« 2015年3月 | トップページ | 2015年7月 »

2015年4月26日 (日)

キドロンの谷の向こうで(3)

父は母との結婚の際、二つの約束を祖父にしたようです。一つは酒と煙草をやめることで、もう一つは子供をすべて大学に入学させるということでした。酒と煙草の約束は、父が風邪をひいて寝込んだ時に、卵酒を飲めば治ると母に信じ込ませて以来反故になってしまいました。もう一つの約束は、父にすれば大変なことで、というのも父の家系のどんな本家分家をひっくり返しても、高等教育を受けた人間は一人もいなかったからです。

長男が生まれると、父はまさに溺愛しました。父は長男(私にとっては長兄)を「ぼく、ぼく」と呼び、貧乏な家なのに本郷にある私立の中学校に通わせました。地元の下町の中学校には不良がたくさんいると思っていたからです(実際そうでしたが)。父は長男の運動靴の紐を通したり、制服のボタンをつけたりすることに無上の喜びを感じていました。不器用な長兄のために夏休みの宿題の絵や工作はすべて父がかわりに仕上げてやり、野球部に入ると、最高のグラブやスパイクを買ってやり、長兄が本好きとわかると、家の文化的支出はすべて書籍代に費やされました。小さな家の、家族が丸い卓袱台を囲んで質素な食事をしている背後にドイツ語原本の大きくて立派なマルクス『資本論』全巻が並んでいる光景は異様とも見えるでしょう。

2年後に長女が産まれると、これまた両親ともに溺愛することになり、この家族の未来は明るく開かれているように見えました。ところが、長女は(タエコというのですが)二歳の時に疫痢に罹って死んでしまいます。父は、最初に疫痢を診断できなかった病院を警察に訴えましたが、戦時中のことで埒があきません。母は霊安室に横たえられたタエコの側で一晩中動かなかったということです。

2歳から3歳にかけてはもっとも可愛い時期でしょう。タエコの死は両親に深い衝撃を与え、二人はついに生涯この悲しみから抜け出すことができなかったと思います。よろよろと立ち上がった母は、やがて信仰のようなもの、タエコが家族のために犠牲になったと思い込むようになりました。毎月21日になると子供地蔵尊のある西新井大師に欠かさず参詣し、タエコのために線香の束を供えました。私も何度母に連れられて「お大師さま」を参詣したことでしょう! 本堂の左手奥に小石を敷きつめて賽の河原を模した一角があり、そこに小さな子供地蔵がたくさん並んでいるのです。地蔵は一体一体、半纏や前掛けを着せられ、あるいは赤い頭巾を被せられて、まるで何かを語りたいように正面を向いています。むせかえるような線香の煙、腰を落として手を合わせ一心不乱に祈る人々、手前の垣根のところには果物やキャラメルや人形がつまれています。「さあ、お祈りしな」と母は私を座らせ、小さな声でお経をとなえながら、いつまでも立ち上がりません。母から何度聞かされたことでしょうか、賽の河原の話を。「石が丸くてすべすべなんで、いくら積んでも崩れてしまうんだよ、一つ積んでは母のため、一つ積んでは父のためって、積み切らないと三途の川を渡れないのに」

「これはこの世のことならず、死出の山路の裾野なる、賽の河原の物語、、、」ではじまる地蔵和讃は涙なくしては読めませんが、私は今に至っても毎月21日になると「お大師さま」を思い出し、参道の店の草餅の甘さ、雑誌の付録ばかり並べた露店で母が買ってくれる薄い漫画の本を思い出します。タエコが残された家族を守ってくれているという母の信念は非常に強く、それが他の子供たちへの度を越したような愛情につながっていきました。幼い私が肺炎に罹ったとき、行きつけの医者に、抗生物質を打ってくれるようしがみついて頼んだのは、二度と子供を死なせまいという母の執念だったのでしょう。疫痢や食中毒を恐れ、シュークリームやところてんなどを禁じ、むろん縁日の露店の不衛生な食べ物など決して買わせませんでした。たとえ冷蔵庫に入れてあっても前日の料理が再び食卓に出されることはなく、とくにゆで卵や豆やトウモロコシのような茹で物は、すぐに食べきるのが我が家の慣わしでした。(タエコの疫痢の直接の原因は近所の家からもらった豆でした)。

