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2015年8月15日 (土)

憂愁の巴里(5)オペラ・バスチーユの「魔笛」

6月22日

   月曜日、何だか疲れていたので、ホテルでグズグズしてから、おもむろにサン・ミッシェル広場を通って、アルプ通りのギリシア料理店の並ぶ通りに入りました。以前、この近くのホテルに泊まったことがあり、馴染みのチュニジア菓子の店も懐かしい。サン・セヴラン寺院も久しぶりだが、まだ扉が閉まっていて入れません。サン・ジャック通りを渡ると、小道の先にパリでもっとも古い教会の一つ、サン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会があります。ここも以前、コンサートで入ったことがあります。ジュリアン・グリーンの『パリ』でひとしお愛惜を込めて書かれていた教会で、内部はややロシア正教風で、とても狭い。教会の椅子で少し休んでから、ラグランジュ通りを南に行ってサン・ジェルマン大通りを渡るとどこからでも目に入るサン・ニコラ・デ・シャルドネ寺院の直方体の塔が見えます。その先のポワッシィ通りをエコール通りに向かって歩くと、長く続く端正な建物、College des Bernardins が見えます。

   ここは月曜から土曜まで、一般の人に開かれたキリスト教関係のコミュニテイ施設で、子供から大人までを対象とした討論会や講演などが行われています。私たちはここのカフェで昼食をとろうと思ったのですが、まだ12時になっていなかったので食事のメニューは注文できないとのことでした。それで、施設内に店を出しているProcure書店の支店で時間を潰しました。やはり、というか当然ですが、カトリック関連の書籍ばかりで、隅から隅まで見ていったが買いたい本は一冊もありません。そうこうするうちに時間になり、カフェで Plat du Jour を注文しました。妻はトマトとチーズの前菜とメインのキッシュ。私はタラに米とインゲン添え、それにチョコムースで、ともに10.5ユーロという安さ。私たちが最初の客でしたが、すぐに席は人で埋まってきました。College du Bernardins の訪問客というより、近所の人やサラリーマンが多いようです。

   食事を終えてから89番のバスで15区のヴォロンテール通りへ。少し歩いて、パスツール研究所内にあるパスツール博物館の入口に到着しました。受付は非常に厳重で、IDカードがないと入れません。パスポートを提示すると、チェックした後、その場で名入りのIDカードを作成してくれました。「パスツール研究所の研究員になったみたいね」と妻はカードを胸につけながら言いました。博物館本館に入ると、また受付があり、ここで一人7ユーロ払ってガイドツアーに参加します。入場はガイドツアーでしか許されず、しかも1日に三回のみ(2時、3時、4時)です。ちょうど、2時のガイドツアーの締め切り直前だったので、まったく待たずに見ることができました。人数は15人ほどで子供から老人まで様々ですが、私たち以外はみな白人のようでした。ガイドは明るい中年の女性で、まず、パスツールの実験器具などを展示してある部屋に案内してくれました。そこで各国語(日本語もあります)で記された案内ファイルを見ながら各自勝手に展示を見ていきます。案内ファイルは非常に簡単で素っ気なく、素人が読んでも意味がわからないのがほとんどでした。妻がしきりと聞くので、私は、展示の順番に簡単に説明していきました。最初に酒石酸の結晶研究から、後に不斉炭素原子が鏡像異性体を持つことで確認された有機物の非対称性の発見、次に有名な白鳥の首のフラスコによる150年経っても腐らない培養液、さらにワインの発酵の研究、カイコの病気の研究、そしてもちろん狂犬病などのワクチンまで。ルーペと不完全な顕微鏡しかない時代に微生物の存在を探求し続けた努力には頭が下がります。「彼は医者ではなかったけれど、科学者としては完璧な人間だった」と私は妻に言いました。

   次にツアーの一行は階段を降りて、パスツールが晩年を過ごした居間、食堂、夫人の部屋などを見学しました。立派な陶磁器や絵画に飾られています。夢中で見ていると、ガイドの女性が「ほら、日本の人だよ」と天然パーマの頭の小学五年くらいの少年を私の前に連れてきました。二人連れで来ていた男の子のうちの一人で、そういえばどことなく日本人のような顔立ちです。「お父さんはフランス人で、お母さんは日本人です」と少したどたどしく日本語で自己紹介しました。「何回もフランスに来てるけど、フランス語は上手く話すことができないよ」と私はフランス語で言って、しっかりその少年と握手をしました。素直そうでとても好感の持てる少年でした。それから日本語でいろいろ話をしていると、ガイドの女性がニコニコしながら私たちを見ていました。

