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2017年6月18日 (日)

アントワーヌ・コンパニョン『アンチモダン 反近代の精神史』(前編)


プルーストの母親は、1889年9月に、つまりフランス革命から百年に当たる年に、プルーストに宛てて、「お前は18世紀を馬鹿にしているように思えるよ」と書いています。この言葉は、この母親が、ユダヤ人解放はフランス革命の成果だと考えていたアドルフ・クレミュー(1796-1880フランス系ユダ人の弁護士・政治家)の甥娘であったことを考えると深い意味を持っています。『失われた時を求めて』の中でフランス革命は誇張あるいは皮肉をもって描かれているにすぎないが、とアントワーヌ・コンパニョンは書いています。「『失われた時を求めて』がしばしば一つの百科事典を思わせ、そこには世界のすべてが描かれているにしても、18世紀は不在であることによって作品の中で輝いているのである」と。

フランス17世紀は「聖人の世紀」、19世紀は「歴史の世紀」と呼ばれるのに対して、18世紀は「理性の世紀」あるいは「啓蒙の世紀」と呼ばれることが多いようです。啓蒙(lumières)とは光のことで、18世紀がまた「光明の世紀」と呼ばれるのもそのためです。旧制度(アンシャン・レジーム)への反抗、人間理性への信頼、進歩についての楽観的合理主義、自然への回帰などによって、「暗い」時代に光を刺し込ませるというのが啓蒙の思想の根幹です。プルーストが、これらについて政治的言及をすることはないのですが、登場人物の皮肉な言動が、18世紀啓蒙への彼の特異な身振りを思わせ、彼を典型的なアンチモダンの一人としているのです。

ところで、アンチモダンとはいかなる人たちを指すのでしょうか。「アンチモダンとは、何よりも近代の潮流に巻き込まれ、そしてこの潮流に嫌悪を覚える作家たちのことである」と、コンパニョンは書いています。啓蒙が猛威を振るったフランスで、人間理性の弱さを指摘し、人間の浅知恵で作り出した制度の脆さを示し、人間社会の進歩を信じた楽観主義者に警鐘を鳴らした一群の魅力的な人々こそアンチモダンそのものなのです。

アンチモダンとは、また亡命者(シャトーブリアンやド・メーストルのように)のことであり、その後帰国しても亡命者であり続ける人たちのことです。現実的にせよ精神的にせよ、時代から身を引く態度を露わにし、国民感情に一体化することをためらう「内面の亡命者」と言ったらよいでしょうか。そして、これ故に、彼らは私たちにとって足を止め、目を止めるに値する人びとなのです。「ニーチェが言うように、時宜を得ず、時流にそぐわないからこそ、彼らアンチモダンは現代性(モデルニテ)の真の創始者であり、その最も卓越した代表者であったのではないだろうか?」とコンパニョンは書いています。

また、彼らは、以前の記事(『ふさがれた道』)の登場人物のようにフランス最難関の高等師範出(ベルグソン、デュルケーム、フェーヴル、ブロック、サルトル、メルロ=ポンティら)のスーパーエリートではありません。『アンチモダン』の登場人物のうち高等師範出はロジェ・カイヨワだけで、しかも彼はバタイユの付録のようなものです。アンチモダンの主役たちは、みな独学で、雑学を好み、旅行記や人類学に詳しく、その時代の収集家であり、浮世の野暮用に時間を取られ、人生を嘗め尽くした人びとでした。

アントワーヌ・コンパニョン『アンチモダンー反近代の精神史』(2012・名古屋大学出版会・松澤和宏訳)は、フランス革命によって露わになった反啓蒙のすべての様態を取りあげ、それらを6つのファクターに分けて詳述します。政治的には反革命、哲学的には反啓蒙、精神としては悲観主義、宗教としては原罪への執着、美学としては崇高、言葉としては罵詈雑言の六つです。順番に紹介していきましょう。

