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2013年12月31日 (火)

ジョン•オハラ『サマーラの町で会おう』


しばらくブログをお休みしているうちに年の瀬になってしまいました。あまりに間が空きすぎると、ブログ更新で私の生存確認をしている親類を心配させるので、とにかく何かを書いておきます。『サマーラの町で会おう』はずいぶん前に読んだ本で、もう手元に無いのですが、うろ覚えで書いていきましょう。舞台はペンシルバニア州の架空の町ギブズヴィルで、そこの社交界というべき小さな世界で起こるクリスマスのわずか二日間の出来事を、風俗小説のタッチで克明に描いていきます。大した事件が起こるわけでもなく、登場人物も適当に選んだような人間たちで、とくに感情移入できるほどの特質も持ち合わせていません。例えていえば、地球人の観察のために地球を訪れた異星人が、限られた二日間という時間で、先入観なく当てずっぽに地図の上にピンを刺して、そこの町の一人の住人のクリスマスの過ごし方を丁寧にレポートにまとめたような小説です。はるか何億年もの時が過ぎて、ある惑星の史書管理官の一人が膨大な銀河系のレポートの中からたまたま地球人について書かれたファイルを手にとって、『サマーラの町で会おう』と題されたこのレポートを読んだとしたら、おそらく彼はその星の葉巻に火をつけ、ウィスキーに似た強い酒を飲みながら何時間も深い思索に沈むことでしょう。そして、はるか昔に荒廃し死の星となった地球について愛惜の涙を流すと思います。

主人公のジュリアン•イングリッシュは見栄えのいい長身の29歳、年上の美人の妻キャロラインとは学生時代からの友人で、子供はいないが、小さな町ギブズヴィルでは名家の出として常に社交界の中心にいました。というのも、ジュリアンの父親がその町でたいへん尊敬される医者であったからです。不肖の息子ジュリアンは父の期待をことごとく裏切って、大学は出たものの、医者にはならず、キャディラック販売会社のオーナーとして、ギブズヴィルの裕福な人たちを相手にその人脈を利して高級乗用車を売っていました。しかし、この町でも、フォードやスチュード•ベイカーなどとの販売合戦は熾烈で、ジュリアンは店舗の改装のために町で一番羽振りのいいハリー•ライリーという男から多額の金を借ります。

ところが、その借金を返す目処もたたないまま迎えたクリスマス•イヴのパーティで、ギブズヴィルの名士たちの目の前で、そのハリー•ライリーの顔に氷入りのウィスキーをぶちまけてしまうのです。直接の原因は、酔った席で披露するいつもの笑い話を得意気に繰り返すハリーに我慢ならなかったからですが、根本的には酔うと自省の効かなくなるジュリアンの酒癖のためでした。この事件は明くる朝までにギブズヴィルの全員が知ることになり、ジュリアンや妻のキャロラインにさえも好奇な視線が注がれます。ハリーはカトリック信者で、彼を敵に回すことは、ギブズヴィルの結束の強いカトリック社会全体に敵対することになり、その結果顧客の何人かはキャディラックからフォードに乗り換えることになりかねません。翌朝のクリスマスに、ジュリアンは妻に強く勧められてハリーの家に謝罪に行きますが、目の上に青い痣を作ったハリーは怒ってジュリアンに会ってもくれません。

さらに酒にのめりこむジュリアンですが、その日のうちにまたまたスキャンダルを引き起こします。妻の見ていないところで、クラブの歌手を車の中に引っ張り込んでしまうのですが、彼女は町で密売酒を一手に商う裏社会の顔役であるチャイミーの情婦でした。チャイミーは隠然たる力を持つもののギブズヴィルの名士の世界には劣等感を持っていて、唯一ジュリアンだけには、その偉ぶらない性格から好意を抱いていたのです。彼の息のかかった連中がみなキャディラックを購っていたのも偶然ではありません。そんな上得意の客の顔に泥を塗ってはただで済むはずもなく、もはやジュリアンをその窮地から救う手立ては何も無くなってしまいました。

キャロラインも愛想をつかして母親の家に戻ってしまい、八方塞がりになったジュリアン。クリスマスを一人家で酒を飲んでいると、たまたま地元の新聞の若い女性記者が取材に来て、危うくまた許されぬ色恋沙汰を起こしそうになります。その後、また一人になったジュリアンは二階の自室にこもり、酒のグラスを片手に、お気に入りのレコードを丸く床に並べて、まるで儀式のように、順番に蓄音機にかけていきます。この瞬間、何かしらこの世ならぬ純化された雰囲気に満たされるのですが、夜明け前にジュリアンは密閉したガレージの中でキャディラックのエンジンをふかしたままライ•ウイスキーの最後の一滴を飲み干しながら意識を失ってしまうのです。

