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2012年9月23日 (日)

パリ観劇記 帰国 AF278 深夜便

    6月28日(木)
    9時ごろ起きて、コーヒーと買い置きのパンで朝食を済ませ、早速、帰国の準備。飛行機は深夜11時35分離陸、最終搭乗時刻はその40分前の10時55分、だから12時のチェックアウト後、ホテルに荷物を預け、夕方まではのんびりできそうです。荷造りは意外と時間がかかり、部屋の片付けとかで、準備が終わったのは午前11時45分でした。このホテルはとても良いのですが、ただ湯沸かしポットが無いので、いつも持参しなければなりません。また、非常口が螺旋階段しかないのは火事の時とても不安です。荷物を持って一階に降り、レセプションで妻がカードで清算したのですが、その時レセプションの女性が妻に何か聞いています。あとで聞くと、豆を食べたのか、という確認だそうで、実は机の上にあった豆の瓶(3ユーロ)を、てっきりウェルカム・ビーンズだと思って私が酒のつまみに開けて食べてしまったのです。

   レセプションに大きな荷物を預け、軽装でホテルを出ました。といっても、最終日の今日は予備日で何の予定もないのです。パンテオンの前をぶらぶらしながら何をしようか話し合いました。あてずっぽに出発するのは良くありません。ところで、パンテオンの周りをぶらぶらしているうちに、私は歴史家ピエール・ノラの編集した『記憶の場 Les Lieux de Memoire 』を思い出しました。これは、1984年から1992年にかけて、カフェ、エッフェル塔、カテドラル、ツール・ド・フランスなど130項目の「表象」について、そこに見られる国民意識の在り方を探ったもので、執筆者は120人、全7巻の壮大なものです。日本では岩波書店から全3巻の抄訳が出ましたが、それでも全体の3分の1に過ぎません。むろん、パンテオンについても「偉人たちのエコール・ノルマル」という副題で、建造以来、歴史の波間で、埋葬者の顔ぶれに議論の多かったこの美しいドーム建築が執拗に分析されています。もし、日本の歴史学界でも同様の試みが行われたとすれば、私は是非「日本橋」について書いてもらいたいと思います。とても幼い頃、私は長兄に手を引かれて、神田駅から三越、白木屋の前を通って、日本橋を渡り、銀座まで歩いたものでした。その頃、日本橋の上にはまだ青い空がありました。それを高速道路で台無しにするような明治以来の痴呆的為政者たちを糾弾してほしいのです。(最近では、いざこと問わん都鳥、にちなむ業平橋という由緒ある駅名を東京スカイツリー駅に変更した鉄道会社の例があります)

   12時をとうに過ぎているので昼食を食べねばなりません。私は、13区のとても評判のよいベトナム料理の「フォー14」に行くことを提案しました。妻は全く乗り気でなかったが、代案が出てこなかったので、それに決めました。カーディナル・ルモワーヌまで降り、メトロの自動販売機でモビリスを買って、モンジュ通りのバス停で43番のバスを待ちました。東駅始発の43番はパリを真っすぐ南に走ってセーヌ川を渡り、カルチェラタンを突っ切って13区の外れまで、ほぼパリを南北に縦断します。観光スポットを通らない生活路線のバスのためか、地元の人達で車内は満員です。カルチェラタンから程なくしてイタリー広場に着きましたが、この辺はパリ最大の中華街があることで知られています。バスはイタリー広場を半周して、次の次の駅イタリー・トルビアックで停車、ここで降りて歩いてすぐのところに PHO14 というレストランがありました。外のテラスまでいっぱいの客、短い行列もできています。客はフランス人、中国人、日本人とさまざまのようです。

   行列はあっても、回転が速いのでほとんど待たずに入店、中国人の青年二人との相席になりましたが、店内は数多い従業員が走り回ってその目まぐるしいこと。席に着くとすぐに日本のファミレスのような写真入りのメニューが来ました。鶏肉のフォー二つと揚げ春巻一皿を注文すると、ほどなく皿いっぱいのもやしとミントの葉っぱと薬味が運ばれてきます。少し遅れて、フォーと春巻きが来ました。フォーは米粉から作った麺で、小麦粉と比べると透明感があります。スープはあっさりとしていて、レモンを絞って入れるとさらに爽やかさを増すようです。私はラーメンが苦手で、あの後味の悪さをどうにかして欲しいと思うのですが、このフォーは麺もスープも私の口に合いました。何にであれ食べ物には辛口の批評をする妻は、「フォーの麺はところ天のようで味がしなかった。スープは爽やかだが油っぽかった。ワンピースにこぼしたら油のシミがついた。鶏肉は椀の底にたくさんあって食べ切れなかった。麺をもう少し食べたかった。春巻はよく揚げていて美味しかった」ということです。しかし、これで二人で20ユーロでお釣りがくるのはパリではやはり破格の安さでしょう。私は、隣の中国人青年が食べていたスペシャル何とかという肉団子入りのフォーが美味しそうで、そっちを注文すればよかったと後悔しました。

   店の外に出ると日差しが耐えられないほど熱い。ベトナム料理の口直しにどこかカフェに入ろうとしましたが、どうも妻はこの界隈があまり好きになれない様子です。それでは、とにかく他所に行こうかということで、近くのクロード・モネ高校横のバス停から83番のバスに乗りました。83番は、パリの南東の外れ Porte d'Ivry から、北西の Friedland-Haussmann まで走り、途中にセーヴル・バビロンを通ります。バス停は日除けがついていますが、それでも日差しは容赦ない。中国人の子供二人もベンチに腰掛けて仲良くバスを待っていました。のんびりした昼下がり、向かいの公園の芝生の上では、高校生でしょうか男女が寝ながらじゃれ合っています。

