« 2013年5月 | トップページ | 2013年8月 »

2013年7月27日 (土)

サント=ブーヴ通りで(3)雨の日曜日

6月23日(日)

   日曜日、ノートルダム大聖堂に行くつもりで早起きしたのですが、支度でグズグズし過ぎて、ホテルを出たのはもう9時半でした。なぜ、ノートルダムに行くことにしたかというと、旅に出る前に、ジャン・ジェンペルの名著『カテドラルを建てた人びと』(鹿島SD選書)を読んだからです。それによると、フランスにおいて、12世紀後半から14世紀前半に至る大聖堂の建設ラッシュは、まさに世界史的驚異の一つであったようです。まず、勃興する商人たちを中心とした豊富な建設資金、そこには今では考えられないような深い信仰心があります(絶対君主のためには一円でも寄付する人間などいないでしょう)。彼ら資金の寄付者たちは、自らの眼で完成を見届けることができないのを承知で寄付したのです。百年後に子孫が完成した尖塔を見上げられればそれでいいと、常に現場を訪れて工事の進捗状況をチェックしていたのです。

   次に建設技術の驚くべき進歩です。ギリシア・ローマの建築技術がほとんど忘れ去られていた時に、彼らは工夫し、古代の資料をあたり、イスラムの翻訳に学んで、当時世界最高の聖堂を造り出していたのです。石工、屋根職人、ガラス職人、彫刻師などが、競ってその技術を極めていました。彼ら職人たちの身分と報酬は高く、彼らはしばしばヨーロッパ中を渡り歩き、諸方の現場近くに住み込んで暮らしました。特に石工(メーソン)の組合的つながりは後にフリーメーソンと呼ばれる世界的な組織に発展する基となりました。私の勝手な思いつきですが、石工が仕事を請け負ったときに渡される手袋が、フリーメーソンの入会儀式の時に必ず着用される白い手袋につながっているのではないでしょうか(ミッキーマウスが常に白い手袋をはめているのは、ウォルト・ディズニーがアメリカの有力なフリーメーソンだからだ、ということはよく指摘されます)。

   しかし、百年戦争(1337〜1453)を境に大きく変貌します。人々のエネルギーは寺院よりも城砦の建築に当てられ、そこでは粗雑な建築技術しか必要とされません。細やかな技術の伝承はいつしか途絶え、聖堂を建てられる職人の数も減ってきます。そして、何より伝染病、戦争による荒廃が人々の宗教心を内側に閉じ込めて、聖堂建設の資金も調達が難しくなってくるのです。そう考えると、パリやシャルトルやランスの大聖堂が奇跡に近いモニュメントであったのも頷けるでしょう。

    さて、いつものようにヴァヴァン交差点のメトロ入口でモビリスを買い、モンパルナス大通りのカフェ・ロトンドの前の停車場でバスを待っていたのですが、なかなか来ません。すると、黒人の太ったお婆さんが近づいて来て、向こうのモンパルナス駅前の交差点を指差して、マニフェスタシオン、マニフェスタシオンと叫んでいます。どうも、駅前でデモがあってバスが走れなくなっているのを教えてくれているようです。そういえば、その交差点からバスは一本も曲がって来ません。とにかく、モンパルナス駅前まで行ってみようと、二人でぶらぶら歩いて行きました。駅前についてみると、たいへんな人出、デモ隊を運ぶバスが集結していて、とても路線バスが走れる状況ではありません。教員や医療関係者や障害者の処遇についてのデモらしいのですが、詳しいことはよくわかりません。路線バスが出ないのは確実なので、地下鉄でサン・ミッシェルまで行き、サン・ミッシェル橋を渡ってシテ島に入り、目の前に大きく建つノートルダム大聖堂に向かいました。

   ところが、大聖堂に近づくにつれ、見学にくる人の数があまりに多いのに驚きました。続々と人が集まってきます。白人もむろん多いが、目立つのは南米系と中国人のツアーの人たちです。南米はカトリック系が多いので納得できますが、中国人の目的は何でしょうか。それよりも、中国人のツアーのリーダーらしき人物が大声で叫んでいるのが耳障りです。入口は入場制限していて、なかなか入れませんが、行列の中でも大声を出しているのは中国人だけです。入口のポルタイユをじっくり見ようと気構えていたのですが、その騒然とした雰囲気にすっかり気が削がれてしまいました。

   ぞろぞろと人波に運ばれて、大聖堂の内部に入りましたが、そこもすごい人の数、すでにミサは始まっていましたが、ロープが張ってあって、席にはつけません。係員が何人も立っていて、ロープの隙間から入ろうとする人に注意しています。私はもう嫌になってすぐ出たくなりました。というのも痔の具合が悪いのか、お尻が痛くなったからです。外へ出て、ノートルダムの北側をずっと回って行きました。やっと人の波から解放されて、ホッとしたものの歩くたびにお尻がズキズキ痛みます。

   ところで、ノートルダム大聖堂について、ユイスマンスは次のようなことを言っています。そこには何か純粋ならざるものがある、と。ランスやシャルトルやアミアンの宗教的純粋さを疑う人はいないでしょう。ところが,パリのノートルダムでは、いたるところ錬金術的表徴が顔を覗かせているというのです。私はこのことを次のように考えたい、すなわち、当時パリは錬金術の聖地だった、あまたの錬金術師がパリに集まって、その中には自分の「技術」でひと財産稼ぐものもいたに違いない、そのような金持の寄付がノートルダムの意匠に物言わせているのではないでしょうか。パリ1区サン・ジャック塔の近くに住んでいた偉大な錬金術師ニコラ・フラメル夫妻は13世紀から14世紀にかけて、錬金術で得た富を貧しく信仰篤き人々のために使い尽くしたのです。

   シテ島の東の外れ、ノートルダム寺院の裏道をとぼとぼ行きました。もはや観光客の姿は数えるほどです。橋を渡って右岸へ、と思ったら、右岸ではなく、サン・ルイ島へ渡ってしまっていました。お尻は依然として痛いし、大粒の冷たい雨も降ってきました。天気予報で雨になるのを知っていたのに、傘を持ってこなかった迂闊さが悔やまれます。どうしようか、日曜なので開いている店も少ない。とにかく、カフェに入りたかったので、手近にあった cafe Louis13という店に入りました。エスプレッソを二つ頼んで、すぐにトイレへ行こうとしたら、妻に先を越されました。腰を浮かしたまま、待つこと数分、やっと地下のトイレに行って応急処置を済ますと嘘のように痛みは無くなりました。

   再び外へ出ると、まだ雨は止まず、むしろ強くなっています。島のメイン・ストリート、サン=ルイ・アン・リル通りに出ると、すぐ近くに教会の細い尖塔が見えました。それが、小さくて好ましい教会、サン=ルイ・アン・リル教会で、私たちはこれ幸いと雨宿りのために中へ入りました。教会は、日曜のミサの真っ最中でした。私たちは邪魔にならないよう後ろの席に座って静かにしていました。集まっている人は20人ほど、みな地元の人のようで、老人の数が目立ちます。濡れた服を乾かしながら、司祭の話をぼんやり聞いていましたが、ミサを聞くことはフランス語の勉強には格好だと気づきました。司祭は、ゆっくりと、はっきりと話してくれるし、繰り返しが多くて、聞き逃したところももう一度言ってくれます。ただし、聖書の引用が多いので、新旧訳ともあらましを知っていないとついて行けません。時折、みな立ち上がって賛美歌を歌うので、私たちも歌いました。これも繰り返しが多くて、妻はすっかり諳んじてしまいました。

   外に出ると、いつの間にか雨は上がっています。ぶらぶらとサン=ルイ・アン・リル通りを歩いて行きました。日曜なので、本屋などの店が閉まっているのが残念です。是非、訪れたかったサン=ルイ・アン・リル通り51番地のルネ・ゲノンの住んでいたアパルトマン(元々は17世紀の館、18世紀初頭に改装、設計は建築家ピエール・ドゥ・ヴィニ、鉄柵はニコラ・ヴィエ、彫刻はフランソア・ルミエ)に行ってみましたが、何と建物の前面がすべて改装用のシートとパイプで覆われていて、全く何も見えないのです。悔しくて、ステッキで地団駄を踏んでしまいました。

   気をとり直して、ブルボン河岸へ。ここはサン・ルイ島の北側で、セーヌ川のさざ波が低い防波堤に打ち寄せています。サン・ルイ島というと、今では高級住宅地として有名ですが、私にはこの島も、このブルボン河岸も、何か裏寂しくて陰気に見えます。私は東京の下町の黒くて暗い川の多い地域で育ったので、川岸を歩くとなぜか寒々とした感じがするのです。『失われた時をもとめて』の中で、スワンがサン・ルイ島の南側のオレルアン河岸に住んでいるのを、地味で似つかわしくないところに住んでいるとオデットが思うのも無理ありません。その昔はこの島にワイン倉庫があったのも頷ける話です。

   ブルボン河岸を歩き始めるとすぐにカミーユ・クローデルの住んでいた建物が見つかりました。ロダンに匹敵する才能を持ちながら、ロダンとの愛に翻弄されて精神を病んでいったカミーユについては弟のポール・クローデルが愛惜をこめて書いています。また、イザベル・アジャーニ主演の映画『カミーユ・クローデル』も夫婦で見ましたが、想像を超えた暗さで暗澹となりました。しかし、私は男との愛のために精神障害に陥った女性を人生で何人も見ています。

