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2017年1月28日 (土)

スチュアート・ヒューズ『ふさがれた道』(2)

1929年、リュシアン・フェーヴル(1878〜1956)とマルク・ブロック(1886〜1944)はストラスブールで、雑誌『経済史・社会史年報』Annales d'histoire economique et sociale を発刊します。Revue(雑誌)ではなく、Annales(年報)としたのは、当面のライヴァルだった『社会経済史雑誌』Revue d'Histoire Economique et Sociale と区別するためでしたが、地理学雑誌でよく使われるAnnales というやや曖昧な名称は学際的で懐の深いこの雑誌の色合いをよく表しています。そして、後にアナール派の拠点として知られるこの雑誌によって、フランスは十八世紀以降はじめて歴史学の分野で世界の最前線に躍り出ることになったのです。 史料一辺倒の実証主義歴史学とも、クローチェ、マイネッケ流の新理想主義歴史学とも、政治家と偉人の俗流歴史学とも違って、「アナール」の目的は、経済的、社会的、地理学的、心理学的な歴史を一体としたような一つのフォーラムを作り出すことでした。歴史へのこの新たな興味は、時代の危機意識とも重なって、この雑誌を、続く10年間に、西欧世界における歴史研究を再び活潑化せしめるもっとも重要な唯一の論議の場所にしたのでした。

「一にも二にも証拠資料」という呪物崇拝的な流行思潮に対して、リュシアン・フェーヴルは自分はもう一人のミシュレになるのだ、と宣言しました。しかも、もっと批判的な精神で、もっと装備されたミシュレに。フェーヴルとその仲間たちはミシュレのうちに、過去をその多様性と複雑さのままに復活させようとした歴史家、フランス文明をたんに国王や政治家だけでなく、全民衆の素朴な努力の所産として把えようとした歴史家を見たのです。歴史を、環境・心性・風土の織り合わさったものと見ること、一言で言えば、「情念的風土」の歴史と見ることがフェーヴルの目標でした。「われわれは『愛』の歴史を持っていない」とフェーヴルは言いました。「『死』の歴史も、『慈悲』の『残酷』の『喜び』の歴史も、、、」人間の感性の全領域は、学問によって全く手付かずのままなのだ、と。10年の歳月をかけた主著の一つ『十六世紀における無信仰の問題ーラブレーの宗教』の中でフェーヴルは、ラブレーを無神論の自由思想家とする近代の解釈に反対して、16世紀の人間は20世紀的な意味での無神論者などになれるわけがなかった、と主張します。ラブレーの生きた世界は、全体としても身の回りでも宗教の雰囲気に包まれていた、信ずることを欲する世紀、あらゆるものの中に神の反映を求める世紀だった、つまりラブレーは自由思想家などでは全くなく、宗教についての個人的な内面的で寛容な理解も持たず、奇蹟や聖書や礼拝についての批判的な感覚も持たない同時代の教養人の典型であった、と。

フェーヴルの主著とほぼ同じ頃にマルク・ブロックも彼の業績の頂点に達しました。『封建社会』(1940)は、『奇蹟を行う王』や『フランス農村史の基本性格』同様、頁ごとに巨匠の歩みを確認させるような書物です。ブロックは、従来の封建性についての図式的、法制的議論の代わりに、むしろそのような制度が機能する精神世界に目を向けました。中世の陸上交通の困難さ、時間感覚の変動する不安定さ、現在の必要に合わせて過去を歪曲する集団的記憶の役割などについての飽くなき探索こそ彼の独創的部分を形作っています。ブロックは、それらの探索のために、フランスの枠内を越えて全ヨーロッパと比較し、近代言語(ロシア語・スカンジナヴィア語を含む)、古典語は言うに及ばず、古ゲルマン語、古ザクセン語まで熟達して膨大な資料を博捜しました。むろん、そこには、経済学、地理学、農学、神学、叙事詩などについての卓越した知識の裏打ちがあります。

