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2015年8月31日 (月)

憂愁の巴里(6)モンマルトルの本屋巡り・オペラコミック座

6月23日

    大変すばらしい天気。朝の日差しが熱いほどです。クリュニーの停留所から86番のバスでセーヌ川を渡って、シュリー・モルランで降り、すぐ近くの停留所から今度は67番のバスに乗りました(一時間半以内なら一枚の切符で乗り降り自由です)。パリのバスの路線は、どんな場所までも一度の乗り換えで辿り着けるようになっていると言われています。67番はパリの街を北へ北へ走って、終点のピガールに到着しました。ピガール広場はモンマルトルのちょうど麓にあたります。モンマルトルを巡るモンマルトルバスの停留所にはもう観光客が列をなしていましたが、すぐにモンマルトルバスが到着、外観は普通のバスと同じですが、行先表示のところにサクレ・クール寺院のイラストが描いてあります。抜けるような天気、観光客の楽しいざわめき、バスはエンジンの大きな音を響かせて、モンマルトルの坂を登って行きます。

   ほどなくアベス広場に到着しました。狭い広場ですが、そこから伸びるアベス通りには観光客が首を四方に向けながら写真を撮ったり、クレープやアイスクリームのようなものを食べています。心がウキウキするような朝の光景ですが、今日はモンマルトルの北側の書店を巡ってみようとやってきました(以前、モンマルトルの南側、アルペントゥール書店やラトリエ9書店や金曜日書店などを訪ねています)。まずは、アベス広場のすぐそばにあるアベス書店librairie des Abbesses に入ってみます。ここはモンマルトルを代表する書店と言ってよいのですが、作家を読んでのサイン会や討論会など積極的な活動を通じて、単に本を売る店ではなく、文化的地域としてのモンマルトルに相応しい語らいの場を目指しているようです。Marie-Roseという有名な女主人の他にもスタッフはみな incollable(どんな質問にも答える人) だという話です。すでに先客が数人いて、Marie-Roseらしき中高年の女性とはっきりした声で話しています。どうも文学の話らしい。その女主人はとても愛想がよくて、客が入ってくるたびにボンジュールと大きな声で応えています。場所柄、観光客も多そうですが、常連さんには必ず親しげに言葉を交わしています。

   さて、店内ですが、予想したよりも狭い、真中に観光客向けのパリ関連の本と新刊のペーパーバック本が並べられています。奥の細い空間には美術書と児童書が要領よく、なかなか美しく取り揃えてあります。店の三方の壁が、この書店の眼目で、こういう所にどんな本を並べるかがその書店の店主と客のレベルを示しているのですが、さすがに品揃えはすばらしい。小説、エッセイを中心に哲学、思想までなかなかのセレクトです。

    私はフランスの書店に入ると、突然、わーフランス語が読みたいという狂おしい感情に襲われてしまいます。そして、良い本が目に留まると時間を忘れて読み込んでしまいます。そうなるとお腹が空こうが、脚が疲れていようが、他のことはみな忘れてしまいます。ハーバーマスの新しい仏訳を見つけて、活字が大きくて読みやすいので買おうかどうか迷いながら、あちこちページを拾い読みしていました。ハーバーマスは幼い時に口蓋の大きな手術をして、うまく発声ができないので学童の時は疎外され、虐められた経験を持っています。それが後に自分の意見を相手に了解させる方法としてのコミュニケーションについての理論を構築する契機となりました。私の場合だけかも知れませんが、若い時はアドルノやエルンスト・ブロッホやカール・シュミットなど頭脳を雷撃するような鋭い思想家に魅力を感じるが、歳を喰ってくると彼らのエリート主義がやや鼻につき、ハーバーマスのような命綱を腰につけて洞窟を這って探検するような思想家も読みたくなります。

   そんなことを考えていると、「買う本、決まった?」と妻が声をかけてきました。もうこの店に飽きているようで、私が持っているハーバーマスの本をチラッと見て、「それにすれば?」といい加減なことを言っています。私は、それで、ハーバーマスの本は買う気がまったくなくなりました。洋服ならいざ知らず、書物を買うことで妻に指図などされたくありません。それから妻から離れて、奥の美術書をゆっくり見ていましたが、「まだ? 私はもう見たけど」と妻がしびれを切らして声をかけてきました。それで、私は勘忍袋の緒がきれました。「うるさいな! 外で待っててくれ!」と押し殺した重い声で叫びました。店の女主人がハッとした感じで私たちに目を遣りました。妻も私の震え声にただならぬ気配を感じたようです。私がこんなに声を荒げたのは結婚以来二度目です(1度目は猫のことでした)。あまりの妻の無神経さに腹が立ったからで、妻がロクシタンやフラゴナールで商品を見ていても私はむろん急かしたりはしないのですが、というのも人が夢中になっている時に急かすなどは考えもしないことだからです。店に居づらくなったので何も買わずにアベス書店を飛び出して、一人でアベス通りを歩き出しました。こういう時、妻を責めるというより、人は互いに理解し合えないという淋しい思いに満たされ、トランクはいつもいっぱいにしておかねばならないというハンナ・アレントの言葉が胸をよぎります。いつでも一人で旅立てるように、たとえ野たれ死んでも一人で生きるに若くはないと。

   アベス通りを少し行って、ラヴィニャン通りを右に曲がると、すぐ左側にアニマ書店 librairie Anima があります。妻が黙って後をついてきたので、先ほど怒ってしまったことを後悔していた私は「この店に入るよ」と穏やかに声をかけました。しかし妻は遠慮しているのか、ウインドウを見ているだけで中に入って来ません。アニマ書店は狭い店で、新刊と古書を並べていますが、文学(とくに詩)・文学批評に特化しているようです。ちょうど、マルティール通りの金曜日書店のように、児童書など一顧だにせず、もっぱら知的読者に的を絞っています。店主は 初老の女性で、何やら常連客らしい老年の男性と互いに小さな椅子に腰掛けて話をしています。客は他にやはり老年の男性が一人本を物色していて、先客が帰ると、早速空いた椅子に座り女主人と話を始めました。私は、外で待っている妻が気になったので、レ・ファニュの「吸血鬼カミーラ」の仏訳(1.5ユーロ)を買って帰ろうとしました。フランソワ・リヴィエールの序文を読みたかったのですが、帰り際に女主人に店の写真を撮っていいかと聞くと、手を振って断っていたので、それでは、と帽子を取って挨拶して外に出ようとすると、女主人が「ムッシュ!」と言って後ろから私の腕を取ってきて何か早口で話しました。私がちょっと考えていると、戸口にいた妻が「自分の写真は駄目だけれど、店の写真ならいいと言ってるよ」と教えてくれたので、棚の写真を一枚撮って出て来ました。