   とても空いているバスに乗って、イタリー広場、アラゴ通り、グラシエル通り、国立天文台、ヴァヴァン交差点を通って、セーヴル・バビロンに着きました。すぐに、デパート、ボン・マルシェの地階の本屋へ入って、その横のカフェテリアに向かいます。黒板に書かれていたアイスコーヒー cafe glacé を注文すると、カウンターの若い男性は理解できない様子、三回発音しても通じなかったので、代わりに妻が言うと今度は通じました。広いカフェテリアに客は少ない。広いテーブルで妻は完全にのんびりくつろいでいます。私は、妻にバッグを預けて、書籍売り場をぶらぶらしました。ここはパリで最も好きな書店の一つです。広い店内はゆったりしていて、真ん中にはソファーもあるし、いつまで立ち読みしてても全く気になりません。今話題の本はもちろんですが、いろいろな装丁の古典に出会えるのも楽しみです。片隅のコーナーに、ベンヤミンの本が特別に集められていました。隣にはオクターヴ・ミルボーの『責苦の庭』の豪華版が、その隣には手元に置きたいと思っていたシャトーブリアン『墓の彼方の回想』の洒落た廉価版があります。しかし、帰りの鞄が限界なほどいっぱいなので何も買いませんでした。

   カフェテリアで次にどこにいくか相談しました。妻がサントノレ通りのジュリアンでサンドイッチを買いたいというので、私が、それでは同じ通りのまだ入ったことのないサン・ロック教会に行こうと提案しました。早速、68番のバスでロワイヤル橋を渡り、Pyramides-Sant-Honore で降りました。このバスの終点は北西のクリシー広場ですが、その時私は、今回のパリ訪問で、まだモンマルトルへ行っていないことを思い出しました。クリシー通りからモンマルトルの小道にぶらぶら入って、ロマン主義博物館からモロー美術館あたりへの坂道はもっともパリらしい地域で、芸術家たちの息吹がいまだにユトリロ風の街路から感じられるのです。しかし、もう今日は時間がありません。バス停から少し迷ってサントノレ通りに入ると、すぐにサン・ロック教会にぶつかりました。

   ああパリの教会の中はなんと涼しいのでしょう! 妻はもしこの教会で休めなかったら、この暑さできっと偏頭痛が起きていただろうと言っていました。私は帽子をとり、ミサの椅子に座ってぼんやりのんびりと寛ぎました。観光客らしい南米系の家族が一番後ろの席に並んで静かに座っています。他には一人も見学客はいません。外はあんなに暑いのに、教会の中は氷室のように冷んやりしています。立派な教会、ペストに罹患した人たちを助けて一身を捧げた聖ロックに捧げられた教会です。昔のブログ記事で私は聖ロックについて書いています。「彼は疫病が流行し始めた時期にモンペリエで生まれ、成年に達するとローマへの巡礼行脚を企てました。ところが旅の途中でペストから逃れる人々の列に遭遇したロックは、一目散に逃げ出すかわりに疫病の街に赴き、献身的に病人の看護にあたったのでした。彼は普通の人々と反対に、ペストの跡を辿り廻って、チェザーネへ行き、リーミニへ行き、ついにローマに達しました。彼は疫病のため人口が半減し巨大な墓場と化したローマに三年留まり、そしてフランスへの帰途、ついにピアチェンチェでペストに感染しました。彼は人への感染を避けるため森の中に身を潜め、静かに死を待ちます。ここに感動的な伝説が始まります。犬が聖ロックに日々のパンを運んでくるのです。彼は体力を回復し、故郷モンペリエに帰りますが、しかし、ぼろぼろの衣服でやせ細った彼を身内の人間も否認し、スパイの嫌疑で牢屋に入れられ、そこで32歳の生涯を閉じます。」

   私は聖ロックの話が好きですが、それはただ一つのこと、人生は意味があるということを語っているからです。そして、この話に深い真実性を持たせているのは聖ロックにパンを運んできた犬の存在です。一説によると、この犬は近隣の貴族の飼犬で、毎日パンをくわえて森に行く犬を不審に思った飼主が、犬の後をつけてみると、そこに横たわっている聖人を見つけたということです。私は、犬がこのような立派な行いをすることを少しも不思議に思いません。ある説話によると、聖ロックとその犬が天国の門のところまで来ると、天国の門番であるペトロが、犬は天国に入れないと言いました。ロックが思い余って神様に訴えると、神様は、聖人に愛された犬にはその権利があるといって、許したということです。聖ロックは、この世で虐げられた者たち、疫病に怯える人たち、病気で苦しむ者、巡礼者、犬や動物たちの守護聖人となりました。

    このサン・ロック教会には天井画をはじめ、側廊にも数多くの宗教画がかざられていて、たいへん驚きました。しかし、さすがに一周回ると妻は「宗教画ばかりで飽きてきた」と言っています。やはり宗教画でも、グレコやドラクロワやルオーあたりの迫力ある画なら飽きないでしょうが、ここの画は総じておとなしい画が多いようです。サン・ロック教会で十分休んで、かなり体力を回復しました。パリで一番美味しいサンドイッチと評判のジュリアンに行こうとしましたが、長いサントノレ通り、歩いても歩いても辿り着きません。時間が迫ってきたので、諦めてバスで帰ろうとしたら、サントノレ通りは渋滞でバスが来そうにありません。やむなくメトロ7番線でモンジュ駅まで帰りました。ついでにカイザー本店に寄って空港で食べるサンドイッチを買おうとして、一駅分歩いてしまいました。もう夕方でショーケースの中はほぼ空っぽ、残っていたサンドイッチを二つ買いましたが、これは失敗で、あまり美味しくありませんでした。

   ホテルに着き、レセプションで預けておいた荷物を受け取り、リュクサンブール近くのバス乗り場へ、82番のバスへ乗ろうとしたら、そのバス停が見つかりません。前に乗った時は走り出したバスを停めて乗ったので、バス停を知らないままでした。フランス人も迷っていたようで、気がつくと、小さな標識が立っているだけの目立たない場所です。やっとバスに乗った時はもう6時半を過ぎています。西日がジリっと熱くて、顔が焼けるようでした。予定より遅れたが、10時55分の最終搭乗時刻まではまだ大分余裕があるだろう、と安心していたのですが、ここから思わぬ展開が待ち受けていたのです。

