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2014年12月27日 (土)

ベルトラン・ド・ジュヴネル『純粋政治理論』(1)


いつの間にかクリスマスも終わり、いつの間にか残り数日で新年を迎える頃となりました。いつの間にか、というその言葉が恐ろしい。いつの間にか年を取り、いつの間にか旅立っていってしまうのでしょうか。読むべき本はまだ多く、無知のまま死ぬのは耐えられません。ところで、ベルトラン・ド・ジュヴネルの『純粋政治理論』(中金聡・関口佐紀訳、風光社)は個人的に今年出た中で最も印象に残った本ですが、よくある政治原理の本とは肌合いも内容もまったく違っています。しかし、その本の内容にも優って、作者のジュヴネルも政治学者としては相当に変わっているのです。「20世紀の偉大な政治思想家たちのうちでもっとも知名度の低い」ベルトラン・ド・ジュヴネル・デ・ジュルサン Edouard Bertrand de Jouvenel des Ursins(1903-87)は、学歴としては中学校に2年間通っただけで、むろん学位も博士号もなく、指導教官も弟子も学閥も、そして面倒な大学の仕事も人間関係もありません。アカデミズムと無縁ということではルイス・マンフォードと似ていますが、実際、ジュヴネルはマンフォードと同じくそのキャリアをジャーナリストとして初めています。

だが、マンフォードが苦労してジャーナリズムで身を立てて行ったのと反対に、ジュヴネルの道は労せずして開かれていました。というのも、彼の父アンリが日刊紙『ル・マタン』の社主兼主筆であったからです。遠く13世紀に淵源をもつ男爵家であるジュヴネル・デ・ジュルサンの当主であり、後に大物政治家として活躍したアンリ・ド・ジュヴネル(パリのサン・シュルピス寺院の裏には彼の名を冠した通りがあります)はパリ6区のフォーブール・サン・ジェルマンに邸宅を構え、アナトール・フランスやH.G.ウェルズなど多くの知識人を招きます。彼らとの交友、そしてユダヤ人実業家の娘であり教養豊かであった母親、サラ・クレール・ボアスの影響のもとにベルトランは育ちました。

しかし、ベルトランにとって17歳から5年間、父の再婚相手である国民的作家コレットとの関係はその後の人生に決定的影響を与えました。30歳年上のこの義母と、避暑地ロズヴァンで過ごす毎夏の思い出は、知的にも肉体的にも彼を大きく成長させたのですが、むろん、この関係は、公然たるスキャンダルとなり、彼の人生に軽くはない影響を与えました。さらに次のようなこともありました。1936年2月、ベルトラン33歳の時、時の最注目人物アドルフ・ヒトラーとの独占インタビューを成し遂げたのです。ベルトランは、そこで、ヒトラーから、フランスとの友好と共産主義ソ連への嫌悪をひきだしたのですが、 フランス政府からの圧力で仏ソ協定の議会承認の翌日に掲載が延期されたことにより、独外相リッベントロップの抗議を呼び起こし、結局は大戦へのターニングポイントとなるドイツのラインラント進駐の口実に利用されました。実は、これは、ドイツの巧妙な画策で、ベルトランは上手くはめられたのです。『アルカディ』の序文を書いたドミニク・ブルグは、ベルトランの人間を見る目の無さに言及していますが、ヒトラーを愛想の良い人物、ミッテランを誠実な人間とみなすのではそれも無理ありません。

その後、ベルトラン・ド・ジュヴネルはドリュ・ラ・ロシェルやドリオらの親ドイツ派に近づいたり、フランス占領後はレジスタンスに投じたりしますが、1943年、ゲシュタポに妻とともに監禁されます。しかし、幸運にもジュネーヴに逃げ出し、そこで代表作の一つ『権力論』を執筆します。母国では、義母とのスキャンダルや親ドイツ派とみなされての非難があったのですが、彼の名はアングロ・サクソンの国で高まり、「憂愁の自由主義」liberalisme melancoliqueを代表する保守的政治哲学者・政治経済学者として、米英の大学で客員で教えるようになりました。さらに1970年代に早くも地球環境の保存と人類の未来について警告を発し(ecologie politique という言葉を初めて使ったのはジュヴネルです)、エコロジーや未来学についての書物を出版し、またまた世界のいろいろなフォーラムなどに招かれて講演したりしました。

ベルトラン・ド・ジュヴネルとは、果たして、いったい、如何なる人物でしょうか。その基調は、コミュニズム、ナチズム、デモクラシーの横暴などに現れる「権力」を本能的に嫌う心性を持ち、心地よい生活を最上のものとする、慎ましい自由主義者、と言ったらよいでしょうか。私が彼に魅かれたのは、モーリス・クラントンが編集した『西欧の政治哲学者たち』(山下重一訳・木鐸社1974・1987)の中のジュヴネルが執筆した「ルソー」を読んでからです。実は、ジュネーヴに逃れていた時、ジュヴネルはこのルソーが幼少期を過ごした土地で、本格的にルソーの研究を初め、それは彼の主著『権力論』『主権論』に結実します。