   また、アベス通りに戻って、さらに西に少し歩いてビュルグ通りを右に曲がると、ブッフラーデン書店 Librairie Buchladen があります。ドイツ語で「本の店」という書店ですが、確かに店内はドイツ語の本とドイツ作家の仏訳の本が並んでいます。ベンヤミン、ロート、ユンガーなど、妻が好きそうな作家の本もあったので、また外で待っていた妻に店内に入るよう言いました。中高年の女主人が初老の男性客とカフカについて何やら話をしています。気がつくと、今度は別の客とドイツ語で話を始めました。私はここで Rivage Noir という警察推理小説で知られるリヴァージュ社が出している Petite Bibliothequeという素敵な叢書の一冊、ホフマンスタールの「リルケへの手紙」(6.6ユーロ)を買いました。

   それからトロゼ通りに入ると急な坂が続きます。私は下町の平坦な坂のない街で育ったので、坂道というだけで興奮するのですが、坂を登り切ると目の前に古い木造の風車がありました。夏の木の葉が生い茂って、よく見えません。しかし、そのレピック通りを東に歩くと、もう一つの大きな風車がはっきりと青空を背に立っています。ここはルノワールの絵で知られるムーラン・ド・ラ・ギャレットの跡地で、今はレストランになっている筈でしたが、扉に、経営者が変わったので改装するという貼紙がありました。その角を左に行くと、マルセル・エイメ広場に出て、有名な壁抜け男の像がありますが、目立たないので注意しないと見逃しそうです。そこからすぐの所にダリダの胸像があるダリダ広場があり、この辺はモンマルトルでもっとも美しい場所でしょう。歩いているうちに、妻の気持ちはすっかり晴れやかになったようです。

   ダリダ広場からメトロのラマルク・コーランクール駅までの急な階段を降りる途中のコンスタンタン・ペケール広場(ここも雰囲気のある界隈です)にLibrairie L'Attrape-Coeurs があります。「ライ麦畑でつかまえて書店」という店名ですが、サリンジャーの世界的ベストセラーの仏訳名をとっています。狭くてかわいい書店ですが、新刊から古典的名作、さらに児童書にも力を入れていて、作家を読んでの懇話会なども企画し、街中書店としては頑張っているようです。スタッフは大変知的な若い女性で、私はここで Marcel Cohenの Sur la scene interieure(6.4ユーロ)を買って、階段の真下のラマルク通りに出ました。サリンジャーの名が出ましたが、『ライ麦、、』および彼の短編集などが日本の文学青年たちに与えた影響は甚大なものがあると思います。日本の戦後文学、あの『野火』から『沈黙』『金閣寺』『虚構のクレーン』などなど、くそ重くて暗いだけの小説など模範にも何もならなかったのです。『ライ麦、、』は10代の、しかも落ちこぼれの少年が主人公であり、その破天荒な一人称の語りが強い無垢への憧れに裏打ちされています。日本の若者はたいていこのスタイルを真似てみたが、そこに青春の惑いといったものは表現できても、お定まりのように深みのない安っぽさのまま終わってしまったのです。そこには、サリンジャーやカート・ヴォネガットのようなほとんど絶望に満ちた体験が欠けていました。軽さは泥濘のように続く人生を代償にして初めて身につくものなのです。

   モンマルトルの裏手にあたるラマルク通りはもっともパリらしい通りと言ってよいでしょう。パリらしい通りとはシムノンの小説に出てくるような通り、真面目な勤め人だが思いがけず犯罪に巻き込まれてしまうそんな危なっかしい人間の住むアパルトマンが立ち並ぶ通りです。このラマルク通り77番地に Librairie L'Eternel Retour があります。「永遠回帰書店」という店名はこの店が元々哲学書中心の本屋だったことを示しています。しかし、入ってみると、今はそうでもなく、美術書や文学も手広く扱った極めて洗練された店構えになっています。スタッフは若くJolie(きれい)な女性で、とても愛想がよい。書物に囲まれ、書物を愛する人間を求める客と店主が、ほんとうに寛いで出会える書店、これはほとんど理想の書店の一つではないでしょうか。私が本を物色していると、妻がこれを買うと言って、マルセル・シュオッブが1899年に仏訳したトマス・ド・クインシーの『イマヌエル・カントの最後の日々』(7.5ユーロ)を持って来ました。それを買って、まだ後ろ髪を引かれたものの、「永遠回帰書店」を後にしました。

   ところで、フリードリヒ・ニーチェが『ツアラトゥストラ』で説いた永遠回帰の思想ですが、私はずっとニーチェがどうしてこんな突飛なことを思いついたのか疑問に思って来ました。先年、調べることがあって、私は好きではないが、ルドルフ・シュタイナーの『シュタイナー自伝』を読んでいた時です。シュタイナーはニーチェの妹、エリザベート・フェルスターに頼まれてニーチェの遺品である蔵書を整理していました。彼はそこで欄外にニーチェのびっしりした書き込みのある盲目の哲学者オイゲン・デューリングの『厳密な科学的自然観と人生形成としての哲学課程』を発見したのです。 デューリングは、そこで、ある瞬間における宇宙は元素間の一つの複合体として想像することができ、宇宙現象は、その種のあらゆる結合作用の過程であると書いています。そして、結合の組み合わせが尽きれば、最初の結合状態に戻り、かくて宇宙現象の全過程は繰り返される、さらにこの繰り返しはすでに限りなくなされたことであろうし、未来にも無限に繰り返されることだろう、そのようにして宇宙の同一状態が永劫に反復されるに違いないと。極端な実証主義者であったデューリングは、この自説を不合理なこととして葬り去ったが、ニーチェはこの説に霊感を受け、後年にその永遠回帰の運命を雄々しく肯定する超人の観念を産み出したのだとシュタイナーは書いています。「これが人生か、それなら、よし、もう一度 ! 」というツアラトゥストラの叫びは、ニーチェ自身の不幸な人生、女性と打ち解けて話せなかった、晩年を廃人として送った、を考えるとある感動に似たものを感じるのです。

   さて、モンマルトルの書店についてですが、訪ねた5店とも女性が切り盛りしていたのは示唆的です。「シェークスピア・アンド・カンパニー」のシルヴィア・ビーチや、「本の友の家」のアドリエンヌ・モニエを思い出して下さい。博識の男性店員が力説してconseillerするような書店は居心地がよくなく、話を聞いてくれる親切な女性のいる温もりのある本屋が生き残って行けるのでしょう。しかし、それにしても、書店をめぐる状況は厳しい。あと数年のうちには、この5店のうち幾つかは消えているでしょう。カフェやマルシェと同様、街角の本屋は大切なパリ風景の一部なのですから、ここは出血を覚悟しても強力な政策を実施して、文化の保塁を守るべきでしょう。

   メトロのラマルク・コーランクール駅から12番線でマドレーヌまで行き、8番線に乗り換えてグランブールヴァール駅に。「シャルティエ」で遅くなった昼食を食べるためですが、実は前回のパリ旅行の際は到着翌日でまだ体調が悪く、シュークルートを残してしまったのです。今回はまたそのシュークルートを頼んで、何とか二人で完食しました。妻はさらに好物のウッフ・マヨとサラダ・ヴェジタリアンを食べています。デザートを抜きにしようと思ったら、隣の客がババ・オ・ラムを食べていたので我慢できず注文してしまいました。85番のバスでホテルに戻って、ベッドでゆっくり休みました。予定していたオペラコミック座の開演は8時なので、まだたっぷり時間はあります。

