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2015年3月29日 (日)

キドロンの谷の向こうで(2)


父親の話から始めましょう。父は群馬県の破産した農家の末っ子でした。母によると、父はいるかいないか分からないように育てられた、つまり誰も関心を持っていなかった。父が戦争から帰って来たとき、祖母は「なんだ、帰ってきたんか」と興味なさそうに言ったとのことです。父には三人の兄がいました。正確な名は覚えていないのですが、上から、猪ちゃん、彦ちゃん、伝ちゃんと父は呼んでいました。新潟から流れ着いて群馬の祖母と結婚した祖父は、父の話では、四男二女を残して早くに死んだ、本好きでおとなしい人間であったということしか分かっていません。

長男の猪ちゃんは祖父に似て物静かで、いつも柔らかな笑みを浮かべていて、怒った顔を見たことはありません。家が破産したので、東京に出て、押上の煎餅屋の二階に下宿していました。まだ幼かった私が姉に連れられて猪ちゃんを訪ねた時、猪ちゃんは店から見える一階の広い板場で煎餅を焼く手伝いをしていました。帰りに、割れた煎餅を袋に入れて持たせてくれたのですが、その香ばしい醤油の香り、張り付いた海苔のパリパリとしたおいしさをよく覚えています。 今は、押上も東京スカイツリーのおかげで、ずいぶん様変わりしてしまいました。

それから何年か経って、猪ちゃんが私の実家の近くに住むようになって、何回か姉と二人で遊びに行きました。中川放水路に面した、二間ほどの小さな借家でした。そこで猪ちゃん夫婦は革の財布を造る内職をしていたのです。猪ちゃんが接着剤を革に塗ると、奥さんが小さな金槌で叩いて仕上げるのです。奥さんは足が悪いので畳に座れず、みかん箱の上に薄い座布団を敷いて腰掛けていました。家全体が陰気な感じなのは、テレビが無かったからでしょう。当時はテレビの普及期で、どの家庭でもテレビが茶の間の太陽の役割を果たしていたのです。「テレビがないと面白くないねえ」と猪ちゃんは済まなそうに言っていました。いつもそこでお昼をご馳走になったのですが、御菜は海苔とお新香と味噌汁だけでした。そして、食後に必ず、押入れから大きな平底瓶を引っ張り出して、焼酎に漬けてある柿を食べさせてくれるのです。なんとも言えない染み込むような甘い香り、私はババ・オ・ラムやサラヴァンを食べるといつもこの漬柿の甘さを思い出し、身を寄せ合って生きるような優しい猪ちゃん夫婦を思い出します。

二番目の彦ちゃんは、クズ屋をやっていたと聞かされましたが、小学校の時に群馬の親戚回りをしたときには会えませんでした。その後、彦ちゃんは新興宗教に入って大きく変わりました。誰とも対等に口をきくようになり、時には哲学や政治の話もしていました。その後、東京で所帯を持っている息子を頼って上京してきました。選挙の日になると、朝、息子の運転する車で野菜をいっぱい持ってくると、父と母を乗せて投票所まで送ってくれるのです。父はいつも決まって社会党にしか投票せず、母は落選しそうな人ばかりに投票していたのですが。

しかし、私は、彦ちゃんに感心したことがあります。長兄の結婚式の夜、親類が久しぶりに東京の実家に集ったとき、いつものように父は酒に酔ってグデングデンになっていました。その醜態に私が呆れていると、彦ちゃんはこう言いました。「父ちゃんを責めちゃあいかん。父ちゃんも学校行っていれば、こんなにはならなかった。頭がよかったのに、貧しいから学校に行かせてもらえなかったんだ。社会が悪いんだ、そこを考えてやらにゃあ。」確かにその通りです。

地元に残った三男の伝ちゃんは、兄弟で唯一裕福になりました。公定の用紙を扱う文房具屋から発展して、町でもかなり大きな店構えで、手広く商売を営んでいました。性格も進取の気合いに富んで、しかもおおらか、書道もよくして、東京に来るたびに、これも書道得意の次兄の新しい作品を並べさせてあれこれ批評するのです。私たちが群馬を訪れた時に泊まったのはこの伝ちゃんの家でした。暑い夏の日で、駅から歩いてきた私たちに、伝ちゃんの息子が冷たいコーヒー牛乳を買ってきてくれました。その後、歩いて少しのところにある祖母の家を訪ねました。中庭に井戸のある小さな借家で、祖母はそこに一人で住んでいたのです。しかし、子供をたくさん産んでおくと親孝行な者が一人は出てくるもので、伝ちゃんがまさにそうでした。他の兄弟が自分たちの生活だけで汲々としているのに対し、伝ちゃんは親の面倒を見、墓を守り、しかもそのことで一言も愚痴は言いません。伝ちゃんと父は歳が近いせいか仲が良く、母の告別式の際に親類代表で挨拶したのはこの伝ちゃんでした。

