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2016年11月 6日 (日)

カンタン・メイヤスー『有限性の後でー偶然性の必然性についての試論』(2)

「実存の肉のなかにあるどんな傷を癒すために、そこにあるどんな棘を抜くために、私は哲学者と呼ばれるものになったのだろうか」と、自らが編者となったスイユ社の叢書《哲学の次元L'Ordre Philosophique》についてアラン・バディウは語っています。そして、その叢書の一冊として世に出たカンタン・メイヤスーの『有限性の後でー偶然性の必然性についての試論』(人文書院・千葉雅也、大橋完太郎、星野太訳)こそ、そのような問いに答える書物に分類されるだろう、と。Quentin Meillassouxは1967年に生まれ、パリの高等師範学校を出て、現在ソルボンヌの准教授、父親は人類学者のクロード・メイヤスーです。この書物はいわゆるポストモダンや、いわゆる脱構築とは違って、映画やSFや文学などには目もくれず、謎めいた問いを投げかけたり、牽強付会な説で煙に巻いたりもせず、ひたすら哲学の王道を突っ走ります。細い紐の上を伝う軽業に似た証明の連続は、いろいろ突っ込みどころがありそうです。しかし、1ミリでも、それまで誰もやったことのないことを証明するのは偉大なことではないでしょうか。

メイヤスーを突き動かす動機、それは知的蒙昧主義に対する憎悪、イデオロギーの批判(イデオロギーとはあることがらが必然的であることを原理において主張すること)、 ある宗教にアクセスするものが行う暴力の正当化への批判、現に存続する政治体制が必然的にこのように存在すべきだということへの反論、つまり今もなお亡霊のように徘徊する独断的形而上学への批判です。メイヤスーは、そのようなものに対して、実在的必然性などあり得ない、必然性があるとしたら、それは唯一偶然性でしかない、不可避なものとして提示される社会状況も実は偶然的なものであると主張するのです。

話の前提として、なぜこの時代に形而上学が生き延びているのか、形而上学とはいかなる考えを根底に持っているのかを説明しなければなりません。完全なる神という概念はカントに至って葬り去られた筈でした。ところがカントに始まる相関主義(メイヤスーの造語・我々は物自体は認識できず、ただ我々の受容の形式に合わせて知覚できる、という考え一般を指す。訳者の千葉雅也は、これをパソコンにおけるOSに喩えています)は、カント以降その考えを徹底して、結局我々は〈我々自身にとって〉という回路でしか物事を認識できない、すなわち、結局何事も我々には真実は閉ざされている、という不可知論に行き着いたのでした。それが、かつて、デカルトやライプニッツのように宇宙を思考が自在に羽ばたくような哲学世界から、対象と私の関係に限定された、ただ関係のみが真実だという世界に限定されるようになったのです。この相関主義自体は何らの宗教的信念を主張することはないのですが、しかし、それは宗教的信念は思考不可能であるからという理由でそれを不当化せんとする理性のあらゆる要求を掘り崩してしまうのです。その結果、絶対者を放擲した懐疑論は、むしろその反対に絶対者の価値を破棄するどころか、絶対者に驚くべきライセンスを付与することになったのです。「形而上学の終焉は、絶対者への権利要求の合理性を放棄した結果として宗教的なものの激しい回帰という形をとることになった」「絶対者は、形而上学の領野から離れた結果、無数の断片に砕け散って、知の観点から何でも正当化されるさまざまな信仰になってしまったように思われる」。

メイヤスーはこのような傾向を信仰主義と名付けます。そして、その代表がヴィトゲンシュタインとハイデガー、つまり分析哲学と現象学の二大巨頭に代表されているというのです。ヴィトゲンシュタインは書いています。「だがもちろん言い表し得ぬものは存在する。それは示される。それは神秘である」(論理哲学論考)「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるということである」(倫理学講話)。またハイデガーも「あらゆる存在者のうちで、ただ人間のみが《存在》の声によびかけられて、あらゆる驚異中のこの驚異を経験する。この驚異は存在者が存在するということである」(形而上学とは何か)と書いています。