『奇蹟を行う王』(1924)には、ブロックの農政史と王制の心理学的基礎についての研究が生かされています。古来、瘰癧(るいれき・頸部にできる結核性のコブ)は王が触れることによって治ると信じられ、とくに英国とフランスで伝統的に実施されて来ました。これは一つの奇蹟であって、ブロックが惹かれたのはその民俗的、民間信仰的側面でした。近代以降ひとびとは、このような奇蹟に対して真実か否か、すなわち全てか無か式の曖昧さを許さぬ結論を求めました(宇宙人やUFOの存在などについてもそうでしょう)。しかし、中世の人々はそうではなかった、彼らは施術を行なう者たちから常に奇蹟を期待したわけではなかった、時たま奇蹟じみたことが起きればそれで十分だった(実際それは時折起こった)、彼らは頑固な信仰を持っていたのではなく、周囲の状況に自らの信仰を合わせる心理的下地を持っていた、「奇蹟を信じさせるものは、奇蹟が起こるだろうという観念であった」つまり一種の集団的幻想が起こったのです。

ブロックの専門とした中世農村史はほとんど残された記録がなく、彼は少ない資料をつなげながら想像力を駆使した遡及的方法で歴史の中に入ります。農民の歴史は数百年も変わりなく続いているようだが、そこには技術的革新と旧来の制度との軋轢があります。水車の事例は彼の得意としたところでした。水車の原理はギリシャから知られていたが、古代の奴隷制は水車の動力を必要としなかった。しかし、キリスト教が奴隷制を禁止すると、人手不足から水車の経済的必要が高まった。そこで封建領主は水車の独占を強行するため農奴の手動用具を駆逐した。こうしてテクノロジーは宗教的権力と関係なく自らを貫徹していく、まさにこれこそ歴史の分析でしょう。

リュシアン・フェーヴルはフランス東部のフランシュ・コンテに生まれ、リセに入るためにパリに上京しました。子供時代を過ごしたフランシュ・コンテの自然は彼に深い影響を残し、亡くなるまで度々そこを訪れています。マルク・ブロックはリヨン生まれですが、二歳で家族と一緒にパリに出、それからずっとパリジャンとして過ごしました。二人は、8年の差がありますが、共にリセ・ルイ・ル・グランとエコール・ ノルマル・シュペリュール というフランス最高のエリート・コースを歩んで来ました。フェーヴルとブロックは、1920年、第一次大戦の勝利によりフランス領に戻されたばかりのストラスブール大学で歴史学の同僚となります。フェーヴルは42歳、ブロックは34歳でした。実は1902年に二人はすでにパリで出会っており、場所はアレジア街のブロックの父の家で、その当時マルクの父親ギュスターヴ・ブロックは高等師範の古代史の教授でした。その家のサロンで優秀な小児科医の兄の背中に隠れた物静かなブロックの思い出を後にフェーヴルは『歴史のための闘い』で書いています。

リュシアン・フェーヴルの後継者として「アナール」を継いだフェルナン・ブローデルは、フェーヴルについて、彼が世に名をなす時三つの利点があったと言っていますが、これはむろんブロックにも当てはまります。まず第一に、二人とも最高に知的な家庭に生まれました。文法学者を父に、歴史学者を叔父に持つフェーヴルは、人文的教養に深く馴染んで育ち、大人になってもモンテーニュのことを友達のことを話すように語ったということです。ブロックも、高等師範を出た祖父、パリの高等師範を出てその教授だった父、研究医だった兄の下で特権的に知的な養育を受けました。彼は、後年、教授だった時に、 尋常の家庭に生まれたにもかかわらず知的な高水準に達した学生をとくに注意して面倒を見ていたのですが、おそらくそれは幸運に恵まれた自分の運命に対してのつぐないでもあったのでしょう。

