。本を三冊買って再びジャンヌ・ダルク通りへ戻り、Amitie (友情)書店へ。ここはルーアン最大の新刊書店で雑誌と一般書籍の二つの建物が合わさった大きな書店です。専門書もしっかり揃っていて、哲学・文学も充実して、とても人口11万の都市の本屋とは思えません。

   旅の最後に町のシンボルともいうべき大時計 Gros-Horlogeを見学しました。15 世紀に作られた立派な時計。これは見るべき価値があります。大時計のある通りは観光の中心で、ルーアンで唯一観光客で混雑していました。
   帰りの列車に乗るためルーアン駅へ。サン・トゥーアン教会、コルネイユとフローベールの家など見逃したところは多いが日帰り旅行としては満足しました。帰りは各駅停車で1時間半ほどでパリ着、また27番に乗って、途中サンミッシェル通りのマークス・アンド・スペンサーでスコーン、サラダなどを買ってホテルに帰りました。

Intercite

フランス国鉄の在来線特急列車アンテルシテ。フランスの電車・機関車のデザインは伝統的に無骨なものが多い。そこが気に入っています。

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ルーアン駅到着。ノンストップだと一時間ちょっとです。

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ルーアン駅前にあるジャンヌ・ダルクが幽閉されていた塔。工事中で入れませんでした。

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ルーアン美術館。地方の美術館にしては質も量も特筆に値します。玄関手前の像はノルマンディー出身でルーアンで少年時代を過ごしたニコラ・プッサン(1594ー1665)。しかし彼の画は一枚もありません。

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作者不詳の宗教美術が多いのが特徴。この執拗な遠近法には呆れました。

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ルーアン出身のジェリコー(1791ー1824)の「馬」。ドラクロアに先立つロマン派の大物。ルーヴルにある「メデューサ号」は有名。惜しくも32歳で落馬でなくなりました。やや病的なところが魅力。

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カミーユ・コロー(1796−1875)の「アヴレイの村の朝」。コローの画ではルーヴルにある「モルト・フォンテーヌの思い出」が最高傑作でしょう。

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言わずと知れたモネの「ルーアン大聖堂」。なぜこんなにぼかして描くのか疑問でしたが、大聖堂を目の当たりにしてわかりました。実際、このとおりなのです。

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ピサロの「雪のチュルリー公園」。最晩年のピサロは窓から見える街の風景を描いていました。

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ルノワールの「菊の花束」(1909)初めてパリに来て、初めてオルセーでルノワールを見たときの衝撃は忘れません。写真とはまったく違うタッチの風合い、鮮やかな色、活き活きとした肉質、この菊の画にはさらにスピード感さえ感じられます。

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シスレーの「マルリーのシュニル広場ー雪の光景」(1909)。構図、色彩ともに完璧です。

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駅前のカフェ・ノルマンディーでの昼食。手前は妻の頼んだ定食14ユーロ。向こうは私のシーザーズ・サラダ11ユーロ。冷えたシードルがびっくりの美味しさです。ルーアンは緯度が高いのでワインは出来ないそうです。

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定食に付いてきたデセールのレモンタルト。日本のタルトの三倍くらいの大きさです。レモンの味がピリッと効いて美味しかった。

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ルーアン大聖堂。モネが描いた通りです。

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最奥の内陣。精緻を極めて美しい。

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側廊の聖人たち。

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鉄工芸博物館。ゴシック式教会がそのまま博物館として使われています。

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陶器博物館の庭。ここも古い建物、丁寧に管理された庭が素晴らしい。

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ルーアンの名物大時計。15世紀末に作られ、16世紀にこの場所に設置されました。観光客が集まっていました。

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大時計の裏側。底にもみごとな彫刻が彫られています。

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ボー・ヴォアザン通りの「神学・哲学書店」。私好みの本がいっぱいありそうな本屋でした。

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神学・哲学書店の店内。安くて買いやすい。何でもあるが、軽いペーパーバックのような本は一冊もありません。また再び訪れる機会があるでしょうか。

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神学・哲学書店で買った本。上はレオン・ブロワの『貧しき女』(4ユーロ)。下の左はオットー・ランクの『ドン・ジュアンとその分身』(2ユーロ)。ランクは「人は生まれることによって傷つく」という出生外傷の理論で有名なフロイト派の精神分析学者。私はアドラーなんかよりずっと好きです。右はアルフレッド・ド・ヴィニの戯曲『チャタトン』(1ユーロ)。18歳で自殺した英国詩人が主人公。表紙の女性はヒロインのキティ・ベルを演じたマリー・ドルヴァルです。

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2018年7月18日 (水)

病み上がりのパリ(5)パリ・オペラ座を楽しむ

6月19日(火)

    引き続き良い天気が続いています。まず、サン・ミッシェルのジベール・ジューヌで本を探します。ところが、店が広すぎて、目移りして、1時間ほど物色したが、なかなか決まりません。出ようとすると、妻が「これを買いたい」とJ.P. ヴェルナンの本を持ってきました。それだけ買って店を出て、今度は通り向かいのジベール・ジョセフへ。そこでルーアンの地図を買って、モノプリで水とアンズのジャムを買い、ポールでバゲットとモッツァレラチーズのサンドイッチを買って、クリニューの公園で食べました。

     コンパニ書店へ行く途中、裏通りに名前の分からない古本屋があったので、2ユーロ均一本の箱を探ってみました。読んでないシムノンの小説があったので2冊買いました。実は、昔、妻が評判のよさそうなシムノンのメグレ本をアマゾンでまとめて買ってくれたので、全部読んでしまいました。たいへん易しくて読みやすいのですが、時を置きながら読むと、フランス語の成長具合がよく判るようです。
   コンパニ書店のウインドウをじっくり眺めてから店内へ。ここは私が一番好きな本屋で、広すぎないので、今話題の本や新刊本を要領よく手にとって見ることができます。妻と私はばらばらになって好みの棚で本を探しましたが、奇しくも二人ともベンヤミンの本を選んで買っていました。それにしても、知的なものが隅々までしみ込んでいるフランスの本屋のような雰囲気の本屋が日本にはほとんどないのは残念です。

   ホテルに帰る前に、ホテルのすぐ裏のBoulangère Moderneというパン屋でエクレアを二つ買いました。実はこのパン屋は6、7年前に来店したことがあるのですが、その時は母親と美少年の息子で店を切り盛りしていました。だが、今日は、かつての息子はヒゲを生やしたハンサムな青年になり、おそらく彼の奥さんであろう可愛い女性と店に立っています。ホテルに帰って、買ったばかりのエクレアをダージリンの紅茶とネスカフェを飲みながら食べました。こんなに早く帰って来たのは、昼間の2時からサッカーW杯の日本ーコロンビア戦があるからです。ところがW杯を中継しているテレビ・フランス1では日本戦を中継していません。ネットで何とか見れないかと思っても、ホテルのwifiが弱いのか全然見れません。かろうじて、実況板で状況を想像出来ました。なんと日本が開始早々1点を入れています。それからは予想を超えた展開で、ついに日本は南米から初めて勝ち点3をとったのです。