   21番のバスでオペラまで行き、そこからイタリアン大通りを歩いてファヴァール通りのオペラコミック座に着きました。開演まで40分ほどあるのですが、劇場の前にはもう人だかりがしています。少し待って、開場。カルメンとマノンの二つの彫像が出迎える階段を横目に、劇場の隅のエレベーターの所まで行きました。まだ足が完全に良くなっていないので大事をとったのですが、何と小さなエレベーターが一つしかなく、しかもなかなか降りてきません。車椅子の人はさぞ苦労することだろうと思いました。私たちの席は前回と同じ一番上の天井桟敷で6ユーロ(約800円)です。オペラコミックの席をとるのはほんとうに難しく、しかも今夜が千秋楽で二つ並んだ席を取れただけで満足しなければなりません。

   今夜の演目はルイ・ヴァルネー(Louis Varney)の「修道院の銃士たち」Les Mousquetaires au Couvent(1880)です。ヴァルネーは音楽一家に生まれ、父親も指揮者兼オペレッタ作家で七つのオペレッタを作りましたが、一つも残っていません。息子は39のオペレッタを書き、そのうち「修道院の銃士たち」が大ヒットして、ヴァルネー家はついに歴史にその名を残しました。舞台はルイ13世の時代のトゥーロン、リシュリュー枢機卿がこの地を通過するため、反リシュリュー派の暗殺計画が懸念される不穏な空気が漂っています。しかし、修道院の寄宿舎の中庭では地元の旅籠の女性たちと地元の男性や銃士たちの楽しいパーティが行われています。そこに来た二人の銃士、そのうちの一人、ゴルトランは寄宿舎に入っているマリーという少女と相愛の仲、しかしトゥーロンの知事の姪であるマリーは妹のルイーズとともに修道女になることを決められています。なんとかしてマリーを脱走させたいゴントランはもう一人の銃士、親友のブリセットと相談して一計を案じます。ちょうど旅籠に投宿していた巡礼の修道士二人を部屋に閉じ込めて、その巡礼服を借りて修道院の寄宿舎に入ってしまおうというのです。計画は成功し、巡礼の修道士として寄宿生の前で説教するブリセットはマリーの妹ルイーズに一目惚れ、ルイーズもブリセットを好きになります。一方、マリーはすぐにゴントランの変装を見抜き、四人は早速脱走の手はずを整えます。が、計画は破綻し、知事や修道院長に現場を押さえられ、もはやこれまでと観念したその時、旅籠の部屋に閉じ込めている巡礼の修道士二人が実はリシュリュー卿暗殺のために派遣された刺客であることがわかり状況は一変、ゴントランとブリセットは国を救った英雄として表彰され、マリーとルイーズの姉妹との結婚も許されるのです。

   当時のオペレッタの流行の要素(男子禁制の修道院、凛々しく華やかな銃士たち、知事や院長ら権力者の滑稽さ)を寄せ集めただけの作品ですが、その配合の妙、全編に溢れる明るさ、楽しさ、ラストの爽快感もすばらしい。そして何より音楽です。軽快な出だし、心地よいメロディー、女性たちの透き通った歌声、「魔笛」の荘重さはもちろんありませんが、名曲の連続のようにも聞こえます(この日の上演は今ならネットで全編観ることができます)。

   幕間の休憩は、オペラコミックの天井桟敷ならではの光景です。シャンゼリゼ劇場の上品さもなく、オペラ・バスチーユの観光客の華やかさもありません。普通の音楽好きが馴染みの客を見つけて話に来たり、職場の仲間と大声で騒いだり、何と中学生の団体が先生に引率されて見に来ています。日本でも能や歌舞伎を生徒に見せることはありますが、楽しく観れる生徒は少ないでしょう。その反対にオペレッタは欲望の解放、人生の肯定、そして生きることはきっと楽しいに違いないと思わせてくれるはずです。ところで、この日は特別な意味がありました。というのも今日が今シーズンの最後の上演で、2007年からオペラ・コミック座の総監督をしているジェローム・デシャンが67歳という年齢を理由に退職する最後の日だからです。デシャンは大変な才人で、人気テレビコメディ番組を製作し、俳優としても一流、さらに演出家、映画監督としても有名です。この「修道院の銃士たち」でも演出を手がけ、さらに知事の役をコミカルに演じていました。

   11時過ぎに終演、観劇の興奮そのままにイタリアン大通りに出て、夜でも人通りの多いオペラ界隈を歩き、また21番のバスでサン・ミッシェルまで帰りました。ホテルの部屋で、買っておいたワインとサーディンの缶詰で軽い夜食を済ませました。リースリングがあまりに美味しいので、二人ですぐに一本を開けてしまいました。私が、今朝怒ったことを妻に詫びると、妻は「親にも怒鳴られたことがないのに」とガンダムっぽい台詞を言うので思わず二人で笑ってしまいました。

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アベス書店。モンマルトル随一の本格的書店だが、場所柄観光客の姿が多い。絵葉書や土産物を多く置けば売れるでしょうが、そうなれば肝心の読書人の足は遠のくでしょう。今のところ女主人ほかのスタッフの魅力で何とかやっているようです。

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アニマ書店。看板も店名もない地味な書店だが、本好きにはたまらない雰囲気のある書店です。anima とはラテン語で息、生命、魂を表し、ユングは男性の中にある女性的意識を表すのにこの語を使っています。

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アニマ書店の棚。小さな店の四方が本の山であふれそうです。しかし、隙間には必ず客がしばし店主のパトリシアさんと話をするための小さな椅子が置かれています。老齢の店主がいつまでこの店を維持できるでしょうか。

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ブッフラデン書店。ドイツ語の本と仏訳したドイツの本が並べられています。特色のある書店なので、この時代でも生き残れそうです。

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ブッフラデン書店の店内。ドイツ語の新刊のほか、厳選された作家の仏訳本が揃えられています。哲学・思想など読みごたえのありそうな本ばかりで、ここもまた魅力的な中年の女主人が店を守っています。

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ラトラペ・クールとは「ライ麦畑でつかまえて」の仏訳名。ミステリー、児童書から思想書まで幅広い品揃え。この種の一般書店の経営はモンマルトルに限らず厳しい。若い女性のスタッフがどれだけ顧客をつなげ止めていけるか。

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ラトラペ・クール書店の店内。やや狭く、本の絶対数が少なすぎます。何か特色を強く打ち出すべきでしょう。

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レテルネル・ルトゥール書店。店名は ニーチェの永遠回帰の哲学からとられました。

