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2014年12月27日 (土)

ベルトラン・ド・ジュヴネル『純粋政治理論』(2)


さて、いよいよ、『権力論』『主権論』と並ぶジュヴネルの主著の一つ、『純粋政治理論』The Pure Theory of Politics 1963について紹介しましょう(ジュヴネルの著書は大体が仏語で出版されていますが、この本は最初英語で、後に著者自ら仏訳を出しています)。まず、なぜ「純粋」かというと、政治学には自然科学に対してはむろん、他の人文諸科学と比べても、それが拠って立つ原理といったものがないからです。現代にあっても、政治学はプラトン、アリストテレス、トマス=アキナス、マキャベリといった権威を乗り越えることはできず、その理由は理論を検証し積み上げていく実証的な研究がなされないからなのです。ジュヴネルはそれを打ち立てようとして、政治学の原理そのものから筆を起こします。化学を勉強する生徒は、いきなり複雑な有機化学を学ぶのでなく、まず簡単な構造の無機化学から始めますが、政治学もそのようにして考えられるもっとも単純な原理から始めようとするのです。

よって、『純粋政治理論』には、国家も権力も政党も戦争も革命も、そのような言葉すら本格的には出てきません。ジュヴネルによれば、もっとも単純な政治の原理とは、個人の諸個人に対する行為というミクロレベルでは、人が人を動かすこと(the moving of man by man )に尽きます。この「Aという人間がBという人間にHという行為をさせる」ことが、あらゆる政治的行為の出発点だというのです。どんな政治的結果(eventus)をもたらす政治的行為であろうと、最初はこの人間が人間に働きかける行為によって始まるのです。しかし、そんなことは日常生活において頻繁に起こっていることであり、政治原理としてはあまりに一般的すぎると思われるかも知れません。その通り、まさにそれ故にこの定理は偉大なのです。政治生活と社会生活は切り離せないものであり、そう考えることによって初めて政治を動態的に捉えることができるのです。

「人間は他の人間をある行為に向けて動かそうとする。われわれには応答する一般的気質がある。われわれの現実の応答は、示唆される行為の性質と煽動者の人柄にかんするわれわれの主観的印象で決まる。とはいえこれらの印象も、われわれの過去や確信事項から形成されているわれわれの人柄の影響を受ける。われわれの応答は、おこないや指導者との関連でのわれわれの先行コミットメントによって若干の制約が科されている。これらはことごとく、政治の領分と考えられているものよりはるかに広範なフィールドにあてはまるのだ。
実にふつう政治と考えられているのは、人間たちがひとつに集められ、そのためにたがいにはたらきかけあう機会ができるといつでもおのずと生起する基本的な政治的諸関係が、自然的かつ必然的に突出したものにすぎない。社会的諸関係と政治的諸関係のあいだに本質上の違いなどない。本質はまさしく人間間の諸関係のことがらなのである。」

シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』を見てみましょう。シーザー暗殺の首謀者キャシアスにとって、この策謀の成功不成功はシーザーの殺害ではなくて、朋友ブルータスをいかにしてこの計画に引き入れるかにかかっていました。なぜか? ブルータスにはキャシアスにない人望があったからです。
そうだ、あの男は万人の心の偶像だ。
おれたちの場合なら罪と見えることも、
あの男の支持を得れば、あたかもみごとな錬金術よろしくだ、
そのまま美徳と価値に変貌する。(福田恆存訳)

AがBにHの行為をするよう唆す、という図式においては、Bがそれを承認する理由はAという存在そのものか、またはHという行為そのものか、あるいはB自身の問題か、つねにその三つの可能性が考えられます。ブルータス(B)がキャシアス(A)の言を聞きいれた理由は、キャシアスを信用していたからではなく、キャシアスが策謀する行為そのものが日頃の自らの信条(独裁者の出現を許さない)と一致したからです。もう一方の例は、たとえば、1815年エルバ島から危険を顧みず帰還したナポレオンが、グルノーブルで捕縛のため差し向けられた一連隊と遭遇した時です。彼がひとり連隊に向かって歩んでいくと、連隊は熱狂の嵐となって彼のもとに押し寄せました。フランスを勝利に導いた偉大な将軍というイメージの記憶が、彼を捕縛するという命令を馬鹿げたものと思わせたのです。扇動者が応答者に魅力的に映った時には、それがもたらす結果などどうにでもなるのです。