メイヤスーは、これに対して答えます。「私たちはこう言おう、他でもないこのしかたで事物が存在しなければならない理由が存在すると信じている間は、私たちはこの世界をひとつの神秘にするだろう」。ところで、なぜ、ここまで哲学は信仰主義に傾いて来たのでしょうか。メイヤスーは、その理由は、形而上学の中途半端な抹殺によるのだと言っています。完全に息の根を止めるのを怠ったために形而上学は死霊のように復活してきたのです。具体的には、形而上学の根幹である《理由律》を葬り去ることができなかったからでした。というのも、形而上学とはその極致において存在者が絶対的に存在するという言明に至るからですが、それは理由律の展開によるのです。なぜなら、理由律とは、あらゆる事物、事実、出来事が、他でもなくそのようであるための必然的理由をもつという原理なのですから、ある物事に理由があるのなら、さらにその理由の物事にも理由があり、またまたその理由にも理由があることになり、最後にはすべての理由の根拠となる絶対的な本質(神のような)にたどり着くのは必然だからです。

ヒュームは、この〈理由律〉に疑問を呈しました。あることが起きると、それに続いてあることが起きるというのは、確たる理由があるわけではない。ただ、これが起きると、常にそれが起きるからという経験の積み重ねが証明の代わりになっているだけだ。ところで、今までがそうであるからといって、未来もまたそうであるという保証はない。経験は未来の出来事に何の確証も与えないのだから。ヒュームの有名なビリヤードの球の例を挙げましょう。ビリヤードの一つの球がもう一つの球にぶつかります。その時、私たちの心の中にはもう一つの球の百にも及ぶ結果が思い浮かびます。急に停止するかもしれない、あるいは先の球を飛び越えてしまうかも、さらにまた突然元の方角に戻ってくるかもしれません。これらの想定のうちの一つの想定をなぜ私たちは優先させねばならないのか。自然法則? 自然法則がそれまで当てはまったからといって、新たなこの状況でまた当てはまるというアプリオリな根拠はありえません。

この回答は古くはデカルト、ライプニッツとその後継者たちにまで遡ります。彼らは完全なる神を措定して、そのような神が善意を持って創り出したこの世界が永続性を持つのは当然だと結論づけるのです。この形而上学的回答に対してヒュームは懐疑主義でもって答えます。いかなる推論も自然法則の安定性を保証する根拠にはなり得ない。ところで、あることの真理を打ち立てるためには、私たちには経験と無矛盾律(いかなる命題もそれが成り立つと同時に成り立たないことはない)しかないが、ヒュームによれば、経験は現在まで通用した法則を明日もまた信用する根拠を与えてくれないし、無矛盾律について言えば、同じ原因が翌日には異なる結果をもたらすだろうと考えることにはいかなる矛盾もないのだ、と。

しかし、ヒュームは自らの説をその極点まで実行する勇気に欠けていました。因果的必然性など何もなく、世界は偶然によって成り立っていると結論づける代わりに、そもそも因果的結合の必然性は我々人間には証明できないのだから、法則の必然性を問うのはやめて、むしろ法則の必然性に対する我々の信頼はどこから来たのか、と問題を置き換えてしまったのです。事物の本性についての問題を、事物と私たちの関係の問題へと転換するのです。この新しい問題に関するヒュームの回答は一言で済まされます。それは習慣つまり「慣れ」だというのです。すでに反復されて来たものの慣れが確信に至るのだと。毎朝、目覚めると陽が昇っていることが、また翌日も陽が昇ることに確信に似た自信を持たせると。

カントもヒュームに教えられて、この理由律の問題に疑義を呈しました。しかし、因果的必然性についてのカントの回答はヒュームと違って見事なものです。カントの回答は背理法に似た証明と言ったらよいでしょう。因果的必然性がない世界を仮定して、それがあり得ないことを証明するのです。なぜなら、因果性が世界を規定することをやめたのなら、いかなるものも恒常性を持たなくなり、表象可能ではなくなるでしょう。「もし人間があるときには動物のような形態に姿を変え、ひじょうに長い一日の間に、田舎があるときは果物に包まれ、あるときには氷や雪に覆われるとしたら」(純粋理性批判)それはあらゆる形式の表象の完全な破壊でしょう。ビリヤードの球の例でいえば、ヒュームの事例はビリヤードの球だけが因果性を逃れているが、球が転がるテーブルやそのテーブルが置かれる部屋はそうではない。まさに安定した文脈の中だからこそ気まぐれな結果を仮定できるのです。つまり因果的必然性とは意識と意識が経験する世界にとっての必然的な条件の一つである、と。