(1) 反革命
アンチモダンの政治的態度は、その言葉そのままに「反革命」です。しかし、これは絶対王政への復帰を願うのではなく、絶対王政が骨抜きにした伝統的な封建貴族を中心とした社会へのノスタルジーに裏打ちされているのです。前世代の啓蒙を代表するフェヌロン、サン=シモン、モンテスキューなどの目的とするところは貴族的自由主義の擁護でした。彼らの敵は王制の増大する絶対権力であり、その目指すところは中間集団によって抑制された緩やかな君主制だったのです。
「人民国家と独裁国家のあいだで、彼らが擁護したのは穏健な王制だった」と、トクヴィルは『旧体制と大革命』で書いています。「封建時代のフランスの貴族階級ほど、言論と行動において矜恃(きょうじ)と独立心を持ったものはなかった。民主的な自由の精神が最も積極的に、あえて言えば粗暴に発揮されたのは、中世期のフランスの自治都市と、17世紀初頭まで様々な時期に召集された全国三部会においてである」。この文章はバークを思い出させます。エドマンド・バークは、フランスの貴族にみられる習慣的な放縦(それも礼儀で覆われていたのですが)を非難しつつも、フランスの貴族こそ勇気と親切と繊細な名誉心とを持った人たちであり、どんな階層にもおとらず自由の精神を呼吸し、改革を押し進めて行ったのだ、と書いています。残念なことに、フランスでは、この自由主義が強力な基盤を持つに至らず、貴族の弱体化とも関連して、英国のような穏やかな立憲君主国にする機会を逸してしまいました。

一方、18世紀フランスが好んで打ち立てようとしたのは、自由よりも平等であり、それはルソーの中心主題ともフランスの人民の心性にも合致していました。ナポレオンについての文章でシャトーブリアンはこう書いています。「フランス人は本能的に権力に擦り寄っていく。彼らは自由を少しも愛していない。平等だけが彼らの崇拝の対象である。ところで、平等と専制政治の間には密かな結びつきがある。この二つの関係の下で、ナポレオンはその権力の源をフランス人の心の中に持っていたのだ」と。シャトーブリアンは、ルソーにかぶれた青年時代からキリスト教と名誉と王政に捧げた生涯のゆえに、アンチモダンとしてはアクセントが弱いが、上記の言葉は永遠の真実のように私には思えます。

このフランス的な平等への希求は、つまるところ、普通選挙の実施に極まります。1848年に制限のない(男子のみの)普通選挙が臨時政府によって行われたとき、啓蒙そのものに不信感を持つ知識人が示した反応は強烈なものでした。ルナンは「まことに1848年の人々の軽率さは類を見ない。フランスが望んでもいないのに、彼らはフランスに普通選挙を与えたのだ」と1871年に書いています。 フローベールは1852年に「普通選挙の無謬性が、教皇の無謬性の後に続く教義になろうとしている。すでに腕力、数の力、群衆への敬意が、名誉の権威、神権、霊の優位の後を継いだ」と訴えました。ゴンクール兄弟の『日記』には、普通選挙への抗議と知性の貴族性への要求で溢れています。「普通選挙は数の神権であり、知性の諸権利を著しく縮減するものである」。大衆の非合理な妄動については、すでに群衆心理学のギュスターヴ・ボン以前に、ボードレールやヴィリエ・ド・リラダンの作品の中で嘲弄されていました。「民衆の声は神の声」という諺は、フローベールの『紋切型辞典』のエピグラフでもあります。 ジョルジュ・サンドは1970年の秋に、「普通選挙に対する深い蔑み、一種の苦痛に似た憎しみ、抗議の声が高まっていくのが見られる」と指摘しています。フローベールは、サンドへの手紙の中で、普通選挙を「人間精神の恥」と呼び、「今や我々の救いは、正統なる貴族性の内にしか存在しません。」と言い切っています。

民主主義と普通選挙について最も冷静に、しかし、力強く語ったのはルナンでした。 「フランスは平等主義的な物質主義の犠牲者であり、普通選挙ではこのような状態から脱するのは不可能である」とルナンは書きました。なぜなら、普通選挙が正統性を持ちうるのは、すべての者が知性の分配に与ったときに限られるだろうからです。そうでない現在では、大衆の無教養は、すぐれた人物を選び出すどころか、卓越した人物への露骨な敵意となり、すべてを悪しき平準に引きずり下ろす基になるに過ぎないでしょう。ルナンの希望するところは、貴族制あるいは君主制なのですが、しかし、むろん、民主主義に行き着く時代の波は如何ともし難く、ここに、「アンチモダンは民主主義という十字架を背負っている」という言葉の深い意味があるのです。ルナンは、その解決を教育に求めます。普通選挙を廃止することは現実的でなかったので、政治体制よりもむしろ社会におけるエリートの役割やその選び方を見直そうとしました。というのも、ただ教育だけが普通選挙の欠点を恒久的に糾すことができるからです。高等教育の発達は、知性の貴族性の出現や、精神的寡頭政治を生み出すに違いないとルナンは考えました。