AがBにHをさせるよう促す、ということが、あらゆる政治的行為の出発であるとしたら、それは政治というものが、その究極のエネルギー源を個人に持っているからです。すべては個人による別の個人のあるいは集団への煽動によって始まります。煽動は初期投資であって、そのほとんどは全くの損になっても多少の払い戻しがあれば万々歳というものでしょう。しかし、巧みな煽動は人をある程度意のままにすることもできます。常々、人は、自分はいかなる示唆にも開け放たれていると言うときがありますが、これは全く真実ではありません。まず第一に、人間は予想以上に首尾一貫した存在で、そのような一貫した性向を自分にも他人にも信じさせています。またそうでなければ分裂症と思われるでしょうし、次の行動が読めない人間は信頼されることもできないでしょう。そして、このことが巧みな煽動者の餌食となる原因ともなるのです。また、自分は、応答者として思慮深く考えると自認する人間も要注意です。彼らは、自ら考えるのでなく(いちいち考えていたら社会生活は進みません)、多くの場合、専門家や公けの説明のような「権威」に頼っています。権威 Authority とは多様な意味をもっていますが、もっとも単純な語義は「本人性(オーサーシップ)」と密接に結びついています。無名の一研究員が万能細胞の簡単な作成方法を発見したと言っても信用されないが、その分野の第一人者が積極的に賛同すれば、信じてしまうのです。

しかし、応答、あるいは応答者こそ鍵を握るものなのです。 応答者が集団である場合を考えてみましょう。ルソーは人民集会でなされた提案は満場一致で承認されなければならないと書いています。人びとが、すでに心の中で賛同しているような提案のみが、法として成立した時に、進んで服従する理由になるからです。これはモデルとしてもあり得ないと思うでしょが、ジュヴネルは、そこにこそ民主主義の生き残る道があると考えているようです。キャンプファイヤー・デモクラシーというものがあります。ナヴァホ族などで実際に行われていた事例で、人びとは日が沈むと焚火の周りに座り、狩りのことや他の部族の家畜襲撃のことなどを話し合います。長老や部族の長もいるが、彼らはまとめ役にすぎず、議論は全員一致の結論が出るまで長々とつづき、時には何日にもわたって同意の累積を辛抱強く積み上げていきます。時間切れによる多数決など問題にはなりません。現代人にはむろん、非効率的に見えるでしょうが、物事を論じ尽くす骨の折れる過程により、同意の連鎖反応がおき、ルソーの望むような参加者全員の心理的凝集化さえ起こり得ます。

これは、昨今論じられる「討議デモクラシー」とは全く違って、もっとずっと開かれた精神的なものです。討議デモクラシーとは、公共の場で、なんらかの手段で集められた人間が、焦点の問題について討議することにより、互いに意見の修正、ないし転換をしていくもので、それこそ団体のイデオロギーの跳梁する場となるでしょう。 イデオロギーとは、それによって世界のどんな事柄も判断できるある種の信念なのですから、話し合いなど虚構にすぎません。「応答」による決定の理想的な姿の一つは、カトリックによる列聖のプロセスです。ある「候補者」が聖人に相応しいかどうかは、何年も、時には何世紀もかけて、価値が色褪せぬことを確認しながら行われます。しかし、これはあまりに特殊な事例でしょう。

実は、ジュヴネルの時代には知られていなかったキャンプファイヤー・デモクラシーの新しい形態があるのです。もちろん、それはインターネットであり、小学生や老人や主婦まで利用する時代になって、はじめて、自由で開かれた討議の場ができたと言ってよいでしょう。政治とは、日常生活の素朴な感覚からはじまるべきで、それが地方政治の凝り固まった利権構造や現実の不公平さに目をつむる「人権」主義者をあぶり出すのです。

本論にもどりましょう。ジュヴネルの言うように、政治の原理が、人が人を動かすことにあるとしたら、政治とはまさに危険なものなのです。実はこのことこそジュヴネルがもっとも力説したかったことでした。「人間は他者を傷つけるようにも、自分が破滅するようにも動かすことができる。ひとを動かすプロセスそのものには、動かされる者にとっても動かすものにとっても、人品を卑しくさせる危険の暗示がある。追求するべき善のヴィジョンがたとえ公正きわまるものでも、その実現の支障になると考えられる人びとへの憎悪で心を毒しかねないから、道徳的だという保証にはならない。」