名前は忘れてしまったのですが、東京へ帰るついでに訪れたのは県境の埼玉に嫁いでいた叔母の家でした。活気ある農家で、私たちのために小麦粉に餡を入れた饅頭をたくさん作っていてくれました。帰りの汽車の時刻を気にしながら、私たちの目の前で、粉を打って、延ばし、包丁で切って、饂飩を大量に作り、お土産に持たせてくれました。駅のホームで汽車を待っていると、叔母は慌てて走ってきて、「中で食べんや」と言って新聞紙にくるんだ十個ほどのゆで卵を渡してくれました。この叔母にはたいへん気立ての良い娘さんが二人いて、その一人は後に父の働いている東京の石鹸工場に研究技師として就職しました。

家族でのこの群馬旅行は、父にとって、いわば故郷に錦を飾る体のものでした。15歳で裸一貫で東京へ出て来て、曲がりなりにも家を持ち、結婚し、子供を持ったことを親類縁者に知って欲しかったのです。そして、よせばいいのに、帰るときに、祖母を東京に連れてきてしまったのです。祖母が東京に来たことがないので、一ヶ月ほど滞在させたのですが、これが母の苦痛の種となりました。というのも、祖母は一風変わった偏屈な性格の持主だったからです。屈折した、と言ってよいのか、決して笑顔を見せず、人に文句ばかり垂れているのです。東京の下町に育った母には、このような祖母は群馬の田舎者そのものに映ったのでしょう。祖母が食事の時、ご飯茶碗を御膳の下に下げて食べる仕草も母には我慢のならぬものでした。人がよろこんですることにいつも水を差し、否定的な言葉しか話さないこの祖母という人間には、何か温かな愛情というものが欠落しているように感じられました。一ヶ月が過ぎ、父が祖母をダットサンのタクシーで上野駅に送っていくと、それが私たちが祖母を見る最後となりました。祖母は間もなく83歳で亡くなったからです。葬式に出た父の話によると、祖母は一ヶ月の東京暮らしを懐かしがって周囲に話していた。明治通りに面した私たちの家の窓から、引っ切りなしに行き交う自動車の列を見て、一時も退屈しなかったと言っていたそうです。

祖母は畑で農作業中に父を産んだということですが、それもありなんと思いました。また、畑の真ん中を歩いている時、祖母がぶら下げていた薬缶に雷が落ちた、普通はショックでどうにかなってしまうところですが、祖母は何事もない顔で家に帰ってきたということです。祖母の葬式は群馬の風習に従って、棺桶に座って運ばれ、その桶の上には小麦粉で餡をくるんだ饅頭を先端に刺した木の枝がたくさん差されていました。焼き場まで列の後をついてきた子供たちにその饅頭を配るのです。葬式に出て、東京に帰ってきた父は、その話をして、鞄から新聞紙にくるんだ枝つきの白い饅頭を大事そうに出しました。母はしんみりとした顔でその饅頭を受け取ると、台所に持って行って、そのままゴミ箱に捨ててしまいました。

さて、いよいよ父の話です。四男で末っ子だった父は15歳で上京し、石鹸会社に入社、墨田区吾嬬町にあったその工場で働き始めました。尋常小学校しか出ていない父でしたが、知的興味が強く、それを気に入られて工場長の鞄もちなどしていました。やがて、父は、会社の意向で化学の実業学校に通わされます。当時は世界的に合成洗剤の大量生産に向かいつつある時代で、現場の技術者が不足していました。しかし、小学校卒の学力でよく複雑な有機化学を習得できたものだと感心しますが、この化学の勉強が思わぬところで父に幸運をもたらします。父は三度出征しましたが、1944年中国大陸の戦闘中に部隊に夏服が支給されました。やがて、部隊は南方に送られますが、父は化学技術者として内地に送り返されます。その後、部隊(関東軍最強部隊の一つ高崎歩兵十五連隊)はペリリュー島でアメリカ海兵隊と激闘の末玉砕するのです。