   カミーユ・クローデルのアパルトマンの並びにエミール・ベルナールの住居もありました。さらにブルボン河岸を行くと、ヴォルテール、ボードレール、ショパンらに関係あるというランベール館もありました。雨は上がったが、寒いし、曇っているので、何となく暗い気持ちです。早くサン・ルイ島から出たいと思ったが、どうもバスが走っている様子はありません。そのうち、妻が突然、お腹が空いた、ビストロに行きたい、と言い出しました。日曜なので、空いている店を探すのは大変ですが、妻の希望はできるだけ叶えたい。手帳を繰って、バスティーユの近くにまずまずのビストロがあるのを発見しました。島を出て、ポン・マリーの停車場へ行くとバスティーユへ行く69番のバスはあと10分でくるという電光掲示がありました。それで待合所に座っていたのですが、何分待ってもバスは来ません。そのうちに、電光掲示板の待ち時間は20分になり30分になり、ついに50分になりました。今日はもうバスはダメだ、と意を決してバスティーユまで歩くことにしました。近くのポン・マリーからの地下鉄では遠回りになってしまうのです。アンリ四世通りをぶらぶらと歩いているうちに、ハッと気付くと、なんと足の痛みが和らいでいるではありませんか。痛風の発作は、だいたい24時間でピークを迎え一週間で収まります。旅行中は良くならないだろうと思っていたので、これはサン=ルイ・アン・リル教会で神様に祈った効果でしょうか。

   急に軽くなった足取りでバスティーユまで行き、メトロで一駅だけ乗って、ルドリュ・ロランへ。ルドリュ・ロラン通りとシャロンヌ通りとの交差点にある Le Bistrot du Peintreに入りました。ここは1902年創業のレトロなビストロです。店内はほぼ満席、片隅の席に座って、妻はdorade(鯛)を、私は鴨のコンフィを注文しました。ワインはサンセール、美味しかったが28ユーロは痛かった、とはいえこれが一番安いワインだったのです。痛風が治ったと思って、妻と二人でひと瓶飲んでしまいました。鯛はオリーブオイルがたっぷりかかって、むしろ淡白な味、鴨は美味だったが、付け合わせのポテトのにんにくの量が半端ないのには参りました。

   お腹がいっぱいになった後、妻の希望でモンマルトルのロマン主義博物館へ行くことになり、ルドリュ・ロランからメトロでリシュリュー・ドルオーへ。そこからまっすぐ北へ上って歩いて行きました。足の痛みが劇的に和らいでうれしいが、日曜なので店がどこも開いていないのが残念です。途中にノートルダム・ド・ロレット教会があったので休みがてら入ってみることにしました。ここは大変立派な教会で、その歴史は17世紀に遡るようです。身廊の上部横にぐるりと飾られたフレスコ風の絵画はイタリア的だし、天井の装飾はビザンティン風です。一周してから、入口の聖水盤のところでぼんやり立っていたら、白人の中年男が近づいて来て、私に、あなたは仏教徒か、とフランス語で聞いてきました。ノン、と答えると話が長くなりそうなので、ウィ、と答えると、白人は一歩下がって私に向かって両手を合わせて拝んでいます。私も片手で祈る仕草をしながら軽く頭を下げました。傍で妻が笑いをこらえているようなので、早々に教会から出て来ました。

   雰囲気のあるマルティニ通りを上って、ロマン主義博物館に着きました。ここは二回目ですが、前の時はお腹を壊していて体調が最悪だったので、じっくり見ることができませんでした。ところが、じっくり見ても狭いのですぐに見終わってしまいました。ここの良いところは、展示物よりも館や館を取り巻く全体の雰囲気です。カルナヴァレが貴族の瀟洒で格式ある邸宅なら、このロマン主義博物館は芸術家の憩いの場にふさわしい。館の前のベンチに座って、しばらく妻と二人で訪れる人々を観察していました。中国人の姿が全く見えないのは、カルナヴァレやクリニューと同じです。日本人がちらほら見えますが、細やかに観察し、こっそり写真を撮り、黙って目を合わせて微笑んでいる、何と好ましい人たちでしょうか。長引いた不況と原発事故と震災の経験が日本人をより謙虚な民族にしているのかも知れません。

   ロマン主義博物館を出て、ブランシュ広場からメトロでノートルダム・デ・シャンへ。エスカレーターで地上に出ると、再び強い雨が降りしきっています。ホテルに急ぎ足で入り、暖炉のある居心地良いロビーで新聞を読んだりしていました。その後、部屋で昼寝して、目が覚めると夕方の七時になるところ、日曜でほとんど行くところがないので、やはり、コメディ・フランセーズあたりの観劇チケットをとっておくんだった、と後悔しました。ただ、前回が観劇づくめで忙しかったので、今回はのんびりする心算だったのでまあ仕方がないでしょう。

   しかし、せっかくパリにいて、晩を、ホテルに閉じこもっているのはもったいない。シャンゼリゼでも行こう、と言い出したのは私でした。日曜もほとんどの店が営業しているのはシャンゼリゼをおいて他にありません。何より深夜2時まで営業している Publicis drugstore という商業施設があって、そこには雑誌や新聞がなんでも揃う本屋があるのです。妻も同意して、早速、傘を持って飛び出し、メトロでコンコルドへ。そこからシャンゼリゼまではまっすぐの距離をかなり歩くのですが、歩いているうちに雨が半端でなく降ってきました。ほとんど土砂降りです。コンコルドからシャンゼリゼまでのほぼ中間のところで、私たちは一本の傘を握り合って立ちつくしていました。雨があまりに激しいので、このままシャンゼリゼまで行くべきか、それとももうホテルに戻ってしまうか。行くにいけず、戻るにもどれず、辺りにはほとんど人通りはありません。シャンゼリゼ公園のちょうど真ん中で立ち止まってしまいました。暗い木立の続くシャンゼリゼ公園を見ながら、私は、ジルベルトと会うために女中に連れられて毎日この公園に通ってきた『失われた時を求めて』の主人公を思い出しました。

   結局、シャンゼリゼまで行ってみることにして、降りしきる雨の中を歩きました。シャンゼリゼの外れ、人出が見えてきた頃、ようやく雨は小降りになってきました。しかし、すごく寒い。服が半分濡れているので、より冷たさが増しています。大通りを歩くにつれ、人通りがどんどん増してきました。驚いたのは、すれ違う人の波の中にアラブ系の人々が多いことです。モロッコやアルジェリアなどから来た人々でしょうか。女性はチャドルのようなものを身につけているのですぐわかります。夜なのにアラブ系の家族連れも多い。ZaraやH&Mなどの大型店にも人が吸い込まれて行きます。ファストフード店、カフェ、アイスクリーム店などもほぼ満員の盛況です。シャンゼリゼの西の外れ、凱旋門の近くまでくると、やっと向こう側の歩道に Publicis Drugstore が見えて来ました。私はここで文学雑誌のバックナンバーを探したかったのです。よく、本屋へ入ると便意を催すという人がいますが、私などは本屋が視界に入った時点ですでに激しい便意が襲ってきます。信号が青になるのを腰をすぼめて待ち、青に変わった瞬間にダッシュして広い通りを急いで渡っていると(青から急に赤になるので)、渡り終えた頃にホッとしたのか、お尻のあたりに何か違和感を感じました。しまった、粗相をしてしまったか、と一瞬目の前が真っ暗になりました。Publicis drugstore に入って雑誌の並ぶ棚へ赴いたものの、気もそぞろです。ゆっくり一回りして「疲れたから帰ろう」と妻に言いました。妻もあまり元気がなかったので、凱旋門のところからメトロ6番線に乗りました。日曜の夜なので空いていたが座らずに立っていたので妻はやや不審顏です。ホテルに着き、急いでトイレに駆け込みましたが、別に何事もなかったのでホッとしました。風呂で温まり、昨日買っておいたピノ・ノワールのワインを飲んで、たちまち眠りに落ちてしまいました。

 

201306

モンパルナス駅前に集まったデモに参加する人たち。デモ慣れした家族連れが目立ちます。

10l

(http://reneguenon339.blogspot.jp/ ) より100年前の写真を引用させていただきました。1912年の新婚当時ゲノンが住んだサン・ルイ通り51番地の建物、左がファサード、右が中庭。ファサードは今でもそのまま残っているはずです。ルネ・ゲノン(1886~1951)は、知の正統性を、人間存在にも、構造の枠組みにも、はたまたいかなるオカルト的探求にも求めず、ひたすら太古からの失われつつある伝統に求めた特異な思想家です。

Photo

カミーユ・クローデル(1864~1943)が1899~1913の間住んだ建物。この1階に14年間住んだ後、そのまま精神病院に入れられて、そこで死ぬまでの30年間を送りました。1階の窓が割られているのがこの天才彫刻家の痛ましい生涯を象徴しているようです。

Photo_2

サン・ルイ島のさびしいブルボン河岸を杖を突きながら歩きます。左手にはセーヌ川の流れ、私の右横のバルコニーのある館はヴォルテールも暮らしていた歴史的建物ランベール館。残念ながら、この写真を撮った17日後の7月10日深夜に火災が発生して、屋根の大部分とともにルイ14世時代の貴重なフレスコ画が修復不可能の損害を受けました。

Photo_4

ルドリュ・ロランにある1902年創業の古いビストロ、Bistrot du Peintre。天井や鏡のアール・ヌーボー装飾が目を引きます。

Photo_3

ノートルダム・ド・ロレット教会のジャンヌ・ダルク像。パリ中にジャンヌ・ダルク像は掃いて捨てるほどありますが、これが一番良さそうです。裸足の足と手のしぐさがかわいらしい。

Photo_5

バラに囲まれたロマン主義博物館。画家アリ・シェフールの自宅を改造したもの。これみよがしの邸宅ではなく、居心地の良さそうな小さな館がなんとも好ましい。

Photo_6

ロマン主義博物館の庭。ジョルジュ・サンド、ショパン、リストらが集った往時のサロンを思い起こさせます。

| | コメント (0)

2013年7月17日 (水)

サント=ブーヴ通りで(2)ラ・シルフィード

6月22日(土)

   いつも旅の初日は眠れないのに、昨夜はとてつもなく疲れていたので熟睡できました。朝7時に起きて支度をし、妻がコーヒーを沸かしているうちに、歩いて30秒のジュリアンにパンを買いに行きました。足がまだ腫れているのでステッキは欠かせません。朝7時半開店なのですが、すでに先客が二組、共にバゲットを買っています。私は、クロワッサン2個、パン・オ・ショコラ1個、クレープ1個を買いました。全部で4.5ユーロです。このクロワッサンは濃厚ですばらしく美味しい。パン・オ・ショコラをなぜ買うかというと、どうも妻が、朝、チョコレートを食べないと満足しないようなのです。