政治の危険性について、ジュヴネルは、ここで、プラトンの『アルキビアデス』について言及します。『アルキビアデス』は、ソクラテスの熱心な生徒だったアルキビアデスがまだ若く、ようやく民会で発言できるほどの年齢になった頃に交わされた対話です。ソクラテスは、この若者に、民会に出ていくための知恵を授けようとするのですが、まだ若いアルキビアデスは自分にはもうそれが備わっているのだと思っています。実にこれは知恵(ソクラテス)と野心(アルキビアデス)との対話であり、また哲学と政治との対話なのです。

冒頭、ソクラテスは次のようにアルキビアデスに攻撃を開始します。「おまえはペリクレスを親類にもつ名門に生まれ、家は十二分に裕福、父方、母方双方の強力な縁故もあり、何より眉目秀麗で強い体を持っている。おまえが民会で発言すれば、かつてどの政治家も受けたことのない高い評価を受けるだろう。そして、おまえは自分でもそのことはよくわかっている。」そして、ソクラテスはアルキビアデスに、民会で人を導くだけの知恵があるかと尋ねるのですが、アルキビアデスは、自分にはその知識も知恵もあると反論します。しかし、ソクラテスの巧みな対話術により、じわじわと後退し、ついには自分には人を説得するだけの専門知識もなければ、もっと大きな問題である正義や公共の利益についても自分は明るくないと告白するはめになるのです。「問題が重要なほど、無知はより悪しきものとなる。だがどんな問題でも、最大の無知は自分が無知であることを認めないということだ。」そう勝ち誇ったソクラテスの言葉でこの対話は終わります。

この対話は、紀元前430年ごろ行われたという設定ですが、この作品を読んだ380年ごろの読者はこの50年の間に、都市国家アテナイとアルキビアデスとに何が起こったのか、むろん、よく知っていました。それ故に、この対話編は当時の読者に強い印象を与えたのです。ソクラテスは、紀元前469年ころ生まれ、アテナイがその繁栄の絶頂を迎えた頃にその教育活動を始めました。しかし、ソクラテスが殺された399年にはアテナイは破滅に向かって突き進んでいたのです。この破滅は敵の策略によるものではなく、敵であるスパルタが戦争を望まず、たびたび和平を結ぼうとしたことはトゥキュディデスがこれを十分に明らかにしていますが、アテナイの破滅はアテナイ自身が招いたことでした。実に、この都市は、最高の賢者を擁していたまさにその時に、愚かな統治によって滅びつつあったのです。しかも、その統治の中心人物たちの中にはソクラテスの教えを受けた者たちもいたのです。

とりわけアルキビアデスは、404年に恥辱にまみれた敗北を喫し、スパルタの占領軍を迎えるにまで落ちぶれたアテナイの災厄の最大の責任者でした。421年にニキアスの交渉よりなった満足すべき和平のあとで、敵対感情を再燃させ、415年に無謀なシュラクサイ大遠征を敢行し、壊滅的な大敗北を招いて、多くの若者を死に追いやったのはアルキビアデスだったのです。しかも、彼は同胞の非難に憤慨して、あろうことかスパルタに内通して祖国を裏切り、和平の期が熟すとなんと驚くべき回れ右をしてアテナイの政治の有力者に返り咲くのです。さらに、彼は、またまた和平への最後のチャンスをアテナイから奪ってしまい、最後は亡命し、情婦と隠れているところを暗殺されてしまうのです。

政治活動は知恵の導きがなければ危険である、これがプラトン『アルキビアデス』が示す苦い教訓ですが、その具体的な政治活動をもたらす心情のプロセスとはどのようなものでしょうか。ジュヴネルは、『アルキビアデス』の対話の行われた16年後に場面を設定し、シュラクサイ遠征を焚きつけようとするアルキビアデスと、それを諌めようとするソクラテスを登場させて『偽アルキビアデス』なる対話を読者に提供します。ところで、このような対話形式で自らの思想を語る形は、丸山真男、吉本隆明はじめ多いのですが、文学的センスの無さか、ほとんど皆、見事なまでにつまらない出来になっていて、プラトンの足元にもおよびません。というか、比較するのも馬鹿馬鹿しいほどです。それほどプラトン対話編は文学的香気と話術の巧みさに秀でているのですが、このジュヴネル作の想像上の会話『偽アルキビアデス』は例外的によく出来ています。というより、この箇所こそ『純粋政治理論』の白眉であり、コレットから薫陶を受けたジュヴネルの文学的政治哲学者としての力量が見事に示された対話と言えるのです。

