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2016年11月 1日 (火)

カンタン・メイヤスー『有限性の後でー偶然性の必然性についての試論』(1)

旅行の後、案の定、調子を崩してしまって、複数の病院に通う日々が続いて、だいたい寝込んでしまう毎日が続いていました。横になって考えることは、縁起でもないが、死についてのあれこれです。私が死を恐れてきた理由は、意識の全き遮断による無限に続く虚無の恐怖です。しかし、よく考えてみると、こんな風に「無の世界」に滑り込んでいくというのも、私の勝手な思い込みで 、その確からしさは、ISの自爆戦士が、60人の処女の待つ天国に行けると信じているその確率と変わらない筈です。なぜなら、死後にどんな世界が待っているか、今のところ死んでみないと確証する手立てがないからで、それはちょうど、扉を閉めないと灯りが点かないパリの古いカフェのトイレに入るようなものだからです。してみると、死後の世界があるかどうかの確率は50%だと言ったバートランド・ラッセルはやはり正しかったのでしょうか。

以上のことをポヤポヤ寝つつ考え、考えつつ寝ていたのは実はカンタン・メイヤスーの『有限性の後で』(人文書院・千葉雅也・大橋完太郎・星野太訳)を読んでいたからで、この本の第3章に、死後の世界について立場の違う五人の架空の論争が描かれているからです。最初の一人はキリスト教の独断論者で、魂は死後にも残り神の意志のままであるが、神の正確な意図は人間には閉ざされていると言います。次に登場するのはかつての私のような無神論者で、死んだら私たちの存在は完全に破棄され、全き無の世界が訪れると主張します。3番目に相関主義者が現れるのですが、ここで相関主義(correrationisme)について簡単に説明しておかねばなりません。

相関主義とはメイヤスーの造語で、私たちの認識は、私たちの受容機関と対象の間の関係にあるという考えです。林檎の赤さは、リンゴの中にあるのでなく、また私たちの中にあるのでもあ りません。それは林檎と私たちの関係の中だけにあるのです。だから、即自的なもの(自分自身だけであるもの)を私たちは認識できないし、ただ「私たちにとってのもの」に変換し、構成することによって初めて認識できるのです。これは、むろん元々はカントの考えで、カントは物自体(即自的なもの)は認識できないが、思考はできるとしました。ところが、カントの後に続くものは、さらに徹底して、物自体を思考することさえできないのだと主張しました。カントとその徹底論者を含めてメイヤスーは相関主義者と名付けるのですが、これ以降、哲学は実体を求めるという哲学本来の目的を捨てて、何がより根源的な関係かという探求に向かったのです。それは主に意識と言語という二つの主要な「環境」で起こりました。それぞれ前者は現象学を、後者は分析哲学のさまざまな流れを支えています(代表はハイデガーとヴィトゲンシュタインです)。また、本質的なものは対象と私たち自身の、つまり、存在と思考の関係にしかないという考えは、相関の絶対化、ないしは、より本質的な相関を求める思索に通じます。ヘーゲルの「精神」、ショーペンハウアーの「意志」、ニーチェの「力への意志」、ベルグソンの記憶を充塡された知覚、ドゥルーズの「生」、等々、この考えは現代に至るほとんど全ての哲学を覆っていると言ってもよいのです。

話が中断しましたが、キリスト教信者が、死後に永遠の魂を得ると言うのに対して、無神論者は、死んだら無で、後には何も残らない、と断言します。この二人に対する相関主義者の回答は、次のようなものです。つまり、キリスト教信者は魂の永遠、無神論者は絶対の虚無と、どちらも絶対的なものを措定しているが、即自的なものは〈私にとってのもの〉に変換されなければ知ることができない。つまり、キリスト教信者も無神論者もどちらも正しいことを言っているのだろうが、それは自分たちにとっての必然なので、だからどちらも誤りとは言えず、はっきり言えば無意味なのだ。私たちは、この世界にもはや私たちが属していないという条件下で私たちがどうなりうるかを知ることはできない、と。

