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2015年7月20日 (月)

憂愁の巴里(3)シャンゼリゼ劇場のマリア・ストゥアルト

6月20日

   朝起きると左足の裏が痛い。いや、痛いどころでなく歩けません。昨夜、セーヌの岸辺を歩き過ぎたせいでしょう。日本から持ってきた湿布薬を貼ってベッドに横になっていました(フランスでは湿布薬は売っていません)。8時過ぎに、ようやく食事に降りましたが、階段を降りるのが塗炭の苦しみです。いつものテーブルに座り、さあ食事をしようとした瞬間にヒヤっとしました。いつも胸にぶら下げているパスポート入れがありません。部屋に置き忘れたに違いなく、鍵はかけておいたものの、ここは不安がいっぱいの安ホテル、勝手に侵入されて盗まれるかも知れません。妻に頼んで、部屋まで取りに行ってもらいましたが、4階まで往復しても不満顔ひとつしないのは機嫌が良いからでしょうか。

   悪いことは続くもので、朝食のバゲットをよく噛まなかったからか、歩き始めるとすぐに胃が痛くなりました。時間をおいて間欠的にキリキリと痛みます。足は痛いし、胃も痛い。足取りもノロノロしてきて、妻は我慢できないのか、どんどん先に行ってブティックのウインドウとか見ています。リードもなしに小さなブルドッグを散歩させている上品な紳士がいて、匂いを嗅ぎながら犬がゆっくり散歩しているので私と同じ速度になりました。犬は、時々、私の方を見ながら、見せつけるように駐車している車のタイヤにオシッコをかけています。そして、車と車の間に隠れてウンチも済ませましたが、飼い主は知らんぷりで放置しています。

   オデオン通りからヴォジラール通りを通って、ようやくリュクサンブール公園の端にあるリュクサンブール美術館の前に来ました。入口の階段の下でわりと厳重な荷物検査がありました。入口横にはアンジェリーナの支店が出ています。リュクサンブール美術館は特別展の時のみ開場しますが、今回は「テューダー朝展Les Tudors」です。テューダー朝は1485年のヘンリー7世の即位に始まり、1603年のエリザベス1世の死によって終わるわずか120年ほどの間の王朝ですが、英国の歴史にとって決定的意味を持っています。それは英国がローマ教皇庁と決裂して英国国教会を設立し、スペインの無敵艦隊を破って、世界の覇権を握り、絶対王政を確立した時に当たるからです。

   ところが、私は足の痛みと胃痛のため満足に展示を見ることができません。妻は要領よく写真を撮ったり、衣装を眺めたりしていますが、私は館内を一周しただけでもう歩けなくなりました。冷汗をかきながら美術館の外に出ると、妻がコロンビエ通りのキリスト教のサロン・ド・テ、Au Parloir du Colombierでキッシュが食べたいと言い出しました。ここからすぐ近くですが、開店の12時15分までは少し時間があります。それでヴォジラール通りの古書店Pont Traverse(まだ開いていませんでした)のウインドウを覗いた後、途中の本屋Le Procureで時間を潰すことにしましたが、私はこのカトリック系の本屋の雰囲気があまり好きではありません。足を動かせたくないので、入ってすぐの所で新刊書を立ち読みしていましたが、妻はたいへん元気であちこち本を探して、エックハルトの本とチェスタトンの本を買っていました。

   12時を回ったのでパルロワール・デュ・コロンビエに入りました。前回の旅行記でも紹介したこの店はカトリックの団体の経営で「全ての人に開かれている出会いとくつろぎの場」です。もう何人かお客がいて、お客の女性の一人が老人一人で切り盛りしている店を手伝っているようです。食事かお茶か、と聞いてきたので、妻が食事、私がお茶と答えると、老人が大皿に盛って切り分けてあるキッシュを持ってきて、これはどうかと勧めてきます。何と3ユーロと安くて、しかも大きなキッシュです。妻はそれとチョコレート、私は胃が痛いのでセイロン紅茶だけを注文しました。ところで今日は土曜日だからでしょうか、次々と客が入ってきます。それが皆カトリックの仲間のようで、店の主人である老人とものすごく親しげに挨拶したり、店を手伝ったりしています。どうも、「ジェラールおじさん」というのが老人の名らしい。気がつくと店内は私たち以外はみな知り合いのようで、一見すると貧しそうな人々ばかりですが、やけに陽気で明るく楽しい雰囲気で盛り上がっています。妻がキッシュを食べていると、新しい二人連れの客が入ってきて、そのうちの一人は軽い知的障害があるのか非常にテンションが高く、何とテーブルを全部回って客のみんなと握手しています。最後に私たちのテーブルに来ましたが、よく見ると指がなく、手術前の野口英世のようにゲンコツの手だけ差し出しているのです。妻とは楽しそうに握手していましたが、なぜか私だけには握手の手を出しません。邪悪な心を見破られたか、いや、まだ人間が本当に出来ていないので相手を尻込みさせてしまうのでしょう。