『アルキビアデス』から16年後、アルキビアデスはアテナイにおける影響力の絶頂にあって、民会を動かし、失敗に終わる定めのシュラクサイ遠征をまさに決定させようとしています。冒頭、再会の喜びを交わすのもつかの間、ソクラテスはアルキビアデスに、無謀なシュラクサイ遠征を止めるよう説得しようとします。しかし、アルキビアデスは、ソクラテスに、それではソクラテス自身が民会に行って、衆人を説得すれば良いのだ、と反論します。

〈ソクラテス〉群衆に語りかけるのはわたしの専門ではない。わたしの人生は私的な会話についやされてきたのだ。(…)おまえもよくわかっていようが、わたしは会話のための聴衆あつめなどただのいちどもしたことがない。わたしと話がしたいというひとと話ができれば、それで満足だった。注目を集めるために真摯さを犠牲にしたことなどない。
〈アルキビアデス〉あなたの対話のやり方やその目的なら、ソクラテスよ、思い出させてくれるにはおよばない。
〈ソクラテス〉しかし、それならばアルキビアデスよ、個人にアプローチするわたしと、群衆にアプローチする大衆向けの雄弁家の違いに気づいてもらわねば困る。何千人もの会衆に語ることには、会衆の注目を引きつけておくことーつまり聞く気がない者を釣り上げることーが含まれるが、それはわたしがやったためしのないことだ。それにそういう語りの目的は、この数千人をおまえの論敵から離反させ、自分の仲間につけることにある。要するに、聴衆をまわりにあつめ、おまえが思案しているなんらかの行動へと駆り立てることが含まれるのだ。
〈アルキビアデス〉ありがとう、ソクラテス。わたしが説明するより上手に説明してくれて。わたしが語るのは、語りかけられた者どもからある直接的で明確な行動を引き出すことがたしかに目的だ。そういう行動を生み出すわたしの能力は権力である。あなたはそういうのだろう?
〈ソクラテス〉まさしくそのとおりだ。
〈アルキビアデス〉そしてあなたにはそういう権力がない。
〈ソクラテス〉ない。それどころか、民会で発言する機会を得ようとしたことさえないといってよい。
〈アルキビアデス〉あなたは市民なのに。
〈ソクラテス〉市民ならほかに三万人も、たぶん四万人はいる。どんな重要な討論でも5000人もの参加者がいて、その全員に同じ発言権があり、多くはこの権利を行使したがっている。日の出から日没までの討論だと、実際に発言できるのは少数の者だけだから、演壇に登ることができるのは政治的な地位を確立した者であるのは明らかだ。
〈アルキビアデス〉そのとおり。わたしはその一人である。
〈ソクラテス〉おまえはそうだ。そしてわたしは違う。

その後、アルキビアデスは、ソクラテスに、政治的戦術に必要な、足場固めや深謀遠慮と準備などについて自説を展開します。それに対してソクラテスは、自分がやろうとすることが本当に善いことなのかわかっていない人間は人びとを破滅に導くのだと、いつもの理論を述べるのです。

〈アルキビアデス〉人びとを手玉にとって動かすアートや、この目的に必要な理解や知識にケチをつけるのはあなたの勝手だ、ソクラテス。だがね、ソクラテスよ、なにが最善のもののためになるかにかんするあなたの考え全部が、実際に人びとをを動かす政治を経由しなければならず、それは、あなたが軽蔑する知識を探求し、あなたが軽蔑する技倆を開拓してきたわたしのような人間が火を点けるのだ。
〈ソクラテス〉わたしは軽蔑などしていない。それが恐ろしいのだ。おまえのようにそれをもつ者には、自分がなしかねない害悪のことをつねに恐怖しながら歩んでもらいたいものだ。その恐怖を抑え込むことができるのはただひとつ、なにが最善のもののためになるかにかんする知識の開拓をおいてほかにない。
(……)
〈アルキビアデス〉どうだかね、ソクラテス。これは心奪われるゲームで、われわれの内なる最良のものと最悪のものを明るみに出す。いちどでもやったことがある者には、これこそ政治。どこまでいってものるかそるか、一か八か。このゲームを理解することが政治を理解することなのだ。歴史はそうやってできたのだよ。
〈ソクラテス〉冒険と災難の物語、響と怒りでいっぱいの……。
〈アルキビアデス〉人間の物語ということさ。理解してくれ、ソクラテス。