しかし、長女の死という悲劇は父にこそ深い絶望をもたらしたのです。父は戦時中の心休まぬ時期に、タエコの骨を群馬の山に埋めに行きました。まだ自分の墓を持っていなかったので、戦争が終わったら墓を買ってタエコの骨を埋めなおそうとしたのです。ところが、戦後しばらくして掘り返しに行ってみると、目印の石は見当たらず、あちこち掘ってみてもタエコの骨は見当たりません。父は、仕方なく、その辺りの土を袋に入れて東京にかえり、新しい墓に納めました。タエコの骨を見失ったという思いは、おそらく父の心の底に重くのしかかりました。子供たちの要望にもかかわず、父が本籍地を東京に変えずにもはや誰も住んでいない群馬のある場所にしたのは、いまだ彷徨っているに違いないタエコの魂を群馬の山に一人置き去りにしたくなかったからでしょう。

母が、子供たちへの盲目的愛情に浸りこんで行ったのとは反対に、父は(長兄への愛情は保っていたものの)その後生まれた三人の弟妹たちには愛情らしい愛情を全く示しませんでした。家族で食卓を囲んで和気あいあいといった雰囲気はまるでなく、暴君然とした父の顔色をうかがうのに誰も精一杯でした。父は酒が入らないと苦虫を噛み潰したような顔をしているのです。そして、すぐに子供たちを殴りました。長兄には決して手を上げなかったのですが、残りの次兄、次女、末っ子の私にも容赦はありません。逃げ出すと近所中を追いかけ回してつかまえて殴りました。おそらく、もっとも殴られたのは次兄だったでしょう。母が生前にそっと私にこんなことを話していました。「お父ちゃんは◯◯(次兄の名)にほんとに非道いことをした。お父ちゃんがよそいきに仕舞っておいたベルトを◯◯が黙って使ったとき、顔を真っ赤にして◯◯を殴りつけた。たかがベルトだよ。締めてみたかったんだよ、きれいなベルトだから。殴ることなんかないじゃないか、自分の子供なんだから。」

大人しい次兄は、父に最後まで反抗しませんでした。しかし、姉と私は当然のことですが、父を憎み、子供時代の仕打ちを決して許しませんでした。母が死んだ後、父が実家で姉の家族と一緒に暮らすようになったとき、父は家族全員から温かいとは言えない扱いを受けたと思います。わがままで、自分の好きなもの以外食べず、そのために姉は父には毎回別の食事を作らねばならなかったのです。父のわがままをきいて、父のことを本当に心配していたのは母だけで、母に先立たれてからは、父は寄る辺ない小舟のようでした。母が先に死んだのは母の最大の復讐だった、と姉は言っていました。休みの日はいつも家族をほっぽらかして、釣りや野球に行き、自分勝手に生きたからです。その父も、母が死んでから6年後、釣りに行った時に崖から落ちたのをきっかけに内臓を痛めて死にました。母の付き添っていない一人だけの入院暮らしはさぞ辛かったことでしょう。姉と姉の夫と私の三人で交代で徹夜の看護に付き添いましたが、私の番だったその夜(私自身退院したばかりだったので)疲れがたまって、姉に電話して、その夜は家政婦さんだけに寝ずの番をしてもらいました。まさにその夜に父は亡くなったのです。

家政婦さんの話によると、死の瞬間、父は「オゥー!」と雄叫びのような声を出したそうです。戦場で幾度も死線の上をさまよった人間らしい最後と言えるでしょう。生前、父は、落ち葉の降りしきる山道の上で死にたいと言っていました。自然が好きで、植物や動物にくわしく、ついに都会の人間関係に馴れなかった父親らしい言葉で、その最後を十分に看取れなかったことに後悔の念が残ります。(その時、次兄一家はアメリカの大学に研究に行っていました)