   バスはリュクサンブール公園の際を音を立てて通り過ぎ、モンパルナス大通りをほとんど停車することなく走りました。陸軍士官学校、その中庭でユダヤ人の砲兵大尉ドレフュスが胸章を剥ぎ取られサーベルを折られた学校ですが、そこを静かにすり抜けて、アンヴァリッドに別れの挨拶をして、、、とそこまでは順調でした。ところが、エッフェル塔の下を通り、おびただしい観光客の列を横に見る頃から、バスはほとんど走らなくなったのです。道路の片側は警察車両がびっしり駐車しています。覗くと、帽子を脱いだ警察官が車両の中で弁当を食べています。何があってこんなに渋滞するほど警察が集まっているのだろうと不思議に思っていると、何と、今日はユーロ危機を打開するために欧州の首脳がパリに集まるユーロ・サミットの日でした。新大統領のオランドがメルケル以下の指導者と国際会議で初めて顔合わせをする日です。右岸に渡るイエナ橋のところで検問しているからか、なかなか橋を渡れません。買い物袋を提げた老婆が運転手のところまで行って、しつこく文句を言っています。ほかの乗客はみな静かに座っています。私の前に座っていたおそらく80歳近い地味な老人は、新聞を読んでいて、それはルモンド紙木曜日の別冊の本特集 le Monde des Livres です。どうも特集はハンナ・アレントらしい。アレントの大きな写真が印刷されていて、シュトラウスやレヴィナスの名前も見られます。気づくと右の席に座っている洒落た格好の老婦人もルモンドを読んでいます。

   信じられないほど時間を喰ってしまい、ポルト・マイヨーについた時はもう8時近い、しかし空はまだ完全に明るいので、空港に遅れるかもしれないという心配もあまり現実的に感じられません。ところが、シャルルドゴール空港行きのエールフランスのリムジンバス乗り場を間違えてしまって、バスを一本逃してしまってから、急に心配になりました。あと30分は次のバスは来ない。たぶん間に合うとは思うものの、渋滞の心配もあり、心はあまり穏やかではありません。それで仕方なく、エールフランスのバス停のベンチに座っていると、白人の中年女性と若い黒人男性が私たちのところにやって来て、その女性の言うところによると、その黒人青年は空港に急いでいるので誰かタクシーに相乗りして空港に行く相手を探しているというのです。フランス語訛りがあるが、わかりやすい英語です。黒人青年はフランス語しか話せないようで黙っています。私はとっさに暗算しました。リムジンバスは一人17ユーロで二人で34ユーロ、タクシーはだいたい高くても50ユーロ、その3分の2で約33ユーロで、金額はほとんど変わりません。私は、原則として、人間関係が煩わしいのと、交通事故が怖いので空港へはタクシーは利用しないのですが、時間が迫りつつあるし、人助けにもなるし、と思って同意しました。ちょうどタイミングよく、そこにタクシーが滑り込んできて、私たち夫婦と黒人青年が乗り込みました。妻が白人の女性に「あなたは乗らないのですか?」と聞きました。女性は、私はただこの人のことが気になったのでお手伝いしただけです、と言いました。タクシーが走り出した途端、私はこれら全体が詐欺ではないかと思いました。あまり都合よく物事が運びすぎます。しかし、白人女性も黒人青年も爽やかでとても悪人には思えないので、その考えは引っ込めました。

   走り出してすぐにタクシーの運転手が猛烈な早口でまくし立てました。南米系の移民らしく非常にわかりづらいフランス語ですが、どうもタクシー乗り場でないところで乗せてしまった、空港行きの人は向こうで並んでいる、と言っているようです。確かに通りの向こう側のタクシー乗り場にはたくさんの人が行列しています。だから、どうなんだと言いたいところですが、いつの間にか運転手は隣に座った黒人青年と熱心に話を始めています。道路の渋滞の話らしいのですが、このタクシーは高速に入るとものすごいスピードで走り始め、30分も経たずに空港に着いてしまいました。まず黒人青年がターミナル2のAで降りて、後部座席にいる私たちに20ユーロ札を渡しました。メーターは45ユーロを示していたので、私が5ユーロお釣りを渡すと親指を立ててニッコリ笑いました。次にターミナル2のEで私たちが降りるときは50ユーロになっていました。しかし、おかげで予想以上に早く着いたので、私たちは大いに安心しました。

   ところが、悪夢の始まりはここからで、ターミナルに入ると、エールフランスの荷物預かりカウンターは大蛇のとぐろのような行列です。最後尾はターミナルの外れまで伸びていて、とても搭乗時刻まで通過できるとは思えません。まず、ともかくEチケットを機械で印刷して(チェックインは30時間前にネットで済ましています)、荷物カートを押して長い行列の端に並びました。自動販売機で買った水を飲みながらサンドイッチを食べましたが、行列はジリジリとしか進みません。最終搭乗時刻まであと一時間を切った頃にやっとどのカウンターに並ぶか振り分ける場所までやってきました。見ていると、エールフランスの係員の手際のよくないこと、広いターミナルの中はまだ人でごった返しています。私たちは行列で疲れてぐったりしていたのですが、もうあと40分しかないという時に、妻がふと気づくと、あれほどいた人の集まりがきれいに無くなって、残っているのは私たちの列だけになっています。「あんな不思議なことはなかった」と妻は言っていましたが、取り残されたようで一気に不安な気持ちが高じてきました。歩いていた空港係員をつかまえて、チケットを見せ、もう時間がないと告げると、なにやら係員が集まって協議しています。このままでは乗り遅れるのは確実だと覚悟していたら、女性係員が私たちを列から離して、一緒に来るようにと言い、いきなり走り出しました。荷物を載せたカートを押して必死についてゆくと、ほかの航空会社のカウンターです。前に三組しか並んでいず、すぐに荷物を預けることができました。その時点であと10分、出国カウンターはスムーズに通過したものの、問題は手荷物検査です。上着を脱ぎ、カバンからiPadを取り出し、ポケットから小銭を出して金属探知機のゲートに入りました。ブザーがなったら万事休すですが、幸い二人とも無事通過して、時計を見たら残り一分、37番搭乗ゲートまでは、そこから中山競馬場の直線ぐらい距離がありそうです。妻の後について走り出しましたが、すぐに不整脈が出て、やむなく歩きました。妻だけ間に合えば大丈夫だろうと思ったのですが、何とゲートに着くと、日本人のツアーの人たちも何人か搭乗途中でした。それでもやはり最後の乗客となって飛行機までの連絡通路を行きましたが、妻に支えられ疲れ切って倒れそうながら、途中で無料のルモンド紙木曜版(本特集つき)を貰って思わずにっこりしてしまいました。

