« 憂愁の巴里(8)帰国 | トップページ | スタンダール『恋愛論』 »

2015年12月31日 (木)

藤森栄一『かもしかみち』


先日、寺島図書館のことを調べていたら、今はもう近隣のあづま図書館と合体して、新しく「ひきふね図書館」となっていたことを知りました。曳舟(東京人は「ひ」を「し」と発音するので「しきふね」と読んでしまうのですが)駅前にあるというその新図書館は、きっと明るく、広く、使いやすい図書館になっていることでしょう。昔の寺島図書館は、地蔵通りという通りを上ったところにある暗く狭い図書館でした。仕事のない人が新聞や雑誌を読んでいる読書室には隣接した都立墨田川高校の生徒のざわめきが聞こえて来ました。その図書館には、古い曳舟川通りの写真を載せている本が何冊かありました。今は埋め立てられていますが、昔はその細い川の上を陸上を歩く馬に曳かれて房総で獲れた米や野菜を載せた船が行き来していたのです。曳舟の東には向島百花園が、その北には遊郭のあった玉の井が、そして曳舟の東には東京スカイツリーで知られる押上の町があります。子供時代の懐かしの町々、 しかし、もう二度とその辺を歩き回る気はありません。昔もさして魅力ある町々ではなかったが、今は、林立するマンションのせいでさらに潤いのない醜い町になっています。

ところで、その寺島図書館は、私の読書人生にたいせつな意味を持っているのです。大学入学が決まって、受験期の重圧から解放された私は(大して受験勉強などしなかったのですが)、この図書館で思い切り自由な読書に浸ることができました。高校時代は小説ばかり読んできたので、もっと書物全般を広く読んでみようと思ったのです。そして、小さくて狭い寺島図書館の書籍を文字通り渉猟しました。どんな本を? 入り口に並んでいる新刊書籍から適当に選んで読み始めます。一冊の本は、必然的に次に読む本を教えてくれます。私の唯一のクレドは、他の誰からも、またどんな評判からも関係なく、自分の感覚で、この人は信用できるという著作家を見つけてその人の本を手に入る限りすべて読み込むことでした。何という、幼い、無邪気な青春の意気込みだったことでしょう、今では、物書きこそ一番信用できない人種であると思うようになっているのですが。

さて、そのようにして「発見」した著作家の一人が民間考古学者の藤森栄一です。その『かもしかみち』を読んですっかり魅了された私は、学生社から出ていた彼の本を読める限り読んでいきました。最近調べることがあって、縄文時代関係の本を読んでいると懐かしい『土器と石器の話』や『銅鐸』や『蓼科の土笛』という本にまた出会いました。考古学の本は、全く面白みに欠ける本が多いのに、彼の本にだけは柔らかで熱い血脈が流れているようです。

藤森栄一(1911ー1973)は、長野県上諏訪の小さな書籍文具店に生まれました。苦しい家業は、むろん彼に進学の夢を許しませんでしたが、栄一は周囲に内緒で諏訪中学(現在の諏訪清稜高校)を受験して入学してしまいます。そして、ここ諏訪中学で出会った教師たちが彼の人生に大きな影響を与えました。その一人が、栄一が中学一年から5年間地理を教わった三沢勝衛でした。信濃教育を代表する人物、三沢は井戸も出ない極貧の農家に生まれ、水は屋根に溜まった雨水を飲んでしのぎ、むろん米も出来ないのでヒエ・アワを食べ、小学校を卒業すると百姓をしながら勉強し、検定試験を一つずつパスして、ついに独学で中学の地理の教師になりました。彼の授業は変わっていて、生徒にいっさいノートをとらさず、晴れた日は野外に引っ張り出して、その土地と風土とが織り成す多様な世界について学習させました。それは彼独特の学問、風土学(太陽の観察から地質、植生、気候、産業の一体的研究)から生み出されたもので、没後に著作集の出たこの異質な教師の足跡は今も高校の三沢勝衛記念文庫に保存されています。暗記一辺倒だった当時の地理の授業に反発し、テストは白地図一枚に自由に図を描かせるだけのものだったということでした。数多くの著名な学者を社会に送り出した彼が52歳で癌に倒れた時、卒業生たちが集めた募金が病床の三沢のもとに届けられると、彼はその全額を使ってカメラマンを雇い、南信濃北信濃の各地域の写真を撮らせて後学の利便にしようとしました。