   最後に一行は地下のクリプト(墓所)まで降りて行きました。荘厳で華麗な墓所で、パスツールの大理石の大きな墓石が真ん中に鎮座しています。「ほんとうにここに埋まっているんですかね」と微笑を浮かべながら70過ぎの上品な老人がフランス語で私と妻に話しかけてきました。私も微笑しながら首をひねっていると、老人は妻に英語で「ご主人はプロフェッサーですか」と聞いてきました。どうも、実験器具を置いてある部屋で私が妻に説明しているのを見ていたようです。「いいえ」と妻は言って、去年私がロマの犬に噛まれて狂犬病のワクチンを打ってもらった事件のことを話して、今日はパスツールへのThanks Tourのつもりで来たのだ、と英語で言いました。老人は、その話にかなり興味を持ったらしく、「実は私の家内はプロフェッサーなんです」と言って、近くにいた夫人を手招きして、妻に、今の話をもう一度夫人にしてくれるよう頼んでいました。老人よりもかなり歳下の夫人に妻が英語で説明すると、夫人は目の覚めるような流暢な英語で返事をしてきました。これが妻の英語魂に火をつけたのか、それからは玄関まで歩きながら二人の会話が淀みなく続きます。夫人は妻に「科学者としてのパスツールをどう思うか」と質問したらしい。妻は「彼は医者ではなかったが、完璧な(complete )科学者だった」と私が教えた通りに話しています。

   博物館の玄関でそれぞれ夫婦の写真を撮りあってから、別れて、またバスでオデオンまで戻り、カルフールでバナナ(日本のより安くて美味しい)やハムを買ってホテルで食べました。一時間ほど休んで、バスでバスチーユ広場へ向かいます。オペラ・バスチーユで「魔笛」を観るためで、これが、まあ、今回の旅のクライマックスと言ってよいでしょう。30分前に到着して三階の正面の席に座りました。かなり高い所で、オーケストラボックスがずいぶん小さく見えます。でも、双眼鏡があるから大丈夫と思っていたら、な、なんとバックに双眼鏡が入ってない、ポケットにもありません。ホテルに忘れてきたので、これでは歌手の表情や字幕(フランス語と英語)も読めません。たいへんショックでパナマ帽を椅子に叩きつけました。しかし、歌詞は暗記するぐらい聴いているし、音楽は何しろモーツァルトです、知られている名曲はもちろん、どの曲も聴くだけでうっとりするに違いありません。灯りが落とされ、荘厳な出だしの序曲が鳴り響くと、ついに魔笛を生で観ることができるという期待に胸は高鳴ります。王子タミーノが出て、三人の侍女が出て、鳥刺しのパパゲーノが出て、そして気づいた時には何と眠っていました、、、。隣を見ると妻も早々と眠っています。腕をつねって起こすと「空調が気持ちよくて眠くなった」と言っています。確かに歌はすばらしい。しかし、歌手の表情がよくわからないのと、演出が無機質すぎて飽きやすい。出演者の衣装がほとんど白と黒なのはどうかと思います。

    舞台に注目したり、眠ったりしながら幕間休憩に突入しました。体を伸ばすためにロビーを散策して見ましたが、さすがにオペラ・バスチーユです、観光客の姿が多い、日本人の姿も今回の旅でいちばん多く見かけました。バー・カウンターは満員で、12ユーロのシャンパンが飛ぶように売れています。シャンパングラスを二つ持った男性が目の不自由な男性の手を引いて歩いていました。杖をついて腰を曲げた老人が、一人でとぼとぼと、しかし笑顔を浮かべて歩いています。小さなテーブルを挟んで、もう激論を交わしている(たぶん舞台について)男と女、独特な節回しで12ユーロのプログラムを売り込んでいる劇場のスタッフ、明るくて何となく気だるいオペラの幕間でした。