   機内に入ると、むろん満席でしたが、ほとんどは搭乗したばかりのようで、まだ荷物を上にあげたり、上着を脱いだり、少しも落ち着かない雰囲気です。添乗員の人でしょうか、客席を回って「おかげさまで全員乗ることができました。よかったですね、ありがとうございました」などと挨拶していました。やはり今日は異常で、ツアーの人たちもギリギリまで乗ることができなかったようです。私たちは、先行して座席を決めていたので数少ない窓際の二人席を取っていたのですが、そこに体を沈めて一安心、残念なのは搭乗手続を済ませたあとの身軽な時間が全くなかったことです。そこで買い残した土産や飲み物やお菓子を買い、余った小銭でペーパーバックの本を買うのを楽しみにしていたのです。それでも、とにかく何とか搭乗できた、後は眠ったまま成田に行くだけだと思っていたのですが、この旅は最後にまた一波乱が待っていたのです。

   離陸してしばらくして食事、期待していなかったが、空腹のせいか何とか食べることができました。すぐに電気を消されて、疲れ切った乗客は順次眠りに落ちて行くようです。私もペットボトルの水を飲みながら眠ったり起きたりグズグズしていましたが、気がつくと早くも到着二時間前、機内の灯りがつき、窓の覆いがスライドされ日差しがいっぱいに入ってきて、一気に帰国ムードになって来ました。ここで朝食が配られ始めました。私たちの席にもコーヒーとパンと冷たいハムとチーズが置かれました。機内の通路は、食事を運ぶクルー、飲み物を注いで回るクルー、起き抜けにトイレに向かう乗客などが混じり合ってザワザワしています。その時に、突然、ドンという大きな音がしたのです。窓際に座っていた私はびっくりして身を乗り出しました。「人が倒れた!」と妻は大きな声を出しました。通路側に座っていた妻のすぐ横に、スニーカーとスラックスを履いた中年女性らしい人がうつ伏せになって倒れています。妻によると、その女性は、通路を歩いてきて、ちょうど妻の席のところで「ウッ」といって小さくジャンプするように足を動かしてから突然倒れたということです。すぐにクルーが集まってきて、放送で医者と看護婦も呼ばれました。病人を動かすことはできないらしく、狭い通路の周りは応援に来たクルーたちでいっぱいでどこからか小さな酸素ボンベも運ばれました。しばらくして、気がつくと20台後半の女性が病人の横に座っています。クルーの一人が、あなたは誰ですかと聞くと、日本語で「医者です」と答えました。私たちもそれを聞いて、もう安心だろうと思っていたのですが、その女性は横にいるだけで、的確な手当をしているようには見えません。男性のクルーの一人がサーティフケーション(証明書)という言葉を繰り返したのもその女性を不審に思ったからでしょう。やがて、再び医者を呼び出すアナウンスがありましたが、その間、病人はピクリともしていないのです。結局、医者は見つからず、クルーの人たちは病人を、私たちのすぐ後ろのカーテンの陰に運んで、すぐにAEDの処置をしたようです。アン、ドゥ、トロワ、カトル、サンク!という緊張感あふれる掛け声とともに電気ショックの音も聞こえてきました。

   妻は突然の出来事でまだ気が落ち着かないようで、食事も全く手をつけません。やがて空港が近づくとアナウンスがあって、飛行機が着陸しても、救急隊がくるので、すぐには降りられない旨の知らせがありました。夕方の成田空港に無事着陸、救急隊員と医者が乗り込んできて、私たちの横を通り過ぎました。それから、やっと乗客は降り始めましたが、病人を貨物室から降ろすのでバゲージの出てくるのが大分遅れました。やっと流れてきたキャリアケースを手にして入国手続を済ませ、いつものように京成の特急電車に乗って薄闇の迫る千葉の風景の中を帰って行きました。   最後の最後に痛ましい光景を目の当たりにしたのですが、私にはとても他人事とは思えません。倒れた女性は、どうもツアーに個人で参加したようで家族や知人もいなかったようでした。旅の疲れ、空港での長い行列、無事飛行機に乗れた安心感、肉体と心の緊張と疲労が耐久力を超えていたのでしょう。それは、また、私に起こってもおかしくない出来事でした。

   帰宅して、猫の名を呼ぶのですが、なかなか姿を現しません。か細い鳴き声だけが聞こえるので、それをたよりに探すと、何とソファーの裏に隠れていました。抱き上げると喉を鳴らして夢中になって顔を舐めてきます。今回はこれまでになく密度の濃い旅行で、しかも体調をほとんど崩さなかったのは幸甚でした。昼間の観光疲れで、観劇中に眠くなることが多かったのは仕方ありません。疲れると思ってルーヴル美術館を避けたことと、行きたかったワインバーにいく機会がなかったことが悔やまれます。しかし、一週間は短い。これだけの体験と見聞で十分満足すべきでしょう。パリに来てまもなく、リュクサンブール公園の前の小さな横断歩道で、年寄りの痩せた男性が、非常にゆっくりと信号のある歩道を渡っていました。1センチずつ進むような遅い歩みなので、信号は赤になり、また青になりました。しかし、停まったままの自動車はクラクションも鳴らさず、じっと老人が渡るのを待っています。表情を変えず一定の速度で歩く老人と、それを平然と待ち続ける運転席の男性、私はこれをジョズ•コルティ書店の前に立って見ていたのですが、いかにもフランス的な成熟した情景だと思いました。