道草になるかも知れませんが、ここで彼の描くルソーについて要約しましょう。ジャン・ジャック・ルソー(1712-1778)は、人間社会の歴史的進歩を体系的に叙述しようとした初めての著述家でした。当時は誰もが進歩について語っていましたが、その態度はきわめて粗雑であり、精密に考究する試みはルソーが最初でした。しかし、それが彼の生涯の迫害の理由になったのです。フランスは啓蒙思想がもっとも花開いた土地であり、あの強力なイエズス会でさえ尻尾を巻いて逃げ出すほどの進歩的な国でした。 その進歩についての明るい希望、人間理性についての全幅の信頼感は、その身内から反逆者を出すことを許さなかったのです。彼らに対してルソーは、進歩の危険を警告し、明るくあるべき未来を暗い筆致で描きました。

自然は人間を善良に作ったが、社会が人間を堕落させ不幸にした、とルソーは書きました。人類は原始的な組成ではもっともすぐれており、もっと賢く、もっと幸福なのに、原始状態を離れるに従って盲目的で悲惨で意地悪になった、と。進歩に対するこのような見方に対して、啓蒙思想家たちがどんなに憤慨したか容易に想像できるでしょう。フランスの教会組織を弱体化できるほどの力をもった彼らが、この孤独に戦う男を抹殺することは、児戯に等しいことでした。ルソーの評判を落とし、彼を危険人物と見なさせる不断の組織的な試みがあったことは事実であり、啓蒙思想家たちはルソーの気難しさを利用して、巧みにいじめることで、彼をついには絶望的な孤独に押しやったのです。

迫害者に対する彼の抵抗を後世に伝える唯一の方法だと思って『対話』の原稿をノートルダム寺院の大祭壇の上に置こうとしたルソー。しかし、この試みに失敗し、原稿をわしづかみにし、死後の出版を誰にも頼めないと絶望してパリの町をさまよっているルソー、自筆でコピーした小冊子を町角でくばるが、その小冊子も通行人によって鼻であしらわれてしまうルソー。彼がそれほどにも訴えたかった進歩への憎悪は、その後の加速度的な進歩の二世紀間にわたってルソーの崇拝者からさえも英雄の馬鹿げた面として隠されようとしてきました。しかし、ジュヴネルは、それこそルソーの中心的概念であると明言します。

「私が以上のことに気がついたのは、『社会契約論』を研究していた時のことであり、私はそれが来るべき共和国のための処方箋ではなく、政治的堕落の臨床的な分析であることを知ったのである」と彼は書いています。「ルソーは『社会契約論』の中で、大規模で複雑な社会を民主政治に転化するための秘訣を教えようとしたのではない。それどころか、彼は、一方では大人数が、他方では政府の強力な活動に対する要求が、彼が民主政治の反対であると考えた少数者への政治権力の集中をもたらすという論証を提供したのだ」

これがジュヴネルの描くルソーであり、また、これはジュヴネル自身の政治哲学の要諦ともなっているのです。「『社会契約論』の主題は、社会契約ではなく、社会的感情である」これはまさに目の覚めるような指摘です。「人民は政府のもとに支配されざるを得ない、それは苦痛であり、ジャン・ジャック・ルソー以上にこのことを感じた人はいない。」
個人は自らの人格と財産を守るために共同体に自分の権利の全てを譲渡するのですが、それはむろん、自ら服従することであり、苦痛であり、限りない抑圧であるに違いありません。しかし、人間が服従する支配が自分にとって外的なものでなければないほど、その経験は苦痛でなくなるはずです。ルソーは、このような支配が外的なものでなくなるのは、臣民の一般的委任によって権威を与えられる結果においてだけであると強調しました。つまり、自分が自ら参加し、その規則の制定に個人的に参与した時だけ、その支配が耐えられるというのです。

ところで、主権は国民に属し、国民のみが立法権を持っているのですから、ルソーの考えによれば、政府は国民の代理として法を執行するがゆえに、国民の召使にすぎません。そのようなものとして、立法権を持つ国民は法と行政を執行権を持つ政府に委ね、それに全面的に服従します。ところが、国が大きくなり、人口が増えてくると、それらの権利の意味合いに弛緩が生じます。ここで、主権者は国民として集合的にまた団体としてしか存在せず、臣民としては一個人として政府に服従します(ルソーは、人間を集合的には人民peuple、主権に参加するものとしては国民citoyens、国法に従うものとしては臣民sujetsと呼びます)。今、ここに10万人の人口を持つ国があるとすると、臣民としては法に服従するものの、主権者としては10万分の一の権利しかありません。このように、自分が大群衆の中に埋没し、主権者としての自覚が薄まると、政府・法からの抑圧がより強く感じられ、結果として自由が減少することになります。そして、国民がより抑圧を感じるようになればなるほど、政府は国民への服従を確かにするために、ますます強制手段が必要となり、次第次第に執行部が立法部を上回るようになり、最後は主人と奴隷しかいなくなります。「このようにして、国家には唯一の活動的な権力、すなわち執行権だけが残るようになる。(…)このように、すべての民主主義国家は最終的に滅亡したのである。」
(2)に続きます。


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