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2013年7月27日 (土)

サント=ブーヴ通りで(3)雨の日曜日

6月23日(日)

   日曜日、ノートルダム大聖堂に行くつもりで早起きしたのですが、支度でグズグズし過ぎて、ホテルを出たのはもう9時半でした。なぜ、ノートルダムに行くことにしたかというと、旅に出る前に、ジャン・ジェンペルの名著『カテドラルを建てた人びと』(鹿島SD選書)を読んだからです。それによると、フランスにおいて、12世紀後半から14世紀前半に至る大聖堂の建設ラッシュは、まさに世界史的驚異の一つであったようです。まず、勃興する商人たちを中心とした豊富な建設資金、そこには今では考えられないような深い信仰心があります(絶対君主のためには一円でも寄付する人間などいないでしょう)。彼ら資金の寄付者たちは、自らの眼で完成を見届けることができないのを承知で寄付したのです。百年後に子孫が完成した尖塔を見上げられればそれでいいと、常に現場を訪れて工事の進捗状況をチェックしていたのです。

   次に建設技術の驚くべき進歩です。ギリシア・ローマの建築技術がほとんど忘れ去られていた時に、彼らは工夫し、古代の資料をあたり、イスラムの翻訳に学んで、当時世界最高の聖堂を造り出していたのです。石工、屋根職人、ガラス職人、彫刻師などが、競ってその技術を極めていました。彼ら職人たちの身分と報酬は高く、彼らはしばしばヨーロッパ中を渡り歩き、諸方の現場近くに住み込んで暮らしました。特に石工(メーソン)の組合的つながりは後にフリーメーソンと呼ばれる世界的な組織に発展する基となりました。私の勝手な思いつきですが、石工が仕事を請け負ったときに渡される手袋が、フリーメーソンの入会儀式の時に必ず着用される白い手袋につながっているのではないでしょうか(ミッキーマウスが常に白い手袋をはめているのは、ウォルト・ディズニーがアメリカの有力なフリーメーソンだからだ、ということはよく指摘されます)。

   しかし、百年戦争(1337〜1453)を境に大きく変貌します。人々のエネルギーは寺院よりも城砦の建築に当てられ、そこでは粗雑な建築技術しか必要とされません。細やかな技術の伝承はいつしか途絶え、聖堂を建てられる職人の数も減ってきます。そして、何より伝染病、戦争による荒廃が人々の宗教心を内側に閉じ込めて、聖堂建設の資金も調達が難しくなってくるのです。そう考えると、パリやシャルトルやランスの大聖堂が奇跡に近いモニュメントであったのも頷けるでしょう。

    さて、いつものようにヴァヴァン交差点のメトロ入口でモビリスを買い、モンパルナス大通りのカフェ・ロトンドの前の停車場でバスを待っていたのですが、なかなか来ません。すると、黒人の太ったお婆さんが近づいて来て、向こうのモンパルナス駅前の交差点を指差して、マニフェスタシオン、マニフェスタシオンと叫んでいます。どうも、駅前でデモがあってバスが走れなくなっているのを教えてくれているようです。そういえば、その交差点からバスは一本も曲がって来ません。とにかく、モンパルナス駅前まで行ってみようと、二人でぶらぶら歩いて行きました。駅前についてみると、たいへんな人出、デモ隊を運ぶバスが集結していて、とても路線バスが走れる状況ではありません。教員や医療関係者や障害者の処遇についてのデモらしいのですが、詳しいことはよくわかりません。路線バスが出ないのは確実なので、地下鉄でサン・ミッシェルまで行き、サン・ミッシェル橋を渡ってシテ島に入り、目の前に大きく建つノートルダム大聖堂に向かいました。