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パンテオン広場からサン・テティエンヌ通りに下る道。旅行者と学生が入り混じった典型的なカルチェ・ラタンの風景。

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カーディナル・ルモワーヌ通りの坂道。サングラスをした女性がドレスを着て自転車を走らせています。この光景もいかにもフランスらしい。

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13区にあるヴェトナム料理の店 PHO14。人気店なので満席、行列もできています。

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鶏肉のフォーと揚げ春巻。野菜がたくさんついています。

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セーブル・バビロンにあるデパート、ボン・マルシェ。このデパートがいちばん落ち着きます。

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美術館の教会ともいわれる聖ロック教会。宗教的絵画でうめつくされています。

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聖ロックと犬。ファサードにあった彫像の写真を撮り忘れたので、妻にイラストを描いてもらいました。足には腺ペストの傷跡がつき、衣服には巡礼者を示す帆立貝の殻がついています。犬は必ずパンをくわえています。

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一週間留守番をした飼猫のルーミー。本にもたれるのが好き。

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2012年9月 8日 (土)

パリ観劇記 第六夜 オペラ・ガルニエ 「イポリットとアリシ」

   6月27日(水)
   ホテルのあるパンテオン広場から出る84番のバスで、オルセー美術館に向かいました。朝から気温はぐんぐん上昇しています。バスはオルセーのすぐそばに停車、降りるとちょうど10時で、行列は60人ほど、しかし、今日はセキュリティ・チェックが厳しくないのか行列はスムーズに流れています。10分も待たないうちに入館、まず最上階の印象派の絵から順に見て行きました。オルセーはいつのまにか館内写真撮影禁止になっていました。残念ではあるが、静かに鑑賞できるという意味では納得できます。ところで、オルセーを観るには水曜日に限ります。月曜は休みだし、火曜はルーヴルが休館でオルセーに人が流れてくるし、木曜は開館時間が長いので混むし、金土日は空いているはずがありません。

   印象派の物語はもはや語りつくされていると言ってよいでしょう。時代も登場人物も申し分ありません。モネとルノワールが星座の中心で、すぐ近くに巨大な星、マネとドガが輝いています。外側にはさらに光り輝くセザンヌ、ゴーギャンが控え、偉大なスーラとゴッホは厳然として他を圧しています。ピサロは慎ましやかに星座を巡り、不幸なシスレーは流星のように永遠に鈍い光を放ちます。ベルト・モリゾやバジールやカイユボット、忘れられないこれら小惑星たちを含めて、すべてが19世紀最後の30年に共振し、共鳴し、光の協奏曲を奏でながら、そして静かに消えて行ったのです。その記念碑は、今や世界中に拡散していますが、メトロポリタン、シカゴ、ボストン、パリのオランジュリー、マルモッタンなどを従えて、オルセーこそその本殿というべきでしょう。

   印象派の勃興に関連して、写真や鉄道の発達がよく取り上げられますが、私は、パスツールによる感染症の発見、マクスウェルによる光電磁気学の研究なども考慮に値すると思います。19世紀後半に起こりつつあったものは、私たちの世界を覆っている目に見えない被膜、ウィルス、磁気などが、ある決定的な役割を持ち、いつかはその秘密が解かれるかも知れないという期待でした。自然の模倣から自然の解明へと、自然の鑑賞から自然の発見へとシフトする中で、マネやドガによる人生の鋭い断面、モネやルノワールによる風景と人物の一瞬の発見が生まれたのです。

   印象派の画家たちの持った感動を時々私たちも経験するのではないでしょうか。何ヶ月かの入院生活の後で、再び自分の足で道を歩く時のことを思い出してみましょう。路端の雑草の何と豊穣な色合いの美しさ、塀を越えて枝を覗かせる樹々に当たる陽の照り返し、微妙に流れて行く雲の不思議な形に驚くとき、いや、自然ばかりでなく人間さえも、聖書や逸話や歴史から離れて、それ自身として幸福な一瞬を体現していることの驚き。ここで重要なことは、その一瞬が単にその一瞬にすぎないということです。これを理解していたことで、モネはフェルメールやフランツ・ハルスらのオランダ画家たちと一線を画しています。モネやルノワールの描く情景は、長い時間をかけて感光される写真のようなものではありません。それは一瞬であるがゆえに、狭隘な人間理解を超えてある神秘の領域に達するのです。

   数多くの、いや溢れんばかりのといってよい印象派の名作の中で、オルセーのコレクションの中から私の好きなピサロを二点紹介しましょう(写真参照)。
   一階に戻って、妻の好きなシャヴァンヌのコーナーに向かおうとした時、私の足が意図せぬ方向に流れて行きます。一瞬、めまいを感じて、その場にしゃがみこみました。こうなると、怖くて一歩も動けません。妻に助けられて、近くの階段まで這って移動して、何とかそこに腰掛けました。「ここで休んでいるから、一人でシャヴァンヌを見てきて」と言うと、妻はわかったと言って、一人で見に行きました。今回の旅行で、もっとも心配だったのは私自身の健康でした。腰痛、痛風、痔という旧知の病に加えて、震災以降、心労からか高血圧という難敵が加わったのです。年が改まってから、酒を断ち、食事療法を実践して、近年になく好調を維持して旅に臨むことができたのですが、やはり旅の疲労でしょうか、あるいはたくさんの絵画を短時間で視覚に詰め込んだ精神のオーバーヒートでしょうか。しばらくすると、妻がもどってきましたが、私は、もう絵画を鑑賞する気になれず、人でいっぱいのオルセーからとにかく抜け出ようと、妻の腕にすがるように館の外に出ました。