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レテルネル・ルトゥール書店の店内。センスの良い、見ているだけで楽しい棚です。感じの良い若い女性スタッフ、選び抜かれた書物、落ち着いたインテリアと、ここはまさに永遠に回帰してみたい書店です。

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モンマルトルの書店地図。サクレ・クール寺院やテルトル広場は観光客であふれていますが、この辺は昔ながらの本当のモンマルトルが味わえます。

Montmartre

モンマルトルの丘の上からパリ中心部を眺めます。

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ダリダ広場からサクレ・クールの方を見ました。観光客や住人が三々五々歩いています。

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モンマルトルバスがダリダ広場にやってきます。向こうに見えるのがサクレ・クール寺院。

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ムーラン・ド・ラ・ギャレットの風車。レストランは今閉店しています。

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マルセル・エイメ広場にある壁抜け男(Le Passe Muraille)の像。エイメは日本ではユーモア作家・異色作家などと知られていますが、そう思われているよりもずっと偉大な作家です。彼は1945年にレジオン・ドヌール勲章を、1950年にアカデミー・フランセーズの不滅の40人の椅子を、ともに拒否しています。格好だけの反骨精神などではなく、ささやかな精神の在り場所を守りたいという気持ちからなのです。

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メトロのラマルク・コーランクール駅。モンマルトルの裏手にあたります。

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レストラン・シャルティエのババ・オ・ラムとコーヒー。安いので、懐を気にせずに食べられます。

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オペラ・コミック座のファサード。開場を待つ人々。

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幕間の天井桟敷。教師に引率された中学生の集団がいます。

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オペラ・コミック座の階段。ここでチケットを見せます。像はマスネの「マノン」のヒロインです。

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「修道院の銃士たち」の最後の舞台あいさつ。素晴らしく楽しいオペレッタでした。前列で帽子を被った太った男性は知事役で演出もしたジェローム・デシャン。2007年から8年間オペラ・コミック座の総監督を務めました。

Riesling

アルザスワインのリースリングはびっくりする美味しさでした。モノプリで4.5ユーロという安さでしたが。

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モンマルトルで買った本。マルセル・コーエンの Sur la scene interieure は収容所で死んだ7人の家族の思い出です。

 

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2015年8月15日 (土)

憂愁の巴里(5)オペラ・バスチーユの「魔笛」

6月22日

   月曜日、何だか疲れていたので、ホテルでグズグズしてから、おもむろにサン・ミッシェル広場を通って、アルプ通りのギリシア料理店の並ぶ通りに入りました。以前、この近くのホテルに泊まったことがあり、馴染みのチュニジア菓子の店も懐かしい。サン・セヴラン寺院も久しぶりだが、まだ扉が閉まっていて入れません。サン・ジャック通りを渡ると、小道の先にパリでもっとも古い教会の一つ、サン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会があります。ここも以前、コンサートで入ったことがあります。ジュリアン・グリーンの『パリ』でひとしお愛惜を込めて書かれていた教会で、内部はややロシア正教風で、とても狭い。教会の椅子で少し休んでから、ラグランジュ通りを南に行ってサン・ジェルマン大通りを渡るとどこからでも目に入るサン・ニコラ・デ・シャルドネ寺院の直方体の塔が見えます。その先のポワッシィ通りをエコール通りに向かって歩くと、長く続く端正な建物、College des Bernardins が見えます。

   ここは月曜から土曜まで、一般の人に開かれたキリスト教関係のコミュニテイ施設で、子供から大人までを対象とした討論会や講演などが行われています。私たちはここのカフェで昼食をとろうと思ったのですが、まだ12時になっていなかったので食事のメニューは注文できないとのことでした。それで、施設内に店を出しているProcure書店の支店で時間を潰しました。やはり、というか当然ですが、カトリック関連の書籍ばかりで、隅から隅まで見ていったが買いたい本は一冊もありません。そうこうするうちに時間になり、カフェで Plat du Jour を注文しました。妻はトマトとチーズの前菜とメインのキッシュ。私はタラに米とインゲン添え、それにチョコムースで、ともに10.5ユーロという安さ。私たちが最初の客でしたが、すぐに席は人で埋まってきました。College du Bernardins の訪問客というより、近所の人やサラリーマンが多いようです。

   食事を終えてから89番のバスで15区のヴォロンテール通りへ。少し歩いて、パスツール研究所内にあるパスツール博物館の入口に到着しました。受付は非常に厳重で、IDカードがないと入れません。パスポートを提示すると、チェックした後、その場で名入りのIDカードを作成してくれました。「パスツール研究所の研究員になったみたいね」と妻はカードを胸につけながら言いました。博物館本館に入ると、また受付があり、ここで一人7ユーロ払ってガイドツアーに参加します。入場はガイドツアーでしか許されず、しかも1日に三回のみ(2時、3時、4時)です。ちょうど、2時のガイドツアーの締め切り直前だったので、まったく待たずに見ることができました。人数は15人ほどで子供から老人まで様々ですが、私たち以外はみな白人のようでした。ガイドは明るい中年の女性で、まず、パスツールの実験器具などを展示してある部屋に案内してくれました。そこで各国語(日本語もあります)で記された案内ファイルを見ながら各自勝手に展示を見ていきます。案内ファイルは非常に簡単で素っ気なく、素人が読んでも意味がわからないのがほとんどでした。妻がしきりと聞くので、私は、展示の順番に簡単に説明していきました。最初に酒石酸の結晶研究から、後に不斉炭素原子が鏡像異性体を持つことで確認された有機物の非対称性の発見、次に有名な白鳥の首のフラスコによる150年経っても腐らない培養液、さらにワインの発酵の研究、カイコの病気の研究、そしてもちろん狂犬病などのワクチンまで。ルーペと不完全な顕微鏡しかない時代に微生物の存在を探求し続けた努力には頭が下がります。「彼は医者ではなかったけれど、科学者としては完璧な人間だった」と私は妻に言いました。

   次にツアーの一行は階段を降りて、パスツールが晩年を過ごした居間、食堂、夫人の部屋などを見学しました。立派な陶磁器や絵画に飾られています。夢中で見ていると、ガイドの女性が「ほら、日本の人だよ」と天然パーマの頭の小学五年くらいの少年を私の前に連れてきました。二人連れで来ていた男の子のうちの一人で、そういえばどことなく日本人のような顔立ちです。「お父さんはフランス人で、お母さんは日本人です」と少したどたどしく日本語で自己紹介しました。「何回もフランスに来てるけど、フランス語は上手く話すことができないよ」と私はフランス語で言って、しっかりその少年と握手をしました。素直そうでとても好感の持てる少年でした。それから日本語でいろいろ話をしていると、ガイドの女性がニコニコしながら私たちを見ていました。