   ところが、大聖堂に近づくにつれ、見学にくる人の数があまりに多いのに驚きました。続々と人が集まってきます。白人もむろん多いが、目立つのは南米系と中国人のツアーの人たちです。南米はカトリック系が多いので納得できますが、中国人の目的は何でしょうか。それよりも、中国人のツアーのリーダーらしき人物が大声で叫んでいるのが耳障りです。入口は入場制限していて、なかなか入れませんが、行列の中でも大声を出しているのは中国人だけです。入口のポルタイユをじっくり見ようと気構えていたのですが、その騒然とした雰囲気にすっかり気が削がれてしまいました。

   ぞろぞろと人波に運ばれて、大聖堂の内部に入りましたが、そこもすごい人の数、すでにミサは始まっていましたが、ロープが張ってあって、席にはつけません。係員が何人も立っていて、ロープの隙間から入ろうとする人に注意しています。私はもう嫌になってすぐ出たくなりました。というのも痔の具合が悪いのか、お尻が痛くなったからです。外へ出て、ノートルダムの北側をずっと回って行きました。やっと人の波から解放されて、ホッとしたものの歩くたびにお尻がズキズキ痛みます。

   ところで、ノートルダム大聖堂について、ユイスマンスは次のようなことを言っています。そこには何か純粋ならざるものがある、と。ランスやシャルトルやアミアンの宗教的純粋さを疑う人はいないでしょう。ところが,パリのノートルダムでは、いたるところ錬金術的表徴が顔を覗かせているというのです。私はこのことを次のように考えたい、すなわち、当時パリは錬金術の聖地だった、あまたの錬金術師がパリに集まって、その中には自分の「技術」でひと財産稼ぐものもいたに違いない、そのような金持の寄付がノートルダムの意匠に物言わせているのではないでしょうか。パリ1区サン・ジャック塔の近くに住んでいた偉大な錬金術師ニコラ・フラメル夫妻は13世紀から14世紀にかけて、錬金術で得た富を貧しく信仰篤き人々のために使い尽くしたのです。

   シテ島の東の外れ、ノートルダム寺院の裏道をとぼとぼ行きました。もはや観光客の姿は数えるほどです。橋を渡って右岸へ、と思ったら、右岸ではなく、サン・ルイ島へ渡ってしまっていました。お尻は依然として痛いし、大粒の冷たい雨も降ってきました。天気予報で雨になるのを知っていたのに、傘を持ってこなかった迂闊さが悔やまれます。どうしようか、日曜なので開いている店も少ない。とにかく、カフェに入りたかったので、手近にあった cafe Louis13という店に入りました。エスプレッソを二つ頼んで、すぐにトイレへ行こうとしたら、妻に先を越されました。腰を浮かしたまま、待つこと数分、やっと地下のトイレに行って応急処置を済ますと嘘のように痛みは無くなりました。

   再び外へ出ると、まだ雨は止まず、むしろ強くなっています。島のメイン・ストリート、サン=ルイ・アン・リル通りに出ると、すぐ近くに教会の細い尖塔が見えました。それが、小さくて好ましい教会、サン=ルイ・アン・リル教会で、私たちはこれ幸いと雨宿りのために中へ入りました。教会は、日曜のミサの真っ最中でした。私たちは邪魔にならないよう後ろの席に座って静かにしていました。集まっている人は20人ほど、みな地元の人のようで、老人の数が目立ちます。濡れた服を乾かしながら、司祭の話をぼんやり聞いていましたが、ミサを聞くことはフランス語の勉強には格好だと気づきました。司祭は、ゆっくりと、はっきりと話してくれるし、繰り返しが多くて、聞き逃したところももう一度言ってくれます。ただし、聖書の引用が多いので、新旧訳ともあらましを知っていないとついて行けません。時折、みな立ち上がって賛美歌を歌うので、私たちも歌いました。これも繰り返しが多くて、妻はすっかり諳んじてしまいました。