   しかし、私は、この店の光景を見て、カトリックのある本質が分かったような気がしました。プロテスタントは信仰のみを拠りどころにするので、信者に常にある緊張を要求します。その反対にカトリックは、それに参加しようとする人間には全てが自由であり、全てが許されるようです。困難は位階の進むにつれて負わされる責任を持った聖職者に帰せられます。カトリックの屋台骨は教会と欲望を断ち切った司祭にあるので、彼らの尊敬される所以はまさにそこにあるのです。私が今までに出会ったプロテスタントの信者はほとんど全員が知的で、比較的裕福な人たちでした。しかし、素朴さは彼らには馴染まないし、知的障害者などを容れる余地は少ないように思います。

   パロワール・デュ・コロンビエを出て、サン・ジェルマン・デ・プレの方へ歩いて、モノプリでヨーグルトや水やワインやチョコレートや猫のおもちゃを買ってホテルに戻りました。ヨーグルトを食べてからベッドに横になって、妻が買ったチェスタトンのブラウン神父ものを読んでいたら(昔読んだけれど忘れてしまった)眠ってしまいました。5時に妻に起こされ、慌てて足の湿布を替え、支度して、63番のバスでアルマ・マルソーまで行きました。モンテーニュ通りにあるシャンゼリゼ劇場で7時半開演のドニゼッティの「マリア・ストゥアルト」を観るためです。シャンゼリゼ劇場は初めてなので大事をとって早く着きすぎたので、まだ一人の客も見えません。ブランドの本店が並ぶモンテーニュ通りを散歩したかったが、足が痛いので、劇場の前の公園のベンチでチョコレートを食べながらキオスクで買ったフィガロ紙を読んでいました。運の良いことに、フィガロの文化欄に「マリア・ストゥアルタ」の批評が出ていました。

   30分前になったので入場。席は二階右のボックス席の一番奥ですが(35ユーロ)傾斜しているので見やすい。オデオン座によく似た劇場ですが、もう少しゆったりと見れそうです。本来はコンサートが主で、年に3回オペラを上演するとのことですが、確かに音響は申し分ありません。15分前ぐらいにバタバタと人が埋まり始めました。服装は皆きちんとしていますが、ガルニエやバスチーユでのようなドレス姿はあまり見当たらず、またジーンズやTシャツのような観光客風の客もほとんど見ません。裕福な地元客がオペラを楽しみに来たという印象で、男は上着にネクタイ、女は上品なスーツや落ち着いたワンピースが多いようです。驚いたことに、全て白人の観客ばかりで、黒人どころか、黄色人種は私たち二人だけのようでした。これは、街を歩けば黒人やアラブ人や東洋人が溢れているパリにしては異例の世界でしょう。

   さて、私たちのボックス席は、一番前に知的で金持ちそうな老年の夫婦が座り、その後ろに夫婦の知り合いらしい眼鏡をかけたスーツ姿の中年男性、間の三つの席が空で、一番後ろが私たちでした。その空の席に移動してもいいのですが、眼鏡の中年男性が上着やパンフレットや新聞を置いているので移動できません。私たちが東洋人なので意地悪しているのかとも思いましたが、前の席に詰めるのも窮屈なので、後ろの席が気楽でいいやと思い黙っていました。ところが、幕間休憩が終わって第二幕が始まる直前に、隣のボックス席の白髪の老婦人が眼鏡の男性にきつい調子で「なぜ空いている席にマダムを座らせないのか」と言ってきたのです。そして、腕を伸ばして男性の持ち物を片付けてしまうと、妻をそこに座らせ、「ムッシュもここへ」と私も妻の後ろの席に移動させたのです。眼鏡の男性はむろん反論もできずムッとした顔で黙っていました。私たちは老婦人に軽く礼を言って、眼鏡の中年男性にはチラッと嘲笑の眼差しを向けて置きました。

