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2014年9月30日 (火)

ルイス•マンフォード『褐色の三十年』

   きっと人生にもそんな時があるでしょう。雷鳴に打たれたような、衝撃と失意と無気力の後で、かつての希望に満ちた日々を恨めしく思い返しながら、自暴自棄になり切ってしまった時が。覚醒が訪れるのはその瞬間で、その瞬間以外に人が成長する時はありません。アメリカの近代史にそれを探すなら、1861-1865年の南北戦争でしょう。北部も南部も、ちょっと懲らしめてやる、くらいの気持ちで始まったこの戦争は5年にわたり、62万人の死者(そのほとんどは若者)を出して終結しました。この史上類を見ないむごたらしい殺し合いの後には、異郷で斃れ、葬られずに打ち捨てられた若者の死体が累々と残されていたのです。家族の悲痛な思いはもちろんのこと、国全体がむなしさの色合いを帯びました。戦場の勇敢さや英雄的行為への憧れといったものは突然断ち切られ、安易なスローガンで戦争に巻き込まれた人々は、騙され馬鹿にされたと感じました。奴隷は解放された、国の体制は守られた、だからどうしたって言うんだ? 街から、突然、若者の姿が消え、生き残った者は50歳の人間が言うようなことをつぶやきます。戦後数年のうちにダンテ『神曲』の新しい翻訳が三種も出版されたことは象徴的です。父親と同じ超越主義者のサークルにいたルイザ•メイ•オルコットは、気高い愛国主義的献身という観念が、彼女の目撃した戦場の惨場の前に潰えていくのを感じました。

   この変化をあまねく告げる鐘となったものが1865年のリンカーンの死です。「娼婦でさえ悲しみの中では淑女に見える」と詩人のエドマンド•クラレンス•ステッドマンは書きました。モラルが崩壊し、心が荒み、戦場の英雄が泥棒やゴロツキに転化する無様な街で、喪を示す黒と白の花があふれました。「こんな姿は見たこともなければ、想像したこともなかった。圧倒的な、陰鬱な崇高さだった」。花々は間もなく泥にまみれ、くすんでいったが、その色調だけは残りました。コロニアル風の明るい色調は消え、ニューヨークの集合住宅を覆っていたブラウンストーンが幅をきかせました。ローズウッドやマホガニーに替わって暗色のウォールナットの家具が登場し、出窓から差し込む光を暗い色調に変えてしまうのです。しかし、何よりも時代の色合いを決めたのは、感性豊かな精神の持ち主がかけた褐色の色眼鏡でした。あきらめてしまった野心、潰えた希望、あの1830ー1850年の「黄金の日」に、エマソン、ホイットマン、ソロー、メルヴィル、ホーソーンらが書き上げた新しい思想の息吹と人間的冒険へと向かう新鮮な感覚は、花が散るように南北戦争後のくすんだ茶色、暗いチョコレート色、黒と見まがうばかりの焦茶色に溶けて消えて行きました。カトリックの疫病よけの祭礼衣装である白い三角頭巾を身につけたテロ集団が生まれたのはこの頃です。このような病的な想像力は、普通は想像力のレベルで抑制されているのですが、それがクー•クラックス•クランという名の下に黒人を襲い始めたのです。何という時代が始まったのでしょうか。

   ルイス•マンフォード『褐色の30年ーアメリカ近代芸術の黎明』(富岡義人訳•鹿島出版会)は1865ー1895の30年を、風景、建築、美術、文学を通して見た出色の文化史です。普通はこの時代はGilded Age(金ピカ時代)として教科書にも載っていますが、それは確かにその通りで、南北戦争後の急激な経済発展、鉄鋼業の成功と億万長者の出現、狂乱と言ってよい投機熱、腐敗した政府と欲得だらけの実業家、といった世相は、1830ー1850年のエマソン風の「ボロは着てても心は錦」という時代風潮と正反対のものでした。外側だけ豊かになった金メッキの時代、汚職が横行し、鉄道利権がただ同然で金持ちや議員に分配され、過酷に扱われた労働者や膨大な下層階級の出現は史上最悪と言われる世紀転換期のアメリカの労働争議につながって行くのです。