   ヴァヴァンの交差点に行き、妻が階段をおりてメトロの改札口で一日乗車券モビリスを買っている間、私はカフェ・ロトンドの前のキヨスクで Liberation (1.6 ユーロ)を買いました。毎夜ネットで読んでいる Liberation の実物を読めるのはささやかな楽しみです。モビリスを使って、バスでマレ地区のヴォージュ広場へ。天気は良いが寒い。パリ滞在中、ずっと気温は11〜19度でした。広場から歩いてすぐのカルナヴァレ博物館へ。開くのを待って観光客が何人も並んでいます。この博物館は前回、パスポート置き忘れ事件のため、入館して一分で出てこなければならなかった所です。

   ここは無料にもかかわらず、空いているのでいつもゆっくり見ることができます。今回は、前回機会を逃したプルーストとレオトーの部屋を見たいと思っていました。カルナヴァレで気づいたことが二つあります。まず、絵画を模写している人の多いこと。人が少ないので邪魔されずに模写できるのでしょう。来場者と言葉を交わすことも多いようです。次に、各部屋にいる係員の仕事ぶりです。年配の男性が多かったのですが、同僚とのおしゃべりに興じたり、アルコールの匂いの消えていない係員もいます。むろん、真面目な人もいるのですが。カルナヴァレを出て、隣のコニャック・ジェイ博物館へ。ここも無料だが、展示物は小物ばかりで、しかも階段が多く、杖をつきながらの上がり下がりは大変疲れました。

   外に出て、バスでグラン・ブールヴァールへ。懐かしいシャルティエで食事したくなったので、無理やり妻を引っ張ってきました。まだ一時なのに広い店内は客でいっぱいです。女性二人との相席になりましたが、二人は何とシャンパンを開けています。私は痛風が心配なので、ロゼの小瓶を妻と分けて飲みました。前菜に妻はウッフ・マヨ(ゆで卵のマヨネーズ和え)私はキャロット・ラペ(人参の細切り)を頼みました。キャロット・ラペは何と1ユーロという安さです。主菜に妻はアルザス料理のシュークルート、私はチキンのローストを頼みましたが、妻も私も半分あまり残してしまいました。妻はもともと少食ですが、私は痛風の悪化を恐れて思い切り食べられなかったのです。会計して外へ出ると、入り口には何とびっしり2列で10mほどの列ができています。ところで、このレストランは私たちには思い出多い場所です。最初に来たとき、相席の真ん中に置かれたパン籠に、誰かの食べたパンが残っているのに驚きました。また、ちょうど四カ国対抗ラグビーの日で、スコットランドのチェックのスカートをはいた大柄の男達が、ドヤドヤ入ってきたこともありました。しかも私たちの隣の席の男の肩には大きな鶏がとまっています!今回、妻はウッフ・マヨネーズが美味しかったと言っていました。私の痛風は翌日から劇的に良くなるのですが、それはきっと、大量に食べたキャロットのせいに違いありません。

   グラン・ブールヴァールからバスを乗り継いでノートルダム・デ・シャンへ。今日は夕方からバレエを観にいくので、ホテルで一旦休むことにしました。シャワーを浴びて、足の湿布を取り替えると、ベッドで新聞を読みながら私はぐっすり眠り込んでしまいました。ロゼのワインを少し飲んだだけなのに久しぶりのアルコールで酔いが回ったようです。目が覚めると、もう午後5時、支度を終えた妻が着物姿でクローゼットの鏡の前に立っています。

   今回のパリ行きは、ついに妻の願いをいれて着物を持って行くことに同意しました。私が強硬に反対していた理由は、まず目立つのが嫌、次に荷物が重くなる、最後に民族衣裳が嫌い、ということでしたが、三つ目の理由の中には異国では着物姿は政治的メッセージになりうるという懸念もありました。しかし、今回こそ最後のパリになるかも知れません。二つの条件、着物は一着、派手なものは駄目、を呑んでくれたので渋々同意してしまいました。妻が選んだのは夏用の白い博多献上の帯に黒の阿波しじら、いわゆるシアサッカー地で、縦糸と横糸の撚り方による張力の違いから独特のしぼ(凹凸)を作り出しているものです。妻は子供の頃から居合と剣舞をやっていたので、和服を着ると背筋が伸びて何となく堂に入った感じがするようです。

   さて、7時半の開演に間に合うよう6時ちょうどにノートルダム・デ・シャンの停留所から68番のバスに乗りました。バスは空いていましたが、妻は汚れるのを嫌って座らずにバーを掴んで立っています。黒一色の地味な着物なのに、必ず一瞥されるのは仕方ありません。幼い女の子が妻を指差すと、父親が着物について説明してあげていました。68番のバスはセーブル・バビロンを過ぎてカルーセル橋を渡り、オペラ大通りをまっすぐ走って、7時前にオペラ座の東横に止まりました。例によって、オペラ座正面玄関の階段は観光客でいっぱいです。すでに開場していたので、チケットを出して入場。妻は二階正面のボックス席(92ユーロ)、私は4階のやはり正面のボックス席(70ユーロ)です。

   どうして、二人バラバラの席になったかというと、ラ・シルフィードの人気は高く、要領のよい妻でさえ迷っているうちに席がどんどん失くなって、慌ててとにかく残っている席を二つ確保した、ということです。妻の席は、2人ずつ三列のうち真中の右側、残り5人は白人の女性で、皆、バレエ通らしい隙のない格好をしています。私の席は5人の列が三つ、その真中の左端で、周りは若いカップルや観光客でたいへん気楽な席でした。開演の前や、休憩時間に、妻とシュウェップスを飲んだり、ロビーや階段を散歩したりしましたが、周りは華やかなドレスやはっと目を引く装いの女性が沢山いて、地味な黒の和服の妻は目立たないだろうと思ったのですが、事実はどこへ行っても注目の的で、私は少し離れて歩いて、何とか他人のふりをしようとさえしました。

   というのも、毎回ガルニエでは少なくとも二組か三組の和服姿の人たちを目にするのに、今夜に限って、着物を着ているのは妻だけなのです。どこに行っても上から下まで、また前から後ろまで見られているので、気が休まりません。しかも、場所は天下のオペラ・ガルニエです。よく、こんな所で和服を着る度胸があるものだと今でも思い出すと冷やっとします。私たちが大階段を見下ろすベランダに立っていると、ダブルのブレザーにアスコットタイを結んだ大柄の銀髪の紳士が近寄ってきて、私の持っていたオリンパスペンを指差して、何か言っています。おそらく、二人の写真を撮ってあげよう、と言っているのだと思い、カメラを渡しました。紳士はシャッターを押すと私にカメラを返しながら、英語で、「とても美しいんで、写真を撮らないという法はないですよね」と言いました(妻の通訳による)。これほど根拠のないお世辞はないと思いますが、それにしても優しそうな笑顔をしたこの立派な紳士のことは忘れられません。

   さて、今宵のバレエは、ロマンティック・バレエの傑作、「ラ・シルフィード」です。ロマンティック・バレエとは、妖精や悪魔などが出る幻想的なバレエで、その特徴はロマンティック・チュチュというロング・スカートを穿いて踊るところにあります。このことが、独特の優美さを与えると同時に、踊り手には困難な技術を要求することになります。しかし、その前に、この有名なバレエのあらすじを紹介しましょう。舞台はスコットランド、今日結婚式を迎えるジェイムスに、暖炉の中から出て来た妖精シルフィードがいたずらをしかけます。はじめは相手にしていなかったジェイムスも次第に妖精の魅力に捉われていきます。結婚式のために現れた婚約者エフィと友人たち。しかし、ジェイムスはシルフィードを忘れられず、シルフィードもジェイムスとエフィの踊りの間に入って邪魔をします。この、ジェイムスにしか見えないシルフィードとの三人のパ・ド・トロワが前半の見せ場でしょう。結婚式のクライマックス、ジェイムスがエフィに指輪を渡そうとすると、シルフィードがその指輪を掠めとって逃げてしまいます。それを追うジェイムス、ここで前半が終わります。

   後半。妖精の森に入りこんだジェイムスが、空を飛ぶシルフィードを捕まえようと焦ります。魔法使いの老婆に、空を飛ぶ能力を失くす肩掛けをもらい、それをシルフィードに掛けると、シルフィードは急に力を失い、死んでしまいます。エフィもジェイムスを見捨てて他の男性と結婚し、すべてを失ったジェイムスは絶望して倒れます。あらすじを書くのが恥ずかしいほど荒唐無稽で幼稚な話ですが、そこがロマンティック・バレエの特徴なのです。

   このどうでもいいようなストーリーがバレエで展開されると、たちまち目くるめく幻想の世界が現れるのです。シルフィードを演ずるのは、エトワールになって6年目、29歳になるドロテ・ジルベールですが、妖精の空気のような軽さ、いたずら好きのコケットな愛らしさ、と見ていて全く飽きません。特に後半の妖精の森での踊りは素晴らしい。白一色の妖精たちの群舞もうっとりする美しさです。ジェイムス役は日本でもたいへんな人気のマチュー・ガニオで、妻はその超絶技巧にもすっかり感心したようです。二時間ほどの公演でしたが、あっという間に時間が過ぎ去って、これほど面白いとは思わなかったので、私は十分満足しました。ところで、バレエが終わった後、妻の前の席の老婦人がフランス語で、妻に、どうだったかと感想を聞いてきました。興奮覚めやらぬ妻は「セ、マ二フィック、、、(すばらしい)」というのがやっとでしたが、老婦人は、そうだろうという表情で大きく頷いたということです。妻によれば老婦人はおそらく次のようなことを言いたかった、つまり、あなたは和服を着て日本の文化の伝統を誇示しているが、フランスの文化の底力はもっとすごい、このバレエなどフランス以外誰が真似できるというのか、と。

