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2016年6月26日 (日)

昔の飼猫の思い出

どうでもいいような話ですが、私が死んだらもう誰の思い出にも残らないので、やはり書いておきます。それは30年以上前に、田舎で共に暮らした一匹の仔猫の話にすぎません。私は九州の小都市の郊外に一軒の古い農家を借りて暮らしていました。広い縁側、土間にある台所、石造りの五右衛門風呂などが私の「世捨て人」気取りに合っていたのでしょう。そんな暮らしを始めて程ないある夜のこと、その夜は激しく雨が降り続いていたのですが、布団に入って間もなく仔猫の泣き声が聞こえてきました。どうも家の軒先で泣いているらしい。無視して寝ようと思って目を瞑るのですが、泣き声は次第に叫び声に変わって行きました。 あまりの必死さに仕方なく台所のある土間の戸を開けると、茶トラの思ったより小さい仔猫がびしょ濡れになって座っています。タオルでくるむと、寒さのためかガタガタ震えています。泣き疲れたのか、もう口を弱々しく開けるだけで泣き声も出ません。炊飯器に残っていたわずかの白米をあげると、夢中になって食べ始めました。

翌日、大家さんの家へ行って猫を飼う許可をもらいました。私は実家に猫がいたので猫という動物には慣れているつもりでしたが、この仔猫ほど愛着を露わにする猫には出会ったことがありません。四六時中私から離れないので、近くのスーパーに買い物に行く時はコートの懐に入れて行きました。散歩に出ると、畑の道を私の後になり先になり遊びながら付いてきます。借りた農家がちょうど通学路にあったので、小金を稼ごうと学習塾を始めたのですが、教室の隣の部屋に隔離しておくと泣き叫んで授業になりません。教室に入れると体に上ってくるので、止むをえず抱きながら黒板で授業することになりました。天気の良い日は縁側で四肢を伸ばして寝ていました。近くの陸軍墓地の芝生が好きで、私がベンチに座って本を読んでいると、芝生の上を駆け回って蝶々や虫や蜻蛉を追っています。魚肉ソーセージが好物で、私が包丁で輪切りにするのを傍できちんと座って待っていました。こんなことも思い出しました。生徒の修学旅行の土産に長崎のカステラを貰ったのですが、カステラ好きの私は翌日食べようと卓袱台の上にのせて置きました。朝起きると、布団の中で私の腕に首をもたせて寝ている仔猫から甘い香りがします。はっと気がついて、卓袱台の上を見ると、カステラが半分近く食べ散らかされていました。

しかし、この仔猫との生活もほぼ一年近くで終わってしまいました。東京で慶事があって一週間ほど留守にしていたのですが、その間、私の家と畑を一つ隔てた向かいに住んでいる若夫婦に仔猫の食事を頼んでいたのです。その若夫婦とは時折食事をして無駄話をしたり、また仔猫も勝手に遊びに行って食べ物を貰ったりする仲だったのです。然るに、その東京滞在中に、九州の親類から電話があって、仔猫が死んだというのです。その親類の話によると、仔猫は腹を下していたので若夫婦は正露丸をちぎって飲ませたら死んでしまった、ということでした。猫に石炭酸を飲ませるとは! 何という無知でしょう。亡骸は親類が山に持って行って埋めたとのことでした。九州に帰ると、若夫婦の奥さんが顔を出して、主人は合わせる顔が無いとのこと、合わせる顔も何も命が一つ失われたことはどんな償いも無意味です。

一人で死ぬのはきっと苦しかったことでしょう。小さな命の何とはかなく愛しいことでしょう。私は死後の存在を信じないので、あの世でまた仔猫に会えるとは思っていないのですが、私が死ぬ時には長い夢を見て、その夢の中であの仔猫がきっと待っているような気がするのです。そして、私を陸軍墓地に似た芝生の公園に連れて行き、モンシロチョウにジャンプしたり、私の足にからまってきたり、私の手から魚肉ソーセージを美味しそうに食べるでしょう。なにせ30年以上待っていたのだから、甘える権利は十分あるわけです。
(6・24 パリー東京間の機上にて)

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2016年6月12日 (日)

フランス語の勉強

「趣味は何ですか?」と聞かれると「将棋です」と答えることにしているのですが、「ふうん」とか返事されて、そのまま会話が途切れてしまうことが多いのです。ちなみに、私がこの趣味にかける年間費用は0円で、そのため妻にはたいへん好評です。あまりに健気に思ったのか、誕生日に棋士の名入りの湯呑み茶碗を買ってくれたこともありました。ところが、歳を重ねて人生の残り時間が少なくなるにつれて、この趣味にもそれほど執着がわかなくなりました。頭を使う割には得るところがあまりないし、それに何より才能皆無のヘボ将棋なので上達などたかが知れているのです。思えば、すべてに執着心が薄れたのか、阪神タイガースにも30年前のような熱意はなくなり、囲碁やチェスへの興味も薄れ、酔っぱらって知らない街を歩くこともまったくなくなりました。

そう考えると、今でも続く密やかな趣味といえばフランス語の勉強しかないような気がします。ここ何年も早朝に目が醒めることが習慣になり、その1〜2時間をネットで仏語の新聞を読むことに使い、朝食前のわずかな時間にその日の忘れた単語や新規の単語をノートすることにしています。そして、フランス24のテレビを見ながら朝食を食べ、余暇の読書はほとんど仏語の本ですし、電車内ではラジオフランスを聴くか、ユーロニュースを観ています。これほどの持続的な興味の理由はどの辺にあるのでしょうか。私は、よく考えて、それには二つの理由があることに思い至りました。

その一つは、フランス語の難しさです。膨大に思える単語、底の知れない慣用語法の奥深さ、うまく聴き取れないリスニングの歯がゆさ、どう考えてもわからない哲学書の数ページ、頭を絞り、記憶力に鞭打ってこれらの難敵に立ち向かうことは趣味だからこその楽しい苦闘です。分厚い単語ノートを整理していると、妻が「あれだけ覚えたのに、まだ知らない単語があるの?」と聞いてきました。「とんでもない」と私がすぐさま答えます。「単語って覚えるよりも忘れる方が多いんだよ。まるでザルで水をすくうようなものさ。おまけに自分は頭が悪いから、一つの単語に50回出会ってやっと覚えるんだ。」

フランス語の勉強のもう一つの魅力は、矛盾するようですが、その易しさです。所詮は語学であり、ピアノやテニスと同じように弛まぬ努力によって身につく技術に過ぎません(むろん卓越した才能はその類ではありませんが)。それは、検定試験に表されるようにその技量を客観的に測ることもできるのです。飽きずに努力すれば必ず向上する。勉強の難しさと易しさはそこにあります。書庫で本を探していると、昔に読んだ仏語の小説などに出会うのですが、その時難解に思えた頁もすらすら読み進めることに気付いて驚きます。凡愚な人間でもその成長を確認できるとは何とうれしいことでしょうか。

それに対して、私が本当に難解なことと思うのは、手前味噌になりますが、このブログで続けている書評(というか本の感想)のようなものです。人の真似でないような、自分自身の本質とどこかで通じているような、それでいて面白く読めるようなものを書くことは私のような凡才には簡単なことではありません。その本を読みに読んで、その本の奥の奥に、自分と共有できる魂の一点を見つけることができずにのたうち回ったことが幾度あったことでしょう。ついにその一点に逢着できずに無駄に失われた時間のなんと多いことでしょう。このような苦しみと焦燥はフランス語の勉強には無縁で、それは趣味の矩を決して越えることはないのです。

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