   文化的には「葬られたルネサンス」と言われたこの時代に、しかしマンフォードは肯定的な、いやむしろ決定的な芸術•文化への萌芽を見出します。そして、エマソン、ソロー、ホイットマンの精神は、この時代にこそ実り、輝き出したとさえ書いています。鋭い視点であり、それを例証するために、彼は造園、土木、建築、美術などの達成を描いて行くのですが、その前に、この時代にまったく低調であると言われた文学に読者の足を止めさせます。

  「降り積もった枯葉の下には、褐色の三十年の肥沃な土壌があった。そこから一本の春の花が芽吹いた。その小さな芽は、積み重なった枯葉の間から顔をのぞかせたものの、それと気づかれないうちに、光と空気に触れる間もなく枯れてしまったのだ。この芽吹きは大地のものだったのか? 然り。確かにその大地のものだった。このつつましやかな花こそエミリー•ディッキンソンであった。彼女の創作活動は褐色の三十年のほぼ全期間にわたっていたが、当時、彼女の人生と言葉を知ったのは、ほんの一握りの人びとに過ぎなかった。」

   「ある見方からすれば、エミリー•ディッキンソンはアムハーストの高い生垣の背後に隠れ、時代の埒外にいたと言えるだろう。だが、見方を変えれば、彼女ほどその経験を深く完全に表現できた者は誰もいなかったということでもあるのだ。彼女の(恋人との)別離は、ふたたび会いまみえることはないと知りながら恋人を戦地に送り出した当時の多くの少女たちと、本質的違いがあるのだろうか? エミリー•ディッキンソンの詩には、ビアスの戦記物よりも、ホイットマンの『ドラム•タップス』よりも、南北戦争中のアメリカの経験がずっと強く寄り添っているのだ。、、、彼女は、静かに、人知れず、置かれた境遇とのすべての交渉を断絶しつつ、褐色の三十年の人生が抱えていた心の悲劇を感受し表明した。悲しみが隠されていたからと言って、あるいは苦悩の深みにあえて直面しようとする人がごく少なかったからと言って、こうした感情がありそうにないとか、広く蔓延していなかったのではないか、ということにはならない。この感情から絶縁できた者は誰もいなかった。苦悩も祝福も風に乗って吹き渡った。ある時代の歴史を組み立てるための材料は、世慣れた人からと同じくらい、世捨て人からも汲み取ることができる。たぶん世捨て人の方がよいのだろう。世捨て人には考える時間も、書き留める時間もあるのだから。」

   ところで、エミリー•ディッキンソンは、私にとって、こういう人に出会いたいと思う女性の一人です。ある手紙で彼女はこう書いています。「私の友についてお訊ねですね。まず丘、日没、それと、父が買ってくれた、私と同じくらい大きい犬です。みんな人間より上です。知っていても、語りませんから。それに真昼の池で立つ音も、私のピアノに優ります」(『ボルヘスの北アメリカ文学講義』柴田元幸訳•国書刊行会)また、ある手紙では、「私の肖像はありませんが、私はミソサザイのように小柄で、髪は栗のイガのように太いです。目はお客さまが残していったグラスの中のシェリー酒の色です」(同上)。死後の世界についての彼女の考えも、私とよく似ています。「楽園は好きではないーそこは日曜だからーいつまでたっても」(ドゥルー•ギルビン•ファウスト『戦死とアメリカ』黒沢眞理子訳•彩流社より引用)

   〈風景の刷新〉
    ヘンリー•ディビッド•ソロー(1817ー1862)は生前に2冊の本、『ウォールデン』と『コンコード川とメリマック川での一週間』を出しただけでしたが、その影響が及び始めるのは褐色の三十年に至ってからでした。彼が自然の中の生活を始めたのは、野生生物の生態の研究のためではありません。高度に文明化された意識を持つ人間に、自然は何を与えてくれるかを自らの五感で確かめるためです。これは荒野で開拓者たちが繰り広げていた実利的な探検とは正反対のことでした。茸狩りに例えると分かりやすいでしょう。その楽しさに夢中になると、風景の他の部分などまったく眼に入らなくなり、茸の白い傘だけを探し求めることになります。アメリカの入植というのは、いわば壮大な茸狩りでした。都市の適地、炭鉱、金鉱、油田といった単一対象の探索だったのです。かたやソローは自然環境の全体性に意識を集中し、自然それ自体を楽しむのです。南北戦争前には、ソローの思想ははまだ漠然としか人々の意識の中に入って来ませんでした。しかし、内戦とその後の世界は、民主主義政治への期待、ブルジョア的自由への期待、平等な機会への期待、私有財産制のもとでの成功という観念を、多くの人にとって、陳腐で絶望的なものにしてしまったのです。人々は休みない競争、向こう見ずな生命の浪費、天然資源の破壊というものを危惧し始めたのです。ソローという人物を通じ、ついにアメリカ人の意識の中に風景というものが入って来ました。