栄一は中学を出ると、もちろん高校・大学には行かせてもらえず、自転車で本の配達などをしながら、都会に進学した同窓の友人を横目に見て、不貞腐れたような毎日を送っていました。ある日、思い立って、母校の三沢のところへ顔を出しました。何の仕事をすればよいかわからん、という栄一に、三沢は怒ったように立ち上がると「日本職業便覧」という本を持ってきて栄一に放り投げ、「この本を読んで自分で探せ」と突っぱねました。そして、片目(もう一方の目は太陽の観察で失明していました)からはらはらと涙を流し、「おれはな、自分の将来を自分で決められないような人間におまえを教育した覚えはないぞ」と言いました。

ここから藤森栄一の考古学の道は開けて行くのです。

深山の奥には
今も野獣たちの歩む人知れぬ道がある。
ただひたすらに高きへ高きへと、
それは人々の知らぬ険しい路である。
私の考古学の仕事は
ちょうどそうしたかもしかみちにも似ている。
『かもしかみち』序文

紆余曲折を経て、ついに栄一は全てを投げ打って考古学の世界に飛び込みます。しかし、アマチュアの悲しさ、資金も後ろ盾も何もありません。知人を頼って放浪の日々、貧窮にまみれ、パン屋のゴミ箱から硬くなったパンを拾って食べる生活。やがて戦争が始まり、栄一は召集されますが、死の予感の中、戦地に向かう汽車の中でも論文を書いていました。フィリピンからボルネオ島へ、敗走しながら脚気に襲われ、誤って野戦病院の便所の穴の中へ落ちて二日後救出され、ほとんど眠ったように病院船で内地へ帰ってきました。しかし戦後日本もやはり栄一には厳しいところで、多くのアマチュア考古学者と同じように、妻に生活の資を頼る毎日です。ようやく筆一本で身を立て、好きな野山を歩き回る日々の果てに、栄一は62歳で持病の高血圧によって亡くなります。愛読者であった宮崎駿は栄一を『となりのトトロ』の父親のモデルに使ったようで、絵の背後には土偶や「縄文農耕」という論文も見られるということです。

標題にした『かもしかみち』は入手できなかったので、その他再読できた本を紹介しましょう。
『心の灯』(1971ちくま少年図書館)藤森栄一の自伝。「私は豪傑でも偉人でもありません。それどころか、学校はできない、学歴もない、財産も地位もない、それでいて執念ばかり強く、妄執は人一倍というぐあいで、本来なら、まるで他人につまはじきされて終わるべき、まったくの雑草でしかなかった」、そんな人生も、考古学というたった一つの心の灯を守り通すことで何とか半生を走り抜いた、そのような一人の狂おしい人間の記録です。

『銅鐸』(1964学生社)古代史最大の謎、銅鐸についての研究。冒頭は西暦667年の近江京造営の場面、一人の工人によって偶然発掘された大きな銅鐸(1m66cm)、造営に携わった百済人も見たことがない奇怪な形、しかし、造営の責任者であり当時の最高権力者中臣鎌足は、これを祥瑞(めでたい先ぶれ)と見ずに何故か黙殺します。当時は天智天皇即位の直後であり、倭姫(やまとひめ)との結婚も控えて、祥瑞ならば何でも欲しいにもかかわらず。むろん、『日本書紀』にもこの銅鐸に関する記述は一言もありません。さらに銅鐸の謎は深まります。銅鐸の多くは、山の中腹に、他の弥生遺跡と関係なく埋められていて、必ず部外者に「偶然に」発見される、そして、ある時期に一斉に姿を隠します。鋳造するための青銅はどこから来たのか? 鋳造するための青銅を溶かす坩堝が未発見なのは何故か。研究は行き詰まり、ほぼ諦めかけたその時、栄一の地元である諏訪大社の宝物館で宝剣盗難事件が発生します。現場に呼ばれ、警察による事情聴取を受けている最中、栄一は頭上のガラスケースの中の赤錆びた鉄鐸(竿の先につけて祭礼のときに鳴らした)に目が止まります。銅鐸に先立つ祭器である鉄鐸は、歴史から完全に姿を消した銅鐸とは反対に、つい最近まで使われていたのです。ここで、栄一は猛烈に資料を読み込み、何とか結論らしきものに到達します。中臣鎌足が銅鐸を黙殺したのは、それが彼が抹殺した別の系統の祭祀に属する道具だったからで、彼はあらゆる手段を尽くしてその痕跡を消し去りたかったのだ。しかし、天竜川を遡る終点である諏訪の社にだけは古い祭式が知られずに連綿と受け継がれていた。銅鐸の表面の絵図は農耕、なかんづく水の流れを表し、その役目は稲に不可欠な豊かな水への祈りであり、祈りの鐸は本来埋められることをもって完成する。