   今日は妻も私も体調はすこぶる良く、早々とオペラに行く準備をしました。妻が和服を着てお茶を飲んでいる間、例によって私が今日のオペラのあらすじを説明しました。演目はドニゼッテイの『ドン・パスクヮーリ』で、あらすじが複雑なので、途中で私の方が頭がこんぐらかって来ました。主役のドン・パスクヮーリは裕福な70歳の男。独身なので財産をすべて甥のエルネストに譲ろうと考えています。ところが、エルネストは年上の未亡人ノリーナと結婚するつもりです。怒ったドン・パスクヮーリは、自分が若い娘と結婚して財産を産まれる子供に譲る、と宣言します。ドン・パスクヮーリの友人マラテスタは、またエルネストの友人でもあって、なんとかエルネストとノリーナを結婚させようと策略を練ります。この後がまた複雑で、喜劇特有の入れ替わりと変装があって、明るく積極的なノリーナが後半大活躍して、最後はハッピーエンドで終わります。

    エレベーターでロビーに降りるとき、背の高いドイツ人の婦人と一緒になりました。(このホテルはなぜかドイツ人が多い)妻の和服を見て、「着物ローブを初めて見ました。素敵ですね」と言ってくれました。6時ちょうどにゲイ・リュサック通りから27番のバスでオペラへ向かいました。ところが、リヴォリ通りで全員降ろされ、通りの向かいのバス停で、27番か81番のバスを待ってくれという話です。終点まで行かないことはよくあることらしく乗客は冷静です(私たちもむろん初めてではありません)。長く待つこともなく81番が来たので、それに乗りました。オペラではグッズ売り場を見てから、右のボックス席へ。係員が鍵を入れて扉を開けてくれます。部屋は9人分の椅子があり、私たちは二人とも左側の前から三番目の席でした。ところが、その左側の前の一、二番の席が開演近いのに誰も来ません。すると右側の最前列に座っていたフランス人の初老の三人連れの婦人が、妻に、一番前に座っちゃいなよ、と言うのです。折よく顎髭を生やしたハンサムな若い係員が顔を見せたので、「ねえ、誰も来ないからこのマダムが座ってもいいでしょう?」と聞いています。係員は和服の妻をチラッと見て、にっこり笑い、魅惑的な声で、「照明が消えたら、どうぞ移って下さい」と言いました。

   というわけで、シャンゼリゼ劇場と同じく、最前列で観ることができたのですが、今夜は二人とも全く眠くありません。オペラが始まると、とりわけドン・パスクァーリとノリーナの歌声に圧倒されました。妻によると、シャンゼリゼ劇場の歌手とはレベルが一段違う、それほど素晴らしいということです。私は野球帽とスタジャンを身につけたエルネスト(黒人の役者です)のテノールが美しく感じられました。ごちゃごちゃした脚本をのぞけば、十分楽しめるオペラでした。

   帰り道、オペラ座の横で27番のバスを待っていたら、日本人の上品な老夫婦に話しかけられました。以前フランスに住んでいたそうで、人生最期の思い出にもう一度パリを訪れてみたそうです。バスはセーヌ河の夢見るような夜景に沿って進み、幸せそうな夫婦はサン・ミッシェルで降りて、私たちはリュクサンブールの停車場から静かなスフロ通りをホテルに向かって歩いて行きました。

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コンパニ書店の裏の名の知れぬ古本屋。均一本を探すスピードは誰にも負けません。

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コンパニ書店には9個のウインドウがあって、それぞれに面白い。これは映画関連のウインドウ。真ん中の上はピーター・ボグダノヴィッチとの対話によるハリウッドの巨匠たち。ヒッチコックからオットー・プレミンジャーまで9人の監督。下は1935ー1975の黄金時代の日本映画を101人の映画人でみる事典。表紙は1958年小津安二郎の「彼岸花」で女優は左から有馬稲子、山本富士子、久我美子。

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このウインドウは「哲学の散歩道」と題されています。左のドゥルーズ、ガタリよりも右のバンジャマン・コンスタンのプレイヤッド文庫(約8000円) が私には垂涎の的です、中身はおそらく大体持っていますが。

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レジのところにあった、アルバム・ボーヴォワール。プレイヤッド文庫を三冊買うともらえます。非売品なので古書価は高くなるのが普通。

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コンパニ書店の地下の哲学書売り場。フランスの書店は平台が多いので大変見やすい。

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Boulanger Moderneで買ったキャラメルのエクレア(2.5ユーロ)。とろけるような美味しさです。

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懐かしいサンジェルマン・ロクセロワ教会。ここでバスを降ろされて、向かいの停留所から81番に乗り継ぎました。

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オペラ大通り。7年前に死んだ次兄はこの風景が好きだと言っていました。放射状のパリの道は必ず何処かのモニュメントにぶつかります。

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オペラ座の階段。なぜか観光客が集まります。

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オペラ座のグッズ売り場の奥。開演前の散歩。

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ボックス席最前列からの眺め。

Baignoire

身仕舞いを整える小部屋もついています。バルザックの時代には他の用途にも使われたかも知れません。

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幕間entracteの光景。階段の下にプログラムを売る黒人の係員がいます。

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アンコール。脚本は破茶滅茶だが、それ以外は素晴らしい。ノリーナ役のナディーヌ・シェラの広い音域の迫力ある歌声、隣のエルネスト役ローレンス・ブランレーの素晴らしいテノール。他にパスクヮーリ役、マラテスタ役ともに聞き応えありました。

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古本屋で買ったシムノンの「猫」と「鼻」(ともに2ユーロ)、ジベール・ジューヌで買ったヴェルナンの「宇宙・神々・人間」(6.2ユーロ)、コンパニ書店で買ったベンヤミンの著作集三巻(9.9ユーロ)と「カール・クラウス」(7ユーロ)。特にベンヤミンは邦訳が読みにくいので妻は仏訳を欲しがっていました。

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2018年7月16日 (月)

病み上がりのパリ(4)ドラクロワ祭?