   私がソローをはじめて読んだのは高校生の時です。英文読解の勉強のため、10歳離れた長兄とCivil Disobedience(市民の不服従)を一緒に読んだのですが、長兄がなぜその本を選んだのかはわかりません。おそらく、その中の、「多数決という暴力的支配が成り立つなら、なぜ我々は良心を持っているのか、良心なぞ無くてもよいのではないか」というような一節に表れた自恃の念に彼自ら惹かれていたのでしょう。私自身はとくに何も感ずることなく、また大学で『ウォールデン』を読んだ時も、唐突な引用の多い文に辟易した思い出しかありませんでした。ところが、長い人生経験をつんでくると、ソローのような自らの中から発する思想はドイツ観念論の構築的な思想より、ある意味で強靭なのではないかと思いはじめました。また、リーマンショックにみられるアメリカ的豊かさの脆弱さは、ソローがあれほど強調していた self reliance の精神を忘れ去ったことにもあると思われました。

   ソローと並んで、アメリカ精神に強烈な自然保全の意識を植えつけたのはジョージ•パーキンス•マーシュ(1801〜1882)です。「ほとんど奇跡というべき人物」とマンフォードは書いています。バーモント州に生まれ、最初は弁護士として活動し、その後連邦議会議員になり、コンスタンチノープルの弁理公使、そしてリンカーンの指名によりイタリア公使としてその職のまま生涯を終えました。ヨーロッパの6ヶ国語をマスターし、アラビア、ペルシャ語も解し、英語学の本で有名になったマーシュは、しかし、その地理学の書『人間と自然』(1864)でアメリカの自然保護政策に大きな影響を与えたのです。モンテスキューやフンボルトやリッターらの地理学と違って、マーシュは、はじめて人間を自然の阻害要因として、つまり自然の調和を乱すものとして捉えました。この本の影響は国内外に及び、人間と自然の協調関係を探ることはそれ以後地理学の常識となりました。この書はアメリカ公共政策の大きな転換を促し、1872年のアメリカ最初の国立公園、イエローストーン国立公園の設立につながりました。マーシュは、野生の空間を人間の魂のふるさととして、野生生物のすみかとして保全することを主張したソローの思想に理論的バックボーンを提供したのです。

   最高のアメリカ流教育というものは、ヨーロッパのようなアカデミックな研鑽によるものではありません。各地を放浪し、いろんな体験を積み重ね、たくさんの人に会い、多くの書物に親しみ、苦労して生計を立てながら学んでいくものです。その体験が散発的で芯に欠けていたら、ろくでもないインテリになってしまうのですが、もし見事に統合されている場合は、ルネサンスの天才に比すべき人物を作り上げます。その一人が、フレデリック•ロー•オルムステッド(1822〜1903)でした。オルムステッドは、ニューヨークのセントラルパークからサンフランシスコのゴールデンゲートパークまで、アメリカの至る所に公園を作りました。彼は「私たちの巨大で多岐にわたる民主主義的生活に表現を与え、その必要に応える偉大な作品を作り上げた、アメリカの芸術家の中でも随一の人物」(チャールズ•エリオット•ノートン)と評されています。

   この傑出した人物は、ハートフォードの商人の息子として生まれ、一時イエール大学で講義を受けたが、若き彼の教育で最も重要な意味を持ったのは父との三度にわたる巡礼の旅でした。それぞれ千マイル以上、馬や乗合馬車や運河船に乗ってアメリカ中を旅したのです。こうして風景そのものが彼の心に最初の大きな印象として刻印されました。自然を賛美したエマソンやラスキンを愛読し、水夫と一緒に遠く中国広東まで渡り、ヨーロッパを巡り、アメリカの奴隷州やメキシコ、カリフォルニアを旅し、出版業を経験した後、彼はステーテン島サウスサイドの農場に居を定めました。オルムステッドは、そこで、田舎風の生活に完全に浸り、小麦や果物や花の栽培で賞をとり、イギリスの機械を導入し、地域の道路改良や排水孔の整備を行い、近隣の人々の農業の相談にも応じました。アメリカ中を旅した経験が、納屋や菜園や家畜小屋の配置、美しい見晴らし台の設定などについての人々の巧妙さを彼に教えたのです。このようにオルムステッドの教養は、遠大な旅行、鋭い観察、知的な読書、実際的な農業の組み合わせによって培われました。やがて彼の評判は近隣を越えて高まり、彼のセントラル•パークの設計案が賞をとり、実際に造園を開始した時、オルムステッドはそれに十分ふさわしい研鑽と経験を身につけていたのです。