   舞台ですが、「マリア・ストゥアルト 」は1834年にドニゼッティの発表したオペラで、原案はシラーの1799年の同名の戯曲です。Gaetano Donizetti(1797〜1848)はロッシーニとヴェルディの間を繋ぐようなオペラ作家ですが、多作で、生涯に70ものオペラを書いています。悲劇も喜劇も器用にこなす人気で、両手を使って一度に2つのオペラを書いたとも言われるほどです。この当時のイタリアでは各地にオペラ劇場が林立し、それはその都市の文化的中心となっていたのですが、スタンダールも「イタリアではどんな地方都市でも立派な劇場があるので驚く」と書いています。作曲家はもちろん、台本作者、歌手なども人気者はイタリア中で引っ張りだこでした。ドニゼッティは、民衆はスキャンダラスなものを好むということをよく知っていて、処刑に至る二人の女王の確執をオペラにすることを思いついたのです。人気ある台本作家がつかまらなかったので、17歳の法学生バルダーリにシラーの戯曲からの翻案を依頼しました。バルダーリはシラーの五幕の大作悲劇を二幕に簡略化し、登場人物も約三分の一に減らしました。山場は二人の女王の対決と最後の処刑の場のみ、しかし、この大胆な試みが成功して、以後「マリア・ストゥアルト」は世界各地で上演されることとなります。

   このオペラはもちろん元スコットランド女王メアリー・スチュアートとイングランド女王エリザベス1世の実話を元にしています。かんたんに振り返ってみると、メアリー・スチュアートはジェームズ五世とフランス女性メアリー・ド・ギーズの間に生まれ、政治的陰謀のさなかにフランスで育てられ、スコットランド女王となるが、夫のダーンリ卿殺害に加担したとして追放され、フランスへの逃亡の途中に庇護を求めたイングランドのエリザベス1世によって幽閉されます。その後、メアリーを推挙してエリザベスを廃位しようとする陰謀が発覚し、メアリーは共謀の罪で死刑を宣告され、19年の幽閉ののちについに処刑されます。

   シラーの戯曲は実現しなかった二人の女王の対面の場面を設定し、火花散る嫉妬と憎しみを爆発させます。エリザベスは若き日のマリア(メアリー)の浮薄な情欲の放埓を非難し、マリアはヘンリー八世とアン・ブーリンとの子であるエリザベスを私生児呼ばわりし、英国の正当な王位継承権は自分にこそあると主張します。ここに、ともに思いを寄せるレスター卿への嫉妬が絡んで、ついに対面は決裂し、エリザベスはマリア処刑の執行書に署名してしまうのです。バルダーリの台本でもこの場面は壮絶なソプラノの歌い合いに終始し、1834年の初演では稽古の時に実際につかみ合いの喧嘩になってしまったとのことです。

   しかし、バルダーリの台本では、シラーの戯曲にあった三つの対立、熱情と権力と宗教のうち宗教の部分がすっかり 抜け落ちています。実はシラーの戯曲のもっとも感動的な場面はこの宗教についてなのです。死刑執行の日、マリアの子供の頃からの執事であるメルヴィルが最後に一目会おうと19年ぶりに姿を現します。感激するマリアにメルヴィルは、最後に何かお望みのものはないかと尋ねます。マリアは、実は死に臨んで一つだけ気がかりなことがある、それはカトリックの司祭を呼ぶことを許されないためである、あのインチキな(俗世の欲望にまみれた)牧師などに最後の赦しなどを与えてほしくないのだ、といいます。でも信仰さえあれば神様の許にまで届きます、というメルヴィルに対しマリアは次のように反論します。

   「 まあ、メルヴィル! 人の心というものは、しかしそれ自身だけで十分とは言われない。信仰の念は天福を受けるために、地上の抵当を必要とするものなのです。それだから神様は人間の姿に身を変えて、眼に見えぬ天上の贈り物をばひめやかに、眼に見える形のなかへ籠められたのです。ーそれは、とりも直さず教会のことです。神聖な尊い教会です。それが我々のため天国への梯子の用をつとめるのです。 いいかえれば万人の、カトリックの信仰こそ、それなのです。何故といえば、あらゆる人の信仰のみが個々の人の信仰を強めるのだから。何千という人が随喜渇仰するところには、熱誠は炎となって燃え上がり、魂は翼を得て九天の上まで天翔りますーああ!私一人だけは除け者です、天の祝福も牢屋の中の私にまでは届きません。ーここには坊さんもいない、お寺もない、聖餅もない」

