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2012年8月 4日 (土)

パリ観劇記第四夜 オペラ・バスチーユ「セヴィリアの理髪師」

    6月25日(月)
    今朝は妻がすぐ裏のパン屋で、朝食を買ってきました。ところが、パン・オ・ショコラやパン・オ・レザンはいいとしても、リンゴのタルトやイチゴのタルトなど甘いものをいっぱい買ってきて呆れました。朝からこんなものばかり食べられません。おそらく、日本と比べて、安いし美味しいのでつい買いすぎてしまうのでしょう。パン屋のあるエストラパド通りは、ホテルの真裏で、「パリ随想」(みすず書房)の著者湯浅年子(1909-1979)が念願のアパルトマンを購入した通りでもあります。湯浅年子は大戦直前に単身フランスに渡り、キュリー夫人の娘婿ジョリオ・キュリーの下で核物理学の研究を始め、以来40年、パリで研究を続け、ついにパリで没した女性です。日本に暮らしていた時はただ生物的に生きていただけだった、と語る彼女の見たパリは、そしてフランス人はどんなものだったのでしょうか。

   まず、フランスは個人の独立を重んじる社会です。湯浅は、腰の曲がった老人が杖をつき買い物かごを下げて苦しそうに歩いていく光景をよく見かけるが、それは度重なる外敵の侵入や体制の転覆を経験し、信じられるものは自分だけだと悟った民族の一特徴であると書いています。日本のように何となく他人や親類や知人をあてにすることはありません。自分の持つ権利に固執することは、保険や遺言や住居などについての煩雑な書類の洪水によく表れています。また、重い病にかかり、治癒が絶望的であっても、一縷の望みがあれば決して諦めず、とことん病気と闘います。人生とは現世のことであると悟っているからです。また、このような個人主義、現実主義は必然的に人間相互の平等性を徹底させます。アメリカのレディファーストはそのような慣習があること自体ひとつの偏見ですが、フランスの女性は叫ぶよりもまず社会の中に現実的にしっかりした地位を築いてきた、と湯浅年子は書いています(2012年現在のオランド大統領下での女性の閣僚は34人中17人です)。

   そして、このこと、つまり人間の独立性と平等性は個々の人間の可能性についての寛容さに関わってくると、彼女は言います。全く何の後ろだてもなく、パリに飛び込んできた彼女を、その学問への志のみで研究所の仲間に加えてくれた人々への感謝の思いもあるでしょう。そのことで、彼女の師でノーベル賞受賞者のジョリオ・キュリーが亡くなった時、ジョリオの元運転手が語った思い出は私たちを驚かせます。晩年のジョリオが自分で車の運転ができなくなって運転手を雇ったとき、彼はこの小学校しか出ていない運転手に次のように言ったというのです。「私はきみを単なる運転手として雇うつもりはない。きみはまだ若い。もし、きみが望むならば研究所の仕事を教えてあげよう。知識の有無は問題ではない。志さえあればよいのだ」と。この若者は、計算尺の使い方やストップウォッチの押し方から始めて、徐々に実験検査の技術を身につけて、教授の代わりに公機関への調査報告を作成するまでになったということです。わたしはこれを読んで教育者アランの「人は、彼が望むと同じだけの知性を得ることができる」という言葉を思い出しました。

   ところで、先日家の近くの書店で、吉本隆明の『真贋』という談話の筆記録めいた文庫本が平積みされていたので、パラパラ立ち読みしたのですが、その中で、フランス人と結婚してフランスに住んでいるある女性に吉本が、「ルーヴル美術館で人と待ち合わせをしていると、肩にかけたカメラをサーと持っていかれてしまうようなそんなフランスのどこがいいんですか?」と聞くと、その女性は「日本の方が治安は良いし、物価は安いし、住みやすいとは思うが、ただ一つ、フランスには人間関係でとても自由なところがある。誰と付き合っても全く自由であるというような。それ以外では日本の方が住みやすいと思う」と答えています。このことは、要するに、世間の目とか、家族や地域や職場の「掟」のようなものとか、によって自分の行動を自己規制してしまうことが少ないということを意味しているのでしょう。もし、そうだとしたら、この自由はたいへんすばらしいものに思えます。協調性が美徳とされる社会ほど生きづらいものはありません。