   バレエが終わり、二階のベランダで待ち合わせていた妻のところに行くと、中年の白人女性と話しています。後で聞くと、日本文化に興味を持っているので話しかけたとのこと。大階段はゆっくり帰路につく華やかな装いの男女でいっぱいです。ステッキをつきながら、私たちもゆっくり階段を降りました。オペラ・ガルニエでシルフィードを観る、恐らく最後のオペラ座になるだろうが、それにふさわしい余韻の残る素敵な舞台でした。

   オペラ大通りのバス停へ。しばらく待ってから、12時過ぎまで走る27番のバスに乗ってリュクサンブールで降りました。このバスはオペラ帰りに乗る馴染みのバスです。サン・ミッシェル通りをリュクサンブール公園に沿って歩き、オーギュスト・コント通りを右に曲がります。もう10時過ぎなのに薄暮といってよい明るさ。すぐ左のアパルトマンの一階にプラークが張ってあり、何とシモーヌ・ヴェイユが住んでいた建物でした。窓には明かりがついていましたが、私が写真のシャッターを押すと明かりは消えました。とても静かなオーギュスト・コント通り、右にはリュクサンブール公園の金色に飾られた南門が、左手には天文台に続く緑のオプセルヴァトワール通りが続きます。ヴァヴァン通りまでのまっすぐな道を、妻とゆっくり歩きながら、私は、まだ足は腫れて痛かったけれど、心にしみるような心地良さを感じていました。静かな道は人影も犬の影さえもありません。なんて気持ちのよい夜だろう! シルフィードはなんと美しかったことか。妻とバレエについて話しはじめると、もはや話は尽きません。ヴァヴァン通りに出ると、ようやく店の明かりが見えて、角のカフェ・ヴァヴァンのテラスは人であふれています。

 

201306

カルナヴァレ博物館に展示されているプルーストの部屋の調度。作家が愛し好んだものは質素そのものです。「精神の王国」に身を捧げている人間にとって贅沢さなど物の数ではありません。

201306_2

プルーストの使っていた大学ノートとペン。手にとってみたいと本当に思いました。

201306_3

ポール・レオトーの部屋。猫をたくさん飼っていて、野良猫も世話していました。卓の上には猫の置物が、下には猫用の籠があります。彼の『禁じられた領域』は一人の男の赤裸々な性愛の記録です。

201306_4

レストラン・シャルティエ。広い店内は客でごったがえしています。

201306_5

シャルティエの入り口。人がたくさん並んでいます。実はこのフォーブール・モンマルトル7番地はロートレアモンの最後の住居があったところといわれています。隈なく探しましたがそれらしきプラークは見つかりませんでした。

201306delamain

バスの乗り継ぎのときに立ち寄ったDelamain書店。100年以上の歴史を持つ古い本屋。場所はパリ1区、サント・ノレ通り、コメディ・フランセーズの真ん前という絶好の位置。元々、ガリマールの支店として出発した店で、店頭にはガリマールのいわゆるゾッキ本が大量に平積みされています。

201306_6

オペラ座の二階のロビー。妻の着物はとても地味でしたが、、。

201306_7

バレエの終わった後、三々五々階段を降りていく人々。安直な装いの人は皆無です。

20136lasylphide

興奮して、アンコールのときの写真を撮るのを忘れました。オペラ座のホームページから。

20130619291940

オーギュスト・コント通り。シモーヌ・ヴェイユが20歳から31歳まで住んだ部屋。彼女は34歳でロンドンの病院で亡くなります。

 

| | コメント (0)

2013年7月13日 (土)

サント=ブーヴ通りで(1)到着

   6月21日(金)

   「世界最悪の旅」というと、南極点を目指したスコット隊の悲劇ですが、今回の旅行の出だしは、チェリー・ガラードのその本の題名を思い出させるものでした。4月に腰痛が悪化したものの、養生が実を結んで、何とか6月に入る頃には体調万全と思われたのに、よりによって、出発の前夜、思ってもみなかった痛風の発作で歩けなくなってしまったのです。仕事の帰り、左足に違和感を感じてひやっとしたのですが、家に着いて靴を脱いでみると鹿児島のサツマイモのように赤く腫れています。もう荷造りを終えて、明日の出発を楽しみにしていた妻も、それを見て、冷水をかけられたように意気消沈してしまいました。特効薬の玉ねぎのスライスを作りながら、目に悔し涙か玉ねぎの涙かが浮かんでいます。

   頑張って玉ねぎを食べ、湿布を張り、水とお茶を飲みまくって一晩で十数回も尿を出すという荒療治で、明け方にはやや痛みが薄らいで来ました。2年ほど発作がなかったのに、なぜこんなタイミングで再発しなければならないのか、ツナ缶の食べ過ぎか、ビールの飲み過ぎか、いやもう後悔しても仕方がありません。飛行機のチケット、ホテルの予約、旅行保険の契約、バレエの入場券、おまけに土産までネットで買っていて、もはや 取り消しは不可能、とにかく、ステッキを頼りに、荷物を全部妻に任せて、半病人の状態で飛行機に乗る覚悟を決めました。しかし、街を歩き回ることもできないし、ワインも飲めず、肉や魚も食べられず、エクレアやタルトも食べられないとしたら、いったい何のためにパリに行くのでしょうか。
   
    旅程はほぼ去年と同じ、羽田発深夜便、明け方パリ到着です。空港内はけっこう歩くので、搭乗した時はまた足が腫れてジンジンと痛みました。前夜ほとんど眠れなかったのに、痛みのせいか、機内の照明が落とされても全然眠くありません。水を飲みながらじっと目を瞑っていましたが、何度も乱気流の中を航行して、不快さが徐々に募ってきました。明け方うつらうつらしただけで朝6時にパリ到着、いつものように、ツアー客の後ろについて迷わないようにしましたが、私たちを囲むように歩いていたツアーの一団(ほとんどは中高年の女性)が停止して、添乗員の説明が始まったので、私たちも立ち止まって聴き耳をたてました。それによると、約40人のツアーのうち30人は女性で、どうも印象派をめぐるツアーらしい、このままバスでジヴェルニーに行き、さらにルーアンまで行って泊まるようです。バスではトイレ休憩はないので、空港にいるうちにトイレを済ましておくようにと念を押していました。しかし、13時間近くも飛行機に乗って、すぐにバスで移動するのに、皆、とても元気です。私には、スケジュール通りの団体行動など考えられません。途中で、自分だけ具合が悪くなったらどうするのでしょうか。バスを一本遅らせてカフェで休むなどできないでしょうから、ものすごい体力と協調性がいるわけです。

   さて、前回のように私たちは、だらだらとエール・フランスバスでポルト・マイヨーまで行き、82番のバスに乗りました。しかし、行先は終点のリュクサンブールでなく、 途中のノートルダム・デ・シャンです。そこで、やっこらさ、とバスを降り、私はパナマ帽にステッキだけという軽装、妻は重いキャリーケースを二つ引っ張ってさらにバッグを斜めにかけオリンパスをぶら下げるという重装です。しかし、ホテルは近く、すぐ前に見える道を左に曲がると、そこはもうサント=ブーヴ通りで、目前にホテル・サント=ブーヴの白い扉が見えます。チェックインの3時にはまだ大分間があるので、私たちは重い荷物をひとまずレセプションの女性に預けました。身軽になったものの、杖をつきながらでは、パリの街も十分たのしめません。おまけに、飛行機で眠れず、胸もまだむかむかして苦しい。ホテルのすぐ近くにあったフランプリというスーパーで水を買い、その並びのパン屋のジュリアンで、サンドイッチを二つ買って、近くのリュクサンブール公園の端っこのベンチに座って食べました。妻はサーモン、私はソーセージです。食べていると、どこからともなく小鳥が現れて、パンくずを待っています。放ってやると、いつの間にか、小鳥や鳩が何匹も現れてきてしまいました。どの鳥もみんな可愛く見えるのは、私の心が弱くなっているからで、いつも私にまとわりついて離れない飼猫のルーミーのことなど思い出したからです。

   いつもの宿、オテル・グランゾムを予約できなかったのは、今回の旅行が妻の気まぐれで慌ただしく決まったからです。去年の旅行の後、しばらくはおとなしかったものの、秋になると、またまた日常を脱却したいという気持に襲われたようです。「富士山が噴火する」とか「南海トラフが危ない」とかしきりに言うようになって、「生きているうちに、やりたいことをやっておいた方がいい」と私の上を行く自滅的思想を持つまでになりました。12月になると、妻らしくもなく、歳末ジャンボ宝くじをネットで10枚購入したと言うのです。妻によると、6億円当たると自動的に振り込まれるとのことですが、私はあきれてこう言いました。「ねえ、一等に当たるのは500万分の1の確率だけれど、それって米俵を床にぶちまけてその中から一粒とってそれが当たると同じ確率だよ。そんなのに3000円も使ったんだ。それより、大病や事故に遭わずに毎日を平穏に暮らせる幸運を感謝すべきではないかな」さすがに妻もそれを聞いて反省したようですが、私はその晩、6億円当たったらどうしようか妄想してなかなか寝つけませんでした。

   年明けて、エールフランスの割引航空券が売り出されると、もはや気持ちを抑制することはできず、仕方なくまたパリ行きに同意しました。むろん、いつものホテルは予約いっぱいで取れず、周辺の目ぼしいホテルも空きがありません。いろいろ探して、リュクサンブールとモンパルナスの中間にあるホテル・サント=ブーヴに決めましたが、ロビーに暖炉があるのが妻の気にいったようです。

   リュクサンブール公園からぶらぶら歩いてモンパルナス大通りに出ました。足はまだ痛いが、異国の匂いがその空気から感じ取れると、何か急に元気になったように思えます。そういえば、シャルル・ドゴール空港に降りると、いつも香水のような匂い、しいて言えばゲランのシャリマーのような匂い、に気がつくのですが、それが典型的なパリの香りでしょうか。ロンドンやフランクフルトではむろん、ブリュッセルでさえそんな香りはしないのですが。