6月18日(月)

   妻の強い要望で、ルーヴルで開催されているドラクロア展に行くことになり、8時ちょうどにホテルを出るはずでした。(遅くとも8時半にルーヴルに着かないと長い行列に巻き込まれるので)ところが、出発時に私が、急に胃が痛くなり、しばらく ベッドで休まざるを得なかったのです。おさまるのを待って出発して、9時開場のルーヴルに着いたのは9時15分で、もう大変な人の列です。45分待ってやっと入場。直ちにナポレオン・ホールのドラクロア展に向かいましたが、セキュリティ・チェックの機器が故障しているらしく、ここにも長い列が出来ています。そこで、リシュリー翼2階の北ヨーロッパ絵画の部屋に行くことにしました。前回、工事中で、オランダ・ベルギー絵画を見ることが出来なかったのです。

    エレベーターで一気に最上階へ。すぐに、オランダ絵画の部屋が見つかって、ライスダール、フランス・ハルス、レンブラント、フェルメールなど、見物客がほとんどいないので、ゆっくり見ることができました。それから、ついでに、ナポレオン3世の居室を見学。しかし、昔、一度見たことがあったのを思い出しました。そして、いよいよドラクロワ展へ。さすがに、セキュリティチェックの修理も終わったのか、スムーズに入場できました。それにしてもすごい人、この規模のドラクロワの回顧展は没後100年の1963年以来ということです。ドラクロワ作品をもっとも多く所蔵しているルーヴルはもちろん、リール、ナンシー、 ボルドーなどの諸都市、米・英・独・加など海外からも合わせて約180点が集結しました。

    たいへん満足してルーヴル美術館を出ました。歩いてサン・ラザール駅へ。ネットでSNCF(フランス国鉄)から買っていた20日のルーアンーパリ間の切符の復路のみが取り消されていたので確認しに行ったのです。近いと思ったサン・ラザール駅がとても遠い、オペラ大通りはいつまで歩いても終点に着きません。しかも、おびただしい人の波、集団で歩く中国人観光客を押し分けながら、やっとサン・ラザール駅に着きました。すぐにvoyage informationに。広い部屋は満員で、整理券を取ると、なんと60人近く待たねばなりません。案内係は、45分くらい待つ、と言っていましたが、もっとかかりそうです。空いているソファに座って電光掲示板の数字を注視していました。窓口は12もあるが、休憩しているのかサボっているのか半分ほどしか開けていません。しかも一人一人の対応にとても時間がかかっているので、番号は遅々として進みません。近くにいた老婦人が、諦めたのか、若い女性に Bon courage!(頑張って!)と言って自分の整理券を渡していました。

     時間が経つにつれ、諦める人が多くなったのか、急にバタバタと番号が進んで行きました。表示されて五秒ほど経っても窓口に来ないと次の番号に行ってしまうので 皆必死で掲示板を見ています。よろよろしてソファーに腰掛けていた老人が、自分の番号が表示されると同時にピョコーンと立ち上がって窓口に走っていったのには驚きました。結局1時間ほど待って私たちの番になりました。窓口は若い黒人の男性で、途中から英語に切り替えてくれたのでスムーズに話しは進み(隣の窓口の係員とおしゃべりしながらでしたが)、無事予定の列車の一本早い切符を打ち出してくれました。

   時間があったので、サン・ラザール駅から27番のバスで、サン・ジェルマンーサン・ミッシェルまで行きました。当日と翌日の二日間、ルーヴルの半券を見せるとドラクロワ美術館が無料になるのです。「今日はドラクロワ祭りだね」と妻もやや興奮気味です。フルスタンベルク広場のドラクロワ美術館に行くと、日本語をけっこう話せる中年男性の係員が迎えてくれました。実はずっと以前、私たちはここを訪れていたのですが、展示を見るとすっかり忘れているものばかりでした。ここには、ドラクロワ自身の作品よりも関連する画家の絵が多い。しかし、別宅のアトリエに挟まれた庭は木立に囲まれてとても涼しい風が入ってきます。

   ビシュ通りのCartonでパンを買おうと思ったらもう閉まっていたので、角にあるポールでクロワッサンとパン・オ・ショコラを二つずつ買い、カルフールで牛乳、ヨーグルト、サラダなど買って帰りました。途中のキオスクでパリジャン(1.5ユーロ)を買いましたが、スカスカの内容で、ホテルに置いてあるフィガロの方が読み応えがありました。
   

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珍しく妻が写真を撮ってくれと頼んできました。場所はパリでもっとも面白味のない橋であるカルーセル橋。しかし、この橋は左岸からルーヴルに通ずる随一の橋。27番のバスもこの橋を渡り、ガラスのピラミッドの横を走ります。

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ヤーコプ・ファン・ライスダール(1628〜1682)の「灌木」。右下の人間と動物は、ただ灌木の大きさを示すためにだけ描かれています。低地オランダの砂地の砂を風が吹き上げ、灌木は大きく風下に揺れています。絶妙な雲の表情。ライスダール以外の誰がこんな風景を描こうと思ったでしょうか。

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ホッベマ(1638?〜1709)の「水車」。ライスダールの弟子であり、後継者でもあるホッベマは水車や農家のある風景に特色が出るようです。

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ルーヴルのリシュリー翼2階のオランダ室まで辿り着く人は少ないでしょう。フェルメールの「レースを編む女」も誰にも邪魔されずに見ることができます。左隣りの画はメツーの傑作「リンゴを剥く女」。

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フランス・ポスト(1612?〜1680)の「リオ・サオ・フランシスコとマオリスの要塞」。ポストはブラジルの風景を描いたオランダ唯一の画家。ブラジル滞在中に描いた2枚の油彩画のうちの一枚。雲の存在感の重さがオランダの風景を思わせます。

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レンブラント(1606〜1669)の「エマオの晩餐」。エマオはキリストが復活した町、キリストがパンをちぎった時、人びとは彼が復活したキリストであることに気付きます。以前もブログに載せたことがありますが、今度はフロマンタンの『オランダ・ベルギー絵画紀行』(高橋裕子訳・岩波文庫)から引用してみましょう。フロマンタン(1820〜1876)の時代にはこの画は注目されず、ルーヴルの片隅に埋れていました。「ヨーロッパ広しといえどもどこかにキリストを描かなかった画家などがいるだろうか。レオナルド、ラファエロ、ティツィアーノ、あるいはファン・エイク、ホルバイン、リュベンス、ヴァン・ダイクー画家たちはキリストの神々しさを強調したり、人間らしさを強調したりした。、、、しかし、かつてこんなキリストを想像した画家がいただろうかー蒼ざめ、やつれ、正面を向いて坐り、最後の晩餐のときにしたように、パンをちぎって分けようとしている。身に付けているのは巡礼の着物だ。黒ずんだ唇には受難の責め苦が跡を残しており、、、確かにいったん死んで蘇った人のものとしか言いようのないある種の雰囲気が、この人物にはまとわりついているようだーこんなキリストをレンブラント以外の誰が想像しただろう。」

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フランス・ハルス(1580?〜1666)の「ジプシー女」。すばらしい肖像画。天才はどんな題材も軽々と仕上げます。彼が最高傑作の「養老院の女性理事たち」(1664・フランス・ハルス美術館)を描いたのは80歳の時でした。