   さて、エストラパド通りからカーディナル・ルモワーヌ通りに抜ける途中に、rue Rollin という歩行者専用道があります。その道に入ろうとしたら、何やら中高年の観光客が大勢固まってガイドの話を聞いています。その場所に張られたプレートを見ると、ヘミングウェイが住んでいたカーディナル・ルモワーヌのアパルトマンではありませんか。妻が、中年の女性に話しかけてみると、たいへんニコニコと愛想がよく、自分たちはオーストラリアからきた観光客だと言いました。「パリはどうですか?」と妻が尋ねると、「ビューティフル!」と感に堪えない様子です。
    非常に古い道、rue Rollin を通り抜けて、花で飾られた階段を降りるとそこはモンジュ通りです。月曜の朝の活気がまぶしいほどで、人も車もひっきりなしに広いモンジュ通りを行き交います。すぐ近くの植物園へ行くつもりで、モンジュ通りを渡ろうとしたら、つるっと足が滑りました。転びそうになるのをやっとこらえて足元を見ると、何と黄色い犬の糞がべっとりついています。思わず大声を出し、都合よく道路清掃の水が流れていたので、それで靴を懸命になって洗いました。「パリの洗礼ね」と妻は言いましたが、大切に履いていたニューバランスの黒レザーのトラベルウォーカーを汚したのが悔しくて、その怒りをどこにぶちまけていいか分かりません。気を取り直して、モンジュ通りを渡り、植物園への道の途中にあるリュテス闘技場跡を見学しました。教師に連れられた小学生の群れが何組かいて、それぞれ話を聞いたり、スケッチをしたりしていました。ここはおそらく紀元後1世紀に造られた円形闘技場で、石の切り出し、組立、きれいな円形の形すべてきれいに整っていて、この種の建築物を造るローマ人の器用さが窺い知れます。

   闘技場を出て、リンネ通りに出ると、街角に古生物学、動物学の巨人キュヴィエ George's Cuvier1769-1832 の記念像がありました。ライオンに腰掛ける裸身の女性の周りにたくさんの動物が顔を出していて、その下は小さな泉となっています。その前がもう植物園で、園内を歩くと6月の緑に溢れて息苦しいほどでした。妻の希望で、植物園の端にあった進化大博物館という建物に入ってみましたが、見学に来た小学生で一杯で、うるさいほどです。展示も大したことがなく、これなら隣のモスケの中のアラビア風カフェで水ギセルを吸った方がよかったかも知れません。

   そのモスケの前のバス停から89番のバスに乗ってモンパルナスへ。ところが、モンパルナス駅前で降りるところ、降車ボタンを押し忘れて一駅乗り過ぎてしまい、日差しの強い中、妻を歩かせてしまいました。ドゥランブル通りにあるガレットの店 Ti jos へ12時ちょうどに入店。モンパルナスはブルターニュからパリに上ってくる人々の玄関口で、郷土料理ガレットのお店が多いのも肯けます。この Ti josはその中でも一番の老舗ですが、観光客向けでない素朴なガレットを食べさせると評判です。店内も明るくシンプルで、いかにも郷土料理という内装でないのが好感がもてます。一番高いガレット•プロヴァンシャル(9.2ユーロ)を食べましたが、たいへんおいしかった。定番のシードルも飲み易くはないがおそらくブルターニュの味で、ルナン描くところの内向的で辛抱強いブルターニュ気質を思いおこさせるようです。