『縄文農耕』(1970学生社)この本の第七章「縄文の呪性」に私は深い感銘を受けました。縄文中期の竪穴式住居の内部で何が起こっていたのか。土偶はほぼ必ず何かが欠損した状態で住居の奥に埋められる。そして、その欠損箇所は隠されて決して見つからない。土偶が多産と豊穣のシンボルなら、欠損土偶はその否定、死へ向かう意識、再生の拒否、恐らく恐怖からの逃亡だろう。同時期の甕葬は、甕を住居の入り口のまさに敷居の下に埋められる。遺骸は常に踏まれ、踏み込まれ、押さえつけられ、蘇りを決して許されない。中期以降の土偶の縄目の模様はすべてとぐろを巻いたマムシの図柄と解釈できる。卵胎生のマムシの子は親の腹を食いちぎって生まれる。おぞましい出生の恐怖。突然の死、ネズミを追って、夜、マムシは竪穴式住居にそっと忍び込む。闇の恐怖、苦しみと激痛と死。

『蓼科の土笛』(1969学生社)栄一が『アルプ』や『旅』に寄稿した信濃の自然と人物についてのエッセイ。思えば藤森栄一のもっとも興ののった文章の集積でしょう。私は、蓼科や伊那や諏訪や小諸や飯田という地名を見ると、なぜか深い郷愁にとらわれます。別に知人がいるわけでなく、むろん住んだこともないのですが。窪田空穂の素晴らしい短歌
鉦鳴らし信濃の国を行き行かばありしながらの母見るらむか
も、信濃が大和や讃岐や常陸という地名では、この歌の言いようのない狂おしさを出すことはできないでしょう。

|

« 憂愁の巴里(8)帰国 | トップページ | スタンダール『恋愛論』 »

コメント

28年4月隅田川高校へ入学した、初めて孫娘の学校を見 学に訪れました。土地不案内のため、地図を頼りに赴く まま(寺島第一?小学校)と背中あわせの隅田川高校に
 たどり着く隣地にはコジンマリした寺島図書館を発見。
 
 曳舟町界隈のブログを渉猟するうち「かもしかみち」に 遭遇、藤森栄一が諏訪地区の出自と知る。心なしか親近 感を覚え、(家内が同地方の出もあって、、)
 孫娘が如何か向う3年ぶじに隅田川高校を卒業出来る日 を楽しみにまっています。
 又、貴図書館の発展を祈念いたします。 

投稿: 青木 弘光。 | 2016年5月 4日 (水) 15時25分

『一冊の本は、必然的に次に読む本を教えてくれます。』
つながりは、千路に。

ウィラ・キャザーさんを検索していて、ここへ流れ着き、藤森栄一さんの名前に再開。
おそらく、1978年~80年に、学校の図書館にあった藤森さんの著書5冊ほどを、読みふけりました。
その後何度か、古書店で見かけたのですが、迷っているうちに姿が消えて・・・。再読は果たせていません。

まんがの本の中で、藤森さんをモデルにしているかと思われる短編があります。
星野之宣さんの「宗像教授異録」(連作短編)のなかの一編で、八ヶ岳周辺で縄文遺跡の発掘を続けるアマチュア考古学者の一生が語られています。


投稿: あさ・がお | 2016年12月15日 (木) 23時58分

あさ・がお さん、コメントありがとうございます。
星野之宣という人は無知だったのですが、妻がよく読んでいて、宗像教授物も先日読んだそうです。機会があれば読んでみようと思います。
それではまた 。

投稿: saiki | 2016年12月17日 (土) 00時05分

星野さんを読んでいるという女性は、ネット上でお二人しかお会いしたことがありません。でも、奥様がご存じでいていただけたとは、なんという確率でしょう。
「スタンダリアン」という言葉に出会えたことの幸運にも興奮しつつ、思わず、上記カキコミの補足を書いてしまいました。
ネタばれしていますので、読後にお目通しいただけましたら倖です。
http://plaza.rakuten.co.jp/asa100/diary/201612180000/

投稿: あさ・がお | 2016年12月20日 (火) 14時27分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 憂愁の巴里(8)帰国 | トップページ | スタンダール『恋愛論』 »