メイヤスーは、以上の三つの回答とも共通の公準として、因果的必然性という真理を疑いの余地なく認めていると言います。ライプニッツとカントの回答は言わずもがな、彼らの目的は因果性の真理の証明にあるのですから。しかし、ヒュームも、実は内心では因果的必然性について疑いを抱いてはいないのです。ただ、彼は、自然現象を発生させる原理の究極的源泉は人間の好奇心、探究から全面的に閉ざされている、といっているのです。懐疑主義者とはまさにこのような人たちのことなのです。しかし、懐疑主義は簡単に迷信に転じうる、とメイヤスーは書いています。「というのも、事物の流れには底知れぬ必然性が存在すると肯定し信じることは、まさしくさまざまな摂理を信じることになるからだ」

メイヤスーは、ヒュームが迂回した問題を再び取り上げ、因果的必然性についてのカントの証明を打ち破らねばなりません。もし、私たちが世界について持つ表象が必然的結合によって支配されていないのなら、世界は曖昧な知覚が無秩序に集積したものでしかなくなるだろうし、それは統一された意識の経験を構成することができないであろう、それは脈絡のない断片の経験の集まりににすぎない。つまり、法則の必然性とは、それをもとに意識の条件それ自体が作られる以上議論の余地ない事実なのです。このカントの証明は攻略不可能に思えるのですが、、、。

「カントの推論には同意することしかできないが」とメイヤスーは書いています。しかし、同意できるのは、世界の安定性の概念だけであって、決してその必然性ではない、と。 朝、蛇口をひねると水が下に落ち、窓を開けると風が部屋に入り、足を互い違いに動かすと会社の玄関に着く。これは自然の斉一性の原理で、この安定性には異論がないように思えます。しかし、その斉一性の必然性についてはどうか。明日もまた水は下に落ち、窓を開けると風が吹き抜けるのか、その確実性の保証はどこから来るのでしょうか。

実は、その斉一性の必然性を主張する必然性論者は、自然法則の安定性から、その強制的な条件として自然法則の必然性を次のように推論しているのです。
1、もし法則が実際に理由なく変わりうるものであるならば、すなわち法則が必然的でないとするならば、法則は理由なく頻繁に変わるだろう。
2、ところが、法則が理由なく頻繁に変わることはない。
3、したがって、法則が理由なく変わることは起こりえない。言いかえれば、法則は必然的である。

2の命題は異論の余地がありません。問題は1の命題の帰結部分で、もし自然法則が偶然的であるなら、それはなぜ頻繁に変わらねばならないと結論づけるのか。問題はこの一点にかかっています。メイヤスーはジャン=ルネ・ヴェルヌの『偶然理性批判』を援用して、暗黙のうちに法則の安定性から必然性へと移行する推論の根拠は確率論者の論理にある、と主張します。ビリヤードの球は、アプリオリにほぼ無限に近い行先・振舞いが可能です。しかし、実際には自然法則に最も適った一つのみが常に実現されます。サイコロの投擲を考えてみましょう。一時間の間、投げ続けたサイコロが常に同じ目を出す。いや一時間ではなく、一生を通じて、いや人類の記憶すべてを通して同じ目を「出す」と仮定しましょう。そのサイコロには何かイカサマが(鉛の玉のような)隠されていると思うのは普通でしょう。そのサイコロを前に卓の前に座っているのがヒュームとカントです。彼らは、もし偶然性が真なら、サイコロが常に同じ目を出すはずがない、もしすべてが偶然なら、サイコロは常にデタラメな目を出すだろうと推論するのです。しかし、今度は、頭の中だけで、膨大な数の〈宇宙サイコロ〉を考えてみましょう。サイコロのそれぞれの面はそれぞれの物理法則を持つ世界という一つの集合を表しています。私たちはそれを頭の中で転がす、頭の中では無数の物理法則を持つ世界が思考可能です。しかし、何万回ふっても宇宙サイコロは常に「私たちの物理法則」という目を出します。慣れ親しんだ私たちの世界が常に現出するのです。

ここで問題なのは、カントは、物理法則(自然法則)という目を現実のサイコロと同様に考えているところで、実は宇宙全体を全体集合とした場合、確率論は適用できないはずです。なぜなら、カントールの超限数(いくらでもより大きな濃度の高い集合が考えられるということ。集合の部分集合は常に元の集合より多い。集合{2 4 6}の部分集合はφ(空集合){2}{4}{6}…{2 4 6}と8個あります)は常により大きな集合の存在を証明しているので、確率の分母たる全体数が無限にあるのなら確率論は意味をなしません。これは私たちの自然法則の世界が安定した記憶を持っていても、いつ何時でも変わりうる可能性を否定しないということなのです。

