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2014年6月16日 (月)

教育について


Kさん
先日、お手紙を頂いてから、なかなか返事が書けませんでした。でも、ともかく、この四月から都内の学校で再び教壇に立たれることを知ってとても嬉しく思います。お体の具合を見ながら週一回の臨時教員ということですが、いいではありませんか、調子に乗ったら昔のように元気全開で働けるようになると思います。
ところで、Kさん、あなたは恐ろしい質問を私になさいました。あなたが療養中に考えていた教育についての問題、とりわけ体罰やいじめについて私がどう思っているか問い質したいと。なんと、あなたは私が学校や教員というものをどんなに憎んでいるか、学校の門の前を通り過ぎることさえ忌み嫌っていることをご承知だったではありませんか。私には、Kさん、あなたもそうであるような教員や生徒たちを尊敬の眼差しで見上げることしかできないのです。よく、そのような精神の牢獄に耐えられるな、という。むろん、あなたはそれに耐えられず、体を壊されてしまったのですが。そういう私には、体罰やいじめなどは、あって当然、なければ納得できないし、「いじめ•体罰撲滅宣言」をしている学校などジェットコースターやお化け屋敷のない遊園地、いやライオンやゾウのいない動物園のようで何の魅力もありません。

まず体罰についてですが、私はゴア•ヴィダールの次の言葉に全く同意するのです。彼は「体罰に賛成ですか?」という雑誌記者の質問に「もちろん賛成だ。ただし、完全に同意した成人同士の間でだけという条件付きだが」と答えています。たいへん深い答えであり、ピリピ書の数節にも匹敵する純粋さを有していると思います。老婆心ながら解説しますと、つまり、体罰はその教育的要素のゆえに性的快楽を高める不可欠の要素であるが、それを教育現場で実施する無粋な輩は地獄に堕ちろ、ということなのです。

ここで、私自身が20代のおそらく前半あたりに繰り返し見た夢についてお話ししましょう。というのも、アンドレ•ブルトンが、夢分析のフロイトについて、自分自身の夢を分析しないのは誠実ではないというようなことを何処かで書いているからです。夢の中で、小学生の私は、他に誰もいない教室で、担任の若い女の先生に叱られています。思い出せる状況は、休み時間に校庭で同級生たちと遊んでいた私が教室に忘れた遊び道具(独楽と紐のような)を取りに行くと、一人で教壇で仕事をしていた女教師に呼び止められる、といったものです(他にも似たような、もっと奇天烈な設定もありますが)。教師は私に近づくと甲高い声で叫び、足で壁を蹴ったり、机の上の絵の具箱を叩き落としたりします。だいたいそれだけの夢なのですが、不思議なことに、いつも夢の中では女教師はレオタードのようなピッチリしたタイツを着ているのです。この夢は26歳で命に関わるほどの大病を経験して以来ばったり見なくなってしまいました。

私はこの夢を次のように分析したのです。小学生の頃、私は「優等生」だった。勉強が出来て、クラスの人気者で、学級委員の選挙ではいつも楽々当選していた。むろん、教師に叱られることなど一度もなかった。しかし、私の密かな願望は担任の若い女教師に激しく叱られることだったのだ。というのも本物の私は外見ばかり気にかけ、人からよく思われることだけを思っている自分勝手な人間だったからである。いつかその仮面が剥がれ、正体が知られることを恐れながら、いっそ暴かれ、辱められたいという願いが奇怪な夢に結実したに違いない、と。

実は、壮年になり、ささやかな事業が軌道に乗って、いっぱしの成功らしきものを手に入れた、いわば自分の人生の頂点にいた頃、それと似たような夢をまた見るようになったのです。ほとんど毎晩のように、崖の上や、急な坂道や、狭い城壁の上に登って、降りられなくなって恐怖と後悔に苛まれるという夢です。ここでは叱ってくれる人物が不在な分、冷たい無機質の気分が支配していたように思います。その後、再び体を壊し、仕事をすべて清算し、一人ぼっちになり、昔の貧乏な自分に戻った時、悪夢は氷が溶けるように消えてなくなりました。