   ガリマール書店で買いたい本があったので、モンパルナス駅前から伸びるレンヌ通りをサン•ジェルマン•デ•プレに向かって歩きました。ラスパイユ通りに入って少し歩くとその本屋があります。ベルトラン•ド•ジュヴネルの『アルカディ』は、エッセイの棚の J のところで入店数分も経たないうちに見つけました。妻は、と見ると、何やら店員と話をしています。ガリマール発行ではない本を探しているので、店員に別の本屋への地図を描いてもらっているらしい。その地図のとおり、左へ曲がって、右へ曲がって、また右へ曲がると、いつのまにかサン•ジェルマン•デ•プレのカフェ•フロールの隣の文学書専門店L'Ecume des Pages の前に来ていました。早速、妻が店員に尋ねるとただちに棚の上の方から本を一冊とってくれました。レジで代金を払ってから、ちらりとみると、クルティウスの『バルザック』のフランス語版です。

   そこから歩いてホテルに帰ったのですが、途中でスーパーのカルフールで牛乳、ワイン、ハムなどを買いました。汗をかいたので、シャツを洗いながらバスにゆっくりつかりました。この部屋のバスルームは窓が大きく開いて爽快な感じです。アンドレ•ブルトンとフィリップ•スーポーが共同で『磁場』を書いて、シュルレアリスムの幕開けを告げたのはこのホテルの確か屋根裏部屋だったので、まさにこの部屋だったかもしれません。

   7時半のオペラ開演に間に合うように、6時にはホテルを出られるように準備していたところ、シャツのポケットに入れておいて、洗う時に取り出しておいた札束が見つかりません。札束といっても、5ユーロ、10ユーロ、20ユーロの小額紙幣の束で、大した額ではないのですが、私にとっては大金です。刻々出発時間が迫っているのに、どこを探しても出てきません。だんだん焦ってきて、冷汗も出てきました。妻は呆れたのか、ベッドに腰掛けて笑っています。「笑いごとではない、大変なことだよ」と私は怒りましたが、ふっと気がついて、バスルームに干していたシャツを調べてみると、ぐっしょり濡れた札束が入ったままです。思わずホッとして胸を撫で下ろしました。

   カーディナル・ルモワーヌまで降りて86番のバスでバスチーユへ向かいました。セーヌ川を渡り、活気あるサン・タントワーヌ通りに入ると、バスチーユ広場はすぐそこです。午後7時ですが、むろんまだ空は明るい。今、開場したばかりらしく、大勢の人がオペラ・バスチーユの入口に集まっています。簡単な手荷物検査を済ませて入場すると、ロビーは、オペラの開演を待つ人々の熱気でしょうか、祭りの興奮とも思えるざわめきに満ちています。オペラ・コミック座やオデオン座に比べるとはるかに華やかな人々の装いで、驚くことに、子供の姿も目立ちました。冷たいものが飲みたいというので、バーでシュウェップスを飲んだのですが、人々を観察するだけでも相当に面白い、ギリギリまでロビーにいて、開演直前に席につきました。座席は一階の真中の通路際で、何と155ユーロの席、妻が勝手に購入したこの席でいっとき夫婦喧嘩が起こりました。私はもっと上の安い席がよかったのです。

   さて、今夜の演目はロッシーニの「セヴィリアの理髪師」です。1775年ボーマルシェによって書かれたこの戯曲は、同年コメディ・フランセーズによって初演されました。後にパイジェッロによってオペラ化されましたが、1816年ロッシーニが再度この劇作をオペラ化したことで一躍オペラ史上の傑作の一つとなりました。このオペラの魅力は、何よりも、ボーマルシェとロッシーニという二人の天才によっています。原作はとても面白い(岩波文庫『セビーリャの理髪師』参照。なお、解説に記されたボーマルシェの生涯はまさに波乱万丈で驚きに満ちています。)場所はスペインのセヴィリア、トレドで見初めた美女ロジーナをスペイン中を探し回ってやっとセヴィリアで見つけたアルマヴィーヴァ伯爵は、何とか彼女に渡りをつけようと焦っています。若くて美男で裕福、しかし、財産や家柄目当ての女に飽きた伯爵は、貧乏な青年を装って、ロジーナから真実の愛を引き出そうと画策します。ところが、ロジーナは彼女の美貌と財産目当ての後見人のバルトロからまさに今夜結婚を強制されようとしていました。バルトロは医者で抜け目のない老人、結婚が成立するまでロジーナを家の中に閉じ込めて外に出そうとしません。困ったアルマヴィーヴァ伯爵、しかしここで伯爵のために町の理髪師フィガロが一肌脱ぎます。理髪師とはいえ、情報通で賢くて機知に富んだフィガロは伯爵のために大活躍、あれやこれやの騒動のあとで舞台は無事伯爵とロジーナの結婚で終わります。