葬儀には会社関係者、近所の人、親類、東京に住む戦友など結構な人数が集まりましたが、母の時のような重い悲しみはなく、むしろ自負心の強いこの扱いにくい人間を冥界に旅立たせて、一種安堵のような思いも伝わってきます。親族代表をつとめた長兄や、姉や、もちろん私も特に深く感ずることもなかったと思います。愛されにくい人間だった、どこでも煙たがれ、敬遠されずとも親しく打ち解けてくれる人は少なかった。しかし、葬儀の時、集まりからやや離れて、黒いコートを着た背の高い人が黙って涙を拭いていました。この人はアダチさんで、父の唯一の友人で、卓球の職域団体戦で都大会を制した時の仲間でした。父とは釣り仲間でもあり、父の性格をよくわかっていて、職場でのよき理解者でもありました。誰であれ、他人のことを口悪く話す父でしたが、アダチさんだけは「アダチくんが、、、」といつも親しみをこめて話していました。

「無知は重荷である」とは七賢人の一人であるソロンの言葉ですが、父の人生の無念は教養の欠落にあったと思います。教養さえあれば、人格は陶冶され、性格は穏やかになり、もっと軽く明るくなったでしょう。軽さというものは本当に得難いもので、知的な訓練を通じてやっと身につくものだからです。しかし、父には知的なものへの憧れに似たものがありました。破産した農家の末っ子という絶望的状況から何とか這い上がりたいという情熱があった。15歳の時、航空兵の試験を受けたが、視力検査で落とされた。試験官は父の名を呼んで、成績は抜群なのに本当に残念だと言ったそうです。工員として出発した東京の生活で、父の能力は初めて開花しました。恐らく、新潟出身の祖父から受け継いだ生真面目さ(勤続40年以上で何度も表彰を受けた)、機械や実験への興味と手仕事の器用さで頭角をあらわして行ったのでしょう。大学まで行けたらどんなに良かったか、それが子供たちに高等教育を受けさせるという決意につながったのです。財産など一夜にして失ってしまう、しかし身についた知識や教養は一生ついてまわる、という言葉は父の口癖でした。

父の人生で、大きな意味を持ったのは酒への嗜好です。たぶん、兵営生活で覚えたのでしょう。酒を飲むと、顔がふにゃふにゃと別人のようにだらしなくなります。母の生きていた頃は、母が飲みすぎないよう厳しく監視していたのですが、母が死んでからは酒が唯一の慰めとなったようです。むろん、酒への傾斜は父の人間関係、もしくは社会への関係による心的軋轢からであるとしか考えられません。人間と付き合うことが苦しかったのです。父の人生が幸福であったかは、父がほんとうに愛したもの、動物や自然や釣りというものと、穏やかならざる時代の苛酷な生活を並べてみるとよくわかります。私の息子は、思い立って自転車ではるか屋久島まで旅してしまうような風来坊ですが、そして川にぶつかると魚をすくい、道で会った猫といつまでも会話をする能天気な男ですが、父もこの時代に生まれていたらそのような生活を生き、そのような人生を楽しんだことでしょう。

思い出したことを一つ書きましょう。私が九州に行く時、夕方六時半に出る寝台特急富士を見送りに、父が東京駅まで出向いてくれました。「富士」の狭い乗降口を隔てて、ホームの上で父が直立して私を見ています。気まずい沈黙の後、ハッとするように出発のベルが鳴り響くと、私はふざけて父に向かって片手を曲げて敬礼し、「行ってきます、兵長」と声を出しました。父は不意を突かれたように私を見て、なんと私に向かって頭を下げたのです。何の意味か、何を思ったのか、子供の頃、何度も殴ったことへの後悔か、あるいは、こんな人間に育ててしまったことへの贖罪か、息子三人のうち二人は学者になったが、私だけは中途半端なディレッタントの生活を送っている、そんな末っ子への哀れみか、いいや私には何となくわかります。子供に頭を下げるということはきわめて自然のことで、教育に失敗することは人間の逃れられない愚かさのひとつだからです。

| | コメント (0)

« 2015年3月 | トップページ | 2015年7月 »