平行線を描いたまま、二人の対話はかみ合わず、現実の進行通り、アテナイはアルキビアデスの提案を受け容れます。対話の最後はアルキビアデスの次の言葉によって締め括られます。

〈アルキビアデス〉もっとも高貴な夢が低劣な動機と手をたずさえれば、われわれ人間を動かす側にとってインプットとしての利用価値がある。これは政治の本質に属することがらなのだよ。アテナイの善についてのわたしの帝国主義的な構想があなたの眼にどれほど下劣に映ろうと、わかりやすさの点でそれは申し分ない。わたしがシュラクサイ攻略をもとめるにあたいする善と考えているのは事実だが、このイメージがわたしの帰依者をこしらえるのに役立つこともまた事実。つまりこれは目標だが同時に手段でもある。われわれの手にかかれば、手段にならないものなどないのさ。

レオ・シュトラウスは『政治哲学とは何であるか』(早稲田大学出版部)の中で、政治思想は特定の秩序や政策に関心をもつが、政治哲学は真理の探求をめざす、と書いています。まず、深奥への探索こそ優先されるべきで、それにはソクラテス的な謙虚さと慎重さが必要というわけです。ジュヴネルの政治原理のまとめは、人が人を動かしてなんらかの行為に至らしめることが政治であるが、それは根本的に人品を卑しくする可能性があり、あまつさえ人も自分も危険に陥らせることだ、というものです。それではこの危険や人格の危機をいかにして防ぐか。何と、ジュヴネルは最後の章に「政治のマナー」と題して、ド・ジュヴネルらしい解決策を提示しています。

「お尋ねしたい。今日まで生きながらえた国家のうちで、政治的暴力のもっとも凄惨な記録があり、武力で勝ち取られた権威の実例がもっとも多く、弑逆された君主と大臣のリストがもっとも長いのはどこか。答えは、イングランド! 中世の全部から17世紀に差し掛かるまでのイングランドの動乱の頻度と残忍さに比肩するものはない。」ところが、17,18世紀の政治的動乱、権利の請願から名誉革命、権利章典までに、イングランドは世界でもまれな模範的な穏和さに転じたのです。19世紀には産業資本主義とプロレタリアートが最初に伸長した地であり、マルクスが、プロレタリアートにとってのピリッピの平原(オクタヴィアヌスとアントニーがブルータスたちを滅ぼしたマケドニアの古戦場)と呼んだイングランドは、しかし、何事も起こらず、今日に至るまで政治的暴力とは無縁でした。ロイド・ジョージは累進課税を導入したからといってウエストミンスターで撲殺されたりはしなかったし、斬首された諸公の死体が不名誉にもイーストエンド中を引きずりまわされることもありませんでした。これは英国人の天分の勝利である、とジュヴネルは書いています。「18世紀の礼節(シヴィリティ)の香気がウェストミンスターには染みついているのだ」と。

一方、同じ17,18世紀の比較的平穏な時代を経験しても、フランスはイングランドと全く正反対な道を歩みました。フランス革命の初期段階で繰り広げられた残虐非道に、ネッケル(フランスの財政総監、ド・スタール夫人の父親)は深甚な衝撃を受け、それを礼節の放逐と書き記しました。「たしかにフランス革命における礼節の破壊は、バークの反応がなぜあれほど暴力的なのかの真の説明になる。礼節の破壊はヨーロッパをたじろがせる驚愕事となった。」

フランス革命における憲法制定国民議会の議員たちは、みな古典的教養に根ざした学識者で、その演説の様式はキケロに学び、ローマ元老院の厳粛さを体現することに誇りを持っていました。加えて、ルソーやアベ=プレヴォーに落涙するほどの感受性さえ持っていたのです。ところが、事態は残忍さの一途を辿り、革命の進行とともに公職者たちのマナーが斬時粗悪化に向かって行きました。バンジャマン・コンスタンやラファイエットは、まだ革命の偉業と暴力とを分けて考えるようにしていましたが、次第にそのような考えは軟弱に思われ、次々に現れる革命的な人物たちの行動は、その仁慈の心や善意のためですらなく、極端だからこそ称賛されるようになったのです。