   セントラル•パークが1851年に計画された時、アメリカには公園と呼べるものはありませんでした。公園などヨーロッパの貴族主義の象徴であり、資金の浪費であり、投機対象になり得る土地の無駄遣いだと思われていたのです。楽しみのための土地など、無法者やギャングの溜まり場となり、善良な人間は誰も近寄らないだろうと主張する者もいました。ランドスケープ•アーキテクチャーとしてオルムステッドは、公園を政争の具に使用しようとする政治家と闘い、横柄で頑固な役人たちと闘い、植えた樹木を無法な破壊者から守り、800エーカーの広大な用地に、1876年、都市の社会的•衛生的基盤としての完全な公園のプログラムを実現させました。

   オルムステッドと共同の英国人設計者カルベール•ヴォーがコンテストで提唱したのは「緑の芝生計画」でした。オルムステッドは、アメリカ人が元来ロマンティックで自然を好むことを熟知していて、公園をひとつの単純な目的「深呼吸し、足を伸ばし、芝生の上で日なたぼっこをすること」に限定しました。博物館も、スケートリンクも、劇場も、露店も、いかなる「文明的生活」の装備も必要ない、風景公園それ自体が存在の権利を有していて、それはデザイナーの周到な努力によって実現される、この観念は今では自明に見えますが、当時は全く認められていていませんでした。

   セントラル•パークの設計には二つの特長があります。ひとつは、自然地形の尊重で、元からあった湖や池を巧みに利用し、高密度の植林で都会的な自然を作り出しました。第二は、歩道と車道の完全な分離で、人々に騒音のないくつろぎと安らぎの空間を生み出すことに成功しました。オルムステッドの理念は彼の弟子チャールズ•エリオット•ジュニアに引き継がれ、この時代のもう一つの名作、ボストンのメトロポリタン•パークとして身を結びました。この二人は、土地と都市の関わりを刷新し、何よりアメリカ人に、空気、太陽光、植生、成長の意識を植え付けたのです。

   十九世紀の工学技術の最高傑作、「アメリカにつくられたあらゆる種類の構造物の中でも、最も満足できる作品」であるニューヨークのブルックリン橋は、二人の人物、ジョン•A•ローブリングと息子のワシントン•ローブリング、それに2人を支え、危険と困難を分かち合った労働者たちの達成によるものです。ジョン•A•ローブリング(1806〜1869)はドイツに生まれ、ベルリンの王立工科大学で建築学、水力学、橋梁建設学の学位を得、25歳でアメリカに移住し、そこでワイヤーロープの工場を興しました。彼は自らの工場のあらゆる機械をすべて設計しました。鉄鋼の飛躍的増産による価格の低下がワイヤーロープの需要に拍車をかけました。このワイヤーロープがなければ、懸垂橋はもちろん、摩天楼のエレベーターも不可能となっていたでしょう。ローブリングは恐ろしく厳格で不倒の意志を持った男で、面会時間が5分遅れただけでもうその人とは会わなかったと言われています。マンハッタンとロングアイランドを結んでイーストリバーを渡るフェリーボートが凍結で運行不能になった時、この川を結ぶ橋の建設が持ち出され、すぐにジョン•A•ローブリングの名が上がりました。全長1830メートル、二つの塔を結ぶスパンが480メートルという、それまでどこにも建設されたことのない規模の橋は、学識、経験、人間的な力、はかりしれない影響力でローブリング以外の人選は考えられなかったのです。しかし、ローブリングは、設計図を完成させてすぐにフェリー事故の際の傷による破傷風で亡くなりました。