   ロッシーニは19歳でデビューし、20歳で人気者になり、おそらく史上もっとも成功した音楽家になり、37歳で引退し、76歳で死にました。「セヴィリアの理髪師」は油の乗り切った彼の24歳の時の傑作です。「ロッシーニの楽風が最も鮮明に現れているオペラ」とスタンダールは『ロッシーニ伝』で書いていますが、その理由は「セヴィリアの理髪師」が全く憂愁の忍び込む隙間のないドラマだからです。アルマヴィーヴァ伯爵を苦しめる困難は、単に物理的なものであって、強欲な人間から恋人を奪い取るための機知とスピードを必要とするにすぎません。しかも最後は水戸黄門ではないが、伯爵の地位と財力で簡単に解決してしまいます。まさに、ロッシーニのためにできたようなオペラで、底抜けの明るさと切れのよい音楽が持ち味の彼の独擅場といってよいでしょう。
   ロッシーニは全ヨーロッパからオペラの作曲を頼まれ、招待された土地に着くと、まず2、3週間は遊んで暮らし、やっと一カ月近くなってから晩餐会やサロンを断りはじめ、歌手の声のチェックをして、そしてー初演20日前に作曲を始めます(「セヴィリアの理髪師」も2週間で書き上げました)。その軽快さと滑稽味は天性のもので、同時代の天才モーツァルトとは全く正反対でした。「モーツァルトは生涯に二度しか陽気にならなかったが、反対にロッシーニは生涯に二度しか憂鬱にならなかった」とスタンダールは書いています。
 
   場内が暗くなり、軽妙な序曲が聞こえて来ました。オペラのたぶんもっとも胸高鳴る瞬間は、この時でしょう。ゆったりと座席の背にもたれながら今から始まる場面を想像して目を閉じます。あらかじめ図書館で「セヴィリアの理髪師」のDVDを二種類借りて鑑賞し、アヴァド指揮のフェニーチェ歌劇場のCDも iPad に入れて何度も聴いていました。ところが、幕が上がって、最初の舞台を見て驚愕しました。そこにはスペイン・セヴィリアの街頭があるのではなく、だだっ広い砂漠とテントのような家があるだけなのです。やがて登場するのはアラビアの地味な衣装のむさ苦しい男たち。ギターを抱え、洒落た衣装を着て出てくるはずのフィガロも、若々しいアルマヴィーヴァ伯爵も、この舞台では同じような格好で最初は区別がつきません。実は、パリ・オペラ座の「セヴィリアの理髪師」は2002年から映画監督コリン・セローの舞台演出で、すっかりアラビアの物語に変えられていたのです。すでにDVDも出ている有名な演出で、ネットで検索すればすぐに気がついたのに全く迂闊でした。これで、ロビーに子供が多かったのも頷けます。演出は家族で楽しめるよう、合間にポピュラー音楽が挿入されたり、楽器が点滅したり、伯爵が衣装の下にサッカーのユニフォームを着てたり、果てはボールを蹴ろうとまでします。何とも納得できず、開始直後「これセヴィリアの理髪師だよね」と思わず妻に確認しました。初めて一人でパリに来た時、飛行機の座席の周りが皆ロシア人だったので、シートベルトを外して後ろのスチュワーデスの控室に駆け込んで「これパリ行きですよね」と確認したことを思い出しました。