    さて、モンパルナス大通りを歩いて、すぐ目についた Tschann書店に入ってみました。隣接して児童書部門 Librairie Tschann jeunesseの店もあります。この Tschann 書店に入って驚きました。文学書、哲学書、芸術書、思想書が中心ですが、そのレベルの高いこと。何を持ってレベルが高いかというと説明に窮するのですが、本好きには何となく分かるその雰囲気です。私はこういう店が大好きなので、たっぷり時間を使ってフランスの良質の書物の感触を楽しみました。レジでは、女性の店員がお婆さんの相談に乗っていますが、どうやら哲学の本についてらしい。どうもフランスの本屋の特長は、店員が博識で読書案内を兼ねられることと、小さな書店でも作家を読んで催しをしたりすることにあるようです。私は、千一夜叢書のイポリット・テーヌの Xenophon, l'Anabase(4ユーロ)を買ってから店内の写真を撮らせてもらいました。

   Tschann書店からモンパルナス大通りを渡ったところにある Campagne Premiere 通りに行ってみました。ここは、あまりに有名な通りですが、いざ歩いてみるとどうということはありません。しかし、旅行者らしい二人の白人男性が本を見ながら、いわく付きの建物を指差したり写真に撮っています。モンパルナス大通りとラスパイユ通りを結んでいるこの通りは、まず、ゴダールの「勝手にしやがれ」の最後の場面の舞台となりました。銃で撃たれたベルモンドが走って逃げて、ラスパイユ通りにたどり着いたところで大袈裟に倒れこむのです。それから31番地の写真家マン・レイのアトリエ。私は、ホテルが決まってからロットマンの『マン・レイ 写真と恋とカフェの日々』(白水社)を取り寄せて読んでみました。著者のハーヴァート・R. ロットマンは、20世紀前半のフランスの政治と文学についての見事な書物である『セーヌ左岸』の著者ですが、20世紀初頭のモンパルナスの芸術家集団をマン・レイを狂言回しとして描いたこの本には正直失望しました。というのも、マン・レイという男がまるで面白くないし、連れ合いのキキという有名な女性も全然好きになれないからです。そのアトリエの隣、29番地のホテル・イストリアはまだ営業していますが、往時の雰囲気は少しもありません。このホテルにはリルケ、サティ、マヤコフスキー、ラディゲ、ツァラも泊まったというから驚きです。この通りの23番地には藤田嗣治が、14番地の屋根裏部屋にはヴェルレーヌとランボーも住んでいました。しかし、目玉は17番地に住んでいたユージーヌ・アジェでしょう。無名のままこの番地で死んだアジェの残した写真はこの通りに住んでいたアメリカ女性ベレニス・アボットに見出されて、後世にその名を残すことになりました。

   再びモンパルナス大通りを渡って、ここから一番近い教会であるサン・ジャック・オーパ教会に行ってみることにしました。サン・ジャック通りにあるこの教会の前は何度も通っているのにいつも閉まっていたのです。今回もやはり閉まっていて、扉の上の紙には、2時半に開くと書いてありました。別に無理して入りたくもない教会ですが、何度も拒絶されると無理にでも入ってみたくなります。それで時間を潰すために、近くのマリー・キュリー博物館に行ってみることにしました。この博物館は長い間改装のために閉館していて、昨年の夏にリニューアルオープンしたものです。

   パンテオンの横の道にあるピエール・エ・マリー・キュリー通りからキュリー研究所に入ります。ユルム通りを挟んですぐ向かいには高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリュール)があります。このキュリー研究所の敷地は広く、目当てのキュリー博物館はその一番奥にありました。入場無料で、すでに何組かの人たちが展示を見ています。ところが、改装後の博物館はあまりに綺麗で洗練されていて、当時の「ジャガイモ倉庫と馬小屋を合わせたような」実験室の趣はまったくありません。(放射線の飛跡を調べる)ウィルソン霧箱の実験というのを初めて見ることができたのが、まあ収穫といえましょうか。ラジウムをアメリカの大統領に送るための厳重な鉛の箱もありました。10分ぐらい見て、さて帰ろうかと妻の方を向いた時、突然、けたたましいブザーの音が部屋中に鳴り響きました。すわ、放射能が漏れたのに違いないと一瞬ひやりとしました。受付の女性係員が私たちを誘導して、裏出口から外に出してくれました。ブザーは研究所中で鳴っているらしく、どの窓からも人が顔を出しています。白衣を着た二人の男性が、慌てた風もなく建物の間を走って来ました。5分ほどして鳴り止んだのですが、妻は事の真相を知るべく、再び博物館に入って受付の女性に「本当は何が起こったのか」と尋ねました。答えは、何と検知器のテスト、つまり実地訓練だというのです。妻によれば、この博物館のがっかり感はザッキン美術館の地味さとよい勝負だということです。

   キュリー博物館を出て、再びサン・ジャック・オーパ教会へ。ちょうど2時半で、黒人の女性が重い木の扉を開けているところでした。17世紀に建てられたこの教会は、ユゴーの『レ・ミゼラブル』にも登場する教会ですが、元々はサンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼道にあって、病に倒れた巡礼の救護所としての役目を果たしていました。その後ジャンセニスムの拠点となり、ポール・ロワイヤルの霊的指導者サン・シラン師の墓もあります。18世紀には司教ジャン・コシンが貧しく見捨てられた人々のための医療活動行い、その精神はこの近くにある現在のパリの代表的病院であるコシン病院の名に残っています。

   さて、中に入ってみると、何の変哲もない普通の教会でした。内陣の奥に鎮座しているのはキリストを抱いたマリア像で、どの教会にもあるありふれた像ですが、穏やかさのかけらもない厳しい表情にはっとします。(なお、カトリックの教会は開いている時間はほぼすべて出入り自由です。内陣の奥まで立ちいることができるのは他の宗教施設では考えられません。見学者に課せられるのはせいぜい1ユーロのろうそくか絵葉書を買うぐらいです。多分その理由は、もともと教会が中世の人々にとって集会の場であったからでしょう)一周してからすぐに教会を出て、ホテルへの帰り道、サン・ミッシェル通りの古本屋「星の王子様書店」に寄ってみました。店頭にはいろいろ面白い本が割引値段で並んでいて、ドラクロワの版画が挿入されたゲーテ『ファウスト』の小型本が5ユーロというびっくり値段で、買おうか買うまいか、妻と激しい議論の応酬がありましたが、やや重い本なので購入を断念しました。

   またまた、ジュリアンで今度はピスタチオ入りのエスカルゴやパン・オ・ショコラを買い、フランプリでペリエやヨーグルトやサクランボを買って、3時ぴったりにホテルにチェックインしました。このホテル・サント=ブーヴは格としてはほぼオテル・デ・グランゾム並ですが、ヴァヴァン交差点近くでリュクサンブール公園の横という絶好の立地にあり、客のほとんどは白人のリピーターのようです。部屋は一階(日本の二階)で窓からの眺めはよくないし、部屋も予想通り狭いが、浴室や調度は豪華で凝っています。すでに、私たちのキャリーケースが運ばれており、ゆっくり風呂に浸かって、パンや果物を食べて、疲れ切っている私は足の湿布を取り替えてからひとしきり眠ってしまいました。

   夕方6時、ホテルを出て、サン・ジェルマン・デ・プレに向かってぶらぶら歩きました。今日は年に一度の音楽の日で、フランス全土でおびただしい数の音楽のイヴェントが開かれます。登録されたイヴェントだけでなく、街のあちこちで即興の演奏も披露されます。サン・ジェルマン・デ・プレに行けば、そういうものがたくさん見れるだろうと考えたのですが、ステッキを突いての危なかっしい足取りで、いつ倒れるとも分かりません。しかし、気分は上々で、リュクサンブール公園に沿ったギヌメ通りを進みます。音楽の日というのは一種のお祭りなのか、公園の柵沿いに高校生らしき集団が何組も騒いでいます。しかも、明らかに未成年なのにアルコールの匂いが充満しています。タンバリンを鳴らしたり、ギターをかき鳴らしたりしているのですが、まともな音楽とは思えません。ギヌメ通りからボナパルト通りに出ると、書店がちらほら立ち並んでいます。演劇関連の本を出している l'Arche 書店や歴史専門のPicard & Epona 書店はもう閉まっていました。美術、歴史、オカルト系の古書店 librairie d'Argence が開いていたので、店頭のサービス本を物色してみました。丁寧に全部見たが収穫なし。その並び、マゼリーヌ通りとの交差点にカトリック系の大型書店 La Procureの本店があります。一ブロックの通りを全部占める縦に長い本屋で、一度入ってみたかったので入ってみました。総合書店で雑誌以外は何でもありそうですが、Tschann 書店ほどではないがレベルの高い品揃えです。児童書、DVDなどもありますが、やはり宗教書のコーナーが他を圧しています。お客はたいへん多く、籠に何冊も本を入れている人もいます。レジはスーパーのように出口に直結していて、お客は皆並んで会計を待っています。私は抹香臭い本屋は苦手なので何も買わずに出てきました。

   La Procure書店の斜め前がサン・シュルピス広場で、ここでは何やらコンサートに向けて臨時のステージが作られ、バンドの人たちが準備しています。テレビ局のクルーや女性のレポーターが広場の前のカフェ・ド・ラ・メリーのテラスに座る人々にインタビューしていますが、周辺はとにかく混雑して熱気に満ちています。そこを抜けて、ボナパルト通りをまっすぐ歩いて、サン・ジェルマン大通りに出ました。目の前にサン・ジェルマン・デ・プレ教会のあるこの広場は、今ではその名に相応しく、ジャン=ポール・サルトル・シモーヌ・ド・ボーヴォワール広場と名付けられています。教会の横には、ドゥ・マゴとカフェ・ド・フロールの間にあった la Hune 書店が移転して、まだ真新しい白い壁が眩しいですが、張り紙によると、移転工事はまだ完全に終わっていないようです。