普通選挙は、大革命が考え出した人民主権を制度化した形態なのですが、すでに1833年にバルザックは『田舎医者』で、この普通選挙、並びに民主主義の弊害について書いています。普通選挙は確かにローマ教会内部では素晴らしい制度だった。というのも、そこでは各自が学識があり、宗教的感情でもって己を律し、同じ原理を体得していて、自分がしたいことや目指すことが何かをよく弁えていたからだ。ところが、哲学的思弁から生まれたフランスの民主主義は、人間に備わった堕落への傾向を押し留めることができず、自由主義者自身の破滅をも招くだろう、と。このアンチモダンの言説ゆえに、ブールジェとプルーストにとって、『田舎医者』は「人間喜劇」全編の中で最も愛すべき作品となりました。

「ブールジェによれば、バルザックは、大革命から第三共和制までの19世紀に起こったあらゆる災禍の預言者であった。この災禍とは、民主制、議会主義、階級闘争、普通選挙、物質主義、アナーキズムといった1789年のすべての遺産のことであり、バルザックはそれらの腐敗をすばやく見通していたのである。」とコンパニョンは書いています。人類愛や正義を謳ったヴィクトル・ユゴーと何と違っていることでしょう。プルーストやボードレールは、むろん、ユゴーよりバルザックを好みました。バルザックはフランスを救うには、カトリックと王制しかないだろうと言っていますが、共和制の時代のプルーストは「たとえ絶対君主制と教権主義がフランスの唯一の手段でないとしても、そのために『田舎医者』が価値を減じるでしょうか?」と書いています。民主主義も普通選挙も反対することはできないが、それでもマラルメやサルトルと同様、プルーストが投票に出かけたということはありえない、とコンパニョンは付け足しています。プルースト同様、選挙に嫌悪感を持っていたクローデルはその『日記』に、こう書きつけています。「選挙のたびに、フランス人の愚かさと底意地の悪さを一望することができる。国の命運を四年ごとに、民衆にではなく、群衆に委ねるこの行政システム以上に愚かなシステムを思い浮かべることができようか。四年ごとにフランスはその代表者を、アルコール中毒者の強硬症(カタレプシー)の発作の中で指名するのだ」。

普通選挙も民主主義も国と時代によって様々な形を取りうるのですが、フランスは今に至るも頑迷な合理主義をとって、啓蒙の理想を標榜するEUの旗振り役を演じているのには驚きます。一方、伝統を重んじる常識の国である英国は市民革命の荒波を何とか乗り切って、17世紀末に議会政治を確立できました。また、神のもとでの自由と平等を謳い、フランスの人権宣言と比較される独立宣言を打ち建てたアメリカは、しかし、ザ・フェデラリスト・ペーパーズに見られるごとく根本には人間とその制度への不信があります。どんな人間も自分の利益のために道を誤りうるという懐疑の精神は、モンテスキューの周到な理論の実現といっても良いでしょう。翻って、日本を見ると、民主主義はテレビに映る政治家の醜悪な顔に凝縮されているようです。民主主義も普通選挙もどこ吹く風、その精神などどこかに売っちゃらって、明治以来の権力者意識そのまま、その圧縮し、無限に再生産される図式は、地方のもっとも小さな選挙を観察すれば明らかでしょう。
(2) 反啓蒙思想。
フランスの18世紀とは啓蒙の別名のことなのですが、この啓蒙精神に一貫して説得力ある反論を展開したのは英国人のエドマンド・バークでした。1729年にアイルラーンドで生まれたバークはフランス革命の時にちょうど60歳でした。彼は『人間の権利』の著者トマス・ペインと同様ホイッグ党の論客であり、アメリカ独立軍の良き理解者でした。しかし、1789年に起こったフランス革命の騒乱で、ベルサイユの王族がパリに強制送還させられた時に、彼は激しい怒りに満たされました。実は、バークは1773年のフランス旅行の際に、ベルサイユを訪れ、「暁の星のような、生気と幸福に満ちた」17歳のマリー=アントアネットに出会った思い出を生涯忘れていなかったのです。バークは、英国でフランス革命を名誉革命と同様、自由を求めるフランス人の正当な革命と歓迎する風潮が沸き起こるや、直ちにそれに反論しようと1790年『フランス革命の省察』を発表します。