    さて、第二幕からやっと目が醒めてきました。このオペラの要はパミーナ役のソプラノですが、アメリカ人のジャクリーン・ワグナーは評判が良いのですが、私はパミーナはもっと甘ったるく歌う方が好きです。夜の女王は出番が少ないですが、超絶アリアで有名な役どころで、ジェイン・アルチンボルドという歌手はただ高く歌うだけでなく自然な感じで好感が持てます。バスチーユのこの「魔笛」の問題は、むしろ演出のロベール・カルセンにあるようです。彼は「魔笛」の主題は(インタヴューによると)ズバリ生と死、あるいは死と再生にあると考えているようで、実はそれは全く私と同意見なのですが、かれはそれを象徴的に表現するために、舞台衣装・デザインをほぼ白と黒に統一し、面白みのない色目にしてしまっています(パパゲーノのみは青いアノラックにアイスボックスを提げて登場します)。遠くから見ると登場人物の区別がつきにくいし、舞台装飾も極端に簡素化し、無駄なものは一切ありません。冒頭の大蛇など尻尾しか見えないし、途中のライオンなど実際に出たかどうか思い出せません。その反対に、最後の火と水の試練の場では、他の魔笛演出では見られないような舞台全体にわたって本物の火が燃えており、19世紀末のオペラコミックの火災を思い出してやや冷やっとしました。この場面だけを強調したのは、それが死を乗り越えての再生という象徴的シーンだからでしょう。ところで、オペラの帰り道、バスチーユの駅で地下鉄を待っていた時、知り合ったばかりらしい中高年のグループが激論を交わしていました。アメリカ人らしい老人が英語で beautiful だったと言うと、イタリア訛りの中年の女性がbeautiful ではなくてartificial (わざとらしい)だと力を込めて何度も反論していました。どう見ても知的に見えないイタリアの中年女性だが、オペラについての身についた感覚はさすがにイタリア人らしいと後で妻は言っていました。そういえば、これまでにネットなどで見ることのできた「魔笛」の中では、音楽リカルト・ムーティでスタッフを全てイタリア人で固めた1995年のミラノ・スカラ座版がいちばん自然で共感できた上演でした。

   というのも、1791年の「魔笛」初演の時のモーツァルトと座長のシカネーダーの意図はロベール・カルセンの演出と反対だったと思うからです。シカネーダーはこのオペラが成功を博すると確信しており(実際、とても好評でした)、その理由は彼好みの大掛かりな仕掛け(蛇が炎を吐くような)と滑稽なパパゲーノ(シカネーダー自身が演じた)が一般受けすると思っていたからです。モーツァルトも彼にとって初めての魔法劇に興奮し、魔法の笛や魔法の鈴を面白がった、彼は(その年に35歳で亡くなるのですが)死の床にあっても、友人のピアノ伴奏で「俺は鳥刺しパパゲーノ」を細い声で歌っていたのです。エドワード・J・デントの素晴らしい本『モーツァルトのオペラ』(草思社・石井宏、春日秀道訳)によると、モーツァルトは、その時代で唯一、オペラの興行について興行主なみに気を配り、いかに観客を喜ばせ興行を成功に導くかに腐心した音楽家であったということです。そして、それは彼の高貴なる思想、観客を啓蒙し、かつ秘教的体験に導くという思想と矛盾はしなかったのです。

   ここにこそ「魔笛」の秘密があります。アドルノは Essays on Music(University of California Press)の中で面白いことを書いています。つまり、1791年の「魔笛」は芸術的音楽とポピュラー音楽が自然と共存した最後の作品である、と。それ以降、両者は画然と分かたれた、ベートーヴェンが観客を喜ばせるために「フィデリオ」を改作するなどということは想像もできません。おそらくその流れはモーツァルトの死によって引き起こされた、と言ってもよいでしょう。あらゆる川の流れがモーツァルトの中に流れ込み、彼はやすやすとそれを会得し、統合し、そして彼の死後に小ぶりな形で四散して行ったのだと。

   知っている人も多いでしょうが、ここで「魔笛」のあらすじを復習しておきましょう。魔笛の筋というと、荒唐無稽の典型と語られるのが普通ですが、とんでもない、これ以上に緊密で、1分の無駄もないオペラは珍しい。舞台はエジプト、東洋の王子タミーノは夜の女王から娘の奪還を依頼されます。その王女パミーナはザラストラに誘拐されて彼の神殿に幽閉されているのです。彼女の美しい絵姿を見て夢中になったタミーノは一も二もなく承知します。従者として鳥刺しのパパゲーノが、そして王子には魔笛が、パパゲーノには魔法の鈴が与えられます。ザラストラの神殿に着いたタミーノは、そこで、神殿の僧に、実は夜の女王こそ悪人でパミーナを騙している、パミーナと結婚したかったら、ここでの試練を経て知恵ある仲間にならねばならないと諭されます。勇敢に試練に挑むタミーノ、そして最後の火と水の試練ではパミーナの導きで試練を克服し、晴れて神殿の仲間に加わるのです。