利点の第二は、ミシュレ以来のフランス歴史学の学識が彼らの前に十分に蓄積されてあったことです。詩人的想像力と情熱を持ったミシュレの次に、フェステル・ド・クーランジュやシャルル・ラングロアらの実証主義的歴史の洗礼を受けて、彼らは卵のうちにあってすでにフランスの歴史学を飛躍させる準備が出来上がっていました。殻を割ったのは彼らより一世代前のアンリ・ベールでした。広い意味で実証主義的歴史学者と言えたベールは、しかし、同世代の学者よりずっと哲学的で、同時に科学的でした。彼の不滅の記念碑は比較歴史学の精華と言える「人類の進化」L'evolution de l'humaniteと題された何巻にも及ぶ叢書です。フランス人が、このような共同の歴史研究において、他の国の追随を許さない卓抜した出来栄えを示すことは現代のピエール・ノラ編集の「記憶の場」(120人の歴史家が参加した)を見ても明らかでしょう。フェーヴルとブロックの主著は、この「人類の進化」叢書のために書かれたのです。フェーヴルは、ずっと後で 「懇切で、他人の思想を尊重し、とりわけ屈することなき楽天主義」を持ったベールの肖像を描いています。

二人の持った三番目の利点は、彼らが登場した時期がフランス社会科学の春に当たっていたことで、それにより、彼らは関係諸科学から十分な利益を得ることができたのです。とくに、デュルケームの精神と方法はフェーヴルとブロックに強い影響を与えました。社会的凝集の源泉であり、その最初の発現である宗教への関心はこのデュルケームによって教えられたのです。『ラブレーの宗教』と『ルター』によって16世紀の宗教的対立と人間の情念を研究したフェーヴルはむろんのこと、伝統的な宗教的諸価値を固く保持している小作人階級の分析に多くの労力を注いだブロックを見れば、この二人の宗教社会学への関心は明らかでしょう。特にブロックとデュルケームは、信仰を失ってしまったがなお宗教的経験に魅せられているユダヤ人としての資質を共有していました。

「ブロックとフェーヴルにとって特徴的なことは」とヒューズは書いています。「彼らがその実験的な試み(アナールの発刊)を開始したのが、多くの同時代人が懐疑主義や絶望にとらわれたか、あるいはとらわれようとしていた時であったということだった。」二人は剛毅な精神の持ち主で 、自己を信じ、自らの専門家としての訓練に確信を抱いていました。しかし、何より特筆すべきは、その精神的安定性でしょう。彼ら二人の道徳的確信は第三共和制的な啓蒙的、民主主義的、世俗的なもので、この倫理的な安定感ーやましくない良心ーは、彼らに幸福な学者的誠実さを与え、見事な大量の著作物を生み出させたのです。

この「良心にやましいところのない学者的精神」ということがもっとも重要でしょう。二人の持つフランスへの忠誠心は当たり前すぎて意識すらされず、「その愛国心は自明なものの持つあの力を帯びていた」ので、二つの世界大戦においても、自分たちの国の大義の正しさに関して少しの疑いを持つこともありませんでした。この愛国心は、彼らより一世代前のシャルル・モーラスなどの愛国心とは全く違っています。フェーヴルとブロックは、モーラスの唱えた「真の国民精神の復活」や「真の国民的伝統への回帰」などとは無縁でした。声高に愛国心など叫ばなかったが、フェーヴルの息子はレジスタンスに協力し、ブロック自身はレジスタンスの一員として命を落としました。これを、ドイツの占領政府に協力したモーラスや、フランスの土地と血に結びついた愛国心を唱えながら息子の兵役免除を願ったバレスと比較してみましょう。思えば、右翼など信用できず、ひたすら自分自身への懐疑の精神を忘れない人間こそ信頼に足りるのです。フェーヴルもブロックも、自分たちがあらゆる答えを知っているなどという風を決してしませんでした。彼らの愛国心の根幹は、その弟子たちにフランスの土壌、フランスの豊富な遺物の中にこそ歴史解釈の謎を解く鍵があるのだと教えた時に、はじめて明確に明るみに出るものだったのです。

フェーヴルとブロックは固い友情と信頼で結ばれていました。二人とも愛想良いとはいえず、社交的狡知など全く知らず、協調的というより論争的で、実際「アナール」については度々激論が交わされたようです。性格も、フェーヴルが情熱的で芸術的、ブロックが精密で分析的でした。しかし、二人はストラスブール大学の隣り合った研究室(二つのドアは常に開かれていました)で実り多い話し合いをしながら、いつかパリを征服しようと虎視眈眈と爪をみがいていたのです。その後の展開は明暗を分けました。フェーヴルは1933年、念願のコレージュ・ド・フランスの教授に選出され、フランス歴史学の指導的地位に登りつめました。大なる威信、安定した地位、最高の俸給に加えて、そこでは聴衆に直接歴史を語りかけられる特権がありました。1956年、78歳で死ぬまで、ヴァル・ド・グラースの金色のドームに面した研究室で「アナール」に執筆しながら、彼は学者的幸福のうちに死にました。後継者はフェルナン・ブローデルで、さらに数多の研究者がフェーヴルの威光のもとに、彼の指し示した歴史研究に進んで行ったのです。