もし、この証明(正直、不安な証明ですが)が真実なら、この勝利はピュロスの勝利(割りに合わない勝利)です。なぜなら、この証明は私たちの世界がまさにハイパーカオスの世界であり、明日何が起こるか予測できない、小惑星の衝突、太陽エネルギーの逓減、キリスト再臨と死者の蘇りすら可能であることを示しているからです。しかし、明日目が覚めて、地球が安泰であることを確認して喜ぶ必要はありません。これはまた思考が思考可能なものを思考する試みであり、世の中の必然性論者(独断論者)を糾弾する試みなのです。メイヤスーの最後の結論は感動的です。「私たちに〈なぜそうであって別様でないのか〉という形而上学的問いかけに対しては〈いかなる理由もない〉というのがその答えなのだ。〈私たちはどこから来たのか、なぜ存在しているか〉という問いに対して、笑い飛ばしたり、微笑を持って応じるべきではない。〈無からである。いかなる理由もない〉という答えこそがまさしく答えなのである」。

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2016年11月 1日 (火)

カンタン・メイヤスー『有限性の後でー偶然性の必然性についての試論』(1)

旅行の後、案の定、調子を崩してしまって、複数の病院に通う日々が続いて、だいたい寝込んでしまう毎日が続いていました。横になって考えることは、縁起でもないが、死についてのあれこれです。私が死を恐れてきた理由は、意識の全き遮断による無限に続く虚無の恐怖です。しかし、よく考えてみると、こんな風に「無の世界」に滑り込んでいくというのも、私の勝手な思い込みで 、その確からしさは、ISの自爆戦士が、60人の処女の待つ天国に行けると信じているその確率と変わらない筈です。なぜなら、死後にどんな世界が待っているか、今のところ死んでみないと確証する手立てがないからで、それはちょうど、扉を閉めないと灯りが点かないパリの古いカフェのトイレに入るようなものだからです。してみると、死後の世界があるかどうかの確率は50%だと言ったバートランド・ラッセルはやはり正しかったのでしょうか。

以上のことをポヤポヤ寝つつ考え、考えつつ寝ていたのは実はカンタン・メイヤスーの『有限性の後で』(人文書院・千葉雅也・大橋完太郎・星野太訳)を読んでいたからで、この本の第3章に、死後の世界について立場の違う五人の架空の論争が描かれているからです。最初の一人はキリスト教の独断論者で、魂は死後にも残り神の意志のままであるが、神の正確な意図は人間には閉ざされていると言います。次に登場するのはかつての私のような無神論者で、死んだら私たちの存在は完全に破棄され、全き無の世界が訪れると主張します。3番目に相関主義者が現れるのですが、ここで相関主義(correrationisme)について簡単に説明しておかねばなりません。

相関主義とはメイヤスーの造語で、私たちの認識は、私たちの受容機関と対象の間の関係にあるという考えです。林檎の赤さは、リンゴの中にあるのでなく、また私たちの中にあるのでもあ りません。それは林檎と私たちの関係の中だけにあるのです。だから、即自的なもの(自分自身だけであるもの)を私たちは認識できないし、ただ「私たちにとってのもの」に変換し、構成することによって初めて認識できるのです。これは、むろん元々はカントの考えで、カントは物自体(即自的なもの)は認識できないが、思考はできるとしました。ところが、カントの後に続くものは、さらに徹底して、物自体を思考することさえできないのだと主張しました。カントとその徹底論者を含めてメイヤスーは相関主義者と名付けるのですが、これ以降、哲学は実体を求めるという哲学本来の目的を捨てて、何がより根源的な関係かという探求に向かったのです。それは主に意識と言語という二つの主要な「環境」で起こりました。それぞれ前者は現象学を、後者は分析哲学のさまざまな流れを支えています(代表はハイデガーとヴィトゲンシュタインです)。また、本質的なものは対象と私たち自身の、つまり、存在と思考の関係にしかないという考えは、相関の絶対化、ないしは、より本質的な相関を求める思索に通じます。ヘーゲルの「精神」、ショーペンハウアーの「意志」、ニーチェの「力への意志」、ベルグソンの記憶を充塡された知覚、ドゥルーズの「生」、等々、この考えは現代に至るほとんど全ての哲学を覆っていると言ってもよいのです。