いや話が大分それてしまっています。つまり、私には体罰というものは性的含意を抜きにしては考えられないのです。体罰が性的不満足の人間の代替行為というわけではなく、体罰そのものが重要な性的行為なのです。私は、中学校の時の体育の若い男の教師を思い出します。そもそも、教師になろうとする人間は、若年にして人を教え導くという不遜な望みを持つことから、性格の歪んだ人間が多いのですが、体育教師というのはさらにそれに低脳というファクターも付け加えられています。この体育教師が校長の意を体した暴力要員であったことは明白で、 いかなる状況でもまず生徒を殴りつけることから始めるのです。殴る前に必ず顔は紅潮し、唇が斜めにヒクヒク開いて、殴りつけた後ではきまって体操着の袖で口のよだれを拭くのです。

また、ここに暴力というものの卑小さもあるのです。暴力教師は、間違いなく、反撃の恐れのない弱い生徒しか殴らないし、暴力生徒も非力な教師にしか暴力をふるいません。私は、東京の下町の生徒数の多い、不良がたくさんいる中学校に通っていました。不良生徒というのは学年に何人もいて、それぞれ小学校時代から悪名を馳せている連中です。ところで、彼らは、たいてい小規模な集団を作って、時折弱い生徒を呼び出して脅したり金銭を巻き上げたりしているのですが、不思議なことに、不良同士で雌雄を決する喧嘩というのは絶対に起こりません。暴力の匂いを散らつかせながら、自らのテリトリーで隠微な権力を誇示しているだけなのです。少年漫画誌に連載され映画にもなるような『ろくでなしブルース』や『クローズ』などの喧嘩漫画とは大違いです。これらの登場人物は、何よりも強いものに憧れ、ボロクズのように打ち倒されながらもより強い敵に立ち向かい、喧嘩道の頂点を目指して駆け上がります。そこに描かれた崇高さは、卑劣なことへの憎しみと敗者への敬意によく表れていますが、これこそ少年達が共感する所以なのです。子供たちはそのような崇高さが現実にはあり得ないことをよく知っているのです。


暴力に潜む性的含意を理解するために、私は常々サド•マゾヒズムの考えが重要なのではないかと思うことがあります。フランスにおけるサド•マゾヒズムの女神とも言うべきカトリーヌ•ロブ=グリエのことは日本では名前すら上がりませんが、彼女が行う性的儀式(彼女は決して報酬を受け取らないのですが)には唯一裏表のない純粋さがあるように思われるのです。サド•マゾヒズムというと、一般には、一人の人間の中にサディズムとマゾヒズムが共存することを指すように説明されますが、確かにその通りなのですが、その根底には初期のフロイトが理解していたように、サディズム的行為を冒しながら、実は対象に同化してマゾヒズム的快楽を得ること、同様に、マゾヒズム的行為を受けながら、心底ではサディズム的行為に陶酔するということがあります。苦しみの中に快楽を見、悦楽のさ中に苦痛を思う、というのは幾分倒錯的に思われるが、この世界が多くの矛盾を抱えているのも人間性質に内在する相反し、かつ共鳴するこの二つの力ゆえだと思うのです。

Kさん、どうも話がそれてばかりいますが、体罰もいじめも、実は同じ根っこを持っていて、それはともに学校教育という肥溜めからその肥料を吸い取っているところにあるのです。子供はいじめの天才とも言ってよいのですが、サド•マゾヒズムの典型が最もよく表れているのは、まさに学校におけるいじめなのです。子供は人間にとって何がいちばん屈辱的なことであるかをよく知っており、それを自身が罰を受けないぎりぎりのところで容赦なく発揮することができるのです。大胆さと慎重さを兼ね備えた彼らの悪事以上に卑劣なものを見つけるのは困難なことなのですが、彼らがただ獲物をむさぼり殺す昆虫と違うのは、そのサド•マゾヒズム的心性ゆえなのです。彼らは、自分たちが行うことの非情さをよく知っていて、また、何かのきっかけで、自分が犠牲者に転落する可能性も考慮に入れています。ここに権力の薄暗い匂いがつきまとってくるのです。いじめは言葉を変えてみれば、権力に脅かされたサド•マゾヒズムの発現と言ってよいでしょう。