   最後に一行は地下のクリプト(墓所)まで降りて行きました。荘厳で華麗な墓所で、パスツールの大理石の大きな墓石が真ん中に鎮座しています。「ほんとうにここに埋まっているんですかね」と微笑を浮かべながら70過ぎの上品な老人がフランス語で私と妻に話しかけてきました。私も微笑しながら首をひねっていると、老人は妻に英語で「ご主人はプロフェッサーですか」と聞いてきました。どうも、実験器具を置いてある部屋で私が妻に説明しているのを見ていたようです。「いいえ」と妻は言って、去年私がロマの犬に噛まれて狂犬病のワクチンを打ってもらった事件のことを話して、今日はパスツールへのThanks Tourのつもりで来たのだ、と英語で言いました。老人は、その話にかなり興味を持ったらしく、「実は私の家内はプロフェッサーなんです」と言って、近くにいた夫人を手招きして、妻に、今の話をもう一度夫人にしてくれるよう頼んでいました。老人よりもかなり歳下の夫人に妻が英語で説明すると、夫人は目の覚めるような流暢な英語で返事をしてきました。これが妻の英語魂に火をつけたのか、それからは玄関まで歩きながら二人の会話が淀みなく続きます。夫人は妻に「科学者としてのパスツールをどう思うか」と質問したらしい。妻は「彼は医者ではなかったが、完璧な(complete )科学者だった」と私が教えた通りに話しています。

   博物館の玄関でそれぞれ夫婦の写真を撮りあってから、別れて、またバスでオデオンまで戻り、カルフールでバナナ(日本のより安くて美味しい)やハムを買ってホテルで食べました。一時間ほど休んで、バスでバスチーユ広場へ向かいます。オペラ・バスチーユで「魔笛」を観るためで、これが、まあ、今回の旅のクライマックスと言ってよいでしょう。30分前に到着して三階の正面の席に座りました。かなり高い所で、オーケストラボックスがずいぶん小さく見えます。でも、双眼鏡があるから大丈夫と思っていたら、な、なんとバックに双眼鏡が入ってない、ポケットにもありません。ホテルに忘れてきたので、これでは歌手の表情や字幕(フランス語と英語)も読めません。たいへんショックでパナマ帽を椅子に叩きつけました。しかし、歌詞は暗記するぐらい聴いているし、音楽は何しろモーツァルトです、知られている名曲はもちろん、どの曲も聴くだけでうっとりするに違いありません。灯りが落とされ、荘厳な出だしの序曲が鳴り響くと、ついに魔笛を生で観ることができるという期待に胸は高鳴ります。王子タミーノが出て、三人の侍女が出て、鳥刺しのパパゲーノが出て、そして気づいた時には何と眠っていました、、、。隣を見ると妻も早々と眠っています。腕をつねって起こすと「空調が気持ちよくて眠くなった」と言っています。確かに歌はすばらしい。しかし、歌手の表情がよくわからないのと、演出が無機質すぎて飽きやすい。出演者の衣装がほとんど白と黒なのはどうかと思います。

    舞台に注目したり、眠ったりしながら幕間休憩に突入しました。体を伸ばすためにロビーを散策して見ましたが、さすがにオペラ・バスチーユです、観光客の姿が多い、日本人の姿も今回の旅でいちばん多く見かけました。バー・カウンターは満員で、12ユーロのシャンパンが飛ぶように売れています。シャンパングラスを二つ持った男性が目の不自由な男性の手を引いて歩いていました。杖をついて腰を曲げた老人が、一人でとぼとぼと、しかし笑顔を浮かべて歩いています。小さなテーブルを挟んで、もう激論を交わしている(たぶん舞台について)男と女、独特な節回しで12ユーロのプログラムを売り込んでいる劇場のスタッフ、明るくて何となく気だるいオペラの幕間でした。

    さて、第二幕からやっと目が醒めてきました。このオペラの要はパミーナ役のソプラノですが、アメリカ人のジャクリーン・ワグナーは評判が良いのですが、私はパミーナはもっと甘ったるく歌う方が好きです。夜の女王は出番が少ないですが、超絶アリアで有名な役どころで、ジェイン・アルチンボルドという歌手はただ高く歌うだけでなく自然な感じで好感が持てます。バスチーユのこの「魔笛」の問題は、むしろ演出のロベール・カルセンにあるようです。彼は「魔笛」の主題は(インタヴューによると)ズバリ生と死、あるいは死と再生にあると考えているようで、実はそれは全く私と同意見なのですが、かれはそれを象徴的に表現するために、舞台衣装・デザインをほぼ白と黒に統一し、面白みのない色目にしてしまっています(パパゲーノのみは青いアノラックにアイスボックスを提げて登場します)。遠くから見ると登場人物の区別がつきにくいし、舞台装飾も極端に簡素化し、無駄なものは一切ありません。冒頭の大蛇など尻尾しか見えないし、途中のライオンなど実際に出たかどうか思い出せません。その反対に、最後の火と水の試練の場では、他の魔笛演出では見られないような舞台全体にわたって本物の火が燃えており、19世紀末のオペラコミックの火災を思い出してやや冷やっとしました。この場面だけを強調したのは、それが死を乗り越えての再生という象徴的シーンだからでしょう。ところで、オペラの帰り道、バスチーユの駅で地下鉄を待っていた時、知り合ったばかりらしい中高年のグループが激論を交わしていました。アメリカ人らしい老人が英語で beautiful だったと言うと、イタリア訛りの中年の女性がbeautiful ではなくてartificial (わざとらしい)だと力を込めて何度も反論していました。どう見ても知的に見えないイタリアの中年女性だが、オペラについての身についた感覚はさすがにイタリア人らしいと後で妻は言っていました。そういえば、これまでにネットなどで見ることのできた「魔笛」の中では、音楽リカルト・ムーティでスタッフを全てイタリア人で固めた1995年のミラノ・スカラ座版がいちばん自然で共感できた上演でした。

   というのも、1791年の「魔笛」初演の時のモーツァルトと座長のシカネーダーの意図はロベール・カルセンの演出と反対だったと思うからです。シカネーダーはこのオペラが成功を博すると確信しており(実際、とても好評でした)、その理由は彼好みの大掛かりな仕掛け(蛇が炎を吐くような)と滑稽なパパゲーノ(シカネーダー自身が演じた)が一般受けすると思っていたからです。モーツァルトも彼にとって初めての魔法劇に興奮し、魔法の笛や魔法の鈴を面白がった、彼は(その年に35歳で亡くなるのですが)死の床にあっても、友人のピアノ伴奏で「俺は鳥刺しパパゲーノ」を細い声で歌っていたのです。エドワード・J・デントの素晴らしい本『モーツァルトのオペラ』(草思社・石井宏、春日秀道訳)によると、モーツァルトは、その時代で唯一、オペラの興行について興行主なみに気を配り、いかに観客を喜ばせ興行を成功に導くかに腐心した音楽家であったということです。そして、それは彼の高貴なる思想、観客を啓蒙し、かつ秘教的体験に導くという思想と矛盾はしなかったのです。