   外に出ると、いつの間にか雨は上がっています。ぶらぶらとサン=ルイ・アン・リル通りを歩いて行きました。日曜なので、本屋などの店が閉まっているのが残念です。是非、訪れたかったサン=ルイ・アン・リル通り51番地のルネ・ゲノンの住んでいたアパルトマン(元々は17世紀の館、18世紀初頭に改装、設計は建築家ピエール・ドゥ・ヴィニ、鉄柵はニコラ・ヴィエ、彫刻はフランソア・ルミエ)に行ってみましたが、何と建物の前面がすべて改装用のシートとパイプで覆われていて、全く何も見えないのです。悔しくて、ステッキで地団駄を踏んでしまいました。

   気をとり直して、ブルボン河岸へ。ここはサン・ルイ島の北側で、セーヌ川のさざ波が低い防波堤に打ち寄せています。サン・ルイ島というと、今では高級住宅地として有名ですが、私にはこの島も、このブルボン河岸も、何か裏寂しくて陰気に見えます。私は東京の下町の黒くて暗い川の多い地域で育ったので、川岸を歩くとなぜか寒々とした感じがするのです。『失われた時をもとめて』の中で、スワンがサン・ルイ島の南側のオレルアン河岸に住んでいるのを、地味で似つかわしくないところに住んでいるとオデットが思うのも無理ありません。その昔はこの島にワイン倉庫があったのも頷ける話です。

   ブルボン河岸を歩き始めるとすぐにカミーユ・クローデルの住んでいた建物が見つかりました。ロダンに匹敵する才能を持ちながら、ロダンとの愛に翻弄されて精神を病んでいったカミーユについては弟のポール・クローデルが愛惜をこめて書いています。また、イザベル・アジャーニ主演の映画『カミーユ・クローデル』も夫婦で見ましたが、想像を超えた暗さで暗澹となりました。しかし、私は男との愛のために精神障害に陥った女性を人生で何人も見ています。

   カミーユ・クローデルのアパルトマンの並びにエミール・ベルナールの住居もありました。さらにブルボン河岸を行くと、ヴォルテール、ボードレール、ショパンらに関係あるというランベール館もありました。雨は上がったが、寒いし、曇っているので、何となく暗い気持ちです。早くサン・ルイ島から出たいと思ったが、どうもバスが走っている様子はありません。そのうち、妻が突然、お腹が空いた、ビストロに行きたい、と言い出しました。日曜なので、空いている店を探すのは大変ですが、妻の希望はできるだけ叶えたい。手帳を繰って、バスティーユの近くにまずまずのビストロがあるのを発見しました。島を出て、ポン・マリーの停車場へ行くとバスティーユへ行く69番のバスはあと10分でくるという電光掲示がありました。それで待合所に座っていたのですが、何分待ってもバスは来ません。そのうちに、電光掲示板の待ち時間は20分になり30分になり、ついに50分になりました。今日はもうバスはダメだ、と意を決してバスティーユまで歩くことにしました。近くのポン・マリーからの地下鉄では遠回りになってしまうのです。アンリ四世通りをぶらぶらと歩いているうちに、ハッと気付くと、なんと足の痛みが和らいでいるではありませんか。痛風の発作は、だいたい24時間でピークを迎え一週間で収まります。旅行中は良くならないだろうと思っていたので、これはサン=ルイ・アン・リル教会で神様に祈った効果でしょうか。

   急に軽くなった足取りでバスティーユまで行き、メトロで一駅だけ乗って、ルドリュ・ロランへ。ルドリュ・ロラン通りとシャロンヌ通りとの交差点にある Le Bistrot du Peintreに入りました。ここは1902年創業のレトロなビストロです。店内はほぼ満席、片隅の席に座って、妻はdorade(鯛)を、私は鴨のコンフィを注文しました。ワインはサンセール、美味しかったが28ユーロは痛かった、とはいえこれが一番安いワインだったのです。痛風が治ったと思って、妻と二人でひと瓶飲んでしまいました。鯛はオリーブオイルがたっぷりかかって、むしろ淡白な味、鴨は美味だったが、付け合わせのポテトのにんにくの量が半端ないのには参りました。