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妻が、ルーヴルで開かれた「ドラクロワ展」で熱心にリトグラフを見ています。会場も熱気に溢れていたが、こんなに没入する妻の姿も珍しい。

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「墓場の孤児(1824)」と題された作品。「ドラクロワ展」のグッズ売り場にはこの画のファイルや小物がありました。カタログの表紙にもなっていました。

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代表作の一つ「サルダナパールの死(1827) 」ドラクロワのもっとも優れた理解者ボードレールを引用して見ましょう。「君たちは、淫らな版画を長時間眺めた後で、私のように激しい憂鬱に落ちこんだことがあるだろうか。君たちは書架の中に埋もれた、あるいは店屋の紙挟みの間に迷い込んでいる淫蕩画録を探しながら、ときおり味わう魅力、また時にはそうしたものから受ける不快な気持ちの理由を考えたことがあるだろうか。、、私はこれらの画を見ると、夢想の広漠とした斜面を下る。さながら猥褻な本が我々を青の神秘の大海の方へ駆り立てるように。」(全集第4巻・人文書院)

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「母虎と戯れる子虎(1830)」ドラクロワは動物を生涯書き続けました。日記やメモの端にも馬やジャガーや豹がまるで動き回るように描かれています。

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ドラクロワのノート。

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グッズ売り場。重いからといって45ユーロのカタログを買わなかったのは今でも心残りです。

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ドラクロワ美術館の中庭。涼しくて気持ちよい庭です。

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ドラクロワ美術館の入口。サン・シュルピス寺院の「天使と闘うヤコブ(1861)」から。アブラハムの孫、イサクの子、ヤコブは一晩中天使と組み合って勝利します。負けそうになった天使はズルをしてヤコブの腿の上の筋を外します。ユダヤ人が腰の筋の肉を食べないのはこれに由来する、と聖書には書いてあります。

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ギュスターヴ・モローの「天使とヤコブ(1878)」も対比して展示されていました。ヤコブは見えない姿の天使と無意味な闘いをしています。ロマン主義と象徴主義の違いはまさにここにあります。

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やっと手に入れたルーアンからの帰りの切符。

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2018年7月11日 (水)

病み上がりのパリ(3)プティ・パレで冷や汗をかく

6月17日(日)

   朝7時半に起きましたが、妻は昨夜の疲れで、まだぐっすり寝ています。一人でホテルを出て、日曜に市の出るモンジュ広場へ。ところが、まだ店を準備中で、かろうじて開けていた果物屋でサクランボを半キロ(3.5ユーロ)買いました。それから途中のムフタール通りに戻って、店を開けているパン屋でクロワッサンとパン・オ・ショコラを2つずつ、鶏肉屋で骨つきもも肉を2本(1本2.5ユーロ)を買いました。昨日のモベールの肉屋より高いのは、観光客の多いムフタール通りだからでしょう。帰り道、ホテルの裏の通りで、ベージュのカーディガンに同じ色のパンツを着けた小柄な金髪の若い夫人とすれ違いました。小さなむく犬を散歩させており、離れていたのにかすかに上品な香水の香りがします。ホテルの前の道で、一周してきたのか、またその女性と出会いましたが、なんと私たちのホテルの隣の隣の建物に入って行きました。

   ホテルに戻るともう妻は起きています。コーヒーを沸かし、パンとサクランボを食べました。サクランボがとても美味しかったので食べ過ぎたのが後の悲劇につながったとは、この時はむろん思いもしませんでした。今日は日曜でお店はほとんど休みなので、妻は2時からのプティ・パレでのピアノ・コンサートと5時半からのサントゥスタッシュ教会でのオルガン・コンサートに行くことを希望していました。それで63番のバスで国民議会まで行って、アレクサンドル3世橋を渡ってプティ・パレへ。今日も良い天気が続いています。アレクサンドル3世橋からグラン・パレとプティ・パレが向かい合いっているこの風景はパリでもっとも豪奢な風景のひとつと言ってもよいでしょう。

      それにしても、2年前のパリとは全く違うパリを私たちは見ています。2年前は、まだテロの影に怯えて、観光客は少なかったのです。グラン・ブールヴァールの名物レストラン、シャルティエも閑古鳥が鳴いていました。ところがどうでしょう、今はこれまでの閉塞感をぶち破るように、どの通りも観光客で溢れています。左岸のサン・ミッシェル通りも、人種の博覧会のように、黒人、白人、南米の人々がぎっしりと隙間なく歩いています。機関銃を持った軍人も巡回しているが、華やかな街のなかでは浮いているようにさえ見えます。今回の滞在中(ほとんど左岸にいたのですが)一度もスリらしき連中とは会いませんでした。

  プティ・パレに入場。コンサートまで大分あるので、常設展示を見ていくことにしました。以前入館した時は、時間に余裕がなく、大急ぎで通り過ぎたので、今回はじっくり見ようと思ったのです。ルーヴルを小規模に圧縮したような感じですが、きちんと見るとさすがに疲れます。まず、ギリシア美術から。すべては、そのまま超一級の出来栄えです。ギリシアで頂点まで行ってしまったことが、西洋の悲劇で、中世美術はそれに比べると貧弱で、病的で、グロテスクです。続いて、近代美術、クールベ、ドラクロワ、シスレー、ピサロなど、これはたいへん充実しており、一作も逃さず見ようとするとぐったり疲れます。

   休憩のため、プティ・パレ内のカフェへ。日曜日だからか客がいっぱいで、比較的空いている二階席に上りました。ここは、とてもゆったりして雰囲気が素晴らしい。妻はビール、私はミネラルウォーターを注文しました。ところが、妻のビールを一口もらって飲んだ途端、いやな感じの腹痛を感じました。すぐ治るだろうと思っていると、痛みはどんどん酷くなり、胸にまで上って息が苦しくなりました。だいたい五年おきに経験するゲップが出ずに胸が詰まる症状で、病院でランソプラゾールという薬をもらって飲むようになってから軽い胸焼けすらしなくなって安心していたのです。おそらく、今朝サクランボを食べ過ぎたのが原因でしょう。この症状が起きると、じっとしていられない息苦しさで冷や汗がどっと出るのですが、前回はコーラを二本飲むという逆療法でゲップを出してかろうじて治りました。今回はさらに苦しい感じで、爪でテーブルをかきむしるほどでした。しかし、妻はまったく心配していないようで涼しい顔です。私が、救急車を呼んだ方がいいかも知れない、と言って、初めて事の重大さに気づいたらしく呆然とした顔になりました。だが、一瞬後に、(椅子がちょうどソファーのように長かったので)その場に横になると、不思議なことに痛みがケロリと治ってしまったのです。それからすぐにゲップが出て、嘘のように元気になりました。