   にぎやかなビュシ通りまで歩く途中、小道のそこかしこでバンドの面々が演奏を始めています。とても小さくて感じの良い広場フィスタンベール広場で、しばらく民族音楽の歌と演奏を楽しみました。この広場にはあのドラクラワ美術館が隠れるように建っています。ここも凄い人出で、本当に疲れたので、まっすぐホテルまで歩いて帰ることにしました。もう8時を過ぎているのに昼のように明るい。再びサン・シュルピス広場へ。ここでもお祭り騒ぎなので、サン・シュルピス教会の横道から教会をぐるっと回りました。一転、喧騒を忘れる静かな通りが教会を包んでいます。このサン・シュルピス寺院はノートルダム大聖堂に次ぐパリで二番目の大きさの教会ですが、その外観、その内部の彫刻・絵画、その歴史などから、まずパリ第一の教会と言えるでしょう。ガランシエーヌ通りがパランティーヌ通りと出会う辺りで上を見ると、教会の裏の丸屋根の上にペリカンの像が載っています。子供のペリカンを抱いた親鳥はくちばしで自らの胸を突いているように見えます。飢えた子供に自分の血を飲ませようとしているのです。神秘主義的霊想の第一歩はこのような象徴を徹底して考えつくすことから始まります。

   サン・シュルピスから、またまたボナパルト通りを下り、リュクサンブールに沿って歩いて、ホテルの近くのヴァヴァン通りに入ります。そこのAmorino で通りに面した椅子に座ってアイスクリームを食べました。隣で食べている親子がいて、その二人の幼い娘がとても可愛いらしい。二日間ほとんど寝ていないので、アイスを食べながらうつらうつらしてしまいました。ホテルに帰る途中のブレア通りではロック音楽がかまびすしい。この通りで、「モンパルナスのキキ」として知られる本名アリス・プランが倒れて亡くなったのは1953年のことでした。52歳でした。

20130621tschannlibraire_2

モンパルナス大通り125番地の Tschann 書店。思想系の本の充実ぶりが目をみはります。

20130621tschann_2

レジで女店員に哲学の本について聞く初老の婦人。何人か並んでいるのに気にもせず延々と話しています。

20130621cury_2

キュリー夫人の実験室。あまり感激はありません。

20130621librairielepetitprince_2

サン・ミッシェル通り121番地、星の王子様書店。店頭本はなかなか面白い。

20130621laprocure_2

カトリック系の本屋、La Procure 。大きな書店で、客も多い。何でもあるので見ていて面白いが、なぜかここで買う気にはなれません。

20130621_5

サン・ジェルマン大通りにあるディドロの像。パリの作家の像としては 傑作のひとつと言われています。ディドロは、ルソー、ヴォルテールと並んで啓蒙の三偉人の一人。向かいのカフェ・ドゥ・マゴの場所に30年間住んでいました。

20130621_6

サン・シュルピス寺院の身廊。どの時間に行っても光の加減が美しい。荘厳さはパリ随一でしょう。身廊をフランス語で nef といいますが、その語源を遡ると nave つまり船を表しています。身廊に参集する人々を乗せて天上の光の国へ旅立つ、いわば聖なるスペース・シップそのものなのです。

201306212_2

サン・シュルピス寺院の後ろ側。屋根にペリカン像があります。マルキ・ド・サドやボードレールが洗礼を受け、ラ・ファイエット夫人が眠るこの教会は、またデュマの『三銃士』にも登場します。アトス、アラミス、ポルトスの三人はみなこの寺院のすぐそばに住んでいることになっています。

20130621_7

逆光の中のペリカン像。ペリカンは雛が飢えたり、毒蛇に咬まれたりした時、くちばしで自らの胸をつついてその血を飲ませ、子を助けると言い伝えられています。これは、一身を犠牲にして人々を救おうとしたキリストの象徴以外の何物でもありません。神秘主義パリのもっとも感動的なモニュメントの一つ。

20130621_8

美味しいジェラートの店 Amorino はキューピッドがシンボルマーク。バラの花のようにていねいに盛りつけてくれます。

| | コメント (0)

2013年7月 1日 (月)

ウィラ・キャザー『マイ・アントニーア』

Kさん
先日、お借りしたこの本、ウィラ・キャザーの『マイ・アントニーア』(佐藤宏子訳・みすず書房)をもう三回も読んでしまいました。Kさんはこの本について何も言わず、私に手渡されるとき、何か意味深そうな眼差しで、しかし沈黙のまま微笑を浮かべておられましたね。今思えば、あなたはきっと次のような言葉を無言のうちに語っていたに違いありません。

「『赤毛のアン』を好きなあなたなら、きっとこの本も気に入ってくれるでしょう。あなたや私のような傷つきやすい人間、この不当な世界に放り出されて、書物と夢想の中でしか本当に生きていけない人間にとっては、このような本が伝えてくれる優しさこそ糧なのです。私のアントニーアが、またあなたの友人にもなりますように!」

物語は北アメリカ中部の広大な平原を横切って走る列車の中から始まります。語り手の「ぼく」ジム・バーデンは十歳で、一年のうちに相次いで両親をなくし、東部の家から、遠く中西部のネブラスカに住む祖父母のもとに作男のジェイクといっしょに向かうところでした。長い長い旅路、「ネブラスカについて特筆すべきことは、一日たってもまだネブラスカだったということだ。」シカゴから乗車してきた親切な車掌が、ジムに、列車の前方の移民専用の車両に英語を話せないボヘミアの移民の一家がいて、その子供たちの中に、きれいな茶色い眼を持った少女がいるよ、と教えてくれました。その一家の目的地はジムと同じネブラスカ州のブラックホークだというのです。

列車は真夜中にブラックホークに到着しました。駅前は真っ暗闇で、ただ迎えの二台の荷馬車のカンテラだけがさびしく光っています。移民の親子は前の馬車に乗り、ジムはオットーという名の作男が御している荷馬車に乗ってそれぞれ20マイルほどの道のりを麦藁にくるまりガタガタ揺れながら出発しました。長い物語の最後に、40歳になったジム・バーデンが再びこの古い轍の残る道を訪れたとき、彼は自分自身に戻って来たという感覚を味わいます。「これは、アントニーアとぼくが、ブラックホークで汽車を降り、麦藁の中に寝かされたあの夜、どこに連れて行かれるだろうとかと思った子供たちが通った道なのだ。目を閉じると闇の中で馬車の揺れる音が聞こえ、すべてを消し去るあの未知の世界に再び圧倒される。‥‥アントニーアとぼくにとって、この道は宿命の道だった。」

さて、祖母の家に着いたジムは、その家と農場と菜園などすべてのことが大変気に入ります。敬虔な祖父とやさしい祖母、気のいい作男たち、居心地のよい台所、自分のために用意された仔馬など。ところが、挨拶がわりに食料をたくさん持って祖母と訪ねた移民の一家は悲惨な状況でした。誰も英語ができないので、周旋人に言いようにあしらわれ、高値で買った土地は荒地で、住む家はダッグアウトと呼ばれる土手に掘った横穴でした。

そのシメルダ家には両親と五人の子供がいて、そのうち長女の14歳になるアントニーアがジムの心をすっかりとらえてしまいます。車掌が言っていたように、彼女の眼は大きくて、暖かい感情がこもっていて、まるで、太陽の光が降り注ぐ森の中の茶色の池のように輝いていました。肌も褐色で頬には豊かな赤みがさし、褐色の髪は撫で付けるのも容易でないように思われました。二人は子供同士すぐに気が合って、 アントニーアはジムの手を握って土手の上へ駆け上ります。土手の上から見わたす広々とした平原、金色に輝く樹々、アントニーアは友だちができた喜びをカタコトの英語でジムに伝えようとします。帰り際、馬車の上の祖母に、アントニーアの父親であるシメルダ氏は、懇願するようにボヘミア語と英語が書かれた小さな本を見せて、「教えてください、、、私のアントニーアに英語を教えて下さい!」と訴えるのでした。

その日から毎日、アントニーアは近くはない草原の道を、走って、ジムの祖父母の家に通って来ました。ジムと歩き回ったり、祖母の台所の手伝いをしたりして、二ヶ月経つ頃には十分な英語力を身につけてしまいました。遥か遠くから来た移民の一家にとって、家族の誰かが英語を話せるようになることは一家の命運を握っていたのです。

ある日、ジムとアントニーアが暖かい土手のうえに座っていると、淡い緑色の弱々しい虫が、草から、痛々しい様子で出て来ました。ススキの茂みに飛び移ろうとして失敗し、落下すると脚の間に頭を隠すように触覚をふるわせています。アントニーアはその虫をそっとつまみ、両手で暖かい住処をつくってやると、ボヘミア語で陽気に甘やかすように話しかけました。やがて、その虫は二人のために歌いはじめました、かすれた、か細い声で。その瞬間、アントニーアの目に涙が浮かびました。遠いボヘミアの日々を、、故国の村では、ハーブや森で掘ったキノコを売り歩く乞食の老婆がいて、家の中に入れてやり暖炉の前の暖かい場所に座らせると、しわがれ声で古い歌を歌ってくれるのでした。アントニーアは、その虫を自分の髪の毛の中に入れ、スカーフをふわりとその上にかけました。

「お父ちゃんはいつも具合が悪い」とアントニーアは迎えに来たシメルダ氏を見つけると、言いました。「お父ちゃんは本当はアメリカに来たくなかった。ボヘミアではヴァイオリンを弾いていたんだ。オーケストラの友だちもたくさんいた。だけど、母ちゃんが長男のアンブローシュのためにアメリカに来ることを決めたんだ。母ちゃんはアンブローシュに金持ちになってもらいたかった。アメリカには牛や家畜がたくさんいて、嫁さんもたくさんいるって。父ちゃんはもうヴァイオリンを弾かない。昔は毎日弾いていたのに。ときどき音を鳴らすけど、もう弾かないの。」