   お腹がいっぱいになった後、妻の希望でモンマルトルのロマン主義博物館へ行くことになり、ルドリュ・ロランからメトロでリシュリュー・ドルオーへ。そこからまっすぐ北へ上って歩いて行きました。足の痛みが劇的に和らいでうれしいが、日曜なので店がどこも開いていないのが残念です。途中にノートルダム・ド・ロレット教会があったので休みがてら入ってみることにしました。ここは大変立派な教会で、その歴史は17世紀に遡るようです。身廊の上部横にぐるりと飾られたフレスコ風の絵画はイタリア的だし、天井の装飾はビザンティン風です。一周してから、入口の聖水盤のところでぼんやり立っていたら、白人の中年男が近づいて来て、私に、あなたは仏教徒か、とフランス語で聞いてきました。ノン、と答えると話が長くなりそうなので、ウィ、と答えると、白人は一歩下がって私に向かって両手を合わせて拝んでいます。私も片手で祈る仕草をしながら軽く頭を下げました。傍で妻が笑いをこらえているようなので、早々に教会から出て来ました。

   雰囲気のあるマルティニ通りを上って、ロマン主義博物館に着きました。ここは二回目ですが、前の時はお腹を壊していて体調が最悪だったので、じっくり見ることができませんでした。ところが、じっくり見ても狭いのですぐに見終わってしまいました。ここの良いところは、展示物よりも館や館を取り巻く全体の雰囲気です。カルナヴァレが貴族の瀟洒で格式ある邸宅なら、このロマン主義博物館は芸術家の憩いの場にふさわしい。館の前のベンチに座って、しばらく妻と二人で訪れる人々を観察していました。中国人の姿が全く見えないのは、カルナヴァレやクリニューと同じです。日本人がちらほら見えますが、細やかに観察し、こっそり写真を撮り、黙って目を合わせて微笑んでいる、何と好ましい人たちでしょうか。長引いた不況と原発事故と震災の経験が日本人をより謙虚な民族にしているのかも知れません。

   ロマン主義博物館を出て、ブランシュ広場からメトロでノートルダム・デ・シャンへ。エスカレーターで地上に出ると、再び強い雨が降りしきっています。ホテルに急ぎ足で入り、暖炉のある居心地良いロビーで新聞を読んだりしていました。その後、部屋で昼寝して、目が覚めると夕方の七時になるところ、日曜でほとんど行くところがないので、やはり、コメディ・フランセーズあたりの観劇チケットをとっておくんだった、と後悔しました。ただ、前回が観劇づくめで忙しかったので、今回はのんびりする心算だったのでまあ仕方がないでしょう。

   しかし、せっかくパリにいて、晩を、ホテルに閉じこもっているのはもったいない。シャンゼリゼでも行こう、と言い出したのは私でした。日曜もほとんどの店が営業しているのはシャンゼリゼをおいて他にありません。何より深夜2時まで営業している Publicis drugstore という商業施設があって、そこには雑誌や新聞がなんでも揃う本屋があるのです。妻も同意して、早速、傘を持って飛び出し、メトロでコンコルドへ。そこからシャンゼリゼまではまっすぐの距離をかなり歩くのですが、歩いているうちに雨が半端でなく降ってきました。ほとんど土砂降りです。コンコルドからシャンゼリゼまでのほぼ中間のところで、私たちは一本の傘を握り合って立ちつくしていました。雨があまりに激しいので、このままシャンゼリゼまで行くべきか、それとももうホテルに戻ってしまうか。行くにいけず、戻るにもどれず、辺りにはほとんど人通りはありません。シャンゼリゼ公園のちょうど真ん中で立ち止まってしまいました。暗い木立の続くシャンゼリゼ公園を見ながら、私は、ジルベルトと会うために女中に連れられて毎日この公園に通ってきた『失われた時を求めて』の主人公を思い出しました。