   ところが、ここに至って、反対に妻の方に異変が起こったのです。救急車という言葉を耳にして、トラウマがよみがえり、パニックに似た気持ちに襲われたようです。去年の12月に起こった私の発作と救急車による入院(救急車の中で私は意味不明なことを呟いていたのですが)、その時の先の見えない不安と、亡くなってしまうかもしれないという恐怖、がよみがえってきたのです。パリで救急車に乗ってアメリカン・ホスピタル(旅行保険の指定病院)に行くことを想像したら誰しも絶望的になるでしょう。私はすぐに立ち上がって笑顔を見せ、妻を元気づけようとしましたが、妻は気が抜けたように座ったままでした。そして、ピアノ・コンサートも、オルガン・コンサートも聞かないで、すぐにホテルに帰りたいと言うのです。

   プティ・パレ横の停留所から、今度は72番のバスで帰ろうとしましたが、日曜日で本数が少ないのか、なかなか来ず、やっと来たバスは超満員でした。それでも、無理やり乗って、古本屋や土産物屋が並ぶセーヌ河の岸に沿って進み、シャトレで降りました。シテ島にかかる橋を二つ渡って、サン・ミッシェル広場まで来て、日曜もやっているカルフール・エクスプレスというコンビニのようなスーパーでサラダやお菓子やワインを買ってホテルへ。まだ2時過ぎなので、部屋の清掃が済んでいるか、済んでいないならロビーでどのくらい待てばいいのかをレセプションの黒人男性に聞いたところ、彼のフランス語と英語が癖がありすぎて、さすがの妻も細部が判然としない様子です。ところが、たまたま、いつも私たちの部屋を掃除してくれる眼鏡をかけたインド人の若い女性が居合わせて、レセプションの男性にはフランス語で、妻には英語でわかりやすく通訳してくれたのです。私はルソーの『告白』の中で宴会の客の誰も読めなかった壁のラテン語を給仕をしていたルソーが読んで皆を驚かせた場面を思い出しました。そのインド人の女性は、順番を飛ばして、すぐに私たちの部屋を掃除してくれたので、心付けを渡したのはもちろんのことです。

    部屋で軽く食事して、妻がベッドで休みたいというので、私は風呂に浸かりながら、午後の時間をどう過ごそうか考えていました。ひとりで本屋巡りしたいのですが、あいにく日曜です。店はほとんどみな閉まっているでしょう。すると妻が浴室の戸を開けて「メキシコードイツ戦が始まったよ」と知らせてきました。14日から始まったW杯サッカーですが、パリでは熱気はそれほどではありません。土産物屋にはワールド・カップのグッズが溢れているものの、フランスが気楽なグループ(C組)に入ったせいか、メディアもまだのんびりしています。しかし、ドイツ対メキシコは重要な試合、ワインを飲みながら(さすがにビールなど炭酸は怖いので)ゆったり観ていたら、余裕を持って開始したドイツが次第に焦っていく面白い展開、思わず終了まで夢中になって観てしまいました。

  その後ぐったり疲れて、夜早くにベッドに入り死んだように寝ていたところ、深夜1時頃、iPhoneの防災速報が三度にわたってけたたましく鳴りました。妻も私もびっくりして飛び起きたところ、大阪で震度6弱とのこと。大阪には心配な人も心配でない人もいないので、また寝てしまいました。

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パンテオン広場に面した道。突き当りの左が私たちのホテル。家賃の高騰するパリで、この辺に住めるのはかなり裕福な人です。

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アレクサンドル三世橋とその向こうにグラン・パレ(左)とプティ・パレ(右)の尖塔が見えます。

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プティ・パレの入口に続く道。観光客が続々と。

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ギュスターヴ・ドレの「涙の谷」。死の直前に描かれた油絵。キリストがあらゆる人々(王侯から乞食まで)に慰めを与える光景。ドレは天才すぎて圧倒されるばかりです。現代のバンド・デシネ(フランスの漫画)の祖型とも言うべき膨大な挿絵その他を残し、51歳で死にました。

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クールベが描いた社会改良家プルードンとその二人の娘の有名な肖像。クールべは同郷のプルードンの思想に大きな影響を受けました。遊びに夢中な末の娘はこの画が出来た時にはすでにコレラで死んでいます。

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シスレーの「モレ・シュール・ロアンの教会」。シスレーはこの教会をたくさん描き、これは夕方の光景。シスレーのやさしい筆触は日本人好みだが、彼の本当の才能は構成的できっちりしした輪郭線にあります。この画もまさに傑作です。

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ピサロの「クノックの村」。クノックはベルギーの北の海辺の村。フランス大統領カルノー(熱力学者カルノーの甥)がアナキストに暗殺された(1894)時、アナキズムに好意的だったピサロは逗留中だったクノックに念のため留まっていました。赤い屋根と黒い雲が印象的。私はピサロが大好きです。

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メアリ・カサットの「水浴」。ペンシルヴァニアの富豪の家に生まれ、パリで印象派の運動に加わったカサットの画を嫌いな人はいないでしょう。この優しさと透明性が彼女の欠点といえば欠点です。空を入れない上からの構図は彼女が影響を受けたドガ譲りのもの。場所は彼女が晩年を送ったパリ郊外のボーフレスヌの城の池だそうです。

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モーリス・ドニの「ペロ・ギロックの海水浴」。いわゆるナビ派の中心人物。ナビ派の源流はゴーギャンですが、ゴーギャンに見られる荒々しく朴訥な宗教性はドニにはありません。第三修道会の式服を着て死んだドニには一種共感し難い抹香臭さがあります。

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プティ・パレのカフェで。二階はゆったりして居心地が良い。私が苦しみ出したのはこの後すぐです。

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プティ・パレの中庭。パリのシンボルマークであるセーヌ河に浮かぶ舟の彫刻があります。

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プティ・パレのギリシア室。レキュトスほか垂涎の名品ばかりです。

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サン・ミッシェル広場の交差点。日曜日なので人は少ないが、かつての明るいパリが戻ってきました。

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2018年7月 6日 (金)

病み上がりのパリ(2)バルザックとロッシーニ

6月16日(土)

   機器の故障で、出発が遅れ、温かい飲物が提供出来ず、手洗いの水も使用不能だったことで、エール・フランスからお詫びのメールが来ていました。しかし、一通のメールで事足りるとするのではあまりに不遜です。せめてスタバのコーヒー一杯無料券ぐらい配るのが筋というものでしょう。
   昨日は疲れすぎてあまり眠れず、二人とも朝5時すぎに目が覚めてしまいました。コーヒーと紅茶を入れて、昨夜モノプリで半額で買ったパン・オ・レザンを半分ずつ食べました。7時半にホテルを出てモンジュ広場へ。月に一度週末に古本市が開かれるらしいので行ってみたが、何もありません。よく考えたら、早朝から古本を買う人もいないでしょう。気を取り直して、モンジュ通りをしばらく歩いてモベール広場へ。ここは木曜と土曜に市が出ます。小規模の市場ですが、けっこう買い物客が多い。市場に面して店を出している鶏肉屋からは、もう美味しそうな匂いがしています。「あれが食べたい」と妻が指差した骨つきもも肉(1.9ユーロ)を二つ買って店を出ようとすると、白いあごひげを生やしたみすぼらしい老人が、ケースの中の手羽先を指差して、私たちに向かって「これは美味い、これは美味い」と言っています。どうも手羽先を買ってほしいらしいが、むろん無視しました。