   ローブリングの後を継いで偉業を成し遂げたのは、息子のワシントン•ローブリング(1837〜1926)です。彼は1957年にレンセラー工科大学を卒業し、アレゲニー懸垂橋で父の事業を助け、南北戦争では北軍のために懸垂橋を建設しました。ワシントンは父と同様強靭堅固な意志を持って仕事に打ち込みました。水中に沈めるケーソンで火災が起こった時、彼は作業員を助けるために誰よりも長く高圧下のケーソンに留まっていたため減圧症になってしまいます(高圧下で血液に溶け込んだ窒素などが、減圧に伴い発砲して血管を塞ぎ麻痺に至る)。半身不随になった彼は、妻の助けを借り、自宅から望遠鏡で橋の工事を監視し、手紙で細かに指示を送りました。

   1883年、14年にわたる闘いは終わり、直径40センチの巨大なロープと蜘蛛の巣のような無数のロープに吊り下げられたブルックリン橋は遂に開通しました。同じ鉄による歴史的建設のライヴァル、エッフェル塔より6年早い完成であり、エッフェル塔が下部にアールヌーボーの装飾を施しているのと反対にブルックリン橋は一切の装飾を排し、ただ構造と機能の美しさのみで成り立っています。エッフェル塔の繊細な美しさに対して、ブルックリン橋には禁欲的な美があります。その後、ワシントン•ローブリングは数々の橋を作りましたが、ブルックリン橋の時の熱意と闘志は戻らず、晩年は鉱物の収集に凝り、人生を冷笑的に見るようになったということです。

〈近代建築に向かって〉
    南北戦争が終わってしばらくの間まで、アメリカの建築は長期の沈滞にありました。安普請の構造、退屈な擬古主義、偽りのロマンティシズムがこの世を謳歌していたのです。新しい素材、鋳鉄とガラスは、それを十全に使いこなす建築家が存在せず、むなしくオフィスやデパートのファサードを飾るだけでした。都会の家賃はますます高くなり、裕福な館の裏側にはスラム街とも言える粗末な小住宅が立ち並び始めました。地方も状況は変わらず、カタログ販売で北にも南の暑い都市にも同じような地方性を無視した住宅が建てられました。しかし、1880年代になって状況は一変します。大通りや公園がデザインされ、建築が都市開発と再び結合したのです。また、1880年から1895年にかけて、アメリカの建築グループの作品を通じて、近代建築の任務と方法が明確化されて行きました。このような協調した一貫的な取り組みは、ヨーロッパの同様のグループに十年も先行していたということです。

   この変化の背後には、アメリカ建築界の巨人、ヘンリー•ホブソン•リチャードソン(1838〜1886)がいます。彼はまったくの空白よりもさらに悪い混乱状態の中から、新たな建築の始まりをほとんど片手で成し遂げた建築家でした。リチャードソンは、ハーヴァード大学を出てから単身フランスに渡り、ボザールで学びながら建築家ラブルーストのもとで働きました。リチャードソンは南フランスのロマネスク様式に惹かれて、半円形のアーチ、ロマンティックな塔、荒い石組はリチャードソン様式と言われる彼のトレードマークとなりました。しかし、1880年以前のリチャードソンは、まだ当時の建築家たちと同じ水準にいたのです。彼らは荘重な建物を重んじ、刷新を望む一方で古典的調和と比例を捨てず、およそ生活というものを抑圧する方向に向かっていました。完全に様式依存的な建築家のあり方であり、金持ちの邸宅や公共建築物に精力を注ぎ、工場や オフィスや鉄道駅などのデザインは価値がないものとして工務店まかせにしていたのです。

   1881年、リチャードソンがボストン•オルバニー鉄道の九つの駅舎を作り始めた時、彼は、はじめて、建築の新しい認識へと向かう軌道にしっかり載ったのです。その当時、郊外鉄道駅の本性に見合う根源的解決策などどこを探しても見つかりませんでした。彼は設計に当たって、虚心坦懐、その構造物に立ち向かい、それを作る要素と格闘しました。彼はプラットホームの上屋を強調し、待合室に太陽光を最大限にとり入れようと大胆な努力を費やしました。このことは同じ頃に作り始めた各地の公共図書館の設計にも表れています。書架に当たる柔らかな陽射し、窓は外面からではなく、内部空間の居心地の良さによって決定されます。これは比例のみを重んじたルネサンス様式への訣別でした。しかも、どの建造物にも、リチャードソンのトレードマークである半円形のアーチ、ロマンティックな塔、荒い石造りのどれか、時には全てが用いられており、ここに機能性とロマネスクがみごとに結合したのです。