フランスは1871年のパリ・コミューンでも歴史に残る残虐な殺戮を経験しましたが、さて、英国の礼節とフランスの礼節の顛落は、いかようにしてその違いが生じたのでしょうか。まず、天分の違いですが、英国は国王と議会の際限ない駆け引きを経験して、次第にその国民性が露わになってきました。極端を嫌い、現実に即したものを重んずる精神、それは本質ならざるものに対しては執着せずにいい加減にやり過ごし、妥協を恐れず、常識に即して、目前の利益を重視する心です。ジュヴネルは、イングランドの人間は、政治を賭け金に上限のあるゲームとみなしている、と書いています。ところが、フランスは、行き過ぎを恐れず、極端な行動がしばしば称賛され、むしろ、そのような瞬間にこそ人間の英雄的、また感動的姿が表明されると思っています。『赤と黒』のジュリアン・ソレルが、苦労の末に手に入れた地位を活かして安穏とした余生を送らずに、わずかの激情のために最後に愚行を犯し断頭台に消えるのも、じつにフランス的なのです。

マナーを甘く見てはいけない、というのがジュヴネルの最後の訴えです。マナーから最も遠い国、アメリカが戦後迷走に迷走を重ねているのも故なしとしません。政治に根本的解決などあり得ないし(双方の利益が完全に排反事象であるパレスチナを見てもわかるように)、あるのは決着settlement だけなのですから、そこに政治的礼節のあるなしが関わってくるのです。ジュヴネルは礼節に頼らず、「原則」を押し通そうとする連中にも警告を発しています。我がもの顏で突き進める原則などあり得ません。知的努力を最小限にしたいからといって、具体的事例にすぐに適用できる一般的原則を求めるのは危険です。自己決定原則、古い言葉では民族自決原則のことを考えてみましょう。この原則に照らせば、アメリカの13の植民地に英国から独立する権利があったことは明白です。ところが同じ原則に照らすと、南部の11州に、南北戦争の直前に、連邦脱退の権利はなかったなどとは言えなくなってきます。そう考えると、原則を盾に何かを主張する人間は、それだけで胡散臭いことに思われてきます。(暴力や戦争に反対することさえ無条件に賛成できる原則とは言えません。ジュヴネルは中国に対する抑圧された異民族の反乱・暴力は承認されるべき、と言っています)。

しかし、礼節を信じ、マナーに訴えるのは、まさに茨の道といってよいでしょう。ジュヴネルは、この本の最後に、ローマの礼節の偉大な守護者、キケロの最後のイメージを忘れないように、と訴えています。キケロはシーザー暗殺後の政争渦中に殺され、その頭と手は公共の演壇上に晒されたのでした。

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ベルトラン・ド・ジュヴネル『純粋政治理論』(1)


いつの間にかクリスマスも終わり、いつの間にか残り数日で新年を迎える頃となりました。いつの間にか、というその言葉が恐ろしい。いつの間にか年を取り、いつの間にか旅立っていってしまうのでしょうか。読むべき本はまだ多く、無知のまま死ぬのは耐えられません。ところで、ベルトラン・ド・ジュヴネルの『純粋政治理論』(中金聡・関口佐紀訳、風光社)は個人的に今年出た中で最も印象に残った本ですが、よくある政治原理の本とは肌合いも内容もまったく違っています。しかし、その本の内容にも優って、作者のジュヴネルも政治学者としては相当に変わっているのです。「20世紀の偉大な政治思想家たちのうちでもっとも知名度の低い」ベルトラン・ド・ジュヴネル・デ・ジュルサン Edouard Bertrand de Jouvenel des Ursins(1903-87)は、学歴としては中学校に2年間通っただけで、むろん学位も博士号もなく、指導教官も弟子も学閥も、そして面倒な大学の仕事も人間関係もありません。アカデミズムと無縁ということではルイス・マンフォードと似ていますが、実際、ジュヴネルはマンフォードと同じくそのキャリアをジャーナリストとして初めています。