   その並びのパン屋でクロワッサン(1ユーロ)を二つ買って、歩いてすぐのクリニュー公園のベンチに腰掛けて食べました。骨つきもも肉もクロワッサンも熱々で素晴らしくおいしく、妻が感嘆の言葉をあげています。先ほどの手羽先をねだった老人もきっと食べたかったんだろう、買ってあげればよかったかな、と思いました。クリニュー公園は細長くとても狭い公園で、鳩が何羽か、私たちの周りを遠慮がちに囲んでいます。

   お腹がいっぱいになったので、サン・ミッシェル通りのSNCF(フランス国鉄)の支店へ。実は大分前に6月20日(水)ルーアン行きの往復切符をネットで買った(二人で40ユーロ)のですが、パリ行きの一週間ほど前に、SNCFからメールがあって、帰りの切符だけ annule(取り消された)とのこと。それで、前後の列車を探したが、ネットではなぜか変更できなかったのです。妻はオデオン座で働く友人のJ...さんへ問い合わせたところ、おそらく手違いだろうが、今はスト中なので何が起こるかわからない、ホテルから5分のところにSNCFの支店があるから聞いてみれば、と言われたのです。それで、サン・ミッシェル通りの支店をたずねたところ、人が二人ほど入口の前に立っていて、ドアに張られた紙を見ています。何と、今日は休みにするとのこと、例によって理由などは書いてありません。入口に立っていた老女が、「さっき来たら、いきなり紙が張ってあった」と半ば諦めたように私たちに向かって言っています。これでは仕方ない、月曜日にサン・ラザール駅まで行って聞いてみることに決めました。

   ところで、今回のストは4月から6月まで二日間ストの後五日間正常というサイクルで行われています。私たちに関係あるのは17(日)18(月)22(金)のみですが、コメディ・フランセーズがストの日の公演を中止したりしているので、日曜のゴルドーニ『抜け目のない未亡人』を観たかったが、心配でチケットは買いませんでした。一般にフランス人はストに寛容と思われているようですが、今回は労使の歩み寄りは期待できず、期限いっぱい続きそうで、さすがに国民も国鉄職員も気疲れが見えてきました。強力な国鉄労組に対して同情など持てず、さらにフランス国民の最大の関心ごとであるバカンスに抵触するかもという危惧もあるのです。

   それから、ジベール・ジョセフでバスの地図を買って(以前買ったものはボロボロになったので)、クリニューから70番のバスに乗ってバルザック記念館に行くことにしました。バスの終点であるラジオ・フランスの近くにあるのです。ところで、70番に乗ると、席はちらほら埋まっていて、空いている四人がけの席に座ろうとして、ハッと身を引きました。何と、床にとぐろを巻いたウンコがあるのです。それを避けて、横の二人がけの椅子に座っていると、後から乗って来る人もみなびっくりしてその席を避けています。しばらく後に乗ってきた老婦人が、ウンコを蹴飛ばしているので、よく見るとオモチャでした。日本ではまず引っかからないイタズラですが、道にふつうに犬のウンチが落ちているパリではバスの中にあってもおかしくないと思ってしまいます。

   70番のバスには初めて乗りましたが、このバスはオテル・ド・ヴィル(パリ市庁舎)を出発し、サン・ジェルマンーオデオンを通り、サン・シュルピス寺院の横をすり抜け、パリの南部をゆったりと走って、セーヌ河をグルネル橋で渡ります。あまり混雑せず、観光客もほとんどいない路線で、私はたいへん気に入りました。セーヌ河を渡ると、後ろの席の幼児が「ラジオ・フランス! ラジオ・フランス!」と叫んでいます。前方に、丸く特徴ある大きな建物が終点のラジオ・フランスで、ここはフランス国立管弦楽団の本拠地であり、France Inter, France musique(クラシック),France Culture などで私には馴染み深い。

  それにしても何という良い天気でしょう。ラジオ・フランスの停留所には、バルザックの家へ行く矢印が付いており、その方角へ坂を登って行くと、西方に開けた坂の上からエッフェル塔が美しく立ち上がるのが見えます。パリは私たちが到着する前日まで雨が続いて天気が悪かったそうです。一週間ほど前に、J...さんから、パリ滞在中、隣の人とするバーベキューパーティに参加しないかというメールが来たのですが、妻は行きたがっていたが、私が渋っているうちに、天候不順が続くので中止になってしまいました。「コミュ障にも困ったもんだ」と妻は私にあてつけて言うのですが、わざわざパリまで出かけて、なぜ初対面の人たちとバーベキューをやらなければならないのか私にはわかりません。気苦労はするだろうし、そういうところでは国際標準語である英語が活躍するだろうが、仕事で英語を使う妻はともかく、会話力は日本語すらもどかしい私には楽しい時間を過ごせるとは思えません。

   バルザックの家(Maison de Balzac)。坂上から急な階段を降りて行くと芝生の上に緑色の平屋の建物があります。入館料は無料ですが、見学者はごくわずかです。展示は、バルザックの使用した家具、彼の筆蹟、胸像、版本、人間喜劇の登場人物ほぼすべての肖像を焼き付けた陶器、などです。バルザックの作品の多く、少なくとも主要作品のいくつかを読んだ人でなければ面白くないでしょう。私はこの16区の静かな住宅地に立つ緑色の慎ましい建物と、その広くない芝生の庭、人を驚かせない謙虚な展示、パリを見渡せる素敵な眺望、が好きになりました。

   また70番のバスに乗ってマザリーヌ通りで降りて、近くのカルフールで牛乳、サラダ、ヨーグルト、水、ビールなどを買ってホテルに戻りました。8時からのシャンゼリゼ劇場でのオペラのため昼寝しようと思ったのです。寝過ぎると疲れが出るから2時間で起こしてと妻が言うので、二人とも5時前に起きました。それでも、昼寝をしたら一気に疲れが出たのか、妻は、できるならホテルで休んでいたいと言いだしました。しかし、そういうわけにもいかず、だらだらと出発の準備。和服の着付けが思ったより早く済んだので、妻がコーヒーを飲んでいる間、私がロッシーニの『チェレネントラ La Cenerentola』のあらすじを大急ぎで説明しました。