シメルダ氏はアントニーアに近寄って、その髪の毛をそっと分けて、か弱い虫を見つけました。「ぼくたちは心地よい沈黙の中で立っていた。その間、アントニーアの髪の毛に守られた吟遊詩人は、かすれた声で泣いていた。シメルダ氏がその声に聴き入っているときに浮かべた悲しみとすべてのものに対する憐れみに満ちた微笑みを、ぼくは決して忘れることはなかった。」

ネブラスカに厳しい冬がやってきました。ジムの祖母は、シメルダ家の生活を心配して、ジムと作男を連れ、たくさんの食糧を馬車にのせて、土手の家を訪れます。シメルダ家に近づくと、アントニーアが、頭をスカーフで包み、木綿の服を風にはためかせて、上下するポンプの柄に全力をかけている姿が目に入りました。ジムたちの馬車の音がきこえると、彼女は肩越しに振り返り、水桶を持ち上げると土手の穴に向かって走りはじめました。

祖母が戸を叩くまもなくシメルダ夫人が祖母の手を掴み、母国語で早口でしゃべっては、泣いたり、ボロ布で包んだ自分の足を指差したりしています。アントニーアの母親は、隣人を放っておいたジムたちを非難するように、ほとんど空っぽになった二つの樽をみせました。一方には、捨てられた所から拾ってきた腐って凍りついたジャガイモが、もう一方には小麦粉が少しこびりついています。「バーデンの奥さん、お母ちゃん(マメンカ)を気にしないで下さい。とっても悲しんでいるんです」とアントニーアは、スカートで手を拭き、祖母が手渡す品物を受け取るときつぶやきました。ジムは、これ以上打ちひしがれた彼女を見たことはありませんでした。薄暗い部屋には黄色いカンテラがつき、マレクという名の重度の知的障害者の弟は喉をゴロゴロ言わせながら床をはっています。「ユルカ、私のアントニーア」と二人の娘の名を呼ぶシメルダ氏の絶望した声が聞こえて来ました。ストーヴの奥には石油樽ほどの丸い穴が掘ってあって、二人の娘は毎夜ここで藁ぶとんにくるまって寝ていると言うのです。祖母はそれを聞いて後ずさりしましたが、アントニーアは、「床の上はとても寒いし、ここは穴熊の巣穴みたいに暖かいんです。あたしはここで寝るのが好き」と熱を込めて言い張りました。

シメルダ氏は、たった一つの椅子に祖母を座らせると、低い声で話し始め、それをアントニーアが通訳しました。それによると、彼は次のようなことを分かってもらいたかったのでした。彼らは、故国では乞食ではなかった。いい給料を稼いでいたし、ボヘミアを出発した時には、旅費を支払った後でも千ドル以上の貯えがあった。ニューヨークで換金した時に損をし、ネブラスカへの鉄道運賃は予想以上に高かった。土地の代金を払い、馬や牛や農機具の代金を払うと、もう残っている金はほんのわずかだった。しかし、春まで持ちこたえられれば、鶏を買い、菜園を植え、うまくやっていけるだろう、だが、雪と過酷な天候が、家族全員を意気消沈させてしまった、と。

深い雪の中のクリスマス、ジムの家ではクリスマスツリーをかざり、テーブルにはワッフルとソーセージがならび、祖父は皆を集めて、いつもの朝より長く福音書の数節を読みました。すでに前日に、ジェイクがシメルダ家の人たちにクリスマスの贈り物を届けており、彼はシメルダ家の人たちがいかに喜んだか、あの長男のアンブローシュでさえ親しげな態度を見せ、帰って行くジェイクを途中まで送ってきたことを話しました。クリスマスの午後四時ごろ、シメルダ氏が突風の中を歩いてきて、自分の家族に対するクリスマスの贈り物への感謝を伝えにきました。さっそく、夕食が準備され、シメルダ氏は、祖母の家の暖かく明るい雰囲気にすっかり魅了され、その心地よい安全な雰囲気に浸っていました。窮屈な穴倉のなかでの生活が続いたからでしょうか、シメルダ氏は苦痛から解放された病人のように身動きもせず安楽椅子に座っていました。

雪解けが訪れる始める頃、シメルダ氏が納屋で銃で自殺したという報せが入ってきました。まだ凍てつく寒風の中での葬儀、自殺者はどの墓地でも受け入れてもらえないので、一家は土地の境界近くに墓穴を掘り、そこに父親を埋めました。いつも「私のアントニーア」と呼ばれて、子供たちの誰よりも父親から愛されていたアントニーアの悲しみは深く、この日から彼女は大きく変わっていくのです。十五歳になり、長女としての責任を自覚し、朝早くから日の落ちるまで、荒地を開墾し、トウモロコシを植える重労働に精を出し、顔は焼け、肌けた上半身を泥だらけにして、馬や牛を引っ張っていました。ある日、ジムが、学校が始まり、良い先生もいて、いろんなことが学べるからとアントニーアに学校に通うようにという祖母の伝言を持って来ました。「あたしには勉強している暇なんてない」とアントニーアは答えました。「兄さんと同じように働けるんだもの。学校は小さな男の子にはちょうどよいところよ。でもあたしはこの土地を立派な農場にしなければならないの」そして、彼女は舌を鳴らして馬に合図をし、納屋に向かって黙って歩きはじめました。その張りつめた沈黙に気づいて、ジムがアントニーアを振り返ると、彼女は薄れていく夕焼けの赤い光の中で、顔をそむけるように泣いていました。

「いつか、学校で習った良いことを、あたしに教えてくれるわね、ジミー」ほとばしる感情を声にこめて彼女は訊きました。「父さんは学校にたくさん行った。沢山のことを知っていた。ホルンやヴァイオリンを弾いたし、沢山の本を読んでいたので、ボヘミアでは神父様たちが父さんのところに話に来た。ジム、あたしの父さんのこと忘れないでしょう?」「うん、絶対忘れないよ」とジムは答えました。

ある日、アントニーアが寝る前に納屋の様子を見に行った時、二頭の馬のうちの一頭の腹部が腫れ、頭を垂れて立っているのに気づきました。長男のアンブローシュは近隣の農家に働きに出ていて不在でした。アントニーアは、もう一頭の馬に鞍も置かないまま乗ると、嵐のような速さで駆け、もう寝ようとしているジムの家の戸を叩きました。祖父が扉を開け、すぐに浣腸器と湿布を持って、アントニーアとともに夜の闇の中に駆け出して行きました。着いたとき、アントニーアの母親はうめき声を上げながら馬の腹を手で揉み絞っていました。直ちに浣腸器が使われ、腸内にたまっていたガスが音を立てて放出されるのにたいして時間はかかりませんでした。馬の腹は目に見えて小さくなりました。「もし、この馬が死んでしまったら」とアントニーアは叫びました。「あたしはアンブローシュが戻ってくるまでなんて、この家にいられませんでした。夜明け前に、池に飛び込んで死んでいました」

「きつい野良仕事は、あの子を駄目にしてしまいますよ。感じの良い態度をなくしてしまい、下品で無作法になってしまう」とジムの祖母は言いました。実際、ジムと会っている時のアントニーアは、男のように音を立てて食べ、食事中に平気であくびをしています。それで、ジムの祖母は、夏だけアントニーアを雇って家の家事をやってもらうことにしました。再び、ジムとアントニーアにとって楽しい日々が始まりました。朝起きるとすぐに、二人は昼食のための野菜をとりに菜園に行きました。祖母は彼女に日焼け帽をかぶらせましたが、菜園に着くやいなや彼女は帽子を草の上に放り投げ、風に髪をなびかせました。豆の蔓の上に屈みこんでいるときに、アントニーアの上唇に汗の玉が小さな口ひげのようになっていました。「あたしは、家の中より外で働くのが好き」と、彼女は楽しげに歌うように言いました。「あんたのお祖母さんが、外の仕事をすると、男みたいになるって言うけど、気にならない。男みたいになるのが好き」彼女は、頭をぐいと反らして、日焼けした腕の力こぶを触ってみてとジムに言いました。

カンザスとネブラスカのトウモロコシ畑は世界一です。地平線の果てまで続く金色の波のように揺れ動きます。トウモロコシの収穫をする人たちは、夜は暑いので、涼しい乾草小屋で眠ります。ジムとアントニーアは、毎夜、鶏小屋の上の傾斜した屋根に上って動いて行く雲を、青く深い海のような空を見ていました。「トニー、きみはどうしていつも、こんな風に感じよくいられないの。なぜいつも、男みたいにふるまおうとするの?」ジムがそう聞くと、アントニーアは答えました。「もし、あたしが、あんたみたいにここに住んでいたら、話は別よ。生きるのが楽だもの。でも、あたしたちには厳しいんだ」

Kさん、ここで物語の前半は終わりです。私の印象に残ったページはあなたのそれとどう違うでしょうか。きっと、書き残したことがたくさんあると思っているでしょう。そう、キャザーのこの本の素晴らしさは、主人公たちもさることながら、周囲の人たちの活き活きした描写にあるのです。普通、物語の語り手がいて、主人公が別の人間の場合、失敗することが多いのは、主人公を際立たせるために、語り手が無色で中性的な人間と措定されることが多く、それが物語のリアリティーを損なうからです。まさにこの『マイ・アントニーア』をヒントにして書かれたというフイッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』がその例で、物語の語り手は単なる添え物にすぎません。ただし、冒頭の数十頁のみは読ませる、というのも、このような形式の小説の場合、回想形式が物語の雰囲気を多分にロマンティックにするからです。同じような失敗作はアラン・フルニエの『ル・グラン・モーヌ』でしょう。筋自体も退屈ですが、語り手の少年のとらえどころのなさが致命的です。