ずっと昔のことですが、都会の中のある学習塾で、五人だけの中学生のクラスを担当したことがあります。男子三人、女子二人の構成ですが、学期のはじめは特に問題なく普通に授業は進みました。男子三人は仲が良くいつもふざけあっています。女子は二人とも静かですが、この二人は一言も話さず、冷戦期の米ソのように対立し合っているように見えました。二人とも全く違った雰囲気の少女たちで、一方は明るい笑顔の軽薄そうな女の子で、もう一方は真面目で凛とした冷たい感じの子でした。この二人はいつも離れて座り、挨拶どころか視線を交わすことさえありません。ところが、2ヶ月ほどしたある日、私が来週から新入生の女の子がこのクラスに入ることになったと告げた途端、二人の関係は劇的に変わりました。なんと、隣り合わせで並んで座り、にこやかに楽しそうに話し始めたのです。私はここに、子供たちの権力に対する敏感なセンサーを見ました。バランスが保たれている世界に一石が投じられたのです。新入生の参加によって、自分がマイノリティに落とされることへの慎重な防御です。どんな子が来るかわからないが、とりあえず多数派に属しておいて、状況に応じて乗り換えることも考慮に入れているのです。

話の顛末は簡単なことでした。翌週から来塾した新入生は、博多から父親の短期の出張に同行してきた女の子で、金ボタンのダブルの紺ブレにはだけたシャツ、大人っぽい長い黒髪と大きな瞳で、教室に入るなり他の生徒を圧した雰囲気を持っていました。「多数派」の二人を合わせても敵うどころか石ころのように黙殺されるだけでした。軽薄な方の子が、思い切って話しかけてみても、慇懃無礼に返されるだけでとりつく島もありません。秋になり、その生徒が福岡に帰ってしまうと、二人の関係はまた元のように疎遠になりました。

権力についての鋭敏な感覚は学校生活において極度に発達します。多数派に属するか、硬い殻を被った甲虫のように他者を常に威圧するか、あるいは(カネッティがカフカについて書いていたような)自らをできるだけ微小なものにまで縮めて、権力の嵐を片隅に隠れてやり過ごすか。この最後の型は、これまでにも多く見られたし、実際無口で学校生活で一言も話さない無表情な生徒は、事実は繊細な感受性の持主でその敏感な防御本能ゆえに引きこもってしまうのですが、ここ最近はスマホ等の普及で、もっとも攻撃的な人種に変貌したりもするのです。子供の頃からネット社会のただ中で生きていると、目に見える学校内の力関係とは別にネット空間の権力機構というものが肌身を通じて身にしみています。ところで、ネットとは「自分への批判や中傷以外は概ね公正でバランスのとれた意見」を持っています。しかし、問題は「自分への批判や中傷」で、いったんこれに晒されると、学校内のいじめ以上に逃げ場はありません。その意味では子供たちの権力へのアンテナは近年さらに鋭敏なものとなったようです。

Kさん、いじめというのは学校に必然的に内在するもので、学校そのものがいじめなのです。考えてもみてください。学級会などの「民主的」な形態の馬鹿馬鹿しさ、運動会の無意味さ(昔はフォークダンス、近頃は組体操、こんなものはいったい誰のために実施されるのでしょうか)。何かの利権としか思えない修学旅行、遠足、林間学校、文化祭、これでもかと集団の秩序と協調性を押し付ける裏には、異質なものを恐れる頑なな心性があります。何か不祥事が起きるとこれほど自己保身に走る職業はありません。また内部告発や異分子による造反がもっとも起こりにくいのもこの団体の特徴です。教師だけが悪者というわけでなく、そこは教師と生徒が一体となって(蛇の道は蛇、というわけです)、邪悪な人間が生贄の対象を血眼になって探し求める世界なのです。学校とは、この世の悪を知り、それといかに対処するかを学ぶ場といってよいでしょう。

