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2015年2月16日 (月)

キドロンの谷の向こうで(1)

昨年末から次兄の夢を2,3回ほど見たのですが、いちばん新しい2月3日に見た夢は、いささか強い印象を私に残しました。私は遊園地の電気自動車のコーナーで、柵にもたれて、知らない子どもたちが運転する電気自動車を見ています。すると、学帽を被り、縞のセーターを着た小学生姿の次兄が青い電気自動車で柵のすぐ近くまで来て、横の席に乗るよう私を促すのです。それに乗り込むには柵を乗り越えねばならず、たぶん監視員のお兄さんに咎められるだろうと思って、私は「いいよ、いいよ」と手を振りました。次兄は辺りをぐるぐる見回して、「大丈夫だから早く乗りな」と急かします。乗る勇気が出ず、ぐずぐずしていると、次兄は不満顔で、アクセルを踏んで離れて行きました。

幽明境を異にする、とはおそらくこのようなことを言うのでしょう。3年半前に死んだ次兄は 電気自動車に乗って私を迎えに来たのです。むろん、そんなことはありえず、死者が夢の中に入り込んだというより、死者は死の前に幾つかのメッセージを時限爆弾のように私たちの意識の中に仕込んでおくのでしょう。死者は私たちの中で、私たちとともに生き、私たちが弱り、死の影を感じると、そっと扉を向こうから開いてくれるのです。

3年半前の2011年8月15日の夕方、都内に住んでいる姉からの電話で、次兄が心筋梗塞で急死したと知らされました。66歳の早すぎる死です。姉によれば、最初に連絡した長兄は、次兄の死について「可哀相に」と一言だけつぶやいたとのことでした。懸命に生きてきて、やっと安楽で気ままな生活のできる直前に逝くとは。

翌日の通夜の席。武蔵小金井の斎場で、親類や友人、仕事関係の人びとが集まりました。静かでありながら、なぜかサワサワと落ち着かない雰囲気が突然の死の衝撃を物語っているようです。正面にはにこやかな次兄の写真と、テニスのラケットと絵具箱とそして一冊の小さくて分厚い聖書が置かれてありました。これみよがしの豪華な祭壇もなく、数本の白い花が兄の人生の慎ましさと、逝く人を親密に偲びたいという遺族の気持ちを表しているとも思えました。会式が始まる前に、数冊の次兄の思い出のアルバムが席々の間を行き交います。親類が集まる席では、必ず世慣れた冗談を飛ばして周囲を和やかにしていた次兄ですが、今はただ、正面のパネルの中でにこやかに笑いながら、まだ慣れない沈黙の行に勤しんでいるようにも見えました。

式の冒頭に、義姉による次兄の死の経緯の説明がありました。それによると、家族でカレーうどんを昼食に食べた。次兄は、こんな美味しいカレーうどんは食べたことがないと言った。その後、次兄ひとりを残して、家族は買い物に行った。帰ってくると、次兄は書斎の椅子にのけぞるようにしていた。顔は穏やかでねむっているようだった。救急車が呼ばれ、病院で心筋梗塞による死亡が確認された。心臓に持病があり、2年に一度の心臓の検査を終えたばかりで、これで2年間大丈夫と喜んでいた途端の出来事だった。そう義姉は語り、そして狭い会室全体を無念の沈黙が覆いました。

突然の悲しみ、諸方への連絡、葬式の手配、しかし、次兄には仏教的つながりは何もなく、クリスチャンでもないが、キリスト教には強い共感を持っていました。もともと、次兄夫婦が出会ったのは大学のキリスト教関係の奉仕サークルであり、夫を送り出すにはこの宗教しかないと義姉は思ったのでしょう。といって親しい教会もなく、思い余って、結婚のとき仲人をしてくれた宗教学者でもある牧師に頼むことにしました。ところが、その牧師先生は研究会のため外国に行っていて不在で、その娘さんが、父親の弟子であるまだ若い牧師を紹介してくれたのです。