   ラテン系の民族はファンタジーが苦手ですが、とくにイタリアはその傾向が強い。シンデレラの物語も、イタリアに来ると、カボチャの馬車も妖精の老婆も登場せず、ガラスの靴さえ普通の腕輪に変えられてしまいます。前妻の娘チェレネントラは、後妻とその二人の娘にいじめられ、一日中、掃除や洗濯や料理に追われています。折も折、お城の王子の結婚相手を探すべく、王子の家庭教師が乞食に変装して娘のいる家を訪問しているのですが、チェレネントラの家にもやってきて、意地悪な姉妹に追い返されました。ところが、チェレネントラはパンと飲み物でその乞食(実は家庭教師)を暖かくもてなします。またまた折も折、お城の御触れ係が各家を訪問し、王子が結婚相手を決めるべく舞踏会を催すと告げるのです。絶好のチャンスと姉妹は張り切りますが、チェレネントラには家で留守番を言いつけます。

   家庭教師からチェレネントラのことを聞いた王子は、従者に変装してこっそりチェレネントラに会いに行きます。意地悪な姉妹は従者ということで全く相手にしませんが、チェレネントラと王子は一目見て互いに心を奪われます。舞踏会の日、姉妹は王子に変装している従者に、それとは知らず媚びを売ります。留守番を言い付けられたチェレネントラに、家庭教師がきれいな服を用意してお城に連れて行きます。着飾ったチェレネントラは姉妹にも誰にも気付かれません。チェレネントラは従者(実は王子)に再会し、王子は彼女に目印の腕輪を贈ります。舞踏会の翌日、腕輪の持主を探し、王子はついにチェレネントラを見つけます。ここで、初めて従者が実は王子であったことがわかり、姉妹もチェレネントラも驚きます。結婚式が行われ、チェレネントラは意地悪な姉妹を許して、壮大なハッピーエンドとなります。

   63番のバスで、クリニューからイエナに向かいます。開演前にブランドの本店が軒を連ねるモンテーニュ通りを散策しようとしたのですが、あまりに場違い過ぎて早々に諦めました。シャンゼリゼ劇場の前は、まだ開演40分前なのに人が大勢集まっています。前回は日本人が一人もいなかったのに、今回は一人で来たらしい若い日本の女性がいました。いよいよ開場、私たちは案内係りに誘導されて左手のボックス席に入りました。9人入る部屋で、私たちは前から三列目ですが、34ユーロの席なので贅沢は言えません。特徴的なのは観客のほとんどが案内係の女性にチップをあげていることです。しかもその渡し方が実にさりげない。案内係の女性も小さなポシェットを携帯していて、そこにお金を入れています。先ほどの若い日本女性も財布から小銭を出して渡していました。実は、パリ・オペラ座やバスチーユ・オペラ座は国立なので案内係は国家公務員で、とくにチップの必要はないのですが、シャンゼリゼ劇場は民間の団体の劇場なので、チップは大事な収入源らしいのです。そういえば、会員になって会費を払ってくれという案内がシャンゼリゼ劇場から来ることがあるのです。

   ここは本来はクラシック音楽の劇場で、年に数回オペラを上演するのですが、開演前の舞台には、すでにオーケストラがいっぱいに陣取って音合わせなどをしています。普通は下のオーケストラボックスで演奏するので、舞台を占拠していてはオペラを上演するスペースはあるのだろうか、と心配していると、時間になって、指揮者が壇上に上がり、ロッシーニ『チェネレントラ』の序曲が始まりました。劇的な展開を予想させるスピード感のある調子、メリハリのついた飽きさせない音楽で期待は嫌が応にも高まります。序曲が終わると、意地悪な姉妹が登場して、素晴らしい歌声が沈黙を切り裂くように響き渡ります。衣装は現代風で、極めて簡素です。オーケストラの前の狭いスペースで歌うので、ピアニストにちょっかいを出したり、指揮台に上ったり、喜劇なのでやりたい放題です。

    私たちの部屋ですが、オペラが始まっても私たち以外誰も来なかったので、一番前の席を独占してしまいました。ステージがとても近く感じ、歌手の表情までしっかり読み取れます。これまでのオペラ鑑賞で一番臨場感ある席になって、開演からしばらくは舞台に釘付けになりました。しかし、しかし、ここで時差ボケによる疲労が一気に来て、妻も私も抗いがたい睡魔に襲われました。10時の幕間休憩の時に、ついに耐えきれず途中退場してしまいました。今考えても本当に残念なことでした。イエナから、また63番のバスで帰り、11時過ぎにホテルに帰って、ビールも飲まずに寝てしまいました。

   

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ホテルからすぐ裏のトゥルヌフォール通り。バルザックの時代にはヌーヴ=サント=ジュヌヴィエーヴ通りという名前でした。この通りの24番地に『ゴリオ爺さん』の主要舞台となる下宿屋ヴォケール館があったこととなっています。

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トゥールヌフォール通り25番地、メリメが1820年に住んでいたというプレートが張られています。この向かいがヴォケール館の場所。

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モベールの市場。小さな規模だが、場所がら観光客の姿も多い。

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「バルザックの家」の入口。無料だが来場者はとても少ない。

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バルザックの椅子。いかにも座りやすそう。彼は一晩に50杯のコーヒーを飲みながら執筆していました。

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バルザックの胸像。

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シャンゼリゼ劇場の左側ボックス席。前の二つが空いたので絶好の席に座ることが出来ました。歌手もオーケストラもすぐ近くに見ることができました。

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ジベール・ジョセフで5.4ユーロで新しく買ったバスの本。パリのバスを乗りこなすためには、全部の停留所、ルートの地図、日曜日に走るか、夜間も走るか、それらが全て載っているバスの本が不可欠です。

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2018年7月 1日 (日)

病み上がりのパリ(1)ジャスミンの香るホテル

6月15日(金)

    退院して半年しか経ってないのにフランスまで飛んで行くのは無謀でしょうし、実際、あと1年ほどは、どこにも行かずにのんびり療養したい気持でした。ところが、一年ほど前に妻が安い航空券が出てると言い出して、私もよく考えずに承知してしまったのです。さらに、妻のお気に入りのホテル・グランゾムのプロモーション中で格安で泊まれるというので、一も二もなく決まってしまいました。それから恐ろしいことが起こったので、12月9日に私が倒れて救急車で運ばれ浦安の大学病院に入院し、10日ほどで退院したものの、むろん体調はまだ覚束なく、親類からもフランス行きを中止するよう忠告を受けたのです。だが、貧乏人の性か、飛行機のキャンセル料がもったいなく、しかもホテル宿泊料の半分は前金で払っており、おまけに、オペラ座のチケットも払い戻し不可(5ユーロ払っておけばキャンセル可だったのですが)なので、中止するという選択肢はありませんでした。