Kさん、実は私にも息子がいて、彼が小学校の高学年かあるいは中学校に入学する時か忘れましたが、私は次のように言った覚えがあります。「もう死んでしまったけれどお父さんの両親は学歴と言えるものがなくて、そのためか学校や教師というものを盲目的に尊敬していた。だから教科書を踏んづけたりするとすごく怒られた。ずる休みなどすれば叩かれるから嫌でも登校していたけれども、ああ、お父さんはその時全く知らなかったんだ、義務教育では学校を休んでも卒業できるということが。それだから、明日大恥をかかされることがわかっていても学校に行ったし、くだらないとわかっていながら学校行事に参加した。ねえ、学校には卑劣な教師がたくさんいるし、粗暴で矯正不可能な生徒も大勢いる。いじめや体罰は牛丼に生姜がつくように学校というものの定番メニューだ。マーク•トウェインも、子供のときに受けた心の傷は生涯を通して決して癒されることがないと書いている。嫌な思いをしたり、不当な仕打ちを受けるのであれば学校に行かなくともいいんだからね」と。しかし、実際には息子はほとんど休まずに義務教育を卒業しました。ずっと後で、二人で酒を飲んだとき、学校生活を振り返って彼はこんなことを言いました。「確かに嫌なことは多かった。けれど友達と話したり遊んだりするのが楽しくて学校へ行っていた」と。Kさん、もし学校にも擁護できることがあるとすれば、まさにここなのです。学校は同年代の子供が集合する場所であり、年取ってからも幾分そうであるように同世代の人間というのは何かしら共感のようなものを有しています。執拗に開かれる同窓会のように共感の残りかすの押し付けは断固拒否するにしても、人間はまず同世代の価値観を基準として世界を見ます。彼らから疎外されたと感じることは全世界から疎外されたと同じことなのです。午後、街を歩くと、数人の男の子たちが、つるむようにふざけあって歩いたり、自転車をぷらぷらと乗り回したりしている風景に出会いますが、人生のそのような瞬間こそかけがえのないものなのです。

これに関連して、工業高校ではいじめが少ないという説もなんとなく納得できる気がします。普通高校と違って、彼らの上昇志向には分をわきまえた清廉さといったものがあります。趣味的人間やいわゆる「オタク」への共感の中には、実習でならされた手仕事への敬意、大きな組織に入ることよりも独立の職人的生き方を好む彼らの性向があります。女生徒が少ないというのも大切な要素で、異質なものへの寛容さといったものは、この年頃の女性には望むこともっとも少ないものでしょう。

またまた話は脱線しますが、近所の図書館には教科書改定の時期に小学校•中学校の教科書が自由に読めるコーナーが作られ、オムニバスな読物が好きな私は時々そこで国語の教科書を読んで時間を過ごすのですが、しかし酷いですね。児童文学者の当たり障りのない物語やエッセイ、そこには子供に教えたいものよりも子供に隠したいものが(まさにサド•マゾヒズムのおぞましさとともに)表現されているのです。子供が興味を抱き、夢中になって読みたいと思い、その結果読む力が伸長するような題材は、まさに教師が隠したいものであって、すなわち犯罪、暴力、魔法、非現実の物語です。お伽話の多くが犯罪から始まることを思い出してください。多くの子供は犯罪を夢見、実際大人よりも頻繁に犯罪を犯します。恐ろしい殺人、街を破壊するモンスター、超能力を身につけた邪悪な転校生、などは子供がそこから多くの教訓を引き出すことのできる物語なのです。昔のテレビでビートたけしの出ていたコントは、しばしば学校ネタが取り上げられていて、正常な批判機能を持った人間にいかに学校が滑稽なものと映っていたかがわかるのですが、その一つは次のようなものです。卒業を間近に控えた六年生が、一人ずつ、秘密にしていたことを告白していくのですが、ほとんどは、水槽のメダカを死なしたのは自分だとか、教室のカーテンを切ったのは自分だとか、どうでもいい内容で、その度にクラス全体から告白した人に拍手が起きるのです。最後に担任の教師(たけし)が自分も告白したいことがあると言って、去年の夏にクラスのSくんが誘拐され殺されて犯人はまだ捕まっていないが、実は犯人は自分であると言って、クラス全員が椅子から転げ落ちるのです。このコントは国語の教科書に取り上げられる「子供らしい」犯罪がいかに奸計に満ちたものであるか、子供はいたずらで許される範囲をいかにわきまえているかを示して、そのような偽善的な子供たちを痛罵しているのです。

Kさん、あまりに出鱈目な話ばかり書くと憤慨されるでしょうか。しかし、私は、ジュリアン•グラックがロートレアモンについて書いていたことを常に教育についての自分の指針としているのです。異国で育ち、母国フランスのリセで寄宿生活を送ったロートレアモンは、教師や同僚からいわれない虐待を受けました。その時から彼は「こちら側の人間」になったのです。つまり、教育に必然的について回る矮小な権威と容赦ない非道に関して、非難しないまでも決して擁護も美化もしまい、と。「檻の柵を金色に塗ってはならない」のです。それは決してしてはならないことなのです。アラン•フルニエに代表されるような、幼少年時代を郷愁で美化するような作家を間違っても擁護してはならないのです。