そういうことで、式は賛美歌から始まりました。賛美歌320番「主よみもとに近づかん」は映画『タイタニック』で、楽団員たちが沈む瞬間まで演奏していたことで知られていますが、生前次兄は、娘たちに、死んだ時にはこの賛美歌で送ってほしいと常々言っていたそうです。黒いガウンをまとった恰幅のいい牧師は、兄の略歴を述べ、その人生をマラソンに喩え、疲れ切り、ゴールのテープを切り、その地点に待つイエス・キリストの大きくひらかれた腕の中へ倒れこむ様子を感動的に語りました。確かに、それは兄の生涯に相応しいかも知れません。挫折と病気と人知れぬ苦悩に満ちた人生、それはキリストの胸に抱かれるに値する生涯に違いありません。

しかし、何ごとにも喩えようのないのが人生というものです。キリストの身元にいくというより、兄は本来の自分の世界に帰り着いた、という気がするのです。トルストイの『二人の隠者』を思い出しましょう。孤島に漂着した神父は、そこで無学だが信仰心厚い二人の老人に出会います。しかし、二人が唱えている祈りの言葉があまりに出鱈目なので、神父は正しい祈りの言葉を繰り返し二人に教えてやります。やがて迎えの船が来て、神父は名残を惜しむ老人たちを残して船に乗り込みます。船が沖に出た頃、神父が気づくと、二人の老人が波の上を歩いて船まで近づいて来ました。神父のところまで来ると、祈りの言葉を忘れたのでもう一度教えてくれと言うのです。驚いた神父は、あなた方にはその必要はないと言って断ります。二人は不満そうな顔で、また海の上を歩いて帰って行きました。

兄の生涯はこの老人たちに似ています。キリストは「なんじ、裁くなかれ」と言いながら、自らの人生は勝手な裁きの連続でした。私の思い出すところ、家族の他の人間と違って、次兄がそこに居ない人の悪口を言った記憶がありません。口汚く人を罵ることなど決してない人間でした。いつも穏やかで、そこで出会う人々をいつも緩やかな空気で包んでしまう、自らが大変に困難な仕事を抱える時期であっても、苛立ちをぶつけることなぞありませんでした。

といって次兄が人格者であった、というわけではありません。心が練れるということがなかった、壊れやすい心を隠す術を最後まで見つけることができなかった、そういう生木のような人間であったと思います。嘘のつけない人間で、感情を隠すことができず、大人になっても泣き出すことがよくあった。その感情の激発は、決して他人には向かず、いつも自分だけを責めたのです。思い出すのも身が裂かれるようですが、母が入院中、個室に独りきりにして、次兄と私で廊下で立ち話をしていた間に、母はベッドから落ちて首のチューブが外れてしまったのです。大事には至らなかったが、多量に出血してしまった。責任は、その時間を任されていた私にあったはずなのに、兄は、「兄(あん)ちゃんが、兄ちゃんが悪かった」と叫んで抑えきれない涙で顔をぐしゃぐしゃにしていました。

いや、こうした回想はやめにしましょう。母の病気も、その死に至る経過も、末っ子で一人家に残っていた私がしっかりしていれば防げたはずです。話を転じて、子供時代の浅草松屋の屋上遊園地に戻ってみたい。次兄は子供の頃から、弟や妹を喜ばせようと心を砕いていました。まだ小学校に入るか入らないかの私の望みは、松屋デパートの食堂のカスタードプリンを食べることで、兄はそれを知って、松屋の食堂に私を連れて行ったものの、55円という値段にガラスケースの前で凍りつきました。「兄ちゃんが悪かった‥」と今にも泣きそうな顔です。そんなお金を持っていなかったのですが、当時は30円でラーメンが食べられ、50円あれば花やしきで死ぬほど遊べたのですから無理もありません。それから兄は私を連れて階段を走るように降りて地下の食料品売り場に行き、そこであんパンを二つ買って、また階段を屋上まで駆け上がりました。階段の途中で、兄の担任の教師にすれ違って声をかけられたことをよく覚えています。屋上のベンチに座ってパンを食べ、五円玉を入れて望遠鏡で隅田川の対岸にあるアサヒビールの大きな看板を観察しました。