   朝に利用した84番のバス停を探したのですが、帰りはセーヌ川ではなく、かなり離れたサン・ジェルマン大通りを走ることがわかりました。パリの街は一方通行が多いので、このようなことはよくあります。バス路線の地図を持って、妻に遅れながら大通りまでの道をとぼとぼ歩いていると、横を歩いていた中南米系の女性が、いきなり屈んで何かを拾う動作をした後、私に大きな房のついた金の指輪を差し出しました。そして聞き取りにくいフランス語で何かをしきりに話しかけてきます。私は、まだ、体調が思わしくなかったので、しつこい問いかけに危うく怒りを爆発しそうになりました。ただならぬ気配を悟って女性は離れて行きましたが、めげずに、すぐに近くの白人の女性旅行者に同じことを始めています。今や、パリにおける詐欺行為は様式化されていて、これも、落し物の指輪を与える代わりに自分にも半分の権利はあると言って幾ばくかの現金をせしめる手口ですが、肝心の指輪があまりに安っぽいので驚きました。

   サン・ジェルマン大通りで84番のバスに乗ると、妻がお腹が空いたと言ってきました。私は全く食欲がなかったのですが、時計をみるともう2時近くです。オルセーに三時間以上もいたわけで、これでは疲れるのもお腹が空くのもやむを得ません。途中のセーヴル・バビロンで降りて何か食べることにしました。Severes Babylone は左岸のちょうど中心と言ってよいでしょう。サン・ジェルマン・デ・プレにもモンパルナスにも近く、何より左岸を走るバスの多くがここを通るのです。私はこの界隈のいかにもパリらしい洒落た雰囲気が好きなのですが、とにかくここでバスを降りればどんな店もあって便利なことはこの上ありません。交差点に、波打つ外観のアール・デコのホテル・ルテシアがあります。有名な高級ホテルですが、壁面にプレートが張ってあって、それによると、パリ占領の時にドイツ軍の諜報部が置かれていたということです。

   セーヴル・バビロンといえばデパート、ボン・マルシェですが、その裏手のバビロン通りに Au Babylone というランチだけやっているビストロがあったので、そこに入りました。場所柄かムニュは23ユーロと高めですが、狭い店内は満員です。ランチの時間も終わり頃らしくテーブルが空き始めましたが、忙しそうで、やっとのことで一番奥の暗い席に案内されたものの、なかなかテーブルを片付けに来ません。しばらくして、オーナーらしい初老の女性が現れて、私がムニュのステーキを注文すると、そそくさとテーブルを片付けて愛想もなく去っていきました。この店は家族経営で、先ほどの女性が母親のようですが、評判の料理はどうでしょうか。運ばれてきたステーキは、日本のステーキハウスの肉のようにきれいに切ってなく、まるで鉈でぶった切ったような切り口です。内部が赤みを帯びた牛肉はやや固く、ちぎるのに苦労しましたが、噛んでいるとなかなか味がありました。いかにも牛肉を食べたという満足感があります。しかし、特筆すべきは、付け合わせの大量のジャガイモです。フランスの小さなジャガイモは美味しいので是非食べてみるべきだと聞かされていたのですが、それまでマルシェや鳥肉屋で買ったジャガイモはそれほど美味しくありませんでした。しかし、この店のジャガイモは信じられない美味しさで、思わず「美味い!」と声を出してしまいました。妻も、もしこの店に入って牛肉とジャガイモを食べなかったら今回のパリ旅行はこと食事に関する限り物足りなさが残っただろうと言っていました。なお、デザートの苺のムースとガトー・ショコラはあまりに安直な味でがっかりしました。

   店を出た後、ボン・マルシェの食品館で土産物を買うことにしました。ここは広くてゆっくり品物を見ることができます。私があれこれ迷っている間に、妻は紅茶やお菓子を大量に買っています。袋を提げて、さて帰りのバスに乗ろうとしたら、Sevres-Babyloneの交差点の向こう側に L'Occitants のお店があるのを妻が発見して、ちょっと寄ってみると言いました。狭い店でしたが、今日から始まったソルドで、値引き商品がいろいろ並んでいます。女店員と妻の会話が無限に長く続きそうなので、私は退屈のあまり、棚に並んでいる香水の見本を順番に全部スプレーしていきました。ここでも割引のものをたくさん買って、袋をいくつもぶら下げて84番のバスに乗ると、妻が首を動かしてバスの中を見回しています。「どこからか、いろんな匂いがする」と言うので、それは私の服にふりかけた香水に違いありません。

   バスはホテルのすぐ前に停車、オルセーで疲れ切った私はすぐに湯舟に浸かって体を休めました。屋根裏部屋なので、浴室の窓を大きく開けてのんびり入ることができます。危うく風呂の中で寝そうになったのですが、今夜は最後の観劇、妻も余裕をもって支度しています。劇場は昨夜と同じオペラ・ガルニエ、しかし、今夜は子供向けのバレエでなく本格的オペラ、ジャン=フィリップ・ラモーの「イポリットとアリシ」です。

   7時半の開演に向けて、例によって6時にホテルを出ました。ゲイ・リュサック通りのいつもの停留所から27番のバスに乗ってオペラへ。途中、ルーヴル美術館の門をくぐり、ガラスのピラミッドのすぐ横を通り過ぎます。西日が強烈に差して、目が開けられないほど、取り替えたばかりのシャツがもう汗ばんでいます。オペラ広場で降りると、ガルニエ宮の前は観光客でごった返しています。広場で、黒人のパフォーマーが見事なダンスを踊っていますが、もう開場したらしいので、早速オペラ座に入場しました。昨夜とは違い、大人ばかり、しかも皆シックな出で立ちです。明らかに観光客の人も多く、和服を着た日本人も何人か見られました。日本で開催されるオペラで足りないのは、まず、この異空間への誘いでしょう。オペラを観るということは非日常的な空間に身をまかせることであり、またそうすることによってこそ十分に楽しめるのです。19世紀のネオ・バロックの傑作といえる華麗なオペラ座のファサードをくぐり、絢爛たるグラン・フォワイエの装飾を眺め、ほの暗い螺旋階段を上がって、案内された革張りの扉を開けると、そこはもう約束された世界、浮世の瑣事を束の間忘れさせてくれる夢の世界です。