だが、マンフォードが苦労してジャーナリズムで身を立てて行ったのと反対に、ジュヴネルの道は労せずして開かれていました。というのも、彼の父アンリが日刊紙『ル・マタン』の社主兼主筆であったからです。遠く13世紀に淵源をもつ男爵家であるジュヴネル・デ・ジュルサンの当主であり、後に大物政治家として活躍したアンリ・ド・ジュヴネル(パリのサン・シュルピス寺院の裏には彼の名を冠した通りがあります)はパリ6区のフォーブール・サン・ジェルマンに邸宅を構え、アナトール・フランスやH.G.ウェルズなど多くの知識人を招きます。彼らとの交友、そしてユダヤ人実業家の娘であり教養豊かであった母親、サラ・クレール・ボアスの影響のもとにベルトランは育ちました。

しかし、ベルトランにとって17歳から5年間、父の再婚相手である国民的作家コレットとの関係はその後の人生に決定的影響を与えました。30歳年上のこの義母と、避暑地ロズヴァンで過ごす毎夏の思い出は、知的にも肉体的にも彼を大きく成長させたのですが、むろん、この関係は、公然たるスキャンダルとなり、彼の人生に軽くはない影響を与えました。さらに次のようなこともありました。1936年2月、ベルトラン33歳の時、時の最注目人物アドルフ・ヒトラーとの独占インタビューを成し遂げたのです。ベルトランは、そこで、ヒトラーから、フランスとの友好と共産主義ソ連への嫌悪をひきだしたのですが、 フランス政府からの圧力で仏ソ協定の議会承認の翌日に掲載が延期されたことにより、独外相リッベントロップの抗議を呼び起こし、結局は大戦へのターニングポイントとなるドイツのラインラント進駐の口実に利用されました。実は、これは、ドイツの巧妙な画策で、ベルトランは上手くはめられたのです。『アルカディ』の序文を書いたドミニク・ブルグは、ベルトランの人間を見る目の無さに言及していますが、ヒトラーを愛想の良い人物、ミッテランを誠実な人間とみなすのではそれも無理ありません。

その後、ベルトラン・ド・ジュヴネルはドリュ・ラ・ロシェルやドリオらの親ドイツ派に近づいたり、フランス占領後はレジスタンスに投じたりしますが、1943年、ゲシュタポに妻とともに監禁されます。しかし、幸運にもジュネーヴに逃げ出し、そこで代表作の一つ『権力論』を執筆します。母国では、義母とのスキャンダルや親ドイツ派とみなされての非難があったのですが、彼の名はアングロ・サクソンの国で高まり、「憂愁の自由主義」liberalisme melancoliqueを代表する保守的政治哲学者・政治経済学者として、米英の大学で客員で教えるようになりました。さらに1970年代に早くも地球環境の保存と人類の未来について警告を発し(ecologie politique という言葉を初めて使ったのはジュヴネルです)、エコロジーや未来学についての書物を出版し、またまた世界のいろいろなフォーラムなどに招かれて講演したりしました。

ベルトラン・ド・ジュヴネルとは、果たして、いったい、如何なる人物でしょうか。その基調は、コミュニズム、ナチズム、デモクラシーの横暴などに現れる「権力」を本能的に嫌う心性を持ち、心地よい生活を最上のものとする、慎ましい自由主義者、と言ったらよいでしょうか。私が彼に魅かれたのは、モーリス・クラントンが編集した『西欧の政治哲学者たち』(山下重一訳・木鐸社1974・1987)の中のジュヴネルが執筆した「ルソー」を読んでからです。実は、ジュネーヴに逃れていた時、ジュヴネルはこのルソーが幼少期を過ごした土地で、本格的にルソーの研究を初め、それは彼の主著『権力論』『主権論』に結実します。

道草になるかも知れませんが、ここで彼の描くルソーについて要約しましょう。ジャン・ジャック・ルソー(1712-1778)は、人間社会の歴史的進歩を体系的に叙述しようとした初めての著述家でした。当時は誰もが進歩について語っていましたが、その態度はきわめて粗雑であり、精密に考究する試みはルソーが最初でした。しかし、それが彼の生涯の迫害の理由になったのです。フランスは啓蒙思想がもっとも花開いた土地であり、あの強力なイエズス会でさえ尻尾を巻いて逃げ出すほどの進歩的な国でした。 その進歩についての明るい希望、人間理性についての全幅の信頼感は、その身内から反逆者を出すことを許さなかったのです。彼らに対してルソーは、進歩の危険を警告し、明るくあるべき未来を暗い筆致で描きました。