八歳年下のマルク・ブロックは現在ではフェーヴルよりも偉大な歴史家とされており、その盛名は歳を追うごとに高まるかのようです。彼もコレージュ・ド・フランス教授の座を狙っていたのですが 、その選挙運動はうまくいかず、後のアメリカへの脱出同様、あれこれ奔走し、苦労したが、最後の最後で実らなかったのです。(最近読んだアントワーヌ・コンパニョンの『書簡の時代』には、友人ロラン・バルトのコレージュ教授の選挙の時の運動について描かれています。コレージュの教授一人一人の挨拶まわりは大変に気が滅入ることでしょう。わずか一票差ながら、バルトが選出された時、彼はさっそくコレージュのレターヘッドのついた手紙をコンパニョンに送って来たそうです)。コレージュに落選したブロックは次善の策として、ソルボンヌの経済史の教授になり、ソルボンヌからほど近いセーヴル・バビロンに2フロア一緒のアパルトマンを借りました(小児科医の兄がわずか40歳で死んだので、ブロックは一族を一人で養っていました)。フェーヴルと反対にブロックの人生はこれから苦闘の連続になるのです。

というのも、ブロックの先祖はアルザスで、祖父母まではユダヤの教義に深く染まった生活をしていたからです。父ギュスターヴの代になってこの一家は、一気にフランスの知的階級の最上位に上るのですが、古代史の教授だった父親はすでに同化されたユダヤ人として、第三共和制のリベラルな制度の恩恵を最大限に受けました。ユダヤ人の人権を認めたフランス革命の精神を受けて、第三共和制は各分野にユダヤ人の参入を許していました。ギュスターヴと同世代には、アルザスのラビの息子であるエミール・デュルケーム、ハシディスムの流れをくむポーランド系ユダヤ人の音楽家の息子であるアンリ・ベルグソンがいました。1894年のドレフュス事件は、陸軍の機密情報を扱う部署にまでユダヤ人が参入していることで、人々を驚かせましたが、ギュスターヴにとっては、第三共和制の精神が危機の中でも自分たちを守ってくれることの確証となりました。以降、ギュスターヴとマルクのブロック親子は差別を否定し、自由と改革を標榜する第三共和制に忠誠を尽くすことになるのです。

しかし、民衆レベルでは、フランスのユダヤ人差別感情は根強く、今日でもいまだ反ユダヤ主義騒動はメディアを賑わせます。以前、雑誌パリ・マッチの最後のページには毎週 ce jour-la(その日)と題して、著名人が自分にとっての決定的な瞬間について語る記事があったのですが、あるとき、名前は忘れたがテレビの有名女性キャスターが登場して子供時代の思い出を書いていました。ある日、学校でユダヤ人のことが話題になって、町の吝嗇なユダヤ人商店の悪口を言い合いました。彼女は家へ帰ると、祖父に、「なんて嫌な人たちでしょう!」と友人から聞いたユダヤ人の悪口を伝えました。祖父は黙って聞いていましたが、静かに立ち上がって、こう言いました。「今まで黙っていたが今言おう。私もお前もイエス・キリストと同じユダヤ人なのだ。」それを聞いて、雷が落ちたようにショックを受けた彼女は、しかし、翌日登校すると自分はユダヤ人であると学校のみんなに公言したのです。いつも遊んでいた親友の女の子たちは掌を返したように彼女に冷たくなりました。中学校に上がると、彼女は、かつての親友たちのボーイフレンドを次々に誘惑して横取りし全員に復讐したということです。