さあ、Kさん、最後に私は、ハンナ•アーレントとシモーヌ•ヴェイユから、もしかしたら、あなたにとって少しは役立つかも知れないことを書いてみます。
アーレントは『過去と未来の間』(みすず書房)に収録されている「教育の危機」と題するエッセイで次のようなことを書いています。人間は動物と違って、この世界に単に生まれるだけでなく、この世界の新参者としてこの世界を革新していく存在である。そうでなければ人類は衰退し滅びてしまうであろう。しかし、子供は世界へと立ち向かう前に、その成長の過程で世界から保護されねばならない。なぜなら旧世界もまた自らを破壊し変革しようとするこの新参者たちを侵害し無効にしようとするからだ。子供たちが十分に成長するために保護されねばならない場所は家庭をおいて他にない。かつて家庭を解体しようとした様々な試みは(人民公社の中国やポルポトのカンボジアなど)ことごとく崩壊した。家庭は子供が安全とプライヴァシーを保証される場所であり、そこではじめて、公的役割とは違う生命としての生命、生きる活力の源としての生命が育まれる。

「植物の生命に限らず、生命あるものはすべて、暗がりから出現する。そして、どれほど自らを光のなかへと押しやる自然的傾向が強かろうと、成長するためには何としても暗がりの安全を必要とする。実際、有名人を親にもつ子供がしばしば駄目になるのはこうした理由によるものであろう。名声は四つの壁のなかに浸透し、私的空間を侵す。それとともに、とりわけ今日の状況においては、公的領域の無慈悲な眩い光が関係者の私的生活の一切合財に射し込み、その結果、子供はもはや成長のための安全な場所を持てなくなる」

そして、アーレントによれば、学校とは家庭でもなく世界でもない、言ってみれば学校とは家庭から世界への橋渡しを可能にするためにわれわれが家庭の私的領域と世界との間に挿入した制度である。ゆえに、学校が教えることはこの世界に生きる方法ではなくこの世界の存在そのもの、この世界の過去と現在である。ここに動物と違う人間の教育の意義がある。子供が如何にして新参者としての自己を自覚し、より良き世界を作り出すのかの詳細は不明だ。しかし、教師は旧世界の代表として世界がいかにここに至ったかを教えねばならない。「まさに、どの子供にもある革命的なもののために、教育は保守的でなければならない」のである。

それゆえ、教育者は若者に対して世界というものを代表する立場、言い換えれば、世界への共同責任を負う立場にあるのです。それを拒否する人間は子供の教育に参加することは許されないのです。教育において、世界へのこの責任は権威の形式をとります。この権威はまさに彼がその世界の責任を負う立場から生まれるのですが、今失われているのは実にこの権威なのです。権威とはことの成り行きに対する責任を負うということですが、何よりも真っ先にそれが失われている場所は教育の現場にほかなりません。権威の消失はことの成り行きに対する平等な責任がすべての人に要求されることを意味し、結果として責任の拒絶を生み出します。教育現場で繰り返される不祥事について、その内容よりも、常に誰一人として自分の責任を認めず、担任、教頭、校長、教育委員会、県知事、果ては大臣まで、すべての人間に責任が平等に分配されるがゆえに均され薄まれいつの間にか不問に付されることが何度あったでしょうか。

Kさん、アーレントには独特の考え、人間は公的領域に参加することによってはじめて死すべき存在を乗り越え、自分自身を実現することができるという思想があります。私的領域はprive、つまり何かを奪われた状況であり、本然ならざるものであるが、すべての人間に、特に子供に必要なものであり、近年の危機は、この私的領域が子ども時代になし崩し的に侵害されることにある、と考えているようです。子どもが学校において、保護の下にある公的権力ではなく、むき出しの粗暴さ悪質さにさらされる時、それは子どもにとって全くなすすべもなく、むろん抗う力とてないだろうと書いています。希望はあるが、それは特に日本のような構造の国では望むべくもないでしょう。