  されば、懸命に療養・リハビリするしかなく、しかし、滞在時の食費・交通費・入場料などの諸費用を捻出するために働かざるも得ず、なかなか苦しい毎日となりました。4月の血液検査の結果、血糖値の少しの上昇・ヘモグロビンの少なさ(これは生まれつき)を除けば細部に至るまで基準値内におさまっていて、はじめて旅行への明るい見通しが立ちました。実のところ、毎日のウォーキングで、足腰にはかなり自信がついていたのです。

    6月15日朝、10時半発のエール・フランス機に乗るため、七時前に家を出ました。朝早いのは苦手なので、もっと遅い便がよかったし、航空会社も日本のほうがサービスがよさそうだったのですが、「高いからダメ」と妻からすべて却下されました。ANAやJALなど割高で問題にならず、安くても韓国・中国・中東経由など怖くて乗れず、AFの直行便に限ると、この時期のこの時間がいちばん安いそうです。子どもの頃、実家に時折置いてあったアメリカの写真雑誌〝LOOK″の裏表紙には、いつもAFの一面広告があって、それは可愛く微笑む若い金髪のCAの写真でした。エール・フランスという航空会社への私のイメージは、まさにそれだったのですが、実際に遭遇するのは屈強な中年女性のCAばかりで、人生とはかくのごとしと納得させられるのが常でした。

   とまれ、早朝にもかかわらず、それまでのフランス行に比べて気分はとても良いものでした。途中のコンビニでおにぎりとお茶を買って(おにぎりこそ日本人の心を和ませるソウルフードです)京成の駅に向かったのですが、好事魔多しで、駅構内の踏切を渡るとき、大型のキャリーケースの車輪が引っかかって車輪のゴムが外れてしまいました。これでは重いキャリーケースを引きずって行かざるを得ず、まず快適な旅は不可能です。妻は家に戻って別のキャリーケースに換えることを提案しましたが、パッキングの時間を考えるとそれは無理というもので、仕方なくそれを引いて空港に向かいました。なお、このキャリーケースは10年以上前に買ったエディ・バウアーのもので、丈夫さだけが取り柄でしたが、過酷な使用が祟ったのでしょう。
成田空港に着くと、早速修理屋をさがしたら、朝8時半から開いている店があったので、たずねると、両輪のゴムの付け替えなら15分ほどで済むということで頼むことにしました。1600円という値段に妻は不満そうでしたが、パリで修理することを考えたら安いものです。

   無事に搭乗、出発と行きたいのですが、ボーイング777の水タンクの不備が見つかって、一時間も出発が遅れました。結局、根本的には直らず、機内でのコーヒー、茶などの温かい飲物サービスは停止で、しかもトイレの手洗いの水も使えないというのです。これは、トイレの後に徹底的に手を洗う病的な習慣を持つ私にはショックな告知でした。離陸の遅延で、パリ乗り継ぎの乗客については代わりの乗り継ぎ便の補償など発生して落ち着かない時間でした。無事離陸、私たちの席は777の最後尾のさらに最後尾の二人席で、隣にいつも立っているCAの男性は妻とよく話していて、私たちの席に、ワインやビールや果てはコニャックの小瓶まで持ってきてくれました。

   私は、機内ではあまり映画は見ないのですが、日本では上映されないようなフランス映画があると見てしまいます。その日は L’Apparition と La Promesse  de L’Aube という2作を見てみました。
   まずL’Apparition (出現・顕現)ですが、フランスにはよくある、いわゆるマリア様を見たという少女の話です。ただし、ミステリー仕立てなのが面白い。報道記者のジャックは、シリアの戦闘で15年来の友人を失くして失意のどん底にあり、また爆裂で負傷した耳の痛みと過酷な戦場経験による後遺症にも苦しめられています。そこに突然バチカンから電話で呼び出されます。行ってみると、南仏で話題になり、すでに巡礼者たちを呼び寄せているアンヌという少女が体験したL’Apparition の真偽を調査するメンバーの一員になってほしいとのこと。実はバチカンには常に膨大な数のapparitionの報告が世界中の教会から寄せられており、バチカンはこれらを厳しく調査して、ごくわずかの事例(ルルドやファティマなど)のみ公認しているのです。

    ジャックが選ばれたのも、無神論者で幻想を持たないリアリストであることが評価されたのでしょう。ジャックは、他の調査員と違って、アンヌの交友関係を一つ一つ洗っていき、アンヌが周囲の無理解と期待の重荷に耐えきれなくなり自死を図るに至って、アンヌは誠実な少女だが彼女に「顕現」はなかったと思います。しかし、ジャックは、最終的なバチカンへの報告には奇蹟はあった、とするのです。それはなぜか? 映画は最後に思わぬ秘密が明かされて、深い余韻を残します。

   もうひとつの映画La Promesse de l’Aube(夜明けの約束)は日本ではあまり読まれていないフランス作家ロマン・ギャリの同名の自伝的作品の映画化です。ユダヤ人の両親の元リトアニアで生まれたギャリは、母親の異常な溺愛の中で、ワルシャワ、ニースなどで少年時代を過ごします。この母子の濃密な関係はセルジュ・ゲンズブールとジェーン・バーキンの娘シャルロット・ゲンズブールとコメディ・フランセーズ出身の俳優ピエール・ニネイによって鬼気迫る演技で再現されました。作家となり、自由フランス軍の航空士として英雄となったギャリは、三年間手紙だけで音信を取っていた母親のもとに凱旋します。しかし、すでに母親は死んでいて、息子を勇気づけるために書き続けられた200通以上の手紙は母親の友人に託されて息子のもとに定期的に送られていたのでした。ギャリは映画監督、外交官など波乱万丈の生涯を送った後、66歳で、パリの自宅で38口径のスミス&ウェッソンを口にくわえて自殺します。「あなたにとって、老い、とは」という質問に彼は「破局だ。しかし、私にはそれは来ない、決して」と答えています。なお『夜明けの約束』は邦訳されて出版されており、これでもかというエピソードの連続で全く退屈させません。
   ともに2時間を越す長い映画、しかも音声・字幕ともフランス語なので見るのにたいへん疲れました。予定を遅れて夕方フランス着、目当てのパンテオン広場のHotel Grande hommes にたどり着いたのはもう8時を回っていました。10時半まで開いているサン・ミッシェル通りのモノプリで水、パン、お茶、ビールなど買って、倒れるように眠ってしまいました。

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パンテオン広場に面したホテル・グランゾム。このホテルは三度めの滞在。アンドレ・ブルトンがはじめて自動記述の実験を行ったホテル。夭折した画家佐伯祐三の滞在したホテルでもあります。玄関前に飾られたジャスミンの強烈な匂いが遠くからでも香ります。

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グランゾムのレセプション。インテリアは第一帝政様式(ナポレオン様式)です。

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グランゾムのロビー。以前よりやや寛いだ感じになっていました。

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54号室。椅子は18世紀様式で腰が浅くて座りにくい。

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