以下に、J. ゴデショ『反革命・理論と行動1789ー1804』(1986みすず書房・平山栄一訳)も参考にしながら、バークの思想を要約してみましょう。
『フランス革命の省察』は二つの目的をもって書かれました。一つは、フランスの諸制度とフランスの諸事件の批判。二つ目は、1789年のフランス革命と1688年のイギリス革命を比較しようと努める連中を論破することです。
まず、大革命を準備した連中は(みな知識人だったので)、ゼロから出発し、一人一人が持っている理性に基づいて行動できるものと思いこんでいた。そして、矮小化され、大衆化されたルソー主義によって、社会というものをタブラ・ラサ、つまりその上に何でも書きこめる白紙委任状とみなしたのだった。しかし、バークによれば、白紙の上に、すなわち合理性の上に、建設された諸制度は恒久性を持たない。大革命は、抽象的で無意味な表現に過ぎない人民主権、一般意思、平等、自由の名において、人間の歴史の根幹である経験や歴史や習俗といったものを無視したのである、と。

「立派な愛国者や真の政治家ならば、いかにすれば自らの国に現存する素材で最善の結果が得られるか常に考えるものです。保存しようとする気質と改善する能力とを合わせたものが私にとって真の政治家の基準です。それ以外のすべては考えるだに低俗であり、実行されれば危険です」とバークは書いています。「無神論者は我々の説教師ではありませんし、気狂いが我々の立法者でもありません。我々は自分たちが何も発見していないことを知っています。また道徳に関して新発見などありえないと思っています。統治の大原則の多くや自由の観念についても同様です。そうした原則や観念は、我々が生まれるはるか以前に理解されていましたし、我々の高慢は墓土で覆われ、物言わぬ墓所の掟が我々の生意気な冗舌を封じた後も、何時に変わらず同じであり続けるでしょう。」

バークのもっとも精鋭な論理は「自然」の観念についてです。ルソーにとって(そしてロックにとっても)すべての時代、すべての場所において、人間性に内在するものが自然物でした。これに反し、バークにとっては、長い歴史的発展、長い習慣の結果であるものが自然的なものなのです。バークにとっての自然は、明白に特殊なもので、普遍的に適用されないものであって、それは合理主義哲学者の自然概念とは正反対の自然の概念です。バークは、事物はそれ自身で放置されれば、一般に、「自然の秩序」ordre nature を見出すものと考え、その結果、すべての過去からの継承物は、自然によって望まれたのであるから、測り知れない価値を持つ、と書いています。

よって、バークによれば、「平等」は自然に反します。というのは、歴史的発展は平等を出現させなかったからで、人民主権を標榜する社会主義もむろん例外ではなく、むしろ、平等を建前とする社会はその欺瞞性の故により甚だしい不平等を生むのです。形式的に王政をとる国家が意外と安定した社会を作ってしまうのも、種々の階級で構成されている社会は、必然的に、支配する一つのものを持つのが自然だからです。

また合理主義者が否定しようとする先入観 préjugés もバークにとっては歴史の結果であるという理由で、大きな価値があり、先入観に固執するのは人間にとって本能なのです。フランス流のフィロゾフにとって、理性は、伝統を少しも考慮しないで、演繹によって構成されたものですが、バークにとっては、理性は先入観の総体なのです。「先入観は隠された理性の衣装である」「先入観は精神が知恵と徳の道を変わらずにたどるように決定する」と彼は書いています。

以上のバークの根本思想から、彼が名誉革命とフランス革命を峻別する理由も明らかでしょう。バークは1688年の革命は、王位の世襲制、貴族の世襲制を回復し、下院の古い規則を再建して、過去の継承物を是認しただけである、と書いています。「名誉革命がアンチモダンでありえるのは、それが古来のものの中に最上のものを見出した点においてである」とコンパニョンも書いています。これに反して、フランスの革命家たちは、「過去を一掃する」と宣言して、歴史の先例や宗教の教訓を無視して、唯一理性のみに基づいて既存の制度や基本法を破壊し、諸世紀の成果を一気にひっくり返そうとしたのです。
長くなりましたので、後編に続きます。



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