   幕間休憩の時に妻に聞いてみると、妻はオペラ座のホームページで動画を見ていたのですでにこの演出は知っていたとのこと。「えー、何で教えてくれなかったの」と言うと、「これほどひどいとは思わなかった、最初に砂漠が出るなんて」と返事されました。オペラで時代背景や設定が変わるのはよくあることですが、セヴィリアの理髪師をアラビア仕様にするのは次元の違う改変で、すべてがまるで違ってしまいます。そもそも、アラビアに理髪師なんているのでしょうか(髭剃りは禁止されているのに)。また、子供向けの余興もいらぬ演出で、前に書いたように、このオペラはボーマルシェとロッシーニという二人の稀代の天才によってのみ作り得た作品で、それ自体が立派なもので、十分面白い、余計な演出なぞ不要です。

  アルマヴィーヴァ伯爵を演じたシラキューサは素晴らしいが、フィガロは印象薄く、妻によれば、ちょこちょこ動いて詐欺師のように見えた、とのこと。フィガロといえば、自己の才覚一つで生き抜く新しい時代の象徴であるキャラクターですが、この舞台では小物感が半端ない、すっかりアルマヴィーヴァの影になってしまっています。さて、その舞台ですが、これはパリ・オペラ座の威信をかけた豪勢なもので、大きなアラビア風室内の調度、またバルコニーに反転する天幕の美しさ、など見ごたえはありました。それにしても、最後までオペラに没入することはできず、不満と疑問と怒りを感じながら劇場を後にしました。
   夜遅くバスがもう走ってないので、メトロでカーディナル・ルモワーヌまで帰りましたが、坂道を間違えて隣の駅ジュシーまで行ってしまいました。やっと深夜近くにホテルに帰りましたが、まだ興奮冷めやらず、二人でハムをおかずにワインを飲みながら、ひとしきりオペラの話で盛り上がりました。寝る前に、昼間洗濯してしまった札束を新聞紙の上に一枚一枚展げて乾かしておきました。

   Apart

エストラパド広場。エストラパド通りとユルム通りの交差点。左がパンテオン、右に行くとエコール・ノルマルとヴァル・ド・グラース。

Hemingway

カーディナル・ルモワーヌ通り74番地、ヘミングウェイの住んでいたアパルトマン。オーストラリアからの観光客がガイドの話を聞いています。

14

古い通り rue de Rollin。左の14番地がデカルトが住んでいた建物。扉の横に透明なプレートが張られています。なお画面には写っていませんが22番地はパスカルが死んだアパルトマン。この通りの突き当りがヘミングウェイのアパルトマンになります。

Lutece

リュテス闘技場跡。19世紀半ばのモンジュ通りの拡張工事の際偶然発見されました。ローマ時代約一万人の観客を収容できたと言われています。小学生がたくさん見学に来ていました。

Cuvier

リンネ通りにあるキュヴィエの記念碑。若い女性がライオンの背中に座り、その下にたくさん動物が彫刻されています。博物学の巨人にふさわしい像です。

Jardin

植物園にあるビュフォンの像。王立植物園の園長として世界中からたくさんの植物を収集しました。『博物誌』の著者としても有名です。

Opera

オペラ・バスチーユの幕間休憩のロビー。子供が何人もいたのには驚きました。

Figaro

「セヴィリアの理髪師」。終わりの出演者全員の挨拶。舞台に上がって一言文句を言いたくなりました。

Livre

今日買った本二冊。ジュヴネルは保守主義の哲学者・政治経済学者で継母である作家コレットとの恋愛関係は彼女の『青い麦』『シェリ』などの作品に濃い影を落としています。

Osatsu
「愚かさを忘れないために」妻が撮った写真。洗濯してしまった札束は新聞紙の上に一枚ずつ並べて乾かしました。

 

 

 

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