話が中断しましたが、キリスト教信者が、死後に永遠の魂を得ると言うのに対して、無神論者は、死んだら無で、後には何も残らない、と断言します。この二人に対する相関主義者の回答は、次のようなものです。つまり、キリスト教信者は魂の永遠、無神論者は絶対の虚無と、どちらも絶対的なものを措定しているが、即自的なものは〈私にとってのもの〉に変換されなければ知ることができない。つまり、キリスト教信者も無神論者もどちらも正しいことを言っているのだろうが、それは自分たちにとっての必然なので、だからどちらも誤りとは言えず、はっきり言えば無意味なのだ。私たちは、この世界にもはや私たちが属していないという条件下で私たちがどうなりうるかを知ることはできない、と。

四番目に登場するのは主観的観念論者です。主観的観念論とは、世界や事物をすべて自らの主観によるものとして、客観的な実在を認めない人間で、哲学史ではバークリーが有名でしょう。死後の世界について、主観的観念論者は、先の三者の誤りは、いずれも、私たちの現在の状態と異なる即自的なものが存在することを認めている点だと指摘します。理性にとって到達不可能な神や、また純然たる無もまた即自的なものである、さらに相関主義者もそのようなものを認識することはできないが、存在することを認めている。しかし、そもそも、そんなものは思考不可能である。とりわけ、私がもはや存在しないことを私が思考することなど不可能であり、私は存在するものとしてしか思考できないし、私が思考できるとしたら、それは私が存在するからである。従って、私は存在するしかないし、私の存在は、身体はともかく精神は不死である。こうして主観的観念論者は死さえも無化するのです。

これに対して先の相関主義者が反論します。独断的実在論者たちがそれぞれに主張する死後の状態の可能性は、それ自体としては思考不可能であるとはいえ(神の観想、純然たる無)、そういう主張自体は思考可能であるわけだ。死において私が全く別様になりうること(神に召されることや無化されることや自己同一的に存続し続けること)は思考可能である。なぜなら、私は自分を存在している理由を欠くものとして、このように存続する理由を欠くものとして思考しているのだから、それはすべての可能性に開かれていると言える。つまり、思考不可能なものの可能性であれば、間接的に思考できるはずだ。

最後に、思弁的哲学者が介入します。思弁的とは、経験によらず思考や論理で考えていくことで、世界を一から論理的に組み立てて行くヘーゲルは思弁的観念論者、経験をもとにアプリオリ(先験的に決まっている)な作用によって知覚と認識を構成するものが、カントのような超越論的観念論者と言われています。実はメイヤスーの立場は、思弁的に実体を考えて行く思弁的唯物論(一般には思弁的実在論)で、この『有限性の後で』はそのバイブルともなった書物です。さて、その思弁的哲学者はどのように前の四人に立ち向かって行くのでしょうか。

メイヤスー の考えは、いわば、相関主義者の方法を逆手にとったものです。死後には、永遠の魂も無限に続く虚無もどちらが真実に存在するか誰にもわからない。地獄の審判があるか、楽園の愉悦があるか、それもわからない。みな等しく、可能であり、また不可能である。起こりうることは全て等価である。なぜなら、相関主義者が言うように、死後に何が起こるかという理由など存在しない。デカルトの完全なる神がいなければ、どんなことが起ころうと予測することはできない。ただ確実にわかるのは人間とそれをとりまく事物との相関という事実性のみである。メイヤスーは、この相関性という事実を取り上げて、この事実性(哲学における事実性とは何の根拠も理由もなくただ事実としてあること)こそ唯一の絶対的なものであり、その非理由こそ私たちのよって立つ拠点だというのです。私たちは、私たちが存在することの〈理由の不在〉によって〈全き別様である可能性〉に開かれているのです。

実は、この一点にこそ相関主義者に対するメイヤスーの渾身の一撃が隠されているのです。カントが素朴実在論を蹴散らして、我々は対象そのままを知覚するわけではなく、超越論的主体によって構成された認識によるのである、と断言して以来、すべての世界・事物は「人間を通して」、あるいは空間と時間と悟性のカテゴリーを通じて、つまり、すべては相関性によってのみ我々に与えられるとされたのです。しかし、この死後の世界の可能性についての思索は、そこに一点の穴を穿ちます。もし、人間と事物との間の、つまり思考と存在の間の相関が単なる事実性であり、非理由であり、それゆえに私たちの存在が〈別様である可能性〉を持つのなら、この〈別様である可能性〉は私たちの思考に相関的に思考されることはありえない、なぜならそれは、まさしく私たちの非存在の思考を含意するからである、とメイヤスーは書いています。

書き出しのつもりでだらだら書いていたら、いきなり結論に行ってしまいました。ここで一服して(紅茶でも飲んで)(2)では、この書物と、それとキーワードである〈非理由〉や〈偶然性〉について書いて行きましょう。

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