   「魔笛」はシカネーダー作と伝えられていますが、実は彼が創造したのはパパゲーノとパパゲーナだけで、本筋は当時「魔笛」の俳優でのちにダブリン大教授となるカール・ルートヴィヒ・ギーゼッケである可能性が高そうです。というのも指導者ザラストラの造形はシカネーダーには無理で、当時まだ血の気の多い学生だったギーゼッケが『セトス』の筋を改変して書いたのだろうとデントは言っています。『セトス』とは、1721年にコレージュ・ド・フランスの教授であったジャン・テラソン師が著したもので、遥かトロヤ戦争以前の昔のエジプトの王子セトスが、様々な試練を経て秘教に入信する話です。遠い地エジプトのピラミッドの地下で執り行われる秘密の儀式、入信に至るまでの苦しい試練、イシスとオシリスという異貌の神の魅惑、それが18世紀末のフリーメイソンたちの心を捉えたのです。

   最後に、モーツァルトとこの「魔笛」のフリーメイソン的性格について書いておきましょう。カトリックとして出発したモーツァルトは、次第に人間の平等についての感覚を研ぎ澄ませて行きます。幼少の頃から各地の王侯貴族と交わった経歴、あるいは高位聖職者たちの堕落した人間性などが、人間は本来平等なのに、たんなる生まれの良し悪しによって差別されてしまっている、という考えに彼を導きました。また彼は、卑屈な演奏家や教養のない俗物も軽蔑し、人間は知的努力によって高貴な存在になることができるし、ほとんど神に等しくなれる、その手段は友愛に他ならないと信じていました。キリスト教の神はここに至って放擲されたが、彼を苦しめた問題が一つ残っていました。それは、キリスト教が与えていた死の恐怖からの慰安です。神無くして死の恐怖から人間を救い出すことができるか、実にそれが「魔笛」の主題だったのです。タミーノとパミーナは、最後に、死に勝利した者として最高神殿への入場を許されます。「魔笛」を理解するためには、私たちもまた火と水の試練を受けねばならないというエドワード・J・デントの言葉は深い意味を持っているのです。

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サン・ジェルマン・デ・プレ教会の前のレンヌ通りのバス停。モーツァルト「魔笛」の広告が目をひきます。

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朝のサン・ミッシェル広場近くのサン・タンドレ・デ・ザール通り。13世紀からの古い通りです。

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16世紀にさかのぼるサン・セブラン教会の聖マルタンの扉。聖マルタンは着るもののない貧民に自分のマントを半分切って与えました。マントの残り半分は教会に保管され、chapelle(礼拝堂)の語源はマントのラテン語cappaから来たと言われています。

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パリ最古の教会の一つ、サン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会。左手にノートルダム寺院が見えます。

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ポーヴル教会の内部。ロシア正教っぽい祭壇が特徴的です。

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サン・ニコラ・デ・シャルドネ教会。ここも左岸を代表する教会だが、キリスト教原理主義を貫いているのが特徴。短パン、タンクトップなどを身につけて入るのは禁止されています。

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ガランド通りを歩いていたら、女性に人気のおかまクラブの上に古いレリーフがありました。すべてを捨てて渡し守りをしていた聖ジュリアンがのせた客はイエス・キリストでした。この感動的な話はフローベールの聖ジュリアン伝に描かれています。

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コレージュ・デ・ベルナルダン。12、13世紀、ボローニャ、パリ、オックスフォードなどに大学ができ、ヨーロッパは空前の知的興隆の時代を迎えました。クリスチャンのための学校を作りたいというイノセント4世の意を汲んで、ここパリにコレージュ・デ・ベルナルダンができたのは1248年でした。その後、戦争や革命のために、この建物は刑務所、倉庫などに転用され、2008年、本来のキリスト教徒のための文化施設として再建されました。

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コレージュ・デ・ベルナルダンの内部。左奥に書店が、その右奥にカフェ兼食堂があります。

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コレージュ・デ・ベルナルダンの日替わり定食。上が妻のキッシュ、下が私のタラとインゲンと米。安くて美味しいので近所のおばさんが食べに来ていました。

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パスツール研究所。内部が写真撮影不可なのが残念でした。

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バスチーユの3階席。正面の席ですが、さすがに遠すぎました。

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幕間のロビー。オペラ・ガルニエと比べると服装はラフで、観光客の姿が多い。

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「魔笛」の最後の舞台あいさつ。みな白い衣装なので誰が誰だかわかりません。

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グッズ・ショップで。モーツァルトが「魔笛」の中で、友愛の共同体の実現を夢見ていたことは私たちを感動させないでしょうか。

 

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