   ここにこそ「魔笛」の秘密があります。アドルノは Essays on Music(University of California Press)の中で面白いことを書いています。つまり、1791年の「魔笛」は芸術的音楽とポピュラー音楽が自然と共存した最後の作品である、と。それ以降、両者は画然と分かたれた、ベートーヴェンが観客を喜ばせるために「フィデリオ」を改作するなどということは想像もできません。おそらくその流れはモーツァルトの死によって引き起こされた、と言ってもよいでしょう。あらゆる川の流れがモーツァルトの中に流れ込み、彼はやすやすとそれを会得し、統合し、そして彼の死後に小ぶりな形で四散して行ったのだと。

   知っている人も多いでしょうが、ここで「魔笛」のあらすじを復習しておきましょう。魔笛の筋というと、荒唐無稽の典型と語られるのが普通ですが、とんでもない、これ以上に緊密で、1分の無駄もないオペラは珍しい。舞台はエジプト、東洋の王子タミーノは夜の女王から娘の奪還を依頼されます。その王女パミーナはザラストラに誘拐されて彼の神殿に幽閉されているのです。彼女の美しい絵姿を見て夢中になったタミーノは一も二もなく承知します。従者として鳥刺しのパパゲーノが、そして王子には魔笛が、パパゲーノには魔法の鈴が与えられます。ザラストラの神殿に着いたタミーノは、そこで、神殿の僧に、実は夜の女王こそ悪人でパミーナを騙している、パミーナと結婚したかったら、ここでの試練を経て知恵ある仲間にならねばならないと諭されます。勇敢に試練に挑むタミーノ、そして最後の火と水の試練ではパミーナの導きで試練を克服し、晴れて神殿の仲間に加わるのです。

   「魔笛」はシカネーダー作と伝えられていますが、実は彼が創造したのはパパゲーノとパパゲーナだけで、本筋は当時「魔笛」の俳優でのちにダブリン大教授となるカール・ルートヴィヒ・ギーゼッケである可能性が高そうです。というのも指導者ザラストラの造形はシカネーダーには無理で、当時まだ血の気の多い学生だったギーゼッケが『セトス』の筋を改変して書いたのだろうとデントは言っています。『セトス』とは、1721年にコレージュ・ド・フランスの教授であったジャン・テラソン師が著したもので、遥かトロヤ戦争以前の昔のエジプトの王子セトスが、様々な試練を経て秘教に入信する話です。遠い地エジプトのピラミッドの地下で執り行われる秘密の儀式、入信に至るまでの苦しい試練、イシスとオシリスという異貌の神の魅惑、それが18世紀末のフリーメイソンたちの心を捉えたのです。

   最後に、モーツァルトとこの「魔笛」のフリーメイソン的性格について書いておきましょう。カトリックとして出発したモーツァルトは、次第に人間の平等についての感覚を研ぎ澄ませて行きます。幼少の頃から各地の王侯貴族と交わった経歴、あるいは高位聖職者たちの堕落した人間性などが、人間は本来平等なのに、たんなる生まれの良し悪しによって差別されてしまっている、という考えに彼を導きました。また彼は、卑屈な演奏家や教養のない俗物も軽蔑し、人間は知的努力によって高貴な存在になることができるし、ほとんど神に等しくなれる、その手段は友愛に他ならないと信じていました。キリスト教の神はここに至って放擲されたが、彼を苦しめた問題が一つ残っていました。それは、キリスト教が与えていた死の恐怖からの慰安です。神無くして死の恐怖から人間を救い出すことができるか、実にそれが「魔笛」の主題だったのです。タミーノとパミーナは、最後に、死に勝利した者として最高神殿への入場を許されます。「魔笛」を理解するためには、私たちもまた火と水の試練を受けねばならないというエドワード・J・デントの言葉は深い意味を持っているのです。

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サン・ジェルマン・デ・プレ教会の前のレンヌ通りのバス停。モーツァルト「魔笛」の広告が目をひきます。

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朝のサン・ミッシェル広場近くのサン・タンドレ・デ・ザール通り。13世紀からの古い通りです。

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16世紀にさかのぼるサン・セブラン教会の聖マルタンの扉。聖マルタンは着るもののない貧民に自分のマントを半分切って与えました。マントの残り半分は教会に保管され、chapelle(礼拝堂)の語源はマントのラテン語cappaから来たと言われています。

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パリ最古の教会の一つ、サン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会。左手にノートルダム寺院が見えます。

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ポーヴル教会の内部。ロシア正教っぽい祭壇が特徴的です。

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サン・ニコラ・デ・シャルドネ教会。ここも左岸を代表する教会だが、キリスト教原理主義を貫いているのが特徴。短パン、タンクトップなどを身につけて入るのは禁止されています。

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ガランド通りを歩いていたら、女性に人気のおかまクラブの上に古いレリーフがありました。すべてを捨てて渡し守りをしていた聖ジュリアンがのせた客はイエス・キリストでした。この感動的な話はフローベールの聖ジュリアン伝に描かれています。

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コレージュ・デ・ベルナルダン。12、13世紀、ボローニャ、パリ、オックスフォードなどに大学ができ、ヨーロッパは空前の知的興隆の時代を迎えました。クリスチャンのための学校を作りたいというイノセント4世の意を汲んで、ここパリにコレージュ・デ・ベルナルダンができたのは1248年でした。その後、戦争や革命のために、この建物は刑務所、倉庫などに転用され、2008年、本来のキリスト教徒のための文化施設として再建されました。

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コレージュ・デ・ベルナルダンの内部。左奥に書店が、その右奥にカフェ兼食堂があります。

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コレージュ・デ・ベルナルダンの日替わり定食。上が妻のキッシュ、下が私のタラとインゲンと米。安くて美味しいので近所のおばさんが食べに来ていました。

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パスツール研究所。内部が写真撮影不可なのが残念でした。

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バスチーユの3階席。正面の席ですが、さすがに遠すぎました。

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幕間のロビー。オペラ・ガルニエと比べると服装はラフで、観光客の姿が多い。

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「魔笛」の最後の舞台あいさつ。みな白い衣装なので誰が誰だかわかりません。

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グッズ・ショップで。モーツァルトが「魔笛」の中で、友愛の共同体の実現を夢見ていたことは私たちを感動させないでしょうか。

 

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2015年8月 1日 (土)

憂愁の巴里(4)ハムレットの悲劇

6月21日

    日曜日の朝、いつものようにロビーで朝食を済ませ、サン・ミッシェルの停留所からバスに乗ってオテル・ド・ヴィルまで行き、72番のバスでプティ・パレまで行こうとしました。日曜日は走っていないバスも多いので注意しなければなりません。プティ・パレで開催されているのは「カルメンからメリザンドまで」という展示です。これは今年で300年を迎えるオペラ・コミック座について、その舞台裏、その衣装、オッフェンバックやビゼーなどの作曲家、その楽譜、舞台写真、その映像まで多岐にわたって繰り広げた展示で、たいへん地味ながら、見ておかなければ、おそらく二度と企画されないだろう催しです。その象徴はビゼーのカルメンとドビッシーのメリザンドで、これがオペラ・コミックの特質をよく表しています。

