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2018年7月11日 (水)

病み上がりのパリ(3)プティ・パレで冷や汗をかく

6月17日(日)

   朝7時半に起きましたが、妻は昨夜の疲れで、まだぐっすり寝ています。一人でホテルを出て、日曜に市の出るモンジュ広場へ。ところが、まだ店を準備中で、かろうじて開けていた果物屋でサクランボを半キロ(3.5ユーロ)買いました。それから途中のムフタール通りに戻って、店を開けているパン屋でクロワッサンとパン・オ・ショコラを2つずつ、鶏肉屋で骨つきもも肉を2本(1本2.5ユーロ)を買いました。昨日のモベールの肉屋より高いのは、観光客の多いムフタール通りだからでしょう。帰り道、ホテルの裏の通りで、ベージュのカーディガンに同じ色のパンツを着けた小柄な金髪の若い夫人とすれ違いました。小さなむく犬を散歩させており、離れていたのにかすかに上品な香水の香りがします。ホテルの前の道で、一周してきたのか、またその女性と出会いましたが、なんと私たちのホテルの隣の隣の建物に入って行きました。

   ホテルに戻るともう妻は起きています。コーヒーを沸かし、パンとサクランボを食べました。サクランボがとても美味しかったので食べ過ぎたのが後の悲劇につながったとは、この時はむろん思いもしませんでした。今日は日曜でお店はほとんど休みなので、妻は2時からのプティ・パレでのピアノ・コンサートと5時半からのサントゥスタッシュ教会でのオルガン・コンサートに行くことを希望していました。それで63番のバスで国民議会まで行って、アレクサンドル3世橋を渡ってプティ・パレへ。今日も良い天気が続いています。アレクサンドル3世橋からグラン・パレとプティ・パレが向かい合いっているこの風景はパリでもっとも豪奢な風景のひとつと言ってもよいでしょう。

      それにしても、2年前のパリとは全く違うパリを私たちは見ています。2年前は、まだテロの影に怯えて、観光客は少なかったのです。グラン・ブールヴァールの名物レストラン、シャルティエも閑古鳥が鳴いていました。ところがどうでしょう、今はこれまでの閉塞感をぶち破るように、どの通りも観光客で溢れています。左岸のサン・ミッシェル通りも、人種の博覧会のように、黒人、白人、南米の人々がぎっしりと隙間なく歩いています。機関銃を持った軍人も巡回しているが、華やかな街のなかでは浮いているようにさえ見えます。今回の滞在中(ほとんど左岸にいたのですが)一度もスリらしき連中とは会いませんでした。

  プティ・パレに入場。コンサートまで大分あるので、常設展示を見ていくことにしました。以前入館した時は、時間に余裕がなく、大急ぎで通り過ぎたので、今回はじっくり見ようと思ったのです。ルーヴルを小規模に圧縮したような感じですが、きちんと見るとさすがに疲れます。まず、ギリシア美術から。すべては、そのまま超一級の出来栄えです。ギリシアで頂点まで行ってしまったことが、西洋の悲劇で、中世美術はそれに比べると貧弱で、病的で、グロテスクです。続いて、近代美術、クールベ、ドラクロワ、シスレー、ピサロなど、これはたいへん充実しており、一作も逃さず見ようとするとぐったり疲れます。

   休憩のため、プティ・パレ内のカフェへ。日曜日だからか客がいっぱいで、比較的空いている二階席に上りました。ここは、とてもゆったりして雰囲気が素晴らしい。妻はビール、私はミネラルウォーターを注文しました。ところが、妻のビールを一口もらって飲んだ途端、いやな感じの腹痛を感じました。すぐ治るだろうと思っていると、痛みはどんどん酷くなり、胸にまで上って息が苦しくなりました。だいたい五年おきに経験するゲップが出ずに胸が詰まる症状で、病院でランソプラゾールという薬をもらって飲むようになってから軽い胸焼けすらしなくなって安心していたのです。おそらく、今朝サクランボを食べ過ぎたのが原因でしょう。この症状が起きると、じっとしていられない息苦しさで冷や汗がどっと出るのですが、前回はコーラを二本飲むという逆療法でゲップを出してかろうじて治りました。今回はさらに苦しい感じで、爪でテーブルをかきむしるほどでした。しかし、妻はまったく心配していないようで涼しい顔です。私が、救急車を呼んだ方がいいかも知れない、と言って、初めて事の重大さに気づいたらしく呆然とした顔になりました。だが、一瞬後に、(椅子がちょうどソファーのように長かったので)その場に横になると、不思議なことに痛みがケロリと治ってしまったのです。それからすぐにゲップが出て、嘘のように元気になりました。

   ところが、ここに至って、反対に妻の方に異変が起こったのです。救急車という言葉を耳にして、トラウマがよみがえり、パニックに似た気持ちに襲われたようです。去年の12月に起こった私の発作と救急車による入院(救急車の中で私は意味不明なことを呟いていたのですが)、その時の先の見えない不安と、亡くなってしまうかもしれないという恐怖、がよみがえってきたのです。パリで救急車に乗ってアメリカン・ホスピタル(旅行保険の指定病院)に行くことを想像したら誰しも絶望的になるでしょう。私はすぐに立ち上がって笑顔を見せ、妻を元気づけようとしましたが、妻は気が抜けたように座ったままでした。そして、ピアノ・コンサートも、オルガン・コンサートも聞かないで、すぐにホテルに帰りたいと言うのです。