『マイ・アントニーア』の成功は、ただ単に語り手の回想がアントニーアだけに集中することなく、その周辺をきめ細かく、しかも劇的に描いている点にあります。まずアメリカ中西部の自然、冬の厳しさ、酷暑の大平原、ガラガラ蛇とプレーリードッグ、そして農場に働く人たち。ここで描かれるオットーとジェイクという作男の肖像は誰にもまして心に迫ります。彼らは流れ者の労働者なのですが、陽気で子供好きで、約束の時間を超えて働き、どんな緊急な用事にも対応します。骨惜しみをすることは彼らの誇りが許さないのです。「思い出すと、二人とも何とむき出しの顔をしていることか。彼らの荒っぽさと感情の激しさが、まさに彼らを無防備にしているのだ。世界に立ち向かうために彼らが持っているものは、素手の硬い拳だけだ」そして、祖父母の一家が引っ越して、ついに彼らと別れる時がやってきます。「ジェイクとオットーは最後までぼくたちに尽くしてくれた。町への引越しを取り仕切ってくれ、祖母の台所に棚や戸棚を作ってくれた。しかし、とうとう何の予告もなしに彼らは行ってしまった。ある朝、晴れ着を着込んで油布のカバンを持ち、彼らは西に向かう列車に乗り込んだ。、、、そして再び彼らに会うことはなかった」そして、この小説の最後に、アントニーアとジムが古い昔の写真を取り出して、オットーとジェイクのことを思い出す時、私たちもまたある感慨に浸るのです。これこそ小説の力でしょう。

他にも様々な人々が登場します。ほとんどが移民の人たちで、皆、止むに止まれぬ事情で故郷の国を飛び出してきた人々です。たとえば、ピーターとパヴェル。ウクライナ出身のこの二人の男性は、その本名すら知らされず、荒野の真ん中の掘立小屋に二人で住んでいました。英語をほとんどしゃべれないが、働き者で、人が良いので、生前のシメルダ氏や、ジムやアントニーアまでもたびたび彼らの小屋を訪れて時間を潰していました。しかし、パヴェルが作業時の事故で亡くなると、ピーターはすべてを売り払って西の方へ去って行きます。死の直前にパヴェルは、シメルダ氏になぜ故国を離れたかを説明するのですが、それは世にも恐ろしいことでした。ウクライナの冬の夜、知人の結婚式のとき、ピーターとパヴェルは新郎新婦の乗る橇の御者役を務めました。その年はオオカミの被害が多発していました。だが、酒をしこたま飲んでいた彼らは何の心配もせずに橇に乗り込みました。やがて、気がつくとオオカミの群れに跡を追われています。懸命に橇を駆って逃げるものの、他の橇の人たちは次々とオオカミに捕まり噛みちぎられています。ピーターとパヴェルと新郎新婦を載せた橇だけがまだ逃げていましたが、ついに馬が重さに耐えきれず、オオカミに追いつかれそうになりました。 そのとき、パヴェルはピーターに手綱を渡すと、新郎新婦のところに行き、荷を軽くしなければならない、といいました。そして、新婦と新郎を橇から放り投げたのです。ピーターとパヴェルは、それから村を追い出され、ウクライナ中を彷徨いましたが、どこに行っても出身地を聞かれるとあの出来事が人々に思い出されたのです。彼らは、アメリカへの渡航費を稼ぐため五年間働き、やっと新天地に着きましたが、心の重荷から解放されることはありませんでした。

Kさん、移民の人たちの苦労話というと、私はすぐにルイ・エモンの『白き処女地』(原題Maria Chapdelaine)を思い出します。カナダに入植したフランス人一家の話ですが、酷寒の中での農作業、作男の気風や作業用の馬や牛への愛情、僻地で重病に罹ることの恐ろしさなど、自然主義フランスの作家らしく、丁寧に精密に描かれています。惜しいことには主人公の少女がアントニーアほど生彩に富んでいない点で、最後は宗教的な諦観で終わるのも納得できません。しかし、これもやはり一読の価値ある名作です。なお作者のLouis Hemon(1880-1913)はわずか32歳で、無名のまま急行電車にはねられて死にました。

ところで、いよいよ『マイ・アントニーア』の後半のめまぐるしい展開を書かねばなりません。ジムの祖父母は年取って農作業が辛くなったので、一家は農場を売って、ブラックホークの町へ引越しました。祖父母の新しい家の隣には、ノルウェーからの移民で穀物商として成功し町に隠然たる影響力を持つハーリング一家が住んでいました。特に、祖母とハーリング夫人はその宗教心と寛容の心から互いに親しく交際するようになったのですが、日頃からアントニーアの過酷な仕事を心配していた祖母は、ハーリング夫人に家事手伝いとしてアントニーアを紹介します。こうして、農場の辛い仕事で荒っぽくなった彼女は、一転、ハーリング家で子供の世話や料理や洗濯を引き受けることになりました。気だての良いアントニーアは、どんな仕事も精力的に明るくこなし、たちまちハーリング家でなくてはならない存在になっていきます。

アントニーアをハーリング夫人に紹介したとき、祖母は次のように説明しました。「あの子が初めてこの国に来て、彼女を見守る品の良い父親がいたとき、あの子はわたしが見たことがないほどかわいらしい娘だったのですよ。でも、あの子は大変な生活をしてきました。粗野な脱穀をする男たちと一緒に野良仕事をしていたんです」ハーリング家の人々はアントニーアの父親の死のいきさつを知り、17歳の少女がこれまで経験した様々なことに心打たれました。特にハーリング夫人は祖母と同じようにアントニーアを愛し、彼女の幸せを願うようになったのです。

「アントニーアとハーリング夫人の間には、根本的な調和が存在していた。二人とも強靭で自立した性質だった。自分の好みを知っていて、人の真似はしなかった。子どもと動物と音楽を愛し、乱暴な遊びと土を掘ることが好きだった。こってりした栄養たっぷりの食事を作り、人々がそれを食べるのを見るのが好きだった。白いふかふかのベッドを整え、幼い子どもたちがそこで眠っているのを見るのが好きだった。気取った人たちをあざ笑い、不運な人たちに素早く救いの手を差しのべた。二人の心の奥底には、心から陽気に人生を楽しむ気持ちがあり、それは細かいことにこだわりすぎず、人々に活気を与えるものだった」

ところが、自立心が強いがゆえに二人はついに別れることになります。町にダンスの季節がやってきて、アントニーアはテント張りのダンス会場に連日通うようになりました。一度のめり込むと制御の効かない性格なので、昼間からダンス音楽を口ずさみ、夕方になるのが待ちきれません。そして、天性のダンスの才能と明るい少女らしさは街の男たちの注目となります。浮ついたアントニーアにハーリング夫人は、ダンスを取るかハーリングの家を取るか、どちらかを選択しろと迫ります。誰もあたしを束縛することはできません、とアントニーアは言って、ついにハーリング家を出ることになります。ここからアントニーアのいわば「転落」が始まるのです。列車の車掌をしているプレイボーイに騙されて駆け落ちし、捨てられて戻ってきますが、すでに彼女は妊娠していました。

もはや取り返しのつかない過ちで、アントニーアは、彼女を思う立派な人間の忠告を無視して、女性の誇りを泥の中に捨てたのです。しかし、アントニーアは再び生き返ります。堂々とした態度で生まれた娘を育て、実家で農作業に勤しみます。やがて、同じボヘミア出身の誠実な農夫と出会い、結婚し、何と計十一人の子宝に恵まれます。一方、ジムはハーヴァード大学を出て、大陸横断鉄道の専任の弁護士となり忙しい毎日を送りますが、ニューヨークでの結婚生活は必ずしも幸福ではありません。そして、ある日、40歳になったアントニーアに会うために再びネブラスカのトウモロコシ畑を訪れます。

Kさん、私にはこの最後の場面がもっとも感動的だったのです。つまり、ここで、この物語の冒頭に置かれたエピグラム、ヴェルギリウスの「最良の日々は何よりも早く過ぎ行く」という言葉の意味がわかるのです。ジムがアントニーアの子沢山の家を訪れると、子供たちのすべてがジムのことを知っており、子ども時代のアントニーアとのエピソード、ガラガラ蛇を退治したことやオットーの作ってくれた橇で遠くまで遊びに行ったこと、なども一つ残らず知っているのです。それどころか、ピーターやパヴェルのことも、作男のオットーやジェイクのこともジムの祖母やハーリング家の人々のことも知っていたのです。それは、毎夜、子供たちにアントニーアが彼女の「黄金時代」のことを話して聞かせていて、あの幸福な日々の思い出のすべてが彼女の子供たちに共有されていたからに他なりません。

そして、その時、ジムは初めて、過ぎ去って戻ってこないあの時代が、自分にとって最良の時であり、それがアントニーアという一人の少女に象徴されていたことを知るのです。こうして、最後のページは、ジムとアントニーアがブラックホークの駅から馬車に揺られて行った道を再び見つけることで終わるのです。Kさん、これは幸福な終わり方でもなければ、不幸な終わり方でもありません。それは、また、現在をより良く生きよというメッセージでも、むろん、ありません。幸福とは、それを呼び起こすことにある、という単純な事実にこそこの物語の真意はあるのだと思います。

最後に、読者の誰でもが持つ疑問、なぜジムはアントニーアと結婚しなかったのかという疑問が残っています。ジムは、その生涯で出会うどんな女性よりもアントニーアを愛していました。そして、結婚できなかったからこそ、今もなお彼女を愛しているのです。なぜ、結婚できなかったか。それは、人生の大いなる秘密です。家族ぐるみで知り合いである場合、往々にして、好き合った同士でも結婚に至らぬ場合が多いのですが、それは様々なしがらみや妨害が感情の素朴な表出を抑制するからです。それは私たちの誰しもが身の回りで経験することではないでしょうか。しがらみを断ち切って飛び込むことは誰でもできるというわけではありません。
Kさん、さびしい終わり方になってしまったでしょうか。どうぞ、お元気で。

| | コメント (3)

« 2013年5月 | トップページ | 2013年8月 »