私は、真の愛国者というものは常に辺境から出る、と思っています。辺境とは、また精神の辺境という意味でもあるのですが、ユダヤの血をひきながらブロックはフランスを理解しフランスを愛しました。その愛は深く根付いているゆえに意識すらされないほどでした。アルザス出身の曽祖父からブロック家はドイツとの戦闘に身を捧げ、むろんブロックも二つの大戦に積極的に参加しています。戦争は同化したユダヤ人にとって愛国心の証明であり確信ともなったのです。しかし、誰しも平等の競争を勝ち抜けば社会の上層に至るという第三共和制の精神は、その慇懃さの陰に暗いユダヤ人差別を隠していたのです。ユダヤ人はその人口にしては異常に高い比率で各分野に進出していったのですが、当然反発もありました。ベストセラーとなったエドゥアール・ドリュモンの『ユダヤ的フランス』(1886)はその最たるものでしょう。ドリュモンは、その本で、ユダヤ人は決してフランスに同化できず、また伝統的なフランス文化はユダヤ人によって損なわれているという反ユダヤ主義の決まり文句を書き付けたのです。ブロックら知的階級のユダヤ人はそのような風潮を過小評価して、むしろ反ユダヤ主義を軽蔑の目でやり過ごそうとしました。ここには時折見られる知的弱者に対するユダヤ人の傲慢さがあるのかも知れません。

ところが、ヒトラーの台頭と、続く大戦の勃発、フランスの敗北と親ドイツのヴィシー政府の成立は、隠れていたユダヤ人への妬みと憎しみを徐々に露わにして来ました。ヴィシー政府はユダヤ人法を改正し、ユダヤ人の公的地位からの追放を指示しました。ブロックはソルボンヌ教授の地位を追われ、クレルモン=フェランに引っ越していたストラスブール大学への復職はかなったものの、妻の病気のため希望したフランス南部のモンペリエ大学への移籍はすぐには出来ませんでした。ブロックはそれらのために曽祖父、祖父、父、自分のフランス防衛戦争への参加を示す書類などを提出しなければならなかったのです。モンペリエ大学の文学部長はかつてブロックからさんざん酷評されたオーギュスタン・フリッシュで、彼により一旦拒否されたブロックの移籍は、ブロックの父の弟子で友人であったソルボンヌ学部長のカルコピーノによる免除申請でかろうじて実現しました。ブロック自身のフランスへの文句のつけようのない献身と輝かしく卓越した研究業績が考慮されたのですが、彼はユダヤ人の中で例外的に追放を免除された後ろめたさを最後まで吹っ切ることはできませんでした。

しかし、状況は次第に切迫し、ブロックはアメリカの大学からの招聘を受けてフランス脱出を考えました。ところが、病気の妻と子供6人と祖母の大家族で、リヨンのアメリカ領事館その他を奔走するものの、祖母と長男と長女のビザがどうしても降りません。さらに、セーヴル・バビロンの自宅の膨大な蔵書と資料が(モンペリエに移送しようとしたカルコピーノの努力も虚しく)ドイツ軍に略奪されてしまいます。そのため、研究の四分の三の時間が資料の収集に費やされなければなりませんでした。もっともブロックを意気消沈させたものは恐らく「アナール」の編集から外されたことでしょう。フェーヴルとの間で激しいやり取りが交わされたものの、ユダヤ人の名を表紙に載せることはやはりできなかったのです。重くなる妻の病気、自身のリューマチの痛み、子供たちの心配、収入の減収による生活の不如意、そんなこんなで、ブロックはついにレジスタンス参加を決意するのですが、その前にブロックの第二次大戦の経験について書かねばなりません。