   プティ・パレ横の停留所から、今度は72番のバスで帰ろうとしましたが、日曜日で本数が少ないのか、なかなか来ず、やっと来たバスは超満員でした。それでも、無理やり乗って、古本屋や土産物屋が並ぶセーヌ河の岸に沿って進み、シャトレで降りました。シテ島にかかる橋を二つ渡って、サン・ミッシェル広場まで来て、日曜もやっているカルフール・エクスプレスというコンビニのようなスーパーでサラダやお菓子やワインを買ってホテルへ。まだ2時過ぎなので、部屋の清掃が済んでいるか、済んでいないならロビーでどのくらい待てばいいのかをレセプションの黒人男性に聞いたところ、彼のフランス語と英語が癖がありすぎて、さすがの妻も細部が判然としない様子です。ところが、たまたま、いつも私たちの部屋を掃除してくれる眼鏡をかけたインド人の若い女性が居合わせて、レセプションの男性にはフランス語で、妻には英語でわかりやすく通訳してくれたのです。私はルソーの『告白』の中で宴会の客の誰も読めなかった壁のラテン語を給仕をしていたルソーが読んで皆を驚かせた場面を思い出しました。そのインド人の女性は、順番を飛ばして、すぐに私たちの部屋を掃除してくれたので、心付けを渡したのはもちろんのことです。

    部屋で軽く食事して、妻がベッドで休みたいというので、私は風呂に浸かりながら、午後の時間をどう過ごそうか考えていました。ひとりで本屋巡りしたいのですが、あいにく日曜です。店はほとんどみな閉まっているでしょう。すると妻が浴室の戸を開けて「メキシコードイツ戦が始まったよ」と知らせてきました。14日から始まったW杯サッカーですが、パリでは熱気はそれほどではありません。土産物屋にはワールド・カップのグッズが溢れているものの、フランスが気楽なグループ(C組)に入ったせいか、メディアもまだのんびりしています。しかし、ドイツ対メキシコは重要な試合、ワインを飲みながら(さすがにビールなど炭酸は怖いので)ゆったり観ていたら、余裕を持って開始したドイツが次第に焦っていく面白い展開、思わず終了まで夢中になって観てしまいました。

  その後ぐったり疲れて、夜早くにベッドに入り死んだように寝ていたところ、深夜1時頃、iPhoneの防災速報が三度にわたってけたたましく鳴りました。妻も私もびっくりして飛び起きたところ、大阪で震度6弱とのこと。大阪には心配な人も心配でない人もいないので、また寝てしまいました。

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パンテオン広場に面した道。突き当りの左が私たちのホテル。家賃の高騰するパリで、この辺に住めるのはかなり裕福な人です。

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アレクサンドル三世橋とその向こうにグラン・パレ(左)とプティ・パレ(右)の尖塔が見えます。

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プティ・パレの入口に続く道。観光客が続々と。

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ギュスターヴ・ドレの「涙の谷」。死の直前に描かれた油絵。キリストがあらゆる人々(王侯から乞食まで)に慰めを与える光景。ドレは天才すぎて圧倒されるばかりです。現代のバンド・デシネ(フランスの漫画)の祖型とも言うべき膨大な挿絵その他を残し、51歳で死にました。

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クールベが描いた社会改良家プルードンとその二人の娘の有名な肖像。クールべは同郷のプルードンの思想に大きな影響を受けました。遊びに夢中な末の娘はこの画が出来た時にはすでにコレラで死んでいます。

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シスレーの「モレ・シュール・ロアンの教会」。シスレーはこの教会をたくさん描き、これは夕方の光景。シスレーのやさしい筆触は日本人好みだが、彼の本当の才能は構成的できっちりしした輪郭線にあります。この画もまさに傑作です。

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ピサロの「クノックの村」。クノックはベルギーの北の海辺の村。フランス大統領カルノー(熱力学者カルノーの甥)がアナキストに暗殺された(1894)時、アナキズムに好意的だったピサロは逗留中だったクノックに念のため留まっていました。赤い屋根と黒い雲が印象的。私はピサロが大好きです。

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メアリ・カサットの「水浴」。ペンシルヴァニアの富豪の家に生まれ、パリで印象派の運動に加わったカサットの画を嫌いな人はいないでしょう。この優しさと透明性が彼女の欠点といえば欠点です。空を入れない上からの構図は彼女が影響を受けたドガ譲りのもの。場所は彼女が晩年を送ったパリ郊外のボーフレスヌの城の池だそうです。

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モーリス・ドニの「ペロ・ギロックの海水浴」。いわゆるナビ派の中心人物。ナビ派の源流はゴーギャンですが、ゴーギャンに見られる荒々しく朴訥な宗教性はドニにはありません。第三修道会の式服を着て死んだドニには一種共感し難い抹香臭さがあります。

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プティ・パレのカフェで。二階はゆったりして居心地が良い。私が苦しみ出したのはこの後すぐです。

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プティ・パレの中庭。パリのシンボルマークであるセーヌ河に浮かぶ舟の彫刻があります。

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プティ・パレのギリシア室。レキュトスほか垂涎の名品ばかりです。

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サン・ミッシェル広場の交差点。日曜日なので人は少ないが、かつての明るいパリが戻ってきました。

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