   マリアがそう言うと、メルヴィルはきっとした顔でこう言うのです。「女王様、おきき遊ばせ。神様はあなた様をお慰めなさるために一つの奇蹟をお下しなされるでござりましょう。ここには僧もおらず、寺院もなく、聖体もないと仰せなのでござりますか? ーそれはお間違いです。ここには一人の僧と、ひとりの神とが在すのでございます」この言葉とともにメルヴィルは帽子を脱ぎ、7度の得度を経て中剃りを許された頭を見せ、そして教皇の手で清められた聖餅と葡萄酒を差し出すのです。実に、この忠義な男はマリアのために全霊を賭して告解を受ける準備をしてきたのです。この場面はバルダーリ版ではシュールズベリ伯であるタルボットがマリアの告解を受けるという形になっていますが、シラーの天才的手法には遠く及びません。ただ、シラーにもバルダーリにも共通して流れているものは、マリアの、子供時代を過ごした自由の国フランスへの強い郷愁と憧れです。それが、英国史上もっとも陰惨で残酷であったと言われるテューダー朝への憎しみと重なるのです。

   肝心のオペラですが、実は妻も私も全く期待していなくて、チケットを買ったのも出発直前でした。ところが観てみると、予想に反して素晴らしく、とくにマリア役のポーランド人歌手アレクサンドラ・クルザックのソプラノは最後の場面に向かって次第に哀感を増し、震える歌声は全館が凍りつくようでした。無駄のない演出は少しも退屈せず、背景のコーラスも切迫した調子で気分をいやでも盛り上げます。終わると尋常以上の拍手、ブラボーの連呼、アンコールも無限に続くかのようでした。劇場の外へ出るとさすがに宵闇が覆っていて、エッフェル塔のライトアップが美しい。私たちは、また63番のバスに乗ってオデオンまで帰り、停留所からすぐ近くのホテルに戻りました。
   
   

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オデオン通り。リードもなく、勝手に散歩しているように見える犬。実は飼い主と犬はわざと知らないもの同士をよそおって、一定の距離を保っています。

Photo

これもオデオン通り。突き当たりはオデオン座。めずらしくも欧州から撤退したはずのダイハツ車が駐車しています。ミニやフィアット相手に苦戦するのは仕方ありません。

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リュクサンブール美術館の入り口。昔の王室の温室として使われていた建物です。

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ハンス・ホルバインの描くヘンリー八世。宮廷肖像画家としてのホルバインの傑作。190㎝あったヘンリー八世をわざと低く描くことで、絶対的な王としての安定感を出しています。テューダー朝はホルバインとシェークスピアによって強くその名をとどめたと言ってよいでしょう。

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作者不詳。エリザベス一世の肖像。左上にスペイン無敵艦隊を破ったアルマダの海戦が描かれています。

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ハンス・ホルバイン作エドワード6世の肖像。ヘンリー八世の死後王位を継ぎました。9歳で即位し、15歳で死亡。マーク・トウェイン『王子と乞食』のモデルとも言われています。ホルバインの中世的な眼差しは時折グリューネヴァルトやデューラーを思い起こさせます。

Bookstore

夏なのに襟巻きをし、ポケットに手を突っ込んで古書店のウインドウを除く浮浪者風の不審な男。むろん私ですが、この店は左岸で最も有名な古書店のひとつLe Pont Traverse。幻想的な作風で知られる作家マルセル・ベアリュの店ですが、彼が1993年に死んだ後もかなり年下の奥様が店を続けています。いつ閉店してもおかしくないので訪ねてみましたが、土曜日は3時に開店とのことで店に入れませんでした。

Bookstore2

私が見ていたのは、エディット・シルヴの『ポール・レオトーとメルキュール・ド・フランス』。ちょっと立ち読みしたかったのですが、残念です。

La_procure

妻がLe Procureで買った本。チェスタトンの本は読んだものばかりでした。

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カトリックのサロン・ド・テ、Parloir du Colombier。妻はキッシュを食べていますが、私は胃痛で紅茶だけ飲んでいました。パリに住む庶民の人々のための店です。

Omocha

サン・ジェルマン・デ・プレのモノプリで買ったルーミーのためのおもちゃのお土産。

Champslyses

シャンゼリゼ劇場の入口。思ったより普通の建物で、オペラ・ガルニエのような異世界への入口という感じはしません。

Champslyses_2

シャンゼリゼ劇場のあるモンテーニュ通りはパリ有数の高級な通り。馬車も走っています。

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二階横のボックス席。私たちの席から舞台を見ました。

Champslyses2

幕間のロビー。白人ばかりの異様な世界です。

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左がレスター伯ロバート・ダドレイ役のフランセスコ・デムーロ。優柔不断の色男の役です。真ん中がエリザベス役のカルメン・ジャナタッシオ、熱演です。右がマリア役のアレクサンドラ・クルザック、素晴らしい演技と歌声に魅了されました。

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オペラがはねて、家路に着く人々。

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シャンゼリゼ劇場のあるモンテーニュ通りでバスを待つ人々。エッフェル塔はさすがに美しい。

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