   結局、シャンゼリゼまで行ってみることにして、降りしきる雨の中を歩きました。シャンゼリゼの外れ、人出が見えてきた頃、ようやく雨は小降りになってきました。しかし、すごく寒い。服が半分濡れているので、より冷たさが増しています。大通りを歩くにつれ、人通りがどんどん増してきました。驚いたのは、すれ違う人の波の中にアラブ系の人々が多いことです。モロッコやアルジェリアなどから来た人々でしょうか。女性はチャドルのようなものを身につけているのですぐわかります。夜なのにアラブ系の家族連れも多い。ZaraやH&Mなどの大型店にも人が吸い込まれて行きます。ファストフード店、カフェ、アイスクリーム店などもほぼ満員の盛況です。シャンゼリゼの西の外れ、凱旋門の近くまでくると、やっと向こう側の歩道に Publicis Drugstore が見えて来ました。私はここで文学雑誌のバックナンバーを探したかったのです。よく、本屋へ入ると便意を催すという人がいますが、私などは本屋が視界に入った時点ですでに激しい便意が襲ってきます。信号が青になるのを腰をすぼめて待ち、青に変わった瞬間にダッシュして広い通りを急いで渡っていると(青から急に赤になるので)、渡り終えた頃にホッとしたのか、お尻のあたりに何か違和感を感じました。しまった、粗相をしてしまったか、と一瞬目の前が真っ暗になりました。Publicis drugstore に入って雑誌の並ぶ棚へ赴いたものの、気もそぞろです。ゆっくり一回りして「疲れたから帰ろう」と妻に言いました。妻もあまり元気がなかったので、凱旋門のところからメトロ6番線に乗りました。日曜の夜なので空いていたが座らずに立っていたので妻はやや不審顏です。ホテルに着き、急いでトイレに駆け込みましたが、別に何事もなかったのでホッとしました。風呂で温まり、昨日買っておいたピノ・ノワールのワインを飲んで、たちまち眠りに落ちてしまいました。

 

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モンパルナス駅前に集まったデモに参加する人たち。デモ慣れした家族連れが目立ちます。

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(http://reneguenon339.blogspot.jp/ ) より100年前の写真を引用させていただきました。1912年の新婚当時ゲノンが住んだサン・ルイ通り51番地の建物、左がファサード、右が中庭。ファサードは今でもそのまま残っているはずです。ルネ・ゲノン(1886~1951)は、知の正統性を、人間存在にも、構造の枠組みにも、はたまたいかなるオカルト的探求にも求めず、ひたすら太古からの失われつつある伝統に求めた特異な思想家です。

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カミーユ・クローデル(1864~1943)が1899~1913の間住んだ建物。この1階に14年間住んだ後、そのまま精神病院に入れられて、そこで死ぬまでの30年間を送りました。1階の窓が割られているのがこの天才彫刻家の痛ましい生涯を象徴しているようです。

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サン・ルイ島のさびしいブルボン河岸を杖を突きながら歩きます。左手にはセーヌ川の流れ、私の右横のバルコニーのある館はヴォルテールも暮らしていた歴史的建物ランベール館。残念ながら、この写真を撮った17日後の7月10日深夜に火災が発生して、屋根の大部分とともにルイ14世時代の貴重なフレスコ画が修復不可能の損害を受けました。

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ルドリュ・ロランにある1902年創業の古いビストロ、Bistrot du Peintre。天井や鏡のアール・ヌーボー装飾が目を引きます。

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ノートルダム・ド・ロレット教会のジャンヌ・ダルク像。パリ中にジャンヌ・ダルク像は掃いて捨てるほどありますが、これが一番良さそうです。裸足の足と手のしぐさがかわいらしい。

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バラに囲まれたロマン主義博物館。画家アリ・シェフールの自宅を改造したもの。これみよがしの邸宅ではなく、居心地の良さそうな小さな館がなんとも好ましい。

Photo_6

ロマン主義博物館の庭。ジョルジュ・サンド、ショパン、リストらが集った往時のサロンを思い起こさせます。

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