兄の謙虚さは時には腹立たしくもあって、以前家庭のことで相談したとき、「人生については◯◯(私の名前)の方がずっとよく分かっているだろうに」と不思議そうに言っていたのを思い出します。本当は兄弟でいちばん苦労して悩んでいて、人生を考え尽くしていたのは次兄であったはずなのですが。次兄は優等生だったので、たくさんの知識を蓄えていましたが、時にポロっとそんな教養が表に出ると、「こんな役に立たないことばかり知っていて恥ずかしい」と言うのでした。これまたついでに書いてしまいますと、私が歳の離れた女性(現在の妻)と再婚した時、長兄夫婦は私の家に電話をかけてくると、なぜか一方的に怒鳴り散らして非難したのです。ところが次兄夫婦は、私たちを手作りの料理と大きなケーキを用意して、一夜嘉宴の席を設けてくれたのでした。

ところで、書道や絵画の得意な次兄は、毎年手作りの年賀状をくれたのですが、いつも賀状に寄せて近況報告を記して来ました。それで、私は次兄の順調な出世具合を知ることができたのです。病気で銀行を退職し、大学に戻って、いわばゼロから再出発したのですが、家庭教師などをしながら苦学して、何とか学者として身を立てるまでになりました。それどころか、政府の審議会の会長まで務め、葬儀には内閣から感謝状が届けられました。次兄から来た最後の賀状は、天皇陛下の園遊会に招待されたことがやや遠慮がちに記されてありましたが、思えば群馬の山奥から行李ひとつ持たず出てきた父親の世代から考えて、なんという出世でしょう。

さて、通夜の翌日は、同じ斎場にて葬式がありました。葬式には、猛暑の日でしたが、通夜の席にも増して多くの参列者がありました。大学時代の友人、職場の仲間や先輩などの多くの心温まる弔辞の後に、棺の蓋が開けられ、穏やかな顔で横たわっている次兄の上に花々や生前に愛用の品が置かれました。苦しい闘病を経験せずに心臓の停止で一瞬で逝ったのはせめてもの慰めでしょう。出棺、荼毘、そして食事の席がもうけられ、生前の愛すべき次兄の思い出に話の種はつきません。しかし、私は、葬儀の折に兄の遺影の下に置かれた、クタクタになり表紙をセロテープで補修された一冊の聖書の存在に目を留めたい。兄の秘密はきっとそこにあるのに違いないと思うのです。

退職して、谷中のアパートにいた新婚時代に、次兄はよく墨田区の実家に遊びに来ていました。その度に、私の部屋に座り込んで話をしたものでしたが、話の種はむろん宗教に関するものでした。私はその頃学生で、好んで哲学や宗教の本を読んでいたのですが、兄もプロテスタント文献をよく読んでいて、ルターやバルトについての話を聞いたことがあります。その日は、前に私が貸していた渡辺照宏の『新釈尊伝』を返しに来ていたのですが、兄は「面白かった。とても立派な本だった。」と言いました。それからモーリャックや遠藤周作のイエス伝などに話が及んで、私が「兄さんもイエスの伝記を書いてみたら」と言うと、「キリストの生涯を書くことはクリスチャンの夢だが、自分にはまだその資格がないよ」と言いました。そして、私がノートに書いたドルバックの『キリスト教暴露』についての感想を読んで笑いました。「確かに、キリストは無知な人々の中で自分の教えを広めた。それが、福音書に荒唐無稽な話が多い理由だろう」と兄は言いました。それで私は、「聖書の奇跡は神の存在の証拠ではなく、むしろその反対の証となる、とスピノザは書いているんだけど、確かに奇跡などなくてもありのままの世界こそ驚異だよね」というと、兄は「いろんな人が言っているけれど、聖書には別の意味があるのかもしれない、わずかの弟子にしか分からないような」と言って、「キドロンの谷の向こうで言ったような」と付け加えました。私の記憶はそれで途切れます。暑い日で、私の部屋の窓辺に置いていたオキシフルの瓶のふたが爆発して天井に当たったことを覚えています。

ヨハネ福音書第18章第1節、イエス、かく語りし後、弟子たちを連れてキドロンの谷の向こうへ行きたり。最後の晩餐の後のことです。幼年時代から遡って次兄の思い出を書いてみたいのですが、まだ存命中の親類もおり、「一言口を出づれば駟馬(しば)も追うこと難し」という恐れはこのネットの時代にさらに意味深長になっています。しかし、私自身いつ落命はた病死するやも知れず、私しか書けないことを書いておくのは確かに意味あることに違いないと思います。不定期で続きをのんびり書いていくのもよいかも知れません。

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