   1885年にリチャードソンはシカゴのマーシャルフィールズの商業施設を建設します。死の一年前に竣工した彼の最高傑作と言われるこの建物は、ルイス•ヘンリー•サリヴァンに強烈な印象を与えました。
   「直方体の茶色の量塊、その堂々たる立ち姿は、まさに商業の記念碑、組織された商業精神の記念碑、時代の力と進歩の記念碑、強靭かつ豊かな個性と、力にあふれる人格の記念碑である。」「精神的な意味において、この建物は、ある心のしるしとして建っている。種々の現代的な要因をうまく処理し、味わい尽くし、吸収し尽くし、そして、それに大いなる力強い個性を刻みこみながら、さらなる力を与えおおせるだけの、おおらかさと勇気を備えた心だ。美術的な意味において、この建物は、ある人物の登場を告げている。自らの言葉をどう選べばいいか十分にわかった者、語るべきことを持った者、そして、それを表現豊かで、直裁的で、幅広く、単純な精神から、あふれんばかりに語り得る者が、ついにこの世に現れたのだ。」

    リチャードソンは根っからの建築家でした。理想的な建築家といってもよいでしょう。巨大な体躯を黄色いベストに包み、エネルギーにあふれ、シャンパンをたらふく飲み、美食を愛し、役人、資本家、ビジネスマン達とも共通基盤を素早く作り上げました。また、仕事に忠実、仲間の職人たちに敬意を持って接し、建物の細部にまで彼の存在を刻みこみました。その鋭い色彩感覚、装飾芸術に対する趣味の良さは、セント•ガウデンズ(彫刻家)、ラ•ファージ(ステンドグラス製作者)、W.M.ハント(画家)といったその時代が与えた最良の芸術家を認識し利用できる力を与えたのです。惜しくも、彼は、鉄骨建築の時代の来る前に47歳で腎疾患の一種であるブライト病で亡くなりました。

   「リチャードソンは約束の地を見据えていた。時代の最も影響ある建築家として、成功の果実を味わったものの、その地に踏み込むには至らなかった。その実現はシカゴの建築家たち、とりわけその三名に委ねられた。」その三名とは、ジョン•ルート、ルイス•ヘンリー•サリヴァン、そしてフランク•ロイド•ライトです。19世紀後半のシカゴは、世界最大の木材の集散地、世界有数の豚•牛の食肉製造場として活況を呈していました。そこに1871年の19世紀米国最大の災害であるシカゴ大火が襲います。市をなめ尽くした大火の後、市は木造建築を禁止し、需要を見込んで国中から建築家が集結しました。ここに建築におけるシカゴ派が生まれ、そのリーダーの一人がジョン•ルート(1950〜1991)でした。教会のオルガン奏者を務めるほどの音楽的才能に恵まれ、才気煥発、気鋭の建築家として、ルートはシカゴの著名な人間の一人となりました。リチャードソンのマーシャル•フィールズビルに影響を受け、彼は鉄骨でなく組積構造の完成型といえる15階のモナドノック•ビルディングを建設します。やがて、1893年のシカゴ万博を任されますが、その計画を立てる間なく、1891年に肺炎でわずか41歳で他界します。

   リチャードソンとルートがあと15年長く生きていたなら、結果は違っていたでしょう。最初の一人が先導し、同じ精神を持った二人が軍団を結成して、彼らの前に立ちはだかる鈍感さと鈍重さを打ち破り、フランク•ロイド•ライトまでバトンを引き継いだに違いありません。しかし、1891年、三人のうちで残されたのは、たった一人になってしまいました。その人物こそルイス•ヘンリー•サリヴァン(1856〜1924)です。彼はたいへんな秀才で、17歳でマサチューセッツ工科大学を 出、パリのボザールを18歳で出、すぐにシカゴで仕事を始め、25歳にしてアドラーと共同で自分の事務所を持ちました。まさに順風満帆で、彼の事務所はバーナム&ルートの事務所とともにシカゴの花形建築事務所となりました。