  オペラ・コミック座は1715年、ルイ14世の死んだ年に開業しました。オペラ座、コメディ・フランセーズと並んで、フランスで最も古い三つの劇場の一つです。オペラ座が正統的なオペラを上演するのに対して、オペラ・コミック座は主に台詞と歌が混ぜ合わさった、一般庶民が主人公として登場する気軽なオペラを上演します。ただ、イタリア発祥のオペレッタが必ずハッピーエンドで終わるのに対して、フランスらしく涙を誘う悲劇的な最後が多いように思います。ドリーブの『ラクメ』やマスネの『マノン』などは有名ですね。なお、この展示では1887年のオペラ・コミックの火災の絵や資料が展示されていました。5月21日、古いガスの火から引火して、トマの『ミニョン』上演中の舞台奥から出火、俳優、スタッフ、観客など100人余りが死亡、200人以上が負傷した大火災で、オペラ・コミック座はそれ以降電燈を使うようになったということです。

   その後、プティ・パレの常設展示(無料)を大急ぎで見ていきましたが、私がまだ足が痛く、妻の足手まといになったのは本当に申し訳なかった。しかし、この常設展示は素晴らしく、ちょうどルーヴルを縮小した感じで、何より観光客が少ないのでゆったりと見ることができます。ルーヴルのオランダ絵画というと、まともに見たら1日でも足りないでしょうが、プティ・パレなら、ロイスダール、ヨルダーンス、ホッベマなどを 見ることができ、さらにルーベンス、レンブラント、フランス絵画ならプッサン、ジェリコー、コロー、クールベなどとても多い。妻の好きなギリシャ陶器も少ないながら充実していて、半日の鑑賞には十分すぎるほどでした。

   ちょうどお昼になったので、プティ・パレの中のカフェで昼食をとりましたが、私は昨日の胃痛は治ったもののまだ心配で、妻のオープンサンドを半分もらっただけでした。このカフェの中庭はとても良い雰囲気で樹木に囲まれて、都会の中の別世界という趣でした。2時にサル・リシュリューで「ハムレット」を観るので、遅れないようにプティ・パレを出て、72番のバスに乗りましたが、カルーセル橋で降りなければいけないところ、うっかりして乗り過ごして、三駅先のシャトレまで行ってしまいました。開演30分前に入り口でチケットを受け取るので、急いで戻りましたが、途中にANIMALERIEというペットショップがあったので覗いてみました。日本と違って、犬よりも猫の方が多く、値段は1匹10万から20万円ほどです。

   ちょうど30分前にサル・リシュリューに到着。チケットを受け取って、すぐに階段を上がり二階の正面の席へ。ここは41ユーロと一番高い席ですが、さすがに見やすそうです。今日の演目は「ハムレットの悲劇」で、日本にいるとき、妻がコメディ・フランセーズでハムレットを演るけどどうすると聞いてきたので、一度コメディ・フランセーズのシェークスピアを観たいと思っていた私は深く考えず、いいよと言ってしまいました。しかし、切符を買った後、いろいろな新聞で劇評を読むと、厳しい評価もいくつかあって、というのもハムレットの舞台は70年代の英国のフェンシング・クラブのパブに変えてあるからです。こういう試みが成功する例は少なく、かつてのバスチーユで見た『セビリアの理髪師』のようにガッカリするだけで終わってしまうのでは、と大いに後悔してしまったのです。

   偶然思い出したのですが、もうずっと昔に、NHKテレビで福田恆存がある若手演劇家と対談したことがあるのですが、その若手演劇家はいわゆるジーパン・ハムレット(出演者がほとんどジーパンをはいている)なるものを演出していて、彼の言によれば、ハムレットは読む人それぞれの無数のハムレットが存在するのだからその演出は自由であるはずだ、というものです。それに対して福田恆存は、いやハムレットは一つしかなく、それは17世紀の初めにシェークスピアが書いた悲劇に他ならない、と断言しました。この放送を見たとき、私は福田の言っていることがむろん正しく、小賢しいアイデアでクラシックな作品を冒涜するのは許せない、などと思ったのです。
   ところが、コメディ・フランセーズの三時間の観劇の後に、私は告白するのですが、たいへん面白かった、三時間があっという間でぜんぜん退屈しなかった、この舞台設定は自分にとっては成功という他ない、と言わねばなりません。この面白さは、むろんその奇抜な着想にあるので、次の場面で、原作がどう演じられるかを予想する楽しみ、またそれが裏切られる楽しみでもあります。

   簡単に紹介しましょう。ハムレットは西欧の最高の文学的達成の一つですが、その価値は atemporel(時間を超越している)であり、不朽のものである、だからデンマークのエルスヌール城と能う限り離れた舞台設定でもその価値は失われることはない。そう考えて演出のダン・ジャメットは、その場所を、1970年代の英国の下町のフェンシング・クラブの薄汚れたバーに設定しました。壁際にジュークボックスが置かれ、壁にはサッカーやフェンシングの選手の写真、棚にはウイスキーの瓶やトロフィーが置かれています。兄を殺したクラウディウスはそのバーのマスターで、どぎつい化粧でいつも酔っ払っているのはゲルトルート、つまり夫を殺した義理の弟と結婚した女でハムレットの母親です。オフィーリアは蛍光色のワンピースを着た軽っぽい娘で、旅芸人の一行は70年代のパンタロンにタートルネックのセーターを着ています。全ての場面が演じられるバーはそのまま宮廷で、左端にある男便所はハムレットの散歩道(棚に設置してあるコンドームの自動販売機の横にto be, or not to be...の台詞が落書きされています)、右端の婦人用便所はオフィーリアが身投げする小川で、彼女はその便所で自殺するのです。

   そして、このように有り様を完全に変えた舞台にありがちのように話は全く原作と同じように進展します。なぜなら、細部まで忠実に原作を再現してこそパロディーとしての質が保証されるからですが、舞台を観る楽しみも全くそこにあるのです(むろん、ハムレット全編を細部まで知り尽くしていないといけません)。ただ、ここに一つのバイアスがあって、この堕落した場末のクラブの薄汚れたバーの中で、唯一ハムレットだけが、この汚染された腐った世界に馴染むことを拒否しているように見えるのです。クラウディウスは俗物、ゲルトルートは酔っ払い女、オフェーリアは馬鹿娘、しかし、ハムレットは知的で、どちらかというとオタクだが、能力に比例した生活力がなく、自分が王位にふさわしいかどうか自信が持てない、懐疑的だが理想主義的な青年、これは原作の周到な、そしてほぼ正確な解釈ではないでしょうか。親友のホレーシオに「生き残れ」と言い、フォーテンブラスにデンマークの未来を託すのは、ハムレットがこの汚れた世界を拒否し、自ら犠牲となってこの世界と心中しようとする意思の表れと読めるからです。