   今夜の私たちの席は3階の正面、前から三番目の席(45ユーロ)です。かなり上の席だが、真ん前なので見やすい、しかもフランス語の歌詞の字幕がもっとも読みやすい位置です。さて今夜の演目は珍しやラモー(1683-1764)の「イポリットとアリシ」(1733)です。バレエが頻繁に出るフランスのバロック・オペラはまずフランス本国でしかなかなか観ることができないでしょうし、しかも今回はルイ15世の時代そのままの衣装・背景で演じられます。開演まで期待は高まるばかりですが、まず作曲家ラモーについて紹介しましょう。彼はリュリと並んでフランス18世紀を代表する音楽家で、和声学の理論家、クラヴサン曲の大家、数々の名誉の後で、50歳になって初めてオペラ「イポリットとアリシ」を作曲しました。台本は当時人気のあったペルグラン師、元ネタはラシーヌの『フェードル』で、英雄テゼ(テセウス)の妻であるフェードルが前妻の息子イポリットに許されぬ恋をしてしまう悲劇です。ラシーヌの『フェードル』では、イポリットへの煩悩とアリシへの嫉妬と母子相姦の罪に苦しむフェードルが中心で、またそれだけに純化したことにおいて傑作たり得たのですが、ペルグラン師はオペラ向けに、エウリピデスの『ヒュポリトス』からは純潔の女神ディアーヌと愛神との闘争を、プルタルコスからはテゼの地獄行を、ヴェルギリウスからはアリシの恋を、その他セネカの『フェードル』も踏まえて、五幕の壮大なオペラに仕上げました。

   この何でもありの詰め込んだ内容が、このオペラ全体の印象を散漫にし、物語としては感動に遠いものとしているのです。この物語についての最高傑作は(ウルトラマンエースには「ヒポリット星人」という回がありましたが)エウリピデスの『ヒュポリトス』でしょう。アリシは登場しないが、神々の相克を通じて人間の運命が深刻に語られて行きます(ラシーヌはあまりに人間的です)。ペルグラン師の台本を得たラモーは1733年の夏を稽古に費やして、その年の10月1日に王立音楽アカデミーで「イポリットとアリシ」を初演しました。初演を観たヴォルテールは翌日の10月2日につぎのように書いています。「昨日、歌劇《イポリットとアリシ》の初演を見た。台本はペルグラン師によるもので、ペルグラン師の名にふさわしいものであった。音楽は高名なラモー、不幸にも音楽をリュリ以上に知っている人物であった。つまり音楽の衒学者なのだ。彼は精密だが退屈だ」(マルク・ミンコフスキ指揮・ルーヴル宮音楽堂によるアルバムから引用)

   確かに、音楽は素晴らしく美しいが、同じような調子の音楽がいつまでも続くので眠気を誘います。最後の第五幕で、妻の頭が揺れたので横をみると、何と妻は眠り始めています。私はそれに気づいて、何か怒りに似たものが込み上げるのを感じました。このオペラを楽しみにしていて、アイロンをかけながら、掃除をしながら、読書をしながら、いつも部屋中に「イポリットとアリシ」のCDをバックミュージックとして聞き、口ずさんでいた妻が、可哀想に眠っているのです。それもこれも和声にばかり気を取られ、目を覚めるような展開のないラモーの音楽とごたまぜ焦点なしのペルグランの先行作品張り合わせの台本に原因があるのでしょう。周りをみると、完全に眠っている人も多く、四方から鼾も聞こえてきます。その反対に熱心にのめり込んで鑑賞している人もいて、その懸隔がはなはだしい。そういう私も、純潔の神ディアーヌがゴンドラに乗って動くのを見てると眠くなってしまいました。

   さて、パリ・オペラ座の舞台をゆっくり見て行きましょう。これは本当にすばらしい。しかし、長い時間、舞台を見てると退屈するのも事実です。この歴史的名演はDVDになって発売されるでしょうから、これは家で紅茶を飲みながら、夫婦であれこれ批評をしながら、あるいは気に入った場面を一人で何度も繰り返し、何日もかけて観るのがベストなのです。
   プロローグ、ディアーヌに仕える女官らがディアーヌを讃える歌を歌います。この女官たちの何と美しいこと! ルイ15世の時代のドレスの何と瀟洒なこと! バロックのダンスの何と優雅なこと! しかも、当時の上演に似せるため照明を限りなく落として、あたかも蝋燭のほのかな灯りの下で演じられるような錯覚を誘います。そして、続いて登場するデイアーヌのライヴァル愛神の何と愛らしいこと!羽を持ち弓矢を持ったキューピッドの姿で、劇場の天蓋まで届くような澄み切ったソプラノで私たちを魅了します。愛神を演じたジャエル・アザラッティが舞台に登場すると、森厳な王宮が一気にファンタジーの世界に転換してしまうかのようです。愛神は、第三幕でも登場しますが、これまた大きな貝の中で眠ったまませり上がってくる可愛らしい姿で意表を突きます。そして、最後の第五幕で、Rossignols amoureux... 恋する鶯たちよ、と繰り返し美しい声で舞台の幕を引くのもまたこの愛神なのです。

   第一幕、ディアーヌの神殿、アリシはテゼによって滅ぼされたパラス一族のただ一人の生き残り、子孫を残さない(誰も愛さない)という条件でテゼに命を助けられました。しかし、彼女は王子イポリットに恋し、イポリットもアリシを愛しています。二人はディアーヌの神殿でディアーヌに二人を守ってくれるよう祈ります。ところが、ひそかにイポリットに恋している継母のフェードルは、それを知って、アリシに激しく嫉妬します。ちょうどその時、使者が到着して、テゼが地獄に下ったと知らせてきます。ここの聴きどころは、やはり嫉妬と煩悩に狂うフェードルのアリアでしょう。