次はシモーヌ•ヴェイユです。ヴェイユは最晩年の著作『神を待ちのぞむ』(勁草書房)所収の「神への愛のために学業を善用することについての省察」で次のように書いています。学習の真の目的とは注意力の形成にある、と。幾何の問題を正しく解くために、あるいは外国語の正確な訳を作るために、 一つの点、一つの線、一つの単語、一つの記号も疎かにしない注意力が必要ですが、実は、問題を解くためでなく注意力の練成にこそ目的はあるのです。これはたいへん納得できる考えで、幾何の証明が苦手な生徒はたいてい与えられた条件(仮定)をきちんと読んでいないし、英語の読解に上達しない生徒はなぜ原形動詞が使われているか疑問に思わず、自分勝手につじつまをつけて英文を訳しています。もし、細かな点までゆき届いた注意力を涵養できれば、数学や英語ばかりでなく、すべての学科において進歩が認められるでしょう。

しかし、たいせつなのは結果ではなく、それを目指す努力にあるのです。「何かある幾何学の問題を解くのに、真の注意力を持ってがんばってみたが、1時間たってもはじめの頃とそんなに進歩していないように見える場合、それでもやはり、この1時間の1分1分ごとに、さらに神秘的な別の次元においては進歩してきたのである。そのことが感じられなくても、またそのことが知られずにいても、表面上は不毛で、なんの果実も結ばないように見えるこういう努力が、たましいの中にかがやき出す光をはぐくみ育ててきたのである」

「また、その果実は、たぶん数学なんかとはまったく縁のない、何かある知性の領域のうちに、おそらくふたたびあらわれてくるにちがいない。そしてまた、効果のないようにみえるこういう努力をつくしてきた人が、やがておそらくいつの日か、こういう努力のゆえに、ラシーヌの詩の一行の美しさを、よりいっそう直接に理解することができるようになるにちがいない」

注意力がもっとも必要とされる瞬間は、学校の課業で失敗した時です。思い通りにいかなかったテストの答案を、注意力を凝らして見つめ続けることは、自分自身の愚かさを真正面から感じることです。「とくに、学校においてどんな進歩を遂げることよりもはるかにもっと貴重な財宝といえる謙遜の徳は、このようにしてこそ得られるのです。」アンリ四世校でのヴェイユの師アランは、努力しない生徒には無自覚の傲慢さが隠されている、と書いています。

ところで、注意力というのは、思ったよりも、やって見ればわかる通り、はるかに困難なことです。「わたしたちのたましいの中には、肉体が疲労をいとうよりももっと激しく、真の注意力に対して嫌悪の念を起こさせるような何ものかがひそんでいる。その何ものかは肉体よりももっと悪に近いものである。だから本当に注意力を働かすときにはそのつど、悪それ自体を打ち破っているのである。」

注意力が必要とされるのは学業のためだけではありません。ヴェイユは隣人愛もまた、同じ本質からできあがっている、と書いています。
「不幸な人々がこの世において必要としているのは、ただ自分たちに注意をむけてくれることのできるひとたちだけである。不幸な人に注意をむけることのできる能力は、めったに見られないものであり、大へんむつかしいものである。それは、ほとんど奇跡に近い。奇跡であるといってもよい。そういう能力を持っていると信じこんでいる人々の中のほとんどは、実際は持っていないのである。」

不幸な人を、あくまで私たちと同じ一人の人間として見ること。「その人間が、たまたま、不幸のために、他の者には追随することのできないしるしを身に帯びるにいたったのだと知ることである。そのためには、ただ不幸な人の上にいちずな思いをこめた目を向けることができれば、それで十分であり、またそれがどうしても必要なことである。」

「だから、逆説的なことを言うようだが、次のことは真実である。ラテン語の翻訳ひとつ、幾何の問題ひとつにしても、たとえその結果がかんばしくなくても、ただそれにふさわしい努力を傾けたということがあれば、それだけでもう、後になって機会が到来したとき、いつかは不幸な人がこの上ない苦悩に苦しんでいるのに際して、その人を救うことができる助けの手をしっかりとさしのべることができるようになるのである。」

「こんなふうに考えてみると、学校の課業はどれも、秘跡に似ている。」

Kさん、長い手紙をこの言葉で終えましょう。どうかお体をたいせつに!

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