   「ルイス•サリヴァン、その名は今や一つのシンボルとなった。もはや呪文の域に達していると思えるほどだ。私はこの人物に畏敬の念を持って接近した。彼の心の激しい率直さと、生活と芸術に対する情熱的な肯定に対しては、敵対する者でさえ尊敬の気持ちを持ったほどだ」とマンフォードは書いています。サリヴァンの『ある理念の自叙伝』(邦訳の題は『サリヴァン自伝』鹿島出版界)は、たいへん面白い本で、とくに、パリでのボザールの受験のための猛勉強、シカゴに戻ってからのジョン•ルートとの交流などは一読忘れ難い印象を残します。しかし、サリヴァンの突出した性格は、他との軋轢を増し、共同経営者のダンクマー•アドラーと別れた後は、一気に零落し、晩年は昔のよしみで回された田舎の銀行の設計などをしながら、最期はシカゴの安ホテルで淋しく亡くなりました。葬式代を出したのは彼の下で6年間ドラフトマン(図面引き)を務め、終生サリヴァンを尊敬していたフランク•ロイド•ライトでした。

   ライトの活躍はあまりに著名であり、もはや説明することもないでしょう。『褐色の三十年』は、その後、ジョージ•フラー、トーマス•イーキンズ、メアリー•カサット、アルバート•ピンカム•ライダーら19世紀後半の偉大な画家について筆が及びますが、いや、さすがに疲れてきました。最後にルイス•マンフォードに言及して筆を置きましょう。実は、最初、エドワード•ベラミーの『顧みれば』を読んで面白かったので、以前読んだマンフォードの処女作『ユートピアの系譜』について書こうと思ったのですが、昔の読書ノートが見当たりません。仕方なく、マンフォードの一番新しい翻訳『褐色の三十年』について書くことにしたのですが、その理由はこの本が難解な文化哲学の本ではなく、アメリカのわずか30年の期間のわかりやすい解説本であったからです。マンフォードの本は、芸術、技術、文化、都市などの根源的な考察に満ちていて、一般には硬すぎてあまり売れませんでした。学歴というものがなく、在野の研究者として過ごしたマンフォードにとって、1ヶ月先の生活の保証さえ確かではありませんでした。木原武一『ルイス•マンフォード』(鹿島出版会)によれば、彼は26歳で結婚したものの、その後20年間というもの数ヶ月先の収入が保証されたことは一度もなかったということです。『権力のペンタゴン』が彼の書としては珍しく売り上げがよく、「これでようやく経済的に安定できるようになった」と親しい友人への手紙で書いた時、彼は何と75歳になっていました。

  彼の祖父はニューヨークでウエイターをしていて、引退後、孫のルイスを連れてマンハッタン中を散歩していました。父親はユダヤ系のイギリス人ですが、ルイスの母親を捨ててカナダに逃げてしまいます。母親は家政婦をしながらルイスを育てました。ルイスが私生児であることを告げたのは彼が40歳を過ぎたときでした。「レオナルド・ダ・ヴィンチやエラスムスの仲間になれた。」心優しいルイスは、そう言って母親を元気づけたということです。

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リチャードソンの図書館建築の傑作、トーマス・クレイン公共図書館(1880)。リチャードソン・ロマネスクといわれる荒い石組み、半円形のアーチ、ロマンティックな塔がすべて揃っています。リチャードソンは、このレベルの美しい図書館をたくさん造りました。

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リチャードソンの最高傑作、シカゴのマーシャル・フィールズ百貨店。鉄骨ではなく組積式。半円のアーチはリチャードソンのトレードマーク。この建物はジョン・ルートやルイス・ヘンリー・サリヴァンなど多くの建築家に影響を与えました。これ以上美しいビルを想像することは難しいでしょう。惜しくも1930年に解体されました。

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ジョン・ルートの名作、シカゴのモノドノック・ビルディング(1889)。組積式では限界の15階建てを実現しました。一階の壁の厚さは4.7メートル。採光を多くするためにエッジの窓は丸く膨らんでいます。装飾を一切廃した設計は当時としては画期的なもの。

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サリヴァンは高層建築の父ともいわれています。シカゴのカーソン・ピリー・スコット・ストア(1889)は時代の遥か先を行っていました。鉄骨式のため窓を横長に大きく採ることができ、躍動感と明るさを与えています。1階と2階の上部にあるオリジナルの装飾模様はサリヴァン独特のもの。

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マンフォードの原書。初版は1931年。

 

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