   コメディ・フランセーズのパンフレットに書かれた演出家ジャン・ジャメットの文章によると、彼が生まれた英国では、小学校から大学までハムレットについて教えられ、しかもジャメットの父親は俳優でもあったので、家でも台詞を聞かされた。ハムレットの台詞を暗唱している英国人はたくさんいて、ハムレット劇といえば、俳優の良し悪し、評判だけが興味で、世界文学としての内容そのものを云々する人間などいない。ところが、フランスでは、たとえ、今度の芝居の元になったイヴ・ボンヌファの翻訳がいかに流麗であったにしても、そこに大いなる懸隔がある。フランス語を通じてのハムレットはやはり一つの別のハムレットだ。そこで初めて自分は想像力を刺激されて、新しいハムレットを作りたくなった。ちょうど、(ハムレット役の)ドニ・ポダリデスと仕事をした時、彼がフェンシングをやっていたことを知って、すぐにこのハムレットを思いついた、と。

   ドニ・ポダリデスといえば、前回の『ルクレツィア・ボルジア』の演出をした人間です。その演出はどうかと思うが、今回のハムレット役は本当にすばらしい。50歳という年齢が問題ですが、今回はほとんど年配の俳優達なのでさほど気になりません。原作ではオフェーリアとゲルトルートは存在感が薄く、描き方がやや曖昧だが、この芝居では存在感、溌剌さ、重要度がずっと増して、これこそ正しいのでは、と思ってしまいます。
   ところで、ヤン・コットが言っているように、ハムレット劇は政治的陰謀劇としてみるともっともわかりやすい。互いに相手の動向を監視し、本心は何かを探り出そうとします。クラウディウスはハムレットの学友二人(むろんローゼンクランツとギルデスターンです)にハムレットの本心を探らせ、ポローニアスにその娘オフィーリアを使ってハムレットの狂気が真実か否かを検証させます。ハムレットはハムレットで、旅芸人に芝居を演じさせクラウディウスに心理的揺さぶりをかけるのです。これだけの数の登場人物(墓掘り人や旅芸人も含めて)に全て重要な役割を全うさせ、筋の展開の矛盾もなく、しかも主役の王子ハムレットに重い謎を含ませたままにする所をみると、シェークスピアはやはり天才でしょう。ただ、シェークスピアというと、分け知り顏の連中が大げさに語るのが煩わしい。まだ20代の頃、私は長兄に「お前にはまだシェークスピアの良さは分からないだろう」と馬鹿にしたように言われたことがあるのですが、これがまだ評価の定まらない19世紀初頭なら価値のある言葉だったでしょう。スタンダールは、パリのサロンでシェークスピアがさんざ罵倒されているのを聞いた時、悲しみのため反論する気力もなく、外で一人涙を流した、ということです。理解し、愛するとはこういうことではないでしょうか。

   帰り際、サル・リシュリューの前のフランプリでサラダ、果物、ワインなどを買って、27番のバスでサン・ミッシェルまで帰りました。疲れたのでホテルの部屋でコーヒーを飲んで一眠りしました。眼が覚めると10時過ぎで、今日は「音楽の日」ということを思い出しました。まだ足はかなり痛かったが、喧騒が見たくてカメラを持って外に出てみました。ところがカメラが作動せず、ガチャガチャやっても直らないので、妻のペンタックスを借りて写しました(その後、妻がすぐに直してくれました)。パンテオン広場からコントルスカルプ広場まで降りてみようと思ったのですが、途中で足の痛みが半端なく、泣く泣くホテルへ帰ってきました。

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プティ・パレの入口。まだ左足が痛かったので足を引きずって歩いていたら、階段の上にいた係員が走って降りてきて、右下のエレベーターまで誘導してくれました。

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「カルメンからメリザンドまで」のパンフレット。カルメン(1875)、ペレアスとメリザンド(1902)はともにオペラ・コミック座で初演しています。左は1884年時のカルメン役セレスティン・ガリ=マリエ。右は1904年時のメリザンド役のガルダン嬢。オペラ『カルメン』はメリメの原作とビゼーの音楽がともに天才の出来。メーテルランク原作の『ペレアスとメリザンド』はドビュッシーの音楽、これも悲しいオペラです。

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マリアンヌ・ストークスの「メリザンド」の実物に会えるとは! ラファエル前派は好きではないが、彼女のこの絵だけは気に入っています。泉に指輪を落としてしまったメリザンド、しかしその表情は水の底のさらに深い深いところを見ているようです。

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プティ・パレの常設展示室のドラクロワ「ジャウールとパシャの闘い」。これぞドラクロワ、二頭の馬と二人の人間が旋風のように絡み合って訳がわかりません。愛読していたバイロンの詩からの連想。

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プティ・パレのギリシャ室。白地レキュトスは数は少ないが、ルーヴルよりも粒がそろっています。

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プティ・パレのカフェ。すばらしい中庭に面しています。空いていて、ゆっくり休めるのがよい。

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パリのペットショップANIMALERIE.  megisserie河岸にあります。この猫は13万円ほど。すでに売約済みの紙が貼ってありました。

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コメディ・フランセーズの本拠地サル・リシュリューの観客席。シャンゼリゼ劇場同様、白人ばかりですが、さすがに知的な感じの人が多いようです。

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『ハムレットの悲劇』のパンフレットから。左端がローゼンクランツ役のエリオット・ジェニコ。抱いている犬のぬいぐるみは何とギルデンスターンで腹話術でしゃべります。真ん中がハムレット役のドニ・ポダリデス、すっかり魅入ってしまいました。右がクラウディウス役のエルヴェ・ピエール。ピストルをぶっぱなすマフィア風のバーのマスター。ハムレットと対極に描かれています。

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終盤にかかった所。レアティーズと対決するハムレット(左から二人目)。その右隣が親友のホレーシオ、この芝居ではあまり存在感はなかった。真ん中の母親ゲルトルードは目を見張る演技でした。

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最後のフェンシング対決。右のレアティーズの剣先には毒が塗ってあります。ハムレットが2ポイント先取すると母親が大声で狂喜するのが面白い。私の一番好きな場面ですが、実は、昔、シェークスピアの歴史劇にはまってその戦場の戦闘シーンばかり繰り返し読んでいました。おそらく16、17世紀の観客もそういうものが好きだったのでしょう。

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最後の舞台あいさつ。むろん絶賛の拍手歓声です。この芝居をけなしたルモンドとハフィントン・ポストの批評家は何を考えているのでしょうか。なお、右に立つオフィーリア役ジェニファー・デッカーは非常に印象強い演技です。

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今日は「音楽の日」。スフロ通りのカフェ・スフロの前ではロック・バンドが演奏しています。

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スフロ通りとサン・ミッシェル通りの交差点、いまひとつ盛り上がらないのは翌日が月曜だからでしょうか。

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パンテオンに続くスフロ通りからカフェ・コントワール・デュ・パンテオンの辺りを撮影。なんとなくゴッホの星空のカフェを思い出しました。

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