四番目に登場するのは主観的観念論者です。主観的観念論とは、世界や事物をすべて自らの主観によるものとして、客観的な実在を認めない人間で、哲学史ではバークリーが有名でしょう。死後の世界について、主観的観念論者は、先の三者の誤りは、いずれも、私たちの現在の状態と異なる即自的なものが存在することを認めている点だと指摘します。理性にとって到達不可能な神や、また純然たる無もまた即自的なものである、さらに相関主義者もそのようなものを認識することはできないが、存在することを認めている。しかし、そもそも、そんなものは思考不可能である。とりわけ、私がもはや存在しないことを私が思考することなど不可能であり、私は存在するものとしてしか思考できないし、私が思考できるとしたら、それは私が存在するからである。従って、私は存在するしかないし、私の存在は、身体はともかく精神は不死である。こうして主観的観念論者は死さえも無化するのです。

これに対して先の相関主義者が反論します。独断的実在論者たちがそれぞれに主張する死後の状態の可能性は、それ自体としては思考不可能であるとはいえ(神の観想、純然たる無)、そういう主張自体は思考可能であるわけだ。死において私が全く別様になりうること(神に召されることや無化されることや自己同一的に存続し続けること)は思考可能である。なぜなら、私は自分を存在している理由を欠くものとして、このように存続する理由を欠くものとして思考しているのだから、それはすべての可能性に開かれていると言える。つまり、思考不可能なものの可能性であれば、間接的に思考できるはずだ。

最後に、思弁的哲学者が介入します。思弁的とは、経験によらず思考や論理で考えていくことで、世界を一から論理的に組み立てて行くヘーゲルは思弁的観念論者、経験をもとにアプリオリ(先験的に決まっている)な作用によって知覚と認識を構成するものが、カントのような超越論的観念論者と言われています。実はメイヤスーの立場は、思弁的に実体を考えて行く思弁的唯物論(一般には思弁的実在論)で、この『有限性の後で』はそのバイブルともなった書物です。さて、その思弁的哲学者はどのように前の四人に立ち向かって行くのでしょうか。

メイヤスー の考えは、いわば、相関主義者の方法を逆手にとったものです。死後には、永遠の魂も無限に続く虚無もどちらが真実に存在するか誰にもわからない。地獄の審判があるか、楽園の愉悦があるか、それもわからない。みな等しく、可能であり、また不可能である。起こりうることは全て等価である。なぜなら、相関主義者が言うように、死後に何が起こるかという理由など存在しない。デカルトの完全なる神がいなければ、どんなことが起ころうと予測することはできない。ただ確実にわかるのは人間とそれをとりまく事物との相関という事実性のみである。メイヤスーは、この相関性という事実を取り上げて、この事実性(哲学における事実性とは何の根拠も理由もなくただ事実としてあること)こそ唯一の絶対的なものであり、その非理由こそ私たちのよって立つ拠点だというのです。私たちは、私たちが存在することの〈理由の不在〉によって〈全き別様である可能性〉に開かれているのです。

実は、この一点にこそ相関主義者に対するメイヤスーの渾身の一撃が隠されているのです。カントが素朴実在論を蹴散らして、我々は対象そのままを知覚するわけではなく、超越論的主体によって構成された認識によるのである、と断言して以来、すべての世界・事物は「人間を通して」、あるいは空間と時間と悟性のカテゴリーを通じて、つまり、すべては相関性によってのみ我々に与えられるとされたのです。しかし、この死後の世界の可能性についての思索は、そこに一点の穴を穿ちます。もし、人間と事物との間の、つまり思考と存在の間の相関が単なる事実性であり、非理由であり、それゆえに私たちの存在が〈別様である可能性〉を持つのなら、この〈別様である可能性〉は私たちの思考に相関的に思考されることはありえない、なぜならそれは、まさしく私たちの非存在の思考を含意するからである、とメイヤスーは書いています。

書き出しのつもりでだらだら書いていたら、いきなり結論に行ってしまいました。ここで一服して(紅茶でも飲んで)(2)では、この書物と、それとキーワードである〈非理由〉や〈偶然性〉について書いて行きましょう。

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