   第二幕、地獄。テゼが地獄に下ったのは親友を助けるためでした。彼はネプチューンから三つの願いを叶えると約束されており、地獄に下るのに願いの一つを使ったのですが、親友に会えないとわかると、ネプチューンに再び地獄から戻ることを願います。これでもう二つ使ってしまい、最後の願いは、妻フェードルを犯そうとしたと勘違いして息子のイポリットを殺してもらうために使うのですから、つくづく馬鹿な男です。この第二幕は暗いだけで面白くないので、全部カットしてもよいぐらいですが、幕の最後に、逆さまにぶら下がっているパルケという運命の三女神が、テゼに、お前は地獄を去るが自分の家で地獄を見るだろうという気持ち悪い予言をするのが、まあ一番の聴きどころです。

   第三幕、テゼの宮殿。フェードルは、テゼ亡き後の王位をイポリットに譲る代わりに彼の愛を得ようとします。イポリットは、アリシ以外は欲しくないと言ってフェードルの嫉妬をさらにかきたててしまいます。フェードルはイポリットの剣を奪って、自分を殺してくれと頼みますが、イポリットはその剣を奪い返します。その最悪の瞬間にテゼが宮殿に帰って来て、てっきり息子が自分の妻を犯そうとしているのだと思い込みます。イポリットは言い訳を言わず、黙って宮廷を去りますが、馬鹿なテゼはネプチューンに息子を殺してくれるよう頼みます。

   第四幕、海辺のディアーヌの森。アリシはイポリットに、妻としてどこまでもついて行くと言いますが、突然の荒れた海からネプチューンが現れてイポリットをさらっていってしまいます。フェードルは罪の意識から自殺しますが、死ぬ前にディアーヌにイポリットを許してくれるよう嘆願します。
   
   第五幕、美しいアリシの森。絶望して倒れ伏しているアリシ。そこにディアーヌが降りて来て、ここに1人の英雄が現れて王となりアリシの夫となると予言します。いきなり姿を現すイポリット。アリシは我が目を疑うが、真実だと分かると二人でディアーヌを讃える歌を歌います。最後に愛神が現れて、「恋する鶯たちよ、甘味なさえずりで、私たちの声に応えてください」と歌って終わります。

   全編すべて、これこそバロックという仕立てで、あたかも王宮で召使たちを控えさせたままワインを飲みながら観劇している気分に浸れます。途中の居眠りも欠かせぬ約束のひとつでしょう。パリ・ガルニエの得意なバロックオペラとはいえ、何もかもが素晴しい。惜しむらくは、このオペラこそoptima(オペラの時だけの最高の席、といっても180ユーロ)で見るべきだったのですが、席の選択をあれこれ迷っている間に売り切れてしまいました。衣装、演技、演奏楽器その他、すべてルイ15世時代の様式に則ったオペラということで、人気の高さが予想以上でした。

   終わって、出演者全員が次々から次に出てくるとたいへんな拍手、最後に指揮者が出てきましたが、何とエマニュエル・アイムという女性で、これまたすごい喝采です。帰りの大階段はたいへんな混雑、もう10時半を過ぎていて、さすがに空は暗いですが、オペラ周辺の熱気はまだ冷める気配もありません。バス停で27番のバスを待ったのですが、20分近く待ってやっと来ました。しかも混んでいます。ルーヴル宮を抜け、セーヌ河畔を走り、左岸に渡り、サン・ミッシェル大通りを上がって行きます。リュクサンブール公園の入口のところで降りて、まだ人の行き来するスフロ通りの坂をゆっくり上がる時に、ついに明日が帰国だという思い、感動に似た思いに襲われました。わずか一週間の間に何と多くのことが去来したか。普段の生活も、これ程に密度濃く過ごせたらどんなに人生は面白いでしょうか。ホテルの近くで、またアイスクリームを買って食べながら帰りました。オペラの話をすると、妻は細かいところもよく覚えていて、私の方が記憶の飛んでいるところが多くて驚きました。フランス語の字幕がとても読みやすかったので、場面展開についていけたことも幸運でした。ホテルでは残っていたワインをすべて飲んで、冷蔵庫のハムとチーズも食べ切り、まさに観劇の疲れからぐっすり眠ってしまいました。

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ピサロ「ルヴィシエンヌの道」 ルヴィシエンヌはパリの西、セーヌ川ほとりの村。印象派の風景画は、一切の物語を排除して、画家の感覚の実現を目指します。そして、いかなるメッセージからも無縁であるというまさにその瞬間に画家の心象があらわになるのです。雪の残る道、葉をすべて落とした二本の樹、寄り添って歩く男女、白い馬に曳かれた馬車、画面の隅々まで低い冬の光が満たすのですが、それは画家の生の照り返しに他なりません。一生の鑑賞に足る名画だと思います。

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ピサロ「羊飼いの娘」 オルセーに来るたびに私はこの絵の前で疲れるまで立ち尽くします。点描を思わせる細かな技法の集積は、光を捉えるための究極の選択です。色褪せた野良着と、娘らしい赤い靴下とスカーフが、画面全体に崇高なまでの純朴さを与えています。

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朝、ホテルを出たら、パンテオン前の彫像に、誰かが赤いコーンを被せていました。学生街なので酒に酔って騒いだのでしょうが、あまりに酷いと思って近づいたら、ジャン・ジャック・ルソーの彫像でした。妙に納得してしまいました。

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ホテルのすぐ裏のとても小さな広場にはエマニュエル・レヴィナスの名が付けられています。レヴィナスはリトアニア生まれのユダヤ人哲学者で1995年にパリで死にました。なお、この辺はパリでも有数の家賃の高い地域です。

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オ・バビロンの牛肉とジャガイモ。見かけは野暮ったいが思い出に残る美味しい一皿でした。

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オペラ・ガルニエのグラン・フォワイエ。天井の端まで豪華に装飾されています。

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オペラ開演の前にバルコニーから大階段を見下ろす老夫婦。おそらく外国から来た観光客でしょう。

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開演前のオーケストラボックス。三階の真正面の席から。

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最後の挨拶だけはなぜか写真撮影が許されます。前の人の頭が邪魔でした。

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オペラが終わって大階段を下りる人たち。中高年の客がほとんどでした。

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オペラ座の帰り、27番のバスを待ちながら。夜の喧騒はまだまだ続くようです。

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