この小説は、心に訴えることもなく、自然と物語は始まり、勝手な男の勝手な自殺で物語は終わります。とくに何の不自由もないと思った男の自滅的な最後はどうも腑に落ちません。WASPとして、生まれながらにその世界の中心にいたはずの人間の理解不能な転落の理由は何か? それは酒のせいである、というのがもっとも納得できる解答のようです。アメリカ作家のアルコール依存症についての本『詩神は乾く』(トム•ダーディス、関弘•秋田忠昭訳、トパーズプレス)によれば、作家自身もその周辺の人間も、飲酒は生きることあるいは創作の苦悩の故と思われがちだが、真実は単なるアルコール中毒である場合が多いということです。

ところで、 むろん素人考えですが、アメリカ作家の特質は二つあるように思います。一つはこのアルコール依存症(7人のノーベル賞受賞者のうち5人がアル中) で、もう一つは、日記を書かないことです。私は読まないのですが、妻が最近ドナルド•キーンを読んでいて、その話によれば、戦時中、アメリカ兵は日記を書くことを禁じられていた、しかしそれは彼らには苦痛でもなんでもなかった、もともと彼らには日記を書く習慣がなかったから、というのです。反対に、日本は禁ずるどころか兵隊に日記帳を配ってさえいたそうです。キーンの仕事は日本人捕虜の日記や戦場から収得した日記を分析して価値ある情報を拾い出すことでした。この日記を書かないという習慣は、アメリカ作家にも根強いのではないでしょうか。内面を徹底的に軽んずる志向、それはアルコールの過剰摂取にも関係があります。強い酒を飲んでへたばらない、ということはヘミングウェイにとって男らしさの証しでした。そして、まさにこの不要な強がりと外面への過度の信仰が、さらに飲酒量を増やして、アル中の深みへと誘うのです。フォークナーやフィッツジェラルドやヘミングウェイの作品のほとんどは酩酊の至福とアル中の地獄を代償にして得られたと言ってよいのです。

『サマーラの町で会おう』の作者ジョン•オハラ(1905-1970)も、むろん大酒飲みでしたが、この小説のもう一つの魅力は、その題名にあります。サマーラとはバクダッドの北にある町の名ですが、小説にはその名は一度も登場しません。ただ、冒頭におそらくモームの戯曲『シュペー』からの引用とみられる小話が掲げられているだけなのですが、それはつぎのようなものです。

バクダッドにある商人がいました。食糧を買いに召使を市場にやったのですが、暫くして召使は震えながら戻って来て主人にこう言いました。「ご主人様、たった今、わたしが市場にいたとき、人混みの中で一人の女に突き当たりました。わたしがふり返ると、突き当たった女が死神だということに気付きました。死神はわたしを見つけておどかすような身ぶりをしたんです。さあ、ご主人様、あなたの馬を貸してください。この町から逃げ出して、わたしは自分の運命を避けたいんです。わたしはサマーラへ行きます。そうすりゃ死神だってわたしを見つけやしないでしょう」その商人は馬を貸してやりました。召使はその馬にまたがると、力いっぱい拍車を入れ、急かせに急かせて彼は走りました。その後、その商人は市場に出かけて行って、人混みの中に死神を見つけました。彼は死神のところに来て、こう言いました。「なぜ、お前は今朝わたしの召使におどかすような恰好をしたんだ」「あれはおどかす恰好じゃありません」と死神は言いました。「あれはただびっくりしただけなんです。わたしはあの男にバクダッドで会って驚いたのです。というのもわたしはあの男とは今夜サマーラで会うことになっていたんですから」

モームの『シェピー』は理髪店に勤める中年の男が競馬で宝くじのような大当たりを当て、家族がその使い途 をあれこれ楽しく計画していると、突然、男はその大金をすべて貧しい人たちにあげてしまうという決断をする話です。驚いた家族は医師に頼んで男を精神病院に隔離しようとするのですが、その直前に男は心臓麻痺で死んでしまいます。実はその時、死神が男の前に現れるのですが、男は何とか死神をまいて逃げようとします。逃げようとしても駄目だし、もうあきらめるしかないということを男に納得させるために死神がこの話を持ち出すのです。モームはおそらく、ペルシャの神秘主義詩人であるルーミーの『マスナヴィ』からこの話を思いついたのでしょう。

1934年刊行のオハラのこの小説の題名は刊行当時から否定的な意見が多かったのですが、私はまず最高の題名であると思います。小説の本然のところを端的に表しているし、オハラのすべての作品にもあてはまるかも知れません。物語は、普通の人間の普通の日常を、何の強調もなく河の流れるように始まり、たいていは哀しい出来事で幕を閉じます。人間のあらゆる努力の虚しさを訴えるモーパッサンに似ているが、口調はずっとやさしく丁寧です。『サマーラの町で会おう』のジュリアン•イングリッシュは、いやその妻のキャロラインでさえ、それまでの人生のどの瞬間においても物語の最後の悲しい結末をまぬがれる手立てはなかったのです。

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