その記録は『奇妙な敗北』(岩波書店)という題名で死後に出版されました。すでに53歳なのでフェーヴル同様田舎に引っ込んでいてもよかったのですが、あえて一介の大尉として参戦したのは、何よりもフランスへの忠誠からでしょう。配属された所はベルギー国境で、その任務は燃料補給の責任者としてでした。これは大変な責務で、戦車をはじめ機動部隊の命綱である燃料の配置、移送は重大で、もし敵の手に落ちそうな場合は爆破しなければなりません。ブロックはフランス・ベルギーの地図に首っ引きで、各燃料貯蔵地を巡回していました。ところで、地理学を最優秀で学んだブロックにはこれは最適の仕事でした(伝統的にフランスの歴史学は地理学と結びついており、ドイツ歴史学が哲学と密接な関係にあるのと対照的です)。しかも、複雑な条件を整理分類することは最も得意とするところで、おまけにブロックは軍隊という秩序ある組織が性格的にあっていたし、実は好きだったのだと思います。そして、戦場でむすぶ上官、同僚、部下との人間関係から彼は大事なことを学びました。第一次大戦以来、フランスの軍上層部は進歩せず、老害という言葉そのままに旧態依然とした防御構想に支配されていました。それに反して、ブロックが出会った下級の兵士は、フランスのエリートたちが失っていた良識と人間性を保持しているように思われました。「通常の生活を真面目に営んでいたものは戦場においても有能である」「市民の中には軍人以上に軍人である市民がいる」などと彼は思うのでした。実際の戦場は、ドイツ軍機動部隊の速攻にフランス軍は壊滅し(もしフランスから先制攻撃していたなら勝負は分かりませんでしたが)、ブロックも敗走するフランス軍とともにダンケルクから命からがら英国に脱出します。それから汽車でイギリス西部の海岸まで行き、そこから再びフランスのカレーに舞い戻りますが、すでにドイツ軍の支配下にあるフランスを見て、軍服を脱ぎ、大学教授に扮するのですが、すれ違うドイツ軍兵士に全く見破られなかったそうです(当然ですが)。

ブロックがこの戦争で学んだことは、フランスは外からではなく、内部から、フランスの民衆自身の手で変えていかねばならないということでした。すでに米英を中心とした連合軍の援軍はフランス南部に近づいていましたが、フランス人自身の努力なくしてフランスの再建はあり得ない、この考えが彼をレジスタンスに参加させたのだと思います。またそれは、五世代続いた彼の家系によるフランスへの献身の最後の集大成とも思えたのでしょう。ブロックは1943年のはじめに彼の生地であるリヨンでレジスタンスの組織に加わりました。このレジスタンスの57歳の「新米」は、しかし徐々にその実力をあらわし、組織の中堅として活躍するようになります。時折連絡のためパリを訪れ、フェーヴルに会うと、自分はすでに「恐ろしい死」を覚悟していると言うのでした。パリの空気はリヨンよりも清々しく、ナチの旗はいたるところにはためいていたがセーヌ川は変わらず美しい。彼はカフェで好物のサンドイッチを食べ、映画を観、地下鉄に乗って束の間のパリを楽しみました。1944年の3月にリヨンの橋の上でブロックはゲシュタポに逮捕され、拷問を受け、監獄に放り込まれます。彼はそこで歴史学の教授らしく同房の青年にフランスの歴史を教えていたということです。1944年6月6日の連合軍ノルマンディー上陸の知らせが密かにブロックに知らされました。敗走の準備としてドイツ軍は捕虜を始末し始めます。6月16日夜9時、小型トラックに乗せられた28人のレジスタンスはリヨン郊外の牧草地で降ろされ、4人ずつ連れていかれて至近距離で銃殺されました。順番を待っている時、16歳の少年がブロックに「銃で撃たれるのは痛いでしょう?」と聞いたので、彼は「いや痛くない、大丈夫だよ」と答えました。ブロックは「フランス万歳」と叫んで死にました。以上は2名の生存者の証言で残された事実です。ブロックは58歳という学者として知的青春の只中で死にました。

「アナール」はその後リュシアン・フェーヴルが刊行を続け、フェルナン・ブローデルが引き継ぎました。ブローデルの大著『地中海』はブロックの精神を継いでいると本人はいうもののあまりに大部でブロックの緻密さと分析力に欠ける、とヒューズは批判しています。ブロックの生涯は偉大だったが、彼の担った責任はあまりに重い。彼は遺書の中で、自分がユダヤ人であることを確認するが、葬儀は無祈祷で無宗教で行われることを望みました。彼は「なによりも自分をフランス人と感じ、その精神的遺産と歴史によって養われていたので、心の安らぎを得られる何かほかのもを考えることはできなかった」と書いています。

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