思えば、父にとって、青春は戦争そのものでした。満州事変から10余年の日本の戦争のほぼすべてにわたって、重機関銃兵として戦い尽くしました。酒を飲むと出るのはただ戦争の話で、家族はいい加減飽き飽きしていましたが、次兄だけは時折ノートまでとって熱心に聞いていました。ある晩、いつものように父が酔っぱらって戦争の話をした後だらしなく寝込んでしまうと、長兄は私に小さな声で、「父も中国では悪いことをやってきたんだよ」と言いました。私はその時だまって何も言いませんでしたが、確かに長兄の言う通りかも知れません。やってきたかも知れないし、やってこなかったかも知れない。戦争なのだから仕方ないかも知れないし、そうでないかも知れない。しかし、私には、父の中には(次兄にも見られるような)人間の醜さに対する強い嫌悪があったように思われます。卑劣な上官への憎しみは、軍馬への愛情こもった回想(一頭一頭をとてもよく覚えている)と好対照をなしていました。「人間の醜さを知れば知るほど、私は犬が好きになる」というパスカルの言葉を見ると、私はいつも父を思い出します。父の葬儀の時に、伝ちゃんが父のことを、スポーツ万能で生き物が好きだった、といっていました。子供の時、近所の悪童が猫に熱湯をかけて面白がっていると、父は涙を流して抗議していたということです。

父は戦争中に、石鹸会社に働きに来ていた母と知り合って結婚しました。母は地元の大きな土管屋の次女でした。母方の祖父はこの結婚に乗り気でなかったが、決まってしまうと、明治通りに面した一軒家を買って新郎新婦に与えました。戦後の父は技術者として工場の第一線で働きました。大きなタンクで作られる洗剤の微細な粉末は表面積を増やすが故に、空気と激烈に化合して粉塵爆発を引き起こします。昭和31年に吾嬬工場でも爆発が起こり死傷者を出しました。実家は工場に近かったので、問題が起こると父はよく夜中に起こされて自転車で工場に駆けつけたものです。

父は運動が好きで、工場での多くの運動サークルに参加していました。卓球では都大会で優勝し、野球では監督を務め、都市対抗にも参加しています。母が父と二人で初めて海水浴に行った時、海のない県育ちだから泳げないだろうと思っていると、案の定、沖近くで父は溺れています。水泳得意だった母が慌てて泳いで行くと、なんと父は溺れたフリをして立ち泳ぎをしているのでした。実は、父は子供の頃から烏川で遊んでいた達人の泳者だったのです。

しかし、父の本当の趣味は釣りにあって、釣りならほとんど何でもしてしまうが、生涯にわたって最高の楽しみは鮎釣りに出かけることでした。私は、一度だけ、神奈川県の酒匂川に父の鮎釣りに同行したことがあります。川の真ん中で上流に向かって足を踏ん張り、長い竿を左から右、また右から左へとゆっくりと振っていくのです。この単純作業を朝から暗くなるまで飽きずに繰り返すのですが、この友釣りという漁法に取り憑かれると、その魅力は家も仕事も捨ててしまうほどだと言われています。父が鮎釣りに行った日は、家の夕飯の御菜はむろん鮎の塩焼きか鮎の天婦羅でした。頭から尻尾まで食べられる香ばしい若鮎の美味さは忘れられません。また、その形、料理屋で出される養殖の太った鮎と違って透き通るような細い姿態の美しさ。父によれば、鮎は石の苔しか食べないので、このように清らかなのだそうです。

そして、これは父の生き方のある意味での象徴になっています。父は、川魚は鮎しか食べず、また、肉でもモツやホルモンなどは決して口にしませんでした。清浄なものを好み、好き嫌いが激しく、ごく少数のものを繰り返し食べていました。アスパラガスの缶詰とコンビーフの缶詰が好きだったのは軍隊生活への郷愁かも知れません。水商売やそのような雰囲気を嫌い、居酒屋や喫茶店さえも避けて、そこに通うような人間を軽蔑していました。賭け事なぞもってのほかで、家では子供たちが歌謡曲を歌うのを禁じていました。近所では、頑固で変わり者で怖い人間と思われていたようです。周囲と滑らかな関係を作ろうなどと少しも思わず、ほとんどの人間を軽蔑していたように見えます。

しかし、父は本当は弱い人間で、アルコールが入ると、その剛毅な人間性が一気に崩れてしまうのです。適量で切り上げることができず、倒れるまで飲み、工場の宴会では、いつも母が酔いつぶれた父を迎えに行ったものでした。子供たちには、いつも叱りつける厳しい父親と酒に酔いつぶれるだらしない父親が二重写しになっていたのでした。ウイークデーの晩は一人で酔っぱらって寝てしまい、休みの日は野球か釣りで家を空け、子供たちと過ごす時間のない父親、子供は皆そんな父親を好きになれず、母が先に亡くなってからは、ほとんど誰からも相手にされず孤独な晩年を過ごしました。
次回から兄弟の話になります。

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