自然は人間を善良に作ったが、社会が人間を堕落させ不幸にした、とルソーは書きました。人類は原始的な組成ではもっともすぐれており、もっと賢く、もっと幸福なのに、原始状態を離れるに従って盲目的で悲惨で意地悪になった、と。進歩に対するこのような見方に対して、啓蒙思想家たちがどんなに憤慨したか容易に想像できるでしょう。フランスの教会組織を弱体化できるほどの力をもった彼らが、この孤独に戦う男を抹殺することは、児戯に等しいことでした。ルソーの評判を落とし、彼を危険人物と見なさせる不断の組織的な試みがあったことは事実であり、啓蒙思想家たちはルソーの気難しさを利用して、巧みにいじめることで、彼をついには絶望的な孤独に押しやったのです。

迫害者に対する彼の抵抗を後世に伝える唯一の方法だと思って『対話』の原稿をノートルダム寺院の大祭壇の上に置こうとしたルソー。しかし、この試みに失敗し、原稿をわしづかみにし、死後の出版を誰にも頼めないと絶望してパリの町をさまよっているルソー、自筆でコピーした小冊子を町角でくばるが、その小冊子も通行人によって鼻であしらわれてしまうルソー。彼がそれほどにも訴えたかった進歩への憎悪は、その後の加速度的な進歩の二世紀間にわたってルソーの崇拝者からさえも英雄の馬鹿げた面として隠されようとしてきました。しかし、ジュヴネルは、それこそルソーの中心的概念であると明言します。

「私が以上のことに気がついたのは、『社会契約論』を研究していた時のことであり、私はそれが来るべき共和国のための処方箋ではなく、政治的堕落の臨床的な分析であることを知ったのである」と彼は書いています。「ルソーは『社会契約論』の中で、大規模で複雑な社会を民主政治に転化するための秘訣を教えようとしたのではない。それどころか、彼は、一方では大人数が、他方では政府の強力な活動に対する要求が、彼が民主政治の反対であると考えた少数者への政治権力の集中をもたらすという論証を提供したのだ」

これがジュヴネルの描くルソーであり、また、これはジュヴネル自身の政治哲学の要諦ともなっているのです。「『社会契約論』の主題は、社会契約ではなく、社会的感情である」これはまさに目の覚めるような指摘です。「人民は政府のもとに支配されざるを得ない、それは苦痛であり、ジャン・ジャック・ルソー以上にこのことを感じた人はいない。」
個人は自らの人格と財産を守るために共同体に自分の権利の全てを譲渡するのですが、それはむろん、自ら服従することであり、苦痛であり、限りない抑圧であるに違いありません。しかし、人間が服従する支配が自分にとって外的なものでなければないほど、その経験は苦痛でなくなるはずです。ルソーは、このような支配が外的なものでなくなるのは、臣民の一般的委任によって権威を与えられる結果においてだけであると強調しました。つまり、自分が自ら参加し、その規則の制定に個人的に参与した時だけ、その支配が耐えられるというのです。

ところで、主権は国民に属し、国民のみが立法権を持っているのですから、ルソーの考えによれば、政府は国民の代理として法を執行するがゆえに、国民の召使にすぎません。そのようなものとして、立法権を持つ国民は法と行政を執行権を持つ政府に委ね、それに全面的に服従します。ところが、国が大きくなり、人口が増えてくると、それらの権利の意味合いに弛緩が生じます。ここで、主権者は国民として集合的にまた団体としてしか存在せず、臣民としては一個人として政府に服従します(ルソーは、人間を集合的には人民peuple、主権に参加するものとしては国民citoyens、国法に従うものとしては臣民sujetsと呼びます)。今、ここに10万人の人口を持つ国があるとすると、臣民としては法に服従するものの、主権者としては10万分の一の権利しかありません。このように、自分が大群衆の中に埋没し、主権者としての自覚が薄まると、政府・法からの抑圧がより強く感じられ、結果として自由が減少することになります。そして、国民がより抑圧を感じるようになればなるほど、政府は国民への服従を確かにするために、ますます強制手段が必要となり、次第次第に執行部が立法部を上回るようになり、最後は主人と奴隷しかいなくなります。「このようにして、国家には唯一の活動的な権力、すなわち執行権だけが残るようになる。(…)このように、すべての民主主義国家は最終的に滅亡したのである。」
(2)に続きます。


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